武田勝頼「どうすりゃいいんだよ・・・・」
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0001人間七七四年
2014/03/13(木) 21:09:55.75ID:D792n7uD/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 織田と北条でかくなり過ぎだお
| (__人__) | 徳川も敵だし・・・
\ ` ⌒´ /
/ ̄ ̄\こら!やめろ
.ノ \,_. .\
(>)(< ) |
/ ̄(__人__) |
/ _ノ .ヾ⌒ ´ | こうなったら上杉と結ぶんだお!
/ o゚⌒ { . / 妹やるから助けてお!!!
| (__人\ .カ
\ ` ⌒´ン .ノノ ギュッ
/  ̄ ./ . .. し}
.(⌒二_刄j⌒) .i
0587人間七七四年
2014/09/15(月) 23:19:23.17ID:vT/vfpbm30万石しか残っておらず、900万石の織田とその同盟者100万石に同時に攻め込まれるような超絶ムリゲー状態の戦争でも勝ったり負けないのが上杉
0588人間七七四年
2014/09/15(月) 23:22:01.37ID:ClM7wn1P柴田が力攻めって魚津城くらいで他は御館の乱や新発田の乱や中郡での神余や本庄らと上杉が戦ってる隙に
飛騨口別働隊やら佐々長縄やら長やら神保やらを送り込んできてコソドロしただけなんだけど。
自力では全く切り取れてないわけだが。
0589あ
2014/09/15(月) 23:25:16.16ID:WP4HIH09わずか6000で柴田45000森6000滝川10000新発田&伊達・葦名20000ら80000相手にろくに負けず五分に戦ったのが景勝
よって上杉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田は確定的
織田と上杉の武将の指揮能力や采配能力が互角なら
謙信を手取川で瞬殺し
景勝は1週間程度で瞬殺してる
0590あ
2014/09/15(月) 23:27:26.32ID:ClM7wn1P景勝は信濃戦線に出兵してる時期で魚津城は放置するしかなかったし
新発田・蘆名とも忙しかったし
0591あ
2014/09/15(月) 23:30:00.73ID:606asyIPそれでも延々と戦い続けて、持ちこたえているのが上杉。
0592あ
2014/09/15(月) 23:42:05.84ID:606asyIPろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田
0593人間七七四年
2014/09/15(月) 23:47:15.38ID:KQ7ofHe0全然装えてないけど
0594人間七七四年
2014/09/16(火) 00:04:53.01ID:jFFk+MOE抑止力だったスレも削除してもらって有頂天ってとこか
0595人間七七四年
2014/09/16(火) 00:17:23.36ID:ctnjOk6l0596人間七七四年
2014/09/16(火) 05:51:48.41ID:3WrcT3CU上条は捨て鉢になり、兼続も途方に暮れ、景勝は遺書めいたものを書く状況。
越中と北信濃を押さえられることがなにを意味するのか、
義父謙信が生涯にわたりこの2地域を必死に守ってきたことからも明らか。
100年以上に渡る一向宗門徒の影響がまだ色濃く残る越中を柴田方面軍は着実に潰してきた。
たった3年足らずで。
その証に本能寺の変の後も、上杉が柴田与力の佐々にすら歯が立たず二度と支配することがなかった。
後に秀吉が佐々を傘下に組み込んだその時に、上杉も実質、秀吉の傘下に降った。
越中を大勢力に取られることは、越後(上中越)の経営に致命的だからだ。
推定石高や推定兵数による妄想ではゲームの中では成立するだろう。
しかし現実はその推定通りには行かない。語るに落ちたな>>592
0597人間七七四年
2014/09/16(火) 05:55:27.44ID:3WrcT3CU逃げても無駄だぞお前が書き込む限りずっと聞いてくから
0598人間七七四年
2014/09/16(火) 06:38:20.63ID:MF61ceAL0599人間七七四年
2014/09/16(火) 07:17:09.61ID:bj5OTDWOまるで誰かが自演失敗を演じているかのようだ
0600あ
2014/09/16(火) 07:59:03.73ID:XZQN/XRj>景勝は遺書めいたものを書く状況。
そんなもの全く書いてない
>越中と北信濃を押さえられることがなにを意味するのか
越中は景勝が御館の乱や新発田の乱や中郡での神余、本庄、黒川やそれを支援する伊達や蘆名と戦ってる隙をついて神保や長や佐々長縄や飛騨口別働隊などを送り込んでコソドロしただけだな
むしろそんなヌルゲーで戦ってた割に上杉が越中に出陣を少しできるようになるとまるで侵攻できてない。
信濃では4/2に森長可が長沼城攻防で敗北し、長沼城を上杉に奪われた後、さらに仁科地方まで奪われてるのが4/2上杉景勝書状と
4/20頃の上杉→島津忠直書状でわかり
上杉は島津に仁科地方の防衛を命じている
5月の佐竹宛書状でも富山城は奪回されて残念だが、信濃口は全く堅固で問題ないとか書いている
0601人間七七四年
2014/09/16(火) 08:05:11.66ID:XZQN/XRjそのせいで越中には禍根が多く
何のしがらみのない織田は侵攻する上で非常に有利だった。
現に神保を送り込んで御館の乱や新発田の乱の隙にコソドロするのは成功してるし
長年戦争に巻き込んできたために上杉が国人にうらみを買いまくってた織田にとって超絶有利な土地である越中を
織田はろくに切り取れず天正10年時点ですら小島に富山城奪回されたりするアホっぷりだからな。
>100年以上に渡る一向宗門徒の影響がまだ色濃く残る越中を柴田方面軍は着実に潰してきた。
一向宗は上杉があらかた討伐しまくり
その上織田は城割と、国人の皆殺し粛清で国力をあらかた削いでたから侵攻する上で超絶ヌルゲーだったのは間違いない
現に佐々や神保らの活躍により、上杉の内戦中の間に越中や能登の国人はあらかた織田に寝返ってるし
その後はろくに攻略できてない。
>たった3年足らずで。
越中に織田方別働隊と神保や佐々などが送り込まれたのは1579年
しかし上杉はその時期御館の乱で内戦中、その後中郡での攻防やそれを支援する伊達や蘆名との攻防の隙をついて
>その証に本能寺の変の後も、上杉が柴田与力の佐々にすら歯が立たず二度と支配することがなかった。
>後に秀吉が佐々を傘下に組み込んだその時に、上杉も実質、秀吉の傘下に降った。
越中を大勢力に取られることは、越後(上中越)の経営に致命的だからだ。
0602人間七七四年
2014/09/16(火) 08:14:18.67ID:XZQN/XRj越中に織田方別働隊と神保や佐々などが送り込まれたのは1579年
しかし上杉はその時期御館の乱で内戦中、その後中郡での攻防やそれを支援する伊達や蘆名との攻防中であり、越中に派兵する余裕などない
もっというと動員兵力5000前後の上杉には、織田900万石と交戦する事などハナから不可
しかし実際には上杉の内乱が少し収束しだす1581年前後から(実際には新発田の乱や伊達や蘆名との攻防は継続中だが)
織田は信濃、上野、下越、越中、奥州と5方面から80000以上の兵力で攻めこんでも
ほとんど戦果が無いどころか、信濃でも上野でも撃退されたりしてる
それほど織田と上杉では圧倒的に指揮能力や采配能力に桁違いに差がある
>その証に本能寺の変の後も、上杉が柴田与力の佐々にすら歯が立たず二度と支配することがなかった。
佐々は信濃で5000前後・下越で2000・奥州で15000・越中10000と自国が5000前後しか動員できないのに8倍前後の敵と同時に戦ってる上杉相手に全く歯が立たず
上杉が下越や信濃に派兵した隙をついて越後に侵攻する事すらできなかったよ。
佐々8000〜10000相手に下越・奥州・信濃にも敵がいる5000程度の上杉じゃ
本来なら速攻責め潰されてもいい所だが結局ほとんど戦果はないからね
上杉は佐々より圧倒的に強いので5分に戦ってる
>後に秀吉が佐々を傘下に組み込んだその時に、上杉も実質、秀吉の傘下に降った。
越中を大勢力に取られることは、越後(上中越)の経営に致命的だからだ。
上杉が秀吉と通じてたのは天正10年からだし
これは秀吉→須田の書状でわかり、誓詞交わして人質出す約束までしてる
秀吉は対柴田でも対徳川でも景勝軍に依存しまくりだったからな
柴田戦では景勝が信濃や下越で忙しい中越中方面の佐々を釘付けにしてもらうお膳立てやってもらって
対徳川でも徳川方の主力20000を領国に釘づけにしてもらった上に信濃の川中島侵攻要請やってもらったおかげで
徳川の小牧方面への動員兵力がわずか8000で済んだだけだし
0603人間七七四年
2014/09/16(火) 08:15:19.32ID:FKCADDg9上杉5000は信濃中部の麻績地方などで小笠原4000を瞬殺するなど大暴れしてたのが小笠原史料でもわかる。
新発田攻略に向かってた時期もあったし
単体相手に全力を注げる佐々8000〜10000相手に下越・奥州・信濃にも敵がいる5000程度の上杉じゃ
本来なら速攻責め潰されてもいい所だが結局ほとんど戦果はないからね。
0604人間七七四年
2014/09/16(火) 08:15:58.03ID:XZQN/XRjそれでも延々と戦い続けて、持ちこたえているのが上杉。
松倉城の枝城の魚津城落としたところで、越中と越後国境の親不知の天嶮を織田が乗り越えるのは、
天正8〜10年の間で織田方が立ち往生状態だった平野部中心の越中中部〜魚津・松倉間の行程に比べて遥かにキツイ。
流石に国力差がありすぎて織田が優勢でも、すぐにあっさり終結するような状況とは程遠いと思われる
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦し
天正12年段階ですら富山奪い返されたりしてる
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北 越中中部で苦戦したのが織田軍
0605人間七七四年
2014/09/16(火) 08:16:28.60ID:FKCADDg9織田500万石+徳川50万石+上杉120万石あれば
長篠で大敗した武田100万石なんて瞬殺できるか、あるいはグイグイ押し込むのに十分すぎる国力差。
それができないのは織田の指揮官が相当劣ってた証拠。
対上杉にいたってはそれ以上で
柴田45000+森6000+滝川10000+新発田・伊達・葦名19000前後 合計80000なら
内乱の連発で自壊した上杉なんて普通なら1ヶ月程度で瞬殺できてる
だが上杉と織田では指揮官の指揮能力や采配能力が桁外れに違うので
普通なら一ヶ月程度な終りそうな兵力比でも
柴田はろくな備えもない平城の魚津城に苦戦しまくり
森や滝川は、越中と下越と信濃の三方面に敵をかかえる景勝わずか6000程度の見事に撃退される始末
0606人間七七四年
2014/09/16(火) 08:17:03.36ID:lnfK8QdB30万石しか残っておらず、900万石の織田とその同盟者100万石に同時に攻め込まれるような超絶ムリゲー状態の戦争でも勝ったり負けないのが上杉
0607人間七七四年
2014/09/16(火) 08:18:14.96ID:XZQN/XRj越中や能登には神保を初めとして上杉に怨恨を持つ連中が多く
信長はそれを利用し越中を能登を火事場泥棒したからな。
しがらみが深く、長年の戦いの怨恨や敵愾心もあるため不利にしか働かんのだが
0608人間七七四年
2014/09/16(火) 08:18:47.04ID:J9/TIldo御館の乱
乱後の中郡の反景勝勢力とそれを支援する伊達葦名との攻防
新発田の乱
織田はつくづく運だけは一流。
しかし実力は皆無なので、上杉の自爆に付け込んで北陸を長・佐々・斉藤・神保らに、柴田らも加えてコソドロさせて
越中能登は城割と国人の粛清で、国内を空洞状態にしたヌルゲー勝負でも
柴田45000森6000滝川10000+伊達・葦名・新発田20000と総勢90000前後で挑みかかっても
上杉6000に撃退されまくるアホっぷり。
これだけ実力差があってはいくら兵力差があろうと
自爆状態を火事場ドロボウされようと勝てるわけがない。
0609人間七七四年
2014/09/16(火) 08:23:14.07ID:Si0TiOpx>推定石高や推定兵数による妄想
北陸の柴田軍が45000なのは享禄以来年代記や末森記前編利家武功覚書に書いてある
上杉の動員兵力が5000しかいないのは上杉氏軍役帳に書いてるし
領国に信濃4郡や佐渡、出羽の庄内が加わり
居残り兵を残す必要のなかった小田原合戦時の動員で10000でしかないのが、豊臣の陣立書に書いてる
上杉はこの時期奥州の伊達・蘆名・下越の新発田、信濃の森、上野の滝川、北陸の柴田」と同時に戦ってるので
一方面に出せる兵力はせいぜいよくて2000だな
魚津城攻防でも信濃に出兵してたから景勝自身は中なか出兵できず魚津の1000そこそこの城兵で戦ってただけだし
0610人間七七四年
2014/09/16(火) 09:02:23.59ID:8QjGn8Qg0611人間七七四年
2014/09/16(火) 09:32:56.88ID:Ed5XjXmC日本語の意味が文脈で変わるという現代文の基礎すら知らなかった馬鹿がどうかしたか?w
0612人間七七四年
2014/09/16(火) 09:33:33.91ID:XZQN/XRj0613人間七七四年
2014/09/16(火) 09:33:59.99ID:P6at91KX0614人間七七四年
2014/09/16(火) 09:47:58.96ID:uBnynGKWID:XZQN/XRj「599に指摘されたんで[あ]は最初だけに改めました。
これで普通に自演失敗でしょ。態とらしくないでしょ」
0615人間七七四年
2014/09/16(火) 10:18:00.03ID:Puuge4AD意見としてどっちが正しいかなんて一目瞭然
0616人間七七四年
2014/09/16(火) 10:18:35.99ID:G4QrYfUP0617人間七七四年
2014/09/16(火) 10:42:13.58ID:PiFwjfTL自演だのなんだの言って話をずらす馬鹿がいるからな
議論じゃ勝てないからって見苦しい
0618人間七七四年
2014/09/16(火) 11:24:48.88ID:uBnynGKW0619人間七七四年
2014/09/16(火) 12:40:27.95ID:IUOvZGIY>4/20頃の上杉→島津忠直書状でわかり
>上杉は島津に仁科地方の防衛を命じている
この二つの書状でどうわかるんだ?ちょっと原文該当箇所書き出してみ
0620あ
2014/09/16(火) 15:28:54.79ID:Ed5XjXmC…(中略)
各相談、如何ニ取懸候共、堅固之仕置尤候、
去而又信州口之儀、長沼之地、昨二日乗取候、森敗軍候、
彼仕置申付之上、人数差遣候、令出馬、新発田退治案中ニ候、千言萬句其地用心相極候、謹言
山吉景長殿
せり沼友重殿
0621人間七七四年
2014/09/16(火) 15:39:46.66ID:Ed5XjXmC…飯山長沼武主之儀、誠推参ニ雖可被思召不顧憚申立候ヲ、謙信様御代二も堀江新地ニ被差置候條
彼者ヲ可被仰付候間、尤塞蔵院、芋川ニ被差添候者、大略五百余可有御座候由奉存候、「
0622人間七七四年
2014/09/16(火) 15:54:14.30ID:Ed5XjXmC直江→西方房家
天正10年4/29書状
芳札被見、乃、上様御樽被差上則令被伐露候、自分へも送給祝著申候、次、仁科筋人数被遣由に候
吉左右候ハ、重而御注進待入候、将又、先達而以書中申入候、其元敵地への往復、不通ニ可被相留由
堅御掟候間、左様御心得尤候、恐々謹言、
追而、青梅給候、賞申候、以上
0623人間七七四年
2014/09/16(火) 18:15:34.96ID:lUpzOU4n0624人間七七四年
2014/09/17(水) 01:02:12.97ID:Qqz46uSv長沼を4月初めに芋川らが奪ったは上杉関係の書籍、上越市史なども同じ見解だけど
>>621の飯山長沼の城主を決めようとしてるのもわかるが
その後あっさり織田に奪い返されたが、通説、上杉関係の書籍、上越市史などの見解で、
上杉がたが保持していたという根拠は?
知行の宛がいなどは本能寺後だし、
本能寺後に飯山城を抑えるように(つまり保有していなかった)という書状もあったはず。
>>622
それは仁科口に軍を送ると言ってるのであって
仁科地方の防衛とはならないと思うが、現に仁科の小岩岳なんかを宛がっているのは本能寺後の6月半ばとかが初出じゃ。
あとは5月辺りの上杉に帰参した城持ちの信州17騎の面々がどの程度の勢力かだが
大筋では北信濃は普通に織田家のものとなっていたんだろう。
0625人間七七四年
2014/09/17(水) 02:39:06.55ID:HtiSbgOnそして北条二万の根拠は、それだけの長文にもかかわらず反論すら出来ず。
菅沼、お前の理論は他も全てデタラメと認定されてるんだから諦めな
0626人間七七四年
2014/09/17(水) 02:46:56.10ID:HtiSbgOnほとんどコピペ(失笑)
越後についてもっと勉強しなよ。他人のコピペ写してるだけじゃ矛盾とボロが出まくりやで
その程度が通る大学(行ってたのかどうかからして怪しいが)通ってたんだな
0627人間七七四年
2014/09/17(水) 03:55:50.75ID:SLJT0ha70628人間七七四年
2014/09/17(水) 07:38:52.09ID:+FuuvP3K0629人間七七四年
2014/09/17(水) 09:11:51.57ID:W3oeaJDB0630あ
2014/09/17(水) 09:19:38.58ID:gZ7ObgFy織田が長沼城奪回の話が出てくるのは信長記の中の一つである総見記だな
それでそれによると4/5に長沼を織田方が奪回したと書かれているが
しかし実際には4/11にも長沼の城に島津忠直が駐在しているのは明らかで
総見記や信長記程度の信憑性でいいなら
上杉年譜の4/7条でも島津は信州長沼ニ居城し
などと書かれていて、島津はずっと信州のとどまり続けているのがわかる
それで信濃史料P191によると「上杉景勝が信濃岩井に命じて芋川とともに仁科地方を警備させめ、西方房家をしてどう方面を警固させる」という意の書状として>>622と上杉年譜
4/28景勝→岩井書状が紹介されてる
これによると信濃の虎空山に相るへし仁科表調儀に及びなは一段に手裏に入るへき段、
芋川越前守所ヨリ申遣す條、早速真木島へ相移り越前守と相談し
などと書いていて
上杉が仁科地方の警備を行っていて
牧島城や虚空山城を領有していたのは明らか。
0631人間七七四年
2014/09/17(水) 09:29:52.57ID:ABf+tHa9これは上杉がずっと抑えていたんだから信濃戦線は上杉がずっと優先で4/4の上杉軍による織田撃破以降織田は何もできなかたんだろうな
0632あ
2014/09/17(水) 11:38:57.75ID:gZ7ObgFy兵力差や状況からいうと、滅亡寸前というか1週間前後で滅ぼされるような状況でも2年近く膠着続いてるわけで。
新発田・伊達・蘆名・上野の滝川・上野の森・越中の柴田と15倍前後の敵に攻められても崩壊しない上杉は強すぎる
0633人間七七四年
2014/09/17(水) 11:47:17.64ID:Lv0mfhct0634人間七七四年
2014/09/17(水) 12:21:47.30ID:zSTYyeZR0635あ
2014/09/17(水) 12:22:29.09ID:MLEK0Ahv内田が交代した後半は逆転して勝率100%
強化試合ですべてが分かってた内田フル出場でW杯全敗は既定路線だった
●ウルグアイ戦 内田スタメン → 2-4で惨敗
○グアテマラ戦 内田欠場やったね! → 3-0で圧勝!!!!!
●セルビア戦 内田フル出場 → 0-2で惨敗
●ベラルーシ戦 内田スタメン → 0-1で惨敗
○ベルギー戦 内田欠場やったね! → 3-2で快勝!!
●オランダ戦 失点は内田のミス
前半は1−2で負け→ 内田交代 → 後半は2−2 >>1-0で快勝!!
○コスタリカ戦
前半は0−1で負け→ 内田交代 → 後半は3−1 >>3-0で逆転圧勝!!!!!
○ザンビア戦
前半は1−2で負け→ 内田交代 → 後半は4−3 >>3-1逆転圧勝!!!!!
●コートジボワール戦
内田フル出場 1-2で惨敗
●ギリシャ戦
内田フル出場 10人相手に0-0で引き分け
・内田がいないと勝率100%
・内田が裏を取られ失点が代表の失点の8割
・ロスト数、パス成功率 チーム最下位
・時間あたりのアシスト数、ゴール数チーム最下位
やっぱヒロキングすごいんじゃね
0636人間七七四年
2014/09/17(水) 12:23:13.68ID:r47kWJ9j晴信自身の行いや他に定めた法度において、この法度の趣旨に反するようなことがあれば
身分の上下にかかわらず、目安にて報告せよ。
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中 小山田が支配した郡内 穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。
>>平和な甲斐に生まれる
どこが平和だよw甲斐国は実質、武田、穴山。、小山田の三国の合同政権で
しかも武田の支配していた地域は専横家臣だらけ。
結局、その専横家臣団によって武田の集権化を進め統合しようとした信虎はくにを追放され
専横家臣団に都合が良い傀儡として信玄が擁立されただけ。
>>信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
そうではなく、専横家臣団の意向で信玄が当主に祭り上げられてたくらい武田当主なんて誰もやりたがらない傀儡守護職。
それは戦国時代に大半の守護が家臣による下克上で滅んでいることでもわかる。守護を延命させる方が難易度が高い。
>>信玄にやりたいように政治ができる
>>287のように信玄の国の整備と経営の努力によって指導力を発揮していったことを周りが認めていった結果だ。
国人たちによる合議政権だから信玄の意見だけで勝手なことができるわけねーだろ。
>>父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
そんなことどこにも書いてない。お前の妄想。
0637人間七七四年
2014/09/17(水) 12:23:51.60ID:r47kWJ9j左翼キチガイが主張するトンデモ屁理屈主張なんて主流派じゃねーだろ。
突撃隊である褐色シャツ隊による暴力と威嚇で反論を潰しているし
実質7万以上の私設軍隊化してるし、1930年には航空突撃隊や自動車突撃隊や突撃隊海軍に改変され
ヒトラー内閣ができると、そいつらが補助警察になり政敵排除してんじゃん。
1931年17万人、1932年末には50万人以上と、セカイ恐慌による失業者の受け皿の立ち位置で軍隊を拡大している。
1933年にヒトラー内閣ができて、全権委任法の審議の時には臨時国会議事堂を突撃隊・親衛隊が包囲し脅迫し
反対派は逮捕されたり行方不明で逃亡したとされたり仮病を使って不参加の議会の議決な時点でヴァイマル憲法は死んでるんだよ。
楽市令だって、六角や今川が使って「慣習」となっていた「法」を 採用というのは
慣習法じゃないよ。ただ単に座による独占を斉藤や六角が認めていたので
占領した時に既得権の追認を信長がしただけ。
そもそも新興商人の組合である座という価格統制排外的独占組合を認める行為に
慣習などと言えるほど歴史の積み重ねがあるわけでもない。
既得権の追認行為が慣習法なんて捏造お甚だしいわ。信長がやったのは法律行為じゃなくて追認行為。
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