戦国ちょっといい話39
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0482人間七七四年
2014/02/28(金) 21:32:28.38ID:hrqRFxMJ瞬間湯沸かし器には率先して首を差し出し牽制せよ
さすれば後はただのおっさんを相手するだけですむ
0483人間七七四年
2014/02/28(金) 21:55:22.16ID:sUUoIeUu0484人間七七四年
2014/02/28(金) 22:33:37.39ID:WPTBXxD90485人間七七四年
2014/03/01(土) 00:39:14.86ID:1RLiU6mu0486人間七七四年
2014/03/01(土) 01:23:32.48ID:d7dY7Lk60487人間七七四年
2014/03/01(土) 07:27:14.23ID:03j6oYZr0488人間七七四年
2014/03/01(土) 09:52:42.18ID:GFfIiZxC0489人間七七四年
2014/03/01(土) 10:11:11.86ID:eZb0HtBf0490人間七七四年
2014/03/01(土) 13:14:28.54ID:E46mrwC0長宗我部元親の土佐一国平定後、本山城の城任番として
七日詰めに行ったのだが、常に言うことには
「わしは小身なので、食糧を揃え、嶮岨(けんそ)な山坂を持ち運ぶのは
人馬の費えである。僅か七日間の逗留なれば、その間の飯は自分の家で食えば良い」
そうして七日分の飯を炊かせ、これを一度に食すと
「ああ、これで安心だ。家人共は勝手気ままにさせて良いぞ」と言い残し
馬にも乗らず立ち越えて、七日番を勤めて帰ってきた。
そうして「しばらく飯を食ってないので力が落ちたのか、草履が少し重く感じるわい」
と笑いながら人に語った。
さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい
農民は田を返す(※耕すこと)のに犁(すき)を使うことができなくなった。
仕方なく若者十人程が一つの犁に取り付き、牛に代わって田を返したが
これを見た喜兵衛、大いに笑って
「お前たち、そこをのけ。わしが引いて見せてやる」と言い
その犁を取って牛の如く往来し、田を返し始めたので
往来の男女は皆立ち留まり、呆れ果ててこれを見物した。
そこに元親が通りかかり、人が群がり集まってるのを見て
一体何事かと尋ねその理由を知ると、喜兵衛を召し出し
「士たる者が畜生の役をするとはどういうことだ。重ねてこの様な振る舞いはしてはならぬぞ」
と堅く制したので、喜兵衛は恐れ入って退去したということだ。
「土佐物語」
土佐侍の純朴でユーモラスな面が伝わってくる、ちょっといい話。
0491人間七七四年
2014/03/01(土) 13:51:53.20ID:pUH9TpJ/)、._人_人__,.イ.、._人_人_人
<´ 口蹄疫じゃ、口蹄疫の仕業じゃ! >
⌒ v'⌒ヽr -、_ ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: < _,ノ`' 、ヽ、_ ノ ;;;ヽ //
///// /:::: (y○')`ヽ) ( ´(y○') ;;| /
// //,|::: ( ( / ヽ) )+ ;| /
/ // |::: + ) )|~ ̄ ̄~.|( ( ;;;|// ////
/// :|:: ( (||||! i: |||! !| |) ) ;;;|// ///
////|:::: + U | |||| !! !!||| :U ;;; ;;;| ///
////|::::: | |!!||l ll|| !! !!| | ;;;;;;| ////
// / ヽ::::: | ! || | ||!!| ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: : | `ー----−' |__////
0492人間七七四年
2014/03/01(土) 15:20:56.43ID:lwFTNeiw0493人間七七四年
2014/03/01(土) 17:20:59.48ID:7GCf6foH「これまで諸将は敵城の様子を探らせようと忍びの者を遣わしたが、
敵城の守衛は堅固で忍びの者が城中へ忍び入ることができない。
御身らは忍び入って、様子を見届けて来てくれ」と言った。
甲賀の者たちはかねがね内々の願いの筋でもあれば功を立てようと思っており、
「畏まり候」と速やかに承知し、仲間の中から菅川七郎兵衛、望月与左衛門、
夏目角助、吉田五兵衛、鳥飼勘右衛門ら五人の者が暗夜に紛れて
塀下までは忍び寄ったものの守衛は堅く、城中へいまだ入らずに見合わせて
いたところ、城中より猿火を渡して塀下廻りを調べたので、その火を引き入れる時に、
引き続いて菅川と望月の両人が城中へ紛れ入った。あとの三人の者は入り遅れて
塀下で躊躇していた。
さて、忍び入った両人のうち望月は塀を越えて城内へ入ったところ、
塀裏の落とし穴へ落ちた。菅川は引き上げようとするが、穴が深いので上げられない。
とやかくする間に城兵たちは気付いたのか、「寄手が忍び入ったぞ、討ち取れ!」と
立ち騒いだけれども暗夜なので見分けがつかず、その間に菅川はどうにか望月を引き上げ、
闇夜に紛れて城内のあちらこちらを忍び廻り様子を見届け、やがて塀を越して
城外へ飛び出た。この両人は甲賀忍び組の中でも取り分けて忍びの名人であるとか
いうことだ。
――『明良洪範』
0494人間七七四年
2014/03/01(土) 19:05:08.26ID:Us+HUH3X0495人間七七四年
2014/03/01(土) 19:05:10.23ID:cxkJyzHN0496人間七七四年
2014/03/02(日) 01:27:11.82ID:CxSCJIi/永禄6(1563)年、最上義守は18歳になる息子の義光を連れて京に上り、将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。
「6月14日、久しぶりに将軍(足利義輝公)の屋敷に伺ったら、丁度出羽の御所(屋形号)の山形殿父子(最上義守と義光)が来ておられた。
父子は将軍に馬と太刀を献上して、義光に頂いた義の文字や、常日頃からの感謝と御礼を申されていた。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、私もそこに顔を出させてもらった。将軍から下された杯を、二人は「かたじけないことです」と言って頂戴した。私も深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」
「山科言継卿記」
公家の日記に書き残された、最上父子の京都旅行の一幕
0497人間七七四年
2014/03/02(日) 01:59:44.64ID:CxSCJIi/0498人間七七四年
2014/03/02(日) 04:08:18.84ID:CxSCJIi/いつから仲が悪くなったのやら
0499人間七七四年
2014/03/02(日) 10:26:37.23ID:UTJyG6Sf0500人間七七四年
2014/03/02(日) 10:31:18.63ID:nv323lgY0501人間七七四年
2014/03/02(日) 10:38:44.71ID:aZwEZyei0502人間七七四年
2014/03/02(日) 10:46:17.46ID:tMbAxVxs義守の「義」はどっから?
代々拝領してきたから、ほとんど通字になってたとしたら、
あんまりありがたみがないような
0503人間七七四年
2014/03/02(日) 11:16:21.39ID:uiUgpBUc0504人間七七四年
2014/03/02(日) 17:07:00.44ID:1KnOREGZ0505人間七七四年
2014/03/02(日) 19:58:02.71ID:CxSCJIi/息子の義光は元服しての父のお供だったから状況証拠で
(義光に頂いた義の文字や、以下略…社交辞令の挨拶など カッコカリ)常日頃からの感謝と御礼を申されていた。
でOK?
あくまで()で
0506人間七七四年
2014/03/02(日) 22:06:20.55ID:NlEk3RxH0507人間七七四年
2014/03/02(日) 22:57:59.42ID:NLaQcctt0508人間七七四年
2014/03/03(月) 00:41:48.03ID:FyC8JvMy0509人間七七四年
2014/03/03(月) 09:31:13.77ID:pplLvV05しかも、高い方じゃん
0511人間七七四年
2014/03/03(月) 13:22:11.58ID:RwypAZiN伊達輝宗「ちょwww」
0512人間七七四年
2014/03/03(月) 13:29:38.86ID:RwypAZiN地方の有力豪族や名族であって幕府から認められた者の条件の他に
「義」の字…金100両
「輝」の字…金30〜50両
でしたっけ?
史料元ご存じの方いらっしゃいます?
0513人間七七四年
2014/03/03(月) 14:17:00.42ID:Z4nVCXkO0514人間七七四年
2014/03/03(月) 14:31:18.95ID:wBN78BnR0515人間七七四年
2014/03/03(月) 14:41:45.61ID:eL9tIS290516人間七七四年
2014/03/03(月) 15:38:00.43ID:/Kimv4y40517人間七七四年
2014/03/03(月) 15:43:50.96ID:RwypAZiN義秋時代
一色秋孝(一色四郎、御部屋衆の一人、のち重ねて「昭」の字を与えられて昭孝に改名)
大崎義隆
島津義弘
畠山秋高(のち重ねて「昭」の字を与えられて昭高に改名)ほか
義昭時代
石川昭光
飯尾昭連(奉公衆の一人)
大友義統
二本松義継
細川昭経(細川輝経の子)
朽木昭貞(三淵秋豪の実弟)
山名義親(山名祐豊の嫡男)
真木島昭光(近臣)
最上義康ほか
※義・秋・昭からそれぞれ適当にチョイス
足利義晴・義輝の偏諱の方もかなり多い
0518人間七七四年
2014/03/03(月) 15:46:28.77ID:RwypAZiN「輝」並の金銭は稼げたのだろうか?
0521人間七七四年
2014/03/04(火) 19:21:13.62ID:GnGhmTSc全国に「政」「宗」の偏諱が拡がってたわけか
0522人間七七四年
2014/03/05(水) 12:49:56.28ID:/+e5qil0天武天皇のお后さまの病を癒したと伝わり、白河天皇に保護されたため、永勝寺は日本三薬師の一つと呼ばれるほどに繁盛した。
戦国時代、豊後の大友宗麟が筑後に乱入した時の兵火で永勝寺は焼けてしまったが、不思議なことに薬師如来は無傷で山陰に隠れていたという。
「薬師如来が自ら歩いて火難を避けたのだ」
と村人は仏力に感じ入り、仏堂を再建した。
何年かの後、久留米を領した毛利秀包は無道であったため、領内の寺社仏閣を壊し、放火した。
永勝寺も焼けてしまったが、またしても薬師如来は山陰に隠れ無事であった。
これを見た村人たちは不思議な仏力に感じ入り、毛利秀包の目を逃れるために、山中の洞穴に薬師如来をかくまった。
その後に田中吉政がこの地を領した。
すると毎晩、山が五色に光るので吉政の家来が調査すると、この薬師如来が見つかった。
その家来が村人から話を聞き、吉政に報告すると、吉政は
「勿体無いことである」
と言い、堂の再建を許可した。
永勝寺は廃寺になったこともあったが再建され、今も薬師如来を御本尊としている。
0523人間七七四年
2014/03/05(水) 13:21:59.60ID:qe3dCNG+西方極楽浄土と東方浄瑠璃界をそれぞれ受けもっているわけだ
0524人間七七四年
2014/03/05(水) 13:22:24.49ID:5s7Zj3cG0525人間七七四年
2014/03/05(水) 14:34:49.62ID:+DgisHE0山形大は山寺立石寺域内の最上義光(1546〜1614年)の霊屋が江戸時代前期、1620年頃以降の建築物である可能性が濃厚と発表。
これは言い伝えにある「山野辺義忠が山寺の霊屋を建立した」といったものに時期的に符合する。
義光の霊屋は1623年に死去した米沢の上杉景勝をまつる上杉家廟所と並び、県内で最も古い時期の霊屋とみられる。
山形大によると、地域教育文化学部の永井康雄教授(建築史)が昨年11月、地元郷土史研究会などの依頼で調査を開始。住職の了解を得て、霊屋と、位牌などを安置する内部の厨子の柱、壁、扉などの建築部材からサンプルを採取した。
山形大総合研究所の高感度加速器質量分析センターで、残存炭素量から年代測定した結果、
(つづく)
0526人間七七四年
2014/03/05(水) 14:41:23.81ID:+DgisHE0厨子の建築時期が1607〜23年頃、霊屋の方はやや遅い1620〜51年頃と判明。
(最上義光の死は1614年、最上騒動は1622年)
厨子の装飾に桃山時代を象徴するおおらかなデザインがあり、測定結果や最上義光の死の年代とも符合する。山寺のものは義光の死後すぐに作られたとみられる。
霊屋は立石寺周辺で3、4回、移築や修繕を繰り返しており、最も古い部分が江戸時代前期の建築と判定。
義光の霊屋は、これまでも山寺を描いた絵図などに登場し、立石寺にあることはよく知られている。だが、建築経緯や建築時期は研究者が少なく、明らかでなかった。
(つづく)
0527人間七七四年
2014/03/05(水) 14:44:48.78ID:+DgisHE0永井教授は「仙台にも伊達政宗の霊屋、瑞鳳殿があるが、空襲で焼けてしまい現存するのは再建された建物だ。建築当時の状態で残っているのは珍しく、全国的にも貴重ではないか」と語った。
※元は河北新報の記事。伝承や年代を追加及び編集。
0528人間七七四年
2014/03/05(水) 14:46:49.12ID:+DgisHE0最上義光の山寺の霊屋の建立時期が裏付けされたいい話って事で
0529人間七七四年
2014/03/05(水) 14:50:10.32ID:+DgisHE0山形・山寺、最上義光の霊屋 建築江戸前期か 山形大分析
↑最上義光の死の年代と霊屋建立主とされる山野辺義忠の生存時期を考えたら江戸前期以外になにがある−といった意味では悪い話
0530人間七七四年
2014/03/05(水) 14:56:57.49ID:+DgisHE0義光の本廟(慶長寺→光禅寺)が明治の南大火で焼けていなければ…
0531人間七七四年
2014/03/05(水) 15:36:22.25ID:xaCxh04a広島城も原爆で吹き飛んだし、各都市も空襲で大抵焼けてもうた・・・
0532人間七七四年
2014/03/05(水) 15:39:11.87ID:oIyPMcjc0533人間七七四年
2014/03/05(水) 15:59:19.57ID:VN4MSzz7まあ、応仁の乱が起きなければ歴史がどう変わったかなんて想像もつかないけど。
0534人間七七四年
2014/03/05(水) 16:18:41.20ID:jLa1623B0536人間七七四年
2014/03/05(水) 16:24:35.36ID:oIyPMcjc0537人間七七四年
2014/03/05(水) 16:25:20.00ID:+DgisHE00538人間七七四年
2014/03/05(水) 16:31:18.05ID:K65h4yHy0539人間七七四年
2014/03/05(水) 16:38:06.02ID:+DgisHE0伊達政宗「俺はまだおとなしいよ」
0540人間七七四年
2014/03/05(水) 16:39:16.32ID:oIyPMcjc0541人間七七四年
2014/03/05(水) 16:42:14.85ID:+DgisHE0文化財が残ってたらいい話だったのに
0542人間七七四年
2014/03/05(水) 17:56:33.77ID:PecF9m1i0543人間七七四年
2014/03/05(水) 17:58:57.63ID:R5Jpo6Py関東の先手ならびに軍鑑の井伊と本多たちはこれを攻め、
先手田中兵部少輔(吉政)の合渡川の先陣に織田勢は敗軍した。
池田と福島が大手と搦め手より攻めたために、ついに落城するという時、
秀信は硯を取り寄せて戦労の者へ感状を与え、それぞれに暇を遣わして
自身は高野山へ遁世した。
「この急戦中に静かに感状を書き与えるなどとは、若将ながらさすがは
右大臣信長公の御嫡孫かな」と、その頃、敵方においても賞美された
ということだ。
その時、秀信は少々の御供とともに敵数万の中を参然として通った。
その折に生け捕るべきだと相談したところ、福島正則は、
「家来に暇をやるのは命を助けたいと思ってのことだ。こうして僅かに
十人ほどの小姓者ばかりを連れて、この大事の中を落ちて行くのを
生け捕ったからといって功にもならない。かえって非義無道である。
士の情はこのような時にこそあるのだ」と言って、制止した。
――『明良洪範』
0544人間七七四年
2014/03/05(水) 18:01:12.58ID:1g42XEis中世の話に、所領権利関係の大切な書類が紛失しないように寺に預けたら、その寺が戦乱に巻き込まれて
寺ごと燃えた、という悲惨な例も
0545人間七七四年
2014/03/05(水) 18:13:09.08ID:jLa1623B0546人間七七四年
2014/03/05(水) 18:51:05.64ID:nGuJho9e0547人間七七四年
2014/03/05(水) 22:59:24.27ID:bX2q3DZ50548人間七七四年
2014/03/06(木) 15:17:17.08ID:LcMxfBHr毛利秀包が久留米に入ったころ、領内の高良山には大きな宗教勢力があった。
高良山は座主の麟圭を中心に、秀包に敵対的な行為を繰り返したため、ついには合戦となった。
しかし高良山は要害だし、僧兵も満ち満ちている。しかも座主の麟圭は若いころに久留米城主をしていたこともあり、地の利を知り尽くしている難敵だった。
秀包は勝ちを収めることができず、遂には秀包から和議を申し入れることになったが、これは罠だった。
秀包は、座主の麟圭と息子の良巴を和議の宴の席で謀殺することにしたのである。
宴の最中に麟圭と良巴は殺気を感じ、脱出するも追っ手に惨殺された。
所の人々はこれを悼み、討ち取られた麟圭主従八人を弔うために墓を建て供養した。
これを八ツ墓という。
しかし麟圭の霊は慰められなかったらしく、幽霊になった怪談がある。
八ツ墓は久留米駅の側にあったが、昭和のころ医王寺というお寺に移転した。
0549人間七七四年
2014/03/06(木) 17:30:22.35ID:ut4gekwu0550人間七七四年
2014/03/06(木) 17:32:52.62ID:95x29Z4S0551人間七七四年
2014/03/06(木) 17:53:18.88ID:Aqlq0mLu0552人間七七四年
2014/03/06(木) 18:11:02.29ID:tE/xc2/c0553人間七七四年
2014/03/07(金) 01:34:48.79ID:PpZAWpP40554人間七七四年
2014/03/07(金) 01:44:16.33ID:A0TphRWE0555人間七七四年
2014/03/07(金) 09:44:23.06ID:FhnW4AgG548の麟圭はどうも成仏できなかったらしい。
とある侍の女房が留守番をしていると、夜中に訪ねてくるものがあった。
女房が戸を開けると、そこには
立派な袈裟を着た、血まみれの坊さんがいた
坊さんは
「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので
戸を閉めて無視した。
すると、いつの間にか坊さんの姿は無くなったが、墓地から鬼火が出るようになった。
女房は帰ってきた主人にこの話を伝えると
「和尚さんに相談してみよう」
となった。
和尚さんは話を聞くと
「それは毛利秀包にだまし討ちされた麟圭だろう。」
と麟圭の墓に行き、ねんごろに経を読んだ。
すると鬼火は出なくなったという。
0556人間七七四年
2014/03/07(金) 11:34:27.38ID:Zj3W59Uv女房つよいな
0557人間七七四年
2014/03/07(金) 20:19:13.83ID:CDHEUHJN「ただ今、亡くなりました」
と家の者が答えた。
和尚は、
「すぐに亡くなる状態ではなかったと思うが、養生に問題があったのではなかろうか。
残念なことです」
と言葉をかけた。
すると障子越しに会話を聞いていた医者が怒り心頭の様子で飛び出して、
「養生に問題があり亡くなったとの言葉確かに聞きましたぞ。
たしかにわたしなどは下手な医者ですからそうなのかもしれません。
ところで、出家には法力があると聞いておりますが、
ひとつ和尚の法力でこの死人を甦らせてみせてください。
法力の効果があらわれないのであれば、仏法などは役に立たぬものでしょう」
と仏法をあざけるように言った。
和尚は迷惑な言い分だと思ったが、仏法を謗られては我が身一人のことではすまぬと思い、
「それでは祈って生き返らせて御覧に入れよう。
準備をするので、しばらくお待ちを」
と言い残して寺へ帰り、また戻り来て、死人の横で坐禅を組んだ。
しばらくすると、死人が息を吹き返すようになり、生き返った。
その後、半年ほど生きたそうである。
この話は湛然和尚が直にお聞きになったことで、間違いない。
さて、その死人を生き返らせる法力について大融和尚は、
「死人を生き返らせるなどは我々の宗派では行わないことなので、
祈り方に儀式になにも知らなかったのだが、
ただ一心に仏法のためにと、寺へ帰り、供養として納められた短刀を研ぎ上げ、
それを懷に入れて、もしこの世に法力などというものがあるならば、
いまここで、ただちによみがえられよと、ひたすら念じたのだ。
もし生き返らなければ、腹をかき破って死人とともに旅立ってしまおうと覚悟を決めたまでよ」
と語ったそうである 【葉隠】
理不尽、非合理と評されることのある葉隠ですが、この話は本当に登場人物全員むちゃくちゃ(笑)
0558人間七七四年
2014/03/07(金) 21:06:06.30ID:NR7+un7G0560人間七七四年
2014/03/07(金) 22:34:54.07ID:A+OqaWOT>坊さんは 「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
>と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので戸を閉めて無視した。
なんという冷静な対応w
0561人間七七四年
2014/03/07(金) 22:38:12.91ID:HGwOwZIU幽霊の癖にボケたのか
0562人間七七四年
2014/03/07(金) 22:40:43.56ID:sOzeb44I一休み、一休み
0563人間七七四年
2014/03/08(土) 06:33:58.46ID:HWfbcSplもうどうにでもなれーという気持ちが奇跡を産んだのか、
ただ医者がへっぽこすぎた結果なのかもうわけがわからん
0564人間七七四年
2014/03/08(土) 10:14:55.92ID:VHgKencFそのための通夜だとかって聞いたな
0565人間七七四年
2014/03/08(土) 10:18:59.46ID:exdl8bBF最近は医師が最終確認するまでは心配停止と表現するようになったよね
0566人間七七四年
2014/03/08(土) 10:25:28.09ID:Aq1T/Ovh0567人間七七四年
2014/03/08(土) 15:28:55.99ID:vnHElv4O0568人間七七四年
2014/03/08(土) 16:12:26.40ID:azbI1sEkなんていう警察無線思い出した
0569人間七七四年
2014/03/08(土) 17:07:17.50ID:K48X/a48まさか現代人が腹切りして介錯成功したわけだから。
このスレでは切腹介錯の逸話は見慣れてるんだが、
う〜ん、時代が近いからなのか生々しい
0570人間七七四年
2014/03/08(土) 17:23:10.50ID:kNInOyCHだからたぶん死んでいる、って意味で「首と胴体の距離、約1メートル」って入れたんだと思う
0571人間七七四年
2014/03/08(土) 17:35:40.54ID:vnHElv4O0572人間七七四年
2014/03/08(土) 17:36:17.27ID:K48X/a48まあそれでも驚いただろうな
主張を聞いてる自衛隊員たちはその後、腹切るとは思ってなさそうな雰囲気
映像見る限りだと、聞いてる隊員、罵倒する隊員、止めろと制止する隊員がいる
0573人間七七四年
2014/03/08(土) 17:51:52.60ID:VHgKencF公儀介錯人なんて役職つくちゃった作品もありましたな
0574人間七七四年
2014/03/08(土) 20:02:22.53ID:Ev4rxz7M刃が奥歯に当たって止まってしまったそうですねガクブル
0575人間七七四年
2014/03/08(土) 20:47:23.95ID:gFMN8LTe想像したくないのにしてもうた・・・
0576人間七七四年
2014/03/08(土) 21:52:00.85ID:waEV2N1M新撰組でそんな話があったな
介錯に失敗した谷三十郎の逸話
0577人間七七四年
2014/03/08(土) 22:33:14.50ID:epc325by0578人間七七四年
2014/03/09(日) 01:21:32.18ID:7sBTc9zI誰はそこで討死した、誰はそこで首を取った、
あるいは負けるだの勝つだのなどとばかりのことである。これは悪しき聞き様だ。
その戦いはどうして負けた、どうして勝ったというように、
その勝ち負けの理由を尋ね聞くのをこそ、武辺物語と申す」と云々。
――『武功雑記』
0579人間七七四年
2014/03/09(日) 02:44:50.88ID:Ev17vN9S山寺立石寺に室町時代の古い文書が残る
最上義光(´・ω・`)「本願を叶えてくれたら山寺を大切に扱います。喜捨をし、重ねて丁重に扱う事も誓います」
本願とは最上義守から無事に家督を相続する事を指していると言われる
神様仏様に頼み事をするには祈るだけではなく
ギブ アンド テイク も交渉術の内といった、神仏に対しても一種の契約を行った鮭様の話
0580人間七七四年
2014/03/09(日) 02:52:14.28ID:Ev17vN9Sやれば報われるって何か良い表現ありましたっけ?
とらぬ狸の皮算用と真逆の意味の言葉で
0581人間七七四年
2014/03/09(日) 04:23:36.94ID:flh++7vY雨垂れ石を穿つ
0582人間七七四年
2014/03/09(日) 05:10:51.29ID:73+9rch4■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています