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武田勝頼「どうすりゃいいんだよ・・・・」

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0001人間七七四年2014/03/13(木) 21:09:55.75ID:D792n7uD
       ____
     /      \
   /  _ノ  ヽ、_  \
  /  o゚⌒   ⌒゚o  \  織田と北条でかくなり過ぎだお
  |     (__人__)    | 徳川も敵だし・・・ 
  \     ` ⌒´     /

          / ̄ ̄\こら!やめろ
        .ノ  \,_.  .\
       (>)(< )    |
     / ̄(__人__)     |
   /  _ノ .ヾ⌒ ´     | こうなったら上杉と結ぶんだお!
  /  o゚⌒  {      .  / 妹やるから助けてお!!!
  |     (__人\    .カ
  \     ` ⌒´ン     .ノノ  ギュッ
   /  ̄   ./  . .. し}
     .(⌒二_刄j⌒)  .i
0625人間七七四年2014/09/17(水) 02:39:06.55ID:HtiSbgOn
結局何一つ、俺の上杉景勝絶体絶命説に有力な反論は出来ないのだな。ただ長いだけ。

そして北条二万の根拠は、それだけの長文にもかかわらず反論すら出来ず。

菅沼、お前の理論は他も全てデタラメと認定されてるんだから諦めな
0626人間七七四年2014/09/17(水) 02:46:56.10ID:HtiSbgOn
こんな贅肉だらけの文章書く奴が「論文」を語るなど片腹痛し
ほとんどコピペ(失笑)

越後についてもっと勉強しなよ。他人のコピペ写してるだけじゃ矛盾とボロが出まくりやで
その程度が通る大学(行ってたのかどうかからして怪しいが)通ってたんだな
0627人間七七四年2014/09/17(水) 03:55:50.75ID:SLJT0ha7
三増峠の北条軍二万は甲陽軍鑑や北条記に普通に記されてるぞ
0628人間七七四年2014/09/17(水) 07:38:52.09ID:+FuuvP3K
菅沼遼太はなんとかして織田を滅ぼす方向に持っていきたいだけだからな
0629人間七七四年2014/09/17(水) 09:11:51.57ID:W3oeaJDB
カルタゴ小国事件とアメリカ徴兵制事件で惨敗したのがかなり堪えているんだろうな
06302014/09/17(水) 09:19:38.58ID:gZ7ObgFy
>>624
織田が長沼城奪回の話が出てくるのは信長記の中の一つである総見記だな

それでそれによると4/5に長沼を織田方が奪回したと書かれているが
しかし実際には4/11にも長沼の城に島津忠直が駐在しているのは明らかで
総見記や信長記程度の信憑性でいいなら
上杉年譜の4/7条でも島津は信州長沼ニ居城し
などと書かれていて、島津はずっと信州のとどまり続けているのがわかる


それで信濃史料P191によると「上杉景勝が信濃岩井に命じて芋川とともに仁科地方を警備させめ、西方房家をしてどう方面を警固させる」という意の書状として>>622と上杉年譜
4/28景勝→岩井書状が紹介されてる
これによると信濃の虎空山に相るへし仁科表調儀に及びなは一段に手裏に入るへき段、
芋川越前守所ヨリ申遣す條、早速真木島へ相移り越前守と相談し


などと書いていて
上杉が仁科地方の警備を行っていて
牧島城や虚空山城を領有していたのは明らか。
0631人間七七四年2014/09/17(水) 09:29:52.57ID:ABf+tHa9
虚空山城は安曇野から善光寺寺平、小県につながる地域に立っている城
これは上杉がずっと抑えていたんだから信濃戦線は上杉がずっと優先で4/4の上杉軍による織田撃破以降織田は何もできなかたんだろうな
06322014/09/17(水) 11:38:57.75ID:gZ7ObgFy
普通の大名なら速攻で滅ぼされる四面楚歌でも上杉はろくに侵攻許さず撃退してるからな
兵力差や状況からいうと、滅亡寸前というか1週間前後で滅ぼされるような状況でも2年近く膠着続いてるわけで。
新発田・伊達・蘆名・上野の滝川・上野の森・越中の柴田と15倍前後の敵に攻められても崩壊しない上杉は強すぎる
0633人間七七四年2014/09/17(水) 11:47:17.64ID:Lv0mfhct
謙信公に毎年のように三国峠越えさせられただけはある
0634人間七七四年2014/09/17(水) 12:21:47.30ID:zSTYyeZR
織田厨がまた負けちゃったのか
06352014/09/17(水) 12:22:29.09ID:MLEK0Ahv
内田いると1勝もできない 親善試合も内田のいる時間は勝率0%
内田が交代した後半は逆転して勝率100%
強化試合ですべてが分かってた内田フル出場でW杯全敗は既定路線だった

●ウルグアイ戦  内田スタメン → 2-4で惨敗
○グアテマラ戦  内田欠場やったね! → 3-0で圧勝!!!!!
●セルビア戦   内田フル出場 → 0-2で惨敗
●ベラルーシ戦    内田スタメン → 0-1で惨敗
○ベルギー戦   内田欠場やったね! → 3-2で快勝!!
●オランダ戦 失点は内田のミス
前半は1−2で負け→ 内田交代 → 後半は2−2 >>1-0で快勝!!
○コスタリカ戦
前半は0−1で負け→ 内田交代 → 後半は3−1 >>3-0で逆転圧勝!!!!!
○ザンビア戦
前半は1−2で負け→ 内田交代 → 後半は4−3  >>3-1逆転圧勝!!!!!
●コートジボワール戦
内田フル出場 1-2で惨敗
●ギリシャ戦
内田フル出場 10人相手に0-0で引き分け

・内田がいないと勝率100%  
・内田が裏を取られ失点が代表の失点の8割
・ロスト数、パス成功率 チーム最下位
・時間あたりのアシスト数、ゴール数チーム最下位

やっぱヒロキングすごいんじゃね
0636人間七七四年2014/09/17(水) 12:23:13.68ID:r47kWJ9j
甲州法度の一番最後の条文は下記であり、晴信の高い理念が表れているといえる。

晴信自身の行いや他に定めた法度において、この法度の趣旨に反するようなことがあれば
身分の上下にかかわらず、目安にて報告せよ。

晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中 小山田が支配した郡内 穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。
>>平和な甲斐に生まれる
どこが平和だよw甲斐国は実質、武田、穴山。、小山田の三国の合同政権で
しかも武田の支配していた地域は専横家臣だらけ。
結局、その専横家臣団によって武田の集権化を進め統合しようとした信虎はくにを追放され
専横家臣団に都合が良い傀儡として信玄が擁立されただけ。
>>信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
そうではなく、専横家臣団の意向で信玄が当主に祭り上げられてたくらい武田当主なんて誰もやりたがらない傀儡守護職。
それは戦国時代に大半の守護が家臣による下克上で滅んでいることでもわかる。守護を延命させる方が難易度が高い。
>>信玄にやりたいように政治ができる
>>287のように信玄の国の整備と経営の努力によって指導力を発揮していったことを周りが認めていった結果だ。
国人たちによる合議政権だから信玄の意見だけで勝手なことができるわけねーだろ。
>>父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
そんなことどこにも書いてない。お前の妄想。
0637人間七七四年2014/09/17(水) 12:23:51.60ID:r47kWJ9j
絶対、大日本帝国の功の部分は認めないキチガイがいるなwww
左翼キチガイが主張するトンデモ屁理屈主張なんて主流派じゃねーだろ。

突撃隊である褐色シャツ隊による暴力と威嚇で反論を潰しているし
実質7万以上の私設軍隊化してるし、1930年には航空突撃隊や自動車突撃隊や突撃隊海軍に改変され
ヒトラー内閣ができると、そいつらが補助警察になり政敵排除してんじゃん。
1931年17万人、1932年末には50万人以上と、セカイ恐慌による失業者の受け皿の立ち位置で軍隊を拡大している。
1933年にヒトラー内閣ができて、全権委任法の審議の時には臨時国会議事堂を突撃隊・親衛隊が包囲し脅迫し
反対派は逮捕されたり行方不明で逃亡したとされたり仮病を使って不参加の議会の議決な時点でヴァイマル憲法は死んでるんだよ。

楽市令だって、六角や今川が使って「慣習」となっていた「法」を 採用というのは
慣習法じゃないよ。ただ単に座による独占を斉藤や六角が認めていたので
占領した時に既得権の追認を信長がしただけ。
そもそも新興商人の組合である座という価格統制排外的独占組合を認める行為に
慣習などと言えるほど歴史の積み重ねがあるわけでもない。
既得権の追認行為が慣習法なんて捏造お甚だしいわ。信長がやったのは法律行為じゃなくて追認行為。
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