【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る7
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0001人間七七四年
2014/07/15(火) 19:03:30.85ID:vDDA8ZR2通称は十兵衛。
父は明智光綱のほか、明智光国や明智光隆の説もある。
さらに信長に仕えるまでの前半生には不明な点が多いが、
明智軍記では美濃明智城主として斉藤道三に仕え、その没後は諸国を遍歴したとされる。
-------以上wikipediaより転載---------
その他秀満や光忠などの明智一族、
斎藤や妻木や溝尾や藤田などの家臣も話題も歓迎。
■武家家伝_明智氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aketi_k.html
■過去スレ
01 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167303526/
02 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298723473/
03 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307845255/
04 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1313811216/
05 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335185140/
06 http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356441969/
■関連スレ
天海=明智光秀だった!!!
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151671577/
0636人間七七四年
2014/10/24(金) 21:27:45.99ID:TK36R2+T織田に従順な三好と織田に反抗して領土拡張意欲満々の長宗我部。
信長がどちらを追討対象にするのか、子供でも分かる。
長宗我部の反織田姿勢は別に光秀の落ち度では無いので、面目を失うも糞もない。
この程度で面目を失ったと思い前途を悲観する小物では、戦国武将は務まらん。
別所長治に背かれる失態を犯した秀吉の方が、遥かに精神的ダメージはデカイ。
0637人間七七四年
2014/10/24(金) 22:16:50.04ID:/fOdDmRH0638人間七七四年
2014/10/25(土) 00:17:16.72ID:tbI1mrQr長宗我部も北条も好機に乗じただけで光秀様に付いていきますなんてナイナイ
0639人間七七四年
2014/10/25(土) 02:57:44.84ID:VZEubgi10640人間七七四年
2014/10/25(土) 03:37:11.12ID:haogjSxK極端でないにしろそれに近い状態の時に利三が押し込んだってとこじゃね
諫止どころかノリノリでやったのだからそう考えれば自然
0641人間七七四年
2014/10/25(土) 07:09:43.38ID:Aac12H+Y自分と光秀の関係を裏付ける文書を処分してしまったせいか、光秀は素性・人間性等々であまりにも謎が多い。
個人的には、謎が多すぎるゆえに好きにも嫌いにもなれない人物。
0642人間七七四年
2014/10/25(土) 22:35:46.82ID:TFn969/5ちなみに光秀との関連資料処分した人もいるだろうけど、変の前までは存在すら知らなかったって人も意外と多そう。
当時織田家家臣として有名だったのは多分、柴田とか丹羽とか村井、武井夕庵、松井有閑、このあたり。
0643人間七七四年
2014/10/25(土) 23:03:58.85ID:VZEubgi10644人間七七四年
2014/10/26(日) 00:31:43.65ID:biDSZD/qまともな日常生活を送れているのか?
そっちの方が光秀よりよっぽどミステリーだw
0645人間七七四年
2014/10/26(日) 01:56:41.45ID:gCouO1LM0646人間七七四年
2014/10/26(日) 02:08:54.31ID:WNzAJheUあ、本人だったら無駄か
0647人間七七四年
2014/10/26(日) 18:57:32.36ID:BB2E0oB2信長排斥は知識人たちの総意で、元親にケツかかれた光秀と秀吉と連携する幽斎
0648642だけど
2014/10/26(日) 21:51:23.17ID:Fpjq9HJv小説に酔ったまま、なかなかしらふに戻らない人が多そうだから心配してるだけだよ。
こうまで酔いが醒めないのは、光秀に日本人らしさを感じるからなんだろうけど。
じゃあなぜそう感じるようになったかは、昭和敗戦後の米さんと司馬さんが原因だな、たぶん。
米さん信長を革命家キャラに→司馬さんそれを受け入れつつ、でも米支配に反発する日本人も描きたいってんで、格好の演者として光秀を選択。
でも史実はむしろ米さん司馬さんの講談とは逆。これを知ったうえで光秀好きっていうのは別にいいと思うよ。
0649人間七七四年
2014/10/26(日) 23:43:14.71ID:f1kFzU0D0650人間七七四年
2014/10/27(月) 05:08:32.39ID:HhAEMgLZ0652人間七七四年
2014/10/27(月) 07:21:23.93ID:Yb4IFJ8pそういう人は噂話とかに左右されにくそうで、好感が持てる。
0653人間七七四年
2014/10/27(月) 14:10:45.61ID:bHBuUPI30654人間七七四年
2014/10/27(月) 15:08:24.90ID:3uhzPLPz0655人間七七四年
2014/10/27(月) 16:12:30.91ID:bHBuUPI3俺はそうは思わんけど
0656人間七七四年
2014/10/27(月) 18:22:08.39ID:EvwbFl2W0658人間七七四年
2014/10/28(火) 12:22:20.38ID:a6h2uqDr0659人間七七四年
2014/10/28(火) 21:54:48.78ID:cYV+fe3Wつーか、凡人に戦国時代を終わらせることはできない。
0660人間七七四年
2014/10/28(火) 23:43:24.26ID:lgr7W5+Y急速にでも統一して外人が政治に介入出来ない体制を整えないと不味い状況だった
信長がそのつもりで天下布武ってたのかは怪しいが結果的には正しい路線だった
0661人間七七四年
2014/10/29(水) 00:21:39.11ID:5wIYxEdx0662人間七七四年
2014/10/29(水) 00:23:35.12ID:h4y1oXFH時代を変える(失笑) 破壊者(爆笑) 戦国時代を終わらせる(笑)
0663人間七七四年
2014/10/29(水) 00:24:52.84ID:h4y1oXFH0664人間七七四年
2014/10/29(水) 21:20:09.61ID:jHOijDVN0665人間七七四年
2014/10/30(木) 02:09:28.95ID:5U/D2zRa違ってきてる……とは思う。
0666人間七七四年
2014/10/30(木) 09:32:32.16ID:0rOv5uWS秀吉がキリスト教禁止にしたのは慧眼。
0667人間七七四年
2014/10/30(木) 09:40:36.02ID:0rOv5uWS0668人間七七四年
2014/10/30(木) 11:14:13.46ID:rh5MDTfMどう思った?
0669人間七七四年
2014/10/30(木) 13:03:29.37ID:a7S56a1A0670人間七七四年
2014/10/30(木) 19:21:15.12ID:rDhteaRU所詮勝てば官軍で、いかようにも自己を正当化したり美化したりできるし、敗者を徹底的に讒訴できる。
足利尊氏の反逆も光秀とそう大差ない。
0671人間七七四年
2014/10/30(木) 22:00:08.34ID:akP91fFi0672人間七七四年
2014/10/30(木) 22:56:39.24ID:EeWH1mz+油断して丸裸の状態で寝ている信長を、100倍以上の大軍で襲撃したやり口だろ。
0674人間七七四年
2014/10/31(金) 12:42:01.20ID:Nz3PAte9主殺しを行えば、同じく織田家に仕える、信長から恩を受けた武将たちは、織田に牙をむく明智の敵に回るなんて当たり前の事。
実際明智方についてる武将なんて阿辻とか若狭武田とか織田とつながりの薄い雑魚しかいないし
尾張系や美濃系の譜代で明智について武将なんて皆無じゃん
0675人間七七四年
2014/10/31(金) 20:55:45.86ID:nKZmd/yi同じく織田家に仕えてた、信長から恩を受けた武将たちは、織田に牙をむく秀吉の味方に回る節操の無さを披露。
ま、秀吉と信雄を天秤にかければ、秀吉を選択するしかないがな。所詮は筋目より保身と利害。
0676人間七七四年
2014/10/31(金) 21:08:09.47ID:xn6lMFOc織田家にとっての恩人が、秀信の後見という形で、織田領をコソ泥しただけだし、明智のそれとはまったく大義名分が違うわな
0677人間七七四年
2014/10/31(金) 21:11:55.05ID:kqtT4VHa織田家に仕え、信長に恩を受けた旧織田の家臣がつくなんて至極当然の事じゃん
信長に仕えた織田家の旧臣は、信長との主従関係はあっても、信雄や信孝との主従関係などない
織田家に仕える身分なら、後継者の秀信、またそれを後見する秀吉に従うのは当然の事。
0678人間七七四年
2014/10/31(金) 21:17:37.52ID:ed15TUnA織田家主君の信長を殺した武将より
織田家主君を殺した武将を討つ武将につくのは当たり前の事。
0679人間七七四年
2014/10/31(金) 21:26:20.26ID:nKZmd/yi秀吉単独では主家の織田家に歯向かえる権威はないので、信雄を味方に付けて、信孝・勝家連合に敵対。
で、賤ヶ岳後は、秀吉単独では主筋の信雄に歯向かえる権威はないので、織田家に縁が深い池田勝入を篭絡して、旧織田家臣団を糾合し、信雄を孤立化。
が、旧織田家臣団を統制できる権力がないので、対家康滞陣の長期化で、寄せ集めの大軍が自壊するのを恐れ、
秀吉に味方して男を下げ、その挽回の為功を焦る勝入の三河奇襲作戦を安易に受け入れ、唐入りの如く大敗の赤っ恥。
その失態を取り返そうと、信雄領を荒らし回って、凹んだ信雄と単独講和に持ち込むせこさ。
0680人間七七四年
2014/10/31(金) 21:47:18.28ID:QW8qQsQFむしろ局地戦で大敗しても最終的には講和に持ち込んだ秀吉の戦略を褒めるべきでは
0681人間七七四年
2014/10/31(金) 22:11:50.39ID:nKZmd/yiだから、戦の早期終結を図ろうと、信雄領を荒らし回って、意気消沈した信雄と単独講和しただけの話。セコイ男だ。
