戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0301人間七七四年
2014/07/13(日) 22:52:31.58ID:aab7x1lO0302人間七七四年
2014/07/13(日) 23:36:05.25ID:nkHQJv3r出典はないが既出のような
0303人間七七四年
2014/07/14(月) 03:25:25.51ID:YrWW/aMd勝女は京生まれで織田信行に仕え、生まれつき聡明で容貌も美しく寵愛されていた。
ある酒宴の際、信行は重臣津田八弥に
「お前もそろそろ妻をめとれ、わしが媒酌してやろう」
とその場で勝女の婚姻を決め、良日を選んで祝言をあげてやると約した。
この津田八弥というのは農民の生まれだが美男と才能のため信行にとりたてられ、織田一族の
「津田」を姓として与えられた者である。
しかし信長から信行につけられた老臣で佐久間七郎左衛門というのがあり、
八弥より待遇が悪いため大いに嫉妬し、両者のいさかいが絶えなかった。
とうとう七郎左衛門は八弥の屋敷に火を放ち、出てきた八弥を刺殺してしまった。
目付役が吟味すると、八弥の厩のそばに七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃が信長から下賜された正宗が落ちてあり、
また、火をつけた盗賊をとらえた所、七郎左衛門に命じられたと白状した。
信行が玄蕃に七郎左衛門をつれてくるよう命じた所、七郎左衛門は美濃に出奔し、斎藤道三に匿われてしまった。
0304人間七七四年
2014/07/14(月) 03:27:43.10ID:YrWW/aMd信行は「相手は勇士、お前は女だからここは尼にでもなって八弥の菩提を弔え」
とすすめたものの、結局八弥を刺したと思われる正宗を与え、暇を出した。
勝女は岐阜近在に住みつくと、鷹狩をしていた道三の嫡子龍興の目にとまり、そのまま道三夫人の侍女となった。
器量よしで歌道にもすぐれていたため寵愛されていたところ、翌年三月、競射の参加者の名簿に
佐久間七郎左衛門の名を認めたため、夫人に願って競射を拝見する許可を得た。
参加者25名中15番目の佐久間七郎左衛門が名乗った瞬間、勝女はおどりいでて短刀で七郎左衛門の脇腹を突き、
「津田八弥が妻勝なり。夫のために仇を報ずる!」と大音声で叫んだため、大騒動となった。
七郎左衛門は即死。道三、龍興も驚き経緯を尋ねると勝女は動ぜずありのままを答えたため、
道三の怒りは減じたものの
「お主の志には感動したが、織田信行から七郎左衛門を戻せと言われても今まで断ってきた。
わしを頼ってきたため隠してきたのだ。しかし女のためにむざむざ殺されたことが世間に知られれば
わしにとっては恥辱極まりない。かわいそうだが明日死刑に処す。それまで牢に入っておれ」
道三夫人は勝女を牢に入れるにしのびず、道三に懇願し、勝女を一晩あずかる許可を得た。
夫人「わたしはあなたの行為に感動しました。このまま逃げなさい」
勝女はそれでは夫人にとって申し訳ない、罰を受けましょう、と言ったものの、結局夫人に説得され、
夫人から路銀をもらい、未明に城外に逃亡した。
0305人間七七四年
2014/07/14(月) 03:30:38.58ID:YrWW/aMd康高はすぐに家康に報告し、貞烈に感動した家康は「男女に限らず万人の鑑である」と城に引き取った。
七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃は勝女が岡崎にいると知るや信長に勝女を尾張へ戻すよう願った。
信長は池田紀伊守恒興を使者として勝女を乞うたが、
家康は「勝は夫のために仇を討った貞婦です。おそらくこれは玄蕃の願いでしょう。
仇討は古今稀であり、しかもわたしを頼ってきたものをそちらに渡す理由がありましょうか。
信長殿は玄蕃の願いを叶えなければ玄蕃が謀反するとおそれているですか?
もしこの言葉が無礼と思われるのなら戦で決着つけましょう。
その場合こちらは信玄と同盟して尾張に攻め入りましょう」
と答えたため信長もあきらめた。
玄蕃は怒りを増し、金銀で勇士たちを雇い、岡崎に潜入させて勝女を殺そうとした。
勝女は物詣のため城外に出たが、警護していた大原左近右衛門惟宗、今村伝十郎が
曲者二人を見とがめ、生け捕り拷問。曲者二人は玄蕃に頼まれたと白状した。
即刻二人の賊は処刑。梟首の上、制札に書かれた文面は
「この者共、佐久間玄蕃に頼まれた由を白状すれども、盗賊ら己が難儀を逃れんために
いうことならん。よってここに梟首するものなり」
0306人間七七四年
2014/07/14(月) 03:32:46.06ID:YrWW/aMdしかも玄蕃の名前まで書くのは無礼であろう!」と使者を出したが
岡崎で老臣たちが使者に答えるには
「われわれも相談したのですが、貴国の老臣佐久間ともあろうものが
まさか一婦人に刺客をさしむけ殺害をはかるなどとは思われず、
おそらくこれは盗賊が自分の罪を免れようと嘘を言ったのだろうと判断したのです。
制札にもそう書いてますよね?」
これを使者より伝え聞いた信長はよけいに憤怒し、和平を破って戦闘におよぼうとしている、
という風説が岡崎までに届いたため、城の警護を固くすることになった。
勝女はこれを聞き
「わたくしめ一人のせいで、この国が戦になってしまうことは本意ではありません」
と今までの恩を感謝する書をしたため自殺。
この書を見たものはみな落涙し、家康も絶世の烈婦であると讃え、次第を信長に伝え、
大樹寺に葬り厚く弔った。
0307人間七七四年
2014/07/14(月) 03:36:45.81ID:YrWW/aMd時代から考えて盛政のはずはないし
0308人間七七四年
2014/07/14(月) 06:55:05.76ID:jOloNtFCこの辺のメンタリティーは500年前から変わらずか
0309人間七七四年
2014/07/14(月) 07:01:42.67ID:UdEexSsb0310人間七七四年
2014/07/14(月) 07:52:44.37ID:UGyojH9t0311人間七七四年
2014/07/14(月) 08:03:16.18ID:4unFyKeC桶狭間のあと家康が岡崎城を取り戻して
義龍が死ぬ前の1560年か1561年ごろか
清洲同盟はまだだがとりあえず小康状態ってことで和平、と言ってるのだろうか
でも信行生きてるってことは尾張を出た後数年岐阜に?
どこまでほんとかわからないから考察するだけ無駄な気もするが
0312人間七七四年
2014/07/14(月) 13:38:18.59ID:yk0AUsYP0313人間七七四年
2014/07/14(月) 21:37:42.78ID:J7/p7mbTこの夜、関白秀吉は密かに家康の旅館を訪ね、「長篠の戦い以来12年ぶりの対面です」と
大いに喜び、そして家康の耳元に口を寄せて、こう囁いた
「黄門(家康)もかねてから知っているように、秀吉は今官位人臣を極め、兵威四海を席巻しているが、
元々は松下なにがしの草履取りとして付き従っていた奴僕であることは、皆知っている。
やうやう織田殿に見立てられ武士の交わりを得た身であるから、天下の諸侯も表向きは畏服しているようでも、
心から帰順している者は居ない。また、今私の被官になっている者達も、元は同僚傍輩であり、実の主君とは
思っていない。
願わくば、近日大阪表で対面するときに、この事をよく心して対応していただきたい。
秀吉に天下を取らせるのも失わさせるのも、卿のお心次第ですぞ。
この事を頼みたくて、このように上洛を進めたのですよ。」
と、家康の背中を叩いた。
家康はこれを聞くと
「私は既に御妹と添い参らせ、またこのように上洛いたせし上は、ともかくも御為に悪しき計らいは
いたしません。」
そう答えると、関白もこれを喜んだ。
やがて大阪に渡り、厳しい作法にて御太刀・御馬。黄金百枚を進ぜられ、家康がこれにいたく敬服し
額ずいているのを見聞して、中国、筑紫の諸大名も
『大政所を人質として上洛された徳川殿ですらかくの如しである。我々がどうして秀吉を軽蔑することが
出来るであろうか』
と、これ以降国々の大名は関白を、以前に比べ10枚も尊敬するようになったと言われる。
(徳川実記:東照宮御實紀)
有名な秀吉と家康の、大阪城対面前の打ち合わせについてのお話し
0314人間七七四年
2014/07/14(月) 22:11:35.18ID:9++ZZLCs0316人間七七四年
2014/07/14(月) 23:33:45.73ID:hsweGQXa0317人間七七四年
2014/07/16(水) 22:16:02.06ID:i5spjsh6彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。
正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。
家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。
さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。
先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。
(徳川実記)
徳川家康、宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。
0318人間七七四年
2014/07/17(木) 20:28:21.67ID:P0EZJS5Gこの時、秀吉配下の黒田官兵衛家来、母里太兵衛友信が一番乗りをし、これに羽柴軍は
勇を得て進み、城中が油断していたこともあって即座に攻め落とし、城兵尽く討ち取った。
さて、この戦果が信長に注進されると、信長は「彼の地が手に入ったのは秀吉の働き故である。」
と大いに喜び、褒美として秀吉に、鞍置きの馬を遣わした。
しかし、これを頂いた秀吉は
「今度の城攻めは、偏に孝高(官兵衛)の働き故である。」
と、鞍馬を官兵衛に与えた。
しかし、これを頂いた官兵衛は
「この度の戦功は、偏に太兵衛の一番乗りの功によるものである。であるからこの鞍馬は
私が拝受すべきものではない。」
と、これを母里太兵衛に与えた。
この鞍は、太兵衛の子孫に今も伝わっている。
(黒田家臣伝)
信長から秀吉への褒美が太兵衛の元に至った過程である。
0319人間七七四年
2014/07/17(木) 21:21:49.27ID:p5iyhZHH「そなたのおかげでいざという時にその弓を引いて恥をさらさずにすんでよかった」って逸話が誰の話か思い出せぬ
0320人間七七四年
2014/07/17(木) 22:23:42.80ID:7ORMQOgDこれだね
板倉重矩と板倉家伝来の弓・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2123.html
0321人間七七四年
2014/07/17(木) 23:46:38.62ID:p5iyhZHHサンクス!思い出せてすっとした
しかし加藤嘉明の小皿を割った家臣に対する話といいこういう話は胸がすくなあ
0322人間七七四年
2014/07/17(木) 23:48:52.07ID:x4tNtAoU0323人間七七四年
2014/07/17(木) 23:58:59.78ID:WsBUM6N60324人間七七四年
2014/07/18(金) 07:47:26.31ID:QJ4Y8ymK付いた銘が「弓か折る」とかか
0325人間七七四年
2014/07/18(金) 19:15:43.58ID:s1lza5UX0326人間七七四年
2014/07/18(金) 21:11:41.36ID:Xaz8uGyP肩車の弥助
0327人間七七四年
2014/07/18(金) 22:59:30.28ID:BBI/UJGJ弘前藩三代目津軽平蔵信義は江戸勤番中、屋敷に大名たちを招いて深夜まで酒宴を張った。
ところが、大名の一人と口論になったため、その大名は裏口からひっそりと帰ってしまった。
信義はこれを知ると激怒し、「首をひき抜いてくれん」と刀をかざして玄関から走り出た。
その時、進藤庄兵衛正次がすばやく門を閉じ、その場に平伏し信義の行く手を遮った。
信義は、正次の首元に刀をつけ、「門を開けよ」と怒鳴ったが、「刃傷あってはお家の一大事」と正次は動かなかった。
しばらくにらみ合いが続いたが、信義はあきらめて屋敷に戻った。
一方の正次は信義の刀がかすって流れ出た血をぬぐい、夜通し門を守り続けた。
(進藤家譜)
津軽さん家の進藤正次さんでした。
時代は下ったけどすでに2つくらい信義さんの逸話出てるからいいですよね。
この進藤さん後に鬼庄兵衛とか呼ばれる家老にまで抜擢されます。
0328人間七七四年
2014/07/18(金) 23:19:50.20ID:Fmlp0bYo南部じゃないのは確か
0329人間七七四年
2014/07/19(土) 22:42:40.79ID:fFPbldre小早川秀秋の転封が正式に決まった時期、石田三成の家臣宛ての書状。
『殿下は我らに筑前筑後を下さり、九州の物主にしてくださるとのご内意でしたが、
そんなことをしては佐和山に置ける人もなく、身近で用を申し付ける人も少なくなるので、
(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
我らはこのまま(佐和山)でいよとのことになりました。
江州(近江)のその方の知行や蔵入(代官領)が増えないとなれば
悔やむ気持ちもありますが(くやみ申し候間)、よくよく申し付けてください。
次に筑後筑前は蔵入になるので、その旨百姓に言い聞かせるよう。
また金吾殿は越州(越前)へお替りになり、従って我らが(筑前の)代官になるよう命じられました。
近々筑前に下ることになるのでその心得でいるようにし、
この由を妻と父へも伝えてください(此由内儀、おきとのへも可申候也)。
廿二日 三成(花押)』
(「慶長三年(1598年)五月 家臣・大音新介宛て書状」 宇津木文書)
0331人間七七四年
2014/07/20(日) 08:18:44.37ID:dZ5BmJRv読解力がない人は読まなければいいのに
0332人間七七四年
2014/07/20(日) 08:26:08.37ID:NMYLKHiG0333人間七七四年
2014/07/20(日) 15:33:29.83ID:NXugiSla0334人間七七四年
2014/07/20(日) 15:46:52.90ID:w8DtMny2読みにくいと思う
0335人間七七四年
2014/07/20(日) 15:53:13.59ID:rqgpDVeb原文表示:(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
言い換え:江州(近江)
補足:我らが(筑前の)代官
言い換えと補足は現代文でやっちゃって、原文表示だけカッコにしちゃえば
それほど読みづらくはならないと思う
0336人間七七四年
2014/07/21(月) 12:39:24.59ID:2f/+l11S黒田長政は朝鮮のおける占領地のうち。4,5郡を重臣である栗山利安に預けた。
利安は慈愛を以って民を懐けたために、朝鮮人たちはその支配を喜び、毎日その政庁に来て
利安を拝した。利安は、「大勢の者と毎日対面するのは難しい」と、2,3日に1度づつ来るように
申し付けた。
この様子を知った黒田長政は、「鎮まりかねたる所を良く懐けたものだ、ちょっと様子を見てこよう」と
利安の領地に向かった所、朝鮮人たちはこの軍勢に驚き、合戦の用意を始めた。
しかしそこで利安の馬印が見えたため、そのまま鎮まった。
(黒田家臣伝)
栗山利安、朝鮮で善政を行うというお話。
0338人間七七四年
2014/07/22(火) 02:34:47.82ID:MO9dVXM+戦国関連の同姓同名なんてそれこそ、朝倉氏、伊達政宗、島津家久、松平家忠、牧野康成と
数えたらきりないし
0339人間七七四年
2014/07/22(火) 12:51:26.08ID:qOBkUal5有る時黒田家の陣営において、黒田三左衛門美作、野村隼人、後藤又兵衛の3人が一緒にあった時、
向かいに敵の唐人(明人)が一人あり、矢をただ3本、手に挟んでいた。
黒田家の3人はこれを見つけると、討ち取らんと争って駆け寄った。
先ず、後藤又兵衛が一番に馬で乗り寄った。しかし唐人が矢を放つと、これが又兵衛の小腹に辺り
落馬し、当の敵を討つことは出来なかった。
次に野村隼人が駆け寄ったが、唐人は近くに寄るまで矢を放たず、なおも近づいた時
放たれた矢が隼人に当たり、これも討つことは出来なくなった。
3番目に三左衛門が唐人の側まで駆け寄って、刀を抜いて振り上げた。
そこを唐人は狙いをつけて矢を放った。その矢は三左衛門の右手に当たり、肘から上腕の後ろまで
貫き、三左衛門はたちまち刀を落とした。
が、三左衛門はそれに構わずこの敵と組打ち、ついに仕留めたのである。
それにしてもこの唐人、ただ3本の矢によって3人を射たというのは、全く珍しいほどの手練であった。
(黒田家臣伝)
黒田美作、矢で撃たれたけど構わず敵を撃つ、というお話。最後はやっぱり力技ですね。
0340人間七七四年
2014/07/22(火) 15:26:38.89ID:OcCuZJZB0341人間七七四年
2014/07/23(水) 06:43:56.47ID:5E4XFPhC0342人間七七四年
2014/07/24(木) 02:21:04.77ID:GaAOfrKi三河に派遣し、岡崎城の留守居とし、松平領の奉行は鳥居伊賀守忠吉と松平次郎右衛門重吉の二人に任せ、
そこから得られる租税は皆、駿河の今川家に横領された。
しかし鳥居伊賀守忠吉は一人辛苦して、長年かけて米や銭を数多貯め、将来の戦に備え置いた。
そして元康が今川義元の許しを得て岡崎に帰城した時、鳥居忠吉は喜びに耐えず、元康の手を引いて
蔵へと連れて行き、そこを開いて見せ、言った
「私は多年に渡り。今川の人々に隠してこのように貯め置きました。これは我が君が早く御帰国あり、
御出馬されることがあれば、御家人を育み、また軍用にも事欠かないように、備え置いたものなのです。
私は年齢も八旬の残端(80代後半)となりましたが、朝夕神仏に願い続けたかいがあって、このように
生きている間に再び、我が君の御尊顔を拝すことが出来ました。生涯の大幸、これに過ぎる事があるでしょうか」
そう、老いの目から涙を流した。
元康も、これに大いに感じ入った。
この時忠吉は、銭が十貫づつ束ねて縦に積み置いてあるのを指さし
「このように積み置けば、どれほど重ねても銭が割れる事はありません。世人のするように横に積むと、
たちまち割れてしまいます。」
そう元康に言い聞かせた。
後、家康は銭を積むときは生涯に渡り、そのとおりに行った。そして常々このように言った
「これは伊賀の教えなのだ。」
(鳥居家譜)
有名な、鳥居忠吉銭米を貯め置くというお話。
0343人間七七四年
2014/07/24(木) 16:07:05.83ID:RVGnSxlI0344人間七七四年
2014/07/24(木) 16:08:44.58ID:sTZdITJy0345人間七七四年
2014/07/24(木) 17:26:12.07ID:VVEqGrMOお乗りだった馬は牝馬であるとかいうことだ。
後年、信長は秘蔵なされた馬を画工に命じて屏風に描かせた時、
その牝馬も描き加えさせ、描かれた馬は総計十三匹であるそうだ。
その屏風は織田山城守長頼が所持されていたが、長頼死去の時に
遺物として尾州家(尾張徳川家)へ送られ、現在尾州家にあるという。
――『明良洪範』
0346人間七七四年
2014/07/25(金) 11:17:49.84ID:9zqZIUq70347人間七七四年
2014/07/25(金) 11:21:30.05ID:gwO/rgqW0348人間七七四年
2014/07/25(金) 12:26:24.13ID:7satxje+0349人間七七四年
2014/07/25(金) 12:31:59.91ID:Kk6EkVvo0350人間七七四年
2014/07/25(金) 12:48:54.94ID:KxD94hZB0351人間七七四年
2014/07/25(金) 13:49:57.99ID:50OarqEx0352人間七七四年
2014/07/25(金) 14:02:01.80ID:Kk6EkVvoそうと気づかず…ゴメン‼︎
0353人間七七四年
2014/07/25(金) 17:17:37.19ID:Pne0/Jjw0354人間七七四年
2014/07/25(金) 20:12:29.11ID:lxC8vdSp0356人間七七四年
2014/07/26(土) 08:10:32.06ID:NhOkfCQj赤松家の台所方とされる人物が、弘治元年に置塩城で繰り広げられた酒宴で出された料理について詳細に記した「播州置塩夜話 六花亭物語」を紹介したが、
今回はその下巻にあたる「屋形物語」で、その18年後に開かれた酒宴を追体験してほしい。
天正元年十月八日、赤松則房の置塩城に、宇野下野守(長水城の宇野氏の関係者)がやってきて、夜食が出された。
宇野からはホラ貝、鷹1羽、鯉2尾、鯛5枚、宝命酒(薬酒)5升、
家長(原文ママ)平瀬清左衛門からは鴨2羽、勝男(鰹節)10節が献上された。
宇野は広間、平瀬は次の間で御料理を下され、赤松家家老・山田助九郎や相賀道閑が相伴した。
装束は身分の上下ともに無刀、上下(裃)着用。宇野の太刀持ち原小才次、小太刀持ち村松は御縁に控えていた。
最初に出した膳は、右に澄まし汁が入った汁椀、左に茹でた蕎麦が入った食椀、
椀の前に小皿を置き、香頭(こうとう=吸い口・薬味)として唐辛子、ワサビ、ネギ、大根、鰹節、柚子などを刻んだものを盛ったものである。
客が食椀の蓋を取り、汁椀の蓋を取って澄まし汁に香頭を入れて好きなだけかき混ぜて、それを蕎麦にかけると、蕎麦の下から色々なものが出てくる。
鴨、鯛、椎茸、あわび、きくらげ、麩、セン、玉子、厚揚げ、凍み豆腐、凍みこんにゃく、雪餅、炒めニンジン、ゴボウ、カンピョウなどが出る。
具材を下盛りにしておいたのだ。
2〜3口で最初の膳を下げ、引替膳を出した。
その膳は鯉の刺身と、右に白鳥の味噌汁、左に白飯を配している。
次は、鯛の1コン焼き(尾頭付きの焼き物)、シギの焼き物、御酒。
玉子、あわび、ゴボウ、クワイ、蓮根、椎茸の葛煮に、酒1返し、いも巻きを供した。
ここで中入りとなり、酒宴が始まった。
盃は5合入りの椰子杯である。
料理の方は、スズキの青ヌタ、サザエの壺焼きと、酒1返し。
雀の焼き鳥と、酒1返し。
十六島(うっぷるい海苔)の漬け焼き、酒1返し、ふくら炒り。
「沖の石台」という5升入りの皿鉢に、酢と生姜を溜め、大根、人参、柚子、タコ、イカ、アワビなどを盛ったものも出した。
次に玉子のふわふわを出し、各自に抹茶、あん餅、干菓子を出した。
この酒宴で呑んだ酒は、宇野3升、平瀬4升、相賀3升、山田5升。
宇野は「相生」を謡って退出し、嵯峨山隼人と碁を3番打ったが、明朝はくたびれ果てて休んでいた。宇野は酒が不得手のようである。
昼食は菜食で、田楽、御酒、クシコ、御酒、カツオ炒り、御酒、御菓子、饅頭、干菓子という献立。
宇野達はその夕方、暇乞いして帰っていった。
以上、珍しい料理だったので抜き書きしておいた。永く家に伝えていってくれ。頼んだぞ!
天正二年正月一日
置塩・相賀永次郎重茂 同・毛野鶴次郎武盈
0357人間七七四年
2014/07/26(土) 08:29:48.96ID:NhOkfCQjhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1670.html
0358人間七七四年
2014/07/26(土) 08:33:00.39ID:Kkl3FKi0前回のはこれ?
0359人間七七四年
2014/07/26(土) 08:33:20.18ID:Kkl3FKi00360人間七七四年
2014/07/26(土) 08:37:34.85ID:ynTzV5w9史料上はこのころから蕎麦切りが現れはじめるから、まだ蕎麦がきのころかな?
蕎麦の下に具材があって汁を掛けてるからそうなのかなあ
0361人間七七四年
2014/07/26(土) 08:59:54.68ID:HguOHKq9だれか作って写真うpして。鷹って食えるのか?あいかわらず酒の単位が升wいまよりもアルコール薄いとはいえよう飲むわ。
0363人間七七四年
2014/07/26(土) 09:50:34.10ID:ENrhe7f50364人間七七四年
2014/07/26(土) 09:58:58.12ID:DdbAyVs10365人間七七四年
2014/07/26(土) 12:43:47.83ID:axf17gV40366人間七七四年
2014/07/26(土) 12:50:48.42ID:cF4X+d7l0367人間七七四年
2014/07/26(土) 15:22:17.91ID:KmwpVQjX0368人間七七四年
2014/07/26(土) 15:31:36.50ID:esuODCTo寛永13年3月隠居城若林にて伊達政宗は、寝所でうたた寝してると
小さな子が現れ「ホレ、出発の支度が整ったよ早く行こう」と催促してきた
政宗「ホウ、随分早いな。」と身体を起こそうとするが金縛りにあって
動けない。堪らず腰元を呼び起きたがその子は襖に消えていったのだ。
そして、最後の出府し江戸で引き取るのは3ヶ月後。政宗には座敷わらしが見えていた話
東北怪談全集より
0369人間七七四年
2014/07/26(土) 15:57:48.82ID:1co0NzCY0370人間七七四年
2014/07/26(土) 22:39:31.64ID:Co23d2UJ三宅角左衛門、木村又蔵、飯田覚兵衛、その他一騎当千の勇士らと同座で昔の
物語りをされた時、清正が、
「源義経の家士である武蔵房弁慶ほどの忠臣は、今も昔もいるはずがない」
と申されたところ、森本義太夫が
「いや、武蔵房弁慶ほどの忠臣は昔は知りませんが、今は幾人もいるでしょう。
ですが、その主君の源義経ほどの大将は、今はいるはずもありません」
と申したので、清正を初め家人一同は笑いなさったということである。
名将良士と言われる人は、皆君臣の間が睦まじかったそうだ。神君(徳川家康)
は人を引き立てなさることをよくなさった。ある時の御話の折、
「昔の鈴木三郎重家を忠義を兼ねた良士であると世に言うが、我が家には重家の
ような忠義の士が幾人もいる」
と、仰せられたそうである。
陶淵明の『渠も亦人の子也』(『此もまた人の子なり』)とは、本当に
格言というべきである。この言葉は高貴下賤ともによく人情に通じている。
名将良士が心を用いるところはここにある。
――『明良洪範続編』
0371人間七七四年
2014/07/26(土) 22:42:18.22ID:PPRdKStg0372人間七七四年
2014/07/27(日) 03:42:11.27ID:zLeQ/84T0373人間七七四年
2014/07/27(日) 03:45:59.82ID:mZBctROr0374人間七七四年
2014/07/27(日) 08:37:07.44ID:V+cZAXqT太平の世では早急に悪久すべき
0375人間七七四年
2014/07/27(日) 10:50:20.36ID:m510hudy0376人間七七四年
2014/07/27(日) 11:17:44.06ID:XnQ916Jd黒田武士は知らんが、三河武士にはある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2639.html
0377人間七七四年
2014/07/27(日) 12:20:12.06ID:+EQiIhCF0378人間七七四年
2014/07/27(日) 21:50:36.34ID:xw6A6oT70379人間七七四年
2014/07/28(月) 02:56:43.87ID:NuNQEtm40380人間七七四年
2014/07/28(月) 03:37:48.78ID:9WmG8ITM分かります
0381人間七七四年
2014/07/28(月) 03:54:52.65ID:BsmDQudM恐れ、どうにも怯えた様子を見せていた。
そこで家康は酒井忠次を呼んでこう命じた。「いつもの海老すくいの狂言をせよ。」
忠次畏まり、つっと立って海老すくいを舞った。これは有名な絶技の芸であったので、一座の者達は皆
笑いのツボに入り大爆笑した。
