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戦国ちょっといい話39

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0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0583人間七七四年2014/03/09(日) 13:12:31.76ID:E2cXG/E9
>>580
南無阿弥陀仏
0584人間七七四年2014/03/09(日) 21:20:24.09ID:PEGY2JJi
神仏にたいしては、頼るのではなく、頑張るから見守ってくださいとお願いするのが本質だとか誰かが言うとった
0585人間七七四年2014/03/09(日) 21:35:57.95ID:vYwalrHz
>>580
命あっての物種
死んで花実の咲くものか
ヤバいと思ったらすぐ逃げろ

>>582
菅谷さんが報われたことってありましたっけ?
0586人間七七四年2014/03/09(日) 22:39:32.76ID:E2cXG/E9
退けば無間地獄 進めば往生極楽 by一向衆

斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ
踏み込みゆけばあとは極楽 by宮本武蔵

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ by空也上人

生を必する者は死に、死を必する者は生く by上杉謙信

逃げ出した先に楽園なんてありゃしねえのさ
辿り着いた先、そこにあるのは戦場だけだ byガッツ
0587人間七七四年2014/03/10(月) 19:40:56.62ID:DmghnVup
Wikipediaの織田信雄の人物の記述誰が書いたw
火病ってwwwww


>信忠の同母弟であるにも関わらず、其の容姿は似ても似つかぬもので、キリリと引き締った信忠に対し
>信雄はブヨブヨと太っていたと謂う。また安土城への放火と併せると彼が遺伝子欠陥或いは重度の知的障害を患っていた事が判る。

>信忠の同母弟であるにも関わらず、其の容姿は似ても似つかぬもので、キリリと引き締った信忠に対し信雄はブヨブヨと太っていたと謂う。
>また安土城への放火と併せると彼が遺伝子欠陥或いは重度の知的障害を患っていた事が判る。

>平時から父の叱責を受けていた為に安土城を見て憎悪と怨恨で火病を発症し、衝動的に放火した可能性は否定出来ない。
0588人間七七四年2014/03/10(月) 19:46:40.14ID:c8Oqgbsm
ノブオって最後どうなったんだっけ?
0589人間七七四年2014/03/10(月) 20:37:21.52ID:iG3evuam
楽しい夕食を作る最中に亡くなりました
0590人間七七四年2014/03/10(月) 21:00:04.65ID:S4iA8xTd
日本人は一枚のハンカチで、ただの一度しか鼻をかまない。と言うと、ヨーロッパの読者は
滑稽に思うであろうが、これは奇異とするに足らない。それはマラバール(インド・ケーララ州)の
国王達が同じ皿からただの一度しか食べないと言おうとするのと一緒であって、彼らはバナナの皮で
食事をするので、食事が終わればそれを捨てるのである。

従って日本人について、彼らが一度ハンカチに唾を吐いたり鼻をかんだりすると、それを洗わずに
捨ててしまうと言う時には、次のようなことが説明されねばならないであろう。
すなわち、日本人は鼻をかんだり唾を吐くためにハンカチの代わりに、ハンカチのように折りたたんだ
薄い紙をたくさん懐に入れて持ち歩いているということである。

この紙は非常に安いので、彼らは非常にわずかの費用で幾枚でも使用することが出来る。
貴人たちはその紙の間に、白または青色の亜麻布を一枚携えているが、これは汗を拭くためだけに
用いられる。だが商人や一般の人々は、紙以外に亜麻製の半幅の手拭いを帯の中に携えており、
汗を拭いたり、手や顔を洗う的にそれを用いる。

(ルイス・フロイス『日本史』)

日本人が戦国時代からちり紙を使っていた、という記録である
0591人間七七四年2014/03/10(月) 22:23:51.54ID:9KsNTFiM
一度鼻かんだハンカチでまた鼻かむのか?
0592人間七七四年2014/03/10(月) 23:20:59.39ID:iG3evuam
フランス人とか今でもハンカチで何度も鼻かむぞ
んでカピカピになってから洗う
0593人間七七四年2014/03/10(月) 23:22:23.90ID:ZH4Ve3AV
支倉常長が鼻かんだちり紙を捨てたら、珍しがって西欧人が拾ってったって話もあったような
0594人間七七四年2014/03/11(火) 00:25:47.57ID:SRL2EFdo
権現様が落としただか風に飛ばされたちり紙を無駄にすまいと拾った話があったな
0595人間七七四年2014/03/11(火) 12:09:19.46ID:1WiNGMWd
チョイ前までのヨーロッパでは紙は高級品だから
明治のパリ万国の日本館の大工がちり紙捨てたら周りのフランス人がびびったとか
いまでもなごりで>>592
おかげで識字率も低かった
0596人間七七四年2014/03/11(火) 15:23:18.92ID:RcrVH+Jv
鼻紙と識字率?って思ったけど
学習用の紙が使えるかってことか
0597人間七七四年2014/03/11(火) 18:00:46.12ID:HKVyWUHd
フロイス日本史に志賀親次が入信した際に、紙製の記録帳を修練院の院長から
贈呈されたって話もあるから、それなりに紙工技術はあったんだろうけどね
0598人間七七四年2014/03/11(火) 19:20:47.08ID:VMcXdHz3
インクで文字書いて記録残してるんだからヨーロッパにも紙くらいあっただろ
0599人間七七四年2014/03/11(火) 20:27:52.43ID:2ViOfgOs
羊皮紙はけっこう長持ちするだよ。作るのが面倒臭い
0600人間七七四年2014/03/11(火) 22:04:20.32ID:wHPCYBug
太閤秀吉公は聚楽の城が完成した時、何とお思いになったのであろうか、
和歌一首を詠じなさった。

その和歌を『露と置き露と消へぬる吾身哉難波の事は夢の世の中』と自筆で書きなさり、
尼孝蔵主に命じて「深く納め置くべし。用がある時に出すのだぞ」とのたまった。

年を経て慶長三年八月十七日、孝蔵主をお呼びになって「いつぞや預け置いた和歌は」
と、お尋ねになった。孝蔵主がただちに出して差し上げたところ、
年月日御諱をも書き加えなさって、そのまま差し置きなさり、翌日に薨御された。

前述の和歌を太閤の辞世であるということで木下家に伝えて、
いまなお、肥後守豊臣公定(木下公定)が所持しているということである。

――『明良洪範』
0601人間七七四年2014/03/12(水) 13:19:39.41ID:yPc6s9KS
>>577
源頼義、ヘンリー8世「憎い相手は楽に殺さない」
0602人間七七四年2014/03/12(水) 13:56:54.81ID:noa2iYo0
>>601
大賀弥四郎「おいやめろ」
0603人間七七四年2014/03/12(水) 17:02:39.22ID:Lr3Cz+B0
油入れた大なべ持ってきたよ!
0604人間七七四年2014/03/12(水) 17:32:00.97ID:q2f38PII
鋸引きは誰が最初に始めたんだろうか
やっぱりノブが杉谷善住坊にやったのを後世
パクったのかね
0605人間七七四年2014/03/12(水) 17:55:14.55ID:hTWr+4y/
廃れてた鋸挽きを戦国時代に復活させたのは細川晴元
0606人間七七四年2014/03/12(水) 19:44:32.32ID:Rm/k90hs
>>604
山椒大夫で厨子王が山椒大夫を鋸挽きにしてたはずだから、平安年間にはあったんじゃないかな
0607人間七七四年2014/03/12(水) 20:03:25.04ID:SsMYHoSi
明智光秀と唐崎の松

光秀が築いた近江坂本城から程近い唐崎神社には、昔からしばしば歌に詠まれた立派な松の木があった。
柿本人麻呂や紀貫之らの目にも留まった松の木を是非自分も見たいと、光秀は唐崎を訪れるが、既にこの地に松は無かった。
がっかりした光秀だが、それならばもう一度この地に松を植えてやろう、
と未だ競り合いの続く浅井領から一本の松の木を持ってきて植えたのだった。

それからというもの、光秀はこの松を気に入り、馬で出かけては木の周りをくるくると歩き回って楽しんでいたとのこと。
坂本城址公園に建つ明智光秀公の像にはこんな歌が添えられている。

『我ならで 誰かは植ゑむ 一つ松
 こころして吹けしがの浦風』

……おれ以外に誰が苦労してここに松を植えると言うんだよ。だからもう折ったり吹き飛ばしたりしないように気をつけて吹いてくれ、志賀の風よ。

悪い話スレの方には随分前ににこの話が信長公の耳に入るエピソードが投稿されているけど、いい話として少し詳しく書かせてもらいました
0608人間七七四年2014/03/12(水) 21:37:26.05ID:yPc6s9KS
フィクションにてござ候だけど信長とヘンリー8世の意外な接点を思い出した

http://blog-imgs-31.fc2.com/m/a/r/maropinkpalace/20110419203849e48.jpg
http://waretadataruwosiru.txt-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/19/henry8.jpg
0609人間七七四年2014/03/12(水) 21:38:50.93ID:Y12sJYTz
我がやらねば誰がやる、の気風の人だったのだろうな
善くも悪くも
0610人間七七四年2014/03/12(水) 22:21:06.28ID:kyyLiXW6
>>607
>馬で出かけては木の周りをくるくると歩き回って楽しんでいたとのこと。
これはちょっとかわいい
0611人間七七四年2014/03/12(水) 22:54:41.59ID:8kA+OyTU
美味しいバターになるんですね?
0612人間七七四年2014/03/12(水) 23:01:01.48ID:3XorX+lM
弥助「呼んだ?」
光秀「動物など呼んでおらん」
0613人間七七四年2014/03/12(水) 23:13:34.58ID:hQDTSnkr
それ今となっては伝わらない世代も多いネタ
0614人間七七四年2014/03/12(水) 23:35:43.89ID:IZmwJkBF
ちびくろ官兵衛
0615人間七七四年2014/03/12(水) 23:38:30.26ID:+KZo44bk
あれってそんなに差別的な内容だったっけか
単に人権派のメシの種にされただけ?
0616人間七七四年2014/03/12(水) 23:39:04.79ID:Rm/k90hs
現在の唐崎神社は松林がすごく綺麗だね。
ttp://hiyoshitaisha.jp/wp-content/themes/hiyoshi/images/karasaki/img_karasaki_top.png

でも唐崎神社は唐崎の松を植えたのは光秀じゃなくて新庄直頼と言ってる。
こっちも植えた新庄直頼の弟直忠の和歌が残ってる。
「おのづから 千代も経ぬべし辛崎の まつにひかるみそぎなりせば」
0617人間七七四年2014/03/13(木) 00:10:22.65ID:7jSOMkF8
う〜ん、明智さんの歌のほうが好きかな
0618人間七七四年2014/03/13(木) 00:29:55.60ID:74Pb6jpg
>>615
サンボそのものが英語では黒人の蔑称だったらしい
0619人間七七四年2014/03/13(木) 02:09:15.37ID:iPKuK0x/
天海が家光に貰った柿を食べた後、種を持ち帰って植えた話を思い出した
0620人間七七四年2014/03/13(木) 02:13:30.47ID:dvCANMA3
>>619
なんか白楽天か誰かの逸話で同じようなのがあった気がするんだよな
70になって種を植えてバカにされたが結局80まで生きて実を食べることができたとかいう話
0621人間七七四年2014/03/13(木) 12:37:45.78ID:emG5Mp3v
真田のおにいちゃんもストレスがなきゃもう十年は生きられたんだろうな
0622人間七七四年2014/03/13(木) 14:10:23.31ID:YuRs7tcL
種から育てて、美味しい柿の実がなる木に育てるのはかなり難しいみたいやね
接ぎ木するのが良いらしい
0623人間七七四年2014/03/13(木) 14:13:07.47ID:SJ42h76T
>>621
先月発表されていたニュースによれば
ストレス環境によって細胞が若返るんだってさ
なんでもSTAPとかいうらしい
0624人間七七四年2014/03/13(木) 17:13:24.32ID:zcPRJFtN
       _______
     /  .|  |  .\      スタァーップ!
    /____|  |__ \
  /  ___  ___  \   
  |  / (●)|_|(●) \  |
  |  |    .(__人__)   | |   
  |  |     |::::::|    | |
  .\|     l;;;;;;l    | /    
   /     `ー´    \

-----
0625人間七七四年2014/03/13(木) 17:37:57.67ID:7jSOMkF8
そのへんにしとかないとスレ違いさんが来るぞ(ガモーがくっぞ!みたいな感じに)
0626人間七七四年2014/03/13(木) 17:39:19.41ID:qARA01Qk
信幸お兄ちゃんはストレスさえなければ大還暦で柿の種を植える人生設計してたのに
0627人間七七四年2014/03/13(木) 18:12:35.41ID:Ju2v0KU+
柿の逸話といえば細川親子
0628人間七七四年2014/03/13(木) 21:47:04.34ID:ZvABAROb
>>624
はいはい
蔡瑁、蔡瑁
0629人間七七四年2014/03/14(金) 03:15:09.36ID:wpMZ0G6z
でも実際、信之って従兄弟より10歳以上早死だぞ
やっぱり短命なんじゃないか
0630人間七七四年2014/03/14(金) 14:55:20.47ID:9D/eaQgf
短命と言えば84-47-71の真ん中の晴久さん
0631人間七七四年2014/03/14(金) 18:39:47.90ID:00PVhXC7
島原一乱の後、松倉長門守(勝家)は罰せられて家は断絶した。

その家士に野村治右衛門という新参者がいたのだが、
長門守の死骸が品川に捨ててあるのを乞い請けて浅草金性院に葬った。

譜代旧恩の士も多くいるのにそれらはどこへか退散し、
新参者がかえって忠を尽くしたのだ。

また、同家の士に内藤瀬兵衛という者がいた。長門守は罰せられる前に
金三百両を持たせ上京させていた。その後、長門守ならびに
弟の右近、三弥たちはそれぞれ御仕置となり家は断絶に至ったために

金子を返すべき人がいないので所司代のもとに持参し、その由を申して
「闕所金なので差し上げます」と言った。所司代の板倉周防守(重宗)は
その義心を感じて「お前の金子にせよ」と言って与えた。

瀬兵衛はやむを得ず受納して旅宿へも帰らず、ただちに大徳寺へ持参し、
「主人が御仕置になり家は断絶したので、この金を納めますから、
永く主人の追善を頼み入ります」と言って三百両を寄付した。

島原で武功の家士は多いけれども、この二人の至忠のようなものは
ふたつと無い。『国亡びて忠臣顕る』という古語に違わないことである。

――『明良洪範』
0632人間七七四年2014/03/15(土) 00:16:09.89ID:JPexOhDu
主家、主人ってのはたとえ滅んでも忠臣の中に残るもんだね
0633人間七七四年2014/03/15(土) 00:38:50.06ID:ADSPrJrm
こんな呪われた金いらんわ
捨て捨て
0634人間七七四年2014/03/15(土) 03:37:02.68ID:JPexOhDu
聚楽第が完成すると大名から町人まで、皆が祝儀として様々な名物を秀吉に贈ったという。
その中には日根野織部(デス武将こと日根野備中の子だから彼もまた兜職人なんだろう)より献上された甲冑と千利休より献上された石灯籠があった。
織部の兜の前立は八日月(半月)、利休の灯篭の窓の形もまた八日月であった。
2人で同じテーマの物を関白殿にプレゼントしようと示し合わせたのだろうか?
武の道の数寄者、茶の道の数寄者、両人の心が同体となり面白いことになったなあと人々の感動を生んだとさ。
0635人間七七四年2014/03/15(土) 04:11:56.00ID:fS2xynar
そして古田織部が真っ二つに
0636人間七七四年2014/03/15(土) 15:29:40.99ID:m5glyeEn
三七殿(織田信孝)と称する信長の次男は、ただキリシタンになるための素質のみならず、それらの
大支柱になり得る素質を備えていた。しかし後日人が変わり、後述するように極めて悲しく不運な末路を
たどることになった。

信長の多くの息子に中にあって、彼は全ての武将たちから最も好かれ、愛されていた。彼は安土の司祭や
日本人に修道士たちと交際し始め、しばしばデウスの掟について説教を聞く内に、たとえキリシタンで
あったとしてもそれ以上望み得ないほどの愛情と親近感を我らの修道院に対して抱くようになった。

彼は週に1,2度は必ず修道院に姿を見せ、ロレンソ修道士が、それに劣らぬほど頻繁に彼の家に
来訪することを希望した。また種々の贈物を度々司祭らに届け、万事において彼らに対する大いなる愛情と
親切を示した。彼は司祭らを自らの教師とみなしていると公言し、大物の武将たちの前で、深い尊敬を込めて
デウスの掟について語り、司祭らに対しては極めて恭順の意を示したので、異教徒たちは驚愕した。

彼は仏教の宗派は欺瞞と迷信であるとしてこれを軽蔑し、我らの聖なる掟だけが真理と道理にかなっており、
真理を弁えるいかなる者も、デウスの教えを聞いては未リシタンにならずにはおれぬと述べ、
多くの言葉を以ってそれを激賞した。彼自身も、いくつかの事情から延期を余儀なくされていなければ、
既にキリシタンになっていた所であり、その数名の家臣は彼の説得により、既に受洗していた。

彼は修道士にコンタツ(ロザリオ)を求め、それで祈りたいと言い、時々それを腰に帯びていた。
彼は大きな邸宅と相当の封禄を付与されていたが、時節が到来するまで、彼の父はまだいかなる国をも
与えていなかったので、父がいずれかの領地を与えるのを、当然の事として待機していたのであった。

彼は既に25歳になっていたであろう。父から気に入られ、城中の一同から愛されていた。
この若者は、父が喜ぶか、少なくとも悪く思わぬということを示唆するまでは、キリシタンになることを
留保していた。何故なら信長は、その子供たちに対しても顧慮することがなく、子供たちからさえ
恐れられていたので、進んで彼と話そうとするものはなく、誰も皆、彼の気に触るようなことは
避けるように注意していた。

三七殿は父の重臣たちと親しく交際していたが、彼らに向かっては、キリシタンになりたいと公言し、
父がそれをどう思うか知ろうとして、父がそれについて考えてくれるよう手をつくしていた。
三七殿は我らのことを母親に話していたので、彼女も2,3度説教を聞き、デウスの教えに愛着を感じていた。

(ルイス・フロイス『日本史』)

ルイス・フロイスによる、織田信孝についての描写である。
0637人間七七四年2014/03/15(土) 16:38:55.30ID:xNY1rIaH
フロイスさんお得意の手のひら返しが怖い
0638人間七七四年2014/03/15(土) 16:53:51.93ID:ed+AMNJw
キリスト教はなんらかの魅力があるんだろうね
聖書は家にあるけど個人的にはなかなか読み進まない書物だ

高杉晋作が聖書を読んだときの感想が、
『「キリスト教は陽明学に似ている。我が国の分解は此を以て始まらん」
維新の志士として有名な長州の軍略家、高杉晋作は、
長崎にて始めて基督教聖書を調べて、然う叫んだ』(内村鑑三、代表的日本人より抜粋)
だそうですね。
内村鑑三がキリシタンだから信憑性は謎
ところでキリスト教ってどういう思想なの?
0639人間七七四年2014/03/15(土) 16:58:03.46ID:IxH71Qmz
ハビアンによれば
この世は神が創った
人間中心
魂の永遠性
が儒教、仏教、神道とちがうところとか
0640人間七七四年2014/03/15(土) 17:02:24.35ID:t5w+v5cY
人を殺すのは悪魔でなく神
0641人間七七四年2014/03/15(土) 17:17:26.26ID:ed+AMNJw
宗教ってのは行動する際の心理的な担保なのかもしれないね
陽明学なら良知とか心即理
南無阿弥陀仏なら善悪とか成否の迷いを阿弥陀仏に任せてしまうんだろう
キリスト教ならGODか…
なんでもそうだが一歩間違えると危ないな
0642人間七七四年2014/03/15(土) 22:30:35.80ID:Nz9Y3ylS
>>638
エキゾチックなのが良かったのかもね
0643人間七七四年2014/03/16(日) 11:53:42.05ID:IvvXE4J2
 美濃の国に虎之助シルベステレと名乗る熱心なキリシタンがいた。彼は織田信雄に仕えていたために
信雄の没落とともに豊臣秀吉の寵を得なくなったが、虎之助自身が不興をこうむったわけではなく、
時おり秀吉は虎之助について話すことがあった。そこで彼の友人たちは上洛して関白殿の目に触れるよう
虎之助にすすめた。
 そこで、彼は京の都に出向いて、そして、秀吉が尾張に出かける際を見計らって、その途中にある小高い
場所でボロボロの着物をまとって待機していた。秀吉がその場所を通った時、ただちに虎之助に気づいたので
すぐに彼をそばに呼び寄せて親しく声をかけた。秀吉は「このように落ちぶれてしまったのは不憫だ」と言って
馬を一頭あたえて尾張まで一緒に連れて行き、そこで米二千俵の禄を扶養費としてあたえた。
(ルイス・フロイス書簡 1591、1592年イエズス会日本年報)
0644人間七七四年2014/03/16(日) 18:55:45.74ID:3d41eKx2
後がなく勝つしかない合戦や、落とすしかない状況で城を攻めるとき、
吉日を占い選んだり、縁起のよい方角を考えることに時間を費やすのは、
はなはだ無駄なことで、不満足であると言わざるをえない。
吉日だからと台風の日に船を出したり、吉日だからと多勢にひとりで突撃するのは、
いかに吉日だからと、それが無益であるのは火を見るよりも明らかである。
たとえ悪い方角に向かおうとも、仏滅の日であろうとも、
情勢をしっかりと洞察して、なにが虚か、なにが実かを考察し、
臨機応変に武士どもを動かして、敵に知られぬよう武略を敷くならば、
吉日だろうと悪日だろうと必ず勝利を招くものである

『朝倉敏景十七箇条』
0645人間七七四年2014/03/17(月) 11:25:22.66ID:6GJ4UiTe
>>643
>シルベステレ
ごめん、ついロッキーのテーマを流したくなった
0646人間七七四年2014/03/17(月) 13:16:19.32ID:vZJIuX8Q
蒲生とは江州の士であり、佐々木承禎(六角義賢)の家臣であった。後に信長に属し、また太閤(秀吉)に仕えた。

蒲生氏郷は優れた人物であった。初めは伊勢松坂で12万国を所領し、その直後に会津120万石を領した。
これは太閤の時代のことであり、その時彼は40歳ほどであった。

佐々木承禎は江州一国を領した大名であったが、織田信長に滅ぼされて江州を取られた。承禎の子は四郎殿(六角義治)
と言って、太閤の時代には咄の者(御伽衆)となって二百石であった。
蒲生は元々その家臣であったのだが、その時は百万余石を領していた。

しかし、伏見などで太閤の御前に侍り、退散の時、氏郷は昔を思って、六角四郎殿の刀を持って従われる事もあったという。

蒲生が江州で承禎の家臣だった時代には、日野を領していた。氏郷の父(蒲生賢秀)は頑愚にして天性臆病の人であった、
その頃、俗人の間では小歌に

『日野の蒲生殿は、陣さえ云やへをこきやる』(日野の蒲生殿は、戦と聞いただけで臆病風にふかれる)

と言ったのは、この人のことを指しているのである。

(老人雑話)

蒲生氏郷が、旧主六角氏にも義理を通していた、という逸話である
0647人間七七四年2014/03/17(月) 18:00:34.28ID:IFrmhOaB
蜂須賀家政は庭に松を植えようと思い、方々に松を探し求めても無かったところに、
図らずも心に叶った松を取り寄せて殊の外秘蔵に思った。すぐに望んだ居間の小庭に
植えたところ、

御庭裁判役人は数寄屋足袋や立付の姿で杖を突いて下知した。家政はこれに立腹し、
自らその松の辺りへ立ち寄り、土を寄せて「秘蔵である!」と言った。

これによって裁判役人は急に働いた。家政は座敷へ上り、立腹の声で、
「この松が枯れた時は、弓矢八幡、裁判人を磔にかける!」と言って入った。

そうして二、三日が過ぎて松の葉の色が悪くなったため、枯れるのではないかと、
御庭裁判人は殊の外気遣った。そして四日目の早朝、家政は件の松を見て御側の面々に
「この松の裏を表へ植え替えさせろ」と言って、内証へ入った。

故に早速植え直してその旨を申し上げると、家政は出て見たうえで「これでは枝付きが悪い。
この枝を切れ」と、望んだ五枝ほどに付紙をした。そのため、早速枝下ろししたところ、
その翌朝、また松を見て「なんとまあ、枝下ろしが物の数寄を仕損じて枝振りが悪くなった。
根から切って捨てろ」と命じて、眼前で土際から切らせたとのこと。

この事を、その節に沙汰して「植木に人を替えなければならない事情も無いということ、
また、御誓言も無かったことにするべきではないとの御思案ではないか」と恐察した。

――『尊語集』
0648人間七七四年2014/03/17(月) 18:21:26.47ID:N9X7t7tY
なるほど
枯れる前に捨ててしまえば、裁判人を磔にしなくて済むし、八幡大菩薩への誓いも嘘にはならない。
裁判人も怒られてからは一所懸命に松育ててるしな。
なにも最初の発言通りに枯れるまで待って反省した者を磔にする必要はない。
蜂須賀さんは良い大将だね
0649人間七七四年2014/03/18(火) 21:38:28.03ID:9DuFYx0x
幕府管領である細川右京太夫勝元は、一家無双の栄耀人であり様々な遊興に財宝を費やし、奢侈の聞こえも
あったという。普段の珍膳・妙衣は言うに及ばず、客殿屋形の美々しきこと、言語道断であると言われた。

この勝元は常に鯉を好んで食されていたので、家来の大名たちは勝元におもねって、数えきれないほどの
鯉を贈った。

ある日、とある人が勝元を招いて、様々の料理を尽くして饗した。この時もまた、
鯉を料理して出された。この時相伴の人3,4が、恭しく陪膳していた。

さて、この鯉料理を人々は多く賞翫し、それをよろしき料理であるとばかり褒めたが、
他の言葉がなかった。勝元も料理に一礼を述べたが、この時さらに言葉を進めて

「この鯉は、名物であると感じました。きっと客への饗しのため、使いをはせて求められたのでしょう。
それに対して、この場の人々の褒め様はあまりに無骨です。それはおおむね、膳部を賞翫するまでの
有り様についてです。折角の饗しに、その素材について語らないのは、あっていいはずがありません。

この鯉は、淀より遠来したものであると見ました。その印があります。他の国の鯉は、捌いて酒に浸すと、
一度箸を入れればその汁は濁ってしまいます。しかし、淀の鯉はそうではありません。
どれだけ浸しておいても、汁の色は薄く、濁りがありません。これこそ名物である淀の鯉の印です。

皆さんの中で、重ねてこのような饗しを受ける人が有れば、この勝元の言葉を忘れないようにして
料理を褒められるように。」

そう申された。

誠に淀の鯉のみに限らず、名物は大小となくその徳のあるべきものである。こういった心を持って、
よろずに心配りをして味あうべきであると、その時陪膳した人の子という人物が、ある人の所で
語ったという。

(塵塚物語)

細川勝元の、グルメマンガみたいな料理の賞翫についての教訓。
0650人間七七四年2014/03/18(火) 21:42:35.02ID:Ytxw/L/I
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4016.html
淀川の鯉
同じ話のはずなのに勝元の口調が違うのがなんか面白い
0651人間七七四年2014/03/18(火) 23:34:27.03ID:AYAz2v/O
ここだけ見たら人畜無害な風流人のようだ
0652人間七七四年2014/03/19(水) 17:18:53.54ID:hizg0GYy
ある人が「昔の人は生まれつき強くて長命だ。
今の人は生まれつき弱くて短命である」と言った。

傍には石谷土入がおり、彼は「いやそんなはずはない。
昔も弱い人は先に死に、強い人は残ったのだ。

今も弱い人は先に死に、強い人は残るはずだ。
だから、今よりも後世の人は、再び今の人のことを
昔の人は強く長命である、と言うことであろう。

人生にどうして今昔の変わりがあろうか。

現に聖人も『七十古来稀れ也』と言いなさったのだ。
人命の長短は古今同じはずである」と言った。

――『明良洪範』
0653人間七七四年2014/03/19(水) 17:30:06.99ID:+ZJTRZRZ
適者生存の法則だと、今のやつの方が強くていいのに
0654人間七七四年2014/03/19(水) 22:49:23.05ID:zkx8ApC4
>>652
同じ逸話が翁草にあったのを思い出した。

昔の人は強健にして長寿であり、今の人は性質が弱くなり夭折するものが多いと言う。
石谷長門入道という老人がこれを聞いて

「そう言われるのには訳がある。昔の事を思いだしてみると、やはり強弱二通りの人々
が居た。今と変わりないが、そのうち弱いものが多く強い者は少しであった。

昔いた弱い者は皆死んでしまい強い者だけが生き残ったので、その人たちだけを見て
あのように言うのであろう。

今の人も弱い者は早く死に強い者は生きのこる。後世からみれば今の人々を強健と言う
のだろうな」

と語られたのは、実にもっともな話であった。

(翁草)
0655人間七七四年2014/03/19(水) 23:34:34.17ID:uWOxnezA
まぁ、天皇を考えれば昔のほうが長命でいらっしゃったのは間違いないわけだが
0656人間七七四年2014/03/19(水) 23:42:34.92ID:1nQR0pzi
知り合いの宣教師が創造論者で
「ノアとかメトセラとか、昔はもっと長命だったのです。
古事記の日本の天皇も皆さん長命でしょ?」
って言ってた
戦国時代はこの説明で納得したかもな
0657人間七七四年2014/03/20(木) 00:42:44.23ID:NUh5ntI+
まあ戦国の世にも139年生きた坊主がいますし
0658人間七七四年2014/03/20(木) 07:34:25.58ID:/CsLEq9L
古事記だの聖書だの長命というより種が違うんじゃねーのかというレベル
0659人間七七四年2014/03/20(木) 09:05:57.74ID:MdcInIhj
事歴を記録し伝える文字を持たない古代社会では
口伝がその手段だったから
複数の人物の事績がまとめられて
長命の英雄が必然と多くなるんだよん。
0660人間七七四年2014/03/20(木) 19:55:01.98ID:EAqBVhFK
アレか、仏舎利すべて集めたら2トンになるとかそういう感じの
0661人間七七四年2014/03/20(木) 21:52:19.68ID:WJ2skcef
なぁーに、竹内文献の神さん達よりはまだ常識的さ
0662人間七七四年2014/03/20(木) 22:12:04.81ID:7mF3I8oQ
うちの神さんがね
0663人間七七四年2014/03/21(金) 07:49:28.42ID:6Bny1OIe
戦国刑事コロンボ
犯人はいつも三成
0664人間七七四年2014/03/21(金) 16:02:55.91ID:L3GgUvBf
伊勢新九郎は小田原の城守大森筑前守を攻め出して、
小田原を取った。

その時、新九郎は搗栗(勝栗)を持っていて、
その噛んだ歯の跡のある搗栗を北条家は代々受け伝えた。

それを『高祖出陣の守り』といって、出陣の時に歯にあてた。
新九郎は北条家の先祖なので高祖と呼ぶ。

(其時新九郎。搗栗を持て。かまれし歯あとあるを。
代々取伝て高祖出陣の守りとて出陣の時歯にあてらる。
新九郎は北条家の先祖ゆへ高祖と云)

――『武功雑記』
0665人間七七四年2014/03/21(金) 18:10:02.99ID:vn2csnUK
北条六代の全員に前歯があったことが確認されたな
0666人間七七四年2014/03/21(金) 20:33:01.98ID:xXn8FclR
勝ち栗ってそんなに長持ちするのかよ
0667人間七七四年2014/03/22(土) 19:12:41.37ID:/I3Yd6Px
表裏比興さん「長生きするには適度なストレスというのが大切なのです。ホレ」
0668人間七七四年2014/03/23(日) 02:11:42.81ID:Lz8X/cqC
恵林院殿御事

先の将軍義稙公(十代将軍足利義稙)は、お心正直にて優しき生まれつきであり、武臣家僕のともがらは
言うに及ばず、公家の人々へも心を配らせ、不便の無いようにされていた。
しかし乱世の国主であったので、将軍と言っても名前ばかりの存在であり、下の者達が計らって
上意と称し我儘をふるい、これによって領地を無くした者達により、批判されることも些かあった。

こういった状況のため、武臣たちの罪によって将軍である義稙が恨まれ、いよいよ騒動も静まり難く見えた。

この頃の公方の様子を観察すると、将軍というものは寺院の長老のようなものであり、武臣は
その塔頭の寺僧であると言えた。長老は尊い。しかし寺僧たちがその前に横たわって、住持をも
排除してその寺院を思いのままにする。この頃の公方はそう言う風情であったのだ。

ある時、義稙公は大納言の某というものを召されて談笑した。そこで仰られたことには

「私は書物を読むのも乏しくはないし、天下の広さを一瞬で見ることも難しくはない。
何でも心にかなう四海の主であるので、多くの人民が、毎日痛ましきことを訴えに来る。
その事は耳に入ると不憫であるが、目の当たりにしたわけではないので、身にしみるような
哀しみはない。
畢竟、自分が苦しんだことがなければ、人の悲しみを理解できないものなのだ。

私は先年、政元(細川政元)によって苦しめられたことにより(明応の政変)、下民への労りを
思う事を学んだ。

これは、死を恐れたわけではないのだが、近くに味方が居ない時は、非常に心細いものであった。
そこから、鰥寡孤独(身寄りの居ない孤独な状態)の者が普段どんなに無力な心でいるかを
推し量ることが出来た。

慈悲の心がない者には、生きるかいもない。ましてや天下を知る者ならなおそうではないか。
第一に不憫の心を先に立てねばならない。
つらつらと古今の歴史について考えてみたが、北条泰時、北条時頼は唯人ではない。
我が朝の武賢と呼ぶべきは、彼らの振る舞いであろう。

私は壮年の頃から、常に下僕を撫で匹夫を憐れむの心を持っていたが、今は我が身さえ
心に任せることのできない世の中であるので、人々に対してその気持ちを充分に表すことも出来す、
時ばかり過ぎてしまった。いま少し世の中にあって状況を伺い、我が志を遂げたいと思うのだが、
月日ばかり過ぎていき、人生ももはや終盤となってしまった。終にはその思いも虚しくして、
憤りを胸にいだいたまま泉下に行くのだろうと思っている。

人々は衰朽の状態になれば、自らを察して心を諦めてしまう。だから、一日でも生きているうちは、
その身に応じて人を扶助するべきなのだ。」

そう、しめやかに雑談されると、大納言の某もこれを聞いて、涙で狩衣の袖を絞られ、返答することも
出来なかった。誠に大樹(将軍)の身として、このような御心ばえは世に有難きことである。
義稙公が都落ちして田舎に移られた後は、京の貴賎は皆、灯火が消え暗くなったように思ったものである。
その時にも公は人々に暇乞いをされ、仰せおかれたことに関して、皆、優しきお振る舞いであったと、
現在でもそのことを語る人が多く居るのである。
(塵塚物語)

足利義稙の、下々を想う心についての記事である。
0669人間七七四年2014/03/24(月) 19:18:50.21ID:2TSf/xla
日本でヒガシの諸国と呼ばれる、オリエンテ(東方)の地方に、(徳川)家康と称する、5,6カ国を領する
強大な領主が居る。かれは信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属し、勇敢な武将であり、多数の家臣、
そして好戦的な部下を有するセニョール(殿)である。
彼は日本中で常に大いなる名声を得ていることを誇りとしていた。

関白(秀吉)が支配者の座につき始めた頃、家康は信長の息子(織田信雄)を援助し、武力を持って
彼をその父に変わって天下の主に就任させようとしたため、関白は大軍を率いて家康を襲撃した。
当時、関白は今ほどの名声、位階、権力、財産を有していなかったので、家康はこの戦争(小牧長久手合戦)
において、関白麾下の1万人近い兵を殺戮した。

和平が締結された後、関白はその一人の妹(朝日姫)を家康に嫁がせたが、同女は既に歳をとっており、
容姿も醜悪であったので、『もし妻にしたくなければせめて側室として迎えられたい』と伝えさせ、
『その代わりに、自分を天下の君として認めてほしい』と願った。
だが家康が、関白がその実母(大政所)を人質として送り届けてくるまで、彼の願いを受諾しようとしなかった。

このようにして家康は、立派な贈物を携え、大いなる威厳と豪壮華麗な供奉のものを率いて大阪に乗り込み、
関白からは携えたものに劣らぬ豪華な贈物を受けたのである。

(ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスによる徳川家康についての記載である。
0670人間七七四年2014/03/24(月) 22:26:23.85ID:cCe+EJel
宣教師の記録では家康はたびたび「信長の義弟」と称されているが、
一体何がどうなってそう思われてしまったのか……
0671人間七七四年2014/03/24(月) 22:46:25.09ID:AR+vZZ6Z
清洲同盟のとき、義兄弟の契りは結んでないんだっけ?
まぁ、権現さまはあっちの気はないからそっちの兄弟ってことはないんだろうけど
0672人間七七四年2014/03/25(火) 10:30:45.54ID:BdvUWxRu
向こうじゃ舅同士はブラザーなんかね
0673人間七七四年2014/03/25(火) 21:57:36.88ID:ok9HMWmm
現代を見てみると、国も治まり土民まで安楽に暮らせるようになった。世は澆季(末世)に及んでも、
君が人徳を施されたことにより、仏法王法ともに繁盛した。誠にありがたい御時代である。

そもそも日本五畿七道は人皇三十二代用明天皇の御代に定まり、六十六ヶ国に分けられたのは、
四十二代文武天皇の御代であった。そして道を、四十五代聖武天皇の御代に、行基菩薩が6町1里として
王城より陸奥の東浜に至って、三千五百八十七里と極め、また長門西浜に至って千五百七十八里と詳しく
図書に記されたが、今ではその境も定かならぬ物となっていた。

そのため当君(徳川家康)の御時代に、一里塚を作るべきだと仰せ出られた。
されば、日本橋は慶長8年(1603)の江戸町割の時に新設された橋である。この橋の名は、誰か特定の人間が
名付けたわけではなく、天より降ってきたのか地より湧いて出たのか、諸人が自然と、同じように日本橋と
呼ぶようになった。これは稀代の不思議とされたものである。

ところで武蔵国はおおよそ日本の東西の中間に当たる国であるので、江戸の日本橋を一里塚の始点と定め、
三十六町を道一里として、ここから東の果て、西の果てまで五畿七道を残ること無く一里塚を設置させられた。

日本は年久しく治まることがなく、諸国は乱れ、辺土遠境への交通が難しくなっていた所を、道路の
曲がったところは見計らって直につなげ、道幅を広げ、牛馬の蹄を労させないよう石を除き、大道の両側には
松や杉を植え、小川には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間の国内往来の需要に備えられた。
これは慶長9年の事である。

この事に萬人喜悦の思いを致し、万歳を願いあった。このように有難い将軍国王の深恩に、末代まで
これを仰がないでいられようか。
(慶長見聞集)

慶長見聞集より、江戸幕府の、日本橋や一里塚、天下道普請に関しての記事である。
0674人間七七四年2014/03/25(火) 22:57:25.10ID:TZsmQyDT
現代も、国も治まり土民まで安楽に暮らせる誠にありがたい御時代だね
0675人間七七四年2014/03/25(火) 23:08:15.50ID:EpKdq+8j
>武蔵国はおおよそ日本の東西の中間に当たる国であるので

ねーよ
0676人間七七四年2014/03/26(水) 09:34:12.06ID:DCoh3sBt
昔の人間は本州が東西に延びてると考えてたんですよ
0677人間七七四年2014/03/26(水) 10:13:51.08ID:TG0rD5/3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KangnidoMap.jpg
15世紀の混一疆理歴代国都之図
うん、東西の中間だな
0678人間七七四年2014/03/26(水) 18:39:11.46ID:8AIZ5yGq
徳川家光が品川御殿へ御成りになり、柳生但馬守(宗矩)が御供して剣術を上覧した。
御側の面々は何れの人も試合を行い、家光はとても上機嫌だった。

その時、家光は御馬方の諏訪部文九郎を呼んで御側の人々と試合するように命じた。
すると文九郎は「馬上での試合ならば負けない」と独り言を言ったので、家光は
これを聞いて「ならば彼の望み通り馬上の試合がしかるべし」と言った。

それから馬上の試合が始まり互いに馬に乗って術を尽くした。
文九郎は流石馬の達人の程はあって、一太刀も打たれないのみならず、
すれ違う時に名乗り掛けて相手を打った。

家光は感心して「文九郎は馬上達者だから側の者には一人も勝者がいない。
この上は但馬守が出て試合せよ」と言った。但馬守は「畏まり候」と馬上で立ち合い、

二人は両方から乗り出した。二人の距離が三間程になった時、但馬守は馬を止めて
文九郎が乗って来る馬の面に一打を打った。これに馬が驚いて背いたところを但馬守は
馬を寄せて文九郎をはたと打った。家光はこれを見て「誠に名人の所作。
時に臨んでの働き実に妙である」と、はなはだ感心した。

但馬守は馬術では文九郎に及ばないことを察しての業であった。
臨機応変とはこの類のことである。

この時、但馬守の子飛騨守(宗冬)も御供して父と試合したが一度も勝てなかった。飛騨守は、
「寸の延びた太刀ならば勝てる」と言ったので、家光は「ならば大太刀で試合せよ」と命じた。

飛騨守は寸延びの大太刀を持って父子が立ち合ったところ、但馬守が、
「倅推参なり(倅よ、出過ぎた振る舞いだぞ)」と言いながら、ただ一打を打って静まり、
飛騨守はしばらく気絶していた。

結局は寸の延びた太刀ならば勝てるなどということは、柳生家に生まれた者の本意ではない
ということで強く打ったのだということだ。剣術の試合はたとえ御慰みであるとしても、
たとえ試合をする者は父子兄弟であるとしても、覚悟するべきことである。

――『明良洪範』
0679人間七七四年2014/03/27(木) 09:08:50.53ID:Lsch2pLG
あんたの育て方がわるいんじゃ
0680人間七七四年2014/03/28(金) 18:55:06.66ID:aeU6Q7LZ
これはいい話なんだろうか・・・
0681人間七七四年2014/03/28(金) 21:09:29.90ID:lNP5DXHi
新潟県新発田市で伝わる話しです。
高橋掃部介(池端鴨之助)の事

高橋掃部介は池の端城400貫の知行を領していました。
新発田勢の先方として各地の戦いで勇敢に働きました。
新発田重家の乱にて放生川合戦の前に小坂に陣を布いた景勝は新発田城と池の端城の連絡遮断を狙い竹の花を攻めてきました。
高橋掃部はこれと戦いましたが左乳の下に傷を負い新発田城への退去に遅れてしまいました。
やがて新発田城にこのことが聞こえ父の身を案じた14になる倅が猿橋口に迎えに出ると親の掃部介が太刀を杖につき一人帰ってきました。
親子は手を取り合い喜びあいました

その時掃部介が申すに
掃『この深傷じゃ本城つくまえに俺死んじゃうと思う。今から言うことよくきくんだよ?(・ω+)』
倅『(`・ω・;)ゴクリ』

掃『お前は明日から一族郎党を扶持して一旦軍を解散させなさい。
また、母ちゃんと10才の妹は池の端に立ち帰らせなさい。
来年景勝がまた来て新発田城が落ちるようなら中間の一人や二人つけ中条越前のもとに母妹の二人を落し、お前は重家殿の死後までお供しなさい。
池の端城は明年焼いちゃえ。あ、それからお前の太刀小さいから取り替えてやる。ちょっとまってろ…』

しかし城に入り間もなく傷が重く掃部介は息を引き取りました。
つづく
0682人間七七四年2014/03/28(金) 21:29:59.31ID:lNP5DXHi
つづき

掃部介は息を引き取りましたが宝刀は倅にしっかりと渡されました。
倅はそれから親の名を襲名し掃部介と名乗り翌年の新発田城籠城に際し、15歳にして兜首1つ母袋武者2騎を討ち取る手柄を挙げました。
その内三人目の母袋武者は先年の戦いで父に槍をつけた男で、因縁とは不思議であると人々は申したといいます。

しかし天正15年10月28日ついに新発田城は落城の朝を迎えてしまいます。
重家と別れた掃部介は太斉口にいる中条越前は叔父であれば備えも乗り切れると思い、また搦め手で討ち死にしようものなら末代までの恥と思い、堂々と表門から出ました。
寄せ手や落ちのこりの者は大将首が落ちるのをみて一斉にかかってきましたが、難なく打ち払い宮内の八幡林を目指し落ちていきました。

そして池の端城に入って母と妹を中条越前のもとへ落ち延びさせ、翌29日手勢30騎あまりを率い城門よりドッと突いて出て寄せ手を蹴散らしそのまま行方不明になりました。
あとで聞いた人々は天晴れ剛強の大将と褒め称えたとのこと です

つづく
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