戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0402人間七七四年
2014/07/30(水) 16:28:51.85ID:SgluMGfl・・・志村さんのお小言タイム?
0403人間七七四年
2014/07/30(水) 17:03:30.45ID:UsXN/Doc名無しんぼ@お腹いっぱい[] 2010/01/23(土) 21:00:26 ID:Le1hu93a0
所用で酒井家のご当主にご挨拶に伺ったのだが、つい弾みで「えびすくい」について聞いてしまった・・
ついかっとなってやった
今は反省している
へうげものという漫画があることはご存じなかったそうです。
名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 21:06:52 ID:E5ISRcS80
それでえびすくいの方はどうだったんですか
現代に至るまで踊りの秘伝が一子相伝で当主に伝わってたりするの
名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 22:20:49 ID:Le1hu93a0
酒井の太鼓は歌舞伎の演目になっているくらい有名な話だが、歴史上の出来事としては「史実」と言いきることができるものではなく、
「逸話」と呼ぶべきものでしょう。忠次公も踊り自体は知っていたかもしれないが、海老すくいの話も同じように「逸話」と言うべきだと
思います。とのことでした。
あ、それから、踊れないそうです(笑
0405人間七七四年
2014/07/30(水) 17:36:03.20ID:oYAnjCtXいや、これとそっくりな話で信長と氏郷のパターンがあるんだよ。
俺も信長のが誤って伝わったんだと思うが
0406人間七七四年
2014/07/30(水) 17:39:37.33ID:nayFSFDk有名なバージョンは信長だし
0407人間七七四年
2014/07/30(水) 21:46:31.09ID:vkO2DVH/0408人間七七四年
2014/07/30(水) 22:16:02.19ID:mSVmn9LE0409人間七七四年
2014/07/31(木) 00:13:35.60ID:2az/Ewhc0410人間七七四年
2014/07/31(木) 00:21:08.21ID:jq6ueLWV彼は関白の了承を得、すでに父から豊後国を渡されており、これを所有し統治している。
洗礼名をダミアンと称し、当時二十二歳、または二十三歳であった。
だが極めて優れた理解力と知識の持ち主で、その秀でた勇気と勤勉と相まって、日本で彼に優る者はごく僅かしかなく、したがって関白殿から気に入られ寵遇されていた。
五年前に父の官兵衛が関白の軍勢の武将として、一軍を率いて秋月を襲撃した時に、この息子は関白の命令により、戦場へ父に会いに来た。
当時、彼は十七歳であった。
その折、彼の父は彼がすぐにキリシタンになるように説得し、彼はその地で幾つかの説教を聞き、多くの家臣とともに受洗した。
だがこのたび関白の迫害が襲った時には、まだキリシタンとしては日が浅く、若輩で、我らの教えについてはほとんどなにも知ってはいなかった。
つねに自分がキリシタンであるとは公言していたものの、彼は聴聞したことに大いなる疑問を抱いていた。
特に人間が救われるためには、洗礼を受けてキリシタンになる必要があるということが納得できなかった。
彼には、人間は道理にしたがって正しく生きさえすれば、いかなる宗教によっても救われると思えたからである。
「フロイス日本史」より、1590〜1591年頃の黒田長政についての話
0411人間七七四年
2014/07/31(木) 00:29:46.71ID:ApMjhh460413人間七七四年
2014/07/31(木) 15:44:37.11ID:XOlX5q1B信長だったら戦いが始まる前に逃げてるよ
全滅しても生き残ってる身の振り方だったら本能寺で死んでないな
0415人間七七四年
2014/07/31(木) 21:29:54.66ID:NPJnKbx20416人間七七四年
2014/08/01(金) 02:08:45.02ID:a7OerG840417人間七七四年
2014/08/01(金) 08:23:13.85ID:OCqpYQAu0418人間七七四年
2014/08/01(金) 09:08:33.47ID:HVMVvfHT0419人間七七四年
2014/08/01(金) 10:57:36.83ID:GX53B0Pcこれに直次は、「こちらの者は皆麾下の縁りの人々なので、そのもとの仰せに
従うためには、皆々の依頼にも従いませねば叶い難いので、御容赦ください」
と言って、ただ何ということも無い様子であったという。
――『名将言行録』
0420人間七七四年
2014/08/01(金) 18:48:19.72ID:KiJaldDG0421人間七七四年
2014/08/01(金) 19:56:08.06ID:LDaddAct天庵様「ちくしょー!こうなったら討ち死にしてやる!」
菅谷さん「殿を止めろ!(ズルズル」
こうなるだろう
0422人間七七四年
2014/08/01(金) 20:29:38.90ID:Zrl4+mJj0424人間七七四年
2014/08/01(金) 22:22:40.24ID:Yi3BdW150425人間七七四年
2014/08/01(金) 22:24:45.94ID:47sCxrg+0426人間七七四年
2014/08/02(土) 05:49:37.74ID:eOslnO/20427人間七七四年
2014/08/02(土) 08:29:02.64ID:xE9j+uNr0429人間七七四年
2014/08/02(土) 11:11:43.53ID:NCUBK8vG合成?
0430人間七七四年
2014/08/02(土) 11:30:07.34ID:sZGLbLgx0431人間七七四年
2014/08/03(日) 11:29:24.66ID:nTp+xxm00432人間七七四年
2014/08/03(日) 15:00:02.63ID:AfNl1bl9「配下の伊賀者共々、織田家を叛き御当家に属したい。願わくば御書を賜らん。」
と申し上げた。しかし家康は
「当家は織田家と親交が深い。そのため御書を与えるのは難しい。今までのよう織田に属して、
本領を守るべきであろう。しかしどうしても我々に従おうというのなら、我が領国に移住するように。」
と答えた。
その後、伊賀の者達は皆織田家の命に従わなかったため、織田右府(信長)は大いに怒り、尽く誅伐
したため、みな山林に逃げ隠れ時節を伺った。
このような時に、本能寺の変が起こった。
伊賀越えをして三河へと帰ろうとする家康の元に拓殖清広は、一族の傳兵衛甚八郎宗吉、山中覚兵衛、
米地半助、その他甲賀の美濃部管三郎茂濃、和田八郎定教、武藤大炊茂秀らを引き連れ参上した。
彼らは皆人質を出して伊賀の道を案内し、鹿伏兎越の険難を経て伊勢までお供をした。
この時、伊勢までお供した輩は、後々召し出されて直参と成り、鹿伏兎越までお供して、途中で帰国した
二百人ほどの者達は、服部半蔵正成に属させ、伊賀同心として諸隊に配置された。
またこの年の六月に尾張において召し出された者達は、専ら陣中の間諜を勤め、後に後閣(大奥)の
番衛を勤めた。今も後閣に附属する伊賀者の先祖はこれである。
また甲賀者も武島、美濃部、伴などという者達は直参と成り、それ以下は諸隊に配置されて、与力同心と
なった者もあった。
(徳川実紀)
徳川の、伊賀者、甲賀者の由来についての逸話である。
0433人間七七四年
2014/08/03(日) 18:21:40.16ID:I6K+/Yrz0434人間七七四年
2014/08/03(日) 20:05:51.04ID:OBLY9kN30435人間七七四年
2014/08/05(火) 11:54:10.10ID:b8dJHAwn小幡城へと入った。
ここに榊原康政、大須賀康高らが御前に出て、この様に申し上げた
「今夜、敵陣の様子を伺いましたが、秀吉の軍は日中長途を駆けてきたので、皆疲れ果て
正体もなく倒れるように眠っています。ここで夜討ちをかけて辛き目を見せてやりましょう!」
しかし家康は首を振り、「いやいや」と言ってこれという仰せもなかった。
皆が御前を下がった後、家康は本田豊後守広孝を召して、
「お前は城門を巡視して、一人も門外に出さないように」
と命じた。
そして間もなく湯漬けを食すと、出陣を触れ、『なるべく物静かに揃え』と命じた。
このため皆『必ず夜討をかけるのだ』と思っていたが、そうではなく、家康は小牧城へと入った。
これに人々は、思いもよらぬことだと感じた。
後日、家康は浜松城において、この時のことを語った
「あの時、お前たちが夜討をかけろと言ったのは、秀吉を討つことが出来ると思ってか?
それとも、ただ戦に勝とうと言うまでのことか?」
一同、顔を見合わせて、ややあって
「秀吉を討ち取るまでは考えていませんでした。ただ、戦えば必ず勝利すると思って申し上げたのです。」
家康はこの答えを聞くと
「私もそのようには思った。だが、敵を皆殺しにしたとしても、秀吉一人を逃してしまえば
却って悪しき事態となったであろう。昼の合戦において池田・森の両人を討ったことさえ、
一人でも良かったと思っていたのだ。」
と言った。
(岩淵夜話別集)
小牧長久手合戦が、家康にとっても色々と難解な戦であったことを表す逸話である。
0436人間七七四年
2014/08/05(火) 12:37:03.44ID:TWdXO505これじゃ名人戦になるわけだわ。
0437人間七七四年
2014/08/05(火) 12:42:18.27ID:6W4uCpiW0438人間七七四年
2014/08/05(火) 13:29:39.39ID:TY4Krwfl…鬼武蔵だろうな
0439人間七七四年
2014/08/05(火) 14:12:25.81ID:nO8C0IrR0440人間七七四年
2014/08/05(火) 14:50:51.31ID:j9EDO2I9面倒くささも人一倍なのが家康
0442人間七七四年
2014/08/05(火) 19:13:45.11ID:OhIJmNMB0443人間七七四年
2014/08/05(火) 19:53:52.07ID:M6xd0Icw0444人間七七四年
2014/08/05(火) 20:08:17.24ID:l0aDdUFS0445人間七七四年
2014/08/05(火) 20:54:35.18ID:cHoFIy4o0446人間七七四年
2014/08/05(火) 21:22:42.25ID:EddA60go0447人間七七四年
2014/08/05(火) 21:22:48.40ID:kXnEVWKt0449人間七七四年
2014/08/06(水) 08:50:17.54ID:x6kOzirZ0450人間七七四年
2014/08/06(水) 09:37:23.54ID:Xo5UjVMb夜営だった(翌朝空振りして悔しがった)
実は危機一髪であったのかも知れず、夜討ちを回避して小牧山城へ
速やかに移動したのは実に慎重にして機敏だった
0452人間七七四年
2014/08/06(水) 14:00:13.93ID:ZtFjIi4q0453人間七七四年
2014/08/06(水) 15:02:06.36ID:k7nfbB38関ヶ原にあらずして、小牧にあり、
小牧にあらずして、天正壬午、にあらずして、伊賀越え、
にあらずして、高天神城、にあらずして、長篠、にあらずして、
三方ヶ原、にあらずして、一言坂、にあらずして、姉川、にあらずして、
三河一向一揆、にあらずして、遠江侵攻、にあらずして、岡崎城奪取、
にあらずして、大高城兵糧入れにあり
と神君史観
0454人間七七四年
2014/08/06(水) 15:29:24.34ID:7s6IIfxo0455人間七七四年
2014/08/06(水) 15:34:30.66ID:k7nfbB380456人間七七四年
2014/08/06(水) 20:31:07.84ID:98kmiJGQ実際には小田原でも徳川軍が北条方の支城を落としまくる徳川無双が起こってたらしいが
0457人間七七四年
2014/08/06(水) 21:15:34.48ID:pDXU8vlg0458人間七七四年
2014/08/06(水) 21:17:40.77ID:nSnDUXdK普通に記録見ただけで、徳川軍が怒涛の勢いで北条の支城落としまくってるのがわかると思うんだけど?
0459人間七七四年
2014/08/06(水) 21:26:16.17ID:Qa4TiG4i0460人間七七四年
2014/08/06(水) 21:56:02.65ID:UNRYu4SA0461人間七七四年
2014/08/07(木) 06:59:44.49ID:wiLnEwjc0462人間七七四年
2014/08/07(木) 07:27:19.75ID:TEHBXow80463人間七七四年
2014/08/07(木) 17:04:08.17ID:gUkkGK9s韮山城の攻略に失敗した織田信雄や蒲生氏郷や福島正則や細川忠興、忍城攻略に失敗した石田三成や大谷吉継や真田昌幸を
disるのはやめるんだ!
0464人間七七四年
2014/08/08(金) 00:44:17.31ID:UbC4BRbCこれは関ヶ原後、上杉家に対する初めての御成である。
この時景勝は、直江山城守(兼続)はじめ3人のみを邸内に置き、その他の家士は皆下屋敷に
つかわし、門々の警護は徳川普代の諸大名に頼み、徳川家の御家人に諸事を扱わせた。
後でこれを聞いた徳川家康は、景勝は分別者であると大いに感じ入ったそうである。
また、上杉景勝は当時、石田三成の第一の与党であったと考えられていたため、そこに
御成まであったと言う事に、これを聞いた、かつて西軍に与した西国上方の大名たちは皆
「もはや我々に患いはない」と安心したとのことである。
(徳川実紀)
徳川秀忠の、上杉景勝邸への御成のお話。
0466人間七七四年
2014/08/08(金) 14:21:46.49ID:cxScHY6T0467人間七七四年
2014/08/08(金) 14:47:15.76ID:avm+pYqY0468人間七七四年
2014/08/08(金) 14:48:39.26ID:cxScHY6T0469人間七七四年
2014/08/08(金) 15:41:10.42ID:jqaERPuC勝茂さまは珍しい物だからと将軍さまに御献上なさろうとお買い求めになった。
壊れやすい物なので、家中の者どもには、よく注意するようにと、何度も仰せになられた。
さて、屏風を納めるための箱が出来上がったので、
御進物役の鍋島采女が屏風を箱に納めるため受け取り、家屋へと持ち帰った。
そこへ、友人の枝吉利左衛門が訪ねてきて、
「ビードロの屏風なる物を、話の種に是非見たい」
と言い出した。采女は、
「もう箱に納めたので、悪いが見せることは出来ない」
と断ったが、利左衛門は是非見たいと言い張って箱から取り出した。
と、そのとき、誤って取り落とし、ビードロの屏風を破いてしまった(おそらくは割れた)。」
利左衛門は屏風をそのままに、
「人の運命とは、さてさて分からぬものぞ」
と言い捨て立ち去った(1/2)
0470人間七七四年
2014/08/08(金) 15:53:14.05ID:XM906JXL0471人間七七四年
2014/08/08(金) 15:56:36.78ID:jqaERPuC「御心配されるな。わざとなされたことではないのだから、御前へは申し上げようがある。
なにも気にかけられることはない。
もっともこのことは他言無用ですぞ」
と慰めた。利左衛門は、
「殿の大切な道具を破ったことには変わりない。腹を切る覚悟です」
と言い出した。采女は、
「さてさて武士が気の小さいことを言われる。どんな宝でも、人の命に代えられるものか」
と言って、ひとり勝茂さまの御前へ出向き、
「御献上品のビードロの屏風、とりわけ大事の品と心得お預りしましたので、
家にて箱にしっかりと納まっているか調べていましたところ、取り落とし破ってしまいました。
このこと、わざわざ人を通して申し上げる必要もございませぬゆえ、
勝茂さまへ直に申し上げに参りました」
と言い捨て、御前を退った。
勝茂さまは采女の様子を見て御心配になられ、すぐにお呼び戻しになり、
「少しもかまわぬ。気にするな」
と仰せになり、それですんだ (2/2) 【葉隠】
0472人間七七四年
2014/08/08(金) 16:05:33.68ID:jqaERPuCその後、利左衛門と采女はこのことをいっさい口外しなかった。
