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【治部】石田三成総合スレ 12【佐吉】

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0001人間七七四年2014/05/17(土) 08:57:03.24ID:Zb/QIWu5
■過去ログ
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0067人間七七四年2014/09/11(木) 08:28:21.45ID:KdKE201i
>>66
>>65ではないけど『慶長記』に「此節、治部ハ腹中瀉下候て、食も左のみ不進、」
とあるね
0068人間七七四年2014/09/11(木) 21:37:01.43ID:+NIX6KIF
いい話まとめブログだと
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4792.html
この話だね

他にも逃走中や捕縛後に腹を壊してたって話が複数あってちょっと可哀想だw
捕縛後田中吉政からも大久保忠常からも粥を振る舞われてるから傍から見ても辛そうだったんだろうな
0069人間七七四年2014/09/11(木) 22:26:30.56ID:UCqu2JoL
石田程、自業自得という言葉が似合う畜生は存在しないなww
0070人間七七四年2014/09/11(木) 23:38:08.11ID:xMDliU0D
>>67>>68
ありがとう
慶長記、ネットに原文ままのものがあったけど、読み解く自信ない…
おすすめ本とかあったら、よかったら教えてください
あとブログ面白かった
上質紙で目をつけられて悲しいやら可笑しいやら複雑な心境
でも命からがら逃げたらお腹も痛くなるよね人間だもの
0071人間七七四年2014/09/12(金) 23:34:51.30ID:P7R+T7gx
>>70
自分が持ってるのでいいと思ったのは「近江が生んだ知将石田三成」と「石田三成からの手紙」
二つとも三成の書状や掟書きから他の大名や家臣や領民との関係をひも解いてる

他の武将は親子・夫婦・兄弟間の手紙が残ってる人も多いが、
石田家は実質滅んでしまったから三成と家族とのかかわりが詳しく分からないんだよね…
(一族の仲が良好だったのは確かだと思うが)
白川さんの「石田三成とその子孫」を読んでみたいんだけど、その辺は書いてあるだろうか
0072人間七七四年2014/09/13(土) 19:04:16.48ID:Syhbu2Sq
>>71
何度もありがとう
「石田三成からの手紙」気になってたんだ
ちょっとお値段が張るから様子見てたんだけど、面白そうだから買ってみるね
「近江が生んだ〜」も図書館で確保したし、この連休に読んでみるよ

三成の手紙で>>68のブログに「城詰め飽きちゃった」とか本音がポロリと
書かれてたのには吹いた
人物が垣間見れる内容とか書かれてる手紙って面白いね
0073人間七七四年2014/09/15(月) 23:44:05.18ID:55kCDQxe
>>69
三日天下といわれた人も忘れんな。
0074人間七七四年2014/09/19(金) 00:05:28.91ID:jmtadMTF
関ヶ原、残念でしたね
0075人間七七四年2014/09/20(土) 15:01:13.62ID:oIgnK7Zk
ちょっと前に真田家文書を入手したんだけど、>>72の「城詰め飽きた」って逸話、
原文では「もはや御番もあき申候間、」とひらがなになっていて、「あき」の部分に「明」と注釈が付いてた
三成の他の手紙でも「御城之御番も近日ニあき(明、と注釈)申すべく候間、」とある

古語辞典調べたら「明く」は「明き」とは活用しないんだよね(俗語で使われてたかもしれないが)
「飽く」「開く」「空く」なら「あき」と活用するんだけど、すると原文の「あき」は実は「開き」か「空き」かもしれない

古文書解読に慣れてる人がいたら意見を聞きたいです
0076人間七七四年2014/10/04(土) 13:45:43.95ID:n9XKVsM4
三成が大河ドラマや漫画等に登場する際に、
白を基調にデザインされることが多いのは何か理由があるの?
0077人間七七四年2014/10/07(火) 12:06:07.52ID:EK1tBrB8
o
0078人間七七四年2014/10/09(木) 09:29:42.71ID:s3ITdRDL
あきは
自由になる
じゃないかな?
0079人間七七四年2014/10/13(月) 16:07:48.14ID:9K2teY1z
なんでこの人は治部少輔なんていう弱そうな役職を終生名乗っていたの?
弾正とかのほうがかっこいいし強そうだよね。
0080人間七七四年2014/10/13(月) 16:52:15.03ID:BBrsAhF0
そこらの田舎武将と違って勝手に名乗れませんから
0081792014/10/13(月) 22:17:58.27ID:9K2teY1z
秀吉さんもまさかこの人が豊臣方の実質的総大将になるなんて想像もできなかったから
治部省なんかに配属しちゃったんですかね。
本人もそんなこと考えてなかっただろうし。
0082人間七七四年2014/10/15(水) 12:31:33.00ID:igEfRqW2
戦国大戦というゲームで何故かムキムキになっていて爆笑した
0083人間七七四年2014/10/19(日) 12:37:51.06ID:qtXAqo3a
ふと思ったんだが
三成が領民に慕われる善政を敷いていたってのは
裏付けできる一次資料ってなんかある?

逸話じゃなくて定書(施政方針を示す文書)や法度書(禁令などを示す文書)の類か
井戸やら堤やらの遺構=産業遺産で

直訴できるようにしてたよってのは見たことあるんだけど
そんなの肥後に赴任直後の清正だってやってるわ
(天正十六年閏五月六日 加藤清正定書に明記あり)
正則すら千両堤の逸話&遺構があるんだし

文書は徳川政権の下で破棄されたで説明付けてもいいけど
遺構はそうそう簡単に消せんぞ
なんか確実な資料が物証はないのか?
0084人間七七四年2014/10/19(日) 19:50:22.19ID:SDstjNL8
加藤清正定書なんてあんないい加減で大雑把なもんが民政家を現しているとか本気で言ってるのかアホ杉www
書くことがまったくないから、とりあえず直訴だけ具体的に書いて逃亡かwww
清正のあれは阿蘇の重臣に目安してもよいと言ってるだけだろwwww
三成は村々に出しているし、村人に対して目安してもよいと書いているし。
直轄地でも家臣の領地でも規定以上の労役を禁止したり、
緊急のときでも別に労働分の支払いを約束している。
田畑の所有を保証したり、公平な税負担のために不満があれば、
最後はくじ引きで農民と奉行との取り分裁定するとまで譲歩していて
奉行の強権も否定している。

清正などとは雲泥の差だわ。さすが在日織田チョンは無知なくせに秀吉や三成を貶そうと必死www
0085人間七七四年2014/10/20(月) 00:22:43.23ID:kfPo7VuV
>>83
ねえよ。三成が領民から慕われてたなんてのは昭和に成って作られた伝説
0086人間七七四年2014/10/20(月) 07:16:54.05ID:BkIkPPYd
村々が三成が出した掟書を隠し持っていて、
それが現在まで残ってきたことを考慮すれば、
三成が善政をしたので慕われていたのは間違いないだろう。
0087人間七七四年2014/10/20(月) 08:40:21.22ID:/ua7X8XF
>>86
権利関係は時代に関わらず残すもの
「前の領主様はこのような定めでした」という証拠になる
0088人間七七四年2014/10/20(月) 11:21:40.93ID:CEu4foH/
軍師黒田官兵衛で石田三成がかなり小悪党に書かれているけど
前にやっていた直江兼続では「なぜ皆離れていく…」みたいな書かれ方だったよね
0089人間七七四年2014/10/20(月) 23:29:19.68ID:YC7WpJRV
>>84
三成は豊臣の公金をいくらでも着服できる立場だから
村人から税金を搾り取る必要もなかったからな
自分の領地の収入だけで朝鮮出兵の負担まで賄わなければいけない清正とは立場が違っていた
その代わり奉行をクビになったとたんに財政破綻を起こしてあっという間に蓄えがゼロになってしまったが
0090人間七七四年2014/10/21(火) 03:21:38.74ID:5Z8fl2kS
>>87
近江の人間は綸旨すら偽造して権利を主張するやつばらだが
0091人間七七四年2014/10/21(火) 10:41:49.05ID:TLnUCVGC
>>87
いやほとんどそんなもんは村々に残されてない。大ウソを吐くな。

そもそも信玄の大小切の税法など真に慕われたものしか
そういうのは遺されてない。
なぜならそんなもんを残していても新領主の心証が悪くなるだけだからだ。

>>89
相変わらず大ウソですね。

>>90
掟書に関する綸旨なんて近江で発給されてませんがw
0092人間七七四年2014/10/21(火) 12:48:05.71ID:+WNZhsy6
>>91
その論法、何を出しても「慕われたから遺った」で言い抜けるね
0093人間七七四年2014/10/21(火) 14:58:12.16ID:fAPbYyfF
>>92
そこまで言うなら、じゃあ三成以外で実際に残ってたものを具体的に挙げてみろや。()
0094人間七七四年2014/10/21(火) 15:32:07.83ID:9PxIbl/L
大河見たけど、リアルな友人って大谷、佐竹、直江だけ?
敵は多すぎるわ
0095人間七七四年2014/10/21(火) 16:26:32.08ID:PqAwp755
>>91
アホか。前の支配者の文書はどこでも残ってる。畿内では織田とあれだけ対立した三好の発給文書も
大切に保存されとるんだぞ。適当な事を言ってごまかせると思うな
0096人間七七四年2014/10/21(火) 17:25:04.25ID:MYW7wR5x
関ヶ原の役で佐和山城が陥落した際、城内には蓄えがほとんど残っていなかったそうだが、これについて
三成は普段から収入を家臣に気前よく分け与えていたので蓄えがなかったという説と、
関ヶ原の戦いに全財産をつぎこんだので全然残らなかったという二つの異なる説を目にした

真実に近いのはどちらなのか
家康との一戦はずいぶん前から想定していたはずだから普段から軍資金を貯めこむよう心掛けていたと思うのだが
0097人間七七四年2014/10/21(火) 21:33:57.83ID:fAPbYyfF
>>95
で、三好氏が村々に出した掟書の一次史料を早くだそうねw
0098人間七七四年2014/10/21(火) 21:56:21.63ID:PqAwp755
>>97
お前はろくに書籍も読めない馬鹿だとは思うが、天野忠幸先生の三好氏研究の本を一冊でもよめ。
0099人間七七四年2014/10/21(火) 22:25:58.30ID:fAPbYyfF
その本なら持っているんだがwwwwwww
0100人間七七四年2014/10/21(火) 22:36:52.55ID:PqAwp755
>>99
じゃあお前はまともに日本語が読めないということだな。不憫な
0101人間七七四年2014/10/21(火) 22:54:53.81ID:fAPbYyfF
はあ?可哀想にwww
0102人間七七四年2014/10/22(水) 00:10:42.72ID:oUR5NPa3
>>96
そもそも金銀がなかったのは佐和山城だけであって
長束の水口城からは莫大な金銀が見つかっている
奸臣として疑いの目を向けられている三成のところに金銀を運び込めばすぐにばれるから
長束のところに奉行の裏金を運び込んでプールしていただけ
ところが長束がケチって関ヶ原に自分の城の金銀を出すのを嫌がった
これは三成が長束に宛てた手紙にはっきり書かれているから事実なわけ
だから佐和山城に金銀がなかったことなど本来は何の議論の種にもならないのに
一部の西軍厨が水口城を無視して佐和山城だけ取り上げて騒いでいるに過ぎない
0103人間七七四年2014/10/22(水) 01:21:21.71ID:A+dOexTr
>>102
一次史料を出してください。
0104人間七七四年2014/10/22(水) 23:05:26.26ID:ArfTlqLq
>>103
先ず何についての一次資料を欲しているのかを述べよ
0105人間七七四年2014/10/23(木) 06:38:36.70ID:zUTeGnw/
うーん、この糞レスの数々。だががいるっぽいな
0106人間七七四年2014/10/23(木) 08:16:30.79ID:TkUr4Hr1
金銀5千枚。銀三百貫目が水口城にあったって書いてるのは
後世に書かれた改正三河後風土記くらいじゃん。

