4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである