【治部】石田三成総合スレ 12【佐吉】
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0883人間七七四年
2015/08/20(木) 12:57:57.33ID:WVkCP4NB看羊録には前田が秀頼を奉じて大坂におり、大坂内城と等しいほど高い門楼を建てて住んでいたが、
前田が領国へ帰国した後に親家康の三成が前田の家康暗殺計画を通報し、
それに乗じて秀頼に挨拶する名目で大坂へ入りその門楼を破壊しろと命令したが、
前田家臣が抵抗し家康が激怒したが宇喜多が間に入り前田家臣を諭して家臣を退去させている。
内府たがい条にも家康が北政所を追い出して大坂城西の丸に住み込み
本丸より高い城を築いたことを非難されている。
あきらかに前田には大坂城へ入ることは許可されていたが
家康には許可されていなかったのがわかる。
そもそも家康の人柄については
「秀吉が生きていた時には大変衆心を得たが秀吉に代わるようになってから
人々の望みに沿わなくなってしまった。秀吉は城を攻めて敵を打ち破った時でも、
敵人が服従すればすぐ仇であった怨みを忘れ、城池や農民領地も全然侵奪しないで、
ある場合には他の邑をもっと付けてやりさえした。
それに反し家康は恩怨を心ひそかに含み、一度でも反目するようなことがあれば、
必ず相手を死地に追いやってしまって満足した。
それ故、諸将は彼の力を畏れて表面は服従するが、一人として信服する者はいない」
と書かれているように秀吉の生前と死後で180度態度を豹変させている。
また宇喜多家の内紛で秀家に反抗して人を殺した家臣についても
家康は「秀家の不始末を幸いに殺した者の罪を取り調べなかった。
諸将はこのことをもってますます家康を小人だと言った」
とか「島津家に対して叛乱した伊集院が家康らに賄賂を使って死を免れようとした」
「義弘が我が武将が叛いたのであるからどうあっても自分が打ち殺してしまわねばならぬ」
「義弘の精鋭部隊の大半がこの内乱鎮圧の一年間に死傷し、家康らは心ひそかにこれを喜んだ」
などと書いていて明らかに家康には悪意があるのが当時の諸将の間で看破されている。
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