義光と守棟と連歌

文禄2(1593)年2月、最上義光は朝鮮出兵の後陣として肥前名護屋にいた

その頃の京都
里村紹巴は最上義光に文を綴った
「義光殿も遠方でなにかと気苦労なされている事でしょう。気分直しに当方主催の連歌会の発句を頂戴できませんか?」

義光(´・ω・`)「!お師匠さまから重要な役割をもらったんよ!これは責任重大なんよ!」

義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし(梅の清々しい匂いが溢れている)」

氏家守棟「幾重霞のかこふ垣内(ここは霞のかかった屋敷内)」

(´・ω・`)「守棟、なに脇句作ってるの?」

守棟「拙者とて歌を書いていけない道理はありますまい?」

江口道連が京都の紹巴に義光の発句を届けた

里村紹巴「ほぅ、これは良い発句です。では私も続けて『春深きかげの山畑道見えで(春霞に山道も溶けていく)』」

紹巴は義光の発句が気に入ったのか、夏に義光が帰京した時に最上屋敷を訪れ、改めて自らが脇句を添えて歌衆を揃えて、百韻に仕立てた

義光にとっては連歌が評価された良い話

守棟にとっては「これはちょっと…」と暗にダメ出しをされた悪い話

※氏家守棟は1591年頃に政治文書の減少から死亡したと考えられていたが、脇句から1592年の初頭までは生存が再確認されたという意味では良い話?