武田勝頼「どうすりゃいいんだよ・・・・」
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0001人間七七四年
2014/03/13(木) 21:09:55.75ID:D792n7uD/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 織田と北条でかくなり過ぎだお
| (__人__) | 徳川も敵だし・・・
\ ` ⌒´ /
/ ̄ ̄\こら!やめろ
.ノ \,_. .\
(>)(< ) |
/ ̄(__人__) |
/ _ノ .ヾ⌒ ´ | こうなったら上杉と結ぶんだお!
/ o゚⌒ { . / 妹やるから助けてお!!!
| (__人\ .カ
\ ` ⌒´ン .ノノ ギュッ
/  ̄ ./ . .. し}
.(⌒二_刄j⌒) .i
0002人間七七四年
2014/03/13(木) 21:13:59.04ID:D792n7uD:/ u\; ____
;/ ノル(<)\; / ;u ノ し\お前と結んだら
;| (>) _) \;/ ⌒ \北条と手切れになっちまったじゃねーか!
;|::: ⌒(__ノェソ / 、 |
;.\ u ´ ソ / ^ |
;\ , | |
,ヾ \_ n^^- \ j; __/
;/ ∠_;i  ̄丶/ ̄ \
;( ⌒) ´ ノ \
0003人間七七四年
2014/03/13(木) 21:19:49.72ID:D792n7uD/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\ かくなる上は
/ ⌒(__人__)⌒ \ 佐竹、里見と結ぶんだお!!
| |r┬-| |
\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ
________ / ̄ ̄ ̄\
> .| /∨∨∨∨∨ ヽ
>______ | | -、 , -、 |____|
 ̄ |─ 、 , ─、 | .| || ・| |・ | 6 l
| ・Y・ | |__.| /`-(⌒)-′ -′
|` - c`─ ′ 6 l | Y |
<____ ,- (____ |
ヽ ___ /ヽ \______/ヽ
/ |/\/ l ^ヽ / \
0004人間七七四年
2014/03/13(木) 21:21:59.29ID:D792n7uD/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ なんか佐竹も里見も雑魚臭漂いすぎて
| (__人__) | 全然役に立たなさそうだお・・・
\ ` ⌒´ /
0005人間七七四年
2014/03/13(木) 21:26:39.42ID:D792n7uD∧_∧ ガガガガガガガ
∧_∧^ω^) ガガガガガガガッ!!!!!!
∧_∧ ・ω・) ┏ ○┓_ _ _ _从._,
┌ ( `・ω・) ┏ ○┓三((〓((━(。゚。) ━ 二 三 ━ ━ ━
├ ( ┏ ○┓三((〓((━(。゚。) ━ 二 三 ━ ━ ━
├ つ┏┓三((〓((━(。゚。) ━ 二 三 ━ ━ ━
└ ≡≡≡ノ (__)  ̄ ⌒Y⌒
(__(__)
蜈蚣衆「騎馬軍団壊滅です!」
____
/_ノ ヽ、_\ ━━┓┃┃
o゚((●)) ((●))゚o ┃ ━━━━━━━━
/::::::⌒(__人__)⌒:::: \ ┃ ┃┃┃
| ゝ'゚ ≦ 三 ゚。 ゚ ┛
\ 。≧ 三 ==-
-ァ, ≧=- 。
イレ,、 >三 。゚ ・ ゚
≦`Vヾ ヾ ≧
。゚ /。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・
0006人間七七四年
2014/03/13(木) 21:28:43.47ID:D792n7uD/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ ひどいおっ、もう隠居して
| (__人__) | 諏訪で静かに暮らしたいおっ!
\ ` ⌒´ /
0007人間七七四年
2014/03/13(木) 23:00:34.27ID:yYjHtaBA0008人間七七四年
2014/03/14(金) 06:11:59.01ID:QH1ktz7Y信玄亡き後も三河攻略を続けてれば信長と五分の戦いができた
0009人間七七四年
2014/03/14(金) 12:02:43.14ID:1AXUOgPn静岡部分を武田に割譲して尾張を攻め取った方が割が良いと信長を脅迫
信長は無理やり引っ張り出されたが、勝頼にびびって要塞つくってひきこもり
ひきこもって鉄砲撃ってたら偶然切り込み隊長の山形に当たって武田勢が混乱して引いたときに追撃したら勝頼まもれってんで馬場、内藤まで討ち取れて大勝利
その後は「こうやって守ればいいんだ」と諸大名に広まっちまったから天下統一が遅くなってしまったという落ち
勘違いされているが、長篠の戦の武田方の死者は追撃戦が大半で山形に鉄砲があたるまでは被害に大差ない。
0010人間七七四年
2014/03/14(金) 16:31:50.04ID:ADKf+2XW信昌、信縄、信虎、信玄、義信、信勝
諏訪家
頼満、頼隆、頼重、頼高
勝『頼』様って武田家背負ってなくね?
∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` ) 諏訪家の人間だよね〜
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u'
0011人間七七四年
2014/03/16(日) 15:34:33.91ID:OK20WtKN信濃「勝頼は武田の人間。なぜ我々が従わなければならないのか」
0012人間七七四年
2014/03/16(日) 19:08:31.56ID:31+eUeoA0013人間七七四年
2014/03/17(月) 06:22:36.75ID:091NNmhJ0014人間七七四年
2014/03/20(木) 00:28:57.80ID:QsnpH1C00015人間七七四年
2014/03/20(木) 01:05:01.93ID:NFaO1V6s0016人間七七四年
2014/03/20(木) 17:08:29.32ID:hhBdiZyM0017人間七七四年
2014/03/21(金) 01:41:32.83ID:f0aXSLG30018人間七七四年
2014/03/21(金) 08:47:42.03ID:8HopA3Ta↓
信長、美濃・尾張 織田=武田
↓
信長、上洛後 織田>武田
武田にとって信長上洛後の唯一のチャンスが信長包囲網
信玄が死んでも三河攻略続けるべきだった
0019人間七七四年
2014/03/22(土) 16:44:04.48ID:0D5Wcx9Nhttp://mirai660.net/castle/takanejyoh_model.html
0020人間七七四年
2014/03/24(月) 18:32:56.15ID:sJsNX//y勝頼が隠居して、信君に家督を譲れば、よかったんじゃねえかな。
甲州崩れの一角である、信君の離反がなくなるやろ。
0021人間七七四年
2014/03/24(月) 20:07:59.66ID:+VRSW5c/0022人間七七四年
2014/03/24(月) 22:22:01.57ID:PknH+r9v0023人間七七四年
2014/03/25(火) 02:48:06.85ID:cdrjDb/30024人間七七四年
2014/03/25(火) 03:38:51.43ID:ndsEkW4g国力の疲弊も家臣の信頼も得られず滅亡させた勝頼はどう考えても無能
0025人間七七四年
2014/03/25(火) 07:51:38.28ID:3CR2s53E0026人間七七四年
2014/03/25(火) 08:23:25.31ID:eSdJ8cRs全く人心を得ていない為に、
誰も味方せずに謀反露見する程の無能が義信なのに、
必死になってあげようとしてお前バカじゃねぇの?
0027人間七七四年
2014/03/25(火) 08:35:18.90ID:3CR2s53E義信が無能なら准三管領にしてやったり具足はじめの時に
重臣たっぷりつけたりしないで信親みたいにさっさと出家させればよかったのにw
0028人間七七四年
2014/03/25(火) 09:20:26.57ID:tSwoiKaR0030人間七七四年
2014/03/25(火) 21:42:02.15ID:4KVQz+My0031人間七七四年
2014/03/25(火) 22:45:54.31ID:nYj4wTUj実の子にまで薄情で非道とか言われてるのに、
武田では偉大な組織者で通ってるんだろう。
どんな二重人格なんだよ。
会社ではへーこらしてるが、家では大威張りの
どうしょうもない頑固親父みたいな感じかと思うんだがw
0033人間七七四年
2014/03/26(水) 11:23:56.79ID:4VEZ6K+9「武田義信が無能であったかどうか?」ではなく
「武田信玄が義信を嫡男と定め手厚い待遇をしていた」ことが問題w
つまり信玄は義信を有能だと『思い込んで』、嫡男としての地位と待遇を『与えた』
そしてそんな義信から『家督相続拒否』を起こされて『謀叛を企まれた』ことが信玄無能の根拠
義信が無能だと思うなら、最初から義信を廃嫡して勝頼や盛信あたりを嫡男にすればよかっただけw
古来から無能な嫡男が廃嫡された例など数知れないのに、謀叛を起こされるまで義信を大事に扱った信玄w
信玄の扱いこそ義信が有能、少なくとも『信玄よりは』有能だという、これ以上ない証拠じゃんw
0034人間七七四年
2014/03/26(水) 12:05:01.05ID:NDUGS5CM家督相続を拒否したとする一次史料など、
基本的な根拠がまるで無いな。
あなたの悪意の妄想だけしか書いてないよね。
むしろ信長死後すぐに織田政権を崩壊させた信忠や信雄や信孝の方が極めて最悪だと思うが。
そんな能無しに官位を与えて厚遇するのは無能ゆえだろう。
信長が有能ならそんな馬鹿な人選はしない。
信玄死後10年は武田氏は政権を相続維持してるが、
信長は死後一ヶ月で家臣団に下克上を喰らってる馬鹿馬鹿しさ。
0035人間七七四年
2014/03/26(水) 12:32:04.84ID:UGaclzcd手の平返しに、追い詰める信玄の人格の悪さが気になるが。
武田家の統治を観る限り、独裁的とは言えないが、叛逆・防諜に対する神経
の細やかさには、異常さを感じる。中国の孫子を取り入れるあたり、自分を
虚飾する事に腐心して、大っぴろげに強勢を見せかける帝王学が見える。
そうした武田と豪族との絆を強くするには、偉大な君主を演じるしかなかった
のだろうが、それに消耗して、信長のように軍隊を制度化できなかった信玄
とはもともと個性が違い過ぎたのでは。
だから、独裁者と言う意味では、無能でも何でも継がせるという、信長の方が
相応しい称号だろうね。ただ、両者の面白いところは、細心の信玄に対して、
信長は剛胆で、謀叛を起こされる事すら予見していなかった事。死をも恐れない
信長に対して、信玄は自身を尊し、と思っていて、武田の体制が、勝頼の代には、
君主個人の為に、全てがお膳立てされ、山県らも死なざるを得なかった事だろう。
そういう意味では、信玄の強勢も、有能な家臣団によって、支えられ、それを
正統に継がせなかった信玄は、良き先代であったとは言えないと思う。
0036人間七七四年
2014/03/26(水) 13:12:54.52ID:4VEZ6K+9えっ、武田義信って嫡男だから、わざわざ謀叛起こして信玄に反逆せずとも、
指をくわえて待っているだけで武田家当主の地位は約束されたようなものじゃんw
それが、わざわざ謀叛を起こし失敗するリスクを作ってまで謀叛したということは
武田信玄の路線にNoを突きつけ、「例え武田を継いでも信玄の路線は継承しないぞ」という意思表示じゃんw
そもそもこの手法、問題となっている信玄が自ら実践して信虎を当主に追いやった手法だけど
信玄信者は信虎は甲斐を蹂躙した独裁者とか言ってたじゃんw信玄はその時の信虎と全く同じ立ち位置じゃんw
0037人間七七四年
2014/03/26(水) 13:13:38.53ID:4VEZ6K+90038人間七七四年
2014/03/26(水) 13:21:04.42ID:4VEZ6K+9武田は信玄の死で滅亡して諏訪勝頼が取って代わったじゃんw
1573年に信玄が死んだその時点で武田家は滅亡w
なぜなら勝頼は信玄の政策を全くと言っていいほど踏襲せず
それどころか武田氏が500年近く守ってきた伝統を勝頼は
あっさり破壊してるじゃんw
当主が別の家の通字を名乗り、武田の由緒正しい「信」の通字を
そこらへんの人間にばらまく、信玄以前の武田氏にはなかったタブーをあっさり侵してるしw
「信玄が隠居した」という体を取ってるから、勝頼はしぶしぶ武田の姓を名乗らざるを得なかっただけで
心が武田にないのにそんな奴が武田の跡取りなんて聞いて笑わせるw
明智光秀が織田信長の跡継ぎだというようなもんw
0039人間七七四年
2014/03/26(水) 13:36:55.64ID:4VEZ6K+9そもそも無能者が家を継げるわけない
子供が1人しかいない、と言うのならまだしも
信玄も信長も子供は腐るほどいる
嫡男が無能なら次男に継がせ、次男が無能なら三男に継がす、三男も無能なら四男に継がす・・・
これが戦国の常識であり、どこの家でもやってること。
無能者が家を継げば、そのせいで一族全員が内紛や外乱で死に絶えるなんて事例もあるし
別に当主じゃなくても死ぬわけじゃないんだからな。
だから生前のうちに色々やって、当主はこいつだと名言しておく必要がある。そのための官位。
官位をやるのは朝廷だから、無能で無教養な奴が貰えるわけがない。たとえ貰えてもすぐ罷免されるし、
無能な人間をゴリ押しで官位につけようなんて、労力も馬鹿にならない。
ちなみに甲陽軍鑑品第三によると、信玄の先代である信虎は
次男の信繁こそ惣領(当主)にしようと考えていたとあるが、
これが事実であるなら嫡男でありながら家督を貰えない信玄は相当の無能と言わざるを得ない。
0040人間七七四年
2014/03/26(水) 13:54:54.57ID:/o7OICPI無能だったんだろうね
当主の嫡男が
何の根拠もなしに廃嫡される
わけがないし。
信玄好きはやれ信虎が
悪逆だの無能だの言いたてるが
武田信虎の無能話が記載
されているのって信玄マンセーの
甲陽軍鑑だけだからね
どの史料も信虎は悪信虎は悪と
書き連ねてはいるが、具体的に
信虎がどんなことをしていたかを
全く記しておらず、中国の検閲済
歴史書のように信玄が目を凝らして
少しでも信虎を持ち上げたら
処罰するように
していたんだろう
その甲陽軍鑑では信虎が
自ら無能話を家臣に話すという
酒の席のDQNかよと言わんばかりの
粗雑捏造話しかない有様
一方信玄はと言えば
当主であるはずの信虎に
秘蔵の馬を寄越せと強奪
しようとする逸話が甲陽軍鑑にすら
記載されており
実際にはこういう非常識な態度が
山ほどあったのが容易に想像できる。
0041人間七七四年
2014/03/26(水) 18:49:15.79ID:ciGEOzGl0042人間七七四年
2014/03/26(水) 19:25:25.35ID:Mu8ljKvY0043人間七七四年
2014/03/26(水) 20:27:55.04ID:ciGEOzGl書かれたものに対してコメントしようがないしな。
あえて言えば、クスリのやりすぎだから、
はやくしかるべき治療をうけるため収容されることを祈ってるよ。
0044人間七七四年
2014/03/26(水) 20:48:48.23ID:Mu8ljKvY翻訳ソフトでも使ってるのかな?w
0045人間七七四年
2014/03/30(日) 19:37:24.56ID:oNk3czD2http://mirai660.net/castle/ookajyoh_model.html
0046人間七七四年
2014/04/01(火) 17:19:20.30ID:8mwPU+wZl} 、:: \ヘ,___,_ ______/::.__| .|___________
|l \:: | | |、:.. |[], _ .|:[ニ]:::::
|l'-,、イ\: | | ∧,,,∧ . |::.. ヘ ̄ ̄,/:::(__)::
|l ´ヽ,ノ: | | (´・ω・`) ,l、:::  ̄ ̄::::::::::::::::
|l | :| | |,r'",´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ、l:::::
|l.,\\| :| | ,' :::::... ..::ll:::: 京の都に武田菱を立てて見たかったが
|l | :| | | :::::::... . .:::|l:::: それもこれまでか・・・・・
|l__,,| :| | | ::::.... ..:::|l::::
|l ̄`~~| :| | | |l:::: そんなことより今は世継ぎを決めなくては
|l | :| | | |l::::
|l | :| | | ''"´ |l::::
|l \\[]:| | | |l::::
|l ィ'´~ヽ | | ``' |l::::
|l-''´ヽ,/:: | | ''"´ |l::::
|l /:: | \,'´____..:::::::::::::::_`l__,イ::::
0047人間七七四年
2014/04/01(火) 17:28:39.95ID:8mwPU+wZ/ \
/ _ノ ヽ、_ \ 父上!
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 武田家はこの勝頼に任せるんだお
| (__人__) | 必ずや京に武田の旗を立てて見せるお!
\ ` ⌒´ /
( ´ ・ ω ・ ` )お前は諏訪の人間じゃ、武田を継がせるわけにはいかぬ・・・
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 家とかそんな話はどうでもいいお!
| (__人__) | 後は勝頼に任せてお気を安らかにして休むお
\ ` ⌒´ /
( ´ ・ ω ・ ` )だめじゃ、継ぐとしたら信勝じゃ・・・、お前ではだめじゃ・・・・
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ ひどいおっ!
| (__人__) | なんで勝頼を蔑ろにするんだおっ!酷過ぎるおっ!!
\ ` ⌒´ /
0048人間七七四年
2014/04/01(火) 17:33:19.32ID:8mwPU+wZ0049人間七七四年
2014/04/01(火) 21:18:52.18ID:X9UZWEOMそら武田家も滅亡するわ
0050人間七七四年
2014/04/01(火) 22:43:01.62ID:gX/8MXGs0051人間七七四年
2014/04/02(水) 12:18:49.80ID:5zGheVOJ誰もがどうぞどうぞと道をあけて三好、松永が宿の手配から全てやりますって謙信に頭を下げて
大接待
まさにジャイアン
0052人間七七四年
2014/04/02(水) 16:10:03.18ID:BpCsotbP甲斐の山猿とは大違い
0053人間七七四年
2014/04/02(水) 19:49:01.42ID:+Q3tDBO3一次史料はやく出してねwww
0054人間七七四年
2014/04/03(木) 14:53:52.97ID:hIZwKeUW0055人間七七四年
2014/04/04(金) 10:01:58.07ID:2uCcIrPj0056人間七七四年
2014/04/04(金) 19:18:08.25ID:Lk4eBZMf甲陽軍鑑の捏造ネタの一つやし。
0057人間七七四年
2014/04/04(金) 19:25:20.47ID:1mPu3enx0058人間七七四年
2014/04/04(金) 20:14:50.30ID:6RkFebkZ陣代説は捏造でも家臣からは信勝までの繋ぎ程度に見られていたかもしれん
0059人間七七四年
2014/04/04(金) 20:22:29.14ID:6PQp7yA4/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\ かくなる上は名前を武田勝頼から
/ ⌒(__人__)⌒ \ 武田勝玄(かつげん)に改名するおっ!!
| |r┬-| |
\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 北の国の乳酸飲料みたいで
| (__人__) | なんだかかっこ悪いお
\ ` ⌒´ /
0060人間七七四年
2014/04/04(金) 20:30:51.52ID:6PQp7yA4織田に臣従するため安土に行く→信長に首を刎ねられあぽーん
隠居して諏訪で静かに暮らす→織田の甲斐征伐後、落ち武者狩りで捕まってあぽーん
小山田信茂の所ではなく真田昌幸の所に行く→縄で縛られて織田に引き渡されてあぽーん
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
0061人間七七四年
2014/04/04(金) 20:35:26.20ID:gKSEKlrO0062人間七七四年
2014/04/04(金) 20:43:46.57ID:6PQp7yA4V作戦を発動しモビルスーツを開発、合戦に投入する
タイムスリップしてきたアインシュタインに核爆弾を作らせる
勝頼の部屋の引き出しからドラえもんが出てくる
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \ 全部無理だお・・・
/ o゚⌒ ⌒゚o \
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
0063人間七七四年
2014/04/04(金) 20:43:57.69ID:uPums1e/0064人間七七四年
2014/04/04(金) 21:26:09.23ID:pPHCEYAS0065人間七七四年
2014/04/05(土) 10:46:52.18ID:Nr/6mJ0/0066人間七七四年
2014/04/05(土) 12:16:00.82ID:bmz0pXpR____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \ 兵力に差がありすぎて
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 手の打ちようがないんだお・・・・
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
伝令「上杉景勝殿が援軍を派遣してくれるそうです!」
+ ____ +
+ /⌒ ⌒\ + おおっ、これでなんとかなるお!
キタ━━━//・\ ./・\\━━━━!!!!
+ /::::::⌒(__人__)⌒:::::\ +
| トェェェイ |
+ \ `ー'´ / +
0067人間七七四年
2014/04/05(土) 12:36:10.76ID:bmz0pXpRヽ(凸)ノ 景勝様の命により上条と兵二千
[Y] 北信濃にただいま参上!!
/ ヽ
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \ たった2千?
/ o゚((●)) ((●))゚o \ まぁいいお、早く甲斐に入って
| (__人__)' | 一緒に戦ってくれだおっ!
\ `⌒´ /
n
ヽ(凸)ノ 拙者はこちらにおりまする
[Y] 北信濃の守りはお任せ下さい!
/ ヽ
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \ いや、今は甲斐を守るのが先決だお
/ o゚((●)) ((●))゚o \ 早くこちらに来てくれお!
| (__人__)' |
\ `⌒´ /
n
ヽ(凸)ノ ・・・・・・
[Y] 北信濃はお任せ下さい!
/ ヽ
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \ こいつ全然役に立たないお・・・
/ o゚⌒ ⌒゚o \
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
0068人間七七四年
2014/04/05(土) 16:10:58.37ID:Xx7tkaYy氏康死んだ後に武田と結んだ北条のように
0069人間七七四年
2014/04/06(日) 01:02:54.84ID:QYq8yDxJhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300388659/
ここでAA投下してた人かな?
こっちも楽しみにしてる
0070人間七七四年
2014/04/08(火) 23:06:41.14ID:KdjfKqqcで、勝頼クンに従わない家臣に睨みをきかせられたんだけどね
0071人間七七四年
2014/04/08(火) 23:17:15.36ID:RjJcVSQN0072人間七七四年
2014/04/09(水) 16:17:14.72ID:GCahyJnA義信に愛想をつかされてああなった。
だから武田家を無事で済ますには信玄は1570年くらいに死ぬしかなかった
信玄が1570年くらいに死んでおけば来るべき織田との戦いにも万全の状態で挑めた
いつ死ぬかもわからん奴が当主の座に居座り続けたことが武田の滅亡要因
0073人間七七四年
2014/04/13(日) 11:50:38.00ID:W9JQsCJo彼方は内紛まで、どさくさに紛れて生き残ったが
0074人間七七四年
2014/04/13(日) 13:43:00.19ID:9b72wy4nなんらかの外交的、軍事的失敗が、
家臣団の反発を生み嫡男への権力移譲につながる。
信玄も謙信も生前に失点がなかった証拠。
0075人間七七四年
2014/04/13(日) 14:49:26.92ID:IKMkWuTr0076人間七七四年
2014/04/13(日) 17:16:06.56ID:cgI33FJq0077人間七七四年
2014/04/13(日) 18:29:57.70ID:DTrBTwvM0078人間七七四年
2014/04/13(日) 22:20:35.94ID:cgI33FJq何から何に何が変わったんですか?w
0079人間七七四年
2014/04/14(月) 08:49:52.38ID:a7FUe00h0080人間七七四年
2014/04/14(月) 15:24:04.13ID:Ml/2cfVy北条氏康は何に失敗したの?
豊臣秀吉は何に失敗したの?
0081人間七七四年
2014/04/14(月) 16:49:27.17ID:zMcs8rU5拠点を移動した?え?
もっと具体的に
0082人間七七四年
2014/04/14(月) 20:02:14.04ID:eHXbFSjMどうせ最初の方はその嫡男の陰で元当主が睨みをきかせるのは誰でもわかる話だからな
だから反発した家臣は他家へ鞍替えする、武田家や今川家、朝倉家など滅亡した大名の終末を見ればわかる話だ。
当主のために戦おうとせず、自己の安定を鑑みて勝っている方につく。
0083人間七七四年
2014/04/16(水) 00:39:13.72ID:6eCbQzxS跡部から槍を受け取り、戦場へ全力疾走する勝頼、その目に光る涙は悔しさとは無縁のものだった・・・
翌日、本陣で冷たくなっている勝頼が発見され、吉村と村田は病院内で静かに息を引き取った
0084人間七七四年
2014/04/24(木) 00:52:13.81ID:QzlOQ09Aさっさと甲斐に撤収すればよかったんだよね
逃げられるだけの計算をちゃんとしてね
向こうは骨折り損になるし兵糧も無駄になる
一大決戦を挑むほど、確たる勝算もなかったハズなのに
負ければいかなる理由があっても後世まで愚将と書かれるだけなんだからね
勝頼ちゃんが苦労知らずのお坊ちゃまで、大きい戦を好んでた顛末か
0085人間七七四年
2014/04/24(木) 01:31:48.97ID:bqVQh6k2っとは言っても長篠の城を包囲してる砦奪われた時点で逃げなきゃまずいけど
0087人間七七四年
2014/04/24(木) 17:16:10.19ID:J33hlMTkそして長篠城に攻め寄せるも奥平が頑強に抵抗し落城出来ずに徳川、織田の
後詰が到着する
もし人質を処刑せずにカードに用いてたら奥平はそこまで頑強に抵抗した
だろうか? 徳川の娘が嫁いでる関係もあるがこういった駆け引きが勝頼は
絶望的に下手な為に滅んだといえる
0088人間七七四年
2014/04/24(木) 18:16:28.93ID:Tl1j4DVP寝返られても人質殺さなかったら他の人質出してる連中みんな寝返るわ。
0089人間七七四年
2014/04/29(火) 04:02:56.40ID:xQ2eQJ7z勝頼でプレイすると、置かれた状況がひどくリアルで、つか難しくて本当に
「どうすりゃいいんだよ・・・・」だぜw
信玄存命中は上級でも余裕でクリアできるけれど、勝頼プレイは
地獄よ。織田と徳川が連合で責めてくるし。初級でもクリアできない。
0090人間七七四年
2014/04/30(水) 12:33:15.59ID:CyC9feJbやったことないけど
どの部分で苦労すんの?
0091人間七七四年
2014/04/30(水) 13:36:50.99ID:CyC9feJb>武田勝頼「どうすりゃいいんだよ・・・・」
北条との同盟を大事にし、上杉景虎に味方する。
さもなくば、なんとか北条と同盟を結び直す。
それができないなら、北条から相手にする。
それも無理なら、織田・徳川に対して慎重に当たる。
どうしても無理なら、総力戦で挑む。
最後の選択は、家臣たちの意見を良く聞いて敢闘する。
それが全部出来なかったから滅んだんじゃないのか?
0092人間七七四年
2014/04/30(水) 18:20:59.83ID:WnM7G2uh0093人間七七四年
2014/04/30(水) 23:12:50.90ID:pJfp9Gu50094人間七七四年
2014/05/01(木) 02:23:51.33ID:1LukbO3w/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\ 命を助けてやるから
/ ⌒(__人__)⌒ \ 城の奴らに降伏を勧めるんだおっ!!
| |r┬-| |
\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 援軍が来るって教えるなんて
| (__人__) | 酷過ぎるお!
\ ` ⌒´ /
0095人間七七四年
2014/05/01(木) 05:07:08.13ID:odr60cmy0096人間七七四年
2014/05/01(木) 08:45:57.13ID:Zl1j6G0Q0097人間七七四年
2014/05/04(日) 06:01:51.32ID:g7qMFdT90098人間七七四年
2014/05/04(日) 10:20:15.39ID:l8JuUI2X0099人間七七四年
2014/05/14(水) 01:57:36.89ID:LP+0oIvH自分より年上の叔父やら義兄を手足のように使うなんて無理だわ
ましてや親父子飼いの百戦錬磨の重臣までセットだし
0101人間七七四年
2014/05/17(土) 12:26:50.88ID:sNZfzJ45生まれたときから本家の総領としての教育を受けていないと
きついんだよね。
0102人間七七四年
2014/05/17(土) 13:26:54.35ID:3a98mJi+後継者問題をろくにフォローせんかった信玄が悪い
0103人間七七四年
2014/05/17(土) 20:05:26.42ID:63KXc61Fマジレスするのもなんだが、一番上の選択肢だと、
北条・上杉(景虎)・武田の三者同盟成立だから
史実よりかなりマシだったんじゃないか?
0104人間七七四年
2014/05/17(土) 20:19:24.91ID:3a98mJi+もうどの道、北条との同盟関係破綻しそうだったからしょうがなく景勝に乗り換えたって説もあるし。
誤算だったのは支援した景勝が今度は新発田の反乱で同盟相手として機能しなかったこと。
0105人間七七四年
2014/05/17(土) 23:25:48.89ID:oTEZVCoO>>しそうだったからしょうがなく景勝に乗り換えたって説もある
初耳なんだが、誰がどんな根拠を元にそんな説を唱えているんだ?
0106人間七七四年
2014/05/18(日) 07:14:21.55ID:1hDGeSlq0107人間七七四年
2014/05/18(日) 12:17:08.66ID:y/p8FIu4あくまでも中立的な立場で景虎と景勝の和平調停を目指していた。
どちらかの側に立って片方と全面戦争をして
反武田で団結しないよう越後の民の反感を買わないよう動いていた。
0108人間七七四年
2014/05/18(日) 12:19:42.28ID:y/p8FIu4徳川への対処が伸び伸びになっていたが
限界きたので武田は撤退し、
それを機に、結局一時的にまとまっていた和睦が破綻してしまった。
北条が逆切れして逆恨みしただけの話。
0109人間七七四年
2014/05/18(日) 13:31:36.95ID:1hDGeSlqいつでも同盟打ち切ろうって程度の価値の相手だったってことだ
北条がそう出てくるのも勝頼も読んでたから景勝に恩を売った
けれど肝心の景勝がクソの役にもたたなかったというお話
0110人間七七四年
2014/05/18(日) 21:22:22.12ID:S83fksXp北条上杉武田の三国同盟が成立するのか?
0111人間七七四年
2014/05/18(日) 22:19:59.35ID:HZjXLcvF越後に親武田の安定政権を築くなら景勝に勝たせた方がマシなんだよな
0112人間七七四年
2014/05/19(月) 01:29:28.25ID:Yx2yY94Cその北条がいつまで待っても来ない
「景虎の面倒、全部俺に押し付ける気か?ふざけんな!」て感じだろう
0113人間七七四年
2014/05/19(月) 02:19:17.37ID:1gaeKSHdでも謙信生きてたらそんな概念ないんだろうか
0114人間七七四年
2014/05/19(月) 08:29:35.62ID:Az8aWHOm氏政なんだろうな
氏政と輝元のどっちがより馬鹿かって話しになったら
氏政なんだろうなこっちも
0115人間七七四年
2014/05/19(月) 08:31:05.92ID:NSeM8Rex0116人間七七四年
2014/05/19(月) 09:34:02.01ID:3JMb4fFjまあ勝頼も武田の最大版図獲得したけど。
0117人間七七四年
2014/05/19(月) 10:45:21.80ID:jqkeQhy9最大版図だから名将というロジックの馬鹿馬鹿しさがよく解かる
0118人間七七四年
2014/05/19(月) 12:19:43.92ID:3JMb4fFj輝元(防長2国確保、幕末で逆襲した)>>越えられない壁>>氏政(弟の系統が1万石の小大名で残った)
>>>勝頼(名籍ついだ穴山含め大名としては滅亡、兄弟の系統が旗本になる)
0119人間七七四年
2014/05/19(月) 12:35:17.87ID:05Qvr83a北条は家督を継いでたはずの氏直をスルーしないでね
0120人間七七四年
2014/05/19(月) 12:42:35.89ID:3JMb4fFj徳川「毛利に全力で抵抗されると嫌だから適当なとこで手打ちたいけどあいつガチ首謀者なんで改易以外にするのはちょっとなあ」
吉川「そんじゃあ防長俺にくれるはずだったってことにして俺が本家に譲ったことにすればそちらの体面がたつでしょ」
徳川「よし。それ採用」
0121人間七七四年
2014/05/19(月) 23:36:40.45ID:Az8aWHOmなぜか拒否したんだよな
口減らしになっただろうに
0122人間七七四年
2014/05/24(土) 07:47:15.39ID:tTd77H7t三国峠超えて越後に援軍贈るより、信濃から援軍送ったほうが
春日山に着くのが早いからな。
だから氏政は勝頼に頼んだ
そんとき、まさか無償だったのかな・・・
景勝は勝頼に上州の上杉領(ほとんど残ってなかったろうが)すべて譲ったな
0123人間七七四年
2014/05/24(土) 22:08:24.99ID:tad21pV4上杉にとって関東はもはや謙信のライフワークで
実際は重荷でしかなかったから
上野を武田に譲れば上杉は北条の脅威から開放されるw
0124人間七七四年
2014/05/25(日) 00:26:37.70ID:oiLOvlmT景虎のために戦って、勝たせても景虎には越後を治める力はないから、
越後への出兵の連続で武田は消耗する。どのみち、出兵要請を断った時点で、
北条とは、縁切りになる。確かに景勝から金は受け取ったが、
景勝側が提案したのは、あくまで、中立だ。武田が、それを飲んだのは、
北条勢が、越後への到着が遅れた理由もあるが、それ以前に北条の兵力がたった2千だったこと。
ということは、越後では武田に戦わせようという意図がミエミエだったからだ。
最近は、勝頼の選択は正しいと考える意見も増えている。
お互いに余裕がないのはわかってたから、
乱後も、この甲越同盟は中立条約みたいなものだけどな。
0125人間七七四年
2014/05/25(日) 01:16:58.86ID:oiLOvlmT信長自らが援軍を率いてきた。勝頼がその挑発に乗った形で戦が始まる。
当初、武田は、長篠城を攻めるための出兵だったので兵力に劣る武田が、信長と
戦うのは無謀との意見が多く、勝頼はさっさと、長篠城を落とし古府中に帰るべきで、
もし、信長が攻めてきても、山岳戦なら武田が有利だからとの考えもあるが、
当時、織田と武田の国力差は、かなり開きつつあり、この機会を逃して、
次回、決戦の時は、国力差はさらに開いた状態だったろう。
やりようによっては勝てるかもしれない。そうなれば、信長の躍進は鈍り、
多少の時間稼ぎもできたかもしれない。本当に、うまくいき、織田側がミスを連発
してくれたら、ひょっとしたら、信長の首を取れたのかもしれないという、甘い考えが
浮かんだのかもしれないな。
もし勝頼が、戦に応じなかったとしたら、次は、もっと大軍で、しかも、信長の
家来クラスが大将で、例え勝っても、すぐに、また大軍を送られるような状況になってた
かもしれないな。
0126人間七七四年
2014/05/25(日) 05:21:18.64ID:hc8DBTQ1海音寺潮五郎センセの「武将列伝」では
「ところがここで勝頼は間違った。まんまと景勝の手にはまったのである」と
非難してるな>兼続との交渉で景勝と同盟した件について
0127人間七七四年
2014/05/25(日) 08:05:56.30ID:bTJeT11F馬鹿大河の設定真に受けてるアホに引っ張り出される
作家・海音寺潮五郎センセ気の毒
0128人間七七四年
2014/05/25(日) 15:18:39.19ID:oiLOvlmTしかし、そんな中でも勝頼は、最善の手を打った。
0129人間七七四年
2014/05/25(日) 16:47:15.71ID:aAvUv73I問題はその上で武田家を率いる力が無かっただけで
0130人間七七四年
2014/05/25(日) 17:47:24.28ID:oiLOvlmT確かにその通りなんだが、穴山を従わせるのは
武田家中では、かなり、厳しいと思われ・・・
0131人間七七四年
2014/05/25(日) 17:54:01.48ID:DJNfso0lその代で滅亡して酷評される人物ってそういうのも多いよな
0132人間七七四年
2014/05/25(日) 17:58:25.21ID:GtZD5jLf0133人間七七四年
2014/05/25(日) 19:48:39.89ID:LXX1hlXr忍とか撒いとかなかったのかな
0134人間七七四年
2014/05/25(日) 20:56:16.86ID:vbW3btqH毛利は天下を狙う実力はなかったが、
天下を取る棚ボタラッキーチャンスには何回も恵まれており
それを小早川や吉川の無能さで悉く潰しているというのが正確。
例えば播磨での攻防やそれ以前永禄末期〜天正6年頃まで
毛利はたいした敵もいない状態で中央に覇を唱える機会は何回もあったが
浦上・宇喜多間抗争で浦上を選択するなど、馬鹿な戦略判断を行いまくった結果
信長を討つ機会を何回も逸してる。
0135人間七七四年
2014/05/25(日) 22:14:29.12ID:oiLOvlmT0136人間七七四年
2014/05/25(日) 22:20:44.62ID:5YPDI/YJそうできなかった理由というのも解るし
結果実現しなかったほうの『もしも』話をことさら大きく取り上げて『景虎と組んでたら〜』とか言い出す歴史研究者がいるのもなんとも
こういう歴史のifでオナニーに浸りがちな史家が居るのは戦国時代に限ったことでもないけどさ
0137人間七七四年
2014/05/26(月) 00:08:12.46ID:bOl9WVh9なぜ、信玄は、上洛の前に、勝頼を跡継ぎに決めなかったのだろう?
もし、決めたら、穴山がやってられないと言って謀反でも起こすことが在り得た
のだろうか?義信の件で、穴山の弟が切腹させられ、心情的にそう簡単に、
勝頼に従いたくはなかったのだろうか?
0138人間七七四年
2014/05/26(月) 21:39:01.84ID:gfg2Q8310139人間七七四年
2014/05/27(火) 11:08:18.70ID:j+le9Pg50140人間七七四年
2014/05/27(火) 16:54:15.64ID:lYJN8K24穴山は北条と徳川の挟撃に、
勝頼の援軍が来ないことが確定した最末期の状況から謀反しただけだし。
0141人間七七四年
2014/05/27(火) 23:17:19.55ID:EyQ+15nL親類集筆頭の穴山が謀反したらいけないでしょ。
0142人間七七四年
2014/05/29(木) 22:28:24.44ID:9jxcBweb見せしめに穴山1人だけを処分するのはどう?
他の大名なら引き締め効果が期待できても、
勝頼がやったら離反に通じてしまうかな?
0143人間七七四年
2014/06/01(日) 06:40:34.45ID:CPdLBPQR実は勝頼の一応の棟梁就任後に長カンサイの家来が穴山の暗殺を目論んだ。
成功していれば・・・
0144人間七七四年
2014/06/01(日) 10:02:58.57ID:ve8w8q3p上野が武田のものとなってしまう・このままでは当方が滅亡してしまうのではないかと氏政が嘆いている。
大した被害もないが北条も反撃していて天正8年5/15に都留郡に侵入した氏照を西原合戦で撃退してるが甲斐府中がいつ攻められるかわからんことを受けて天正9年1月から新府城の築城が開始されてる。
この時点では織田の脅威などまったく想定されてない。
(当時の武田は猿ヶ京攻略成功と沼田攻略中や田中城攻撃に失敗した家康が掛川へ逃げるのを追撃したり、武田水軍が伊豆を襲撃しまくりで氏政も伊豆から逃亡。10月には利根川を渡り武蔵本庄の氏政の陣へ肉薄した武田軍にまた氏政逃亡し12月に沼田城攻略成功)
天正9年には3/17に北条軍が甲斐へ進入し上野原市にあたる棡原で武田軍が撃退してる。
その一方で外交戦では武田・佐竹同盟に里見も参加の意思を示してるし
北条水軍の本拠地伊豆長浜城を武田水軍が大破している。
長期に渡り苦戦していた徳川が砦を構築したやっと高天神城が落ちたものの、その周囲の武田方諸城や砦は健在なまま。
こんな状況で織田に備えて新府城を作ったなど暴論以外の何ものでもない。
甲斐府中にとっての安全保障を脅かしてるのは
突発的な北条側のヘタレ奇襲であって織田じゃない。
9月に完成した新府城だったが10月の伊豆の韮山攻撃で新府移転が延期になるなど
対北条戦略進展で新府移転まで延期される始末。
11/16に佐竹も武田に呼応して出陣してるが
伊豆対陣で北条が陣から出ず、見切りを付けて武田は撤兵して12/24に新府城へ入城してる。
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
穴山が叛旗したら河内の守備が崩壊するんだから
甲斐府中へ攻め込まれ
新府城の背後を遮断される危機に陥る
浅間山噴火で真田領への道は怪しく
小山田を頼るしか選択がなくなる
もはや孤立する可能性ある
新府城で籠城する意味がなくなるだろ。
穴山が味方であって始めて新府城は機能する。
(新府城は穴山氏の本貫地である穴山村の直近であり
本拠地は移転したといえども諸権益は穴山氏に残していた可能性は高い
信吉が1602年に水戸25万石に封じられたのは武田としてだよ。
信玄最強というのは江戸初期から常識であり
甲州流軍学が江戸時代を通じて最強とされ続けてるしな。
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。
江戸期を通じて織田流軍学なんてもんは
誰も見向きもせず一切評判になったことすらないw
0145人間七七四年
2014/06/01(日) 22:10:23.48ID:Xmj5ZI7u0146人間七七四年
2014/06/10(火) 12:26:20.06ID:gY/6j+3Zついでに兵制も真似たってだけだよな
0147人間七七四年
2014/06/12(木) 21:42:31.48ID:MD053cNe0148人間七七四年
2014/06/12(木) 22:24:06.22ID:POErUv/b0149人間七七四年
2014/06/13(金) 00:00:11.19ID:/Dn2uEmC武田の次に甲斐に入ってきた浅野なんて全く強くなかったし
武将の指揮采配能力が優れてたから、徳川が真似する必要があっただけ。
0150人間七七四年
2014/06/13(金) 04:29:21.27ID:99PhPmwW0151人間七七四年
2014/06/13(金) 19:05:13.00ID:K7Dl6t7S維持が大変だろ?
高天神城を見捨てたことで、武田の滅亡に拍車がかかったが、
そもそも、高天神城をとらなければ良かった。
0152人間七七四年
2014/06/13(金) 20:06:28.21ID:ls48Y/QW0154人間七七四年
2014/06/14(土) 10:07:14.35ID:jHIs0EpO越後は戊辰戦争でガトリング砲奉行が有名になったくらいか
九州とか戦国時代は別に強兵のイメージ無いけど近代以降は強兵のイメージ強いし
0155人間七七四年
2014/06/14(土) 13:27:38.63ID:Lq6U0w/b兵農分離する事で兵の戦闘能力が大きく変わるわけがないし
甲斐や越後なんてそれ以前の鎌倉・室町・南北朝期でも別に取り立ててたいした所じゃなかったよ。
武田や上杉なんて元々甲斐や越後にいたわけではなく端に他の地域から流れついただけだし。
0156人間七七四年
2014/06/14(土) 13:34:44.95ID:G8SyhVCs後は全部国人系と信濃・駿河・上野・奥三河・奥遠江などの田舎の国人系で成り立ってるだけなのが武田。
よって兵質どうこうなんて話は全く妄想の域を出ない。
ほとんど他国衆で構成された軍隊が強かったからと言ってここが強いもクソもないからな。
単純に率いる武将の指揮采配能力が優れていただけ。
0157人間七七四年
2014/06/14(土) 16:12:06.33ID:fHlSjm6S勝頼には、穴山がいた。
0158人間七七四年
2014/06/14(土) 16:58:47.49ID:9dXfjWPX山県、馬場、内藤、真田兄弟、その他・・・
兵の補充はある程度効いても指揮官クラスは補充効かないからな
0160人間七七四年
2014/06/14(土) 20:17:00.32ID:kjoc/JdF高坂弾正 ・・・ 上杉の抑え
秋山信友 ・・・ 岩村で処刑
だからな・・・
昌幸が復帰した真田家は上野攻略で活躍したが・・・
武田信豊とか鳥居峠で木曽にボロ負けして甲州崩れ決定的にしたし
0161人間七七四年
2014/06/14(土) 20:20:41.42ID:56DYnlJUなかなか良い本だな。
武田勝頼の再評価ー勝頼はなぜ滅亡に追い込まれたのかーは非常によかった。
次は「新府城の歴史学」を読む予定。
0162人間七七四年
2014/06/14(土) 20:22:52.19ID:kjoc/JdF0163人間七七四年
2014/06/14(土) 20:32:32.99ID:56DYnlJU対織田包囲網は良かったが、死ぬのが早すぎた。
対織田包囲網で織田信長を粉砕していれば、武田の天下はあったかも。
武田勝頼は優秀だったが、生まれたのが遅すぎた。
0164人間七七四年
2014/06/14(土) 21:58:18.24ID:wzuyfGSR不当評価を受けている武田の名臣たちが哀れ
0165人間七七四年
2014/06/14(土) 23:21:15.87ID:fHlSjm6S0166人間七七四年
2014/06/14(土) 23:27:37.18ID:fHlSjm6Sその武田の名臣って誰?
0167人間七七四年
2014/06/14(土) 23:32:53.49ID:wzuyfGSR158-160で挙がってるのがそう
0168人間七七四年
2014/06/15(日) 00:02:12.96ID:lxpkDvmN0169人間七七四年
2014/06/15(日) 00:05:04.04ID:lxpkDvmNどの辺りがですか?
0170人間七七四年
2014/06/15(日) 00:11:27.40ID:UlHduSX3信玄、真田親子、山本勘助などと比べて知名度も評価も低すぎ
同格以上とされて妥当
0172人間七七四年
2014/06/15(日) 00:25:00.04ID:UlHduSX3信玄の力だけで保たれてたわけじゃないのにな
勝頼の代がパッとしなかったお陰で
信玄を盛り立てた名臣たちがオマケ扱いに
犬死にさせられた上でのこれは哀れ過ぎる
0173人間七七四年
2014/06/15(日) 00:35:49.84ID:lxpkDvmNまぁ、冷静に。
勘介は、実在した人物らしいが、所詮フィクションの世界。
真田は、幸村が大阪の陣で活躍したおかげで全国区に。
しかも兄が大名に。
そして信玄は言わずと知れた戦国大名。
それは、しょうがないね。
0174人間七七四年
2014/06/15(日) 03:55:55.06ID:QZ+jtR7H桶狭間の今川
長篠の武田
0175人間七七四年
2014/06/15(日) 05:43:16.98ID:Hcyup+uk怨むなら武田を怨まないと
0176人間七七四年
2014/06/15(日) 06:25:54.08ID:UlHduSX3つまり勝頼が被るべき汚名を
信玄を言わずと知れた戦国大名とした名臣たちは
勝頼に犬死にさせられた挙句
被らされたって事だな
0177人間七七四年
2014/06/15(日) 12:03:28.20ID:lxpkDvmN長篠は、本来、やる必要のない戦。
戦力的にも、かなりのギャンブル。無謀と言われても仕方がない。
しかし、当時の国力差を考えると、早いうちに信長を叩いておいて、
時間稼ぎを狙おうとする考えはわからぬではない。
0178人間七七四年
2014/06/15(日) 18:15:30.61ID:oMJeqKkRそもそも山城国ですら、信長は支配出来ずに寄生虫みたいに乗っかってただけじゃんw
秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させたあと、余裕が生まれたので、領地訴訟問題を解決すべく、
さっそく寺社や公家らを含めた山城国で検地し既得権益を整理して実質的な統治を開始している。
寺社や公家にまで検地したのは画期的な出来事として評価が高い。信長には不可能だったことだ。
信長は差出検地命令すらナメられて馬鹿にされてたからなぁ。
天正14年6/20の多聞院日記には 秀長が信長の差し出し要求で出された興福寺の石高を知り激怒してるのがわかるし。
財源確保と労役や軍備の算出の基礎データすら把握できてないのでは、
国として成立してない、子供が運営してるゴッコ遊びレベル。
これじゃ北条の方がはるかに信長の統治より優れているのは明白だよ。
内政といえば信玄は天文16年には甲州法度之次第55ヶ条を発布し
天文23年に条文追加で公事検地を目指したものと高く評価され
永禄6年恵林寺での検地などの記録も残る。
信玄堤や伝馬制など次々と整備されていて
今川義元も天文22年に分国法かな目録と訴訟条目を制定し伝馬制や検地を始めてる。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
だいたい信玄上洛にビビっていた織田軍はたった1万しか動員出来なかったしソースは年代記抄節。
しかも織田の国人への動員とは違い
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨
0179人間七七四年
2014/06/15(日) 21:12:02.05ID:IXMvgxrAいや全く屈服していない。屈服したのは秀吉。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
0180人間七七四年
2014/06/15(日) 21:13:18.78ID:lWGRoRxh天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0181人間七七四年
2014/06/15(日) 21:14:00.52ID:lWGRoRxh養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
0182人間七七四年
2014/06/15(日) 21:15:19.05ID:lWGRoRxh雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0183人間七七四年
2014/06/15(日) 21:33:01.85ID:6p5/U+Os当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0184人間七七四年
2014/06/15(日) 21:33:36.83ID:lWGRoRxhさらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、
いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0185人間七七四年
2014/06/15(日) 21:34:11.94ID:uAgnVybP秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
0186人間七七四年
2014/06/15(日) 21:53:50.33ID:6p5/U+Osお前は>>906が菅沼宣言になるとか書いてるが、ガチで文盲だな。
>>906のどこにも菅沼なんてワード入ってないだろうが。
頭は大丈夫か?
0187人間七七四年
2014/06/16(月) 02:36:45.01ID:/BlqAmD/0188人間七七四年
2014/06/16(月) 04:27:44.20ID:HlfYWrS7頭大丈夫じゃないれす^q^
0189人間七七四年
2014/06/16(月) 06:57:33.18ID:7fadtByM0190人間七七四年
2014/06/16(月) 20:38:08.96ID:3QxrcG31いい質問!
おそらく、そいつは、「だれと戦っているんだ?」の意味がわからない。
戦いの場面しかイメージできない。
ひょっとしたら、わかるといったレスが返ってくるかもしれないが、その内容は、おそらく、
一般人と想像するものとは違う。
0191人間七七四年
2014/06/17(火) 14:28:00.87ID:xeBrzQNo0192人間七七四年
2014/06/17(火) 19:16:10.27ID:7dlsfQcX嘘偽りを憎む心。己の中に残された最後の良心
それが彼を責め立てる脳内秀吉厨の正体だ
0193人間七七四年
2014/06/17(火) 19:55:33.51ID:BtbQcoA+その、「己の良心と戦う」という意味もわからないと思う。
おそらく、1人称でどうやって戦うんだと思ってしまうんだろう。
0194人間七七四年
2014/06/23(月) 10:27:09.74ID:rfBUecBV0195人間七七四年
2014/06/24(火) 17:26:43.19ID:M3aV58hH徳川は屈服する気配ゼロ
朝倉は出てくる可能性ゼロ
単独で織田主力と真っ向勝負で滅亡するか
逃げ出してジワジワ滅亡するのを待つかの2択
でも9年持ったのはよくやったんじゃないのかな
勿論織田がその気なら1575年以内に滅んでたけどな
0196人間七七四年
2014/06/28(土) 21:31:13.95ID:bVVZ0PJ30198人間七七四年
2014/06/29(日) 10:03:07.38ID:Bgjz8U/fその後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0199人間七七四年
2014/06/29(日) 10:05:12.25ID:Z0AzgBvi何せ南条や宇喜多や大友に負け続けの毛利如きに上月城の防衛戦にすぎない熊見川合戦で3000人討ち取られる雑魚だし。
0200人間七七四年
2014/06/29(日) 10:05:58.99ID:oDm32DEYさらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0201人間七七四年
2014/06/29(日) 16:53:53.72ID:skV2nNJg降伏させて利用しただけだろ
0202人間七七四年
2014/06/29(日) 17:15:19.36ID:493TJ1j4135000の大軍で雑魚の信雄・徳川勢16000に短期決戦挑んだら10000人討ち取られ
その後 秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり
0203人間七七四年
2014/06/29(日) 17:16:40.50ID:daMXhuj17/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
0204人間七七四年
2014/06/29(日) 17:17:18.43ID:0ALo6fP3あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0205人間七七四年
2014/06/29(日) 17:17:42.77ID:Bgjz8U/f当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0206人間七七四年
2014/06/29(日) 17:18:26.55ID:daMXhuj1その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0207人間七七四年
2014/06/29(日) 17:18:57.28ID:hQfs5bZ6二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0208人間七七四年
2014/06/29(日) 17:19:29.26ID:Bgjz8U/f天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0209人間七七四年
2014/06/29(日) 17:20:16.06ID:BksXdmkCさらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、
いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
0210人間七七四年
2014/06/29(日) 17:20:57.65ID:BksXdmkC秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0211人間七七四年
2014/06/29(日) 17:22:08.08ID:heQNnXkR母や妹を差し出して家康に土下座して講和してもらったり
250万石やチート官位差し出す等土下座しまくってるし
結局それが原因で豊臣家を滅ぼされる事になったんだから家康の圧勝でしょ。
秀吉なんて指揮采配能力じゃ家康どころか信雄相手に蹴散らされまくった雑魚じゃん。
0212人間七七四年
2014/06/29(日) 17:22:49.69ID:qgPsU3Hh信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
0213人間七七四年
2014/06/29(日) 17:25:07.60ID:eYjYk2UJ土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0214人間七七四年
2014/06/29(日) 17:25:56.45ID:Bgjz8U/f近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
0215人間七七四年
2014/06/29(日) 17:35:32.48ID:skV2nNJg長文コピペ乙
0216人間七七四年
2014/06/29(日) 18:04:19.83ID:2sRV3KLJ0217人間七七四年
2014/06/29(日) 18:25:00.66ID:k4ErWaK9図書館に行ってよく調べているが
大体長文さんの意見は郷土史料で調べると
出典元がよくわかり、詳しいので
歴史を学ぶ上でとても参考になってる。
0218人間七七四年
2014/06/29(日) 18:39:35.15ID:lKzlgpT3ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らVIP首脳陣から、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
西三河の旗頭として対秀吉戦線最前線にいた本多重次が岡崎城代で、
東三河の旗頭の酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
もう三河は秀吉が人質を徴収して実質支配を開始してるのも同じwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
0219人間七七四年
2014/06/29(日) 18:41:11.99ID:lKzlgpT3講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。
20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。
そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、
賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、
家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、
酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。
0220人間七七四年
2014/06/29(日) 18:43:41.50ID:lKzlgpT3秀吉は家康と戦っている最中であっても、
正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、
家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、
11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
看羊録の作者が日本に連行され伏見に来たのは秀吉が死ぬ寸前。
その前後の日本国内の話は信憑性が非常に高いが、
逆にそれ以前の話の信憑性は低い。
だから、看羊録作者は北条氏がいたことを知らずに、
相模の領主を代々引き継いでいる家康などと大きく誤認してるのが露呈している。
徳川のことと北条の内容を区別できずに混同し間違ったことを書いているため、
史料として採用出来るのは慶長期の記述のみである。
宣教師はずっと日本にいるから、それ以前の記録は宣教師の記述を利用すると良い。
しかしこれも条件付きであり、
秀吉が九州征伐時にキリシタン大名に棄教命令を出して、
宣教師や信者たちが天草に逃げ隠れてから、
宣教師の記録が秀吉を信仰を妨害する悪魔だと悪口三昧言い出すように豹変するから、
宣教師の記録は天正14年の記述以降、 かなり秀吉についてねじ曲がったことを
書き連ねて罵倒していることに留意せねばならない。
(フロイス日本史はフロイスが慶長2年死去しており、ローマの総長への報告も文禄3年あたりで
終わっているらしいが現存は文禄2年までで、慶長3年に死んだ秀吉のことを最後まで記してない。
その後の慶長期の研究史料は看羊録が引き継ぐ形になっているがここで致命的な事実に気づくだろう。
それは文禄4年の秀次事件に関する第三者的客観史料がない事実である)
1587年の日本史には、 尾張に秀吉の姉妹がいるという話を耳にした秀吉が、
大坂でその人々を死刑にしている。
要するに伊勢から来た秀吉の兄弟やら、
尾張かb逞た秀吉の姉末など、
秀吉の家族を称する詐欺師が大量にいたことを表してるだけ。
そりゃあ治安を守るために秀吉だって、その職務にある者に命じて罪人は処断するわ。
秀吉の家族を自称していたやつを捕まえて殺しただけなのに、
キチガイ朝鮮人は、これを取捨選択し我田引水で残虐者扱いするいつもの重度曲解ぶりを発揮。
ウソだって言ってるじゃん。 それを宣教師が勝手に本当のことを告白しなければならなかったのに、
などとトンデモ解釈を、なんら証拠を挙げずにぶっ込んできただけじゃん。
兄弟殺したのは信長 子供を殺したのは家康
ヨーロッパのキリスト社会ではヘンリー8世の離婚問題などでわかるように
どうも英雄色を好むという概念がないため、その手の話が悪口として常套句だったようで、
言わば「妊婦の腹を割いた」という暴君批判の常套句と同じ性格を持つ貶しパターンだったようだ。
この話が秀吉の女好き伝説に拡大解釈されている。
実際、人質として取っただけで、性行為があったかどうか怪しい話も、
このフロイスの悪口慣用表現によって悪意の解釈がなされている。
0221人間七七四年
2014/06/29(日) 18:47:17.74ID:lKzlgpT3それ実際は、吉川元春と嫡男の元長が行ったことだし。
しかも東大の家わけ文書の吉川文書の天正14年11/20付の該当書状の注釈にも
吉川氏の豊前宇留津城攻略の戦功と解説してるし。
この千人の首を刎ね、男女残らず磔の残虐な殺戮を11/7に行ったあと、
11/15に元春が急死したので祟りにあったと騒いでるし。
元長もまた半年後に急死してるし。呪われたと思うのも当然。
>>遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄
それは毛利の軍記である陰徳太平記に出てくる記述であって一次史料にはないのも知らんとかwww
しかも軍記には豊前肥前両国の敵城は一揆の城と言えども、土民ではなくみんな国人どもであり、
一国の大将はおらず皆が各々に一城に拠っている。人はこれを一揆と呼んだなどと書いていて
良民層ではなく抵抗する意志があった支配国人層を磔にしていただけだし。
わずか4歳程度で未だちゃんと大人に育つかわからん状態の秀忠を、
徳川の家康が死ぬような急変時の後継者に指名するわけねーだろアホwww
ふつうに10歳まで成長し元服する寸前の秀康が嫡男扱いを受けてるに決まってるだろ。
小田原奥羽征伐のために、
源姓徳川長丸が秀吉の人質として上洛してきた。
すると秀吉は長丸に初めて官位官職を与えるよう推薦し、
天正18年12/29に従四位下侍従豊臣姓羽柴秀忠にしてあげました。
奥羽から帰ってきて家康は初めて羽柴秀忠になっていたことを知ったのだ。
羽柴秀康に続いて秀忠も秀吉一門にされてしまい、家康は徳川家で極端に孤立した。
そしてのちに秀忠は千姫を秀頼に嫁がせることを強行した。
だから家康は生前のうちに秀頼を滅ぼすことを急いだ。
幕府はこの家康が人質に秀康と秀忠を出した挙句に
秀次配下として奴隷のように従軍させられ奥羽から戻ってきたら
源徳川長丸が豊臣姓羽柴秀忠に豹変していて、
関東に返さず拘束された家康は京洛において
徳川家内ですっかり孤立していた事件を屈辱に思い、
天正15年8/8に従五位下になったとか、
秀の字は聚楽第行幸ですでにもらっているなどと、
歴史捏造しまくったのであった。
よほど屈辱だったのだろう。
フロイスがね、秀吉が小牧長久手の野戦で敗れた理由を説明してるくだりがあるんだけどね、
家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいたために
日本中で大いなる名声があったことを書いてる。
一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかったので小牧長久手の野戦で敗北したことに触れてる。
0222人間七七四年
2014/06/29(日) 18:49:16.61ID:lKzlgpT3ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
看羊録の著者は、 秀吉の父の家は元来貧賤で、農家に雇われてどうにかたつきをを立てていた。
壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷になったが関東に逃げて数年し、
また戻って信長に自首したので、秀吉は一心に奉公して昼夜風雨を厭わなかったと書いてる。
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
0223人間七七四年
2014/06/29(日) 18:49:55.18ID:lKzlgpT3信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
信長には分国法すら無く、単に室町幕府に寄生してたら下克上された 歴史的意義の無い 実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
そもそも1990年代に信長マンセーに使われた政教分離・楽市楽座なんて大ウソだよ。
信長は寺社の荘園を奪いまくる犯罪行為に抵抗したら皆殺しをしていただけで、
財産をすべて横領されても抵抗しない寺社には寛容だった単なる暴君だし、
上位権力者と交渉するための組織である惣村一揆という民主的共同コミュニティの撲滅を図っていた。
単に信長のやり方に従わないで反対する者たちを虐殺してたに過ぎず、政策として意図して宗教の政治介入を排除していたわけじゃない。
また信長は独裁商人を厚遇し、その支配下の元で座による独占をしたり、関による搾取を放任していたどころか彼らから賄賂をとっていた。
特に信長お気に入りで尾張美濃両国を商売司だった伊藤惣十郎は柴田勝家などからも
自由競争を排除する独占権を認める書状が発給されており越前領など広範囲で独占による高価格販売搾取をしていた。
0224人間七七四年
2014/06/29(日) 18:51:34.02ID:lKzlgpT3また疑心暗鬼が強い信長は常に前線指揮官に報告を求めていた。
そんな信長が鳥取城攻略中の秀吉からの報告を読み、
8/20付けで返書を出している。
信長は鳥取城で日々餓死者が出始めていること天罰だと喜び、
討ち果たすように命じている。
信長は常に自分に抵抗する者はことごとく天罰を下し虐殺することでしか、
鬱を晴らすことが出来なかった。
それと、秀吉が秀次に出した書状で、
この日頃、秀吉の甥子であることをやたらと鼻にかけ、
人にもけしからぬ態度を示してきた。
しかし今後は誰からも秀吉の甥と崇められるような覚悟をもって行動しなさい。
お前のような心がけの者はいっそ、この世に亡き者にしてやろうと、
一度は決心したけれど、 まあまあと思いこの手紙を書いたのだ。
これから心がけを改め他人にも一人前の人間と呼ばれるようになったならばもっと引き立ててやろう。
しかし、こんどの合戦に、木下助左衛門(木下祐久)と同勘解由をつけてやったところが、 両人とも殺してしまった。
それをとりわけ申し訳ないと思うべき筈であるのに、
それどころか、さらにその代わりに津田監物を欲しいなどと一柳市介を通じて頼んできたとはもってのほかである。
秀吉の預けた者を両人ながら討死させておいて代わりの家来を要求するとは、
それを頼んだお前はもちろん、それを取り次いだ奴も大たわけ者だ。
そこで市介めを手討にしようかと思ったが今のところ我慢してやっているのだ。
今後ともよく分別し諸事に嗜み深く秀吉の甥の切れ端かと人に呼ばれさえすればそれで満足だ。
お前の覚悟さえ直ればどの国なりと遣わそうと思うが今のような馬鹿者ではたとえ命を助けたとて仕方が無い。
秀吉の面目にかかわることだから手討にするぞ。
秀吉は元来、人を斬ることは嫌いだがお前をこのままで他国へ出したのでは恥の上塗りである。
同じ殺すなら人手にはかけない。
などと書いていて小牧長久手の戦いは秀吉のミスではなく、
明らかに秀次のミスであることがわかるんだよwww
しかも秀次はそうとうに性格も覚悟も悪いダメ人間なのがわかる。
0225人間七七四年
2014/06/29(日) 18:53:58.48ID:lKzlgpT3秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)
孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
(つか関が原の戦いで両軍併せて17万〜20万が投入された際の戦死者ですら6000〜8000なのに非現実的すぎるわwww)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
0226人間七七四年
2014/06/29(日) 19:22:43.01ID:QePiGCat0227人間七七四年
2014/06/29(日) 19:27:04.96ID:ScIjShwh0228人間七七四年
2014/06/29(日) 19:37:12.17ID:Bgjz8U/f奇襲されたのは秀吉が敵地のど真中で無謀な行軍させたからだから100%秀吉のせいだわw
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ
わずか10町ほどの近距離にいる信雄・家康勢に対して仕掛けた軍事作戦が秀吉のせいじゃなく秀次のせいだというなら
秀吉が指揮した合戦なんてほとんど後方の離れた場所から悠々と命令出してただけだから
秀吉の合戦なんて全て秀吉の功責じゃなくなるだろバーカ
九州征伐や小田原征伐に至っては、100%秀吉とは関係なくなるなw
都合の悪い事を全て部下になすりつけて、都合のいい手柄だけ秀吉の才覚でとか妄想してんじゃねぇよボォケwwww
秀吉が自分の戦術ミスで徳川方に大敗したのを池田家からの非難を恐れて無理矢理秀次に押し付けてるだけじゃねぇかアホ
秀吉が池田隊や秀次隊に無謀な行軍中入りを命じたのは>>509のように明らかだろうがタコ
秀吉が自分の作戦失敗を部下になすりつけるのは滝川の蟹江合戦の時とかいつもの事だしな(蟹江から眼前の大垣にいながら滝川を見捨てた)
0229人間七七四年
2014/06/29(日) 19:39:34.23ID:Bgjz8U/fいやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
0230人間七七四年
2014/06/29(日) 19:40:06.69ID:Bgjz8U/f敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん 秀吉の命令通り動いただけ。7倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してる。目付け役で堀・長谷川も加わってる。
アホ秀吉厨の論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなくある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったから
わずか10町ほどの距離での家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
0231人間七七四年
2014/06/29(日) 20:03:58.78ID:Bgjz8U/f丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
0232人間七七四年
2014/06/29(日) 20:17:29.80ID:Bgjz8U/f>>3/6に信雄が三重臣殺害をしていてあきらかに家康が悪しき謀略をしたのが事の発端
多聞院日記2/2条で秀吉方の脇坂安治が伊賀の国衆を組織して伊賀上野城を乗っ取っている。これが発端
また津川ら信雄ら三家老は秀吉がこぞって彼らの人質を取っていたために操り人形だった(家中対秀吉心合候者共両三人)
>>美濃の池田と娘婿森の自立勢力の帰属を巡る外交調略戦で、信雄家康陣営は完敗
何それ?外交戦って?ソースを書いてくれ。
>>鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願
全くそんな事嘆願していない。
森の3月26日遺言状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる
小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
0233人間七七四年
2014/06/29(日) 20:18:35.16ID:Bgjz8U/fまた犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0234人間七七四年
2014/06/29(日) 20:18:53.78ID:Bgjz8U/f3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
0235人間七七四年
2014/06/29(日) 20:19:15.21ID:Bgjz8U/f何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0236人間七七四年
2014/06/29(日) 20:20:06.17ID:Bgjz8U/f間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
0237人間七七四年
2014/06/29(日) 20:20:30.54ID:Bgjz8U/f秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
>>三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しておりその中から別働隊に割ける兵力も少ない
一次資料や陣立書類から、秀吉軍は下記のように総軍フル動員で戦闘に臨んでるからそれは絶対にない。
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
0238人間七七四年
2014/06/29(日) 20:21:08.06ID:y0Yy93i/森らは全く死に急いではいない。4/8秀吉→丹羽にあるように軍令に忠実に三河方面へ淡々と行軍してただけ。
>>三好秀次を支援に付ける温情
秀次は当時秀吉の数少ない血縁者。森が自殺を考えてるなら生きるか死ぬかもわからん戦に秀吉が行軍させるわけがない。
>>秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。敗因を作ったのは秀次
背後を襲わせたのは、秀吉のアホ戦術。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
>>汚名返上のために死ぬ覚悟だった森ら
ハイハイ、ソースなし。
国境地帯にいる森らがいつ命落すかは全くわからんし、去就が注目されてた程なので秀吉に従った後
いつ先陣をやらされるかわからんから、遺言状を念のため書いただけ。それを無理矢理森が命を省みず無謀な行軍をするつもりだったとか
中入りが森らが名乗り出たとか相当馬鹿だな。森らは>>863-864>>868のようにとっくに秀吉家臣だから
4/8丹羽宛書状にあるように秀吉の命令で三河侵攻に派遣され、秀吉の命に忠実に動き、三河方面に放火や城攻めや築城をしながら行軍してただけだろアホ
>>秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、
恥辱も糞も仮に背後から襲われる結果になった場合真っ先に狙われるのは最後尾の秀次軍であり
森らは最も安全な、徳川や信雄から離れた位置で行軍してたのだから、最初からこれが無謀な行軍なわけがない。
そんな危険な戦を考えていたならなら、秀次が一緒に派遣されるわけがないし、秀吉の親戚筋の木下兄弟まで一緒に派遣されて戦死してるほどなんだがw
>>森らが生還を考えず勝手に討ち死に
生還を考えずも糞も、尾張方面から進出してくる徳川軍に退却路をふさがれてただけだろ。
池田元助という、未来のある武将まで逃げ切れず戦死してるし。
>>秀次や長谷川や堀らは無事生還
秀吉のアホ作戦のせいで秀次が急襲されて、ねねの兄弟の木下兄弟が戦死し、長谷川や堀らが榊原隊に蹴散らされあっさり敗走したために
徳川勢と信雄勢がわらわら集まってきて、池田と森らが退却できなくなって、戦死しただけ。
池田元助まで逃げ切れずに戦死してるから、逃げようとして逃げられなかっただけであって自ら死を選んだわけじゃない。
0239人間七七四年
2014/06/29(日) 20:21:24.27ID:Bgjz8U/f稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
0240人間七七四年
2014/06/29(日) 20:21:44.47ID:GzSn3ERv○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。 アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに 家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
むしろ1万人くらい死んだとしないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
0241人間七七四年
2014/06/29(日) 20:22:08.00ID:GzSn3ERv家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
>>絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと
そんな事実ねーよクズ。別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな。
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
最初から信雄・家康と秀吉は135000VS16000〜17000で絶望的な兵力差にもかかわらず
小牧合戦後、秀吉は尾張国内に正々堂々と攻め込むのをやめて家康が絶対に出てこれない木曽川筋の諸城をこそこそドロボウするのがやっとだったんだし
いかに長久手合戦の被害が甚大で、秀吉が信雄らにビビリまくってたかがわかるな。
普通なら秀吉の書状にあるように半月くらいで瞬殺できていい兵力差で尾張や美濃や伊勢の諸将も秀吉に寝返りまくってるのに
秀吉が自力で攻めた所はほとんど一進一退どころか、蟹江や前田・下市場・長窪や浜田城を奪回されるなど劣勢なくらいだしね。
0242人間七七四年
2014/06/29(日) 20:22:21.86ID:GzSn3ERv日付の順番とは関係なく後から加筆されまくってるからな。
・3/8晩より前の時点なのに3/20や3/27の出来事(大坂出兵など)が書かれてる。
・3/23の出来事が3/22条より前に加筆されて書かれてる
・根来寺よりは懇望、但泉州知行方について望みこれあり、秀吉は同心あるまじきと云々、それに付き同寺の儀堅く仰せ付けられた。
・来る15日尾張表へ諸勢を差し遣わされる予定を3/8時点で書いてる
→実際には秀吉の当初の出兵計画は尾張ではなく伊勢だし到着予定日も席に3/11と大きく異なる
・3/14の峰城の合戦の後に尾張犬山に池田と森を派遣して犬山まで切り取り、そのほか所々放火して存分に任せられ、尾張も秀吉に味方したと書いてる
→実際には池田や森による犬山奪取は3/13で峰城の合戦より前だし池田も森も当初秀吉につく事が予想されておらず
「申合令手遣」は明らかにおかしい。尾張で秀吉に味方した勢力があったのは事実だが(両毛利氏や松の木城近辺の将など)
「存分に任せられ秀吉一味」というのは明らかに秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて書いてるだけ。
・岸和田城での雑賀衆との合戦の日付が3/18になってる→実際には3/22
・4/10で尾張表は過半秀吉の理運とか書いてる→明らかにデタラメで秀吉のハッタリ。
北部にある小牧山やその周辺の砦や蟹江など西部の城すら攻略してないし、隅っこにある加賀野井竹鼻奥の三城もこの時点でしっかり残ってる
・4/9の大敗の条で「然れども秀吉が覚悟を堅固にしてやがてかちかためられ」という秀吉が「ほんのさわりにもならない」とか書いてた強がりのハッタリと同内容がしっかり書いてる
(実際には秀吉は池田や森らが死んで大変不便だ。これを次やったら親子の縁を切られるのを覚悟しろ。などと秀次に譴責状を書いてる)
・秀吉が6/27の夜に馬五六騎で大坂に帰ったとか書いてる→秀吉が帰ったのは6/28だし五・六騎で帰ったとか明らかに捏造
・8/26に木曽川を渡って8/28に清洲辺りを放火したと書いてる→実際には秀吉が渡河したのは8/19で大きく異なるし
そこから一回美濃に戻った形跡もない。8月下旬の秀吉は小牧や丹羽郡小折などを攻撃目標として定めてるのが家忠日記・9/1秀吉→石川・蜘庵や8/18秀吉→景勝・須田でもわかる
・9/8条に「御書の日付7日也」と書いてる
・9/8条に「9/2に合戦、家康敗戦とも風聞在之」と書いてる→実際には9/2には合戦はなかったし
その前日の9/1家康→尾張黒田城の澤井雄重で尾張島東での戦功を賞され感状がでてるように、信雄が勝利してる。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
0243人間七七四年
2014/06/29(日) 20:22:49.09ID:Bgjz8U/f家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
0244人間七七四年
2014/06/29(日) 20:23:15.00ID:Bgjz8U/f>>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
0245人間七七四年
2014/06/29(日) 20:23:46.28ID:Bgjz8U/f羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
0246人間七七四年
2014/06/29(日) 20:24:03.94ID:Bgjz8U/f何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
0247人間七七四年
2014/06/29(日) 20:24:21.68ID:y0Yy93i/尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
0248人間七七四年
2014/06/29(日) 20:24:49.54ID:y0Yy93i/>>そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
>>ことごとく一万討ち捕らえたと、戦果を過大に言い触らし回っている。
身内や家臣に対して捏造を書いても全く秀吉に敵対勢力拡大には繋がらない。
身内に対しては正確な戦況報告を常に淡々と行うのが家康。
身内に対しての戦況報告=今後の作戦や指令に繋がっていくわけだから捏造戦果書いても戦線が混乱するだけ。
まぁ秀吉は家臣に対しても捏造戦果書きまくってたが。
>>無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は生還
一万人打ち捕らえた根拠が堀秀次長谷川というのが意味不明。
敵の首が一万以上あっただけ。それで家康が、堀や長谷川や秀次の影武者の首を本人の物と錯誤して彼らが戦死したと報告しただけ。
敗戦直後の4/9には堀長谷川秀次が戦死したと家康が錯誤してたため、誤った戦果が平岩らに伝わってるが
その後には4/21家康→皆川や5/3信雄→香宗我部5/7織田信純→香芸でも堀長谷川秀次らが戦死したというのは書かれておらず
4/9や4/10時点での堀長谷川秀次戦死というのは、誇大喧伝目的ではなく、戦闘直後で首実験が十分にされていない事による
家康や信雄の錯誤による物とわかるし、それが修正された後でも壱万人とか壱万五千人という数字はちゃんと変わらず書かれており
(むしろ信雄書状などでは8000→15000などと首実験の結果数がちゃんと正確に把握され、戦闘直後には計上されていなかった首まで計上されてより正確な数になってる)
1万人戦死の根拠は秀次堀長谷川の戦死ではなく、むしろ壱万人討ち取ったからこそ、秀次堀長谷川も死んだと推測して書状に書いていたから、1万人かそれ以上戦死というのは
正確な数字か実際より少ない数なのがわかる。
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい。
其の証拠に秀吉は規格外の兵力差と、会戦当初から寝返り続出で崩壊状態の雑魚信雄相手に手も足もでなくなって
ビビリまくって楽田からヘタレ敗走して家康らが絶対でてこれない木曽川を超えた先にあるデルタ地帯の小城数城をマンマと火事場泥棒するのがやっとだったし
>>自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死に
池田も森も自立勢力じゃない。これは>>863-865>>868でわかる。
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
0249人間七七四年
2014/06/29(日) 20:25:14.60ID:y0Yy93i/眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0250人間七七四年
2014/06/29(日) 20:25:47.38ID:y0Yy93i/あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0251人間七七四年
2014/06/29(日) 20:25:57.88ID:Bgjz8U/f翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
0252人間七七四年
2014/06/29(日) 20:26:33.78ID:Bgjz8U/f例えば小牧長久手合戦で1万人殺され諸城の攻防でも長久保・浜田・戸木・松ノ木・二重掘・蟹江・前田・下市場・東駒野など
負けまくり奪回されまくってたが、下記のようにハッタリと捏造でもみ消してる。
パフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
むしろそれは兵糧や物資に困ってて早期に決着つける必要があったため
相手の戦意喪失を狙ったものとみるべき。
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。
あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
0253人間七七四年
2014/06/29(日) 20:26:54.06ID:Bgjz8U/fVS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0254人間七七四年
2014/06/29(日) 20:27:18.43ID:y0Yy93i/全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
0255人間七七四年
2014/06/29(日) 20:27:36.86ID:y0Yy93i/など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
0256人間七七四年
2014/06/29(日) 20:27:55.72ID:y0Yy93i/徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
0257人間七七四年
2014/06/29(日) 20:28:10.52ID:Bgjz8U/f吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
0258人間七七四年
2014/06/29(日) 20:28:54.52ID:Bgjz8U/f小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってたのにこのタイミングで普請とか妄想乙
いかにこの書状が秀吉の垂れ流したハッタリ誇大喧伝ばかり載ってるかわかる文章だなw
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
加賀野井城なんて尾張の隅っこにある300程度しか城兵がいない雑魚城。
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
0259人間七七四年
2014/06/29(日) 20:30:20.73ID:Bgjz8U/f秀吉は信長の子供を養子として取ってて高貴な血統に属していて
下記のようにほとんど織田家旧臣連中は羽柴直臣と化していた。
池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる
小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
0260人間七七四年
2014/06/29(日) 20:30:41.87ID:Bgjz8U/fうらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
>> 一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかった
秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。
それにもかかわらず、馬鹿みたいに規格外の兵力で雑魚信雄や輝元に蹴散らされたり
氏政に29万で攻め込んで家臣を殺されまくったり、兵站線を崩壊させられてるのは、秀吉がそういった有利な条件を覆すくらい
アホみたいに戦べただっただけ。
秀吉の小牧長久手時は羽柴軍は相当強固な権限を秀吉が握ってた。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
秀吉方陣営からは誰も寝返りが出てないし、最も外様に近い池田も森も清洲会議時点でハッキリとした主従関係が出来てる
0261人間七七四年
2014/06/29(日) 20:31:05.59ID:Bgjz8U/f家康が信長の姉妹を娶ったことによって増えた家臣…皆無。
家康方は譜代の石川までこの頃既に離反しかけてるのが6月の秀吉→石川書状でわかるし、連れてた家臣なんてほとんど外様みたいなもんだろ。
木曽も小笠原も真田も石川も水野もあっさり家康から寝返ってるし
信雄からは伊勢でも美濃でも尾張でも会戦早々寝返りが出まくってる
信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
0262人間七七四年
2014/06/29(日) 20:31:24.94ID:Bgjz8U/fかなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。
それにもかかわらず、馬鹿みたいに規格外の兵力で雑魚信雄や輝元に蹴散らされたり
氏政に29万で攻め込んで家臣を殺されまくったり、兵站線を崩壊させられてるのは、秀吉がそういった有利な条件を覆すくらい
アホみたいに戦べただっただけ。
0263人間七七四年
2014/06/29(日) 20:31:49.57ID:Bgjz8U/f秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる
小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
0264人間七七四年
2014/06/29(日) 20:32:17.71ID:Bgjz8U/fとっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。
0265人間七七四年
2014/06/29(日) 20:32:38.03ID:t0DZeMBl>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
0266人間七七四年
2014/06/29(日) 20:32:58.27ID:t0DZeMBl犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
0267人間七七四年
2014/06/29(日) 20:33:18.92ID:t0DZeMBl白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、
ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、
光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
0268人間七七四年
2014/06/29(日) 20:33:32.57ID:Bgjz8U/f血筋や血統などを持ち出して敗戦の原因を言い訳するとか相当馬鹿だな。
家が成ってからの年月と、一人ひとりの仕えている武将の忠誠心とどう関係あるかちゃんと論じてくれよ
昔から、自分の親の親の代から何代も仕えてようが、自分の代になってやっと子飼いとして仕えようが、忠誠心も
何も変わらん
つうか昔から仕えてる家臣の方が変に自立心強くて言う事聞かなかったり謀反起こしたりしてるだろ
松平の譜代なんて三河一向一揆で家中半分に寝返ったり武田の譜代系も言う事聞かなかったりしてるだろうが
自分の代になって士官した子飼いなんて家臣として一番扱いやすい部類だわw
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
0269人間七七四年
2014/06/29(日) 20:34:05.50ID:Bgjz8U/f母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。
0270人間七七四年
2014/06/29(日) 20:34:51.32ID:Bgjz8U/f秀吉は直接対決でたかが防衛戦の熊見川合戦で3000人討ち取られるほどの雑魚っぷりを晒していたが
上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権を作りあげることには成功した。
だが所詮土下座と漁夫の利を得ただけの中身のない傀儡政権なので秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
秀吉なんて棚ボタと漁夫の利火事場ドロの連続で勢力広げただけだからな。結局本人の実力で勝ったわけじゃないから徳川に大敗して勝手に崩れて滅亡したんだろ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0271人間七七四年
2014/06/29(日) 20:35:15.57ID:Bgjz8U/f信雄と信孝がいがみあっていたり基地外のようなヌルゲーしか残ってなかったからな
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。
柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
0272人間七七四年
2014/06/29(日) 20:35:35.73ID:Bgjz8U/f家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
0273人間七七四年
2014/06/29(日) 20:35:50.07ID:Bgjz8U/f大国武田の圧迫に、信長からろくな援軍もない中、長年耐え抜いてきたじゃん。
一方家康は信長の畿内平定には狩り出されまくり、寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手を任されたりしてる
天正壬午で依田が活躍したのは、武田攻めの際、依田の命を救った家康の慈悲深さが功になっただけで
こういうのは自分の性格によるところだから棚ボタとはいえない。
関ヶ原では武断派は大軍で連携しながらろくな戦功もない寡兵の石田隊や小西隊や大谷隊、宇喜多隊などに苦戦しまくってたが、
家康が小早川を調略してくれたおかげでマンマと劣勢を覆す事のできた棚ボタっぷり。
こんな棚ボタ大名は他にはいないだろ。はっきりいって武断派なんて家康が小早川を調略せずにいたり、自分らを味方に退き入れなかったら
石田らに失脚させられるだけの雑魚でしかなかったのが史実。
その証拠に結局豊臣を見捨てて功利主義に走った武断派はマンマと改易されてるし
家康はほとんどろくな支援も受けずに逆に信長の畿内平定戦やら岩村合戦などには
いやいや付き従わされて、大国武田の侵攻を1人で支えてきたのに
貰った領土が駿河だけとかいかに苦労の割りにろくな目にあってないかわかるな。
武田を滅ぼせたのは、武田相手に孤軍奮闘してきた家康のおかげなんだし、信濃も甲斐も家康に直接あげるくらいじゃないとおかしいからな
普通に考えて関ヶ原で棚ボタだったのは家康ではなく
家康のおかげで戦闘に勝利でき、ろくな戦功もなく石田や小西や宇喜多や大谷などの寡兵の雑魚に苦戦しまくってただけなのに
大版図もらえた福島池田黒田細川ら東軍の雑魚武将達だろ。
家康が味方に誘ってやらなきゃ、石田らに次々に実権を奪われて失脚するだけのアホでしかなかったが
家康のおかげでマンマと大版図もらえた。
ガチで実力0の癖にに棚ボタと漁夫の利と金魚の糞で大名になっただけのウンコみたいな大名でしかない。
看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
0274人間七七四年
2014/06/29(日) 20:36:07.53ID:Bgjz8U/f秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
0275人間七七四年
2014/06/29(日) 20:36:22.88ID:Bgjz8U/fそんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え
石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康
0276人間七七四年
2014/06/29(日) 20:36:40.21ID:y0Yy93i/言い訳ってなんだそれ(笑)いつもの妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
>>家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず
ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0277人間七七四年
2014/06/29(日) 20:37:14.70ID:y0Yy93i/>>実力で負けた
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
>>実力で負けた
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0278人間七七四年
2014/06/29(日) 20:37:53.75ID:y0Yy93i/雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0279人間七七四年
2014/06/29(日) 20:40:03.11ID:y0Yy93i/うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。
0280人間七七四年
2014/06/29(日) 20:40:19.37ID:y0Yy93i/秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615
秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
0281人間七七四年
2014/06/29(日) 20:40:48.47ID:y0Yy93i/秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615
秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
0282人間七七四年
2014/06/29(日) 20:41:03.54ID:y0Yy93i/前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
0283人間七七四年
2014/06/29(日) 20:42:14.33ID:y0Yy93i/うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。
0284人間七七四年
2014/06/29(日) 20:42:36.50ID:y0Yy93i/世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0285人間七七四年
2014/06/29(日) 20:42:50.85ID:y0Yy93i/間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
0286人間七七四年
2014/06/29(日) 20:44:09.20ID:y0Yy93i/秀吉は言う事を聞かず邪魔になるような先代からの旧臣とかがいなかったから
その分自分の都合よく動かせるよく言う事を聞く好きな家臣を生え抜きの叩き上げで育成できたからね。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
0287人間七七四年
2014/06/29(日) 20:44:39.03ID:y0Yy93i/逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるし陣立書の導入により今までのような一揆的秩序の貫徹する
軍隊内部に 命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている
叩き上げ武将達が悉く豊臣家を見捨てて家康に篭絡され
前田や浅野が家康の示威行動に対してビビって即効ヘタレ土下座し
総大将であり首謀者の毛利輝元が馬鹿すぎて100%かてる状況にもかかわらず
何もできず兵力を分散しまくり大敗したのが、豊臣家衰退の原因。
三成や宇喜多や小西などの恩顧系・親藩系の諸大名はそこそこ頑張ってたが
前田や浅野や毛利や豊臣武功派系などあまりにも情けない馬鹿な大名らが多すぎたのが痛かった。
0288人間七七四年
2014/06/29(日) 20:45:55.29ID:y0Yy93i/>>当時の秀吉は勢いに乗って背伸び状態の不安定な勢力
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/201
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/203-210
>>家康と戦った1983年あたりの秀吉は、全方位敵
>>強力な勢力を同時に敵に回す状況
当時の秀吉の状況…自領は北は北陸・東は尾張口数郡や美濃ほぼ全域伊勢の大部分伊賀全域・西は備中・伯耆まで900万石程度の広範な版図を抱え
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らを従える。この中で宇喜多は秀吉の親藩で、本能寺前ですら秀吉領との一体化が進められてた程
直轄領に近い関係。十河や河野も本能寺前から対長宗我部の関係で相当密接な主従関係にあった。
上杉も毛利もとっくに秀吉に臣従してる。これは秀吉の要請に従って上杉が新発田攻めを後回しにしてでも秀吉からの要請優先で信濃攻めを行ったり
毛利が秀吉の要請に従って四国に派兵してる事からわかる。
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らは、秀吉の要請によって敵方の徳川・長宗我部・北条などと交戦したり長久手に援軍送ったりまでしてる。
北条は関東に釘付けで、出てくる気配なしどころか家康の背後を襲う風聞すらあり、信濃川中島にも挙兵してきたため、
家康は軍のほとんどを領内に残して8000程度しかつれてきてない(当代記など)
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/91-92のように、
秀吉は家康や信雄を潰す気満々で主力135000を率いて楽田までやってきてるし
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/93-95のように
協力な敵を同時に敵に回してたのは家康であって秀吉はその頃900万石近い自領に加えて
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野と同盟者だらけで超絶ヌルゲーだった。
実際紀州一揆対策には中村6000しか残してなくても、撃退できてるから、その後岸和田には誰も派遣してないし「
それ以外の方面の敵(長州我部など)は他の同盟者が抑えているどころか、秀吉なしでも優勢に戦ってるほどだったから、
秀吉は対信雄と家康に全力で挑めたし、実際に主力135000でやってきて攻めまくってる。
>>徳川家との殺し合い長期化で、(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦を強いられていたら
(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦とか相当妄想だな。秀吉は諸城にほとんど抑えをおかなくていいくらい
同盟者が多く、岸和田ではわずか6000の中村が一揆勢を撃退とかやってるし
長宗我部なんてまだ秀吉方の十河や河野や四国に派兵してきた毛利に苦戦して、70万石程度の四国制覇すらできてないじゃんよ。
逆に家康の方が上杉対策や、関東に乱入する風聞の北条対策で大量の兵力を領内に残してたから、よほど長期戦不利だわ。
結局秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
土下座能力はチートだったので 信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
0289人間七七四年
2014/06/29(日) 20:46:10.83ID:y0Yy93i/秀吉のいない豊臣方は中々敢闘してるが秀吉のいる尾張口の部隊はハナクソみたいな戦果しか挙げてないどころか、配下も殺されまくってる。
秀吉はそもそも背後の心配が全くないから
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/440-447
のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
0290人間七七四年
2014/06/29(日) 20:46:22.84ID:y0Yy93i/翌年には水野や真田や小笠原まで寝返りだすような雑魚統制で
北条の駿河乱入の風聞まであり、主力のほとんどを領国に配置してきた家康の支配が強固とか
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野・大友らを従え
各方面に兵力を残す必要がなく小牧長久手合戦で135000の主力を思い切り動員でき
その後も多方面は留守居部隊と同盟軍の活躍で何ら心配がなかった秀吉900万石を
多方面に敵がいて多方面作戦を強いられてたとか相当馬鹿な発想だな。
自国+同盟軍まで合計したら秀吉なんて1400万石くらいいくだろ。
秀吉の敵対者で明確なのは長宗我部57万石と弱体化した雑賀一揆10万石と
この頃挙兵すらしてない佐々30万石と佐竹結城宇都宮那須皆川壬生連合がしっかり釘付けにしてる北条180万石だけ。
実際に秀吉軍は留守居部隊をほとんど配置せずに主力を全力で率いて短期決戦しかけてボロ負けしてるわけで
多方面作戦を敷くのが不利だから家康を潰せなかったとか妄想もいい所だな。
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。
今川氏真が指揮を取っても楽勝で勝てそうな超ヌルゲーで
雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。
秀吉厨は自国の国力の割合、秀吉同盟者の割合、秀吉敵対者の割合という
国力を比で見る小学生でもできる基本的な考え方が欠如してるから
自国からみてハナクソみたいな雑魚国力の敵&周囲には敵対者と長年争ってきた自軍の味方だらけの状況でも
全方面敵だの多方面作戦だのアホな発想ができる。
実際に国力の割合からいえばよってたかるハエを追い払うくらいのヌルゲーの戦争しか残ってないのが秀吉。
しかしそんな今川氏真が指揮を取っても楽勝で勝てそうな超絶ヌルゲーで
雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん
実際に秀吉は自国の兵力総動員して信雄相手に短期決戦挑んでガチ負けしてるし
その後も諸城を攻めては撃退され攻めては撃退されあげくは浜田・蟹江・前田・下市場・長久保などの諸城を奪回されたりまでしてるし
夏の対陣のときは丹羽勢含めて16万で出兵してきてるのに
家康を潰す気がなかったとか多方面作戦が大変だったとか言い訳もいい所だな。
多方面作戦敷くなら最初から対信雄戦線放置するか最低限の抑えの兵だけ残して雑賀や四国やらに先に出兵して滅ぼしてる。
同盟者が馬鹿みたいに多い秀吉からすれば多方面作戦で敵を同時に侵略するくらい国力的に容易な芸当なのに
主力全て対信雄・家康に向けた戦闘ですら全くといっていいほど戦果があがってない
0291人間七七四年
2014/06/29(日) 20:46:53.38ID:y0Yy93i/前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
0292人間七七四年
2014/06/29(日) 20:47:15.60ID:y0Yy93i/北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
宇留津城の悲劇
秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。
そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。
そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。
浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。
0293人間七七四年
2014/06/29(日) 20:47:28.06ID:y0Yy93i/主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。
>>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた
だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉だろ。
>>信雄と信孝は超アホで調停不能
だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿
秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。
>>信雄の官位官職も上げまくって
そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。
その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。
>>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝
ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw
>>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから
西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。
>>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに
自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。
>>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝
主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw
>>織田が家康を嫌ってた
ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している
>>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち
いやほとんど信長や信忠のお膳立てだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所
守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況
永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。
それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。
>>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔
そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。
ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず)
>>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ
そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく
他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。
あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。
0294人間七七四年
2014/06/29(日) 20:47:47.51ID:y0Yy93i/そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え
石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康
0295人間七七四年
2014/06/29(日) 20:48:06.49ID:y0Yy93i/言い訳ってなんだそれ(笑)いつもの妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
>>家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず
ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0296人間七七四年
2014/06/29(日) 20:49:02.02ID:y0Yy93i/小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってたのにこのタイミングで普請とか妄想乙
いかにこの書状が秀吉の垂れ流したハッタリ誇大喧伝ばかり載ってるかわかる文章だなw
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
加賀野井城なんて尾張の隅っこにある300程度しか城兵がいない雑魚城。
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
0297人間七七四年
2014/06/29(日) 20:49:28.70ID:y0Yy93i/家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
0298人間七七四年
2014/06/29(日) 21:14:40.93ID:Bgjz8U/f135000VS16000の決戦で、織田信雄方からは会戦早々伊勢・尾張・美濃・伊賀・信濃と離反でなだれうって崩壊するほど
秀吉にとってヌルゲーの会戦状況だったが
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったので
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
0299人間七七四年
2014/06/29(日) 21:16:39.15ID:Bgjz8U/f雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0300人間七七四年
2014/06/29(日) 21:17:02.77ID:Bgjz8U/fハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>賛成している者は徳川家臣団には
ソースは?
>>明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされ
ソースなし。
しかも>>そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
これと見事なまでに矛盾したアホ乙
>>天正14年5/25の秀吉書状には家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
秀吉は天正12年の時の和睦停戦の時にも信雄が人質を差し出して種種懇望して来たが許さなかったとか
信雄が人質を差し出して種種懇望してきたから許してやったとか
嘘ばかりデッチあげてるし(9月時点で許さなかった和睦条件を、11月に許してやる理由が全くない。)
>>戦を回避する為に家康が懇望
ソースなし。妄想乙。秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0301人間七七四年
2014/06/29(日) 21:17:41.18ID:Bgjz8U/fなんで前の年に秀吉の顕如に必死に土下座してに和議に応じてやった後なのに
秀吉に自分から寡兵で攻め込まなきゃ無能になるんだよタコ
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>秀吉への取次窓口の信雄に切り捨てられることは滅亡を意味
史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
0302人間七七四年
2014/06/29(日) 21:18:56.05ID:Bgjz8U/f戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
0303人間七七四年
2014/06/29(日) 21:19:33.16ID:Bgjz8U/f信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
0304人間七七四年
2014/06/29(日) 21:19:57.02ID:Bgjz8U/f7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
>>引きこもり続けた家康
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>一方的に秀吉に押されまくって
秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0305人間七七四年
2014/06/29(日) 21:21:16.40ID:Bgjz8U/fまた犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0306人間七七四年
2014/06/29(日) 21:21:46.69ID:Bgjz8U/f何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0307人間七七四年
2014/06/29(日) 21:22:21.29ID:Bgjz8U/f間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって和議に応じただけ
0308人間七七四年
2014/06/29(日) 21:23:05.73ID:Bgjz8U/f森らは全く死に急いではいない。4/8秀吉→丹羽にあるように軍令に忠実に三河方面へ淡々と行軍してただけ。
>>三好秀次を支援に付ける温情
秀次は当時秀吉の数少ない血縁者。森が自殺を考えてるなら生きるか死ぬかもわからん戦に秀吉が行軍させるわけがない。
>>秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。敗因を作ったのは秀次
背後を襲わせたのは、秀吉のアホ戦術。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
>>汚名返上のために死ぬ覚悟だった森ら
ハイハイ、ソースなし。
国境地帯にいる森らがいつ命落すかは全くわからんし、去就が注目されてた程なので秀吉に従った後
いつ先陣をやらされるかわからんから、遺言状を念のため書いただけ。それを無理矢理森が命を省みず無謀な行軍をするつもりだったとか
中入りが森らが名乗り出たとか相当馬鹿だな。森らは>>863-864>>868のようにとっくに秀吉家臣だから
4/8丹羽宛書状にあるように秀吉の命令で三河侵攻に派遣され、秀吉の命に忠実に動き、三河方面に放火や城攻めや築城をしながら行軍してただけだろアホ
>>秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、
恥辱も糞も仮に背後から襲われる結果になった場合真っ先に狙われるのは最後尾の秀次軍であり
森らは最も安全な、徳川や信雄から離れた位置で行軍してたのだから、最初からこれが無謀な行軍なわけがない。
そんな危険な戦を考えていたならなら、秀次が一緒に派遣されるわけがないし、秀吉の親戚筋の木下兄弟まで一緒に派遣されて戦死してるほどなんだがw
>>森らが生還を考えず勝手に討ち死に
生還を考えずも糞も、尾張方面から進出してくる徳川軍に退却路をふさがれてただけだろ。
池田元助という、未来のある武将まで逃げ切れず戦死してるし。
>>秀次や長谷川や堀らは無事生還
秀吉のアホ作戦のせいで秀次が急襲されて、ねねの兄弟の木下兄弟が戦死し、長谷川や堀らが榊原隊に蹴散らされあっさり敗走したために
徳川勢と信雄勢がわらわら集まってきて、池田と森らが退却できなくなって、戦死しただけ。
池田元助まで逃げ切れずに戦死してるから、逃げようとして逃げられなかっただけであって自ら死を選んだわけじゃない。
0309人間七七四年
2014/06/29(日) 21:23:41.61ID:Bgjz8U/f池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
0310人間七七四年
2014/06/29(日) 21:31:43.85ID:Bgjz8U/f家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>一方的に秀吉に押されまくって
秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0311人間七七四年
2014/06/29(日) 21:32:09.33ID:Bgjz8U/f>>もしくは、 顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレなどを読んで、秀吉が6/10に竹鼻城を落城させたと誤読して偽書状を作製した
誰がそんな事書いてるわけ?
時分の脳内設定には興味ないんで、論文か史料をあげてくれ。
>>三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
同上。大久保の回顧録に当たる三河物語が、適当だという論拠を出せ。
つかお前金が崎では三河物語を直接ソースに持ち出してただろうが。
>>尾張への 中入り戦略
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
0312人間七七四年
2014/06/29(日) 21:33:13.94ID:Bgjz8U/fって三鬼清一郎氏の豊臣秀吉文書目録でもしっかり一次資料認定されてるんだが。
秀吉からすれば、貴重な血縁者の1人を家康に差し出す事になり、大損。
家康からいえば豊臣政権簒奪のチャンスの大義名分を得る事になり、大得。
朝日姫は、豊臣政権に忠義者である石田増田など近江組や福島加藤らの尾張組など
秀吉の子飼いに与える方が遥かに望ましい。
外様中の外様にやっても家を簒奪させる名分ができて、豊臣政権として危険なだけ。
その危険な政策をやらざるをえないほど追い込まれてたのが秀吉。
家康は娘が一杯いるけど、秀吉は娘0で血縁者も少ない
意味合いが全く違うわな
>>秀吉は滝川なんて知らんぷりで竹鼻城陥落の目処が立つと伊勢に陣替
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>>秀吉は6/8に墨俣で茶会
東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同
0313人間七七四年
2014/06/29(日) 21:35:38.49ID:skV2nNJg0314人間七七四年
2014/06/29(日) 21:39:20.66ID:aKdYy2Mn0315人間七七四年
2014/06/29(日) 21:42:36.03ID:Bgjz8U/f転封命令までしっかり出されてる。
池田は摂津からド田舎の美濃に移されて
蜂谷とか畿内の大名まで転封されてる。
秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
0316人間七七四年
2014/06/29(日) 21:43:41.28ID:Bgjz8U/f「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。
池田や森が狂犬とか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
長久手合戦以前の清洲会議前後ですらはっきり上下関係が史料から読み取れ
「秀吉さま」「おもらいになってください」などと丁重な言葉と
自分の領分にまで秀吉の介入が入っている状態の池田や森が秀吉の家臣じゃなかったとか
秀吉が散々行動を賞賛しまクり、死後はその弔い合戦までやってのけてる池田や森がバカだとか
勝手な行動やったとか死んでよかったとか相当バカな妄想だな。
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
3/20秀吉書状 秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
森 3/26 書状 茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
0317人間七七四年
2014/06/29(日) 21:44:27.07ID:Bgjz8U/f「秀吉さま」「おもらいになってください」などと丁重な言葉と
自分の領分にまで秀吉の介入が入っている状態の池田や森が秀吉の家臣じゃなかったとか
秀吉が散々行動を賞賛しまクり、死後はその弔い合戦までやってのけてる池田や森がバカだとか
勝手な行動やったとか死んでよかったとか相当バカな妄想だな。
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
3/20秀吉書状 秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
森 3/26 書状 茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
0318人間七七四年
2014/06/29(日) 21:44:58.72ID:u9cwTawv0319人間七七四年
2014/06/29(日) 21:45:54.89ID:Bgjz8U/f・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
・利休の愛弟子の山上宗二を耳と鼻を削がれた上で打ち首にする
・利休は秀吉に完全に心を閉ざすようになりツッケンドンな態度を示すようになり、利休を殺してる
・宇留津城で城主の加来与次郎は討ち死に降伏した男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することになり、周防灘が赤く染まる
・天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国
の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した
三木合戦で大量殺りくか 秀吉の助命説覆す報告書
三木城主・別所長治の自害によって羽柴(豊臣)秀吉が城兵たちの命を助けたとされてきた
「三木合戦」は、実は長治の命ごいがかなわず、大量殺りくがあった可能性が高いとの見解を、
大手前大学(西宮市)の小林基伸准教授(56)が発表した。三木市教委刊行の
「三木城跡及び付城跡群総合調査報告書」で明らかにしたもので、長治の自害と秀吉による
城兵の助命は地元で美談として伝えられてきただけに、新説は波紋を広げそうだ。(藤森恵一郎)
小林准教授によると、これまでの定説は史料「播州御征伐之事」などの記述に基づくもの。しかし、
「播州‐」は秀吉の徳を顕彰・美化するため後代に書かれたとみられ、疑問が残る部分があるという。
小林准教授は、秀吉本人が書状で三木城の落城後、ことごとく首をはねたと述べていることと、
織田方の武将宇喜多直家が秀吉の使者から「切腹した者以外を一所に追い寄せ、番を付け置いて
悉(ことごと)く殺す」との報告を受けていることに注目。秀吉の誇張を差し引いても「通説的理解とは
ほど遠い」とみた。
さらに天正8(1580)年4月に、織田勢と敵対する石山本願寺の僧顕如が「(織田方への)抵抗を
続ければ、最後には有岡や三木同然になることはあきらか」と述べ、敗戦で六百数十人が
処刑された有岡城(伊丹市)の例を三木城と同列に扱っており、「ほかの全員が助命されたのであれば、
三木城の結末は有岡城に匹敵するほどの凄惨(せいさん)なものとして記憶されたか」と疑問視。
三木合戦の最終段階で「大量殺りくがあった可能性が高い」と結論付けた。
ttp://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003226192.shtml
0320人間七七四年
2014/06/29(日) 21:47:05.42ID:Bgjz8U/f柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
0321人間七七四年
2014/06/29(日) 22:49:57.98ID:Bgjz8U/f・若くして織田家の人質に出され、その織田と松平が対立する
・今川の尾張攻めで先鋒を無理矢理勤めさせられる
・桶狭間合戦で主君義元が殺される
・貧国で一向一揆が根強い三河の数郡の小領主として独立する
・三河一向一揆で、家臣が二分するような危機に追い込まれる
・自国より遥かに強大な国力の今川や武田の侵攻を次々に受ける。
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長の畿内平定戦に次々刈りだされる(金ヶ崎の侵攻戦、上洛戦、滋賀の陣、姉川の戦い、長島侵攻戦、岩村攻囲戦など)
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長からはろくな援軍が来ない
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられる。
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられ、信康を命令で殺される
・ろくな援軍もなく、長年武田相手に敢闘し、単独で抑えてきたにもかかわらず、武田攻めでは駿河しかもらえない。
・堺で穴山と遊行中、信長が本能寺で殺され、同行してた穴山が殺され、家康も襲われて危うく死にかける
・命からがら戻ってきたものの、元の国力がしょぼ過ぎ、同盟者家康には大義名分に欠けるため、ろくな兵が集まらず、光秀討伐に行けない。
・信長が死んだ後の信濃・甲斐に上杉景勝と北条氏直が進出してくる
・北条との同盟後も、天正11年・12年と上杉景勝が揚北や越中戦線を放り出してまで川中島侵攻を続けてくる
・秀吉が馬鹿みたいな大軍を率いて、しつこく侵攻してくる。
・圧倒的に秀吉軍を蹴散らしまくってたにも関わらず、織田信雄がマンマと和議に応じ、家康も応じざるをえなくなる
・天正11年に領内で大洪水が起きて、その対応に追われ、徳政令を連発するハメになる
・天正12年に木曽義昌、天正13年に小笠原貞慶・真田昌幸・石川数正・水野忠重が離反し、領内の軍事機密が露見する
・秀吉死後、自分を敵視した奉行衆らが、自分を暗殺する計画を企てる
・秀吉死後、自分を敵視した前田が、天下の差配を牛耳ろうと威張り散らす。
・秀吉死後、自分を敵視した上杉が、自分の命に背いて、領内に立てこもり、戦線布告する。
・秀吉死後、自分を敵視した輝元や三成らが、規格外の大軍を率いて馬鹿みたいに戦をけしかけてくる。
・藤堂隊や黒田隊、細川隊などが弱過ぎて、寡兵でろくな戦闘経験もない雑魚三成相手に苦戦し、あやうく負けかける。
・関ヶ原後も、秀頼や幸村らが巨大な富と、戦国一の堅城大坂城に大軍で立てこもり、自分に歯向かう。
・ヨボヨボのジジイになっても、息子が無能すぎて頼りにならないため、仕方なく自分が采配を振るって前線まで一々出かける。
0322人間七七四年
2014/06/30(月) 00:49:20.96ID:8iNWLKAw0323人間七七四年
2014/06/30(月) 04:02:44.21ID:Cdbg4FGx一人でID変えつつ論戦やってるふうにでも装ってるのか?
0324人間七七四年
2014/06/30(月) 04:14:52.07ID:YoSIeB7J0325人間七七四年
2014/06/30(月) 06:22:26.33ID:UyXoz9TQ説得力皆無ってことだな
0326人間七七四年
2014/06/30(月) 07:00:20.65ID:iajXQOFJ永遠と知識を垂れ流して会話なんて成立しないだろうよ
0327人間七七四年
2014/06/30(月) 07:33:24.46ID:UyXoz9TQ少しでも異論を挟めば何をされるか解らないし
0328人間七七四年
2014/06/30(月) 09:14:59.87ID:KQ/XWsiT大体長文を読んでから大学図書館に行って、自分でも調べるという内容で勉強してるけど
全て史料や論拠や事例は出典元があって、とてもわかりやすい。
0329人間七七四年
2014/06/30(月) 09:18:05.28ID:txkkUuNs無知な人間や読解能力のないからすると、文章が長いだけに、気に入らない内容だと、
認めたくないのがあるだろうな。
0330人間七七四年
2014/06/30(月) 12:05:53.57ID:DOeiN7N50331人間七七四年
2014/06/30(月) 16:50:04.38ID:O3PAnzlr0332人間七七四年
2014/06/30(月) 21:10:20.37ID:UyXoz9TQ秀吉は家康を降伏させて利用しただけ
0333人間七七四年
2014/06/30(月) 21:43:00.46ID:3ucAXr1Hさらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、
いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0334人間七七四年
2014/06/30(月) 21:49:36.33ID:wlndbhK9さらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、
いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0335人間七七四年
2014/06/30(月) 21:50:11.42ID:z02inrr9土下座しただけ。
実際に雑魚の信雄の領国へ攻め込んだら直接対決で雑魚相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0336人間七七四年
2014/06/30(月) 21:50:42.07ID:wlndbhK9敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
0337人間七七四年
2014/06/30(月) 21:51:06.54ID:3ucAXr1H豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
0338人間七七四年
2014/06/30(月) 21:51:32.03ID:wlndbhK9「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってる
0339人間七七四年
2014/06/30(月) 22:09:24.31ID:3ucAXr1H135000の大軍で雑魚の信雄・徳川勢16000に短期決戦挑んだら10000人討ち取られ
その後 秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり
0340人間七七四年
2014/06/30(月) 22:10:03.96ID:+VD1HlkMあらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0341人間七七四年
2014/06/30(月) 22:15:37.10ID:T7gwn/5G秀吉は天正12年11/4本願寺顕如書状で信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊
0342人間七七四年
2014/06/30(月) 23:29:33.06ID:e5XeH4Sw0343人間七七四年
2014/07/01(火) 05:15:14.91ID:V8RMeSnD秀吉は家康を降伏させて利用しただけ
0344人間七七四年
2014/07/01(火) 08:47:50.13ID:bp7Y4kloさらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、
いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0345人間七七四年
2014/07/01(火) 08:48:20.29ID:nlIlO72j135000の大軍で雑魚の信雄・徳川勢16000に短期決戦挑んだら10000人討ち取られ
その後 秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり
0346人間七七四年
2014/07/01(火) 08:48:48.86ID:bp7Y4klo豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
0347人間七七四年
2014/07/01(火) 08:51:56.07ID:b+tmINjr秀吉が家康に土下座したと書いてる奴の意見はとても内容が詳しくて、すごく勉強になるし参考になる。
0348人間七七四年
2014/07/01(火) 08:52:30.97ID:nlIlO72j土下座しただけ。
実際に雑魚の信雄の領国へ攻め込んだら直接対決で雑魚相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0349人間七七四年
2014/07/01(火) 08:53:34.15ID:Rbu0Isyr当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0350人間七七四年
2014/07/01(火) 09:05:53.09ID:V8RMeSnD0351人間七七四年
2014/07/01(火) 09:53:39.51ID:mbWVDaEl0352人間七七四年
2014/07/01(火) 10:25:00.62ID:bp7Y4klo「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0353人間七七四年
2014/07/01(火) 10:25:56.18ID:fED1JXj9さらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、
いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0354人間七七四年
2014/07/01(火) 10:26:23.41ID:b+tmINjr必死に本願寺顕如に取り成しの土下座依頼したりや朝廷に献上品しまくったり
饗応の節句に参加したり、御所の修理をお金出して手伝ったり、朝廷への土下座を始めるからね。
家康の場合はその必要が全くなく武力で天下統一が楽勝だったから、何もしなくても征夷大将軍になったし。
0355人間七七四年
2014/07/01(火) 10:26:46.74ID:mhD6yc71官位まで土下座献上してるんだよな
次々に出世させてある公家日記によると天正15年時点で征夷大将軍に家康がなったとか書かれる程だし。
0356人間七七四年
2014/07/01(火) 10:28:12.18ID:b+tmINjrだが秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
0357人間七七四年
2014/07/01(火) 10:28:52.73ID:bp7Y4klo国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
0358人間七七四年
2014/07/01(火) 10:29:52.50ID:b+tmINjr豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
0359人間七七四年
2014/07/01(火) 10:30:31.00ID:zvDQGJSp1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けるとか情けなさ過ぎる
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい国力の差があるのに
0360人間七七四年
2014/07/01(火) 10:59:52.84ID:qr7RX+Fq0361人間七七四年
2014/07/01(火) 17:17:22.19ID:V8RMeSnD江戸時代でも勝頼の無能ぶりは一般常識だったようだな
0362人間七七四年
2014/07/01(火) 18:00:44.21ID:6whti1rr同盟詐欺の騙し討ちを、対北条徳川戦で疲弊してた時期にしかけられたため、
国人は一斉に寝返りを続けて一気に崩壊した。
0363人間七七四年
2014/07/01(火) 19:18:49.85ID:bO5qr2K20365人間七七四年
2014/07/02(水) 03:42:02.34ID:EfoOodfn武田ももうちょっと生き延びれたかもなぁ
東美濃からの織田の攻勢は木曽があるかぎり大丈夫だろうし
対徳川にもう一度専念すればなんとでも挽回できたような
0366人間七七四年
2014/07/02(水) 20:51:02.52ID:X848mW+B史実だと長篠後〜御館の時期でさえ
遠江では武田が徳川との戦いを避ける程度に弱体化しているよ、
駿河だと徳川が戦いを避けているので、徳川の方が有利と言えるような状況でもないが。
0367人間七七四年
2014/07/04(金) 03:27:29.34ID:rXi2/ppZ御館の乱後に対北条に投入したリソースを対徳川に投入できると考えればどう?
高天神で織田徳川連合軍ともう一度決戦とか
負けりゃ今度こそ詰みだけど
0368人間七七四年
2014/07/04(金) 12:41:31.36ID:weWFe7u/第三次信長包囲網の時点で、織田の後詰が全く期待出来ない
徳川に対して大攻勢を仕掛ける事が出来ていたはずなんだけど
実際は何も出来なかった、長篠の戦での致命的ダメージが原因でな
0369人間七七四年
2014/07/05(土) 02:09:59.10ID:Al21qMDo序盤に上杉との敵対関係を引き継いで対織田戦に戦力を集中できなかった武田家が雑魚すぎた
甲斐という本拠地に縛られて柔軟性を欠いた武田家が雑魚すぎた
織田の強大な経済援助を受けているとはいえ長篠以降は徳川を圧迫するのに精一杯ってのが雑魚すぎた
攻勢に出るべき時期を完全に逸した毛利が雑魚すぎた
畿内の反逆組をほとんど援助できなかった毛利が雑魚すぎた
宇喜多は寝返るかもしれないから注意しなきゃと喚起しているにも関わらず裏切られた毛利が雑魚すぎた
宇喜多寝返り後は宇喜多さえも突破不能の毛利が雑魚すぎた
手取川大勝利を謳っているのに織田家譜代重臣を根こそぎ逃がした上杉が雑魚すぎた
本願寺は畿内に一軍を長年引きつけた点はよかった
っというか本願寺に当てていた戦力がそのまま武田に襲い掛かってくる訳だし・・・
せめて長島勢力が残ってるうちに織田軍と当たるべきだったね
毛利は何しにきたのかわからんくらい動きが鈍いってのは包囲側として致命的だったNE!!
0370人間七七四年
2014/07/05(土) 09:00:03.29ID:oFzhTRXm御館の乱が起きず、北条とは同盟のまま、上杉の行動も謙信が生きている時のままと仮定しても、
数年は徳川単独にさえ苦戦したままだと思う。
そこから更に時間が経って武田が長篠のダメージから国力的にも人材的にも回復したなら、
徳川単独が相手であればまた武田有利という展開になるだろうとは思う。
0371人間七七四年
2014/07/05(土) 10:46:08.68ID:gUZYNZRq北条と手切れなんて、あの状況では有り得ない
勝家vs景虎なら、北条も織田を敵に回してでも支援しただろうし
そこで上杉、北条、武田vs織田、徳川という構図を構築出来れば
結構おもしろい結果になっていたと思うけどな
0372人間七七四年
2014/07/05(土) 11:52:30.17ID:iBvGRDNs阿賀北の新発田ら負けん気の塊が東北大名と結託
して半独立もありえるし、景勝を強烈プッシュした斎藤。
こいつは越後内でもかなり重要な要地を抑えてるし
越後内最大級の山城も管理下に治める大物。
そこに与板勢がタッグ組んだら完全にホットラインが作られ
史実以上に泥沼だわ。
0373人間七七四年
2014/07/05(土) 12:12:02.88ID:qlFlDMNC0374人間七七四年
2014/07/05(土) 13:07:11.97ID:QoXZSZI9景勝が景虎を倒して後も
伊達や葦名の支援を背景に天正8年半ば(新発田は天正9年以降も)抗い続けたし
河田長親も、景勝の優勢が決定的になるまでは、中立を保ってる。
景虎が春日山を制して景勝を倒せば
下郡や中郡の国人は、伊達・葦名との結びつきを背景に、伊達・葦名が支援してた景虎陣栄にとどまり続けると思われる。
0375人間七七四年
2014/07/05(土) 13:08:49.26ID:hhQ09RU/というか蘆名は南陸奥の覇者だったのに、ナメられすぎだろ。
勝頼後北条景虎で春日山攻めても南は柴田、北は蘆名がいるから景勝は籠城が関の山。
春日山を失ったら景勝派が離反の嵐となり総崩れは避けられないだろう
0376人間七七四年
2014/07/05(土) 13:10:48.17ID:j1Acp0+P武田軍が迫る中景勝は春日山包囲を崩して諸城との連絡を復旧
景虎逆に包囲される
この頃すでに葦名は越後に攻め入ってきており景勝方の揚北衆と戦闘中
勝頼は越後に入るも北条の行動に不信感を持って景勝と和睦して撤退
景勝は武田対策に回していた分の兵を北条対策に増派して持ちこたえ
結局北条は雪が降りだしたため撤退
同時に芦名が秋に再度越後に侵攻し山浦衆を味方につけるなどしていたが景勝これを撃退
伊達も黒川と提携し侵攻してくるがこれも撃退
その間景虎は景勝方に兵糧攻め食らっていてあちこちに救援依頼
雪のおかげで外国勢の相手から解放された景勝方が集まってきて
景勝からの総攻撃食らって景虎逃げる途中にアボン。
0377人間七七四年
2014/07/05(土) 15:52:45.34ID:HBgN3eRRそいつら景虎に対する忠義で戦ってた訳じゃないから
景勝が倒れりゃ他国者の景虎立てて徒党を組む必要も無くなる訳で
伊達や葦名の支援を背景に独立(伊達葦名に従属)するだけじゃね
新発田に至っては元々反景虎で乱後に恩賞問題で背いただけだし
景勝が倒れりゃ、そのまま独立するだけだろ
なんにせよ勝頼は徳川戦で忙しい中、最大限の時間稼ぎはしてる訳で
肝心の北条軍が三ヶ月も待たせた挙句、雪を口実にさっさと撤退じゃどうにもならんよ
0378人間七七四年
2014/07/05(土) 19:27:52.50ID:8zw76Dk60379人間七七四年
2014/07/06(日) 01:16:31.60ID:EC4KXyRa播磨方面の毛利
加賀方面の上杉
石山本願寺
ついでに荒木も反乱
これで徳川は織田の後詰は期待できなくなる
0380人間七七四年
2014/07/06(日) 02:30:07.53ID:wiXQQ06j本人もそろそろ寿命かななんて思ってたかもしれない
同時期の英雄である信玄は享年52歳、氏康は56歳か
0382人間七七四年
2014/07/06(日) 07:57:06.75ID:oPb/yzuM0383人間七七四年
2014/07/06(日) 13:20:37.82ID:mwx/Dss1岐阜・尾張の信忠がフリーなんで
0384人間七七四年
2014/07/06(日) 15:48:55.61ID:9EsVlydtま、また諏訪大明神をまもるうっっ宿命がああああっ
0385人間七七四年
2014/07/06(日) 22:23:28.53ID:9Tm6axn3もし信長が勝頼を甘く見て信忠総大将で2万程度で出陣
徳川と合わせて3万で高天神の後詰に来た武田2万と激突
とかになると面白そうだが
もう馬防柵は通用しないしそもそも信忠の性格なら普通に野戦だろう
まぁ武田は優秀な指揮官かなり失ってるから野戦が有利になるかどうかは微妙だが
0386人間七七四年
2014/07/07(月) 20:44:53.44ID:JNCYs7ZAその後北条を短期で屈服させられなかったところが
勝頼と信玄の差だよな
0387人間七七四年
2014/07/08(火) 01:19:56.18ID:XYE1jhuu信忠に松姫娶わせとけばどう転んでも万全だし。
家康より実力的にずっと優位な立場で居られたから、本能寺の変みたいな事態になれば天下を取るのも容易かった
0388人間七七四年
2014/07/08(火) 02:42:53.99ID:15t+pwID0389人間七七四年
2014/07/08(火) 11:07:29.46ID:bI8pKfK6あいつに従った大名はすべて滅んでいる
上杉と毛利はぎりぎりセーフ
0390人間七七四年
2014/07/08(火) 11:07:31.36ID:B3pY3id6信玄死後半年足らずで浅井・朝倉滅亡だからな
勝頼も徳川領から撤退して、信長公に土下座してでも
許しを請うべきだったな
0391人間七七四年
2014/07/08(火) 11:13:10.64ID:bI8pKfK6辞退して穴山か信廉に押し付ければ良かった
0392人間七七四年
2014/07/08(火) 14:01:06.82ID:hGtnqt5b穴山ルートを辿れるほど勝頼が器用な人間とは思えないし。
何もかも信玄が悪い。
0394人間七七四年
2014/07/09(水) 23:43:17.97ID:U7CZn6T5信勝人質
徳川領からの完全撤退
本願寺攻めに協力
このぐらいやらないとダメだろ
0395人間七七四年
2014/07/11(金) 01:39:27.45ID:MCraYgCm最後は現実という名の袁紹に攻め落とされる運命
0396人間七七四年
2014/07/11(金) 08:17:10.57ID:YLNJEvQd長篠後じゃ武田は徳川単独にさえ野戦を避けるレベル
信忠総大将で2万程度で出陣してきたら武田は守りに入るだけだと思う
0397人間七七四年
2014/07/11(金) 23:20:04.15ID:BgiFqfYY案外良い勝負になるんじゃね?
0398人間七七四年
2014/07/11(金) 23:28:39.16ID:U6PRkKxJ長篠前に
・北条に上野下野割譲+関東切り取りok
・上杉に北信濃一部+加賀越前切り取りok
・徳川の三河・駿河・遠江安堵+尾張・伊勢切り取りok
ぐらいやって4国同盟とかいうウルトラCやってのけて
勝頼自身は美濃に絞ってやっと織田と戦えるレベルっていう
認識でおk?
これ、勝頼以外でもムリゲーだろ。
勝家後でも島津・北条・九戸・あたりが
戦術レベルの戦いで何とかなると思ってたら
結局中央政権の物量の圧力に屈したわけだし、
上杉with直江が一大決戦のどさくさに紛れれば
何とかなると思って抗戦したりでも何ともならなかったんだし。
お家事情やら、色々あって単純比較はできないだろうけど
勝頼も最低限こいつらと並列の扱いでいいような気もしてくるな。
誰がやってもムリゲー。
加賀征伐で早々に降参した前田やらとっとと秀吉に臣従して
関ヶ原で選択誤ったとはいえお家を残した毛利一党やら、
遅参やらいたずらをして睨まれながら国替えやら減封で済んだ
伊達がが賢く見える。
0399人間七七四年
2014/07/12(土) 01:24:21.23ID:hPvpTpvh敵の数もろくに把握できずにノコノコ織田・徳川連合軍の前に出向いて
退路絶たれてフルボッコにされたのは
オツムが弱い以外の何物でも無いだろうけどな
0400人間七七四年
2014/07/12(土) 12:04:07.83ID:VP68AHWzお前はまだ上杉がドサクサ紛れの戦をやったとか妄想してんな。
上杉の挙兵時にはドサクサ自体が全く起きてなくて
最上10000・堀6000・伊達15000・結城2万・津軽南部ら東北諸侯にこぞって囲まれて孤立してる状況でも
豊臣家への忠義のために必至に挙兵してるんだがw
0401人間七七四年
2014/07/12(土) 12:08:31.45ID:RekHAV0A勝頼は長篠の戦いでわずか6000程度の寡兵で15000の織田徳川との戦いで
実質的に織田徳川は城のような陣地に引き篭もった攻城戦にもかかわらず
織田徳川の軍を6000も討ち取る戦果をあげてる。
上記のように、織田と勝頼では指揮能力や采配能力が桁外れに違うから
織田が50000で攻めてこようが
平野部の野戦で挑めば勝頼が圧勝するのは目に見えてる。
長篠合戦なんて雨でぬかるんだ地面の中、高性能鉄砲で持って城のような陣地で引き篭もるという
超絶ハンディつきの戦ですら、織田軍は6000も討ち取られる始末だし。
0402人間七七四年
2014/07/12(土) 12:12:16.05ID:5yvvizrh信忠は岩村攻囲戦では数万の大軍で孤立無援のザコ城の岩村に半年かかっても自力では落とせず
高遠城攻防戦ではわずか100人の仁科に対して40000の大軍で実質的に野戦の城外戦でもって
一門信家を殺され、最低で見積もって4時間も戦われる無能なので
明らかに仁科や秋山など武田方一武将よりも指揮能力や采配能力が著しく低いので
勝頼が少し本気を出せば瞬殺されるのは目に見えてる。
武田攻めの時は、北条徳川との対決での疲弊や、同盟詐欺の騙し討ちで防衛解除してたから運悪く速攻で滅ぼされたが。
0403人間七七四年
2014/07/12(土) 15:53:57.52ID:snnWUeuP歯ぎしりまで聞こえてきそうだ。
0404人間七七四年
2014/07/12(土) 19:25:20.95ID:Bj7aiORO菅沼は武田がちょっとでも貶されると悔しくてたまないんだろうけど
菅沼が織田厨と呼んでる連中は信長が雑魚扱いされようが信忠が無能扱いされようが痛くも痒くもないんだよ
ここが理解出来てないからいつも変な方に会話を進めようとする
0405人間七七四年
2014/07/12(土) 20:19:01.25ID:fkiG8AFP武田は土人じゃなかったの?
0406398
2014/07/12(土) 20:55:30.87ID:ip9S5Oe1ああ、ごめん。表現自体と、比べる対象の家はどこでもよかったんだよね。
俺としては、上杉は挙兵したというより家康が難癖つけて絡んできて、
それが義か意地かしらないけど抗戦したと思ってるけど、400の意見が
正しければそれはそれでいい。俺が間違ってるのかもしれない。
忠義の為に挙兵して大坂の陣ではしっかり幕府軍として働いてるけど、
それが関ヶ原で義理を果たしたという意味なのか、米沢30万石で挙兵したところで
流石に一切目がなくて家が滅びるだけなので、流石にいくら義理のある豊臣家でも
助けることが出来なかったのかは知らんが、そこで無理だと気が付くなら関ヶ原時点で
も気が付くんじゃない?っていう疑問は残るけど、今度は家残してくれた将軍家の
厚恩に背けないっていう時勢もあるだろうしな。
>>最上10000・堀6000・伊達15000・結城2万・津軽南部ら東北諸侯にこぞって
囲まれて孤立してる状況
そうそう、これだけ言いたかった。>>400の言う通り
長篠後武田も会津征伐上杉もムリゲー。
勝頼はオツム弱かったか、武田の意地だったのか、
勝頼with武田家の総力を決すれば楽勝であり、万が一が偶然きて
負けたのかしらないけど、客観的にみてムリゲー。
表現についてはバカっぽく書いて申し訳ないな。
実際バカだけど、>>400が上杉好きなら悪かった。
0407人間七七四年
2014/07/13(日) 00:00:08.58ID:7Qh3Povl2.5倍の織田軍相手に損耗率4割の被害を与えるほど
信玄公から引き継いだ武田兵は強かった
それを信玄公以来の功臣たちの発言を無視して
敵の数もろくに把握できずにノコノコ織田・徳川連合軍の
城のような陣地に出向いて突撃させて
退路も絶たれて犬死にさせた勝頼のオツムの弱さ
0408人間七七四年
2014/07/13(日) 00:38:56.72ID:HVm2LVTg勝頼の擁護できない大失態の一つだ
0409人間七七四年
2014/07/13(日) 02:56:07.02ID:Tj9tsgn2レベルの負け方でしょ?尋常じゃない
0410人間七七四年
2014/07/13(日) 03:03:53.38ID:ZqlZ9Jku秋山は岩村から救い出しておきたかったところだな
0411人間七七四年
2014/07/13(日) 07:12:19.28ID:3jlnQvVs勝頼が長篠で大失態したのは事実だが
あそこで大失態しようがしまいが武田の命運なんてさほど変わらん
そういう点では信玄が元凶であり無能だったことも大きい
0412人間七七四年
2014/07/13(日) 20:43:29.34ID:WOQ/fpSJ擁護見たことない?
考える気がないだけだろ
0413人間七七四年
2014/07/13(日) 22:15:20.46ID:7sOr2nvzぶっちゃけ、近畿の商業圏をひとつの勢力がほぼ掌握した時点で、地方大名は詰ゲー状態だろ
0414人間七七四年
2014/07/14(月) 05:08:28.15ID:WsNi2jsA先代からの遺臣たちの換言を嘲笑して犬死にさせる馬鹿だから
あとどれだけ人材がいようと重用されるわけもない
その挙句が次々に仲間に離反され
昌幸まで疑って頼った身内に裏切られて逃亡中に落ち武者狩りに補足されて自害だしな
最期くらいは自分の愚かさを悟ってから死んでくれたのかね?
0415人間七七四年
2014/07/14(月) 23:30:17.22ID:vuvfqdRG0416人間七七四年
2014/07/15(火) 00:02:39.05ID:w85QNJzv0417人間七七四年
2014/07/15(火) 01:33:59.56ID:a2s55KBx形成gy択点の目もあったかもしれんが
それこそ源氏なのに壇ノ浦になりかねん。
逃げ場がある限りそれより先に裏崩れやら殿おいて撤退の判断するだろうが。
0418人間七七四年
2014/07/15(火) 05:05:57.75ID:D02yd6ZM0419人間七七四年
2014/07/15(火) 06:27:02.80ID:byhacX7uその前に川を渡った判断が悪かった
0420人間七七四年
2014/07/15(火) 06:59:59.47ID:Hf+Vaa8r戦術的に極めて重要なんだけどな
特に数で劣る武田軍にとっては
0421人間七七四年
2014/07/15(火) 07:40:46.14ID:r9Qlgrqs最前線で戦った各部隊が撤退する話だからね
実際武田軍の被害が増大したのは撤退時なんだから
0422人間七七四年
2014/07/15(火) 07:59:10.05ID:6+f/6v6a小山田とか身内を頼って裏切られる
根本的に人を見る目が無くて
人使いが下手なんだな
これは大将の器じゃないわ
0423人間七七四年
2014/07/15(火) 09:13:36.73ID:B6yKW3pP0424人間七七四年
2014/07/15(火) 10:05:23.42ID:r9Qlgrqs連合軍がしびれ切らせて陣前出撃したとしても最終的には負けるよなぁ
武田が強いと言っても野戦で正面からぶつかって1:3じゃ勝ち目ない
0425人間七七四年
2014/07/15(火) 12:06:48.48ID:sHWeIOKa近付けば見えるんだろうけど見えた頃には退路が断たれてましたて感じか
長篠の勝頼はすべり知らずやで
0426人間七七四年
2014/07/15(火) 19:11:47.92ID:cAm0dj2k信長が着陣した時点で長篠城力攻めで落城させてしまうしか勝ち目ないんじゃないか?
0427人間七七四年
2014/07/15(火) 19:45:19.83ID:6+f/6v6a真田「素直に上杉を頼るしかないっしょ」
0428人間七七四年
2014/07/15(火) 20:05:04.81ID:cAm0dj2k上杉の尖兵としてとりあえず信濃抑えれば甲斐で北条、徳川、上杉で激突しそう
0429人間七七四年
2014/07/15(火) 22:28:00.67ID:EAxqnPC+A家督相続後にすぐ岩村城と勝長、秋山を引き渡し場合によっては木曽なども割譲して再度同盟、松姫を信忠に娶らせ自身は上杉、北条と戦う。
のどちらか。
0430人間七七四年
2014/07/15(火) 22:30:26.13ID:iHTo6VWw大事に至らないように軽はずみな戦争は避けるべき
0431人間七七四年
2014/07/15(火) 22:44:20.29ID:2DiH/EPT包囲網に参加して織田を裏切ったオヤジが悪いんだけども
0432人間七七四年
2014/07/16(水) 02:41:40.92ID:Hqx3MAdx信玄が死んで勝頼が継いでいた時点で
武田は終わってたんだろうな
0433人間七七四年
2014/07/17(木) 10:15:48.00ID:yQxCUSRO現在の安倍政権は武田勝頼(信玄の息子)が陥った状況とソックリだ
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1405188476/
0434人間七七四年
2014/07/17(木) 16:41:29.48ID:lccsw/guどっちかといえば、前の安倍政権じゃね?
小泉が表面上を取り繕ってボロが出る前に隠居決め込んで逃げたおかげで、安倍が引き継いだ時には実は悲惨極まりない状況・・・・
信玄が拡張政策で内部問題をごまかしてたのが、勝頼の代になって噴出したのと同じだと思うんだが・・・・
0435人間七七四年
2014/07/17(木) 16:46:38.10ID:csfBoUCY代が替われば領国境にいる国人の1人2人は大抵裏切るもの。
信長が当主になった時も三河境の国人に裏切られてるしね。
0436人間七七四年
2014/07/17(木) 23:49:14.11ID:X5YueYca援軍のない篭城は無意味という意見もあるけど(上杉には一応期待出来るか)、
冬将軍には十分期待出来ると思うんだよね
当時の技術水準なら、なおさら
0439人間七七四年
2014/07/18(金) 00:45:29.83ID:4gqpmFDZ今年の冬になっても信長は囲みをとかんかもしれん。
0440人間七七四年
2014/07/18(金) 01:07:25.07ID:ksteD8R40441人間七七四年
2014/07/18(金) 02:39:50.54ID:nXfK3yQb信長はつまりそういうアレだったってことだ。
0442人間七七四年
2014/07/18(金) 08:15:42.72ID:PGlP3fjt0443人間七七四年
2014/07/18(金) 10:32:02.94ID:4gqpmFDZ0444人間七七四年
2014/07/18(金) 14:56:39.62ID:LEs9SrOz・ 駿河が持ちこたえている
・ 甲斐が最悪でも御坂峠と笹子峠で北条の侵攻を食い止めてる
・ 上杉が健在
でないと機能しないよね?
上杉景虎を助けてれば北条の裏切りで早期に武田は詰んでたってよく言われるけど
実は北条氏政と上杉景虎の後詰期待できる状況で織田を迎え撃ってればもうちょっと戦えたんじゃないか?
0445人間七七四年
2014/07/18(金) 16:19:54.20ID:4HrU6aAj武田兵、一気に逃げすぎw
0446人間七七四年
2014/07/18(金) 17:36:44.43ID:YCmnYa1Y勝頼は徳川戦で忙しい中、北条が来るまで時間を稼いだのに
北条軍が景虎見捨てて撤退したわけだし
0447人間七七四年
2014/07/18(金) 20:45:52.20ID:1GpXuT0s長篠で撤退してても結局ジリ貧だろうし
0448人間七七四年
2014/07/18(金) 22:25:00.93ID:QpTo6QzO0449人間七七四年
2014/07/18(金) 22:36:55.24ID:MWnJh9+u武田軍ごときでは手を出せないのも頷ける
0450人間七七四年
2014/07/18(金) 22:46:29.39ID:4gqpmFDZ昔見た映画じゃヘリコプターおとしてたぞ
0451人間七七四年
2014/07/18(金) 22:58:48.53ID:swnSd5OV0452人間七七四年
2014/07/18(金) 23:07:43.07ID:9fI5sZta本能寺の変が最たるものだが、予期せぬ事件や事故というのは起こりうるもの
また、尼子晴久が月山富田城に篭って大内義隆をしりぞけた例もある
新府城ならば、それ以上にやれるだろう
0453人間七七四年
2014/07/18(金) 23:14:40.42ID:swnSd5OV確かに信濃からの織田軍前にした状態で駿河が落ちると
富士川沿いに身延経由で甲府盆地に敵が入るともう城として機能しないよなぁ
0454人間七七四年
2014/07/19(土) 00:47:10.69ID:pHSaXXry武田上杉の対外戦績を見ると、意外と大したことなかったんじゃないかと思う。
織田も徳川も当時は対して強くなくて、ただ、信長の物量戦術が上手くハマってただけだと考えると当時のヒエラルキーが綺麗に納得できるかんじになる。
京を狙う信長にとっての武田は、後方の驚異じゃなくて、数ある後方の憂いの一つじゃなかったんかね?
江戸の時代に神格化されやすい条件が揃っただけな気もする。
0455人間七七四年
2014/07/19(土) 01:04:11.34ID:GLkB38swまして石川数正出奔で軍制一気に切り替えたから現実的に武田流を取り込んだ
神君が信仰してるんだから神格化されて当然
一方信長に付いては無視してるから江戸時代通して信長の空気っぷりは気の毒なくらい
信玄マニアは家康さんと、きっかけ与えた秀吉さんにも感謝せなあかんのや
0456人間七七四年
2014/07/19(土) 09:32:43.58ID:cKWZClp9謙信相手にも主力45000を手取川で大破されたあげく、畿内は離反崩壊状態になり
両者とも後一歩というところで病死しただけだからな。
実際に直接対決で大勝したのが謙信や信玄なので
信長よりも戦巧者として見られるのはごく当然の事でしょ。
0457人間七七四年
2014/07/19(土) 09:36:58.69ID:w8FWaSFl内訌や内紛で自爆崩壊してたり
足利義昭が信長の下を訪れて斉藤攻略から上洛までをお膳立てしてくれる
チート棚ボタがあったのに対して
信玄や謙信は自国が雑魚国力の上に周辺国が同等程度の国力を持った大名に囲まれてる戦国らしい立地条件だったからな。
それなのに信玄や謙信はともに争いながら織田、北条、神保・椎名、徳川などと交戦しながら自力で領土広げてるのに対して
信長は信玄・謙信・元ナリ・直正ら名将の相次ぐ病死や
畿内の有力者の相次ぐ死や、内訌や内紛で崩壊しきった大名の火事場泥棒という卑怯な手法でしか領土拡張してない。
0458人間七七四年
2014/07/19(土) 09:38:17.44ID:gRWkgcYp滅亡寸前の雑魚信長に皆殺しにされた武田一族ってミジンコレベルだったんだね
0459人間七七四年
2014/07/19(土) 10:17:59.15ID:CoCkwY1T0460人間七七四年
2014/07/19(土) 10:27:37.79ID:AHvkQEVm甲江同盟詐欺で勝頼が防衛解除してたところに
数万の大軍で騙し討ち奇襲かけただけだからな。
喧嘩でいえば病気で動けなくなった強靭ファイターが、仲いいと思って油断してた相手から
10人くらいで騙し討ちで殺されたみたいなもんでしょ。
実力とは全く関係ない。
0461人間七七四年
2014/07/19(土) 10:46:42.37ID:zshI905R0462人間七七四年
2014/07/19(土) 10:49:13.05ID:tV2Wmhq3信長も多少は計略的に色気を見せていた可能性もあるだろうが
そんなものに期待をかけて騙されて呆れられたのも
勝頼が大量の味方に裏切られた理由の一つじゃないの?
0463人間七七四年
2014/07/19(土) 11:15:14.86ID:dIdHa78l↓
織田軍が侵攻
これじゃ信濃の武田方が裏切るのは当然だと思うねw
0464人間七七四年
2014/07/19(土) 11:31:03.52ID:KVVIUZSv勝長返却させたりと
敵じゃありませんよ詐欺やってたからな。
0465人間七七四年
2014/07/19(土) 12:48:28.13ID:dIdHa78l0466人間七七四年
2014/07/19(土) 13:19:16.18ID:1UQ0kl29信茂「勝頼さま('A`)」
勝頼「頼むぞ武士らしく華々しく散ろう(´・ω・`)」
信茂「貴様と心中など真っ平ごめん('A`)掛かれ」
勝頼「そんな…(´;ω;`)」
昌恒「勝頼さま御逃げ下さい片手千人きりー(*`Д´)」
勝頼「昌恒!(´・ω・`)キュン」
天目山
勝頼「はぁはぁ(´・ω・`)昌恒…キュンキュン」
小姓「自害の準備整いまして候(>ω<)」
勝頼「俺は昌恒を助けに行く!( `・ω・´ )」
彡 ⌒ ミ
⊂(´・ω・`) 昌恒ー!
/ ら
ゝつ /
し'
━━
勝頼愛の力で歴史を変えろ!!
ご愛読ありがとうございました
0467人間七七四年
2014/07/19(土) 14:18:09.68ID:HtiKe41i小山田は裏切っていないと思う
使いの家臣が勝頼由来の鎧だか具足だかを下賜されてるし
最終的に勝頼は小山田を巻き込まない方を選んだんだろう
それを知った信長は小山田の帰参を認めなかったんだと思う
0468人間七七四年
2014/07/19(土) 15:34:38.27ID:KVJMDWxV本気で籠城すれば数ヶ月は持つよ
0470人間七七四年
2014/07/19(土) 18:08:51.04ID:zzcBKQ0pこの戦いで戦死者出してる。
8年には武蔵に侵入し、伊豆などで会戦も度々行われてる。
さらに北条は甲斐都留郡に2年連続で侵攻、これは武田が撃退してるが
北条は駿河口で長窪城を攻略し、天陣ヶ尾城を攻撃し、さらに沼津城を攻撃し「宿城」(本城)にまで迫ってる。
北条の侵攻にそなえて新府城を築城するなど、領国はかなり疲弊する要員となってる。
0471人間七七四年
2014/07/19(土) 18:38:20.06ID:LwrOVN+y0472人間七七四年
2014/07/19(土) 19:54:18.90ID:gnhV25fJ長篠合戦もあんな状況で無理に戦わなければ100%勝てたのに。
状況判断能力がダメすぎる。それでも織田方6000人討ち取るくらい、指揮能力は高かったんだろう。
0474人間七七四年
2014/07/19(土) 22:52:21.68ID:GLkB38sw「何回も」出兵、「いくつか」攻略、「度々」行われている・・・肝心なとこ抽象的だなおい。
「戦死者出してる」・・・どんくらいだよ。1人でもそう言えるな。
0475人間七七四年
2014/07/20(日) 02:12:42.96ID:RW1hK2W6っで、その6000人に将官クラスが何人いる訳って話ですし・・・
上杉も手取川大勝利とかいってるけど大勝利なのに将官クラスがまったく死んでないのはおかしいわな
0476人間七七四年
2014/07/20(日) 05:54:05.94ID:W/5hbWbL勝頼「よしわかった、北条の侵攻に備えて新府城を作ろう」
信茂「え?なんで西に行くの?うちら見捨てる気?」
0477人間七七四年
2014/07/20(日) 11:56:00.99ID:mYxSUaiOとりあえずお前は面倒くさいから黒田か市村か郷土史の通史編でも読んでみな
北武蔵や上野全域で激しく戦ってるし
駿河伊豆国境とか甲斐国内でも戦ってるから。
0478人間七七四年
2014/07/20(日) 12:09:34.80ID:gD/onspdそして質問には資料をよめかw
0479人間七七四年
2014/07/20(日) 12:13:25.26ID:wI0NM3zj信玄以来の武将が優秀だったんだろう
勝頼の旗本たちから逃げ出して見殺しにされたが
0481人間七七四年
2014/07/20(日) 12:52:24.56ID:u2JOXkc10482人間七七四年
2014/07/20(日) 18:16:15.73ID:Jo3NJkI20483人間七七四年
2014/07/20(日) 18:50:05.49ID:foSU7b2uそれを景虎がゴミだから氏政が見切っていたとか、
佐竹宇都宮が危険だから兵を出せなかったと言い訳するのが「だが」の史観。
しかも小田原征伐に景勝が影響を及ぼしたことは、全くノータッチ。
最近は信玄をボッコボコにされたせいで、氏政に乗り換えたと思われるので要注意。
0484人間七七四年
2014/07/20(日) 20:10:03.01ID:W/QnTQJg小田原から三国峠超えて越後に出兵するのはそうとう難儀だったろうな
ま、逆方向から謙信は何度もやったわけだが。
おー、すげー雷だ
0485人間七七四年
2014/07/20(日) 20:49:21.67ID:DhRZHVVt謙信は何十回とやってるし、謙信以前の長尾や上杉もやっている
0486人間七七四年
2014/07/20(日) 21:58:16.98ID:W/5hbWbL通史編読んどいて説明するのに「何回も」出兵、「いくつか」攻略、「度々」行われている、ですか。
抽象的にしか書けない程度の知識ならここに来るなよ。面倒ならなおさらなw
0488人間七七四年
2014/07/21(月) 08:17:19.29ID:skHy596wよかったな相手がだがさんじゃなくてw
桶狭間がなかったと言い出した時はどうしたんだこいつと思ったよw
0489人間七七四年
2014/07/21(月) 11:38:14.69ID:3uGJ8HIO0490人間七七四年
2014/07/21(月) 11:50:22.53ID:rpLMNPFD0491人間七七四年
2014/07/21(月) 17:30:40.49ID:skHy596w0492人間七七四年
2014/07/31(木) 02:34:53.04ID:MOmm0pZQ長篠で勝頼は戦術的に間違いなくカンナエの戦い(鶴包囲、両翼には山県、真田、土屋など戦巧者を配置)の再現を狙っていたが中央部(一族、一門衆)の早期撤退により両翼に攻撃が集中、壊滅により大敗。
その後、一門の穴山、信豊、叔父辺りは処罰されて然るべきのはずなのにされていない事を考えると、武田当主には絶対的な権限は無かったと推測出来る。(信虎の追放等も含め)
勝頼は信玄時代に改善できなかった負の遺産にて大敗、滅亡したとも言える。
0493人間七七四年
2014/07/31(木) 05:13:32.80ID:VBziSY4Aそれが一門や政権担ってた重臣の反発を生んだ
上杉も本能寺の変直前では新発田は反乱、一門の上条も言うこと聞いてない
武田と同じような構図、ちょっとの時期の差でしかなかったのに
生き残ったか滅亡したかで後世の評価が全然違う良い例だ
0494人間七七四年
2014/07/31(木) 10:15:46.52ID:Ky+fYZS7例えば第二次信長包囲網の時なら織田と同盟結ぶことは難しくなかったはず
さっさと松姫を信忠に送って信勝元服させてしまえば織田得意の乗っ取りも難しくなる
信長さえ死んでしまえば信忠の正室?の松姫がいるから安泰だろう
0495人間七七四年
2014/07/31(木) 11:47:45.80ID:LUCcQQ3s一門衆に対して絶対的な権限が無くて負けたのなら
なおのことノコノコと長篠に出張ってきたのが間違いだな
つまり勝頼はアホ
0496人間七七四年
2014/07/31(木) 12:18:19.56ID:AyQrIuvt・ 北条は上杉が関東狙ってる以上武田との同盟切る事はありえない
・ 武田は信長の要請で川中島でまた上杉と激突
・ 当然織田経由で軍事物資と徳川の増援が見込める
武田と織田が組んだら一番損するのは徳川だろうね
0497人間七七四年
2014/07/31(木) 15:43:24.91ID:MOmm0pZQそれは全くの見当違い。
先に寄合い所帯と書いたが、配下豪族の後詰めが出来るかどうかは武田当主にとって死活問題。
後詰め出来ないなら武田の信頼は失墜、配下は当然離散する。そのまま滅亡。(甲州征伐)
織田徳川との国力差から考えるに勝機がある内にノコノコ後詰め出陣するしか手は無かった。(木曽離反の時も意味合いは違うが目的は同じ)
信長は敵に包囲されながらも、豪族と土地を切り離す事で叙々に進めていたが、武田は最期まで旧態依然の守護大名。(勝頼が頑張っていたのは認めるが)
これは間違いなく、自ら苦慮していながら長年放置してきた信玄の失策。
0498人間七七四年
2014/07/31(木) 21:19:41.56ID:LUCcQQ3s長篠は裏切った奥平の長篠城を攻めた戦いだろ
後詰が何か解ってるのか?
0499人間七七四年
2014/07/31(木) 21:43:04.09ID:VBziSY4A何十年前の恨みを(表向きとはいえ)理由つけて林秀貞をクビにするような男だぞ
信玄の背信行為根に持ってただろ
0500人間七七四年
2014/07/31(木) 21:56:55.61ID:793Dvtrs膨張し続けてるのに家臣に反発食らって次々に謀反起こされる間抜けには天下なんか取れるわけ無い
0501人間七七四年
2014/07/31(木) 22:39:05.23ID:r7geooBD信玄が変な色気出さずに松姫を信忠に送って
勝頼→信勝(養女とはいえ織田の血を継いでる)の流れなら
織田政権で盤石な地位築けたよね?
0502人間七七四年
2014/08/01(金) 01:40:00.28ID:YVGNoOa30503人間七七四年
2014/08/01(金) 04:11:37.38ID:FJnwVyXIでは何処を攻める?
それとも何もせず勝頼との代替わりまで待つ?
実は信長に臣従が
ベストチョイスだった気もするな
0504人間七七四年
2014/08/01(金) 19:07:15.41ID:rCwOjwFK0505人間七七四年
2014/08/01(金) 19:47:11.66ID:n5c8dRhP鉄砲の重要性を気付くべきだった
つまり信玄も悪い
0507人間七七四年
2014/08/01(金) 22:18:04.61ID:Da8eNGGl0508人間七七四年
2014/08/01(金) 22:59:46.82ID:tnaO8i3N0509人間七七四年
2014/08/02(土) 13:44:08.29ID:5wtLTmJ20510人間七七四年
2014/08/02(土) 15:24:09.64ID:FxaaX4HH宮内庁所蔵の土御門家文書という超級一次資料内で信忠と松姫の結婚に
関する記述があることわかったんだと。
内容は閏表記で前後の諸侯の動きから1571年ごろと推定されるらしく、
「織田若獅子(奇妙)及び甲斐信玄息女(松)の義について暦の調整(読み)を
土御門に対し命令」というもの。
さらに同年の謙信への家康書状でもこの結婚は何が何でも絶対阻止せねば
いけないと家康が謙信に訴えていて、信玄自体もこういう家康の動きを
察してか夕庵あて書簡の中で家康が何かしてくるかもしれないが相手に
しないで欲しいことや自分が動いてもそれは信長に対しどうこうという
気持ちではないとまで書いているそうな。
まあこのとき松は11歳。
多分年齢的に彼女が子供を産める体になったことで信玄も覚悟決めて打診、
信長は土御門なんていう名門にまで暦読んでと命令するぐらいに
筋を通しつつ舞い上がりながら具体的に動き始めるという流れがあったのだろうねえ。
信玄からは夕庵通じて上記みたいな書簡までもらってもいたし。
勝頼はこういう経緯を知らなかったと思うんでもし知っていれば
また違った織田外交に踏み切ったかもなあ。
0511人間七七四年
2014/08/02(土) 16:26:43.24ID:XOYbvgaY誰やねんそれ推定したやつ
0512人間七七四年
2014/08/02(土) 20:53:48.31ID:F568nB/B信玄亡き後の武田の姫なんか貰っても、信長にとっては一銭五厘の値打ちもない。
0513人間七七四年
2014/08/03(日) 18:07:17.22ID:qLaQg4rJ横から失礼するが違う調べものしていたらその件について書いてある
サイトがあったよ。(個人のため貼るのは遠慮させてもらう)
それによるとここに書かれてあるそうだ。
つ戦国史研究第62号「羅針盤」吉川弘文館
織田信長子息と武田信玄息女の婚姻時期について 遠藤珠紀
しっかしあの信長が倅の結婚のことで土御門にまで話を持っていっていたと
いうのは驚きだわな
ここまでやっているんだからそりゃ怒りも倍増するさ
0514人間七七四年
2014/08/03(日) 20:05:10.78ID:Sq3aaOF2ありがとう。
俺の疑問点は閏表記って出てるんだからもっとはっきり特定できるだろってことで
信玄没までの閏月は元亀2年閏1月が最後、そこからの推定か?(最もそのサイトでは閏十月と書いてあり混乱してる)
9月の遠江侵攻までに何があったんだろうか
勝頼が経緯知ってても、信長の態度はもう変わらんだろうな
0515人間七七四年
2014/08/03(日) 21:33:51.54ID:qLaQg4rJ本当なにがあったんだろうねえ…
婚約の時点で松を織田に渡さなかった背景が本当に父親心情なのであれば
黄梅院の件(駿河侵攻)で懲りているはずだから(←そう信じたい)
よほどことがあったとしか思えないんだよ。
ただ、ここでひとつ以外な第3の刺客がいてそれが東濃遠山グループ。
長くなるから割愛するが戦国大名の外交という本に書かれてあった東濃国人の
遠山グループの話を加味すれば武田側は大きな誤解を、織田側は武田側に
岩村遠山の家内事情やご坊が養子になった経緯をきちんと説明していないから
案外とそれが要因の一つだったのかも?とは思う。
(信玄からの朝倉あて文書内容がはったりではなく事実であったならば
信玄は岐阜城近くの3城を武田に内応させてもいるから信長の国人への
甘い考えがこういう事態を招いたとも言える。)
何はともあれ既にこの時点で勝頼にどうこうできるレベルじゃなかったのは
確かだろうと思う。
ご坊即変換、遠山グループ処罰、東美濃から撤退、松を輿入れ
これぐらいやれば和睦ぐらいまでは持ち込めたかもしれんけど。
0517人間七七四年
2014/08/05(火) 03:42:02.33ID:5MQmmnck閏十月ではなく閏七月(字が似ている)が正解の天正5年あたりだったら
長篠後でもあるしかなりおもしろいことになりそうな話だね。
>>515
長政の本願寺宛文書(2/26付 雲龍山勝興寺文書)でも
「遠江、三河のことは申すまでもなく、東美濃の加治田、津保、鉈尾の三城も
信玄と内約を交わしすでに武田の先遣部隊は東美濃まで攻め込んでいます」と
報告されているからはったりなんかじゃないよ。
0518人間七七四年
2014/08/05(火) 20:31:52.65ID:hn5Hfp+d越中じゃ椎名が離反して武田に通じ
越後じゃ本庄が謀反、大宝寺の支援も受ける
関東は親上杉勢力は衰退し、関宿は包囲下に、上野は北条高広が離反して、伊勢北条は12月には沼田城に入る
とこんな状況で上杉は結構ヤバい状況だったが
それを一変させたのが武田の駿河攻めと
0519人間七七四年
2014/08/06(水) 08:03:39.73ID:5pL3oWmw光秀の坂本城の件は引っかかるがそれを除けば閏十→実は閏七という線で
天正5年のことか?という推測もあながち否定しきれないのがなんとも…。
仮に仮に天正5年だったとしたら織田⇔武田の外交に関して少し見直しが
必要になってくるかもなあ。
0520人間七七四年
2014/08/06(水) 17:11:51.42ID:oPJjLX1b天正5年とすると
坂本城の普請もそうだけど甲州信玄御息女もおかしい気がする
この時期だと形式的にも信玄が死んで勝頼が当主となっているので勝頼妹御となるんじゃ
0521人間七七四年
2014/08/07(木) 16:44:55.93ID:mln0+EDo家康は武田領に攻勢かけ始めた時期だし、婚姻されちゃ困るわな。行き場を失う。
光秀の、坂本城の普請は別にこの時期にもしていておかしくは、ない。
推測するのが面白い文書ではある。
0522人間七七四年
2014/08/08(金) 20:17:22.92ID:aKHZXqyMそれ以前にこの頃の勝頼はまだ朝廷の覚えめでたきなではない状態じゃなかったか?
あと自信無いんだが確か慣例として例え故人だったとしても特に婚姻関連は
親>兄弟の順で紹介もしくは表記されていたような…。
それでなくても北條みたいにきちんと嫡男として認識周知されていての
跡目相続じゃないんだから勝頼妹御より信玄息女の方が筋は通しやすい。
0524人間七七四年
2014/08/08(金) 22:50:35.34ID:W5CGTdJq0525人間七七四年
2014/08/09(土) 03:59:47.45ID:cTZZ0c/q0526人間七七四年
2014/08/10(日) 09:12:51.15ID:Nmlcj4Lrその後の扱いが気になるな
徳川が武田滅亡後80万石くらいで生き残ってたから
武田が甲斐信濃駿河で100万石認めてもおかしくない気もするが
その代わり上杉との戦いで武田は消耗するだろうな
0527人間七七四年
2014/08/11(月) 07:46:29.98ID:fKLoO1/A0528人間七七四年
2014/08/11(月) 21:13:47.49ID:PMeLYiu8パッと調べても例えば信玄と勝頼が唯一連名で出している書状が「十月一日」と書かれてる。
0529人間七七四年
2014/08/13(水) 23:32:43.89ID:Uzrq64w70530人間七七四年
2014/08/14(木) 13:22:43.68ID:u+MWFf0t閏正月って書いてあるじゃねーか!!
どうして上のサイトは正月と十月を間違えたw
年代比定も1572年と書いてあったし
0531人間七七四年
2014/08/14(木) 13:24:36.56ID:u+MWFf0t0532人間七七四年
2014/08/14(木) 18:00:10.12ID:iWUhSEJy0533人間七七四年
2014/08/16(土) 13:00:00.81ID:Sj3aj1Hv換言すれば信玄の遺言を頑なに固守してはならぬことにほかならない。
0534人間七七四年
2014/08/16(土) 18:45:10.57ID:NqOkPysG0535人間七七四年
2014/08/16(土) 23:05:08.62ID:zDCn1JD6毛利と共謀して、毛利は姫路城を攻めている間に、
勝頼が2万の兵で美濃へ攻め込めば良かった
0536人間七七四年
2014/08/18(月) 15:58:40.82ID:ngB3DDjH0537人間七七四年
2014/08/18(月) 18:46:56.55ID:DN4IOTSK織田信長「どうしょうもないんだよw」
0538人間七七四年
2014/08/18(月) 20:01:38.70ID:RWvBiPoLこの2つが奇跡的に組んだら武田に攻撃してくるしw
三国同盟のような形にならないと武田は西に全力投入できないからなぁ
0539人間七七四年
2014/08/25(月) 23:48:45.85ID:OBIFPmW6氏政にしてみれば武田は織田・徳川の東進を食い止める盾としての価値があったし
攻められたら援軍も期待できたのに
畿内や西国から関東に出兵するのは時間と金がかかるし
対北条の先兵になる代わりに甲斐と南信濃くらいは
信長に安堵されたかもしれない
0540人間七七四年
2014/08/26(火) 03:35:20.32ID:/fjvTRM+まあ北条に包囲される危惧もあったわけだから一概に悪いとも言えないが。
0541人間七七四年
2014/08/26(火) 06:09:07.74ID:RvYhKShG北条が裏切って包囲されてたら「景勝助けてりゃよかったのに。
景虎選んだのは致命的だね」って言われてるんだろうね
結果論なら武田が生き残るには織田との早期同盟か臣従しかなかったわけで
0542人間七七四年
2014/08/26(火) 09:40:12.38ID:Hf/wlAd3北条には、駿河問題で拗れた時以外はほぼ一貫して融和みたいな感じだよな。
でも武田や徳川にとって北条って、
攻め込まれない、以上の事を何かしてもらった事ってあったっけ。
信玄西進の時に援軍を出した事くらい?
0543人間七七四年
2014/08/26(火) 21:30:03.93ID:3JMVz3eH徳川に関しては対勝頼戦でお互い連携して攻撃を仕掛け合っているが
本能寺後の同盟では連携して対上杉で動いたこともある
信玄が生きていたころは信濃攻めに援軍出したり
川中島に援軍出したりしている
0544人間七七四年
2014/08/26(火) 21:53:07.81ID:Hf/wlAd3流石に、色々動いてはいるんだ。
小牧長久手の時に役立たずだったり、
信玄が松山まで出馬してるのに、逆に氏康がどこかに出たとか聞かないから、
同盟の只乗りみたいな事ばかりやってるのかと思った。
0545人間七七四年
2014/08/26(火) 23:54:05.70ID:HC6pViPvあの時点だと北条の傘下に入るしか生き残る道はないだろ
>>541
北条が勝頼を裏切る理由が思い当たらないんだが・・・
織田との緩衝地帯を捨てたら早々に対織田戦が始まってしまう
0546人間七七四年
2014/08/27(水) 01:34:28.10ID:2pEoRTri越中方面で北条系の景虎が織田と激突するから
織田に臣従するという見立て
それが北条に包囲されるという説の根拠
0547人間七七四年
2014/08/27(水) 07:22:15.11ID:jgFCowZN武田が北条の傘下になるなら、北条(武田含む)が織田に土下座したら、
それで助かるだろ。
個人的に恨まれてる奴はぬっ殺されるかもしれんが。
0548人間七七四年
2014/08/29(金) 20:40:14.90ID:AQBB8WST武田にしてみれば対等な同盟関係が従属になるし・・・
勝頼の判断は誤りだったと思うが心情は理解できる
0549人間七七四年
2014/09/08(月) 23:46:17.43ID:Iwaokrq2上杉、北条は武田と三国同盟締結するしか生き残る道は無い
武田の生き残る道は景虎支援しか無かったんだけど
2万両に目が眩んだ勝頼がアホ過ぎただけ
或は兼続の交渉手腕が凄過ぎただけ
0550人間七七四年
2014/09/09(火) 00:15:10.06ID:F+WGKn3m北条には織田と敵対する理由があまりないし
0551人間七七四年
2014/09/09(火) 02:06:17.50ID:zRutfYBe0553人間七七四年
2014/09/09(火) 12:14:29.10ID:VhIPaaPxもしくは放置して置いてあっちが暴発するのを待つか。
関東を放っておいて東北に行くとか考えるにくい。
(もしくは関東を抑えたまま同時進行で東北潰すか)
0554人間七七四年
2014/09/09(火) 15:29:05.54ID:Vj0Cr+2w0555人間七七四年
2014/09/09(火) 18:43:35.82ID:yI97c2QP0556人間七七四年
2014/09/12(金) 04:49:29.98ID:jLyB3R8I反対すれば討伐すれば良し。
0557人間七七四年
2014/09/12(金) 22:37:19.79ID:CnpJ9qwe0558人間七七四年
2014/09/12(金) 22:52:20.64ID:DKngZmHPこれだけのアドバンテージがありながら、高遠城の戦いでは
3万で100人相手に4時間も粘られたあげくの果てに、一門衆の
織田信家が戦死する程の雑魚っぷりだったのが織田信忠
北条との同盟が続いていたら、確実に織田は武田・北条連合軍に
滅ぼされてただろうな
0559人間七七四年
2014/09/13(土) 01:08:35.11ID:91WgmFWI0560人間七七四年
2014/09/13(土) 04:45:40.52ID:+prlBKGG今まで散々長文コピペしてたのが無駄文だって自分で証明したようなもんだ。
0561人間七七四年
2014/09/13(土) 11:25:44.63ID:vIPFc6vg駿河遠江方面に北条の援軍も頼んで攻勢かけるとかさ
この時期毛利と上手く連携して東西で攻勢かけてればね
0562人間七七四年
2014/09/13(土) 11:48:46.00ID:qGpDGnoSというかそんなこと窺わせるようなものなんてない
まあ休戦しようとしていたことは確かだが
0563人間七七四年
2014/09/13(土) 14:11:52.47ID:9rBupb9c長篠後に信長から和睦要請の使者が来たけど勝頼がそれを拒否した
と書いてたな
どんな史料を元に言っているんだろう
0564人間七七四年
2014/09/13(土) 14:19:57.30ID:xKljJ1ya北条が織田徳川と組むのは明白なわけで挟撃されるのは目に見えてる
0565人間七七四年
2014/09/13(土) 14:26:41.66ID:m4WNNI7q佐竹仲介だけでなく
定書で上杉とも協力して織田と和睦しようとしていたみたいってのもわかるし
0566人間七七四年
2014/09/13(土) 14:32:31.76ID:m4WNNI7q順序が逆じゃね
北条が織田徳川と組んだから組めると判断したから北条武田が全面戦争になっただけかと
世の中武田中心に回ってるわけじゃない
0568人間七七四年
2014/09/13(土) 17:17:53.26ID:6DCiZacy甲斐と信濃は交通の要所だし織田が関東に進出するうえでは
欠かせない地域だからなあ。そりゃ和睦もしてもらえんよ。
0569人間七七四年
2014/09/13(土) 23:08:43.66ID:WlZV5Sbk0570人間七七四年
2014/09/14(日) 04:31:41.92ID:AqZkJP9D確実に潰れたのは上杉、これはどうあがいても許されなかったろうし
越中も北信濃も織田が制圧目前で、そうなれば春日山オワタ
天正11年には裏切りからの景勝自決だったと思う
0571人間七七四年
2014/09/14(日) 09:36:00.36ID:lKa6Adw2伊豆や南武蔵まで放棄しろとか流石にのまんだろ
対立したことすら無く、宇喜多やら以下の扱いとか流石になかろう
0572人間七七四年
2014/09/14(日) 10:37:21.62ID:bGyzzm+Gこれが飲めるなら1590年に豊臣に逆らってないだろうね
0573人間七七四年
2014/09/14(日) 13:17:23.13ID:oAfFxIS6確かに1579年の9月に北条徳川の同盟が成立したことで、
武田と北条の全面戦争となっていったからな。
1579年正月だと普通に武田北条は同盟相手として交信していたし、
景虎死亡後も国境を固めてはいたものの戦闘行為には及んでいなかったはず。
0574人間七七四年
2014/09/14(日) 14:21:05.01ID:npJ4nxAf越後から三国越えして関東に出るのは雪もないし関東平野の穀物もあるから活けるけど
関東から越後に入っても補給に苦しむだけだし、越後平野はまだ湿地帯で穀倉になるのは
江戸明治以後オランダの灌漑技術が入ってからだし
結局、内紛誘って離反させて吸収するしかないな
0575人間七七四年
2014/09/14(日) 16:05:06.21ID:nLGE8PZy唯一柴田は力攻めで滅ぼす寸前までは追い込めたけども。
0576人間七七四年
2014/09/14(日) 17:10:48.12ID:npJ4nxAf軍政家なんだよな、領国経営はするんだけど、あるだけ使っちゃうんだよな
織田や上杉謙信は経済感覚があって
手に入った金を回して増やす感覚がある
結局、金を使い果たして勝頼は行き詰るんだし
残ってた金で景勝は生き残るんだよな
0577人間七七四年
2014/09/14(日) 20:25:54.95ID:AqZkJP9Dでも段階としてはそう(織田による領土割譲の追及)なるだろう。
そのとき北条がどうしたかは想像するしかない。まぁ飲まない飲めないだろうな自力で取った領土だし。
0578人間七七四年
2014/09/15(月) 15:25:58.35ID:bP/h/Jfx信長の方針次第だと思う。
まぁ信長がもっと生きててくれないとわからない話だが、
最大何万石まで外様大名を生かしておけるのか。
信長が設定する首都からの距離、西国なら、東国ならでも変わる。
秀吉を見れば変わるが、大陸進出するなら大勢力の解体は後回しに
する。むしろまとまった戦力になる。
シナで領地が取れるなら、日本列島で一地方くらい持ってても極小
勢力。
0579あ
2014/09/15(月) 23:07:24.91ID:vT/vfpbm柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
0580あ
2014/09/15(月) 23:08:02.16ID:8n6lz6Ax御館の乱
乱後の中郡の反景勝勢力とそれを支援する伊達葦名との攻防
新発田の乱
織田はつくづく運だけは一流。
しかし実力は皆無なので、上杉の自爆に付け込んで北陸を長・佐々・斉藤・神保らに、柴田らも加えてコソドロさせて
越中能登は城割と国人の粛清で、国内を空洞状態にしたヌルゲー勝負でも
柴田45000森6000滝川10000+伊達・葦名・新発田20000と総勢90000前後で挑みかかっても
上杉6000に撃退されまくるアホっぷり。
これだけ実力差があってはいくら兵力差があろうと
自爆状態を火事場ドロボウされようと勝てるわけがない。
0581人間七七四年
2014/09/15(月) 23:08:24.76ID:vT/vfpbm30万石しか残っておらず、900万石の織田とその同盟者100万石に同時に攻め込まれるような超絶ムリゲー状態の戦争でも勝ったり負けないのが上杉
0582人間七七四年
2014/09/15(月) 23:08:56.86ID:8n6lz6Ax山城の松倉城を落とすは不可能。
親不知の天嶮は寡兵で十分に防衛可。
そもそも織田が制圧した地は反乱がデフォ
旧武田領でも史実どおりに反乱が起きてひっくり返る。
越中の統治すら失敗して富山城を奪回されたり
越中の国衆を近江に呼んで謀殺したり越中の城割りなど背反で満足に統治すらできない
0583人間七七四年
2014/09/15(月) 23:09:28.58ID:qqThs9Xlそれに続く中郡の本庄秀綱 神余、
下群での葦名盛隆や伊達輝宗と結ぶ黒川清実や鮎川長盛、新発田との抗争の隙に
佐々長縄、斉藤などの飛騨口別働隊と
神保や長連龍などの地元諸侯を派遣して柴田も派遣してコソドロしただけだからな
0584人間七七四年
2014/09/15(月) 23:09:49.84ID:qqThs9Xl北陸一帯をコソドロできたのにもかかわらず
その後新発田との両面作戦をいどまざるを得なかったわずか37万石前後の景勝相手に45000の大軍で戦闘しかけたのに富山城奪回されたり
ろくな備えもない魚津城に苦戦しまくり、名将須田満親の松倉城には手も足もでない始末だし
0585人間七七四年
2014/09/15(月) 23:10:34.56ID:ClM7wn1P神保や長連龍などの地元諸侯を派遣して柴田も派遣してコソドロした癖に
自力ではほとんど侵攻できない織田軍は雑魚すぎる。
0586人間七七四年
2014/09/15(月) 23:11:45.65ID:ClM7wn1P(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直の滞在が景勝書状から確認)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらいで織田は北信濃どころか仁科地方まで征圧されてたと思われる
0587人間七七四年
2014/09/15(月) 23:19:23.17ID:vT/vfpbm30万石しか残っておらず、900万石の織田とその同盟者100万石に同時に攻め込まれるような超絶ムリゲー状態の戦争でも勝ったり負けないのが上杉
0588人間七七四年
2014/09/15(月) 23:22:01.37ID:ClM7wn1P柴田が力攻めって魚津城くらいで他は御館の乱や新発田の乱や中郡での神余や本庄らと上杉が戦ってる隙に
飛騨口別働隊やら佐々長縄やら長やら神保やらを送り込んできてコソドロしただけなんだけど。
自力では全く切り取れてないわけだが。
0589あ
2014/09/15(月) 23:25:16.16ID:WP4HIH09わずか6000で柴田45000森6000滝川10000新発田&伊達・葦名20000ら80000相手にろくに負けず五分に戦ったのが景勝
よって上杉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田は確定的
織田と上杉の武将の指揮能力や采配能力が互角なら
謙信を手取川で瞬殺し
景勝は1週間程度で瞬殺してる
0590あ
2014/09/15(月) 23:27:26.32ID:ClM7wn1P景勝は信濃戦線に出兵してる時期で魚津城は放置するしかなかったし
新発田・蘆名とも忙しかったし
0591あ
2014/09/15(月) 23:30:00.73ID:606asyIPそれでも延々と戦い続けて、持ちこたえているのが上杉。
0592あ
2014/09/15(月) 23:42:05.84ID:606asyIPろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田
0593人間七七四年
2014/09/15(月) 23:47:15.38ID:KQ7ofHe0全然装えてないけど
0594人間七七四年
2014/09/16(火) 00:04:53.01ID:jFFk+MOE抑止力だったスレも削除してもらって有頂天ってとこか
0595人間七七四年
2014/09/16(火) 00:17:23.36ID:ctnjOk6l0596人間七七四年
2014/09/16(火) 05:51:48.41ID:3WrcT3CU上条は捨て鉢になり、兼続も途方に暮れ、景勝は遺書めいたものを書く状況。
越中と北信濃を押さえられることがなにを意味するのか、
義父謙信が生涯にわたりこの2地域を必死に守ってきたことからも明らか。
100年以上に渡る一向宗門徒の影響がまだ色濃く残る越中を柴田方面軍は着実に潰してきた。
たった3年足らずで。
その証に本能寺の変の後も、上杉が柴田与力の佐々にすら歯が立たず二度と支配することがなかった。
後に秀吉が佐々を傘下に組み込んだその時に、上杉も実質、秀吉の傘下に降った。
越中を大勢力に取られることは、越後(上中越)の経営に致命的だからだ。
推定石高や推定兵数による妄想ではゲームの中では成立するだろう。
しかし現実はその推定通りには行かない。語るに落ちたな>>592
0597人間七七四年
2014/09/16(火) 05:55:27.44ID:3WrcT3CU逃げても無駄だぞお前が書き込む限りずっと聞いてくから
0598人間七七四年
2014/09/16(火) 06:38:20.63ID:MF61ceAL0599人間七七四年
2014/09/16(火) 07:17:09.61ID:bj5OTDWOまるで誰かが自演失敗を演じているかのようだ
0600あ
2014/09/16(火) 07:59:03.73ID:XZQN/XRj>景勝は遺書めいたものを書く状況。
そんなもの全く書いてない
>越中と北信濃を押さえられることがなにを意味するのか
越中は景勝が御館の乱や新発田の乱や中郡での神余、本庄、黒川やそれを支援する伊達や蘆名と戦ってる隙をついて神保や長や佐々長縄や飛騨口別働隊などを送り込んでコソドロしただけだな
むしろそんなヌルゲーで戦ってた割に上杉が越中に出陣を少しできるようになるとまるで侵攻できてない。
信濃では4/2に森長可が長沼城攻防で敗北し、長沼城を上杉に奪われた後、さらに仁科地方まで奪われてるのが4/2上杉景勝書状と
4/20頃の上杉→島津忠直書状でわかり
上杉は島津に仁科地方の防衛を命じている
5月の佐竹宛書状でも富山城は奪回されて残念だが、信濃口は全く堅固で問題ないとか書いている
0601人間七七四年
2014/09/16(火) 08:05:11.66ID:XZQN/XRjそのせいで越中には禍根が多く
何のしがらみのない織田は侵攻する上で非常に有利だった。
現に神保を送り込んで御館の乱や新発田の乱の隙にコソドロするのは成功してるし
長年戦争に巻き込んできたために上杉が国人にうらみを買いまくってた織田にとって超絶有利な土地である越中を
織田はろくに切り取れず天正10年時点ですら小島に富山城奪回されたりするアホっぷりだからな。
>100年以上に渡る一向宗門徒の影響がまだ色濃く残る越中を柴田方面軍は着実に潰してきた。
一向宗は上杉があらかた討伐しまくり
その上織田は城割と、国人の皆殺し粛清で国力をあらかた削いでたから侵攻する上で超絶ヌルゲーだったのは間違いない
現に佐々や神保らの活躍により、上杉の内戦中の間に越中や能登の国人はあらかた織田に寝返ってるし
その後はろくに攻略できてない。
>たった3年足らずで。
越中に織田方別働隊と神保や佐々などが送り込まれたのは1579年
しかし上杉はその時期御館の乱で内戦中、その後中郡での攻防やそれを支援する伊達や蘆名との攻防の隙をついて
>その証に本能寺の変の後も、上杉が柴田与力の佐々にすら歯が立たず二度と支配することがなかった。
>後に秀吉が佐々を傘下に組み込んだその時に、上杉も実質、秀吉の傘下に降った。
越中を大勢力に取られることは、越後(上中越)の経営に致命的だからだ。
0602人間七七四年
2014/09/16(火) 08:14:18.67ID:XZQN/XRj越中に織田方別働隊と神保や佐々などが送り込まれたのは1579年
しかし上杉はその時期御館の乱で内戦中、その後中郡での攻防やそれを支援する伊達や蘆名との攻防中であり、越中に派兵する余裕などない
もっというと動員兵力5000前後の上杉には、織田900万石と交戦する事などハナから不可
しかし実際には上杉の内乱が少し収束しだす1581年前後から(実際には新発田の乱や伊達や蘆名との攻防は継続中だが)
織田は信濃、上野、下越、越中、奥州と5方面から80000以上の兵力で攻めこんでも
ほとんど戦果が無いどころか、信濃でも上野でも撃退されたりしてる
それほど織田と上杉では圧倒的に指揮能力や采配能力に桁違いに差がある
>その証に本能寺の変の後も、上杉が柴田与力の佐々にすら歯が立たず二度と支配することがなかった。
佐々は信濃で5000前後・下越で2000・奥州で15000・越中10000と自国が5000前後しか動員できないのに8倍前後の敵と同時に戦ってる上杉相手に全く歯が立たず
上杉が下越や信濃に派兵した隙をついて越後に侵攻する事すらできなかったよ。
佐々8000〜10000相手に下越・奥州・信濃にも敵がいる5000程度の上杉じゃ
本来なら速攻責め潰されてもいい所だが結局ほとんど戦果はないからね
上杉は佐々より圧倒的に強いので5分に戦ってる
>後に秀吉が佐々を傘下に組み込んだその時に、上杉も実質、秀吉の傘下に降った。
越中を大勢力に取られることは、越後(上中越)の経営に致命的だからだ。
上杉が秀吉と通じてたのは天正10年からだし
これは秀吉→須田の書状でわかり、誓詞交わして人質出す約束までしてる
秀吉は対柴田でも対徳川でも景勝軍に依存しまくりだったからな
柴田戦では景勝が信濃や下越で忙しい中越中方面の佐々を釘付けにしてもらうお膳立てやってもらって
対徳川でも徳川方の主力20000を領国に釘づけにしてもらった上に信濃の川中島侵攻要請やってもらったおかげで
徳川の小牧方面への動員兵力がわずか8000で済んだだけだし
0603人間七七四年
2014/09/16(火) 08:15:19.32ID:FKCADDg9上杉5000は信濃中部の麻績地方などで小笠原4000を瞬殺するなど大暴れしてたのが小笠原史料でもわかる。
新発田攻略に向かってた時期もあったし
単体相手に全力を注げる佐々8000〜10000相手に下越・奥州・信濃にも敵がいる5000程度の上杉じゃ
本来なら速攻責め潰されてもいい所だが結局ほとんど戦果はないからね。
0604人間七七四年
2014/09/16(火) 08:15:58.03ID:XZQN/XRjそれでも延々と戦い続けて、持ちこたえているのが上杉。
松倉城の枝城の魚津城落としたところで、越中と越後国境の親不知の天嶮を織田が乗り越えるのは、
天正8〜10年の間で織田方が立ち往生状態だった平野部中心の越中中部〜魚津・松倉間の行程に比べて遥かにキツイ。
流石に国力差がありすぎて織田が優勢でも、すぐにあっさり終結するような状況とは程遠いと思われる
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦し
天正12年段階ですら富山奪い返されたりしてる
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北 越中中部で苦戦したのが織田軍
0605人間七七四年
2014/09/16(火) 08:16:28.60ID:FKCADDg9織田500万石+徳川50万石+上杉120万石あれば
長篠で大敗した武田100万石なんて瞬殺できるか、あるいはグイグイ押し込むのに十分すぎる国力差。
それができないのは織田の指揮官が相当劣ってた証拠。
対上杉にいたってはそれ以上で
柴田45000+森6000+滝川10000+新発田・伊達・葦名19000前後 合計80000なら
内乱の連発で自壊した上杉なんて普通なら1ヶ月程度で瞬殺できてる
だが上杉と織田では指揮官の指揮能力や采配能力が桁外れに違うので
普通なら一ヶ月程度な終りそうな兵力比でも
柴田はろくな備えもない平城の魚津城に苦戦しまくり
森や滝川は、越中と下越と信濃の三方面に敵をかかえる景勝わずか6000程度の見事に撃退される始末
0606人間七七四年
2014/09/16(火) 08:17:03.36ID:lnfK8QdB30万石しか残っておらず、900万石の織田とその同盟者100万石に同時に攻め込まれるような超絶ムリゲー状態の戦争でも勝ったり負けないのが上杉
0607人間七七四年
2014/09/16(火) 08:18:14.96ID:XZQN/XRj越中や能登には神保を初めとして上杉に怨恨を持つ連中が多く
信長はそれを利用し越中を能登を火事場泥棒したからな。
しがらみが深く、長年の戦いの怨恨や敵愾心もあるため不利にしか働かんのだが
0608人間七七四年
2014/09/16(火) 08:18:47.04ID:J9/TIldo御館の乱
乱後の中郡の反景勝勢力とそれを支援する伊達葦名との攻防
新発田の乱
織田はつくづく運だけは一流。
しかし実力は皆無なので、上杉の自爆に付け込んで北陸を長・佐々・斉藤・神保らに、柴田らも加えてコソドロさせて
越中能登は城割と国人の粛清で、国内を空洞状態にしたヌルゲー勝負でも
柴田45000森6000滝川10000+伊達・葦名・新発田20000と総勢90000前後で挑みかかっても
上杉6000に撃退されまくるアホっぷり。
これだけ実力差があってはいくら兵力差があろうと
自爆状態を火事場ドロボウされようと勝てるわけがない。
0609人間七七四年
2014/09/16(火) 08:23:14.07ID:Si0TiOpx>推定石高や推定兵数による妄想
北陸の柴田軍が45000なのは享禄以来年代記や末森記前編利家武功覚書に書いてある
上杉の動員兵力が5000しかいないのは上杉氏軍役帳に書いてるし
領国に信濃4郡や佐渡、出羽の庄内が加わり
居残り兵を残す必要のなかった小田原合戦時の動員で10000でしかないのが、豊臣の陣立書に書いてる
上杉はこの時期奥州の伊達・蘆名・下越の新発田、信濃の森、上野の滝川、北陸の柴田」と同時に戦ってるので
一方面に出せる兵力はせいぜいよくて2000だな
魚津城攻防でも信濃に出兵してたから景勝自身は中なか出兵できず魚津の1000そこそこの城兵で戦ってただけだし
0610人間七七四年
2014/09/16(火) 09:02:23.59ID:8QjGn8Qg0611人間七七四年
2014/09/16(火) 09:32:56.88ID:Ed5XjXmC日本語の意味が文脈で変わるという現代文の基礎すら知らなかった馬鹿がどうかしたか?w
0612人間七七四年
2014/09/16(火) 09:33:33.91ID:XZQN/XRj0613人間七七四年
2014/09/16(火) 09:33:59.99ID:P6at91KX0614人間七七四年
2014/09/16(火) 09:47:58.96ID:uBnynGKWID:XZQN/XRj「599に指摘されたんで[あ]は最初だけに改めました。
これで普通に自演失敗でしょ。態とらしくないでしょ」
0615人間七七四年
2014/09/16(火) 10:18:00.03ID:Puuge4AD意見としてどっちが正しいかなんて一目瞭然
0616人間七七四年
2014/09/16(火) 10:18:35.99ID:G4QrYfUP0617人間七七四年
2014/09/16(火) 10:42:13.58ID:PiFwjfTL自演だのなんだの言って話をずらす馬鹿がいるからな
議論じゃ勝てないからって見苦しい
0618人間七七四年
2014/09/16(火) 11:24:48.88ID:uBnynGKW0619人間七七四年
2014/09/16(火) 12:40:27.95ID:IUOvZGIY>4/20頃の上杉→島津忠直書状でわかり
>上杉は島津に仁科地方の防衛を命じている
この二つの書状でどうわかるんだ?ちょっと原文該当箇所書き出してみ
0620あ
2014/09/16(火) 15:28:54.79ID:Ed5XjXmC…(中略)
各相談、如何ニ取懸候共、堅固之仕置尤候、
去而又信州口之儀、長沼之地、昨二日乗取候、森敗軍候、
彼仕置申付之上、人数差遣候、令出馬、新発田退治案中ニ候、千言萬句其地用心相極候、謹言
山吉景長殿
せり沼友重殿
0621人間七七四年
2014/09/16(火) 15:39:46.66ID:Ed5XjXmC…飯山長沼武主之儀、誠推参ニ雖可被思召不顧憚申立候ヲ、謙信様御代二も堀江新地ニ被差置候條
彼者ヲ可被仰付候間、尤塞蔵院、芋川ニ被差添候者、大略五百余可有御座候由奉存候、「
0622人間七七四年
2014/09/16(火) 15:54:14.30ID:Ed5XjXmC直江→西方房家
天正10年4/29書状
芳札被見、乃、上様御樽被差上則令被伐露候、自分へも送給祝著申候、次、仁科筋人数被遣由に候
吉左右候ハ、重而御注進待入候、将又、先達而以書中申入候、其元敵地への往復、不通ニ可被相留由
堅御掟候間、左様御心得尤候、恐々謹言、
追而、青梅給候、賞申候、以上
0623人間七七四年
2014/09/16(火) 18:15:34.96ID:lUpzOU4n0624人間七七四年
2014/09/17(水) 01:02:12.97ID:Qqz46uSv長沼を4月初めに芋川らが奪ったは上杉関係の書籍、上越市史なども同じ見解だけど
>>621の飯山長沼の城主を決めようとしてるのもわかるが
その後あっさり織田に奪い返されたが、通説、上杉関係の書籍、上越市史などの見解で、
上杉がたが保持していたという根拠は?
知行の宛がいなどは本能寺後だし、
本能寺後に飯山城を抑えるように(つまり保有していなかった)という書状もあったはず。
>>622
それは仁科口に軍を送ると言ってるのであって
仁科地方の防衛とはならないと思うが、現に仁科の小岩岳なんかを宛がっているのは本能寺後の6月半ばとかが初出じゃ。
あとは5月辺りの上杉に帰参した城持ちの信州17騎の面々がどの程度の勢力かだが
大筋では北信濃は普通に織田家のものとなっていたんだろう。
0625人間七七四年
2014/09/17(水) 02:39:06.55ID:HtiSbgOnそして北条二万の根拠は、それだけの長文にもかかわらず反論すら出来ず。
菅沼、お前の理論は他も全てデタラメと認定されてるんだから諦めな
0626人間七七四年
2014/09/17(水) 02:46:56.10ID:HtiSbgOnほとんどコピペ(失笑)
越後についてもっと勉強しなよ。他人のコピペ写してるだけじゃ矛盾とボロが出まくりやで
その程度が通る大学(行ってたのかどうかからして怪しいが)通ってたんだな
0627人間七七四年
2014/09/17(水) 03:55:50.75ID:SLJT0ha70628人間七七四年
2014/09/17(水) 07:38:52.09ID:+FuuvP3K0629人間七七四年
2014/09/17(水) 09:11:51.57ID:W3oeaJDB0630あ
2014/09/17(水) 09:19:38.58ID:gZ7ObgFy織田が長沼城奪回の話が出てくるのは信長記の中の一つである総見記だな
それでそれによると4/5に長沼を織田方が奪回したと書かれているが
しかし実際には4/11にも長沼の城に島津忠直が駐在しているのは明らかで
総見記や信長記程度の信憑性でいいなら
上杉年譜の4/7条でも島津は信州長沼ニ居城し
などと書かれていて、島津はずっと信州のとどまり続けているのがわかる
それで信濃史料P191によると「上杉景勝が信濃岩井に命じて芋川とともに仁科地方を警備させめ、西方房家をしてどう方面を警固させる」という意の書状として>>622と上杉年譜
4/28景勝→岩井書状が紹介されてる
これによると信濃の虎空山に相るへし仁科表調儀に及びなは一段に手裏に入るへき段、
芋川越前守所ヨリ申遣す條、早速真木島へ相移り越前守と相談し
などと書いていて
上杉が仁科地方の警備を行っていて
牧島城や虚空山城を領有していたのは明らか。
0631人間七七四年
2014/09/17(水) 09:29:52.57ID:ABf+tHa9これは上杉がずっと抑えていたんだから信濃戦線は上杉がずっと優先で4/4の上杉軍による織田撃破以降織田は何もできなかたんだろうな
0632あ
2014/09/17(水) 11:38:57.75ID:gZ7ObgFy兵力差や状況からいうと、滅亡寸前というか1週間前後で滅ぼされるような状況でも2年近く膠着続いてるわけで。
新発田・伊達・蘆名・上野の滝川・上野の森・越中の柴田と15倍前後の敵に攻められても崩壊しない上杉は強すぎる
0633人間七七四年
2014/09/17(水) 11:47:17.64ID:Lv0mfhct0634人間七七四年
2014/09/17(水) 12:21:47.30ID:zSTYyeZR0635あ
2014/09/17(水) 12:22:29.09ID:MLEK0Ahv内田が交代した後半は逆転して勝率100%
強化試合ですべてが分かってた内田フル出場でW杯全敗は既定路線だった
●ウルグアイ戦 内田スタメン → 2-4で惨敗
○グアテマラ戦 内田欠場やったね! → 3-0で圧勝!!!!!
●セルビア戦 内田フル出場 → 0-2で惨敗
●ベラルーシ戦 内田スタメン → 0-1で惨敗
○ベルギー戦 内田欠場やったね! → 3-2で快勝!!
●オランダ戦 失点は内田のミス
前半は1−2で負け→ 内田交代 → 後半は2−2 >>1-0で快勝!!
○コスタリカ戦
前半は0−1で負け→ 内田交代 → 後半は3−1 >>3-0で逆転圧勝!!!!!
○ザンビア戦
前半は1−2で負け→ 内田交代 → 後半は4−3 >>3-1逆転圧勝!!!!!
●コートジボワール戦
内田フル出場 1-2で惨敗
●ギリシャ戦
内田フル出場 10人相手に0-0で引き分け
・内田がいないと勝率100%
・内田が裏を取られ失点が代表の失点の8割
・ロスト数、パス成功率 チーム最下位
・時間あたりのアシスト数、ゴール数チーム最下位
やっぱヒロキングすごいんじゃね
0636人間七七四年
2014/09/17(水) 12:23:13.68ID:r47kWJ9j晴信自身の行いや他に定めた法度において、この法度の趣旨に反するようなことがあれば
身分の上下にかかわらず、目安にて報告せよ。
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中 小山田が支配した郡内 穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。
>>平和な甲斐に生まれる
どこが平和だよw甲斐国は実質、武田、穴山。、小山田の三国の合同政権で
しかも武田の支配していた地域は専横家臣だらけ。
結局、その専横家臣団によって武田の集権化を進め統合しようとした信虎はくにを追放され
専横家臣団に都合が良い傀儡として信玄が擁立されただけ。
>>信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
そうではなく、専横家臣団の意向で信玄が当主に祭り上げられてたくらい武田当主なんて誰もやりたがらない傀儡守護職。
それは戦国時代に大半の守護が家臣による下克上で滅んでいることでもわかる。守護を延命させる方が難易度が高い。
>>信玄にやりたいように政治ができる
>>287のように信玄の国の整備と経営の努力によって指導力を発揮していったことを周りが認めていった結果だ。
国人たちによる合議政権だから信玄の意見だけで勝手なことができるわけねーだろ。
>>父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
そんなことどこにも書いてない。お前の妄想。
0637人間七七四年
2014/09/17(水) 12:23:51.60ID:r47kWJ9j左翼キチガイが主張するトンデモ屁理屈主張なんて主流派じゃねーだろ。
突撃隊である褐色シャツ隊による暴力と威嚇で反論を潰しているし
実質7万以上の私設軍隊化してるし、1930年には航空突撃隊や自動車突撃隊や突撃隊海軍に改変され
ヒトラー内閣ができると、そいつらが補助警察になり政敵排除してんじゃん。
1931年17万人、1932年末には50万人以上と、セカイ恐慌による失業者の受け皿の立ち位置で軍隊を拡大している。
1933年にヒトラー内閣ができて、全権委任法の審議の時には臨時国会議事堂を突撃隊・親衛隊が包囲し脅迫し
反対派は逮捕されたり行方不明で逃亡したとされたり仮病を使って不参加の議会の議決な時点でヴァイマル憲法は死んでるんだよ。
楽市令だって、六角や今川が使って「慣習」となっていた「法」を 採用というのは
慣習法じゃないよ。ただ単に座による独占を斉藤や六角が認めていたので
占領した時に既得権の追認を信長がしただけ。
そもそも新興商人の組合である座という価格統制排外的独占組合を認める行為に
慣習などと言えるほど歴史の積み重ねがあるわけでもない。
既得権の追認行為が慣習法なんて捏造お甚だしいわ。信長がやったのは法律行為じゃなくて追認行為。
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