利左衛門はいつか恩返しをしよう思っていたところ、
勝茂さまがお亡くなりになり、采女は追腹を切ることを決めた。
そこで利左衛門は、浴衣一枚と大きな敷物一枚を采女に贈った。
采女はたいそう喜んで、その浴衣を着て追腹を切った。
介錯は三谷千左衛門。
この話につけても、大切な道具は軽々しく取り扱わないようすべきであろう
0473人間七七四年
2014/08/08(金) 18:55:18.87ID:jqaERPuC〉恩返しをしよう『と』思
『と』がなかった
0474人間七七四年
2014/08/08(金) 21:43:44.64ID:QNYEbE6G0475人間七七四年
2014/08/09(土) 01:44:38.52ID:Q0m9MiZp大坂夏の陣八尾若江の戦いは大乱戦となり徳川方の阿部正次が
「味方は長期の遠征故、肌は黒く焼け物具も汚れておる、大坂方は肌色も白く物具も綺麗なままだ、それを目印に討ち取れ」
と馬に乗り触れ回ったほどだ。
そんな乱戦の中、戦死した木村重成の家臣青木七左衛門・長屋平太夫の二人は運悪く敵である徳川方の部隊の中に紛れ込んでしまった。
数多ある他の部隊ならば、なんとかやり過ごし脱出の機会を窺う事も出来ただろうが、更に運の悪い事に二人が紛れ込んだ徳川方の部隊
とは、よりにもよってあの井伊直政の部隊であった。
全身を赤で固めた部隊の中に黒母衣と白母衣が一点ずつ…たちまち赤い槍衾に囲まれた二人は生け捕りにされた。
覚悟を決めた両名は家康の前に引き出されると、まずは長屋平太夫が
「今福にて一番槍を合わせたり」
と名乗れば、続いて青木も
「今日、西郡にて一番首を取たり」
と名乗った。
すると、この二人の剛の者の境遇をあわれと思った家康は二人を許し美濃にそれぞれ500石の禄を与え召抱えた。
(常山紀談)
0478人間七七四年
2014/08/09(土) 08:54:24.12ID:yB2evRQ/こんなところでもか…
0479人間七七四年
2014/08/09(土) 11:20:47.68ID:323CKrqB0480人間七七四年
2014/08/09(土) 12:03:57.38ID:At0gwloN0481人間七七四年
2014/08/09(土) 15:38:50.47ID:FYbOX1wM彼は小田原陣の折に、箱根山中に案内をして高名があった。
これに徳川家康は
「汝は侍の眼を持っている。この後は本物の目の持ち主ということで、”本目”と
改めよ」
と仰せになり、それより本目と改めたという。
(徳川実紀)
権現様命名シリーズ
0482人間七七四年
2014/08/09(土) 16:32:42.14ID:ZhboR2P7安定感あるな権現様は。
0483人間七七四年
2014/08/09(土) 23:38:50.70ID:Qzute8E0川を渡り、待ち受けている敵の中へ叫び声を上げて攻め入った。
そのために小介は槍玉に挙げられ、まさに危ういという時、
長政の軍兵が進んで攻め寄せ、敵を追い立てた。
小介は流れる血のために朱色に染まっているので、戸板に
乗せられて長政の前にやって来た。この時に小介は、
今日、自分と先を争うような者は、長政以外ありえない、
と思ったので、長政をきっと見て、
「小介より先立って槍を合わせた者は一人もいません!」
と言った。これに長政は、
「お前でなければ誰が先駆けをすることだろうか。手負い致した
者が、気を張って物を言うのは、(体に障るから)よくない」
と言った。後に小介は有馬の温泉に浴し、傷は癒えた。
――『常山紀談』
0485人間七七四年
2014/08/10(日) 01:00:13.54ID:EKsYzcFH前田家の軍勢が真田丸を攻めていた時のことである
前田家の家臣に小田切所右衛門は真田丸に接近しすぎたために、真田軍の放った銃弾に当たってしまった
しかし、所右衛門は当たった銃弾を抜き取ってまるで何もなかったかのように傍に居た平野弥次右衛門に、その銃弾を見せた
そうして笑いながら会話していると、今度は銃弾が所右衛門の額に命中した
それでも所右衛門は
「兜というのは大事な物だな、この兜は元々は信玄公が持っておった物ぞ」
と言って再び銃弾を取り出した
銃弾の痕からは血が流れ出たが所右衛門はまったく怯む様子を見せなかった
その武者ぶりを敵味方共に賞賛した
所右衛門が当たった銃弾を見せた平野弥次右衛門の従者に五右衛門という者が居た
五右衛門は矢面に立ち、18発の銃弾が五右衛門をかすって傷を負わせた
その大剛な振る舞いを見た真田丸からは賞賛の声が挙がり
「姓名をお聞かせ頂きたい」
と声がしたが五右衛門は姓を持っていなかった
そこで平野弥次右衛門は己が姓をつかわした
すると、五右衛門は大声で
「平野弥次右衛門の下人五右衛門という者であるが、これまで御供した褒美として只今氏を賜り、平野五右衛門と申すなり」
と名乗りを上げた
『常山紀談』
0486人間七七四年
2014/08/10(日) 01:09:43.13ID:pkm8roq1後半は既出か
0487人間七七四年
2014/08/10(日) 02:26:50.55ID:jnDhl7TE0488人間七七四年
2014/08/10(日) 16:35:04.79ID:Cmq6S9gA松平もピンきりだからなあ。へたな松平よりも「権現様ご由緒」の苗字の方が江戸時代は価値が高かったと思う。
0489人間七七四年
2014/08/10(日) 16:37:57.47ID:kH9FBMSo糞漏らし由来の苗字
win-winの関係
0491人間七七四年
2014/08/10(日) 18:10:24.63ID:ZKmTc2VJ脱糞したという噂はあったようだが
0495人間七七四年
2014/08/10(日) 18:22:50.42ID:ZKmTc2VJ大久保忠佐が「家康が脱糞した」といったのは知れ渡ってたとして
後の話が落とされて、脱糞の噂ができた可能性がある
としておくか
0496人間七七四年
2014/08/10(日) 18:30:26.39ID:R9KA2SIW明治以降の創作だから関係ない?
0497人間七七四年
2014/08/10(日) 18:38:46.80ID:HAULJanrつか論争なら他所でやれ
0498人間七七四年
2014/08/10(日) 20:41:20.57ID:UCmgEEfAhttp://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
こちらでどうぞ。
0499人間七七四年
2014/08/10(日) 22:40:27.63ID:6xU/Tsxpここは審議スレじゃなくて逸話スレだ
0500人間七七四年
2014/08/10(日) 23:30:36.91ID:coB3wW0i0501人間七七四年
2014/08/11(月) 00:11:51.56ID:Z2oXRHJt家康は家臣の高力與次郎正長を召して
「佐々成政という人は大変な人傑である。ああいった人物とは知人と成って、その様子を
見習うように」と命じた。
さて、家康は佐々に
「私は元より秀吉と遺恨はありません。しかし信雄殿の衰弱を見るに忍びなく、故織田殿の
旧好を忘れかね、わずかにこれを助けたのみなのです。ですが、信雄殿が秀吉と
和議を結んだと聞けば、私のこれまでの信義も、詮無きことに成りました。
さりながら成政殿が旧主の為に義兵を起こすというのであれば、私からも援兵を出しましょう。」
そう言って懇ろに饗した。
この後、成政は家康との物語の中に、家康を武田信玄に、自身を上杉謙信に比して
大いに自負の念を披露した。
酒井忠次は、この佐々の自負を聞いて大変に腹を立て
「ああいう馬鹿者に御加勢なさることは無用です!」と家康に詰め寄った。
しかし家康は
「彼は元より大剛の士であるのだから、その勇気に任せて、失言をしてしまうのも仕方がない。
そんな事を気にしてはいけない。」
と語った。
(柏崎物語)
家康が、佐々成政を非常に高く評価している逸話である。
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