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【治部】石田三成総合スレ 12【佐吉】

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0001人間七七四年2014/05/17(土) 08:57:03.24ID:Zb/QIWu5
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(11)http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376665749/
0712人間七七四年2015/07/25(土) 19:33:35.54ID:FgQgZYoZ
五奉行でも家康が嫌いなのは三成と長束正家だけでしょ
0713人間七七四年2015/07/25(土) 21:30:49.43ID:5WjmK3o3
片桐、カワイソス
0714人間七七四年2015/07/25(土) 22:52:38.07ID:7Duc+qtu
>>711
それが事実なら、なんで西軍についちゃったんだろうね
0715人間七七四年2015/07/26(日) 01:41:42.67ID:h2M0Gj9l
それが最大の謎だから後にいろんな憶測がされた
まあ実際のところは三成にポストを約束されたか誑かされて西軍が勝つと見誤ったんだろ
あとは母親や娘に頼まれたというのもあるんじゃないか?
0716人間七七四年2015/07/26(日) 06:13:26.59ID:lmF3dmWC
秀頼が治部の息子でもないと
西軍があの規模にまで膨れ上がる理由が見つからない
秀吉の息子じゃないみたいなんだが恐らく
0717人間七七四年2015/07/26(日) 10:08:05.14ID:n7HtwQAe
>>716
それだと淀の態度が解せなくなる
0718人間七七四年2015/07/26(日) 10:29:42.22ID:lmF3dmWC
大野治長も一説によると怪しいらしいが
豊臣恩顧の諸大名の関が原での動きを見るとさもありなんとは思える。
いくら三成憎しといえども子飼いの大名が先陣切って槍働きとは・・・

小早川・福島・黒田といえば一門衆と同じだしな太閤に子種はないだろ
齢60過ぎまであれだけの女好きが音沙汰なしなのにw
0719人間七七四年2015/07/26(日) 11:10:49.56ID:ISZyLccA
いや、豊臣恩顧のほとんどかが東軍なんだが。
普通は、少数派の三成がおかしいと考えるべき。
三成が豊臣の代弁者であるかのような前提が間違えている。
実際、秀吉も含めた豊臣家は、家康に極めて友好的。
敵対が始まるのは、関ヶ原後。
0720人間七七四年2015/07/26(日) 11:43:43.34ID:n7HtwQAe
>>718
長浜時代に側室の子がいた説もある
0721人間七七四年2015/07/26(日) 12:12:05.78ID:DCfBlOqo
>>714
いろんな説があるけど、大谷吉継の西軍参加こそ関ヶ原最大の謎なんだよ
0722人間七七四年2015/07/26(日) 12:16:43.45ID:DCfBlOqo
西軍が膨れ上がった最大の理由は毛利の参加。そレ以上でも以下でもない。
0723人間七七四年2015/07/26(日) 12:30:37.91ID:LFn6ZPg0
西軍が数だけは立派になったのは会津征伐に加わろうとする諸大名に対して
関所を止めて従わなければ妻子を殺すと脅したから
少し前に秀次の妻子をガチで殺した実例があるため諸大名は虚仮脅しと断じることができなかった
西軍が数だけは立派で士気が低かったのもこのため
0724人間七七四年2015/07/26(日) 15:37:40.77ID:h2M0Gj9l
数が膨れ上がった理由の一つには、徳川に集中する権威権力の中だと自家の立場発言力が弱まってしまうとか
天下取りの野望を持った大名などが西軍に与したからというのも有るだろう
所詮は利害関係のみの繋がりだから纏まりもなく日和見や選局が決すれば寝返りする者達ばかりだった
大谷は大病で先の無い事、不意を突かれた事等を考えれば、あそこで自害するのは当然の成り行きで
0725人間七七四年2015/07/26(日) 18:54:26.49ID:biwVQVzm
大谷は関ヶ原時には本復してたんだけど
0726人間七七四年2015/07/26(日) 20:19:06.40ID:DCfBlOqo
>>725
それも推測しか証拠のない一説にすぎないがな。
0727人間七七四年2015/07/26(日) 21:03:59.37ID:BtwsEZrQ
大谷吉継の母は北政所の取次やってた東殿。
妹のこやも北政所の侍女をやっている。
だから北政所の意向で吉継は西軍に参加してる。
それ以前の吉継はガチガチの家康派。
0728人間七七四年2015/07/26(日) 21:24:19.27ID:h2M0Gj9l
大野治長も東軍だし、淀=秀頼は東軍寄りだったらしいが
北政所は養子らの無事の祈願はしても特にどちらにも特別に肩入れしない方針じゃなかったっけ?
ただし大坂に在ったから複雑だよな
0729人間七七四年2015/07/26(日) 21:25:21.87ID:FZlvX3rm
三成スレだぞ
関ヶ原スレじゃないぞ
0730人間七七四年2015/07/26(日) 23:50:12.05ID:n7HtwQAe
三成はしょっちゅううんこしながらじゃあ指揮もままならなかったのではないかな
0731人間七七四年2015/07/27(月) 00:23:28.91ID:vdJIAAAM
西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。

もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
0732人間七七四年2015/07/27(月) 00:24:34.34ID:vdJIAAAM
内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
(大坂に集めた人質の管理も北政所の職責のひとつ)
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。

しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。

景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
0733人間七七四年2015/07/27(月) 00:26:57.02ID:vdJIAAAM
大坂城内に大坂城天守と同等の高さの天守を家康は作り7歳の秀頼と淀を睥睨。
この天守で家康は事実上の独裁をしていたので、家康に面と向かって反対できるものなど当時いなかった。
その状況を無視するつもりかwwww家康に反対したら、家康暗殺を企てたとかすぐ風聞が飛ぶし。
董卓だって幼帝を殺す大逆はしなかったが、 家康は自分の妻子殺しどころか
秀頼や秀頼の子まで殺したついでに大坂20万人虐殺し、 摂津を中心に人々を奴隷化させて、
諸将が領国へ大規模誘拐するのを容認した悪党だからな。 董卓なんてガキレベル
三法師は信孝やお市や勝家に拉致られて安土に戻され無かった時点で終了。
これにより三法師の立場は傀儡になり、
対抗して信雄が当主当主なって三法師復権の目は無くなった。
三法師は信雄と信孝により立場を奪われた。
秀吉は秀信の成長を待って信忠の旧領岐阜を安堵し官位をガンガン上げてくれた恩人

北政所の側近の孝蔵主という人物
孝蔵主は石田三成とは親戚で一説には三成の父、又は母の姉妹だったといわれている。
もう一人の側近に東殿という人物がいるがこの人は大谷吉継の母。
更に北政所は三成の三女・辰姫を自らの養女としていた。
関ヶ原の戦いでは西軍の出陣後に北政所は戦の神といわれる愛宕天神の神社と秀吉の墓前で
西軍勝利を祈願していて、大津城に使者を遣わして開城勧告を行わせたのも西軍の為の行動。
戦後は東軍についた福島正則らの武断派や寝返った小早川秀秋とは距離をおいている。

三成の娘が上杉へ
ttp://94979272.at.webry.info/200903/article_21.html
また三成次女の娘である振姫は家光側室。
北政所ねねが養女(三成娘)を直江に託したのは上杉が領国に帰る際なので関ヶ原の戦い前年。
また家光の長女が三成曽孫の子。 春日局の養女であり、
男衆狂い家光の気をひかせるために苦労していたくらいなので、
嫡男が生まれてたら正室になってた可能性が高かった。
と言うか男色好きの家光の初体験女性だったし。
クソ馬鹿奸賊徳富蘇峰が、
ねねが東軍支持だと喚いていたから、
そのままその史観が定説化していた。
また大友が奴隷貿易していたように誤解させたのもこのクソ馬鹿が原因。
日本国民を煽って敗戦に導いた巨大ジャーナリストでもあり、
戦後に天皇批判したりと終始一貫しないキチガイ。
0734人間七七四年2015/07/27(月) 00:30:33.60ID:vdJIAAAM
>>三成がはめたからではないか
ぜんぶ一次史料の根拠が存在しない大ウソです。
そもそも関が原の戦い前夜の三成は家康派として働き、
家康を攻撃しようとした前田軍の侵攻を阻止するため
兵を北陸路閉鎖のために出したり、
三成の兄の屋敷を家康に譲渡したりしていました。
また三成の挙兵自体があくまで「風聞」でしかなく
当時、大坂にいなかった三成が細川ガラシャを捕らえようとすること自体が不可能です。
(だいたい内府たがい条において家康を非難する中で、
諸侍の妻子を勝手に国許へ返したことを非難してるのですから辻褄が合いません)
当然、挙兵の大義名分であった内府たがい条には三成の署名はなく
三成が挙兵に参加したのは風聞通り本当か?を確かめるために書状を再三だしていた
佐竹や真田へ無視を続けていた三成が、ようやく反家康を宣言する書状を出すのが
7月末日であり、このタイミングは伏見城が落ち、瀬田の大橋を毛利軍が確保して、
次の標的が佐和山城になるタイミングです。
戦前は三成と直江が関が原前に書状を交換している証拠の写書状を根拠に
上杉と三成の共謀策が信じられてきましたが、
近年ではそれは捏造偽文書と認定されています。

中井俊一郎氏「家康の加賀攻めの際、三成は家康に従い越前に出陣している。
これは「看羊録」だけではなく、前田家の史料にも見られるので史実と思われる。
また大谷吉継は前田派の加藤清正の上坂に備えて淡路に出陣したという。
これも島津義弘の書状にあるので史実であろう。この当時、三成らは家康に従う姿勢を示していたのである」


関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。
0735人間七七四年2015/07/27(月) 00:32:53.25ID:vdJIAAAM
五大老筆頭の地位は江戸時代になってから作り出された架空の捏造職です。】
清華成には内府たがい条を発給し挙兵した
毛利や宇喜多もなっているのも知らんとか恥ずかし過ぎるw
もちろん上杉も清華成で同格だし。
秀吉は同家格の彼らの中に徳川が埋没することを狙っていたわけだ。
五大老筆頭なんて言葉は江戸幕府が作った捏造語で、
秀吉は五大老なんて言葉は知らんから。
いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。
内府たがい状に 家康が諸大名の妻子を贔屓屓に国元に帰したことを弾劾してるから、
大坂には人質なんていなかった。 完全に作り話。
挙兵した西軍が伏見城を落とした辺りで、
帰属してきた美濃諸将から人質を取り始めたりしてるしな。
残念ながら、秀吉の遺言と称する二次史料の覚書に関しては、
家康を特別扱いした文面に限り、
直江状と同じで関ヶ原後の改竄で家康の正当化の作為指摘されてんだよ。

