【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る7
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0437人間七七四年
2014/10/03(金) 07:52:53.84ID:fBXbWGZ6それに小牧長久手のある1584年頃だともう秀吉はとっくの昔に織田家の家臣の直轄家臣化に成功してる
清洲会議後秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる
最も身分の高かった池田や丹羽ですら 小牧長久手より2年も前の清洲会議時点で 秀吉に対して領土に介入されたり 転封命令出されたり 人質召集されたり
自分の失態を叱責されたりしてるほど はっきりと上下関係があったのに 秀吉の配下は信服してないとかないわ
羽柴軍は本能寺以前の直轄地だけでも200万石前後あるので ほとんど直轄軍しかいないよ それに本能寺後は旧織田家の諸侯から人質召集した上で 転封命令まで出したり
領土の中の問題に介入したり、失態を叱責したり あるいは戦争中は直接逐一細かく命令出したり 皆を直轄軍として動かしてるね
三鬼清一郎氏によれば 秀吉の陣立書の導入により
それまでの一揆的秩序の軍団が初めて上下関係や統制の存在する公儀の軍になったとされてる
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