結局徳川領には全く攻め込めない無能ぶり。
で、徳川を屈服させる為、西に領土を拡大して、相対的優位性を構築しようとするも、
結局は妹と実母を人質に出す土下座外交で、秀吉と共倒れの消耗戦を回避したい家康のプライドを満足させて、やっとこさの客分待遇の形式的臣従。
0682人間七七四年
2014/10/31(金) 22:25:09.57ID:YLhH5RNU浪々の身を拾い上げ大名にまで出世させてくれた大恩人かー。
でも、信長の気分次第で私財全部没収!されて高野山行きだもんなー。
気分屋の恩人とか逆に迷惑だわー。
0683人間七七四年
2014/10/31(金) 23:11:27.85ID:H8e753P6秀吉は小牧長久手後も雑魚の信雄に負けまくってる
小牧長久手合戦後の出来事
4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる
0684人間七七四年
2014/10/31(金) 23:16:37.08ID:82lX9Zf6清洲会議後秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる
最も身分の高かった池田や丹羽ですら 小牧長久手より2年も前の清洲会議時点で 秀吉に対して領土に介入されたり 転封命令出されたり 人質召集されたり
自分の失態を叱責されたりしてるほど はっきりと上下関係があったのに 秀吉の配下は信服してないとかないわ
羽柴軍は本能寺以前の直轄地だけでも200万石前後あるので ほとんど直轄軍しかいないよ それに本能寺後は旧織田家の諸侯から人質召集した上で 転封命令まで出したり
領土の中の問題に介入したり、失態を叱責したり あるいは戦争中は直接逐一細かく命令出したり 皆を直轄軍として動かしてるね
三鬼清一郎氏によれば 秀吉の陣立書の導入により
それまでの一揆的秩序の軍団が初めて上下関係や統制の存在する公儀の軍になったとされてる
0685人間七七四年
2014/10/31(金) 23:17:10.60ID:Rw40GzGC実際に河内、丹波、丹後、山城、大和など広範な領土獲得してるし
坂本など近江の一部の要求は 自分の息がかかっている丹羽に譲ったようだが。
しかも清洲会議が終わってまもなく丹後の細川と秀吉は血判同盟を取り交わして備えているのは、
清洲会議で対立した為に旧織田重臣間で徒党を組んで全面戦争に備えていた証拠。
秀長は河内の他に大和、摂津の一部を領地にしてもらってる。
(池田恒興摂津12万石以外は秀長。しかも池田を犬山城に飛ばして大坂城築城開始してる)
岸和田など和泉も秀長領になっていたとも言われているな。
だから筒井などは秀長配下。
のちの高野山征伐の伏線であり大和大納言領の前身を清洲会議を契機に形作っている。
だから大和興福寺の僧が、
羽柴の思惑通りになったと言っている。
0686人間七七四年
2014/10/31(金) 23:18:15.83ID:Rw40GzGC丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0687人間七七四年
2014/10/31(金) 23:18:55.11ID:Rw40GzGC天正10年11/1秀吉→石川数正書状 真田宝物館所蔵文書
柴田勝家が織田信孝と図って謀反を企てている
丹羽・池田と自分で申し合わせて信雄を御代にたてる
五機内の主要な武将から人質を残さず取った
江州衆も人質を全く残さず出した
毛利輝元とは暇なくもうし合わせている
12/16 秀吉→高木
西美濃衆が大垣城へ出頭し人質を出したことを報じ
高木親子にも同様の行動をとることを勧告してる
12/18秀吉→宇喜多
織田信孝が和睦を申し出て
柴田勝豊は人質にだし近江の横山城には秀長を入れた。
稲葉親子と西美濃衆から人質を受け取ったことを伝えている
0688人間七七四年
2014/10/31(金) 23:20:22.18ID:Rw40GzGC織田家で重用され信長に恩を受けていた。
明智はその恩人であり主君信長を殺した敵
その敵を殺した秀吉は敵を討った恩人
だから池田は秀吉につくのは至極当たり前
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
大阪築城の際にも、池田はとっくに秀吉の命令で摂津を奪われて土田舎の美濃まで転封させられてる
天正12年3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
0689人間七七四年
2014/10/31(金) 23:21:08.08ID:Rw40GzGC天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した
これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。
0690人間七七四年
2014/10/31(金) 23:23:22.31ID:w9tFYKPi清州会議では秀信が織田の後継者と決まり秀吉はその後見になってる
さらに池田は秀吉の転封命令も、前年の1583年に聞き入れて摂津を召上げられて土田舎美濃に移動してるし
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0691人間七七四年
2014/10/31(金) 23:26:38.58ID:w9tFYKPi池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
長久手町史通史編 谷口央氏
P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである
以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである
0692人間七七四年
2014/10/31(金) 23:27:35.76ID:w9tFYKPi5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
0693人間七七四年
2014/10/31(金) 23:28:18.67ID:w9tFYKPi4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
0695あぼーん
NGNG0696人間七七四年
2014/11/01(土) 00:08:16.33ID:11i5Wtj9しかも
「正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 」
これ、日本語か?
秀吉の軍事的才能がないとか言ってる場合じゃないよ!マジで酷いよ
小学校の時の担任誰?
0697人間七七四年
2014/11/01(土) 00:28:55.82ID:QxCX0qC4>この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
>こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
>途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
自分で読んで悲しくなったりしないの?
大きく見ると意味不明、細かく見ると誤字、脱字、誤用のオンパレード。
0698あぼーん
NGNG0699あぼーん
NGNG0700人間七七四年
2014/11/01(土) 05:05:48.80ID:6mKwQTDk0702人間七七四年
2014/11/01(土) 08:49:47.42ID:gNBJKiwo家康に大敗したのは秀吉の中入り作戦がアホすぎただけ
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取って平地部分を移動し竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
0703人間七七四年
2014/11/01(土) 09:05:04.84ID:Fi50fv2q全く敵の諜報活動をしていない怠惰さは、唐入りで朝鮮の国情を全く理解しようとしなかった愚かさの一端が垣間見える。
小牧山の陣に家康不在の情報を掴んでたら、総攻撃を開始して、小牧山を陥落させ、家康が逃げ込める場所を消滅させれば、賤ヶ岳の様な大勝利だったのにな。
0704人間七七四年
2014/11/01(土) 09:19:29.84ID:WOlm5Ol1「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」;長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎
小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
0705人間七七四年
2014/11/01(土) 09:50:19.46ID:Fi50fv2q手薄となった小牧山の陣を陥落させる。
で、後は圧倒的数の優勢を利用して、野戦に持ち込み、徳川軍を包囲し殲滅する、対光秀戦の山アの戦を再現させればいいだけ。
最悪、家康に小幡城に篭られても、得意の城攻めで落とせばいいだけ。
が、肝心の家康に知らぬ間に逃げられてたんじゃ、お粗末すぎて失笑さえ起きん。
所詮、秀吉も家康も、信長の足元にも及ばないレベル。
0706人間七七四年
2014/11/01(土) 09:59:27.31ID:c/pmOizq池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
長久手町史通史編 谷口央氏
P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである
以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである
0707人間七七四年
2014/11/01(土) 10:01:04.63ID:c/pmOizq池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
0708人間七七四年
2014/11/01(土) 10:01:58.96ID:c/pmOizq「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。
小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
0709人間七七四年
2014/11/01(土) 10:02:41.76ID:c/pmOizq3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43 時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
0710人間七七四年
2014/11/01(土) 12:37:58.73ID:9AN0Tts6誤記全く修正されてないぞ。
(後続させて、龍戦寺、龍泉寺、竜泉寺、自体、申しつけ、どうどうとさせて、書いてるから、すぐ軍ださなかった、、)
日本語とは思えない汚い文章だよね?自分で思わないの?