早稲田大学が持つ豊臣秀吉遺言覚書案は、
清水亮氏が宮部氏が家康の体面を重んじて江戸時代になって作成したと指摘してるし、
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
『殿』の敬称を付ける反面、
他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
さらに人質もろともみんなで大坂に政治中枢を移動した後のさみしい伏見に家康を閉じ込めて帰国禁止にし、
いつでも武政の大坂から権威の伏見を討てる形を作ったのに、
遺言だと徳川と前田に任せるような矛盾する話になっており、
そもそも伏見に家康が置き去りで、
奉行衆も検地などで下向して全員揃うことがあまり無いのに、
バラバラで合議制なんて成立しないという点。
極めつけは、この秀吉の遺言に関して、
上杉や毛利ら関ヶ原で負けた側には全く伝わってない不審さ。
これらを挙げて浅野家文書の遺言は関ヶ原後に手が加えられた可能性があるとされてる。
実際は秀吉がもともと上杉よりも下の家格だった前田家を急速に引き上げ、
ついには秀家、景勝、輝元より早く権中納言に利家が就任するなど、
利家を政権の後見役にしようとする動きが見えるため、
秀吉の遺言には前田家の秀頼後見役にする話しかなかったのでないかと考えられる。
秀吉が家康を特別扱いする必要性が無い。
そもそも関ヶ原の戦いの時に一番上の地位にいたのは家康じゃなくて、
西軍にいて尾張奪回を狙って出陣した正二位前内大臣北畠信雄だからね。
尾張で捕縛されて家康に土下座したけど。
0736人間七七四年2015/07/27(月) 00:41:14.46ID:vdJIAAAM
明との貿易が出来なかったために武力で先進技術や茶器や文物を手に入れたいと考えていた。
本願寺も朝鮮南部に拠点を作り布教をしようと、宣教師の真似事をしていた。
当時のアジア貿易による収益を考えれば朝鮮の領地を得て布教活動と中間貿易をすれば
豊臣政権による東インド会社のようなものが出来たかもしれない。
出征前は期待が大きかったが、実際に現地に行ったら日本より大きく劣化した貧困地域で、
おまけにむちゃくちゃアホみたいに寒かったからね。だけれども陶磁器技術の大幅向上や朱子学発展につながる
書籍類など江戸時代に隆盛する文化芸術経済には朝鮮経由で得た中華技術が下地にはなってると思う。
ただ400年後の明治政府が同じ道を選んでいるのだから、秀吉が時代を先取りしていて慧眼だったのがわかる。
ただ当時の技術力が時代に追いついていなかっただけだな。 悪意の解釈もしくは朱子学について全く知らずに書いてるだけだろ。
水戸学が発展して、日本の国家体制にひとつの解答が生まれ、世界の中の神国日本として海防意識も生まれ
それが発展した結果、明治維新に思想発展するなど、 日本近代化への知的蓄積と導火線になってるんだぞ。
秀吉はまだ戦国の気風が濃厚に残り平時に乱を望む諸大名らを半島で疲弊させる目的を持っていたと看羊録に記録されてるし
半島へ出兵中の諸大名の領地を検地したり、戸籍を製作してしまってる。また半島で失態を起した大名を改易して
豊臣恩顧大名への加増に回すなどよくよく考えられた政策を行っているし、 当時の西洋の植民地主義や重商政策というトレンドが、
日本でも秀吉の志向から芽生えていたのがわかる。また半島からつれてきた陶磁技術を持つ人材や書籍法典が、
江戸時代の文化レベルを飛躍的に向上させている。家康は強力な中央集権を放棄し幕藩体制という妥協をせざるを得なかった。
秀吉は絶対主義・絶対王権を背景にして半島南部に植民港湾を確保し、重商主義のもとに三角貿易による
巨額の貿易収支を上げる道を確立する前に死去してしまった。秀吉の朝鮮征伐はモンゴル軍を九州へ手引きをしたり
足利義持が明と絶交した際に、明が日本に脅迫にきたり、大雨で飢饉多発だった日本の衰退期に朝鮮が対馬侵略してきた
応永の外寇への報復を兼ねてるし半島南部は大和政権時代の失地回復のためでもある。なにせ朝鮮亡命貴族が多数日本にいたしな。
在日勢力が盛んに朝鮮出兵寸前のころから秀吉がキチガイ暴君になったとか朝鮮を攻撃したのは倫理的に非常に悪い行いで
それが原因で豊臣政権が因果応報のように滅んだと捏造歪曲しています。しかし一次史料のどこにも秀吉が天下統一後に
人格が豹変し信長のような悪魔DQNになったなどと書いてはいません。秀吉の海外大規模渡海派兵力を見た宣教師が日本は植民地化できない。
むしろ兵力を借りて海外植民地を作る方式の方がいいと報告しているからな。秀吉の中央集権による統率でしか為せない技で
家康の幕藩分割統治では不可能。欧米の脅威が日本を襲わなかったのは秀吉が国の四方に武威を広めて一目置かれたから。
徳川が貿易制限の海禁政策という名の事実上の鎖国政策で日本は遅れに遅れたが、秀吉の武威の遺徳が宣教師の記した文献として残り助かった。
徳川が東アジアの日本町などの海外港湾植民地を切り捨てたのは大失敗。徳川が大船建造を禁止したから
造船技術や遠洋航海技術が退化しまくりクソ過ぎた。秀吉の海外進出路線が続いていれば大艦隊がゆくゆくは完成していただろう。
秀吉があと2年生きていたら朝鮮南部支配に成功し、 港湾施設付き沿岸倭城を使った植民地経営が可能だった。
0737人間七七四年2015/07/27(月) 08:44:58.19ID:ibyaKubt
当時は西軍ではなく、京勢と呼んでいた。
つまり北政所がわざわざ京に滞在していたのは
公家ら朝廷側が家康側とならないよう
大坂側の味方につける工作をしていたとされる。
0738人間七七四年2015/07/27(月) 11:01:16.68ID:fYQTulh0
東国の坂東武者は西軍についてないもんな殆ど

大阪城は石山本願寺退去後に造られたので呪われているともいえる。
西軍総大将の輝元は一戦も交えずに防長二カ国に減封
明治維新のときも将軍が入城したけどもといういわくつき
0739人間七七四年2015/07/27(月) 21:23:03.95ID:9B8Cviva
>>737
五摂家なんて関白を奪い取られたままなんだから家康側につきたくなるのが当然だからね
豊臣が馬鹿な粛清で関白を空位にしてくれて家康が台頭した関ヶ原は公家にとって千載一遇のチャンス
ここで奪還しないと二度と五摂家に関白が戻ってこないのは確実だ
そして公家の期待に応えるかのように家康は関ヶ原に勝利したらすぐに関白を公家に返還した
会津征伐開始前に朝廷と事前に取引していたと考えるのが自然だろう
0740人間七七四年2015/07/28(火) 19:27:25.99ID:AVTlPziB
豊臣秀勝の娘の豊臣完子を妻に持つ九条幸家が23歳で関白に就任するという行動で
朝廷が仕掛けてきたので、天皇の義弟の摂関家秀頼を関白にさせる時に、
まだ秀頼は若いから関白はもう少し成長してからと言ういいわけができなくなったので、
家康は秀頼が23歳になる前に殺さなければならない立場に追込まれ
方広寺鐘銘事件をでっち上げて必死になっていたとか書いてあった。

さすが棚ぼた人生家康だけはあるな!
天皇の義弟にして摂関家の人物である秀頼を殺すなんて大逆無道なのは信長以下の所業だよな。
豊臣秀勝の娘を娶っていた慶長13年に九条幸家が22歳で関白に就任させて朝廷がしかけてきたので、
23歳で関白になれる年齢下限が設定され、
もはや若年だから秀頼に関白はまだ早いという言い訳ができない形にしたために、
23歳の秀頼が関白になる前に鐘の刻印に理不尽なイチャモンつけて、
必死に殺したのが悪辣老人家康。
秀吉ですら朝廷との駆け引きをうまく利用して昇進して関白となったあとに
官位官職を自由に許認可するようになっている。
家康はそこまでの官職に達してないので不可能。
だからこそ天皇の義弟豊臣秀頼が関白に任官する前に殺す必要に迫られたに過ぎない。
秀吉の関白職は、公家と武家を統御する史上最強関白職だろ。
従来の関白職は公家の統制しかできてない。
だから秀吉の公式、非公式の食事会の時などに、
秀吉と同席できる権利なども公家や武家を相手に使い分けてる。

中臣鎌足以来の新姓だからね。
皇室の藩塀として藤原に続いて豊臣を位置づけていたし、
倫言汗の如くって言うように、
豊臣を藤原と同格にして朝廷の利益代弁者として利用しているわけで、
その地位を下げるようなことを徳川から強いられることを、
朝廷の威厳を損なうことと同一になってるから、
朝廷をないがしろにする幕府への牽制のためにも、
秀頼を摂関家関白として、
武家清華家家康を抑えようとしてたのは間違いない。

まー朝廷は家康をイヤイヤ征夷大将軍に任じた時に、
同時に清正らに豊臣姓を与えて、秀頼の藩屏としての自覚を促しているし、
細川忠興も豊臣姓羽柴を名乗り続けていたからな。

天正18年に近衛信尹が菊亭宛に、
関白職が豊臣氏の世襲になるなら、
代わりに内覧職を私が任命されたいと申し出てるね。

秀吉と違い摂関家になる資格が無いから無理だったから征夷大将軍になっただけだし。
摂関関白家はそんな簡単になれんわな。
その家格統制こそが秀吉の朝廷工作の最大の肝であり、
結局家康は終生、秀吉に家格で上回ることが出来ない仕組みを作り死んだ。
だからこそ秀頼を家康は殺したんだからな。
0741人間七七四年2015/07/28(火) 22:11:29.37ID:AVTlPziB
関ヶ原の戦いの勝利者が家康ではなく武断派だったのは
家康には戦功に対しての恩賞の加増などの領地宛行状を発給できる立場すら失っている事からもわかる。
結局、豊臣公儀の体裁は守られ、公然と領地宛行状を家康が発給することが拒絶されたのである。
0742人間七七四年2015/07/28(火) 23:43:05.68ID:Ex+0/QK5
領地宛行状が発給されないことから関ヶ原の恩賞が担保されるのは家康が権力を握り続けている間だけとなってしまった
もしも豊臣に権力が返還されて東軍大名に家康が与えた領地など無効だから返せと言った場合
東軍大名は形式上従わなければいけない状況に追い込まれた
そのため武断派は家康が将軍になり新政権に移行することを黙認しなければいけない状況に追い込まれた
公然と領地宛行状を発給することをしていれば回避できたのに豊臣公儀にとっては致命的なミスと言えよう
0743人間七七四年2015/07/29(水) 07:37:04.83ID:aYyctKDA
>>742
関ヶ原の恩賞が担保されるのは豊臣政権が権力と権威を維持している期間だけだぞアホw
だから豊臣政権が維持できなくなると徳川幕府によって武功派の改易が開始された。
領地宛行状は封権的主従関係を結んだという証左であり、家康と武断派にはいまだ主従関係は存在しておらず
同格な立場で意見が言えることに他ならない。
しかも与力大名を廃止した上で一国一円支配の国持大名となった武断派は家康にとって恐るべき存在に成長してしまった。
0744人間七七四年2015/07/29(水) 08:26:53.96ID:aYyctKDA
織田軍の秀吉軍団→一職丸投げにより秀吉家中の形成への道が切り開かれる。
養子織田秀勝が成長し天正8年になると長浜近辺で判物・掟書を秀吉に代わり発給するようになり
長浜から秀吉権益が奪われ始め、最終的に養子にすべて持ってかれる道筋がたつ。
天正10年3月ついに秀勝が初陣し権力移譲が徐々にはじまる。

秀吉の自己防衛対抗策
織田軍団から秀吉家中形成による藩閥自勢力化。
但馬では弟秀長、因幡では宮部へ権力分掌し分国形成と支配強化。
天正8年には黒田へ秀吉が宛行状を発給するなど信長を通さず直接の封建的主従関係構築。
摂津の中川と兄弟の契りを結んだり、池田と秀吉甥の秀次の婚姻同盟。

信長生前における養子による全権剥奪に対抗しての秀吉分国自立化への動きは
信長死後において後継者となった信雄ではなく、秀吉から知行宛行を取得する事例が続発する結果を招いた。
これは信雄が信長から付随された津田一安を粛清する一方で木造氏の滝川雄利の家中支配を容認したため
信雄政権が信長時代に形成された所領・地位などを保障する主体として問題があり、
織田家中から十全な支持を得られなったのである。
0745人間七七四年2015/07/29(水) 21:37:29.66ID:ENUwK/nM
>>743
恐るべき存在に成長してしまい同格な立場で意見が言えるのに
豊臣政権が維持できなくなって一方的に改易されてしまう武断派w
馬鹿の妄言にしてももう少し一貫性のある書き込みをしたら?
0746人間七七四年2015/07/30(木) 00:26:39.28ID:t/UmPWQz
そいつほんまアホやね。そろそろコピペ爆撃くるかな
0747人間七七四年2015/07/30(木) 01:19:43.51ID:/VfsW9fU
大阪って本当気持ち悪い、イカれとるやつしかおらんな
0748人間七七四年2015/07/30(木) 01:52:40.68ID:HKHjxkfe
危険分子を西国転封しまくったため
西国は豊臣恩顧だらけになってるしなー。
まぁ清正をはじめ有力者が皆、あいついで死ぬまで
家康はなんもできなかったもんなあ。
0749人間七七四年2015/07/30(木) 03:58:00.48ID:+9AC6U9w
清正・幸長が相次いで怪死
秀頼も自刃で大阪落城これで徳川幕藩体制安泰だもんな

毒盛られたとしか
0750人間七七四年2015/07/30(木) 08:36:29.10ID:pytuPzvg
はいはい怪死怪死
0751人間七七四年2015/07/30(木) 22:27:12.14ID:XrZUtXfg
>>749
清正は流石に怪しまれて然るべきだが、秀頼を憎む秀次派で、秀次の妻子の
供養を池田輝政と一緒にやった浅野幸長が暗殺な訳ないだろ。

暗殺するとしたら、むしろ大阪の方だがね。
0752人間七七四年2015/07/30(木) 22:29:11.84ID:XrZUtXfg
池田輝政もそうだが、秀次の妻子の供養が何を意味するかは判るよな。
大阪に対する宣戦布告にも等しい行為だぞ、この両者は。それを意図して
やったんだからな。
0753人間七七四年2015/07/30(木) 22:55:12.18ID:Xo9jM4cT
豊臣は切腹させた秀次の首を妻子に見せつけて恐怖に震わせたうえで処刑し
死体はまとめて畜生塚に埋めて頑として供養を拒否していたくらい憎んでいたからな
輝政と幸長の行為は徳川政権下でなければ絶対に認められない行為だった
0754人間七七四年2015/07/30(木) 23:43:47.86ID:L7AQTFF3
家康より先に死んだ清正は危険で家康死んでから改易された正則は安全だったってどうして考え方を見直さないんだろう
秀康も内心は三成派秀頼派で御輿に担がれる可能性あったことにされるよな
じゃあもう忠吉も信吉も秀忠継承には目障りで直政も康政も忠勝も対豊臣には足手まといになるから殺されたと言えよ
0755人間七七四年2015/07/31(金) 01:26:01.16ID:Mqr1kb1N
実際、秀次派なんて存在してないから。
0756人間七七四年2015/07/31(金) 07:41:32.80ID:fo1u3g4U
>>755
池田輝政、浅野幸長、木村重茲、田中吉政、中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴、前野長康、・・・

この内、木村、前野は三族皆殺しになっているし(木村重成は篠原氏の出で篠原長房の孫)、
他も叱責、減俸など厳しい処分を受けている。

これらで生き残った者は秀吉、秀頼、石田三成を恨み、関ヶ原では反三成の最強硬派と
して家康についている。
0757人間七七四年2015/07/31(金) 11:24:23.95ID:Mqr1kb1N
一次史料にも一切、ヤツらが秀次を擁護した行動がない…
秀次を売って秀吉直属に鞍替えしたクズばかりじゃんよw
しかも戦いを主導した福島や黒田や細川ら最強の主力部隊と違って金魚の糞みたいにくっ付いてきたオマケメンバーだし。
そもそも石田三成を恨んでいたとする一次史料出してみろよアホw
0758人間七七四年2015/07/31(金) 14:04:30.38ID:cPBZkSv0
ずいぶん長い独り言だな
0759人間七七四年2015/07/31(金) 16:34:30.39ID:NKIe6OtP
アンチ秀吉三成の在日織田チョンくん相変わらず大ウソばかり吐くね。
浅野は秀次事件に連座してないしwwww
浅野は蒲生改易問題から「御身上果」となって
能登へ蟄居になるところを利家に擁護してもらって救われてる。
池田は妹が連座せずダメージなし。
秀次に附属された山内・中村・堀尾・松下・池田・田中
そして秀次右筆の駒井らはなんの咎めも受けず
特に関白殿一老と呼ばれ秀次居城の近江八幡城に常駐し直接統治を任されていた
執権トップの田中は2万8000石加増。
山内8000石、中村5000石、駒井1300石の加増と秀次失脚の功で褒賞されている始末。
また大庭・大山・前野右衛門・前野兵庫ら前野一族らも特に問題なく石田三成に仕えている。
前野長康は秀吉の裁定で中村預かりとなり駿河府中で謹慎だったのに、なぜかのちに自刃してるに過ぎん。
前田家の史料の三壺聞書には木村が秀次に謀反を勧めたと記され
(荒木に謀反を勧めた中川みたいな立ち回り)
ルイスフロイスは秀次を忌まわしき性癖を持つと記しており、
畜生塚というのもその秀次の性癖から名付けられている。
木村重茲の子は秀頼の唯一の幼なじみと言われ大坂夏の陣で玉砕してんじゃん。
お前の主張だと秀頼に殉死する理由があるのか?と言う疑問が出てくるわなw
そもそも三族皆殺しになっているとする証拠をだしてみろよw
0760人間七七四年2015/08/01(土) 12:03:13.47ID:CvUvacxW
むしろ三成こそが反秀頼だった
旧秀次家臣を大量に集めて謀反を起こし秀頼を監禁状態にしたうえで
秀頼の叔母のいる家を攻撃して秀頼を孤立無援に陥れようと謀略を進めた
0761人間七七四年2015/08/01(土) 14:26:54.21ID:C7d3M/e5
>>759 大阪在住、三成狂いのこいつ、また来たよwww
三成、秀吉嫌いはみんな、在日なんだとwww
どういう思考回路してんだろwww お前がどんだけ石田好きか知らんけど
いい加減うざいし、キモイから死んでくんない?
0762人間七七四年2015/08/01(土) 15:16:44.64ID:xFT73Ztc
秀吉も三成に重要なポストを与えるでもない、ご奉行でも下っ端
秀頼のことを託すでもないし三成には大して信頼はしていなかったんだろうな
0763人間七七四年2015/08/01(土) 16:50:28.74ID:4yJoOIxZ
>>760
秀次家臣を大量?その大量とやらの名前を具体的に挙げてみて下さい笑
>>761
チョンしか使わない手法である短時間での自演3連投で
必死に根拠ゼロの三成貶しお疲れさまです笑
>>762
秀吉が隆景死去後に秀秋の領地であった
北九州での大加増による九州の物主役を打診したのに
三成がそれをお断りしたから小身にみえるだけで、
秀吉が三成を信頼し期待していたのは間違いないわけだが。
三成がそれを家臣に謝罪してる書状も残ってるし。
0764人間七七四年2015/08/01(土) 19:02:03.82ID:MlHkKsm0
しかし、官位は清正・正則と同じ。正則と違い、羽柴姓を下賜されず。
歯車として利用されただけだな。
0765人間七七四年2015/08/01(土) 21:40:53.17ID:xFT73Ztc
>>764
福島正則は秀吉存命の1597年に侍従に任官し公家成しているから
諸大夫成の三成より上だね
0766人間七七四年2015/08/01(土) 22:07:21.48ID:C7d3M/e5
>>763
石田スレに書き込んだの今日これが初めてだけどねwww
どうしても自演で在日のやつにしたいんだとwww
この三成狂いのキチガイはwwww
0767人間七七四年2015/08/01(土) 22:09:47.35ID:C7d3M/e5
>>763 
IDも一緒なんだけど、どう説明つけるつもりなのお前?wwww
早くマジ死ねよ!お前が在日だろーが!
0768人間七七四年2015/08/01(土) 22:11:30.77ID:P+gBxS2v
おちつけ菅沼遼太
0769人間七七四年2015/08/01(土) 22:19:18.27ID:C7d3M/e5
なんでも菅沼とかいうやつにしたがる低能野郎
0770人間七七四年2015/08/01(土) 22:35:31.40ID:aq5+Trhv
菅沼と池沼はどう違うの?
0771人間七七四年2015/08/01(土) 22:44:00.01ID:a3EHCS+t
誰かが謀反を企てたようにして、家康を大阪から動かすの良いとしても
誘き出すなら東じゃなくて西のほうが良かったんじゃね?
0772人間七七四年2015/08/01(土) 22:55:47.62ID:xtBZsAFU
菅沼遼太今日も敗北してるw
0773人間七七四年2015/08/01(土) 23:00:31.04ID:I4822fn/
>>770
>>768>>772>>770自身みたいなやつのことが池沼
全部おんなじやつだったりしてww
0774人間七七四年2015/08/01(土) 23:30:22.36ID:CvUvacxW
>>763
北九州では謀反を起こしても何もできないから三成からすれば断って当然だろう
謀反を起こして秀頼を監禁するには畿内で蜂起する必要がある
移転拒否は秀吉の生前から三成が豊臣の破壊を考えていた証拠と言える
0775人間七七四年2015/08/02(日) 00:08:34.15ID:Dy5KNUNz
そもそも羽柴姓や公家成って奉行衆は誰も貰ってないじゃん。
特別三成だけが例外ってわけじゃないじゃん。
中央で取次や指南などをしたり検地などの政策実行する立場の者と
それに適してない武辺者で
棲み分けさせていただけの話。
0776人間七七四年2015/08/02(日) 00:21:52.70ID:1RnoQ+kH
そりゃ諸侯にならんと貰えんもん。
0777人間七七四年2015/08/02(日) 00:33:01.03ID:10eOLgVS
> そもそも羽柴姓や公家成って奉行衆は誰も貰ってないじゃん。

浅野長政
0778人間七七四年2015/08/02(日) 01:29:03.48ID:Dy5KNUNz
浅野は羽柴姓もらってないじゃん。
村川浩平だけがテキトーに浅野が豊臣姓をもらったと主張してるが。
ちなみに奉行ではない三成の兄の石田正澄は豊臣姓をもらっている。
福島正則の羽柴姓は秀吉死後前後から名乗っているとの説もあるが
これも村上だけがそう主張してるな。
村上以外でそう主張してる人いんのか?
0779人間七七四年2015/08/02(日) 01:39:04.74ID:hHPbX0DS
浅野長政は秀吉の妻のねねと同じ
浅野家の養子入りしていて
秀吉にとってもっとも近い姻戚関係にあったから
奉行じゃあり得ない甲斐一国を貰ったりと
他の奉行とは立場が全く違うからねぇ。
0780人間七七四年2015/08/02(日) 03:33:25.02ID:K93ARREd
>>777
前田玄以も公家成じゃなかったっけ?
僧侶だけど
0781人間七七四年2015/08/02(日) 03:43:45.85ID:K93ARREd
そういえば浅野長政は侍従に任官された形跡がないので公家成していないはず

正則Wikipediaにある↓の記述は正しい
正則と青木重吉だけは「公家 成」(侍従任官)とされて、浅野長政・加藤清正・石田三成らよりも一段上とされていた。
0782人間七七四年2015/08/02(日) 12:10:11.56ID:3dfVxhpa
ムキになってw、長々と長文書き込む>>759の方がよっぽど菅沼っぽいけどなww
0783人間七七四年2015/08/02(日) 13:23:15.46ID:1RnoQ+kH
いつもの自演じゃないの
0784人間七七四年2015/08/02(日) 14:19:20.42ID:Uh93XqkH
少なくとも、三成が秀吉に特別扱いされていない事は間違いないな。
0785人間七七四年2015/08/02(日) 19:48:42.95ID:ygjBx4GW
>>774
秀吉がそこまで読める人間なら、池田輝政一族は皆殺しにしているよ。
秀次の義兄で、秀次の信頼が厚かった池田輝政が、秀次の残党を糾合し何かを
やらかすことは、容易に想像がつき、事実石田三成、増田長盛ともその危険性を
指摘し、池田一族皆殺しを強硬に主張しているからな。

なお、秀吉死後、池田輝政は石田三成、増田長盛の読み通りの行動に出ている。
0786人間七七四年2015/08/02(日) 20:51:25.36ID:O4O+SaMj
戦国時代板のスレ
大量に落ちてる?
0787人間七七四年2015/08/02(日) 22:51:18.98ID:nekhiEMW
>>785
まったく逆だろ
三成が秀次の残党を糾合し何かをやらかすことは、呆けた秀吉以外には容易に想像がつく
加増よりもすぐに大坂に攻め込める佐和山を取ったことで三成が謀反を企てていることは武断派でなくても分かり切ったことだった
だからこそ秀吉の死後、三成が謀反を起こす前に排除しようと武断派は決起せざるを得なかった
0788人間七七四年2015/08/03(月) 06:04:50.38ID:Ap5BJHRc
秀次残党なんてもん存在してないし、
一次史料にもそんな勢力があるような痕跡もない。
池田輝政は家康と姻戚関係にあるから東軍にいただけで
積極的な反三成である証拠は一切ないし、
三成が池田輝政を危険視していた一次史料も皆無。
いい加減に一次史料根拠をあげずに
池田輝政ネタをしつこくレスするの止めろや。
0789人間七七四年2015/08/03(月) 23:30:15.07ID:51mNOvxU
>>774
この人、ごく基本的なところが抜けているんだよね。当時は朝鮮出兵の真っ最中で、
三成が>>774の言う通り油断できない人物だとすると、明と結んで謀反を起こすという
非常に効果的なオプションを使うことができる。

秀吉がそこまで頭がキレるとしたら、まずそのことを考えるはず。
0790人間七七四年2015/08/03(月) 23:30:18.46ID:yDfC+3jx
秀次も秀頼ぐ生まれた時に
「殿下の本当の跡継ぎが生まれたのは、本当にめでたい」
「それなのに私がいては収まりが悪い」
「かくなる上は全てを返上し出家いたします」
ぐらい空気読めば安泰だったのに
0791人間七七四年2015/08/03(月) 23:41:33.22ID:51mNOvxU
>>790
無理。秀次一人じゃない。
池田輝政、浅野幸長、木村重茲、田中吉政、中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴、前野長康などの
秀次派閥の党人がいる。彼らが黙っているはずがない。
0792人間七七四年2015/08/04(火) 00:41:04.47ID:i4l35RuY
いや、黙るでしょ。
0793人間七七四年2015/08/04(火) 01:11:43.65ID:9qSJ9AQg
秀次派閥なのは木村とか政宗配下だった栗野とか前野くらいしかいないわ。
あとは秀吉が秀次に付随させて補佐させてた出向派遣人材だけ。
秀次が身を引いたら普通に秀吉の元に帰ってくるだけ。
むしろ歓迎しただろね。
しかし明と三成が組んで謀反とかアホ過ぎて笑えてくる。
国交すらないのに三成個人にどんなトンデモ取次ぎ外交ルート持ってんだよ一次史料ソース出せよw
0794人間七七四年2015/08/04(火) 01:35:11.14ID:hmQLQ/+/
ミッツが動けば動くほど家康の天下取りへの助けにしかなってない
あげくに反家康の連中を一斉に叩き潰せるようにお膳立て
本人は自覚してたんだろうか
0795人間七七四年2015/08/06(木) 00:38:19.80ID:it7WZVWf
三成なんて目的も願望も分からないんだから徳川から見た極悪人でいいんだよな
0796人間七七四年2015/08/07(金) 08:24:42.68ID:/dq136Fz
武断派から命を狙われ佐和山蟄居になった時に、
命を救ってくれた家康に対して三成は息子を人質に出して、
初めて家康との主従関係を結んだので、
三成は大坂の屋敷を家康に貸して、家康の大坂入城と独裁をバックアップしたし、
それに怒った対徳川での上杉前田が同盟を組み領国へ帰っていった後の
加賀征伐では三成が越前まで出向いて前田軍の上洛をさせない姿勢を示し、
前田が家康と主従関係を結ぶ手助けをして前田派を壊滅させた。
上杉征伐でも三成は反対意見すら言ってない。
西軍挙兵した際に佐竹や真田が三成も決起したって噂だけど?という問い合わせにも返事してない。
伏見城が落城、大津城と勢多大橋を西軍が確保し、次の攻撃目標が佐和山になって初めて三成は
佐竹や真田に西軍に参加という返事を書いて内外に通達してる。
0797人間七七四年2015/08/07(金) 08:41:23.66ID:atsTnqyo
佐和山蟄居は佐和山隠居じゃないのか?
家督は譲ったと思ってた
だったら黙ってろ、と
0798人間七七四年2015/08/07(金) 18:16:02.64ID:/DlxbkwL
結局のところ関ヶ原の首謀者は三成と輝元どっちの方が辻褄が合うの? それとも他にもっと糸引いてそうな人とかいる?
0799人間七七四年2015/08/07(金) 18:36:24.66ID:jlzoLwnd
諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の輝元ら殿上人を差し押いて、
清華成の家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても指揮指導できるのは家格において輝元が首謀者としか考えられない。
0800人間七七四年2015/08/07(金) 18:41:45.08ID:Xhf1kxPe
自演で振り出しに戻そうとする菅沼遼太
0801人間七七四年2015/08/07(金) 19:14:14.08ID:/DlxbkwL
ほーん……ここら辺の事情詳しく載ってる本とかあったら教えてほしい
0802人間七七四年2015/08/07(金) 19:34:17.16ID:+WnJFZ7w
関ヶ原の合戦後直江兼続が
コ川家の家臣が優秀で
石田三成がいくら頑張ってみたところで
どうにもならないと発言した

大谷小西も当初は家康に味方していた
豊臣家は譜代の家臣も少ないし
秀次一族抹殺 朝鮮の役で 豊臣家の命運は尽きた
0803人間七七四年2015/08/08(土) 00:11:17.36ID:a/cvX4zA
>>790
諸大夫成は地下人だけど、公家成も清華成と同じ殿上人だけどね
0804人間七七四年2015/08/08(土) 00:17:21.75ID:a/cvX4zA
>>790じゃなくて>>799でした
0805人間七七四年2015/08/08(土) 01:54:32.86ID:qXLKHTvJ
>>799
三成は現役関白の命を奪ったくらいだから公家成だの清華成だの言ったところで無意味だろ
0806人間七七四年2015/08/08(土) 08:07:58.37ID:2mUBIXSh
>>805
デタラメ書くなよ。秀次事件に三成関係ないし。
0807人間七七四年2015/08/08(土) 23:38:16.88ID:n5fRlLOr
総大将は家格が影響するが、首謀者は関係ない。
首謀者の意味を調べればアホでもわかること。
言うのも恥ずかしいが、輝元を首謀者としている研究者はいない。
0808人間七七四年2015/08/09(日) 01:20:13.78ID:Awa2FWKJ
家康の手助けをしてきた小身の三成が首謀しても誰もついてこないわな
0809人間七七四年2015/08/09(日) 08:47:07.40ID:1H56lifo
三成の企画に輝元が参加。
大手大名である毛利家の信用力を得て西軍成立。
全く普通の話。
0810人間七七四年2015/08/09(日) 09:20:28.50ID:OQ3K8DsQ
佐和山でずっと静かにしてたら、どうなったんだろ?
復権しようとすれば、七将が黙ってない
0811人間七七四年2015/08/09(日) 10:07:09.60ID:upHbr7zP
まあ家康に通報された順だと
三成・吉継の蜂起→毛利・宇喜多の同調だから疑らなければ
三成の首謀だよな
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