戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0683人間七七四年
2014/09/03(水) 20:39:44.25ID:9YxrKypW○脇句から1593年
でした…
0684人間七七四年
2014/09/03(水) 21:36:22.15ID:chQfmHAE0685人間七七四年
2014/09/03(水) 21:38:50.60ID:9YxrKypW慶長8(1603)年、志村光安の所領である酒田湊そばの庄内浜に、人の上背を越える巨大な大亀が上陸した
漁民たちは「これは縁起が良い」と大亀を荷車に載せると各村を鐘や太鼓を打ち直して着飾って廻った
亀は孔雀の様な声で鳴いたという
志村光安「これは珍しい事だ。吉兆かも知れないから山形の殿(最上義光)に知らせよう」
光安は義光に手紙をしたためた
義光(´・ω・`)「それだけ巨大な亀だとかなり長寿な事だろう。酒田の神様かも知れないから余り無茶をしないで、丁重に海にお返ししてね。
そうだ!東禅寺もこれを機会に『亀ヶ崎』に地名を変えよう!」
改称記念に人々には餅や酒が振る舞われた
ついでに大宝寺も呼応して「鶴ヶ岡」と縁起の良い名前にされた
『奥羽軍談』ほか
0686人間七七四年
2014/09/03(水) 21:52:55.23ID:clwobd570688人間七七四年
2014/09/03(水) 22:23:51.69ID:9YxrKypW海に面してるから「崎」
海から離れ、丘陵地帯の後者は「岡」
ついで「亀が(見つかった方が)先(崎)」
0689人間七七四年
2014/09/03(水) 23:11:47.22ID:chQfmHAE0690人間七七四年
2014/09/04(木) 02:35:59.79ID:MqisPoNo全くの不思議。
0691人間七七四年
2014/09/04(木) 03:38:29.06ID:CNyl6IWU0693人間七七四年
2014/09/04(木) 06:53:17.95ID:u2I46lAI発句一首目・義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」
(梅の清々しい匂いが溢れている)
脇句二首目・守棟「幾重(いくかさね)霞のかこふ垣内(かきのうち)」
(ここは霞のかかった屋敷内)
続句三首目・紹巴「春深きかげの山畑道見えで」
(春霞に山道も溶けていく)
この江口さん、義光の発句と守棟の脇句(発句に続く二句目)を届けるついでにちゃっかり紹巴の連歌会にそのまま参加して、五首ほどが選ばれている
0694人間七七四年
2014/09/04(木) 10:09:11.98ID:pzwcs+fV0695人間七七四年
2014/09/04(木) 10:18:37.50ID:3BMT0+fL0696人間七七四年
2014/09/04(木) 12:16:44.79ID:KiVL6D/E田澤七右衛門正忠は。もとは武田が末にて。丹沢久助と名のり。信玄をよび勝頼につかへ。天正十年武田没落のゝち。八月二十一日召し給ふ。
長久手御陣にしたがひたてまつり。井伊兵部少補がそなへにありて。首級を獲て高名ありしかば。舊領に加へ新恩をたまひ男を召され。そのゝちも。たび/\戦功ありしにより。御陣にしたがはせ。
またもろ/\の故実に精しければ。出御・入御の折。あるひは御上洛の折にも。御かたわらに供奉して。日夜をこたらざれば。御腰物・御馬并に黄金を賜ふ。
正忠元より鷹の事に精熟せしかば。御鷹野のさき/\へも。いつも御供にめし加へらる。
ある時ならせたまふに。正忠この路筋には田切のあれば。御路をかへ給へと申す。
君われ幼きより駿河にて生長したれば。路の案内よくしりたり。この路にさる所なしと宣ひて成せ給ふに。
はたして路絶たれば笑はせ給ひながら。丹沢かゝる田切のあるを。何とてしらさぬとて咎め給ふ。
また鳥の有無を見せにつかはされしに。かへりて来て見えずと申す。
やがてその筋通御有に。鳥あまた下り居たれば。丹沢いかに汝には見えぬかと宣へば。
先にはなかりしが。たゞ今入懸しなりと申せば。そはわれもとくよりしりたりとてまた/\咎め給ふ。
正忠われ不徳の身なれど。君の御仁徳のかしこさに。鳥も御路に伏すものなりと申せば。御喜色快然たり。
さればとて。正忠俄かに鳥を追ひて。御殺生やめさせ給へと申せば。丹沢汝は三国一の不埒者なりとて叱り給ふ。
還御のゝち。今日はひねもす丹沢とあらがひて。いとおかしかりしと仰らる。
致至のゝちも。しば/\″召し給へば。人々怪しみて。いかにして御気色にかなふか問ふ。正忠わが不埒故と申せば。ますます怪しむ。
大久保長安逆心のゝち田澤と改む。元和七年七月二十二日死す。
訳は任せた
0697人間七七四年
2014/09/04(木) 14:32:34.69ID:rxz6zNIy0699人間七七四年
2014/09/04(木) 23:48:15.20ID:PM/Lut0Z情けない
とかいいつつ出御入御とかところどころわからないので>>698教えてw
0700人間七七四年
2014/09/05(金) 00:32:47.42ID:aN0gU4KM>>696をざっと訳すと
田澤七右衛門正忠は。もとは武田の家臣であり丹沢久助と名のり。信玄および勝頼に仕えた。
天正十年の武田滅亡の後、同年八月二十一日に徳川家に召し抱えられた。
長久手の戦いにも従い、井伊兵部少補(直政)の備えに属して戦い、首級を獲て高名があったので。旧領に加えて
新恩を賜い、さらに息子も家康の元に召された。
その後も度々戦功があったので、御陣に従わせた。また諸々のの故実にも詳しかったので、お出かけやお帰りの際、
あるいは上洛の折にも、傍らに供奉していた。彼はこの勤めを日夜怠らなかったため、家康より御腰物、御馬、並びに黄金を賜った。
また正忠は元より鷹の事に詳しかったので、家康が鷹狩を行う各地の猟場へも、いつも御供に召し加えられた。
ある時、家康が鷹狩に出かけた際、正忠が「この路筋は先が田切(両側が崖状に成って寸断されている場所)になっているので、
路を変えるべきです」と申し上げた。
しかし家康は、「私は幼き頃からこの駿河で成長したのだから、路の案内もよく知っておる。この路にそんな場所はないよ。」と言って
そのまま進んだが、はたして路は絶たれていた。家康はこれを見て笑いながら「丹沢よ、田切のあるのをどうして知らせなかったのだ!?」
と咎めた。
また、鷹狩の際鳥の有無を見るため遣わされた時、帰ってきて「鳥は居ません」と答えた。
その後、家康が正忠に確認させたあたりを通ると、数多の鳥が地面に降りて居た。そのため家康は「丹沢どうした?お前には
あれが見えぬのか?」と言うと、「先程は居りませんでしたが、たった今ここにやって来たのでしょう。」と答えた。これに家康も
「私はお前がそう答えるだろうということはとっくに解っていたよ。」と、またまた咎めたのである。
しかし正忠、「私は不徳の身ではありますが、家康公の御仁徳の有り難さに、鳥も路に平伏しているのでしょう。」と答えると、
家康も快さげに喜色を表した。
ところがここで、正忠は突然その場に居た鳥を追い払い、「どうか、御殺生はおやめ下さい」と申し上げた。
家康はこれに「お前は三国一の不埒者だ」と叱った。
家康は帰った後、「今日は一日丹沢とケンカして、大変面白かった。」と仰せになった。
正忠は隠居した後も、家康にしばしば彼を召し寄せられた。この事を人々は不思議に思い、
「どうして家康公のお気持ちに叶うのか?」と問うた。すると正忠は「私が不埒なためですよ。」と答えたので、人々はさらに
不思議に思った。
彼は大久保長安事件の後、田澤と名字を改めた。元和七年七月二十二日に死去した。
0701人間七七四年
2014/09/05(金) 00:57:28.37ID:QeRVVbAx正忠は小牧長久手の戦いに参加して、井伊直正の部隊で戦い、敵の首をとって高い評判を得たので、家康公は、正忠の昔からの領地に加え、新たに領地を与えられ、さらに息子をご登用なさった。
そのあとも、たびたび戦で功績を立てたので、家康公のご本陣に編入されることとなった。
また、正忠はいろいろな昔の慣わしについて精通していたので、家康公がお城へ上がるとき、下がるときや、ご上洛のときにも、家康公のかたわらにお供して、日夜励んだので、家康公は刀や馬、黄金をお与えになった。
正忠はもともと鷹の事に詳しかったので、家康公がお鷹狩に行くさきざきへは、いつも御供に加えられていた。
家康公が鷹狩に出たあるとき、正忠が「この先には急流がありますから通れません。道をお変えください」と申し上げた。
家康公は、「私は幼いころから駿河で育ったので、このあたりの道のことはよく知っている。この道にそういったところはない」とおっしゃったが、実際に行ってみると通れなかった。
家康公はお笑いになって、「丹沢、このような急流があるのを、どうして知らせなかったのだ」とお咎めになった。
また、道の先に鳥がいるかどうか、正忠に見に行かせたところ、正忠は帰ってきて「おりません」と申し上げた。
ところが、その道を行くと地面に降りている鳥がたくさんいたので、家康公は「丹沢、どうだ。お前にはこの鳥が見えないのか」とお聞きになった。
正忠は「先ほどはいなかったのですが。ただいま来たのです」と申し上げた。
すると家康公は「そんなことは、私もとっくに知っている」と言ってまたまたお咎めになった。
すると正忠は「私は仁徳がありません(から私が見に行ったときには鳥も身を隠していたのです)が、家康公のご仁徳のありがたさに、鳥もやってきて平伏しているのです」と申し上げた。
家康公は非常にうれしそうにされた。
正忠は「そういったことですから」と言って、急に鳥を追い払ってしまうと、「(ご仁徳を慕って平伏している鳥を)お殺しになるのはおやめください」と申し上げた。
すると家康公は「丹沢、お前は、日本・中国・インドでも一番けしからん奴だ」とお叱りになった。
家康公はお帰りになってから、「今日は一日中、丹沢とけんかをして、とても楽しかった」とおっしゃった。
正忠が引退した後も、家康公はしばしば正忠をお呼びになったので、いろいろな人が不思議に思って、「どうやったらそのように気に入られるのだ」と質問した。
正忠は「私がけしからん奴だからです」と答えたので、人々はますます不思議がった。
正忠は、大久保長安が家康公に背いた後、苗字を丹沢から田沢に改めた。正忠は、1621年の7月11日に亡くなった。
いじめないでね!
0702人間七七四年
2014/09/05(金) 00:58:55.94ID:QeRVVbAxごめんなさい。
0703人間七七四年
2014/09/05(金) 01:02:48.31ID:XUeoxQbj0704人間七七四年
2014/09/05(金) 06:58:35.04ID:7UtAiZiN0705人間七七四年
2014/09/05(金) 09:30:57.91ID:pb2HMIwR0706670
2014/09/05(金) 13:48:09.62ID:H4nhC5oH670だがさすがにカチンと来たわ
おまえが訳知りたいがためにダシに使ってんなよ
あのさ、悪意ある訳することをケチて言ってんだよ
0707人間七七四年
2014/09/05(金) 13:52:57.43ID:pb2HMIwR0710人間七七四年
2014/09/05(金) 15:30:13.40ID:VjAuS3Bl0711人間七七四年
2014/09/05(金) 17:41:30.50ID:f7PHqXLIある時、代官を勤める家士に私曲があるということで、淡路守はその者を禁獄し、私曲の虚実を
正さずにその妻子を始め、忌み掛かる者(親族)を皆召し捕らえた。そして庭に穴を掘らせて、
妻子らを首だけ出してその穴へ埋めさせ、その首に小桶を被せておいた。淡路守は毎日小桶を
取って見て回り、それを慰みになさった。
妻子らが追々死んでいく中で、代官を勤めた者だけは未だに死ななかった。その時、淡路守は
「妻子を始め、類族どもは皆死んだというのに、お前一人未だ死なないとは、よくよく因業深き
奴だな」と、言って嘲弄した。その者はそれまで目を閉じていたが、その言葉を聞くと両目を開き、
「今までは何とかして存命し、この恨みを報じようと思っていた。だが、妻子や類族まで死んだ
以上は、もはやこれまでだ。そのうえ、例え私に罪があっても、刑罰のやり方は法もあること
なのに、こんな刑罰のやり方をしたことこそ、恨みに思うぞ。見よ見よ、今に思い知らせてやる」
と言うと、はたと白眼で舌を噛み切って死んでしまった。
それからの淡路守は乱心して狂い回った。そしてある日、自ら我が身を鉄砲で撃ち貫いて死んだ。
そのため、家は断絶に及んだ。家士は皆淡路守を疎んでいたので、すぐに思い思いに退散した。
その中で種田勘九郎という者は一人残り、納戸の道具類やその他の物をともに、自分の預かりの
分はことごとく同姓の大助のところへ贈り、翌慶長2年(慶安2年の誤り)8月20日の亡主
1周忌の折に、廟前で自殺して果てた。書き置きが残され、「去年以来の殉死の存念を遂げた」
とのことである。また「曇りなき 月の光りに 誘はれて 浮世の雲も 晴てこそ行け」という
辞世の歌があった。
菩提所は雑花院(雑華院)で、水南和尚は石碑に俗称を彫り、法号を『義嶺祖高』となさった。
当座の殉死は簡単なことだが、このように一年の月日を過ぎても志を翻さず、廟前で殉死すること
こそ、大丈夫の忠臣というべきである。
このような悪君にもまた、このような忠臣がいたのである。『忠臣は亡国に現れる』とは本当に
もっともである。同姓の大助はその至忠を感じ、勘九郎の一子を呼び出し、厚く扶持なさった
ということである。
――『明良洪範』
0714人間七七四年
2014/09/05(金) 20:16:39.27ID:+6sy/bN00715人間七七四年
2014/09/05(金) 20:21:58.44ID:fo9ML5UZ0716人間七七四年
2014/09/05(金) 21:06:10.87ID:VjAuS3Bl0717人間七七四年
2014/09/05(金) 23:23:03.49ID:+twIys+Wググってたら凄い事がわかった!
伊達政宗爆誕・1567年9月5日
駒姫京で刑死・1595年9月5日
最上義康暗殺・1603年9月5日
最上家にとっては魔の9月5日…
0718人間七七四年
2014/09/05(金) 23:25:32.99ID:Go1NGoOK家康が道路工事させた下りは、こっちのバージョンにはないんだね。
しかし田澤正忠って人も過激だね、殿様によってはその場で無礼討ちされてもおかしくない行動だ。
ちょっかいを出されて、イラっとしたんだろうなあww
でも、素敵なやり返しの方法だ。
お互い信じているからできることだよね。
君臣相信じ相親しむというのは、家康存命中の徳川の素晴らしいところだよね。
そうでもなきゃ、天下は治められないのかもしれない。
0719人間七七四年
2014/09/05(金) 23:54:26.57ID:aN0gU4KMこの時、秀忠は悲嘆激しく、涙を流し嗚咽していた。
家康はこの様子を見て
「秀忠よ、人の生死は定められた運命なのだから、そのように嘆くものではない。
今より後、天下の人々は御身を月とも太陽とも戴き、仰ぐことになるのだから、よく天下大小の機務に
勤め、些かも怠らないように。
ただし、当家が天下を治めてから日が浅く、今まで創建した所の法規や政令は、未だ全備したものではない。
私も近年の内にそれぞれ改修したいと考えていたのだが、今は、残念ながらそのことも遂げられなく成ってしまった。
私が死んだ後に、御身は些かもはばかること無くそれらを改正せよ、それこそが私の志を継ぐとも申すべき
孝道である。」
そう申し残した。
この言葉について、後にこの当時の幕僚の中に、こう評したものがあった
「家康公は元々、将軍家(秀忠)と考えや認識に違いがあるので、自身が死んだ後は必ず新政の数々が
行われると予想されていた。
しかし前代に建て置かれた決まりを俄に改めるようなことをすれば、『当代の将軍は不徳である』などと
世の中に持ち騒がれる事にもなるかと考えられた。
そのため、秀忠公が思うように政務を行えるよう、予めこのような御遺命を残されたのである。」
(徳川実紀)
0720人間七七四年
2014/09/06(土) 09:34:30.01ID:EkIbGPLQ0721人間七七四年
2014/09/06(土) 11:41:55.21ID:3Q6lDSEc反骨だが有能で、家康が大好きそうなタイプではある。
それと、ちょっと調べたら寛政重修諸家譜に資料あった。
田澤正次 庄兵衛
田澤七右衛門正忠が二男。
鳥見役をつとめ、のち東福門院の御所に附属せらる。
正次
木工右衛門
父が遺跡をつぎ、のち鳥見役をつとむ。これより子孫御家人たり。
ざっと見ただけだけど、本家には鷹に関する記述はない。
鷹の特技は、分家が継いでいったみたい。
0723人間七七四年
2014/09/06(土) 18:15:05.53ID:86QuRaOJ0724人間七七四年
2014/09/06(土) 18:31:01.41ID:IKPv6NBa0725人間七七四年
2014/09/06(土) 20:48:32.15ID:Zibgnl2J既出なんだなあ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3726.html
0726人間七七四年
2014/09/06(土) 23:59:14.92ID:mc2AAiZ00727人間七七四年
2014/09/07(日) 01:23:19.56ID:QqURm2zp以前丹沢正昌のエピソード(信虎の命で北条から鷹をぶんどる)を書いたものですが、
私も正忠に関してももう一つエピソードを持っているので、悪い話スレに書きます。
0729人間七七四年
2014/09/07(日) 20:55:48.08ID:S9b8+mKr「忠臣は亡国に現れる」って例とはちょっと違う気がするよな
何にしろ、良い話とは全然思えない・・・
0730人間七七四年
2014/09/08(月) 07:16:18.45ID:WufHteIh狂人にたいして諫死するよりも殉死したほうが名誉と考えたかもしれんし
0731人間七七四年
2014/09/08(月) 09:28:49.09ID:BauNpNjk月見を口実に延沢屋敷へ
最上義光「力の分においてはおそらく我随分世に越たるように人にも謂われし故、
あわれ対體の族もあれかし力比べをなさんと願う所に、幸い今度能登守の働きを見聞するにあっぱれ我に優る程の事なり
いざや力を試して遊ばん」
『最上記』(天正年間、旧暦の7月15日)
義光(´・ω・`)「殿はかなり力の持ちですよ。おそらく世の中に殿を越える力持ちはそうは居ませんよ、と人にも言われるし自分でもそう思うんよ
今まで自分と同じくらいの力持ちと力比べをしたいと願ってた所に、幸い今度味方になった延沢満延が、見事に義光を越えるくらいの力持ちなんよ
さあ、どれくらいの力持ちなのか、満延の力を試して遊ぼうww」
月見を理由に延沢満延宅を訪問すると使者を送った鮭様の密かな楽しみ
結果:鮭延秀綱から借り受けて来た高橋英国(裸武太之助ほか、志村藤右衛門や小関加左衛門といった武勇の士らがこっぴどく満延に投げ飛ばされた
0732人間七七四年
2014/09/08(月) 09:37:33.44ID:cjypXYP90733人間七七四年
2014/09/08(月) 09:48:26.62ID:QMquSI9P0734731
2014/09/08(月) 17:28:28.20ID:BauNpNjk×殿はかなり力の持ちですよ。
○殿はかなり力の持ち主ですよ。
×高橋英国(裸武太之助ほか
○高橋英国(裸武太之助)ほか
でお願いします
0735人間七七四年
2014/09/08(月) 17:56:03.51ID:M3Mmz6fl突然の大量投稿や誤字脱字を文句ひとつ言わずしてくれるんだからw
0736人間七七四年
2014/09/08(月) 18:33:14.02ID:CsP7b96V0737人間七七四年
2014/09/08(月) 18:40:29.85ID:vhO9Nd0K0738人間七七四年
2014/09/08(月) 22:03:30.64ID:9OSnhbOm0739人間七七四年
2014/09/08(月) 22:14:18.09ID:ZFE1Y9L7陰湿な努力の一端は垣間見えるね
0740人間七七四年
2014/09/08(月) 22:15:09.57ID:Vbnr5xpN真性のキ○ガイどもに比べれば夢のように無害な存在だし
0741人間七七四年
2014/09/08(月) 22:26:32.14ID:X0GLBWLDよく会話調になってるけど本当にそう書いてあるのか?
0742人間七七四年
2014/09/08(月) 23:03:42.86ID:RDw68GwG地元愛?と最上家愛は感じるから
0743人間七七四年
2014/09/08(月) 23:32:09.81ID:GEQNFXDG0744人間七七四年
2014/09/08(月) 23:37:16.88ID:KWCMqsdg0745人間七七四年
2014/09/08(月) 23:39:29.35ID:9OSnhbOm欠点は幾度も指摘されてるのに頑なに直さない(直せない)のはやはりそういうことかな
悪意の有無はさておき、そういう類の人に広報する使命感を抱かれてしまった最上家と他の最上ファンこそ憐れよの
0746人間七七四年
2014/09/08(月) 23:56:26.68ID:S/JcgjJl0747人間七七四年
2014/09/08(月) 23:59:49.00ID:/p87a4ux逸話を投稿する分、最上の方が遥かに良い。
0748人間七七四年
2014/09/09(火) 00:05:08.52ID:tMjUXVnz0749人間七七四年
2014/09/09(火) 00:43:14.87ID:wqe4ekIH当人wwwwwwwww
0750人間七七四年
2014/09/09(火) 01:10:56.45ID:8xohpBZZ旅館にて寝ていた時、近臣達は御傍に在って四方山の話をしていた。
その中の一人の話に
「先に通行していた時に、御中間のなにがしと言うのが剛の者で、三島の神池のウナギを蒲焼きにして食したそうです。
常には神のウナギなどと言って、現地の人々は手も出さぬそうですが、『上様のお供であれば何の祟があるべきか!』
と言って食ったそうで、何とも剛の者ではないでしょうか。」
これを耳にした秀忠は俄に起き上がり、
「どういうことだ、もう一度言え!」
と、重ねてその話をじっくりと聞き、「本多佐渡を呼べ!」と、本多正信を召すと同じ話を聞かせ、
正信に命じて
「その中間を糾明し、事実ならば明日、その者を町端で磔にかけよ!そして札にその理由を書いて晒すのだ。
私の権威を借りて霊神を軽んず様に成っては、今後誓詞の文なども徒になってしまう。
これは小事のように思うかもしれないが、それによって与える悪影響は、容易ならぬものだ。」
そう言って、終に法の如くこれを処置したそうである。
(徳川実紀)
0752人間七七四年
2014/09/09(火) 07:48:41.74ID:hqzWiD2W0753人間七七四年
2014/09/09(火) 08:16:58.16ID:N0huRNoW0754人間七七四年
2014/09/09(火) 09:40:13.41ID:qnikwDg10755人間七七四年
2014/09/09(火) 13:40:14.70ID:+tT+ONL+0756人間七七四年
2014/09/09(火) 13:42:37.95ID:D5f4vWY70757人間七七四年
2014/09/09(火) 14:04:03.04ID:SYUCtubi0758人間七七四年
2014/09/09(火) 17:40:38.76ID:Uhlc6+Ql右の方の木戸から、本丸へ入ろうとした。しかし、敵方が大石を激しく
投げたので、少し退いて堤の陰に立ち、様子を見ていた。
そこへ、立花勢がその堤の上に上り、敵方へ激しく鉄砲を放った。
そのため、敵兵は少し猶予したので、
伝蔵は十文字槍を取り直して本丸の下まで突入した。その時、傍らの
洞穴から敵兵が出て鉄砲を差し向け、伝蔵が近寄れば撃とうと構えた。
伝蔵には前もって柳生但馬守(宗矩)に聞いておいた心得があったので、
彼は敵兵の鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。敵兵は伝蔵が近付く
のを見て、鉄砲を撃ち放った。
その弾丸は槍に当たり、それて伝蔵の肘をかすり、外側へ飛んで行った。
そして、伝蔵はそのままその敵を一槍で突き伏せたということである。
――『明良洪範』
0759人間七七四年
2014/09/10(水) 06:39:47.84ID:c+C10CCG0760人間七七四年
2014/09/10(水) 07:25:06.47ID:xVOMU0vb「特に支障なし」
「腹据えて進むのみ
0761人間七七四年
2014/09/10(水) 19:19:37.98ID:xVOMU0vb虎の威を借る何とやらってーヤツだな
エスカレートして「俺は上様のお供じゃー」で乱暴狼藉働かれたら困るしな
0762人間七七四年
2014/09/10(水) 19:44:20.59ID:I/gLwwtb彼はいつも正言を申すため、まだ歳若き家光には煩わしく思い、忠世に何か言われた時は、
いつも機嫌が悪かった。
ある日家光が大手前を通った時、「あの家は誰の家か」と尋ねると、「雅楽頭の家で御座います」と答えられた。
そのとたん、家光は顔をしかめた。それほど酒井忠世を嫌っていたのである。
ある年の事、八朔の賀に御三家はじめ諸大名江戸城に登城した時、家光は前夜より二の丸に在って、未だ
還御無かった。
酒井忠世は二の丸に渡り、「拝賀の者は皆集まりました。早くお還りあって賀儀を受けられますように。」
との言葉を伝えるよう家光の御傍の者達に言ったが、彼らは家光の事を憚って、誰も取り次ごうとしなかった。
そのため忠世は直接家光の御前に出て、その旨を言い聞かせた。この事に家光は激怒した
「忠世、取次なしに私の前に出るのは推参である!必ず咎めを与える!」
「それがしの事は後日、どのようなお咎めも蒙りましょう。今朝はとにかくお還りください。」
これに家光も拒否できず、やがて本丸へと還り諸大名の拝謁を受けた。
その後何の沙汰もなく数日が過ぎたが、忠世は西の丸の大御所秀忠の元を訪れ
「私は性質愚鈍であるのみならず、歳も取り、また殊に御前もよろしからねば、老職を
お許しありますように。」
そう、大老職の辞任を申し出、また八朔の日のことも申し上げた。秀忠はこれに何も言わなかった。
間もなく、家光が西の丸の秀忠のもとに渡ることがあり、忠世も召され左右に侍った。
そこで秀忠が
「忠世は年老いて、さぞ本丸での職務にも労しているだろう。今日は殊に冷気が強い。
これを取らせる。」
そうして自らかぶっていた頭巾を取ると、手ずから忠世に与え「直ぐにこれを被るように」と言ったが、
忠世は御前を憚り被ろうとしなかった。家光はこれを見て
「上意であるぞ。何故被らないのか」
と言ったため、終にこれを被ると「良く似合っている」と笑った。
その時、秀忠は家光に向かい
「将軍は雅楽頭を気に入らぬそうだな。彼は東照宮(家康)このかたの旧臣であり、天下大小の
政事に熟練しているので、私が将軍職を譲った時、それに添えて彼を遣わした。
それを気に入らぬというのは。御身の我意というものである。
よいか、天下を治めるものに、我意はならぬものだ。」
そう言い、また八朔の日のことも取り上げ強く教諭し、これを家光も畏まって聞いたが、何の答えも
しなかった。
忠世は、この後どんなお咎めを受けるかも解らないと思っていたが、家光は本丸に帰ると直ぐに
忠世を召して
「今日は御隠居様(秀忠)より殊の外お叱りを受けた。よく考えて見れば、お前が天下の政道を大事と思って
言う言葉を、私は悪しざまに聞いていた事は、今更悔いても甲斐のないことである。
雅楽頭よ、今後は尚更に、思うことを残さず言ってほしい。」
そう、さわやかな表情で言った。その後城構えの工事御覧のため出かけたが、この時家光が
「雅楽、先にいけ、先にいけ」と言うので忠世が先に回った所、さらに「頭巾!頭巾!」と
先に秀忠より頂いた頭巾を被るよう促した。しかし忠世が被りかねた様子だったので
「御免であるぞ!否むこと無かれ!」と言って、終に被らせたという。
(葛藤別紙)
0763人間七七四年
2014/09/11(木) 14:27:35.55ID:6EVqz2OS「馳堂(長谷堂)と申し候地へ陣取り候
此方に於ても敵を押し詰め近陣仕り候いて一戦を遂げ候所、不思議の天道を以て勝利を得、会津宗徒五十騎討ち取り
且つ又後日に一戦を遂げ、此時また敵三十余騎討ち取り候」
『会津四家合考』
長谷堂合戦で
上杉の大軍を城を討って出た野外の陣で間近にも係わらずに寡兵で留められたのは
「不思議の天道を以て」と
幸運に救われたのです、と本音の垣間見える義光の手紙
0764人間七七四年
2014/09/11(木) 14:59:47.69ID:Ma+XRQaQダメだ、「頭巾!頭巾!」と言ってる家光の顔が、クマーのAAみたいになってるように考えちまうww
0765人間七七四年
2014/09/11(木) 17:05:23.26ID:IcA/rOD/0766人間七七四年
2014/09/11(木) 18:46:40.63ID:DAvsj1i80767人間七七四年
2014/09/11(木) 19:42:44.00ID:/aHn3j5H0768人間七七四年
2014/09/11(木) 20:10:17.04ID:q2O+c4JIこの時、ワキを務めたのはは高安彦太郎といって、その頃名高きものであった。
この日、ワキの見所はなく、ただ小次郎の様子がいかにも優れているように見えたため、
見物の者達からは「藝は上手に収まるというが、この事だ。さすがの彦太郎も
小次郎に気圧されて見る影もない。」と囁き合った。
ところが秀忠は、猿楽が全て終わった後このように評した
「私は、彦太郎が名人だということを、今日こそは知った。
何故なら、小次郎は今日はじめて藝を見せるので、彦太郎はそれがしやすいように構えて、
己の藝をあえて抑えていた。これは上手の更に上であり、並々の者に出来ることではない、
格別の技である。
小次郎もさすが幕閑の子らしく、よく演じた。」
(明良洪範)
徳川秀忠が藝について語ったお話。
0769人間七七四年
2014/09/11(木) 20:25:17.60ID:vMDjQhRRうらやましい。
わたしの家も放置。歯磨きの仕方すらも教えてくれなかった。
あまりにひどくて
見かねた祖母が私のこと育ててくれた。
0770人間七七四年
2014/09/11(木) 20:50:08.13ID:Fh9Jk2yU杉重良は杉重矩の孫で重輔の子にあたる。
4歳の時に父が内藤隆世によって殺された。
しかし、重臣たちが毛利元就を頼ったことで大内家滅亡と相成った。
この一連の出来事がきっかけで毛利家は重良を気にかけるようになった。
重良もこれを気にしていたらしく、大友宗麟の豊前東部の所領安堵よりも居城を捨ててまでして大内輝弘討伐を優先した。
大友宗麟の重良へのラブレターを毛利家に送り、忠誠を示したほどである。
大内輝弘討伐の功で公領である徳地2000貫を与えようとしたくらいである。
重良も毛利家を継いだばかりの毛利輝元の期待に応え、軍功をあげるなどの活躍をした。
1573年、輝元により福原広俊(10代当主)の妹を妻に迎えた。
重良が毛利家にとってどういう立場なのかわかるであろう。
1578年、今度は豊前の高橋家(高橋重種かその一族か)から誘いがあった。
市川元教(経好の子)は誘いに乗り、山口で謀叛を起こして内藤元輔・雑賀隆利(隆和)に捕らえられ自殺した。
重良は同じく誘いを受けた吉見正頼と共にこれを拒否した。
まもなく大友家は耳川の戦いで島津家に大敗し、勢力を大きく衰退させた。
重良はこれをどう思ったのか、好機と見て秋月家を中心に外交で豊前・筑前の豪族との関係修復し、秋月家から人質を出させようと画策した。
秋月家は一旦これに同意したかに見えたが、人質に受け取りに毛利側から畑田右近が使者として向かった。
しかし、秋月家がこれを約束実行を気配を見せなかったため、畑田は『重良謀叛』と輝元に報告してしまった。
0771人間七七四年
2014/09/11(木) 20:51:24.75ID:Fh9Jk2yU面目を秋月家らに潰されただけでなく謀反人とされたのである。
重良は千二百の兵を率い、秋月家らから人質を連れ帰ろうと豊前蓑島(行橋市)へ渡った。
しかし、これを見た秋月種実は豊前長野家や高橋家らと連合して五〜六千の兵で迎え撃った。
その結果、数で勝る秋月連合軍によって惨めな敗北を喫してしまった。
『重良謀叛』の報が毛利家に入ると、義兄の福原貞俊が毛利家中に詫びを入れるために奔走した。
これが功を奏したのか、1579年1月18日に毛利輝元は重良の行為を謀叛と認めつつも子・松千代丸の所領相続を認めた。
輝元が所領相続を認めた理由は以下の二点であった。
・重良の妻が重良に同意していなかったこと
・義兄の福原貞俊が丁寧に詫びを入れたこと
さて、輝元の裁断が下されるちょっと前の1月5日に益田藤兼は秋月種実にこんな手紙を送った。
「杉重良のことは我々が特別に相談してみる。先年からの筋目によって昵懇(入魂、じっこん)にされることが大切だ。」
といっている。
この手紙、何故か重良の子孫に伝わっているという。
重良が謀叛をしながらも、福原貞俊のフォロー・輝元が謀叛を大きく見なかったこと・益田藤兼が秋月種実をなだめたこと
毛利家が重良の謀叛を認めつつも一家断絶を免れさせたいい話
さて、謀叛起こした張本人の杉重良だが、1579年3月4日に高橋鑑種によって討たれているとされている。
異説では北部九州を転々とし、時には『田中源五郎』と変名したりし、最後は鍋島家の客分となったという。
1579年3月4日没としているのは子孫が憚ったのか、毛利家による杉家の名誉を守るための取り計らいかもしれない。
(杉新右衛門覚書)他
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』より一部抜粋
0772人間七七四年
2014/09/11(木) 21:20:10.70ID:vMDjQhRRうらやましい。
わたしの家も放置。歯磨きの仕方すらも教えてくれなかった。
あまりにひどくて
見かねた祖母が私のこと育ててくれた。
0774人間七七四年
2014/09/13(土) 02:00:46.84ID:1PjHXP8J多くあった。
その頃、寒夜に俄に出かけた時、いつも草履が温かいことに家光は気がついた。
家光はこれを怪しみ、何故なのか注意していた所、酒井讃岐守忠勝がいつも草履を懐中に入れて、
肌で温めていることを知った。
そこで家光は悟った
「これは讃岐守が私の微行を危ぶみ、密かに付き従って私のために心を尽くしているのだ。」
この事があって家光は反省し、絶えて夜行を行うことはなくなった。
(空印言行録)
草履を温めていたのは秀吉だけじゃなかったというお話。というかどっちが先に出来たお話なんでしょうね?
0775人間七七四年
2014/09/13(土) 04:24:34.17ID:hBVyp+A00776人間七七四年
2014/09/13(土) 19:12:14.13ID:S569RaeD内藤隆春は毛利家当主・毛利輝元の叔父にあたる。
毛利家に忠義を尽くし、一門格としても誇りをもっていた。
ところで隆春が気にかけていたことといえば、息子たちのことであった。
隆春には元家、元忠、親春の3人の男子がいたが、甥・元盛(宍戸元続の弟)を婿養子にしていた。
特に元家は隆春の実子として思いのほか溺愛していた。
というか壮年期を過ぎて老年期前にできた息子だったそうだ。
豊臣秀吉による朝鮮出兵が決定した際、毛利家においても渡海するメンバーが詮議された。
まず、隆春は老齢であるという理由で免除された。
免除の代わりに佐波川の架橋と防長両国の守備を命じられ、綾木役の半分を与えられた。
※綾木=美祢郡にある地名
また、子・元家もまだ若年だという理由でメンバーから外された。
このことに隆春は不服だったらしく、年甲斐もなく息子宛の手紙に親バカな一面を垣間見せた。
「近日小早川隆景様が来られるので、私のこと(元家を渡海メンバーに入れること)もよく申し上げてほしい。
あなたはとにかく渡海と定め、よくお願いするがいい。そして、家来の召集など諸準備に心配りを怠らないことが大切である。」
と述べた。
結局のところ元家が朝鮮渡海のメンバーに入れたのかどうかは不明だが、その後も元家の身を案じる手紙を送りまくったという。
信長の野望の列伝の内容にあることは大抵は元家に対してのことである。
隆春は1600年に病没し、元家も1612年に亡くなり、元忠が婿養子として入った林家から実家に戻った。
甥・元盛の事件はまた別のお話。
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』から一部抜粋
0777人間七七四年
2014/09/13(土) 22:53:07.71ID:Uftp3aAu服部小平太と毛利新助が討ち取った』というのは、虚説である。元来、義元は勇将では
あるが、床机の周りを固める者もいないのに、一人で床机におられることだろうか。
もし、その通りならば無謀の死である。
信長は今川家の虚を察しなさり、本陣の後ろの山根を押し回って、後ろから攻め寄せ、
馬武者で義元の本陣を縦横に乗り破り、騒動に乗じて突き崩した。今川方はただ上下
とも驚いて慌てふためき、槍を取る間もなく、皆太刀打ちした。
織田方は槍を揃えて突き立てたので、真っ先に進んだ者たちは枕を並べて討死した。
その他にも、負傷や逃亡によってまばらになったことだろう。それまでも義元は
床机に腰をかけ、周りを命じておられた。そこに庵原左近と同庄次郎が馳せて来て、
「本陣の軍士は過半が討死し、備えもまばらになりましたので、何と思し召され
ましても叶いますまい。ここは一先ずお退きになってください」と、申し上げて
馬を引き寄せ、義元をかき乗せた。
この時、元康公がお付け置いた松平某も義元の前へ来て、「元康は大高の城に
おられますので、そこへお引き取りください」と申し上げ、庵原兄弟と松平某の三人が
供をして、大高を目指して退いて行った。
これを見て、島田左京、澤田長門守、岡崎十兵衛、上和田雲平、今井主馬、
平山十之丞、長瀬吉右衛門、平川左兵衛、福原主税らが馳せ来たり、同じく供をして
退いた。しかし、馬備えが散乱したため、馬に乗る手立てが無く、皆々歩行で従った。
義元は胸白の鎧に、金で八龍を打った五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着ていた。
また今川重代の2尺8寸の松倉卿(松倉郷)の太刀と、1尺8寸の左文字の脇差を
帯びて、5才の青毛の馬には金履輪の鞍を置き、紅の尻繋を掛けてお乗りになった
ので美しく、遠目にも「これこそ大将である」と思わぬ者はいなかった。
信長方は四方へ落ち行く者には目もかけず、「どこまでも逃がさぬ」と先を争って
追いかけた。そのため、島田左京や澤田長門守を始め12人の者たちはとって返して
戦うも、徒歩であるうえに戦いには疲れて皆々討死し、義元は一騎となられた。
そこへ服部小平太は一番に追い付き、言葉をかけて近寄った。義元も「心得た」と
馬を引き返しなさったところを、小平太は駆け寄って朱柄の長刀の槍で、義元の
弓手の脇腹をひどく突いた。
けれども、義元は聞こえた強将なので少しもひるまずに太刀を抜き、小平太の槍の柄を
切り折り、馬から下り立った。小平太が槍を捨てて組み合おうとすると、義元は抜き
放っていた太刀で払い切りになされ、太刀先が下って小平太の膝口を切り付けなさった。
小平太は少しも堪えられずに後ろに倒れたため、あわや討たれてしまうと見えた
ところに、毛利新助がすかさず横合から駆けて来て、むんずと義元と組み合った。
義元は初めに小平太が突いた槍で傷を負ったままで、最後には新助が組み勝って
義元を討ったということである。
――『明良洪範続編』
0778人間七七四年
2014/09/14(日) 02:38:03.48ID:Ilnqnsko0779人間七七四年
2014/09/14(日) 10:05:57.39ID:VFSr4d1f良く言われる、今川義元が馬に乗れないなんてどっから出て来たんだろな
0780人間七七四年
2014/09/14(日) 10:13:51.36ID:Wq8euVbd→輿に乗っているから馬に乗れない、と曲解される
0781人間七七四年
2014/09/14(日) 12:03:47.44ID:pXZRTHXC江口五兵衛道連(光清)は天文13(1544)年摂津の斯波頼宗の長男として生まれ初名を国時といい、後に姓を江口と改めた
永禄5年(1562)年18歳の頃、最上義光に仕え、33歳で戦功を立て、義光より「光」の一文字を賜り光清と名乗った
畑谷江口一族に伝わる江口道連の出自
0782人間七七四年
2014/09/14(日) 14:26:41.53ID:uXQtl1ar■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています