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信長包囲網はなぜ失敗したの?

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0001人間七七四年2014/05/28(水) 22:59:01.77ID:IYzdhDyE
誰が悪かったんでしょうか。
0045人間七七四年2014/06/01(日) 17:08:38.64ID:EScj/et4
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http://tn.en.fishki.net/26/upload/en/201406/01/1273947/50z5v237.jpg
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0046人間七七四年2014/06/01(日) 22:11:14.68ID:Mwr8+BQH
>>43
そら信玄と勝頼が糞みたいに無能だったからだろ
強かったのは武田の家臣だけというオチ
0047人間七七四年2014/06/01(日) 22:42:34.15ID:p30623i3
>>44
恒興が離反ってソースは?
0048人間七七四年2014/06/02(月) 02:55:28.44ID:52Zl5EHB
本来であれば、一番頑張るべき存在だった朝倉のやる気の無さが悪い
0049人間七七四年2014/06/02(月) 07:54:56.42ID:MuIiJz1I
蒲生内応の話の中で、織田の大身が2.3内応してるとも書いており、
事実、尾張犬山城の池田の他、美濃の斎藤や遠藤が武田に内応していた。
信玄が東美濃から岐阜を襲う計画をしていた時に、
信長滅亡の時がきたと言っていたのはこれらの理由から。
また長島も岐阜近くまで勢力圏を拡げ、岐阜城近くに日根野が砦を作ってたし、
山城の山崎の畿内全域の油流通を支配していた団体も信玄上洛は確実とみて、
武田から安堵状を出してくれるように乞うてた。
0050人間七七四年2014/06/02(月) 08:11:06.67ID:pQkro7ff
中世日本最大規模の油座であった大山崎油座の情報諜報能力とその意向と影響力・経済力は高く
山崎の合戦で明智が守ろうとした山崎の地は戦後に、秀吉が築城し大坂城ができるまでここを根拠地に政戦略を策していたほど。

その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。


二股城はあと3日中には落とせる予定です。
尾張の熱田からやってきた者が申すごとく
朝倉軍と信長が江北で戦い、尾張・美濃の者が数多討たれたとのことです。
これによって織田軍では大身の2人3人と越前への内通をしております。
これは自然なことでしょう。なお、事実である証明の使者を届けるので重ねてお聞きください。
徳川の田原表を水軍で焼き討ちしました。
あなたが出陣するときは何事でも秋山に相談ください。
こちらには御気遣いなく滞在してくださるのはもっともです。
息子の信昌殿や源次郎殿やその他の親類の歴々の方々が
こちらに在陣してくださる話がまとまり喜んでいます。
追伸ですが、こちらに蒲生殿が朝倉殿へ同意なされたとのこと。
この上はそちらにこの使者を届けさせますので、待っていてください。
山縣→奥平貞能宛て書状。

蒲生の織田からの離反の契機は元亀2年10月あたりからだな。
11/3付で穴山→蒲生賢秀宛に書状を出してるから。
その内容は信長には秘密裏に蒲生が馬が欲しいと言ってきたことに対する返礼で、
蒲生の望み通りの乗り心地の栗毛の馬を馳走してる。
また関東と越後と戦っているが伊豆と武蔵の過半が
信玄の本意になるのは疑いないと書いている点は、
11/7の書状で信玄が書いている内容と同じで、
10/3に氏康が死んだことを知った上で、再度の小田原攻撃を宣言し、
氏政を恫喝していたので12/17には北条が武田との和睦を受託していた。
またこの書状には文書には書けないことを柱蔵司に演説させるとも書いていて
武田の威勢に驚いた蒲生が、武田への急接近を始めている証拠となっている。
0051人間七七四年2014/06/02(月) 08:13:21.09ID:pQkro7ff
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。
0052人間七七四年2014/06/02(月) 08:14:25.00ID:pQkro7ff
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
0053人間七七四年2014/06/02(月) 08:15:59.09ID:pQkro7ff
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで?と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。 公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。

信長は援軍として西に兵力派兵する余裕がまったく無かったから、勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、8月越前一向衆を壊滅させてから、光秀に丹波侵攻を開始させてる。
まぁ波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが(信長が上洛した時に軍を播磨や但馬へ派兵して攻略していた)
出雲や伯耆の安定の為に、尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから露骨に毛利に開戦したく無かった。信長は毛利に対して内心激怒してたが土下座外交を続けていた。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに丹波国衆と呼応して織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
0054人間七七四年2014/06/02(月) 08:16:56.57ID:pQkro7ff
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所

比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。

蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。

元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。

その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。
0055人間七七四年2014/06/02(月) 08:20:45.44ID:pQkro7ff
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞と織田軍の大和衆が恐れていたので
戦国最強だったのは間違いないところで
その武遺武徳ゆえに江戸時代には将軍家の軍法として甲州流
それに対して御三家や福井藩などは越後流を研鑽してた。
しかし織田流なんてもんは一切生まれなかったのは
それを唱えたところで誰も学ぼうなんて気持ちが起きなかったからだろう。

織田軍なんて、惣村ですら一揆を組んで、織田に反抗していたほどザコで
誰も恐れていた記述が存在しないしな。
そもそも長篠の戦いで武田が弱過ぎるなら、そのまま武田領へ侵攻すりゃあいいけど
謙信に武田を攻めない理由を追求されて、いいわけ三昧の態度をだして
あまりのヘタレぶりに、謙信から織田とは絶交!とか言われて
能登や加賀を奪われたヘタレ信長だし
近甲同盟交渉を長引かせて、ひたすら武田の鋭鋒から逃げ回ってただけだし。


信長→尾張南西部を伊勢長島一揆に奪われ、
美濃北部と東部は信玄の調略で内応され、
近江は街道すら寸断されまくり、
実質、80万石前後まで低下。
兵糧足らず自暴自棄のあまり京で放火虐殺略奪をやり始めキチガイ化。

信玄→120万石ぐらいで朝敵信長征伐戦を開始。
一年間もの間、戦をせず内政に力を入れており家中は充実。


天正2年は武田家最盛期といってよく
高天神城を攻略し、さらに浜松城を燃やし、掛川城に付け城を築いて
家康に王手をかけていた。
天正3年は5/21長篠の野戦で勝利したものの陣城を攻めあぐね撤退で噛み付かれ痛みわけ。
7/19に勝頼が岩村へ援軍を派遣すると書状を出すが、
27日に家康が駿河まで攻め入る報が入ったので、堅城の岩村より対家康を優先。
小山城の後詰めで大井川まで出陣したのが9/7でこの後、高天神へ入城し、
21日に小山城在番衆へ感状を出してる。
11月?日岩村への援軍として出陣。
岩村開城日了解日も?だが、11/21に秋山が挨拶にきた21日に捕縛され26日に磔。
激怒した勝頼が12/16年明けに興亡の一戦をすることを指令。
この時より勝頼は獅子朱印状を使用するようになる。
信長は武田本隊による岩村城救援の報を聞くと、
急いで岩村側へ和睦したと詐術を弄して秋山を殺した。

いやいや織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。

烏合の衆か組織化された衆かで質の違いが顕在化した結果でしょ。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで数と質を指定されてない織田軍
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していて
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込むものであり、軍隊として高度に機能させるに必要不可欠だし、
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士と呼ばれ戦う前から怯えさせる精強さ。
0056人間七七四年2014/06/02(月) 08:21:26.93ID:pQkro7ff
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊しその影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)再度崩壊するから織田は詰むよ。
0057人間七七四年2014/06/02(月) 10:23:49.25ID:Ach1ZqnB
>>48
いやいや敵前逃亡して本国帰った武田が一番悪いから
他の連中は皆武田のためにお膳立てしてやったのに
病気でトンズラとか笑い話にもならん
勝頼が総大将なら戦闘続行できたのに
義信の二の舞を恐れて権力を与えなかった信玄が100%悪い
0058人間七七四年2014/06/02(月) 11:14:24.11ID:se4mQaPF
「朝倉義景と武田勝頼が無能だった」で終わっちゃうのか
0059人間七七四年2014/06/02(月) 14:40:11.96ID:mPDslQQ4
一番無能なのは毛利。
永禄末期から天正7年頃まで何回も織田を討つチャンスがあったが
毛利がバカすぎて兵を出さなかったりしてて何回も天が与えたチャンスを悉く潰してる。
0060人間七七四年2014/06/02(月) 14:42:54.78ID:go9n/6C8
包囲網と呼べるような横の繋がりが弱かったからにつきる。
武田は武田の都合、朝倉は朝倉の都合で勝手に動いただけ。
0061人間七七四年2014/06/02(月) 22:42:57.22ID:wh5Itu8V
だがによる各勢力の最後
足利義昭
信長が乞食兵1万を率いて岐阜からワープしてくる。
東には山岡氏と六角氏南には松永氏・西には三好氏・北には内藤氏と周囲を完全に
包囲されていたが、堅城の二条城から金銀兵糧すべてを使ってボロ城の槇島城に
移ったからか1万の兵がいたにもかかわらず速攻で土下座降伏した。

朝倉義景
包囲されている虎御前山砦に信長が乞食兵1万とともにワープしてくる。
北を朝倉2.5万・西を浅井3千・南と東を六角2万と蒲生に包囲されているにもかかわらず
なぜか山本山城の阿閉氏が信長に降伏。
 若狭守護は知らないうちに消滅したので将軍直轄地になっていた若狭で
なぜか反朝倉で騒乱が起こりその鎮圧に全軍を向かわせたところ背後から
奇襲を受け2.5万が一瞬に壊滅朝倉滅亡。浅井・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。

浅井
取って返してきた信長に瞬殺。江北一揆・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。
0062人間七七四年2014/06/03(火) 00:45:49.50ID:C+kPqNu8
その見方にたった論文は?
0063人間七七四年2014/06/03(火) 00:46:13.46ID:hBVSqy3e
>>61
朝倉は「信長に勝ったのに信長が負けた勢いで突っ込んできたので滅亡」の方が面白いから変更して
0064人間七七四年2014/06/03(火) 01:11:14.31ID:tAbCRGZ9
>>61
ま、まさかこれは瞬間物質転送機?…ハッ!
わかったぞ、織田信長はデスラーだったんだよ!!

ΩΩΩナ、ナンダッテー!
0065人間七七四年2014/06/03(火) 10:04:48.25ID:BOZPcN8A
菅沼遼太理論だと織田軍1万は信長含めてサイヤ人だからな
ワープしたり数倍の敵を瞬殺するくらい朝飯前
信玄が来ても勝てない
0066人間七七四年2014/06/03(火) 12:09:07.53ID:5dZqdVxJ
そうじゃなくて彼の理論は矛盾が面白いんだよ
朝鮮刀と日本刀のコピペみたいにね
0067人間七七四年2014/06/03(火) 12:47:44.28ID:tAbCRGZ9
>>66
そのコピペ知らない。教えてください。
0068人間七七四年2014/06/03(火) 17:18:28.90ID:/FiCmgNU
>>67
自分で調べろ。すぐ出てくる
0069人間七七四年2014/06/03(火) 20:28:50.40ID:zoS1Sgmy
だがによる各勢力の最後
六角
知らないうちに消滅

北畠
朝敵なのになぜか蘭奢待の切り取りが許されるという事が起こり
信雄を人質取っていたにもかかわらずびっくりして織田に降伏した。

長島一向一揆
第二次で現在の海津市いったいまで勢力を広げ岐阜の足元まで迫るも
伊勢湾を制圧している武田水軍に徹底的に焼き討ち・虐殺され信長に占領された。

三好三人衆・義継・松永
完璧な連携ができていたため義昭が倒れるとドミノ倒しのように倒れたた。
0070人間七七四年2014/06/03(火) 21:15:41.30ID:+Mno1EBF
>>69
六角は「近江を奪還したにも関わらず信玄が死んだせいで滅亡」ってとこだなw
0071人間七七四年2014/06/03(火) 22:11:46.73ID:LTjITYtk
>武田水軍に徹底的に焼き討ち・虐殺され
なにやってんだ武田wwwwww
0072人間七七四年2014/06/04(水) 12:15:04.37ID:C43/4BGe
武田
6万の兵力がありながら1万の乞食兵しか持てない信長を攻めず
道中寄り道していたらな信玄が急死して撤退。その後勝頼は長篠に
なぜか6千の兵しか率いてこず、織田徳川をボコボコにしたが夕暮れで
戦争止めようとしたところ反撃にあい被害甚大。温存した5万4千の兵は
知らない間に消滅して、北条が無傷で済んだ浅間山噴火で遠く甲斐が被害甚大、混乱の中滅亡


これも追加で
0073人間七七四年2014/06/04(水) 14:04:07.39ID:PUEXisA7
どうしてそうなった・・・
0074人間七七四年2014/06/04(水) 14:36:37.19ID:yZSMS3UK
キリシタンの暗躍
0075人間七七四年2014/06/04(水) 14:55:19.27ID:QtqHaa4Z
なにこの歴史()面白い
だがwikiにまとめてやれよwwww
0076人間七七四年2014/06/04(水) 15:48:53.82ID:Vt1t7Oo8
だがを知ってる人間ならみんな知ってるし、コロコロ変わるからまとめてもしょうがない
0077人間七七四年2014/06/04(水) 19:07:14.09ID:gmvG8u8L
なんで武田は信玄が死んだくらいで軍を引き上げたの?
織田は滅亡寸前まで追い込まれてたんだろ?
そのまま軍を進めてりゃ良かったのに。

武田が引き上げたおかげで武田が参戦するまで頑張って信長を追い込んでた義昭は追放、朝倉・浅井は滅ぼされ包囲網は瓦解。
半年も経たずに…
0078人間七七四年2014/06/04(水) 20:01:04.21ID:gUjnC2qU
甲斐府中に戻り安堵状の発給作業など家中掌握と相続儀式があったから動けない。
0079人間七七四年2014/06/04(水) 20:31:42.02ID:PUEXisA7
戦時中に安堵状の発給や相続儀式ですか
0080人間七七四年2014/06/04(水) 20:55:24.41ID:pYoCfjBr
現代ですら遺産相続を巡って兄弟が憎みあって裁判沙汰になるのに、
その裁判をやる幕府すら崩壊してんだから、武力あるヤクザ親族の統制や、
新当主側近団と旧当主側近団の世代交代で下手打つわけにいかねーんだよ。
お前の父親が死んだのと同じに考えんなよ低脳。
0081人間七七四年2014/06/04(水) 21:51:03.21ID:C43/4BGe
最初っから勝頼が継いだ状態で軍を起こさなかった信玄が原因だわな
義信事件にビビって勝頼に強大な権力を与えられなかった
0082人間七七四年2014/06/04(水) 22:44:30.39ID:qCSRN+2q
>>77
封建制を理解してから書き込もうな
総大将が死んで撤退しなかった例なんて何処にもないから
0083人間七七四年2014/06/04(水) 23:30:26.01ID:zDykTv9p
よほど高度に完成されたシステムでない限り、権力の空白が生じたら戦争を続けることはできないね
0084人間七七四年2014/06/04(水) 23:41:24.65ID:SbLxEUzC
80
上野は徐々に侵食した武田だが、安堵やらは箕輪落としたあたりでまとめて発給してる
駿河遠江も落ち着いてからまとめて発給
つまり、有る程度落ち着いてからでも十分間に合うしそういう実績がある
そんなことも知らないで人を煽る精神性は感心しないな
まるで菅沼じゃないか

82
総大将の死亡撤退と封建制は関係無いな
総大将が常に主従性の上に立つものとは限らないからな
0085人間七七四年2014/06/05(木) 00:31:56.73ID:pQbxvjBy
>>84
他人をお前と一緒にするな菅沼
0086人間七七四年2014/06/05(木) 08:39:19.92ID:OYcfjR5g
信玄が隠居し勝頼の代になったと公言した時点で、
信玄が発給した安堵状は役に立たなくなる。
甲相同盟ですら、新たに勝頼と継続確認をしたくらいだ。
外交の取次役の変更を含めて再構築される。
勝頼な場合、信玄が生きていて、
その信玄が後見役の名の元に実権を持つ傀儡政権ではないのだから、
刷新改革が落ち着くまで勝頼は動けない。
だからこそ援軍を出さない姿をみて信玄が死んだと察したのが家康だし。
0087人間七七四年2014/06/05(木) 09:52:49.27ID:B22hWKkk
陪臣やら小さな家臣にまで大名として全て発給してたわけじゃないぞ?
郡代あたりの安堵状で納得する奴もいたし、信玄のが欲しいという奴もいた
ただ後者でもお願いだからな?
戦でクソ忙しい時にまで我を通すようなkyじゃ無いんだよね
0088人間七七四年2014/06/05(木) 13:59:17.94ID:AV3b5unw
つっかそういう体制はさっさとしておくもんだけどな本来は
甲相同盟だって最初っから勝頼の名前で結んでおけば再確認しなくて済むし
義信が廃嫡された時点で後継者を早急に決めるべきだったのだから
その段階で既にやっておくべきだった話
結局信玄は義信事件に対して完全にトラウマを持っていて
いつ自分が、かつて信虎を無理やり追放させたように
後継者となるべき存在の人間に下剋上されるかという恐怖に怯えていて
ついに信玄存命の間は他の人間に大きな権力を与えられないという人間不信に陥っていた
0089人間七七四年2014/06/05(木) 16:42:13.17ID:71ROXN4s
普通は早めに隠居とかして権力を少しずつ移譲していくもんな
後継者が本当に年少とかなら仕方が無いんだが信玄-勝頼はその例に当たらないし
0090人間七七四年2014/06/05(木) 21:40:33.33ID:7aFe9f/+
>>89
義信廃嫡してから何年もたってるもんな。
それなのに根回し足らな杉。もう自分50過ぎだってのに。
実権はともかく家督はあらかじめ譲っとくべき。
0091人間七七四年2014/06/06(金) 01:15:06.48ID:M2gKAwcK
信玄としては、まだ反・信玄でくすぶってる家臣がいる(かもしれない)と思ってたんだろうな
0092人間七七四年2014/06/06(金) 03:19:41.64ID:HbLPAadm
包囲網なんてんな簡単に成功するもんじゃねーし
現代だって中国封じ込めようとしてできてねーのと同じ
戦前のABCD包囲網はバカ日本が勝手に網に入ったせいだからなw
0093人間七七四年2014/06/06(金) 10:44:13.71ID:nfNzrA70
堅田衆が信長に着いたのが大きいな
あれで包囲は不可能になり、京都も
信長の影響下に置かれた
0094人間七七四年2014/06/06(金) 17:53:54.99ID:6leX4n2H
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/72.html

連投埋め立て事件とは、2014年5月下旬から発生した
だがスレを含むスレを巡る埋め立て工作の事件の総称
アスペルガーだがが住民に煽られ、だがスレなどを埋め立てた。
5月27日〜5月31日までの5日間に 約950のレス を投下する
発狂ぶりがスレ住民の話題となった
0095人間七七四年2014/06/07(土) 14:19:13.12ID:cZZe1BDr
相変わらず根拠ゼロの願望妄想がソースの織田ちょんのレスwww
0096人間七七四年2014/06/07(土) 15:51:37.76ID:w0kxMu2z
菅沼遼太wwwwwwww
0097人間七七四年2014/06/07(土) 18:08:12.88ID:8pcSIwN9
だがチョ〜ン
0098人間七七四年2014/06/12(木) 13:12:01.05ID:oR+6AH9e
>>84
封建制じゃなければ総大将が死んだくらいで即時撤退はしないだろう
朝鮮戦争中にアメリカの大統領が死んだとして即時撤退はしなかったと思うぜ
0099人間七七四年2014/06/12(木) 13:48:38.36ID:D/QF6tfg
太平洋戦争中にルーズベルト死んだけどなんも影響なかったしな。
0100人間七七四年2014/06/12(木) 14:01:35.61ID:fx8Oimyq
>>98-99
それはアメリカ合衆国の政治制度が高度にシステム化されてるからで、封建制かどうかと関係が無い
0101人間七七四年2014/06/12(木) 18:56:52.33ID:9pq0/oyO
菅沼遼太は嘘吐きなんだからロムってろ
0102人間七七四年2014/06/12(木) 19:57:33.06ID:xVtfTFYX
惣領制だから惣領が死んだら、
統制がとれないから帰る。
0103人間七七四年2014/06/12(木) 22:12:41.22ID:LLBbHyOl
>>101
これについちゃだがの方が正しいよ。
0104人間七七四年2014/06/13(金) 11:49:45.87ID:vzJmMQ2w
>>99
講話条件が緩和され本土決戦が回避された
ルーズベルトの死によって和平派が勢力を拡大させたから
0105人間七七四年2014/06/14(土) 20:01:46.52ID:mJU+cCj+
和平どころか、むしろ最悪なことに
トルーマンになったから原爆落とされたんだけどな。
ルーズヴェルトなら原爆落としてなかったと言われてるし。

大統領が死んでも副大統領がすぐに大統領職を継げるから、
権力の空白は起きないし、選挙の信認を受けた議会があるから大統領への取次が変わるわけでも、
大統領に領地安堵の発給を受ける必要もなければ、
相続を認めてもらう必要もない。
0106人間七七四年2014/06/24(火) 22:04:32.18ID:wyByXDxC
清原真衡が陣中で急死したため
清衡家衡は助かったよね。
0107バカは氏んでも名乗らない2014/06/24(火) 22:08:27.19ID:JzqWdYBz
清原はクスリやってたんだろお前?
0108人間七七四年2014/06/26(木) 19:37:06.57ID:N873KyQt
菅沼遼太  男

所在

神奈川県

職業

正義のヒーロー「スガヌマン」

活動内容

悪の軍団オダチューの退治
掲示板で啓蒙活動(闇に隠蔽された真の歴史(だが史観)の伝授)
麻生太郎氏をはじめ日本の中枢にいる保守派政治家をバッシング
2ちゃんねる運営を批判(別名義「うんこ」を使用)



これで菅沼君にも職歴が増えたよ、やったね
0109人間七七四年2014/06/26(木) 23:52:01.09ID:U8VYYSN4
>>105
つーかルーズヴェルトとその陣営はトルーマンにヤルタなど外交の引き継ぎろくにしてないんだよ
だからトルーマンは外交的にソ連にしてやられてる
その挽回もあっての原爆投下であり、元を辿れば無能ルーズヴェルト陣営のせいと言えるんだわ
勿論、引継ぎがスムーズに行われなかったのはコミンテルンのスパイ工作の賜物
ちなみにルーズヴェルトなら原爆落とされなかった「かも」しれないが
晩年はスターリンに良い様にされてるから北海道の分割とか賛成したかもしれんぞ
0110人間七七四年2014/06/29(日) 00:08:13.28ID:mrRIvHKr
諸悪の根源はヘタレ朝倉
0111人間七七四年2014/06/29(日) 00:23:31.72ID:oFtx0Xct
対信長包囲網の主力と言っていいほど戦った朝倉が言われる筋合いの話ではないわなあ。
もし>>110が最後の方にチョロっとだけ参加した武田だとしたら、な。
0112人間七七四年2014/06/29(日) 00:30:38.72ID:11bhii2Z
当時も菅沼みたいな奴がいて、そこら中に信玄を絶賛するコピペ立看板置きまくるもんだから、ウンザリして朝倉が帰っちゃったんだよ。
0113人間七七四年2014/06/29(日) 16:26:42.57ID:/A1mjJHy
コピペは1日1回まで。
0114人間七七四年2014/06/30(月) 22:54:29.58ID:JCEt6Xga
けど朝倉が三方ケ原の後動いてくれてたら信長滅ぼせたかもしれんだろ
0115人間七七四年2014/06/30(月) 23:41:39.49ID:bdv6ifaC
そもそも織田包囲網ってせいぜい90万石程度しかないだろ。
武田はほとんど徳川が抑えてたし、背後に上杉もいるから抑えの兵力も置いてた。
浅井・朝倉・本願寺・長島一揆じゃ100万石も行かないんじゃね。
300万石の織田が90万石の包囲網相手に戦って
苦戦していたが、
そのうち包囲網は信玄の死や、物資不足や自壊などが起きて、織田が優勢になったというだけの
当たり前の現象。
0116人間七七四年2014/07/01(火) 00:14:11.47ID:qYUedJmL
機内・四国の三好勢や足利派は無視なんだ。

しかし篠原長房や足利勢によって機内から完全に追い出され、
贔屓目に見ても、美濃、尾張、北伊勢くらいしか統治できてなく、
近江も失いかけて危なかったのに300万石もあるなんてどういう計算なんだろう。
0117人間七七四年2014/07/01(火) 00:58:34.76ID:9pNJJvXU
信長の当時の領国は尾張・美濃・伊勢の大部分・南近江・山城・河内・摂津の大部分・大和・丹波(帰属)・播磨(帰属)・但馬(帰属)
山城や河内や丹波や播磨但馬は完全に従ってたわけではないが
それでも300万石くらいは軽くいくだろ。
北近江では浅井が抗戦しているが
浅井の支配拠点なんてせいぜい12万石程度だろうし
0118人間七七四年2014/07/01(火) 01:05:02.13ID:mGy9ufO9
畿内では若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
0119人間七七四年2014/07/01(火) 01:12:53.56ID:bO5qr2K2
三好は後背むしして全軍で信長ぬ突撃かますとでも?w
0120人間七七四年2014/07/01(火) 05:22:24.02ID:Obn+5DJH
三好には後背あまり関係ないんじゃないかな。本拠地は阿波だし渡海ルートは本願寺が味方であれば大丈夫
ただ朝倉と同様、そんな行動起こすほど武田を信じていたのかという根本的な問題がある
武田が岐阜まで取れるような情勢になれば乗るかも。要するに様子見だよ

石高での比較は無意味だね。本願寺の兵力は石高で測れないから
包囲網なんて結局、その中で1番強い勢力の行動力次第である
太平洋戦争のABCDもアメリカ動かなけりゃ意味なかったのと同じ

元亀の武田、元正の上杉も撤退した時点でオシマイなのだ
0121人間七七四年2014/07/01(火) 10:12:36.55ID:mbWVDaEl
そもそも三好は権力闘争でそれどころじゃない
>>116の篠原長房もこの年に殺されている。
当主であった三好義継が攻められているときに、
四国側の救援が乏しい時点で、統一行動は不可能に近かった。

>>115
というか、戦力だけなら織田方が圧倒的有利なので、下策を打たなければ勝てる計算だった。
包囲網側は戦力が分散しており、総合的な国力でも織田には及ばないわけで
織田に勝つには、戦勝に乗って一気に織田を攻め続けて、速攻で織田を倒すしか道はなかった。
だから包囲網側は史実でも、とにかく武田信玄が来るぞ来るぞとせっつき、なんとか短期決戦に持ち込もうとしている。

ところが、織田方からすれば、防備に徹していれば相手は勝手に音を上げてくれるわけで、
守りの戦をし続ければ勝手に包囲網側が自壊する計算。所詮包囲網側は勢いに任せて我武者羅に突っ込んでるだけだしな。
史実でも天正元年の5月頃には包囲網側の空元気もつきて大勢が決し、同年中に足利、浅井、朝倉、三好と多くの勢力が信長の餌食になってる。
0122人間七七四年2014/07/01(火) 10:48:58.15ID:fED1JXj9
>>120
本願寺の支配拠点は摂津の中でもほんの4分の1程度。
他は荒木らが支配する織田方拠点。
本願寺の動員兵力が国力では測れないとかそんな妄想には興味ない。
実際本願寺は外征能力が全くなく、毛利らの支援なしにはすぐ物資も尽きるのでろくに戦えてない。
0123人間七七四年2014/07/01(火) 10:51:23.37ID:N5+087Wa
包囲網勢はよく見て100万石いくかいかないかだよ。
浅井なんて北近江の2郡程度しか支配してない10万石程度だし
織田は直轄領以外にも
畿内の織田方諸侯含めれば350万石程度はいく。
武田は徳川が抑えてたからほとんど織田領にはせめよせて来れなかったし。
0124人間七七四年2014/07/01(火) 10:54:02.81ID:N5+087Wa
織田350万石と包囲網90万石の戦いってことだな
0125人間七七四年2014/07/01(火) 10:59:43.74ID:B3CBo8NE
三好についても後ろから長宗我部が頑張ってたし無理だな
第一次の頃は上杉も味方だし、毛利との関係も悪くない
0126人間七七四年2014/07/01(火) 18:21:45.14ID:26oGHg/5
>>121に付け加えるとこの時期の三好は毛利と東瀬戸内の支配圏巡って争っている時期で
こっちの方が信長より差し迫った問題
0127人間七七四年2014/07/01(火) 19:52:57.45ID:Obn+5DJH
>>122
妄想も糞も本願寺の兵力は石高関係ないからな。大名じゃねーし
外征能力なんかあるわけない、というかする気も必要も名分もない
ただ各地にいる門徒が暴れてるだけだから
その暴れてるだけの門徒相手に随分殺されちゃった織田兵
0128人間七七四年2014/07/01(火) 21:29:59.50ID:bp7Y4klo
>>127
本願寺って石山だけの事じゃないの?
石山以外の一揆勢を本願寺とするなら、
当然長島一向一揆越前一向一揆などは、包囲網から除外して「本願寺」として計上するんだから
やっぱり>>115のようになるだけ。
外征能力のない勢力なんて、放置してれば問題ないから全く脅威ではないよ。
他の敵から片付けて、後回しにしてればいいだけだし
物資も毛利などに依存してるだけだから、包囲しいて、他勢力の介入を防げば自然に絶ち枯れる。
0129人間七七四年2014/07/01(火) 23:10:31.84ID:EM0jzXlG
三好時代を見てると外征しないわけではないが、信長相手では位置的に無理だな
あと随分殺されたとかいうのは捏造だね
0130人間七七四年2014/07/02(水) 02:05:20.48ID:x1ADMcW5
横から失敬させてもらいますが、
>>121
織田が戦力で圧倒的優位とか一体どこの世界の話ですか…?
三五〇万石とか言ってますけど、史実でも当時はそんなにないはずですが…。
っていうか、たった二年あるかないかくらい前の志賀陣で
土下座降伏宣言出してる信長が楽勝とか、マジでどこの世界の話なのでしょうか…?
>>129
本願寺には随分と殺されてるはずですが。
長島には重臣も一族も随分殺されてますし、大阪本願寺にも随分武将や兵が殺されてますが。
北陸一揆勢にも随分やられてますし、一体どこが捏造とかいう話なのでしょうか?
ご説明願いたいのですが。
0131人間七七四年2014/07/02(水) 02:08:27.08ID:x1ADMcW5
>>128
本願寺に外征能力ないとかどこの世界の話なのでしょうか。
普通に北陸一揆も長島も外征してるのですが。
脅威じゃないとか言ってるのは、「脅威じゃないとしたい」貴女だけでは
ないでしょうか。
ついでに>>115はとてもまともな計上とは言えないと思います。
0132人間七七四年2014/07/02(水) 05:53:54.03ID:wEvPeLK6
その「外征能力のない勢力」とやらに織田兵は何度も敗退してるからね。
一族含め随分殺されてる。
それと俺も基本的に「外征」するとまではいかない存在だとは思うけど、確証はないよね。
人間が集団で固まれば暴走もありえる。絶対はないんだよ。
攻めてこないから放置してても問題ない、なんて戦後日本教育の弊害にかかっておいでと見た。
0133人間七七四年2014/07/02(水) 06:03:13.85ID:wEvPeLK6
もう1つ、戦国時代の国力は石高では計れないもの
徳川幕府の生み出した石高制の理念を戦国に持ち込んでも意味ない
例えば上杉。現代では日本有数の米どころであり、ゲーム等でも越後はそれが反映されてる
だが16世紀時点の越後は石高全然ないからな
上杉・・いや長尾家の収入源は海運業

便宜的に使ってるとしても350vs90とか根拠のない比較はよした方がいい
0134人間七七四年2014/07/02(水) 09:32:32.94ID:aeyB7ZJy
>>133
石高制は太閤検地時代の検地によって計測したものだが
それまでの収入体系と
それ以降の収入体系で、収入の中身そのものが変化したという事はない。
ちなみに石高以外の副収入含めるなら
堺や尾張の津島港など、ダントツの経済力を有するので石高以上にその実質は富裕だと思われる。
0135人間七七四年2014/07/02(水) 09:35:26.45ID:B95TQIYv
>>133
戦国時代の日本の収入は米+副収入なので
基本は石高で測るもの。
石高で出てる国力にグダグダケチをつけて、妄想で国力を測ろうとか、ただの馬鹿。
上杉領国は元々非常に貧しく
米どころになったのは、江戸中期以降の話。
これは上杉氏軍役帳や、小田原合戦時の陣立書での上杉軍の動員兵力の少なさからわかる。
0136人間七七四年2014/07/02(水) 09:37:55.18ID:aeyB7ZJy
>>133
石高があてにならんとか相当馬鹿だな。
だったら何を元に各国の国力や動員能力を語るんだよアホ。
織田の敵対勢力は実は強大だったとか
織田家は大して国力が強大じゃなかったとか
お前の都合いい妄想なんぞ知らん。
太閤検地での石高が戦国期の国力を語る上での唯一の指標なんだから
それを元に測るのが当たり前。
0137人間七七四年2014/07/02(水) 09:39:37.44ID:I4qLyqup
信長の当時の領国は尾張・美濃・伊勢の大部分・南近江・山城・河内・摂津の大部分・大和・丹波(帰属)・播磨(帰属)・但馬(帰属)
山城や河内や丹波や播磨但馬は完全に従ってたわけではないが
それでも300万石くらいは軽くいくだろ。
北近江では浅井が抗戦しているが
浅井の支配拠点なんてせいぜい12万石程度だろうし
畿内では若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
0138人間七七四年2014/07/02(水) 09:40:57.60ID:aeyB7ZJy
石高以外の副収入入れたら
織田は500万石前後行くんじゃないの。
津島港や堺など経済の中枢押さえてたし
逆に包囲網勢は貧相な副収入なしのショボイ国力の土地ばかり。
0139人間七七四年2014/07/02(水) 09:53:48.61ID:B95TQIYv
織田包囲網

・武田…背後に上杉もいるから抑えの兵力も置いてた。対織田ではほとんど不参加。徳川がほとんど抑えてたから計上する必要なし。
・浅井…北近江2郡10万石前後
・朝倉…越前46万石前後
・本願寺…摂津のうち数郡 14万石前後?
・長島一揆…北伊勢数郡 15万石前後 

やっぱりよく見ても90万石前後にしかならんじゃん。
0140人間七七四年2014/07/02(水) 09:57:23.98ID:Vo8I7p01
350万石の国力で90万石の敵対勢力を倒したのを凄いとかねつ造するのが織田厨クオリティ。
本願寺も長島一向一揆も外征能力がないから、最低限の守備兵を置いて放置しても可なので
実質的に織田は浅井朝倉戦に集中できたので、ラクな戦いができただけ。
浅井朝倉57万石前後に対して
織田が250〜300万石の国力を使って、当初は苦戦をしてたので持久戦をしかけ
浅井朝倉から離反が相次いで、自壊に助けられただけ。
0141人間七七四年2014/07/02(水) 10:45:45.81ID:KL85x1eN
>>137
伊勢の北畠は従属していなかったと言ってなかったか?菅沼君
0142人間七七四年2014/07/02(水) 11:47:18.80ID:XnPwWb+K
また菅沼遼太が妄想史観垂れ流してるのか
0143人間七七四年2014/07/02(水) 12:22:57.37ID:nRzjeNEU
妄想垂れ流してるのは織田厨じゃん
0144人間七七四年2014/07/02(水) 12:24:56.91ID:rqHggJTK
石高があてにならんとか織田厨大好きなアホ妄想。
石高以外の副収入入れるなら
織田分国は堺や尾張津島港のチート収入入るからさらにチートになるのに
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