水口城から莫大な金銀が見つかったとする一次史料を教えてください。
0107人間七七四年2014/10/23(木) 14:30:43.46ID:ebPFGrnu
>>86
当時としては珍しく領主への直訴も認めていたしね
0108人間七七四年2014/10/23(木) 15:34:20.39ID:rhqhb83v
>>107
珍しくねえよ。戦国期畿内の惣村の成長の成果だ。
0109人間七七四年2014/10/25(土) 14:47:28.94ID:/Ls5iBFy
>>108
だから一次史料を出して証明してくれよアホ
0110人間七七四年2014/10/25(土) 18:25:04.10ID:4+fyTphZ
>>109
何の一次資料だよ?おまえ一次資料といえば相手が黙るとでも思ってるのか?本当に馬鹿なんだな
0111人間七七四年2014/10/25(土) 22:49:16.55ID:qCndG40/
>>94
大谷と友人説はほぼ江戸か明治にできた逸話
直江が親しいのは島左近で三成とは別に…って説もある
佐竹はわからん

逆に挙げられてない中で仲が良いっぽいのは小西かな
真田兄も書状みるとご近所さん的な仲良しっぽい
0112人間七七四年2014/10/26(日) 08:56:32.64ID:3r+cNuQr
菅沼が湧いてアンチが湧いて水掛け論じゃねーか

井戸や堤などの遺構の方は全く論じられてないが
これは無い(あるいは皆知らない)って事でいいのか?
地元民なら何か知らないだろうか…

ちなみに「福島正則 千両堤」でぐぐってへぇーってなって
「石田三成 堤」でぐぐって泣いた
0113人間七七四年2014/10/26(日) 09:03:27.41ID:LxtAGmMx
織田 秀信とも仲が良かったよ。
基本的に織田一族は秀吉のご恩を感じて西軍側だし。
巻き添って滅亡寸前になるまで豊臣擁護してたくらい。
0114人間七七四年2014/10/27(月) 11:54:38.43ID:dTQqEbgU
>>112
自分はあれだけ決め細やかに書いた掟書で善政のソースとして十分だと思うがダメなん?
というか、佐和山周辺は即時に堤防作らなきゃいけないような場所あったかな?
0115人間七七四年2014/10/27(月) 17:53:41.85ID:JNicbodX
>>114
うん立地が近畿だし
急いで土木事業が必要とも限らないから
そういう遺構が無くても不思議じゃないと思ってる

でもせっかくちらっと話題に出てたんだし
現地を旅行で訪れた時にそういう遺構を
見てまわれたら楽しいだろうなと思って聞いてみた
0116人間七七四年2014/10/27(月) 21:28:29.16ID:+GEva5ce
掟がキメ細かいということは、それだけ強制しないといけない現実があったという証拠でもあるからなあ
0117人間七七四年2014/10/28(火) 05:16:41.69ID:ZRkRE8EU
自分は掟書見て三成が行政官として優れていた事が裏付けられたように感じたが
感じ方は人それぞれなんだな。某まとめ管理人さんとか、あらゆる面でもろに三成に否定的だし。
0118人間七七四年2014/10/28(火) 05:18:35.04ID:jVucNfPC
そりゃ評価なんて人それぞれとしか言いようが無いからな
0119人間七七四年2014/10/28(火) 15:43:29.69ID:TpcFQzwU
掟書の文書のどこら辺が具体的にどういう風に強制しないといけない現実が読み取れるのか書いてくれないか?
農民を手厚く保護して、農民に権利を与えているようにしか読み取れないが?
0120人間七七四年2014/10/28(火) 19:48:27.82ID:nYNrVF8K
史料を読むほどの知力などないだろw
読まずに批判否定してる無能が織田在日なんだから。
0121人間七七四年2014/10/28(火) 21:15:40.55ID:Rwxe1Zi6
どう対処すべきかがしっかり書かれてるいい掟書だと思うけどなあ
これ長浜歴史博物館のお取り寄せ可能な刊行物かなんかに載ってる?
博物館のサイト見てたらwktkが止まらねえ

あと地元民&熊日新聞社の連載を単行本化した奴持ってて
丁度原文と発給状況を確認できるから清正公さんを擁護させてもらうと
あの天正十六年の阿蘇氏に宛てた定書は
まだ肥後赴任前のやつなんで大雑把なのは堪忍したってなw
0122人間七七四年2014/11/08(土) 15:00:04.40ID:q6wyg9Zm
ところで、よく言われてる唐入りの時に補給をまともに行わずに諸将の足引っ張ったって話のソースは何?
0123人間七七四年2014/11/14(金) 20:41:25.66ID:77I8B5i+
諸将の働きを過小評価またはちょっとしたミスを過大評価して讒言したのはよく聞くが
補給サボったとかいうのは初耳
0124人間七七四年2014/11/15(土) 20:58:55.65ID:ITb//+Ub
そもそも讒言とか過小評価して報告とか一次史料から証明できないだろ。
軍記講談による汚名の冤罪だから。
三成と盟友だった小西行長とかも軍記講談だと商人のヘタレ息子みたいな書き方されてるが、
実際にはかなりの猛将で朝鮮でも島津と共に最後まで日本軍の撤兵を支えきってるし。
清正とか武断派組は逃げるように最初の方に朝鮮から帰ってきてるし。
0125人間七七四年2014/11/15(土) 21:15:34.95ID:rdZeeh9k
>>124
後に残ったから猛将とか最初に帰ったからヘタレとか頭おかしいんじゃねえの?
実際には帰れる人間から帰っただけだし
0126人間七七四年2014/11/15(土) 21:33:35.27ID:K8O0zgrW
小西は無能だから撤退が遅れただけ
そのせいで島津や立花が救援に行かなければならず足を引っ張りまくった
戦も交渉もできないくせに撤退もできない役立たずでは清正でなくとも不満を抱いて当り前だろう
0127人間七七四年2014/11/15(土) 23:03:09.62ID:ITb//+Ub
バーカwww
小西軍団の中に島津隊がいたのに、
島津が救援に行くもなにもねーよアホwww
小西が滅亡したから、島津が武功を横取りしてるだけだからw
島津は関ヶ原でも敗走を中央突破とか歪曲してるしな。
島津は架空戦記を考えた挙句に釣り野伏とか話を盛ったりと宣伝がホントうまいわw
0128人間七七四年2014/11/16(日) 19:12:08.95ID:4w3IMcU9
何気なく書き込んだ人が三成の子孫かも知れないとちょっとだけ盛り上がったNEWS+板

http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1416120414/481
0129人間七七四年2014/11/16(日) 22:49:04.79ID:pGddJ81O
>>128
青森ならありそうだな
でもその場合は三成弟じゃなくて三成次男の家系?
0130人間七七四年2014/11/17(月) 14:26:12.79ID:0DYQRVW1
弟の家系と聞かされているようだが
実際は三成の直系じゃないのか?って話か
0131人間七七四年2014/11/17(月) 16:50:07.36ID:y7vR3KnW
本能寺前から秀吉に仕えている連中には嫌われているけど外様大名には割と好かれているよな
0132人間七七四年2014/11/18(火) 08:32:22.08ID:4nD8sGuB
そりゃ三成は外様大名と豊臣政権の取次ぎの一人なんだから、取次先の大名とは一種の利権関係にある。

外様に好かれてるってことは、それだけ利権関係でズブズブだったってことだ。
0133人間七七四年2014/11/18(火) 20:21:49.23ID:c3cxOapc
浅野みたいに伊達と絶交宣言されちゃう取次ぎも居るけどな
政宗とどうやって常時友好状態を保てばいいのかはちょっと分からんけど

>>128
三成本人の生存説は秋田の方だし、次男つまり「長男の弟」の
重成が落ち延びたのは津軽だからその解釈でいいんじゃない?
0134人間七七四年2014/11/18(火) 20:29:13.65ID:7EJPbrs3
ほんと無知だな。
取次すら全く知らんで語るなよ。
取次や指南と言う形で外様大名の政治や統治に口出すんだよ。
だから本来、嫌われ役なんだよ。
取次だけしか出来ない無能は奉行にはなれない。
ズブズブって言うのは奏者の職責の中で、
外様大名の要望を秀吉に伝える手筋ってやつが一番近いんだよ。
アンチ秀吉の織田在日くんは貶すのが目的なだけで知識がまるでない
0135人間七七四年2014/11/18(火) 20:39:23.94ID:4nD8sGuB
>>134
おまえは取次が相手方に利権を有する中世の慣習も知らんのか。
その上で三成は取次をしていた主に西国の外様とズブズブの関係だったってことだ。
秀吉死後に島津への加増に三成が賛成したのはそういう関係があったからだよ。アホが

小説の清廉潔白の三成なんて夢物語を信じてるのかお前は
0136人間七七四年2014/11/18(火) 20:57:31.73ID:c3cxOapc
>>135
織田在日とか言うあたりで
自分が在日キチガイの菅沼遼太のレスって分かるから無視すりゃいいじゃん
ほんと鬼上官や鬼島津を叩くために石田スレに常駐してるんだな
0137人間七七四年2014/11/18(火) 21:00:05.61ID:EmDhIVId
佐竹上杉とも仲良かったよな
外様で三成と仲悪いのって誰
0138人間七七四年2014/11/18(火) 21:15:19.93ID:GhQdyHju
>>133 >>137
浅野長政が宇都宮家潰さなきゃな
佐竹上杉宇都宮のライン出来たのにな
0139人間七七四年2014/11/19(水) 03:17:26.21ID:XMCXsCSS
豊臣政権は潰さなくていい家を潰し潰さなきゃいけない家を潰さなかったところがある。
0140人間七七四年2014/11/19(水) 03:42:13.21ID:S5lvlA9v
>>139
いかにも既に何があったか知っている後世の人間がバカの一つ覚えの後知恵でやってる批評だねえ。
0141人間七七四年2014/11/22(土) 00:01:19.04ID:nLZ6IgRy
全くその通りで石田家を早く潰しておけば豊臣家は安泰だったのに
0142人間七七四年2014/11/23(日) 19:42:28.57ID:/bDWPAYG
どうにも、蒲生家大減封は三成の告げ口陰謀ではないのではないかと思える
他にも冤罪と思われるような案件はないかい?
0143人間七七四年2014/11/23(日) 19:50:25.31ID:VUKVxPeg
それこそ冤罪じゃ
まあそれはともかく蒲生の旧臣が石田家に仕えているから
三成のせいで減封だったら石田家に仕官しないと思うんだ
0144人間七七四年2014/11/23(日) 21:03:23.07ID:/bDWPAYG
だから、蒲生家処分は三成の所為じゃないだろうと言っている
豊臣政権下の不審な変事(織田信雄改易やら秀次事件やら)については
何かと三成の陰謀が噛んだことにされすぎたのでは
0145人間七七四年2014/11/25(火) 07:52:10.38ID:Wsq3KVtD
宣教師の記録に蒲生氏郷の死が秀吉の陰謀で、三成も絡んでるみたいな著述あるから、
同時代で既にそう言われてたのは間違いないんだろう。
0146人間七七四年2014/11/25(火) 13:20:44.77ID:JB0X0DgC
>>145
論点がズレてるぞ
「蒲生氏郷暗殺疑惑風聞」の話じゃない
「蒲生騒動に対する減封処置の不明瞭さ」の話だ

蒲生家重臣間の派閥抗争を抑えられなかった責任を
まだ幼い蒲生秀行に負わせるのは酷じゃないかという考えがあり、
三成の陰謀が介入していたという説もあれば、反論もあるってこと
0147人間七七四年2014/11/25(火) 20:25:38.19ID:Y+ZpLG+m
>>145
へぇ〜。フロイス日本史かな?具体的にどう書いてあるの?
蒲生は秀吉が禁止したキリスト教棄権を無視していたから仕方ないんじゃない。
佐々みたいに統治に失敗して自刃よりマシじゃん。
統治能力が重視されてたからね。
蒲生発の騒乱が飛び火して伊達や最上など奥羽全域の一揆や紛争になったらかなわんからね。
たださえ秀次と伊達と最上がつるんでいる噂があったり、
南部が味方につけた前田、蒲生が津軽をバカにしたりと東北田舎者イジメしとったからな。
いろいろと紛争のタネはあったわけよ。
0148人間七七四年2014/11/26(水) 09:14:11.01ID:Hsb2qtnV
氏郷はキリシタンだから伊勢神宮燃やそうとしたから
秀吉が焦って宣教師のこない会津の田舎に飛ばしたからな。
それでも宣教師を会津に呼んだらしいが。
九州征伐の時にキリシタン禁止にしたから、
宣教師は九州征伐記述のページから突然、秀吉貶しを開始してる。
正直、日本は一夫多妻制で世継ぎを生み、その子を家督継承者として
惣領制を維持することで争いを回避しようとしていたのに、
氏郷や黒田官兵衛はキリシタンだから一夫一妻なんだけど、
側室を持った途端に女好きとか秀吉非難したりするのはおかしい。
0149人間七七四年2014/11/26(水) 11:00:38.24ID:Bodms95t
>>148
でも同じく禁教令出した家康に対しては、秀吉程の非難はしていないんだよね
0150人間七七四年2014/11/26(水) 12:22:54.24ID:rmyhHxWG
看羊録の作者が日本に連行され伏見に来たのは秀吉が死ぬ寸前。
その前後の日本国内の話は信憑性が非常に高いが、
逆にそれ以前の話の信憑性は低い。
だから、看羊録作者は北条氏がいたことを知らずに、
相模の領主を代々引き継いでいる家康などと大きく誤認してるのが露呈している。
徳川のことと北条の内容を区別できずに混同し間違ったことを書いているため、
史料として採用出来るのは慶長期の記述のみである。
宣教師はずっと日本にいるから、それ以前の記録は宣教師の記述を利用すると良い。
しかしこれも条件付きであり、
秀吉が九州征伐時にキリシタン大名に棄教命令を出して、
宣教師や信者たちが天草に逃げ隠れてから、
宣教師の記録が秀吉を信仰を妨害する悪魔だと悪口三昧言い出すように豹変するから、
宣教師の記録は天正14年の記述以降、 かなり秀吉についてねじ曲がったことを
書き連ねて罵倒していることに留意せねばならない。
(フロイス日本史はフロイスが慶長2年死去しており、ローマの総長への報告も文禄3年あたりで
終わっているらしいが現存は文禄2年までで、慶長3年に死んだ秀吉のことを最後まで記してない。
その後の慶長期の研究史料は看羊録が引き継ぐ形になっているがここで致命的な事実に気づくだろう。
それは文禄4年の秀次事件に関する第三者的客観史料がない事実である)
0151人間七七四年2014/11/26(水) 13:38:35.23ID:Bodms95t
ルイス・フロイス以降もイエズス会は年報を提出しています
0152人間七七四年2014/11/26(水) 13:51:10.52ID:Hsb2qtnV
>>145>>149>>151
具体的にどう書いてるの?
0153人間七七四年2014/11/26(水) 15:47:54.96ID:Bodms95t
>>152
なんか淡々と書いているという印象
0154人間七七四年2014/11/26(水) 20:07:15.88ID:bOheTF38
蒲生騒動を調べようとするたび
蒲生の群れの前に心が折れる…

「わかってるねんで?秀行を補佐したのが蒲生郷可で」
「秀行を補佐したのは蒲生郷安です」
「わかってるねんで!」

ってなる切なさを誰か分かち合って欲しい
0155人間七七四年2014/11/26(水) 20:38:43.64ID:+JUzmhLN
気前よくあげすぎだよな
0156人間七七四年2014/11/26(水) 21:01:22.79ID:r5qN9hri
>>130
ていうか三成に弟いたの?

>>144
正直、その手の「それはきっと三成のしわざですね」系の話で実際に三成が関与したと言えそうなのは
精々秀次事件の時に秀吉の命令で汚れ役を担ったっぽい?くらいかな?
でも、あれもよく「三成達が秀次とその優秀な家臣団に地位を追われたくなかったから」
という尤もらしい理由で三成主犯説が唱えられてるけどそれならまず秀次の妻たちや女児、例えば秀次とは面識すらない駒姫まで殺す理由が無いし
秀次と連座した面々を見てもそこまで躍起になるほどの人物がいないし、逆に仮に秀次が生きて跡を継いだら三成の政敵になっただろうなあ
って感じがする山内一豊とかあの辺はみんなお咎めなしだし。
0157人間七七四年2014/11/26(水) 21:28:51.58ID:bOheTF38
>>156
秋田市八橋本町の帰命寺を開山した
木食唱岳・長音上人の伝説じゃないかな

石田三成本人又は、その弟とも伝わる伝承がある
真偽のほどは不明なので秋田の詳しい人頼む
0158人間七七四年2014/11/26(水) 21:33:40.30ID:ZRAx/03K
蒲生氏郷の死に関しては、その妻を秀吉が狙ったって話は当時かなり広まってたらしいな。
0159人間七七四年2014/11/27(木) 00:58:50.25ID:OJ7DN92L
ソースと内容をキチンと明示しろよ。
〜らしいみたいな話はやめてくれ。
具体的に書いてくれ。
0160人間七七四年2014/11/27(木) 01:05:11.72ID:B23tmVQQ
2ちゃんなんだからソースの掲示義務は無いけど、
同時代でそう言われてたんだとしたら確かに気になる話だな
0161人間七七四年2014/11/27(木) 07:44:25.55ID:OJ7DN92L
内容を具体的に明示できないのは
どうせ江戸時代に作られた逸話類なんだろw
それかアンチが創り出した話とか。
0162人間七七四年2014/11/27(木) 13:48:30.70ID:0h7LBXlg
秀吉は織田の血筋の女性への執着があったことは知られていたからな
氏郷の室もモノにしたかった可能性を、当時の人々も考えても不思議は無い
まあ、この件に関しては風聞を信じないけど
氏郷は前々から黄疸の症状があって、死因は肝機能障害だから
0163人間七七四年2014/11/27(木) 20:38:04.28ID:44yuxn7P
で、その風聞はどの一次史料に書いてあんの?
0164人間七七四年2014/12/03(水) 09:45:16.87ID:ezHLUEqW
>>149
もうインドに力をいれていた宣教師側も日本での布教を諦めてて、
代わりにオランダやイギリスが商売込みで家康に近づいてきてた。
アメリカ大陸経由ルートが活発化し始めたからね。
0165人間七七四年2014/12/05(金) 00:10:01.71ID:9d5KwEXt
なんで関ヶ原のときに追撃しなかったんだろ。背中から突いてやれば東軍崩壊
した?
0166人間七七四年2014/12/05(金) 10:48:00.18ID:iLA4nEtM
>>165
師の信玄から学んだ家康が三方が原の戦いの再現を狙っていたので、
追撃したら待ち構えていた家康にフルボッコされる。
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