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【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る7

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0001人間七七四年2014/07/15(火) 19:03:30.85ID:vDDA8ZR2
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。

通称は十兵衛。
父は明智光綱のほか、明智光国や明智光隆の説もある。
さらに信長に仕えるまでの前半生には不明な点が多いが、
明智軍記では美濃明智城主として斉藤道三に仕え、その没後は諸国を遍歴したとされる。
-------以上wikipediaより転載---------

その他秀満や光忠などの明智一族、
斎藤や妻木や溝尾や藤田などの家臣も話題も歓迎。

■武家家伝_明智氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aketi_k.html

■過去スレ
01 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167303526/
02 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298723473/
03 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307845255/
04 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1313811216/
05 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335185140/ 
06 http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356441969/

■関連スレ
天海=明智光秀だった!!!
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151671577/
0664人間七七四年2014/10/29(水) 21:20:09.61ID:jHOijDVN
いや天下布武ってそんな大それた意味じゃないから
0665人間七七四年2014/10/30(木) 02:09:28.95ID:5U/D2zRa
とはいえ信長の「天下」概念も永禄の頃と最晩年の天正十年とでは
違ってきてる……とは思う。
0666人間七七四年2014/10/30(木) 09:32:32.16ID:0rOv5uWS
当時の宣教師が母国におくった記録を読むとえげつないよ。
秀吉がキリスト教禁止にしたのは慧眼。
0667人間七七四年2014/10/30(木) 09:40:36.02ID:0rOv5uWS
天皇がキリスト教禁止を命じているのに天皇の足元の京で布教させていたのが信長。
0668人間七七四年2014/10/30(木) 11:14:13.46ID:rh5MDTfM
ここの人たちは、新書の最前線を
どう思った?
0669人間七七四年2014/10/30(木) 13:03:29.37ID:a7S56a1A
信長スレでやれ
0670人間七七四年2014/10/30(木) 19:21:15.12ID:rDhteaRU
家康も関ヶ原で負けてたら、光秀同様、天下の逆賊扱い。
所詮勝てば官軍で、いかようにも自己を正当化したり美化したりできるし、敗者を徹底的に讒訴できる。
足利尊氏の反逆も光秀とそう大差ない。
0671人間七七四年2014/10/30(木) 22:00:08.34ID:akP91fFi
光秀の場合は主殺しだからな。大義名分もない。
0672人間七七四年2014/10/30(木) 22:56:39.24ID:EeWH1mz+
光秀の謀反がイメージ悪い一番の原因は、
油断して丸裸の状態で寝ている信長を、100倍以上の大軍で襲撃したやり口だろ。
0673人間七七四年2014/10/31(金) 02:16:44.00ID:cczMgknx
>>672
浪々の身を拾い上げ大名にまで出世させてくれた大恩人を殺したこと。
0674人間七七四年2014/10/31(金) 12:42:01.20ID:Nz3PAte9
恩を受けた自分の主君を殺すなんて一番戦国時代の道に反する事。
主殺しを行えば、同じく織田家に仕える、信長から恩を受けた武将たちは、織田に牙をむく明智の敵に回るなんて当たり前の事。
実際明智方についてる武将なんて阿辻とか若狭武田とか織田とつながりの薄い雑魚しかいないし
尾張系や美濃系の譜代で明智について武将なんて皆無じゃん
0675人間七七四年2014/10/31(金) 20:55:45.86ID:nKZmd/yi
明智討ち後の秀吉の所業は、恩を受けた自分の主君を殺した明智と何ら変わらない鬼畜の悪行。が、これも戦国時代では当たり前の行為。
同じく織田家に仕えてた、信長から恩を受けた武将たちは、織田に牙をむく秀吉の味方に回る節操の無さを披露。
ま、秀吉と信雄を天秤にかければ、秀吉を選択するしかないがな。所詮は筋目より保身と利害。
0676人間七七四年2014/10/31(金) 21:08:09.47ID:xn6lMFOc
そりゃ秀吉は織田家の敵である明智を討った織田家にとっての恩人じゃん
織田家にとっての恩人が、秀信の後見という形で、織田領をコソ泥しただけだし、明智のそれとはまったく大義名分が違うわな
0677人間七七四年2014/10/31(金) 21:11:55.05ID:kqtT4VHa
恩を受けた信長を殺し織田家を混乱に招き入れた仇敵明智を討った秀吉に、
織田家に仕え、信長に恩を受けた旧織田の家臣がつくなんて至極当然の事じゃん
信長に仕えた織田家の旧臣は、信長との主従関係はあっても、信雄や信孝との主従関係などない
織田家に仕える身分なら、後継者の秀信、またそれを後見する秀吉に従うのは当然の事。
0678人間七七四年2014/10/31(金) 21:17:37.52ID:ed15TUnA
織田家に仕える身分である他の武将が
織田家主君の信長を殺した武将より
織田家主君を殺した武将を討つ武将につくのは当たり前の事。
0679人間七七四年2014/10/31(金) 21:26:20.26ID:nKZmd/yi
秀吉は織田家の敵である明智を討った織田家にとっての恩人としての立場を悪用した鬼畜。
秀吉単独では主家の織田家に歯向かえる権威はないので、信雄を味方に付けて、信孝・勝家連合に敵対。

で、賤ヶ岳後は、秀吉単独では主筋の信雄に歯向かえる権威はないので、織田家に縁が深い池田勝入を篭絡して、旧織田家臣団を糾合し、信雄を孤立化。
が、旧織田家臣団を統制できる権力がないので、対家康滞陣の長期化で、寄せ集めの大軍が自壊するのを恐れ、
秀吉に味方して男を下げ、その挽回の為功を焦る勝入の三河奇襲作戦を安易に受け入れ、唐入りの如く大敗の赤っ恥。

その失態を取り返そうと、信雄領を荒らし回って、凹んだ信雄と単独講和に持ち込むせこさ。
0680人間七七四年2014/10/31(金) 21:47:18.28ID:QW8qQsQF
信雄の弱みに付け込んだというよりは信雄が不甲斐ないだけの話だしね
むしろ局地戦で大敗しても最終的には講和に持ち込んだ秀吉の戦略を褒めるべきでは
0681人間七七四年2014/10/31(金) 22:11:50.39ID:nKZmd/yi
秀吉は家康に局地戦で大敗する大失態を犯し、これ以上対家康戦が泥沼化すれば、旧織田諸将が次から次へと離反するのは必定で、そうなれば秀吉はジ・エンド。
だから、戦の早期終結を図ろうと、信雄領を荒らし回って、意気消沈した信雄と単独講和しただけの話。セコイ男だ。
結局徳川領には全く攻め込めない無能ぶり。

で、徳川を屈服させる為、西に領土を拡大して、相対的優位性を構築しようとするも、
結局は妹と実母を人質に出す土下座外交で、秀吉と共倒れの消耗戦を回避したい家康のプライドを満足させて、やっとこさの客分待遇の形式的臣従。
0682人間七七四年2014/10/31(金) 22:25:09.57ID:YLhH5RNU
>>673
浪々の身を拾い上げ大名にまで出世させてくれた大恩人かー。
でも、信長の気分次第で私財全部没収!されて高野山行きだもんなー。

気分屋の恩人とか逆に迷惑だわー。
0683人間七七四年2014/10/31(金) 23:11:27.85ID:H8e753P6
>>680
秀吉は小牧長久手後も雑魚の信雄に負けまくってる

小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる
0684人間七七四年2014/10/31(金) 23:16:37.08ID:82lX9Zf6
小牧長久手のある1584年頃だともう秀吉はとっくの昔に織田家の家臣の直轄家臣化に成功してる

清洲会議後秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。

秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。

秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる

最も身分の高かった池田や丹羽ですら 小牧長久手より2年も前の清洲会議時点で 秀吉に対して領土に介入されたり 転封命令出されたり 人質召集されたり
自分の失態を叱責されたりしてるほど はっきりと上下関係があったのに 秀吉の配下は信服してないとかないわ
羽柴軍は本能寺以前の直轄地だけでも200万石前後あるので ほとんど直轄軍しかいないよ それに本能寺後は旧織田家の諸侯から人質召集した上で 転封命令まで出したり
領土の中の問題に介入したり、失態を叱責したり あるいは戦争中は直接逐一細かく命令出したり 皆を直轄軍として動かしてるね

三鬼清一郎氏によれば 秀吉の陣立書の導入により
それまでの一揆的秩序の軍団が初めて上下関係や統制の存在する公儀の軍になったとされてる
0685人間七七四年2014/10/31(金) 23:17:10.60ID:Rw40GzGC
秀吉は実際に信雄信孝だけではなく 広大な領土獲得に邁進して
実際に河内、丹波、丹後、山城、大和など広範な領土獲得してるし
坂本など近江の一部の要求は 自分の息がかかっている丹羽に譲ったようだが。

しかも清洲会議が終わってまもなく丹後の細川と秀吉は血判同盟を取り交わして備えているのは、
清洲会議で対立した為に旧織田重臣間で徒党を組んで全面戦争に備えていた証拠。

秀長は河内の他に大和、摂津の一部を領地にしてもらってる。
(池田恒興摂津12万石以外は秀長。しかも池田を犬山城に飛ばして大坂城築城開始してる)
岸和田など和泉も秀長領になっていたとも言われているな。
だから筒井などは秀長配下。
のちの高野山征伐の伏線であり大和大納言領の前身を清洲会議を契機に形作っている。
だから大和興福寺の僧が、
羽柴の思惑通りになったと言っている。
0686人間七七四年2014/10/31(金) 23:18:15.83ID:Rw40GzGC
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0687人間七七四年2014/10/31(金) 23:18:55.11ID:Rw40GzGC
愛知県史資料編より

天正10年11/1秀吉→石川数正書状 真田宝物館所蔵文書

柴田勝家が織田信孝と図って謀反を企てている
丹羽・池田と自分で申し合わせて信雄を御代にたてる
五機内の主要な武将から人質を残さず取った
江州衆も人質を全く残さず出した
毛利輝元とは暇なくもうし合わせている

12/16 秀吉→高木

西美濃衆が大垣城へ出頭し人質を出したことを報じ
高木親子にも同様の行動をとることを勧告してる

12/18秀吉→宇喜多
織田信孝が和睦を申し出て
柴田勝豊は人質にだし近江の横山城には秀長を入れた。
稲葉親子と西美濃衆から人質を受け取ったことを伝えている
0688人間七七四年2014/10/31(金) 23:20:22.18ID:Rw40GzGC
池田は信長の乳母兄弟
織田家で重用され信長に恩を受けていた。
明智はその恩人であり主君信長を殺した敵
その敵を殺した秀吉は敵を討った恩人
だから池田は秀吉につくのは至極当たり前

天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。

大阪築城の際にも、池田はとっくに秀吉の命令で摂津を奪われて土田舎の美濃まで転封させられてる

天正12年3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
0689人間七七四年2014/10/31(金) 23:21:08.08ID:Rw40GzGC
藤田達生 秀吉神話をくつがえす より  P169−172

天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した

これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。

秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。
0690人間七七四年2014/10/31(金) 23:23:22.31ID:w9tFYKPi
1582年時点でも秀吉に領分介入されたり、転封命令出されたりしてるのが池田

清州会議では秀信が織田の後継者と決まり秀吉はその後見になってる
さらに池田は秀吉の転封命令も、前年の1583年に聞き入れて摂津を召上げられて土田舎美濃に移動してるし
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0691人間七七四年2014/10/31(金) 23:26:38.58ID:w9tFYKPi
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである
0692人間七七四年2014/10/31(金) 23:27:35.76ID:w9tFYKPi
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
0693人間七七四年2014/10/31(金) 23:28:18.67ID:w9tFYKPi
家康に大敗したのは秀吉の中入り作戦がアホすぎただけ
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
0694人間七七四年2014/10/31(金) 23:58:11.68ID:8Lwr3hrC
>>683-693
またコピペかよ。馬鹿としかいいようがないのは、どう見てもお前だ。
0695あぼーんNGNG
あぼーん
0696人間七七四年2014/11/01(土) 00:08:16.33ID:11i5Wtj9
文のつなぎ方とか全部酷いな。接続詞を知らないのか?
しかも
「正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 」
これ、日本語か?
秀吉の軍事的才能がないとか言ってる場合じゃないよ!マジで酷いよ
小学校の時の担任誰?
0697人間七七四年2014/11/01(土) 00:28:55.82ID:QxCX0qC4
>>693だけ読んでも誤字かなり酷いな

>この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
>こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
>途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。

自分で読んで悲しくなったりしないの?

大きく見ると意味不明、細かく見ると誤字、脱字、誤用のオンパレード。
0698あぼーんNGNG
あぼーん
0699あぼーんNGNG
あぼーん
0700人間七七四年2014/11/01(土) 05:05:48.80ID:6mKwQTDk
池沼遼太
0701人間七七四年2014/11/01(土) 08:45:53.71ID:gNBJKiwo
>>694
意見としてはまっとうな内容じゃん
ソース元の史料か論文もきっちり引用が書いてあるし
0702人間七七四年2014/11/01(土) 08:49:47.42ID:gNBJKiwo
じゃあ修正しとくよ

家康に大敗したのは秀吉の中入り作戦がアホすぎただけ
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取って平地部分を移動し竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
0703人間七七四年2014/11/01(土) 09:05:04.84ID:Fi50fv2q
家康が小牧山の陣から隠密離脱して、三河奇襲軍の急襲に向かったのを全く知らなかった秀吉が無能すぎる。
全く敵の諜報活動をしていない怠惰さは、唐入りで朝鮮の国情を全く理解しようとしなかった愚かさの一端が垣間見える。
小牧山の陣に家康不在の情報を掴んでたら、総攻撃を開始して、小牧山を陥落させ、家康が逃げ込める場所を消滅させれば、賤ヶ岳の様な大勝利だったのにな。
0704人間七七四年2014/11/01(土) 09:19:29.84ID:WOlm5Ol1
谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」;長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
0705人間七七四年2014/11/01(土) 09:50:19.46ID:Fi50fv2q
秀吉が真に有能なら、三河別働隊を捨て駒にして家康を小牧山の陣から誘い出す策を立案し、
手薄となった小牧山の陣を陥落させる。

で、後は圧倒的数の優勢を利用して、野戦に持ち込み、徳川軍を包囲し殲滅する、対光秀戦の山アの戦を再現させればいいだけ。

最悪、家康に小幡城に篭られても、得意の城攻めで落とせばいいだけ。
が、肝心の家康に知らぬ間に逃げられてたんじゃ、お粗末すぎて失笑さえ起きん。
所詮、秀吉も家康も、信長の足元にも及ばないレベル。
0706人間七七四年2014/11/01(土) 09:59:27.31ID:c/pmOizq
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである
0707人間七七四年2014/11/01(土) 10:01:04.63ID:c/pmOizq
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
0708人間七七四年2014/11/01(土) 10:01:58.96ID:c/pmOizq
谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。


小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
0709人間七七四年2014/11/01(土) 10:02:41.76ID:c/pmOizq
秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
0710人間七七四年2014/11/01(土) 12:37:58.73ID:9AN0Tts6
>>702
誤記全く修正されてないぞ。
(後続させて、龍戦寺、龍泉寺、竜泉寺、自体、申しつけ、どうどうとさせて、書いてるから、すぐ軍ださなかった、、)
日本語とは思えない汚い文章だよね?自分で思わないの?
もしかして外国の人?
しかも、コピペ君の言いたいことって単純に

「秀吉の馬鹿>>707、アホ>>702、ウンコ>>704

だよね。他の人は、戦国の再評価や検証をそれぞれ楽しく主張してるんだから、
コピペ君は、汚い文章と小学生の主張で妨害するのやめてくれないかな?
本気でお願い!
0711人間七七四年2014/11/01(土) 16:00:16.21ID:9V4qhh9R
じゃあもう一度修正しとくよ

家康に大敗したのは秀吉の中入り作戦があまりに稚拙すぎただけ
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申し付け
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍を堂々とさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀な遅行行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな事態にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてる事から
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったor遅行で山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取って平地部分を移動し龍泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに、それをしない。軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせた戦術を考案したのが無能としかいいようがない。
0712人間七七四年2014/11/01(土) 18:20:01.44ID:ujzFXhEI
修正できていないし、汚い。
0713人間七七四年2014/11/01(土) 21:08:08.19ID:I5o4U00+
ホント文章(コピペ)纏めるの下手だよな
これ三流大学でも不可やろ
つか中卒レベルw
0714あぼーんNGNG
あぼーん
0715人間七七四年2014/11/01(土) 22:12:12.05ID:ujzFXhEI
小卒でも許されない
>池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申し付け
>小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
>秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍を堂々とさせているのがわかる

接続詞無し、主語不明確、文語口語混合、てにをは誤用、修正失敗、、

重要な最後の一文までも、文法崩壊
>敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせた戦術を考案したのが無能としかいいようがない。

秀吉云々より先に、コピペ君が如何に仕事ができず、会話もできず、使えないかが透けて見える文章。
0716人間七七四年2014/11/01(土) 22:19:15.64ID:ujzFXhEI
>>711

美しい日本語のすすめ (小学館101新書 51)

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

ふくしま式「本当の国語力」が身につく問題集〔小学生版〕
0717人間七七四年2014/11/02(日) 08:05:34.06ID:vmyxVgmZ
>>676-677
秀吉は、織田家を滅ぼさず小大名として残したから、簒奪とはいえイメージ
は徳川よりましだった。信長のみならず嫡男も死んでいるという美味しさ

ただし信忠が生きていても、秀吉の下剋上は避けられなかった可能性大。
右大臣は信長個人の官職であり、織田家の家職としては定着していなかった
ことが地味に大きい。朝廷の官職で秀吉に位負けしたらアウト。

いっぽう家康は政権交代では、より不利だった。豊臣が空気読んで臣従し、
大阪城も手放して小大名に甘んじていれば助かった可能性はある。だが
徳川政権下で浮かぶ瀬のない関ヶ原負け組層の拠り所になってしまい、
おまけに朝廷では摂家と同列の公家としての地位が確定していた(ただし
大阪戦争前に、右大臣は辞任している)
0718あぼーんNGNG
あぼーん
0719人間七七四年2014/11/02(日) 12:48:38.69ID:OW2wchPV
>>717
秀吉は織田家を滅ぼさず小大名として残しても、織田家が手中にしていた天下をネコババしたのだから、立派な簒奪。
簒奪したのに簒奪してないよう、イメージ操作したのが秀吉。
織田家を滅ぼさず小大名として残してな。

信忠が生きていてら、秀吉の下剋上は避けられてた可能性大。
というより、全くの不可能。
秀吉が主導権を取れた清洲会議自体が行われないし、信雄・信孝の兄弟間相克に依拠する織田家の内部抗争も起こらないのだからな。

秀吉が力業で下克上しようとすれば、秀吉は第二の明智光秀として孤立し、信忠率いる織田軍に抹殺させるだけ。

いっぽう家康は政権交代では、より有利だった。
周辺は雑魚ばっかで、徳川に比肩する勢力は皆無だからな。
0720人間七七四年2014/11/03(月) 01:44:02.76ID:KAKTuuCg
主家を滅ぼさずお飾りとして立てておきながら実験を握る
成り上がり戦国大名の常套手段じゃん
秀吉は特別なことはしてない
0721人間七七四年2014/11/03(月) 07:46:05.61ID:/WyBVKu5
あの時代だとむしろ特異な方だろ
毛利元就や斎藤道三は主家を滅亡、追放まで追い込んでるし
津軽は主家と義絶して禍根を生みまくってた。
細川も最終的には三好に粛清追放されてるし
三法師こと織田秀信が豊臣政権で残ったのは奇跡に近い
0722人間七七四年2014/11/03(月) 07:50:30.87ID:/WyBVKu5
ただこれは、どっちかというと織田秀信本人の器量も大かな
細川にしろ、土岐にしろ、下克上を嫌い、それに抵抗しようとした
かたや織田秀信は、豊臣の時世が決まるとさっさと臣従して秀吉政権の重鎮に収まってる
石高にして13万石、官位にして正三位というのは秀吉なりの誠意だろう。
天下の簒奪は許しても、織田の簒奪は防いだというのは、なにげに秀信の功績といっていい
0723人間七七四年2014/11/03(月) 20:55:04.77ID:KAKTuuCg
>>721
毛利と大内を主従とするのはいささか疑問がある。
確かに傘下には入ったが、元々は独立国人領主。時に尼子に鞍替えもしてる。
道三も三好も最終的には「追放」までて殺してはいないことに注目。
権力を掌握するまでは必要だったわけで、不必要になっても殺害はしてない。

信長も尾張統一に斯波義銀を利用、天下(畿内)掌握に足利義昭を利用して、
最終的には2人共信長を討伐しようとして逆に追放された。建前では信長に非はない。
津軽とか松永みたいなのがむしろ特異だよ。
もっとも津軽は乗っ取りじゃなくて分国化だが
0724人間七七四年2014/11/05(水) 03:21:37.29ID:hnFIobk9
関白宣下を受けて姓を賜り豊臣家っていうものができた以上
秀吉に旧主家である織田家を簒奪するメリットがないわけで
仮に不満を持ったとしても秀信は二歳で家督相続して二十歳で関が原だから
何かしようとしても何もできかったんじゃないかと
0725人間七七四年2014/11/05(水) 05:28:36.88ID:AmQsrdJn
死ぬ間際の秀吉があんなに見苦しいまでに豊臣家と秀頼を案じてたのもわかるものだ
テメーがやってきたことをやられると思うわな
0726人間七七四年2014/11/05(水) 12:58:36.65ID:D8nwvYx0
本能寺の変はドラマとかでは両軍同士の戦闘が成立してるけど、
実際にはあんな兵力差で戦闘が成立するのかね。ほぼ秒殺じゃねぇのか?
0727人間七七四年2014/11/05(水) 18:38:27.38ID:wG/NflWx
寺つっても準要塞化されてっから秒殺じゃないわな
隣の屋敷の村井が騒ぎを聞いて起きた時にはもう囲まれて手出しできなかったと言うから分殺くらいだろ
0728人間七七四年2014/11/05(水) 21:53:36.53ID:6R2kjojm
>>726
漫画とかドラマのシーンの感想は、
大河板とかの方がみんな共感してくれると思うんだよね。
ここ(戦国板)だと反応冷たくね?
0729人間七七四年2014/11/05(水) 21:54:48.67ID:6R2kjojm
>>725
漫画とかドラマのシーンの感想は、
大河板とかの方がみんな共感してくれると思うんだよね。
ここ(戦国板)だと反応冷たくね?
0730人間七七四年2014/11/05(水) 21:58:55.19ID:6R2kjojm
726スマソ
0731人間七七四年2014/11/15(土) 05:26:30.96ID:6/k8O5IN
まあ実際は戦闘とは言えないくらいの一方的な攻撃だったんだろうね
一応明智方の武将も鉄砲で負傷したなんて話があるけどこれは創作かな

信忠の方はどうだろう
二条御所に2000程の兵隊が待機してたとしたら、亀山の明智軍約1万3千の半分7000弱が信忠を攻撃して2:7の兵力差
圧倒的に不利とは言え戦闘にならないってことはないかも
0732人間七七四年2014/11/15(土) 07:21:32.91ID:wEPAKd2l
「百姓一揆」の象徴のように言われる「竹槍」ですが、
実はこの竹槍が出現したのは明治時代、
新政府の地租改正や兵役義務に反対する農村の「一揆」の中で用いられたものでした。
https://twitter.com/1059kanri/status/532946071580717056


光秀を討ち取ったのは土民の鉄砲だよな、やっぱ。
0733人間七七四年2014/11/15(土) 09:19:31.84ID:VnJvg8Uj
>>732
なんでそんな嘘つくん?
0734人間七七四年2014/11/15(土) 11:53:55.73ID:bbEnFNG7
取り囲んだ方が圧倒的に有利だし
やっぱり一方的どころか完璧な殲滅方
だったとは思うよ。
二条御所で、少しは抵抗した、みたいに
書かれるのも、どうしようもない状態で
がんばった、ってぐらいのことだろう。
0735人間七七四年2014/11/16(日) 02:06:36.87ID:tAn/qVEt
1時間くらいじゃなかったか<二条御所攻防戦
城攻めだから短時間だろうな
0736人間七七四年2014/11/22(土) 15:44:10.85ID:LXA7bjBe
徳川政権にとって不都合な資料があればすべて廃棄されてるだろうから
残っている資料とやらは書き換えられてる可能性がある
誰だって自分がかわいいからねえ
0737人間七七四年2014/11/25(火) 00:34:17.21ID:xGG0gh5U
光秀の定理
0738人間七七四年2014/11/30(日) 19:50:09.68ID:h8wxssyB
どの時点で詰んでたかスレで
財産目当てに安土城に向かった時点で詰み
なるレスを見つけて興味深いと思ったんだけど
安土城に向かわなかったらどうなってたんだろ
0739人間七七四年2014/11/30(日) 19:53:44.51ID:iI6teCfD
京の狭い部分を支配するに過ぎない弱小勢力に見られ、より味方が集まらなくなる
0740人間七七四年2014/11/30(日) 20:11:53.15ID:bTS9nsvb
>>738
まず四国方面軍の残党を叩いて、その勢いで、強行軍でヘロヘロの秀吉も破れば、
味方も集まったんじゃねーの?
更に足利義昭でも招いて美濃に侵攻すれば、万が一の勝機をつかめるかも。
0741人間七七四年2014/11/30(日) 20:13:35.25ID:iI6teCfD
強行軍でヘロヘロの秀吉って姫路まで京留守にして侵攻すんのかw
0742人間七七四年2014/11/30(日) 22:20:25.50ID:93gxP0El
どの道、明智軍団だけで畿内の支配を維持するのは厳しそう。
当面は良くてもどこかが綻ぶ
0743人間七七四年2014/11/30(日) 22:25:45.09ID:BzHpySzf
北陸の柴田、東濃の森、三河の徳川、伊勢の滝川あたりか。
0744人間七七四年2014/12/01(月) 00:01:09.30ID:yb8mPH0R
>>740
秀吉は6/4に出発して6/13に山崎で230kmを10日かけて行軍だから急行軍なんてしてないだろ
0745人間七七四年2014/12/01(月) 13:18:10.13ID:9abcGlXO
1日平均23kmと考えたら楽だよね!(馬鹿丸出し)
0746人間七七四年2014/12/01(月) 13:23:21.61ID:mxc/WJMy
一日23kmペースが急行軍なら関ヶ原の家康や秀忠は超急行軍だなw
0747人間七七四年2014/12/02(火) 17:36:38.14ID:9yy/rWv7
安土城に行った事でどう不利になったんだろ
そんなに消耗したように思えないし
0748人間七七四年2014/12/02(火) 22:29:35.10ID:y2fITIbK
毛利の追撃の危険が消え無事本拠地姫路にもどる。
中国大返しは姫路までを言うんだけどな。
そっからはダラダラ休みまくって休養を取りまくってる。
0749人間七七四年2014/12/03(水) 07:00:16.22ID:qo9uOdZ9
秀吉が変から1週間で戻ってきたのを俺らは知ってるからな。
安土・・つか近江を獲るのが先決でしょ。金目当てとかいうけど普通は守備隊が自焼するからまずアテに出来ん
蒲生の行動は明智にも残織田勢力にもいいかっこしいだ
0750人間七七四年2014/12/03(水) 16:21:55.36ID:1PsQfT8i
大阪の四国方面軍が四散した状況では一番警戒しないといけないと思ってたのは
伊勢の信雄が残った織田一族や旗本をまとめて近江に進出する事だったろうな
0751人間七七四年2014/12/03(水) 23:42:57.58ID:gIsAqg4m
いや大阪の四国方面軍が秀吉に丸ごと吸収されたことが一番の敗因だろ
0752人間七七四年2014/12/04(木) 09:29:42.92ID:ErhA4LZ7
高松出発は6/4
備前の沼に6/5到着
播磨に移ったのは6/6
摂津尼崎に6/9
6/12に富田着陣
6/13に山崎合戦だから9日〜10日かかってる
これでは特別早くないだころかむしろ遅いくらいだよ。
何せ秀吉が本能寺の変報を変からわずか1日半で到達するほどの距離だし
飛脚が1日半でつく距離を秀吉は10日もかけてのろのろ戻っただけ。


高松〜200キロを10日だから全く早くないわな。
大げさに講談でマンセーされてるだけ。
使者が1日半でつく程度の道のりを10日もかけるとかノロマすぎる。
勝家はガチで上杉とやりあってたしなぁ。でてこれないの当たり前でしょ。
滝川も北条が襲ってきたし小早川が買収されて秀吉に前面協力するくらい棚ボタっぷりだった秀吉とは全然違うわな
筒井や細川や丹羽らはそもそも単体での兵力が少なすぎて話にならないし
0753人間七七四年2014/12/04(木) 09:30:25.32ID:ErhA4LZ7
フロイスの日本史によると
明智方は高山右近が1000の兵とともに門を開き明智を目指して突撃し
高山と併進してきた羽柴方の二将が到着すると明智は戦意喪失し
背を向けて退却しだしたと書いてる。
その後明智は勝竜寺城に戦う事なく敗走し
その後こっそり夜をしのんで坂本に帰る途中に殺されたと書いていて
山崎合戦自体がなかったとされてる。
最初から明智軍は戦意0で崩壊状態だったようだな。
0754あぼーんNGNG
あぼーん
0755人間七七四年2014/12/04(木) 10:38:30.64ID:xbqoHO+G
>>751
それつまり秀吉のすばやい行動が読めなかったということにいきつく
光秀の目的は信長父子の抹殺からの織田家の天下(畿内)乗っ取りだろう
それにはまず空白地で本拠・安土がある近江から獲得しないと
実際、近江を支配することで周辺は動揺したし、摂津の支配もその事実を突きつければ事は進みやすい

先に摂津に進めて簡単に支配できたかどうかを考えてくれ
あ、飛脚1人と万超える大軍団の移動を比較するようなアホは無視しますは
0756人間七七四年2014/12/04(木) 11:03:05.69ID:fRpR07fb
だよね
万を超える軍勢が200kmを10日そんなにゆっくりしていってねって感じではないな
0757人間七七四年2014/12/04(木) 11:53:55.38ID:ErhA4LZ7
中川は天正8年時点で秀吉と兄弟の契りを結んでるほど密接な関係なので秀吉を裏切るわけがない。
高山や筒井や池田など織田家諸侯も、信長に仕えていた身分なので
信長を殺した光秀につくなんて不忠行為を行うわけがない。
実際に光秀についた連中なんて若狭武田と阿辻くらいしかいないし
信孝信雄信張信包など親族連中も一杯いるし
一門の丹羽や羽柴は絶対裏切らないし
家康も信長の同盟者の立場から、反明智は確定的だし
柴田も明智と連絡なんて取ってないし
明智なんていずれ誰かに殺されてる。

中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
悉く棚ボタばかりなのが秀吉の本能寺の変
0758人間七七四年2014/12/04(木) 11:54:21.91ID:ErhA4LZ7
中川は天正8年時点で秀吉と兄弟の契りを結んでるほど密接な関係なので秀吉を裏切るわけがない。
高山や筒井や池田など織田家諸侯も、信長に仕えていた身分なので
信長を殺した光秀につくなんて不忠行為を行うわけがない。
実際に光秀についた連中なんて若狭武田と阿辻くらいしかいないし
信孝信雄信張信包など親族連中も一杯いるし
一門の丹羽や羽柴は絶対裏切らないし
家康も信長の同盟者の立場から、反明智は確定的だし
柴田も明智と連絡なんて取ってないし
明智なんていずれ誰かに殺されてる。

中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
悉く棚ボタばかりなのが秀吉の本能寺の変
0759人間七七四年2014/12/04(木) 11:55:33.47ID:5bxCL+wE
池田は信長の乳母兄弟
織田家で重用され信長に恩を受けていた。明智はその恩人であり主君信長を殺した敵
だから明智をうとうとする秀吉に、池田がつくのは当たり前
0760人間七七四年2014/12/04(木) 11:56:20.61ID:ErhA4LZ7
そもそも主殺しを行った光秀に勝算などない。
織田家に仕える身分である他の武将が
織田家主君の信長を殺した武将より
織田家主君を殺した武将を討つ武将につくのは当たり前の事。
信雄信孝信包信張と信長の一門も皆それぞれ軍事力持ってるし
池田丹羽羽柴は織田の一門衆、徳川柴田滝川中川蜂谷らも、反明智で確定してて
主殺しを行った光秀につくものなどいない。
与力どころか直属家臣にも裏切られてて、明智方に残ってるのは阿辻と若狭武田などの雑魚しかいないし。
毛利も主殺しを行った光秀を敵視してる書状(6/6付け)があるし
周辺大名すら明智に同心してないからハナから明智は詰んでる。
仮に秀吉、柴田、徳川、滝川など軍団長クラスが皆戦死してても
信雄信孝信張信包らが討伐隊組織して
明智如き瞬殺してる。 明智はそもそも丹波と坂本で30万石前後しかない雑魚勢力にすぎなかった。
200万石超えの秀吉や
180万石レベルの柴田などにハナから敵うわけがなかった。
おまけに主殺しの汚名を負ったために配下の兵士は士気が崩壊しててハナから戦いにすらなかったとフロイスの日本史に書いてる
0761人間七七四年2014/12/04(木) 11:57:04.84ID:dOBnmn9h
明智は近江坂本と丹波の25万石前後しか持ってない。
与力は悉く寝返ってて阿辻と若狭武田くらいしか残らなかったし
放置しても信雄信孝信包信張丹羽池田蜂谷ら一門や重臣らに勝手に飲み込まれていくのは目に見えてる。
フロイスの日本史にも明知軍は主殺しの汚名を負ったために士気が崩壊しててろくな戦いにならなかったと書いてるし。

明智の版図は近江坂本と丹波の20万石前後しかないからな。
近江や丹波の配下すら寝返ってる始末だし
織田家当主の主殺しをした光秀に
織田家当主の信長に仕える理由も名分もハナからない。
0762人間七七四年2014/12/04(木) 11:59:44.10ID:3V6rK1iF
池田は信長の乳母兄弟だし、中川は秀吉と兄弟の契りを結んだ中の上に、信長から娘もらってるから信長を殺した明智につくとかまずありえんし
高山も秀吉と一緒に中国攻めしとる
三人とも信長に恩は少なからずあるわけで、信長を殺した明智につく義理などないわな
0763人間七七四年2014/12/04(木) 13:07:32.27ID:PmpuLOs1
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