もしかして外国の人?
しかも、コピペ君の言いたいことって単純に
「秀吉の馬鹿>>707、アホ>>702、ウンコ>>704」
だよね。他の人は、戦国の再評価や検証をそれぞれ楽しく主張してるんだから、
コピペ君は、汚い文章と小学生の主張で妨害するのやめてくれないかな?
本気でお願い!
0711人間七七四年
2014/11/01(土) 16:00:16.21ID:9V4qhh9R家康に大敗したのは秀吉の中入り作戦があまりに稚拙すぎただけ
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申し付け
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍を堂々とさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀な遅行行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな事態にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてる事から
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったor遅行で山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取って平地部分を移動し龍泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに、それをしない。軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせた戦術を考案したのが無能としかいいようがない。
0712人間七七四年
2014/11/01(土) 18:20:01.44ID:ujzFXhEI0713人間七七四年
2014/11/01(土) 21:08:08.19ID:I5o4U00+これ三流大学でも不可やろ
つか中卒レベルw
0714あぼーん
NGNG0715人間七七四年
2014/11/01(土) 22:12:12.05ID:ujzFXhEI>池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申し付け
>小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
>秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍を堂々とさせているのがわかる
接続詞無し、主語不明確、文語口語混合、てにをは誤用、修正失敗、、
重要な最後の一文までも、文法崩壊
>敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせた戦術を考案したのが無能としかいいようがない。
秀吉云々より先に、コピペ君が如何に仕事ができず、会話もできず、使えないかが透けて見える文章。
0716人間七七四年
2014/11/01(土) 22:19:15.64ID:ujzFXhEI美しい日本語のすすめ (小学館101新書 51)
伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)
ふくしま式「本当の国語力」が身につく問題集〔小学生版〕
0717人間七七四年
2014/11/02(日) 08:05:34.06ID:vmyxVgmZ秀吉は、織田家を滅ぼさず小大名として残したから、簒奪とはいえイメージ
は徳川よりましだった。信長のみならず嫡男も死んでいるという美味しさ
ただし信忠が生きていても、秀吉の下剋上は避けられなかった可能性大。
右大臣は信長個人の官職であり、織田家の家職としては定着していなかった
ことが地味に大きい。朝廷の官職で秀吉に位負けしたらアウト。
いっぽう家康は政権交代では、より不利だった。豊臣が空気読んで臣従し、
大阪城も手放して小大名に甘んじていれば助かった可能性はある。だが
徳川政権下で浮かぶ瀬のない関ヶ原負け組層の拠り所になってしまい、
おまけに朝廷では摂家と同列の公家としての地位が確定していた(ただし
大阪戦争前に、右大臣は辞任している)
0718あぼーん
NGNG0719人間七七四年
2014/11/02(日) 12:48:38.69ID:OW2wchPV秀吉は織田家を滅ぼさず小大名として残しても、織田家が手中にしていた天下をネコババしたのだから、立派な簒奪。
簒奪したのに簒奪してないよう、イメージ操作したのが秀吉。
織田家を滅ぼさず小大名として残してな。
信忠が生きていてら、秀吉の下剋上は避けられてた可能性大。
というより、全くの不可能。
秀吉が主導権を取れた清洲会議自体が行われないし、信雄・信孝の兄弟間相克に依拠する織田家の内部抗争も起こらないのだからな。
秀吉が力業で下克上しようとすれば、秀吉は第二の明智光秀として孤立し、信忠率いる織田軍に抹殺させるだけ。
いっぽう家康は政権交代では、より有利だった。
周辺は雑魚ばっかで、徳川に比肩する勢力は皆無だからな。
0720人間七七四年
2014/11/03(月) 01:44:02.76ID:KAKTuuCg成り上がり戦国大名の常套手段じゃん
秀吉は特別なことはしてない
0721人間七七四年
2014/11/03(月) 07:46:05.61ID:/WyBVKu5毛利元就や斎藤道三は主家を滅亡、追放まで追い込んでるし
津軽は主家と義絶して禍根を生みまくってた。
細川も最終的には三好に粛清追放されてるし
三法師こと織田秀信が豊臣政権で残ったのは奇跡に近い
0722人間七七四年
2014/11/03(月) 07:50:30.87ID:/WyBVKu5細川にしろ、土岐にしろ、下克上を嫌い、それに抵抗しようとした
かたや織田秀信は、豊臣の時世が決まるとさっさと臣従して秀吉政権の重鎮に収まってる
石高にして13万石、官位にして正三位というのは秀吉なりの誠意だろう。
天下の簒奪は許しても、織田の簒奪は防いだというのは、なにげに秀信の功績といっていい
0723人間七七四年
2014/11/03(月) 20:55:04.77ID:KAKTuuCg毛利と大内を主従とするのはいささか疑問がある。
確かに傘下には入ったが、元々は独立国人領主。時に尼子に鞍替えもしてる。
道三も三好も最終的には「追放」までて殺してはいないことに注目。
権力を掌握するまでは必要だったわけで、不必要になっても殺害はしてない。
信長も尾張統一に斯波義銀を利用、天下(畿内)掌握に足利義昭を利用して、
最終的には2人共信長を討伐しようとして逆に追放された。建前では信長に非はない。
津軽とか松永みたいなのがむしろ特異だよ。
もっとも津軽は乗っ取りじゃなくて分国化だが
0724人間七七四年
2014/11/05(水) 03:21:37.29ID:hnFIobk9秀吉に旧主家である織田家を簒奪するメリットがないわけで
仮に不満を持ったとしても秀信は二歳で家督相続して二十歳で関が原だから
何かしようとしても何もできかったんじゃないかと
0725人間七七四年
2014/11/05(水) 05:28:36.88ID:AmQsrdJnテメーがやってきたことをやられると思うわな
0726人間七七四年
2014/11/05(水) 12:58:36.65ID:D8nwvYx0実際にはあんな兵力差で戦闘が成立するのかね。ほぼ秒殺じゃねぇのか?
0727人間七七四年
2014/11/05(水) 18:38:27.38ID:wG/NflWx隣の屋敷の村井が騒ぎを聞いて起きた時にはもう囲まれて手出しできなかったと言うから分殺くらいだろ
0728人間七七四年
2014/11/05(水) 21:53:36.53ID:6R2kjojm漫画とかドラマのシーンの感想は、
大河板とかの方がみんな共感してくれると思うんだよね。
ここ(戦国板)だと反応冷たくね?
0729人間七七四年
2014/11/05(水) 21:54:48.67ID:6R2kjojm漫画とかドラマのシーンの感想は、
大河板とかの方がみんな共感してくれると思うんだよね。
ここ(戦国板)だと反応冷たくね?
0730人間七七四年
2014/11/05(水) 21:58:55.19ID:6R2kjojm0731人間七七四年
2014/11/15(土) 05:26:30.96ID:6/k8O5IN一応明智方の武将も鉄砲で負傷したなんて話があるけどこれは創作かな
信忠の方はどうだろう
二条御所に2000程の兵隊が待機してたとしたら、亀山の明智軍約1万3千の半分7000弱が信忠を攻撃して2:7の兵力差
圧倒的に不利とは言え戦闘にならないってことはないかも
0732人間七七四年
2014/11/15(土) 07:21:32.91ID:wEPAKd2l実はこの竹槍が出現したのは明治時代、
新政府の地租改正や兵役義務に反対する農村の「一揆」の中で用いられたものでした。
https://twitter.com/1059kanri/status/532946071580717056
光秀を討ち取ったのは土民の鉄砲だよな、やっぱ。
0734人間七七四年
2014/11/15(土) 11:53:55.73ID:bbEnFNG7やっぱり一方的どころか完璧な殲滅方
だったとは思うよ。
二条御所で、少しは抵抗した、みたいに
書かれるのも、どうしようもない状態で
がんばった、ってぐらいのことだろう。
0735人間七七四年
2014/11/16(日) 02:06:36.87ID:tAn/qVEt城攻めだから短時間だろうな
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