これによし徳川の三軍にあった武田への恐怖の念はいつの間にか一散したのである。
(忠次かしこまりつと立て舞けるが、兼ての絶技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と
笑い出しにより、三軍恐怖の念いつとなく一散してけり)
(東武談叢)
酒井忠次の妙技海老すくい、徳川軍から恐怖を払う。というお話。
0382人間七七四年
2014/07/28(月) 04:15:08.51ID:ieY8KXOP0383人間七七四年
2014/07/28(月) 04:43:26.31ID:0U1KnlTJ0384人間七七四年
2014/07/28(月) 07:02:38.28ID:g/gxe8er0385人間七七四年
2014/07/28(月) 09:44:31.66ID:yaZjXFV0これは歴史が動いた瞬間ですわ
0386人間七七四年
2014/07/28(月) 09:50:16.77ID:JPO4AgR60387人間七七四年
2014/07/28(月) 14:57:47.46ID:bY1WnWpb0388人間七七四年
2014/07/28(月) 15:11:02.63ID:ZKq6NRc70389人間七七四年
2014/07/28(月) 17:22:09.44ID:wBqsu5SX0390人間七七四年
2014/07/28(月) 19:09:03.66ID:hmwj7KpU真面目に答えると>>388の言う通り春秋時代の三軍(上軍中軍下軍)に倣い全軍を意味する
0391人間七七四年
2014/07/28(月) 20:45:46.48ID:0U1KnlTJ0392人間七七四年
2014/07/28(月) 22:39:54.15ID:OF6jLvwu戦国どころか、平家物語の有名なシーンでも使われてたりする。
大納言気色変はつて、さつと立たれけるが、御前に立てられたりける瓶子を、狩衣の袖に掛けて引き倒されたりけるを、
法皇叡覧あつて、あれはいかにと仰せければ、大納言立ち返かへつて、瓶子倒れ候ひぬとぞ申されける。
法皇も『笑壺に入らせおはしまし』、者ども参つて猿楽仕れと仰せければ、平判官康頼つと参つて、あああまりに瓶子の多う候ふに、もて酔ひて候ふと申す。
俊寛僧都、さてそれをば、いかが仕るべきやらん。西光法師、ただ首を取るにはしかじとて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。
0394人間七七四年
2014/07/28(月) 23:17:39.03ID:JGXRelj80395人間七七四年
2014/07/28(月) 23:49:29.49ID:dd979FBFhttp://www.youtube.com/watch?v=FVvxOgmxeGA
横山光輝の「徳川家康」では天正壬午の乱後、北条との同盟の席で
海老すくいを披露し、徳川は大した事ないと北条を油断させてたw
万能技過ぎるwww
0396人間七七四年
2014/07/28(月) 23:58:28.40ID:ibhhCUUn0397人間七七四年
2014/07/29(火) 00:18:46.24ID:73ZyftsL0399人間七七四年
2014/07/30(水) 00:43:10.83ID:s9grfJZd0400人間七七四年
2014/07/30(水) 15:43:25.83ID:eu5p67WC豊臣秀吉の御前にて、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、蒲生氏郷、毛利輝元などが話していた時のこと
秀吉は
「たとえば昨今、織田上野介に兵五千、蒲生に兵一万をつけて合戦させたとする。どちらに味方すべきだろうか?」
と言った。
いづれも返答しかねていたが、秀吉は
「それがしは上野介につくべし。その故は、蒲生方より兜付きの首を五つ程も取るならば、その内に氏郷の首もあるだろう。
上野介方は四千九百まで討ち取られる分には、上野介は討死しないだろう。
然れば大将のはやく討ち取られたる方こそ、大きなる負けなり。」
と言ったという。
武功雑記
※織田上野介=織田信包
激しく既出の気がするけど、このパターンは無かった気がするので
0401人間七七四年
2014/07/30(水) 15:49:46.32ID:nayFSFDk■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています