石田治部少輔(三成)、小西摂津守(行長)、安国寺恵瓊、この3人は今度の関ヶ原の大乱を起こした
張本人であったのだが、戦場にでも死なず、猶も命を逃れんとしたのか、ここかしこに隠れ居たのを、
皆搦め捕られて、先に大阪に遣わされ、諸大名登城の途中に晒された。

この時、石田治部少輔が搦め捕られているところを、諸大将は何の会釈もなく通り過ぎたが、
黒田長政ただ一人は、石田三成の傍に寄って、

「今度不慮のことが起こり、貴殿の成り行き斯くの如くとなり、無念千万な事でしょう。
去りながら武士は古よりかかるためしも多くあり、恥辱とは全く思いません。」

このように懇ろに懇ろに言ったので、治部少輔も流石その情けに感じ入ったのか

「このように成り果ててしまっては、誰かあって哀れという人も無いのに、誠に情け深く思われます。」

そう言って感涙を流した。

その後この3人は、町中を引き回し、また京都に遣わされ、十月朔日、あやしげなる荷車に乗せ、
天下の大敵であるので、先例に従って大路を渡された。京中の貴賎男女がこれを見物した。
一番は石田、二番は小西、三番は安国寺であった。そして六条河原で首を刎ねられ、
三条の橋の傍に獄門にかけられた。

(黒田家譜)

黒田家譜では、三成に声をかけたのは黒田長政一人だったということになっている、というお話。