戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0351人間七七四年
2014/02/13(木) 19:56:50.67ID:Tvnh2NTZ0352人間七七四年
2014/02/13(木) 20:04:08.47ID:2bWKOb590353人間七七四年
2014/02/13(木) 23:44:51.91ID:PTUORU8V慶長元年冬。豊臣秀吉の奥歯が、抜けた
すでに60をこえた老人であるから無理もないことだった
彼はそれを拾い上げて、しばし眺めると
「これを、左馬介(加藤嘉明)に預けておこう」
そう言い出した
『一歯一本、其方ヘ預ケ置候也 慶長元年 極月 秀吉
加藤左馬介とのへ』
そんな手紙と共に、豪華なケースに入れられた歯が京都・豊国神社の宝物殿にありましたとさ
秀吉は嘉明のことを結構気にかけていたのかもしれないと感じたわ
0354人間七七四年
2014/02/13(木) 23:53:05.86ID:CUk0U8Ep0355人間七七四年
2014/02/14(金) 00:02:47.44ID:mhY8AtC70356人間七七四年
2014/02/14(金) 01:37:30.09ID:AcbzGhjf0357人間七七四年
2014/02/14(金) 07:54:24.52ID:+JHJY72M矢沢永吉の奥歯だって価値が出るやもしれん
0358人間七七四年
2014/02/14(金) 08:01:12.67ID://AIZCJn…いい話なのか…
いい話…
いいはなし…
いい歯なし…
(゜m゜;)!
良い歯無しなのかっ!!
0360人間七七四年
2014/02/14(金) 08:49:03.93ID:M2m21C9Gとか秀家は?長束正家は?とかならないか
0362人間七七四年
2014/02/14(金) 14:14:57.25ID:0dMqAAbc0363人間七七四年
2014/02/14(金) 21:01:16.03ID:XBJy8bnzよく聞くけど?
逆に小西が首謀者とは全く聞いたことない。
小西は成り行きで西軍に組み込まれたタイプのはず。
0364人間七七四年
2014/02/14(金) 21:06:30.66ID:7BjaOQEG西の丸に移り、諸方に内通を勧める回状に判形し、あまつさえ四国へ派兵し、その罪は莫大である。
しかしながら一族の吉川広家が、東軍に志を通じたその功績により、輝元は死罪・流刑を相赦し、
広家には中国地方のうち1,2ヶ国を与えるべきである、と議定した。
これにより広家を兵部少輔(井伊直政)宅に召し寄せ、『広家の今度の忠義に感じ入った故に、
中国の押さえとして周防長門の両国を与える』という徳川家康の内意を伝え、毛利家よりの人質であった
粟屋十郎兵衛も差し返した。
しかしこれを聞いた吉川広家は
「思いもよらない、身に余る有難き仰せではありますが、もとより今回のことは、自分の身上を考えて
行ったのではありません。あくまで本家である毛利輝元の家を御立て下さるようにと存じ、先にも私は、
私に対しての報奨はお断り申し上げました。
今度のことは、決して輝元の心底より出たものではなく、ひとえに安国寺が策略をめぐらし、
奉行衆の言うに任せて、秀頼様のご命令であると信じてしまったために、是非に及ばず
ああなったのです。輝元に思慮がないことは、内府様も良くご存知のことです。
勿論、輝元のこれまでの分国を相違無きように、などということは申し上げるべきもない話ですが、
私に拝領される予定の国を、輝元に下されますように、どうか取り持ちをお願い致します。
もしこれをお聞き届けないのであれば、私についても、輝元同様に申し付けて下さるように、
幾度でもこれを申し上げ続ける覚悟を決めました。」
この返答に、黒田長政は福島左衛門大夫(正則)、井伊兵部少輔(直政)と相談した上で、
書状を広家に送った。その詞には
『尚々、今回のことは兎にも角にも井兵少(井伊直政)、福左大(福島正則)、そして私の
3人に任せ置いて下さるようにして下さい。さらにこの他に頼るような事は、決して無いようにして下さい。
さてもさても、中国についての事は、今日明日にも決定されます。あなたのご分別次第なのです。
井兵少に仰せになったあなたの御覚悟は、とても不可能なことだと思いますが、必ず、私と福左大が
家康公にお目にかかり、あなたの心底を残らず申し上げます。
しかし、中国の内、せめてあなただけでも大名として残ることは、家祖である毛利元就公に対し
報告するのにこれに過ぎた事は無いでしょう。中納言殿(輝元)と同じ処分を望まれるというのは、
一応二応まではご尤もにも思います。ですがそれで、あなたご自身も滅ぼしてしまえば、元就公に
どのように報告されるのでしょうか?どうか、分別のない考えはしないで下さい。
10月7日 長政 判
吉殿様参 』
しかし広家はこれでも承知せず、返書に、長政および福島正則に宛てて、起請文を付けて、心底の趣きは
変わらないということを申し越した。この事はついに家康の聞き及ぶこととなり、広家の誠実さを、
律儀至極であると感じ入り、「輝元の今回の罪は莫大であるが、安国寺の策略によってああなったというのは
紛れも無いと、輝元も誓紙を以って釈明したのであるから、この上は広家に与えるはずだった防長二国を
輝元親子に仰せ付ける」と決まった。
(黒田家譜)
毛利家が防長二州を安堵されるまでの顛末である。
0366人間七七四年
2014/02/14(金) 22:23:17.97ID:Nf6SSgKt家康と広家で一芝居うったって事にしてたな
0367人間七七四年
2014/02/14(金) 23:00:20.60ID:DrzEoWWRひとりは柳生流の高弟、紀伊家の木村助九郎、もうひとりは元茂さまであった。
どちらかに決めようとお考えになられ、
二人に剣法の極意を書いて差し出すようお命じになられた。
助九郎は奉書三枚に剣法の理を細かく説明書きしたものを差し出した。
元茂さまは、
「善いと思うのは悪い、悪いと思うのも悪い。
善悪ともに悪い。
無心となり雑念ないのが善い」
とだけ書いて差し出した。
それを家光公はたいそう感心なさり、元茂さまを師匠としてお稽古を始める予定であったが、
元茂さまが亡くなられたので、残念ながら実現することはなかった【葉隠】
0368人間七七四年
2014/02/15(土) 02:06:55.83ID:cqitO8670369人間七七四年
2014/02/15(土) 06:22:10.22ID:DuOpY85Q0371人間七七四年
2014/02/15(土) 12:10:02.55ID:sTbst9olいきなり「考えるな 感じろ」とかだけ教えられても困るじゃん?
0372人間七七四年
2014/02/15(土) 13:49:29.69ID:1/VgzNA7順路は自ら捜し給へ
0374人間七七四年
2014/02/15(土) 14:50:06.63ID:+Rpl3N9D0376人間七七四年
2014/02/15(土) 16:51:45.72ID:RtxR2MJ4家康公仰せられるは「輝元は愚かなりといえども、頼もしき人なり。石田が秀頼のためなりと称して、誑かしたるを誠と思い、
悪逆に与して家を破ること、余人にはちがひ、私の心はなし」とぞのたまいける。
(家康公が仰るには「輝元は愚かであるが、頼もしい人でもある。石田三成が秀頼のためだと称して騙したのを本当だと思い、
今回の悪逆に与して自らの家に被害を与えたが、他の者達とは違い、私心からの事ではないのだ」と言われた)
0378人間七七四年
2014/02/15(土) 17:56:15.49ID:m7sX+s0bいや、吉継は関ヶ原で戦死しとる
>>351のレスは>>350の黒田家譜の記述に
『石田、小西、安国寺は関ヶ原の大乱をおこした張本人なので』と書いてあることに対する揶揄だろう
0380人間七七四年
2014/02/15(土) 22:16:15.74ID:ms9BPVi/0381人間七七四年
2014/02/15(土) 23:58:57.11ID:m7sX+s0b0382人間七七四年
2014/02/16(日) 00:43:15.54ID:EFOL4QZL0383人間七七四年
2014/02/16(日) 00:44:28.08ID:D/Lsw+o+「仮初にも、能などは気安いものではない。太夫が翁をかけ、全ての役者が烏帽子を着るなど、
ただ常のことではない。第一能というものは、我が身の祈祷であるのだから、身を清め行儀よくして
座敷においては大声も出さないように、三番四番までは能くじっとして見物をしなさい。
しかしその後は気が退屈しないように、能の間々に休息しつつ、見物をせよ。見る分には面白いのだから、
身体もくたびれないものだ。能が終わったら今度はどんな話題でもいいので皆で集まって一笑いして、
またくたびれを忘れるようにせよ。
だいたい見物というものは、何であってもそうだが、その時のくたびれを直さないから、重ねて
見物に行くのを好まなくなるのだ。それは心持ちが下手な故なのだよ。」
そう仰られたのである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、何かを鑑賞する時の心持ちについての話である。
まあつまり一定のマナーは守って、あとは気楽に、無駄に疲れないようにして楽しめよ、ということですね。
0384人間七七四年
2014/02/16(日) 01:14:29.72ID:JYim7sGM0385人間七七四年
2014/02/16(日) 09:12:34.29ID:TGT/Nq0I0386人間七七四年
2014/02/16(日) 10:16:00.53ID:EFOL4QZL0387人間七七四年
2014/02/16(日) 16:31:48.39ID:L5CwiN+g関ヶ原の戦い当日も、八十島は三成本陣に居たのだが、
東軍勢がいよいよ迫り来るまさにその時、なにを思ったか、ただ一騎駆け出していった。
「なんだなんだ?」と皆が見守る中、
八十島はそのまま両鐙で馬の腹を思いっきり打ち、さらに速度を上げると
あっという間に何処ともなく逃亡してしまった。
おそらく呆気にとられていたであろう石田本陣。
そんな中、ある三成近臣が、古歌を引いてこう詠じてみせた。
「関が原 八十島かけて にげ出ぬと 人にはつげよ あまりにくさに」
この歌に、三成も家臣達も皆々大笑いした、ということである。
(関原軍記大成)
誰がうまい歌詠めと。ってことで、いい話にいれとく
0388人間七七四年
2014/02/16(日) 18:19:28.91ID:VGZzl4fM馬上から伝令したとか?そんな話聞いたことあるけど
とんずらしたのはその後かな?
0389人間七七四年
2014/02/16(日) 18:34:49.33ID:9lC7bs1m誰か解説してエロい人
0390人間七七四年
2014/02/16(日) 18:39:44.54ID:3CY9DrX5http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/72/19/tefu_tefutefu/folder/1297533/img_1297533_31615652_0
0391人間七七四年
2014/02/16(日) 19:07:31.73ID:9lC7bs1m0392人間七七四年
2014/02/16(日) 22:16:21.44ID:f6D5EAro0393人間七七四年
2014/02/16(日) 23:47:28.69ID:JYim7sGM0394人間七七四年
2014/02/18(火) 12:40:08.11ID:DoakL7WC笠を付けることを許されていた。
御旅行中でも御国中であっても
「町に入るときは笠を脱ぐようにするのだ、しかし道中においては苦しからず。
町々には諸国の者がいるので、人の口を考えねばならない。しかし町を出てしまえば、
いつものように笠を着けるのだ。」
と、特に心付けをされていた。また、政宗公は日に幾度も水を飲まれたが、良き水のあるところでは
徒衆から供をしている家臣たちに
「ここには良き水があるので、皆々も飲み、下々にも飲ませ、馬の口も洗わせるようにせよ。」
と仰せ付けられ、どれほどお急ぎの道中でも、その場所で馬からしばらく降りて、下々徒の物まで
水を飲ませ息をつがせ、その上で馬に乗られた。
誠にこのようにかたじけない事ゆえに、伊達家中の者達は手足を軽々と下々に至るまで勇み、
御供を仕ったのである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、供の者たちへの気遣い、というお話。
0396人間七七四年
2014/02/18(火) 22:54:47.13ID:2vjxxELn0397人間七七四年
2014/02/18(火) 23:38:52.48ID:MB1uegMq0398人間七七四年
2014/02/18(火) 23:48:50.23ID:6D+aR1/t0399人間七七四年
2014/02/18(火) 23:53:18.81ID:UbZNyEn50400人間七七四年
2014/02/19(水) 00:48:33.25ID:57MX0Bveでたまにそのきさくさが暴走してとんでもないことにw
0401人間七七四年
2014/02/19(水) 01:28:09.74ID:o9PMhOAH0402人間七七四年
2014/02/19(水) 12:49:11.70ID:EyfveLt7石垣原の戦いを直前に控えていた。
ここで如水は、士卒に言い聞かせることがあると、軍勢9千あまりを広野にみな留め置き、
そこで大声で語りかけた
「今度上方において治部少輔(石田三成)が乱を起こし、内府公(徳川家康)を敵としたという事が
聞こえてきた。
治部少輔は、天性知恵なき臆病者である!その上総大将も居ない寄り合いの軍勢であるから、
諸大将は下知を受けず、諸人一致せず、彼らは必ず敗軍するであろう!
殊に、内府公は古今無双の良将であり、その下に属する味方も、みな優れたる武将、勇士が多く、
心も一同して内府公の御下知に従うのであるから、必ず、味方の勝利疑いなきこと、この手に既に
握ったかのように思われる!
これにより、それがしは今回内府公に一味して、九州を平らげんと思う故に、先に豊後に出兵し、
かの国にある敵どもを討ち従えた後、残る国々を治めるつもりである。
豊後の城はその大半が留守であり、これを接収するのはいと容易きことである。
そんな中、大友義統がかつて本国であった豊後を賜り、こちらに下ったとの情報が聞こえてきた。
太閤殿下の時代、私は大友の取次をした関係があったので、今回治部少輔に与することをやめさせ、
降参させるため、上関まで使いを遣わしたのであるが、これに同心しなかった。まったく痴愚の至り
であり、もうどうしようもない!まず、彼を退治するための出陣する!
義統は先年、朝鮮において大明人が来るという情報を聞き、敵をも見ずに逃げ退いたような
臆病者である!それゆえに豊後国を召し上げられ、毛利に預けられ、居るのかいないのか解らないような
状態で居たが、今回豊後に下り、私に対して挙兵するとは、実に片腹痛きことである。
今回出陣する士卒たちよ、良く心得よ!義統は大臆病者である!その下にある家人どもも、類を以って
集まり、上を学ぶ下であるのだから、皆臆病者と心得よ!大友の人数が例え何万騎あったとしても、
今度の合戦は百に一つも負けることはない!相手を強敵だと思って躊躇してはならない!
よいか!わたしは九州を片端から平らげようと思っているのだ!だから、合戦は今回に限ったものではない!
鑓、薙刀、刀、脇差しの刃をたしなんで、大事の時の用にたてよ!大友の兵たちは、武器を無駄に
破損させないよう、生け捕りにするか、峰打ちにして打ち倒してやれ!
総じて鷹を使う時、それが逸物であっても、最初から鶴を取らせるようなことはしない。先ず
鷺からはじめて、その後、鶴を取れるようにしていくのだ。
それと同じことである。大友の人数は鷺だ!若き者共もよくこれを捕らえ、諸士にも手柄を
させるであろう!相手は弱敵なのだから、棒で雪を撫でるように何の造作もなく一時に打ち払うであろう。
そして、大友義統を捕虜にせよ!彼を生け捕ったものには、直参や譜代に限らない、例え下人であっても
褒美として領地千石を与える!おのおの、随分精を出して手柄をいたせ!その功により、一層の
恩賞を与えるであろう。
九州には手強い敵は居ない!豊後を打ち従えてしまえば、九州を治めること、その勢いに乗じて実に簡単に
成せるであろう。さあ、はや打ち立て!!」
これを聞いた者達は、いすれも心の勇みが強くなり、たった今からでも敵を手の中で取り拉ぐように
思ったという。
(黒田家譜)
黒田如水、石垣原の戦い直前の、出陣演説である。
0403人間七七四年
2014/02/19(水) 19:12:17.51ID:bvc/8DBl0404人間七七四年
2014/02/19(水) 20:09:33.52ID:pFw0VTHk0405人間七七四年
2014/02/19(水) 21:02:54.68ID:VIWRN4+10406人間七七四年
2014/02/19(水) 21:21:08.91ID:/rYhpsZn0407人間七七四年
2014/02/19(水) 22:10:09.50ID:UIPUBk/80408人間七七四年
2014/02/19(水) 22:41:16.18ID:jVvDkbWDつまりこの戦いは知恵と勇気で決まると。
0410人間七七四年
2014/02/20(木) 06:40:34.44ID:cbil7jZC関ヶ原が100日続けば第三勢力として挙兵し漁夫の利を得る算段だった、そう聞かされた際の長政の顔をご想像下さい
0411人間七七四年
2014/02/20(木) 06:58:18.05ID:ZWzjOELx0413人間七七四年
2014/02/20(木) 08:27:12.43ID:FHYBFlt+三成について近い時代の評価が聞けるのはありがたい。
0414人間七七四年
2014/02/20(木) 10:37:18.21ID:+JvkXSg20415人間七七四年
2014/02/20(木) 13:51:04.18ID:T5Wxlqfu文才のある人物が書いたものは真偽は別として
とにかく面白いから伝搬力がすごい。
近代なら吉川英治の三国志。
張遼の「遼来来」なんか吉川の造語なのに
21世紀のゲームやアニメでも出てくるからね。
本場中国人が遼来来ってどういう意味だ?と首をかしげてたわ。
0416人間七七四年
2014/02/20(木) 14:14:59.21ID:BmUXqrDb孫夫人の弓腰姫の方が完全なオリジナルな分影響力の指標にならないか
0417人間七七四年
2014/02/20(木) 14:37:29.89ID:7vkze9SN0418人間七七四年
2014/02/20(木) 15:53:22.89ID:UaFBONA8寿亭侯の印綬を返してきた関羽に「漢」寿亭侯の印綬にして渡したら喜んで受け取ったという話もそうらしいな
0419人間七七四年
2014/02/20(木) 16:14:51.48ID:BmUXqrDb現在普及している毛宗崗版では「漢寿亭侯」=漢寿+亭侯と正しく認識してるから省いただけ
0422人間七七四年
2014/02/21(金) 06:11:38.07ID:sezvsa4b信玄は遠州只来、飯田の両城を落とし、さらに久能城へと進んだ時、家康方の侍対象の率いる
4千あまりの兵が三ケ野付近に現れた。
信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ!」と命じた。家康方は武田軍の攻勢を見て引き上げようとしたが、
武田勢はこれを食い止めようとする。家康勢がまさに危機に陥った時、家康の侍大将、内藤三左衛門(信成)
という者が言った
「我が軍の総兵力8千のうち、ここにいるのは5千人だけで、家康公もご出陣されていない!
この状態では信玄のような名称に率いられた、3万あまりの大軍と合戦しても敗北は目に見えている。
もしここで敗れようものなら、残った家康公直属の部隊だけで、どうして信玄と戦うことが出来るだろうか!
ここのところは、なんとしても退却して浜松へ帰り、改めて一戦を遂げよう。その時には織田信長公の
加勢も期待できるだろう。8千の三河武者にそれを加えて、無二の一戦を遂げようではないか!」
しかし、そうは言っても既に戦闘は起こっており、内藤三左衛門もその場から引き上げることの出来かねる
状況であった。
その時、本多平八郎(忠勝)は25歳で、家康の下で度々巧妙をあげていたことで、おいおい武田の家にも
知られていたが、この平八郎が黒い鹿の角の前立てを飾った兜をつけて、身命を惜しまず敵と味方の
間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。
その様子は、かつての甲州の足軽大将であった、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(満頼)、そして山本勘助の5人以後は、信玄の家中でも多く見られぬ武者振りであった。
家康の小身の家には過ぎた、本多平八郎の働きである。
そのうえ、三河武者は10人の内7,8人までは唐の頭(ヤクの毛)を兜につけていた。
これも家康には過ぎたものだというので、小杉右近助という信玄の旗本の近習が、歌に作って
見付坂(静岡県磐田市)に立てた。その歌は
『家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八』
というものである。
(甲陽軍鑑)
有名な「家康に過ぎたるもの」の逸話である。
0423人間七七四年
2014/02/21(金) 10:30:04.12ID:l2Tpa5dM0424人間七七四年
2014/02/21(金) 15:04:23.94ID:VVpA5cFN壱岐島の海辺に福島左衛門大夫正則、戸田民部少補氏繁、蜂須賀阿波守家政、生駒雅楽頭近世、長宗我部宮内少補元親の五大将が集まり
対馬への渡海について詮議していた。
この時、沖の方で鳥が飛び回っているのが見えたので
正則が「昔、本間孫四郎(南北朝期の武士)は沖の鳥を敵船へ射落としたそうだ。当世ではいかがであろう?」
と言ったところ、元親が「近代は昔と違い、弓の射手は少なくなりました。
しかし鉄砲ならば昔の射手に劣らぬ者がおりましょう」と答えた。
正則これを聞き「土佐の士には鉄砲の名人ありと伝え聞いています。いずれかを召して
あの鳥を撃たせて見せてくださいませんか?」と言い出した。
元親は「家中に鉄砲を撃つ者は数多いが、飛んでいる鳥を撃てる程の者は知りません」と断ったが
正則が「いやいや、たとえ外れたとしても苦しからず、ただ慰みに撃たせてみせてください」と重ねて言うので
元親はそれならば、と足軽の俵兵衛を呼び、あの鳥を撃ち落とせる者を呼んで来いと命じた。
すると俵兵衛「わざわざ人を呼ぶまでもありません。私にお命じ下さい。
常日頃飛ぶ鳥を撃っているので、あの程度の鳥ならば必ず仕留めます」と申し上げた。
元親は打ち笑い「諸将の前を憚らぬその心意気や良し、たとえ撃ち外したとしても恥辱にはあらず。やってみろ」と
命じた。
四人の大将を始めとして、その下の諸士がみな集まり見物となったので、これ以上の晴れがましさはなかったが
元親はもし外れたのならば恥辱とはならずとも、場が白ける事は必至であると内心穏やかではなかった。
(1/2)
0425人間七七四年
2014/02/21(金) 15:05:38.15ID:VVpA5cFN沖の方の岩の上へと落ちていった。
大将を始め、皆一同に「やや!撃ち落としたぞ!」と叫び、その賞賛はしばらく鳴りやまなかった。
されば間(距離)を打たせるべしと縄を張らせたところ、おおよそ五十八間であった。
正則は感極まり、昔の那須与一にも劣るべからずとして着ていた羽織を俵兵衛に賜ったので
残り三人の大将もこれにならって羽織を下された。
元親も悦に堪えず、また諸将への返礼なればとして俵兵衛をその場で士分に取り立て
太刀一腰を与えたので、当家他家の面々でこれを羨ましく思わないものはいなかった。
「土佐物語」 (2/2)
0426人間七七四年
2014/02/21(金) 17:36:03.92ID:xCa6m9ns0427人間七七四年
2014/02/21(金) 19:12:26.24ID:n57Yst7q0428人間七七四年
2014/02/21(金) 19:37:09.59ID:3Cg7k0Cq0430人間七七四年
2014/02/22(土) 10:07:43.39ID:BHA/r5hE0431人間七七四年
2014/02/22(土) 12:17:41.69ID:ALZChEIt0432人間七七四年
2014/02/22(土) 12:20:21.36ID:1dTZhzw90433人間七七四年
2014/02/22(土) 12:52:47.65ID:xGyPtrxp九月に、母が次郎兵衛の子を連れて寺の説法を聞きに行った。
その帰り際、子が草履を取ろうとしたとき誤って横にいた男の足を踏んだ。
男は母と次郎兵衛の子を咎め立て、因縁をつけた末に脇差を抜き、子を突き殺した。
母が次郎兵衛の子を守ろうと男にしがみつくと、男は母をも突き殺し、帰って行った。
この男は、中島茂庵という浪人者の子で五郎右衛門、その弟に山伏の中蔵坊という者がいた。
茂庵は美作殿と交流があったので、息子の五郎右衛門は美作殿から知行を与えられていた。
やがて事件が次郎兵衛の家に伝わると、次郎兵衛の弟某は五郎右衛門へ仕返しに向かった。
五郎右衛門は内から戸を閉め出てくる気配がないので、訪問客のふりで柔らかい声をかけた。
すると戸が開いたので、すかさず名乗りをあげ斬り合い、ごみために落ちながら、五郎右衛門を突き殺した。
すると中蔵坊が駆け出してきて、次郎兵衛の弟某を斬り殺してしまった。
事の次第を聞いた伝湖和尚は兄の次郎兵衛のところへ行き、
「中島方は一人死んだだけなのに、こちらは女子供含む三人も斬り殺された。
無念千万この上ない。兄上、どうか中蔵坊を討ち果たしてください」
と仕返しをすすめたが、兄の次郎兵衛が首を縦にふることはなかった。
伝湖和尚は口惜しく思い、出家の身ながら母、弟、甥の敵討ちを決心した。(1/2)
0434人間七七四年
2014/02/22(土) 12:57:31.30ID:xGyPtrxpそれから一心に仏道修行に励み、やがて竜雲寺の住職にまで出世をした。
そして佐賀の境伊予掾という刀鍛治のところへ、手習の弟子に与えると言い大小を注文し、
差料としてのこしらえまでして準備をととのえた。
翌年九月二十三日、寺に客が来ていたので、馳走を出すよう言いつけると、自らは方丈から忍び出で、
俗人の身ごしらえをして、大小を差し多久へと出かけた。
中蔵坊のところへ着いてみると、月待ちの行事で大勢の人が集まっていた。
その人数では手に負えそうもなかったが、もう延引することも出来ないので、
中蔵坊の親、茂庵を討つことで本望を遂げようと思い、茂庵の家に討ち入り、
寝間へ駆け込み名乗りをあげ、相手が起き上がったところを突きに突いて突き殺した。
近所の者たちが何事かと駆けつけ囲んだので、和尚はわけを話し、大小をその場に投げ捨て帰った。
そして事が佐賀にまで伝わり、伝湖の寺の檀家どもはすぐに駆けつけ、伝湖を守り寺へと引き上げた。
事件を知った美作殿はとてもお怒りになられたが、殿が御建立なさった寺の住職にどうにも手が出せない。
そこで鍋島舎人普周を通じて、高伝寺の湛然和尚に、
「あの者は人を殺した出家だから死罪にしてほしい」
と申し入れられると、湛然和尚は、
「宗門内の処置は高伝寺のやり方で行うから、お口出しはしないでいただきたい」
と返事をした。美作殿はますますお怒りになられ、
「ならば、どんな処置をなさると言うのか、お聞かせ願いたい」
とお尋ねになると、湛然和尚は、
「お聞きになっても無益であるが、どうしてもとお尋ねになるならお聞かせします。
出家の破戒は法衣を奪い追放するのが宗門の定めである」
と返事をした。
そして、伝湖は高伝寺で法衣を脱ぎ、追放されることとなったが、
追放の日には弟子たちみなが大小を差し集まり、数十人の檀家たちも同じく集まった。
そして、みなで伝湖を守りながら、轟木まで送った。
途中、猟師風の男たちがあらわれ、
「多久から来たのか?」
と問いかけてきたが、なんの手出しも出来なかった。
伝湖はその後、筑前に住んだが、町人たちが世話をし、侍たちとも友好な関係だった。
それは敵討ちの次第が伝わっていたので、武家も町人もみな親切に伝湖を世話したのである 【葉隠】(2/2)
0435人間七七四年
2014/02/22(土) 14:46:46.21ID:QbYwAeyQ0436人間七七四年
2014/02/22(土) 14:57:17.73ID:46enqYsO0437人間七七四年
2014/02/22(土) 16:13:06.59ID:FB03ychG0438人間七七四年
2014/02/22(土) 18:57:46.65ID:9RK3raC20439人間七七四年
2014/02/22(土) 19:21:08.51ID:pZr0eyF6|(´・ω・`) これでも飲んで落ち着かれよ
|o ヾ
|―u' 旦 <コトッ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
0440人間七七四年
2014/02/22(土) 20:06:06.55ID:GO9A0zPx長宗我部元親は全羅道の担当で、西南の方へ平押しに十四、五日ほど行くと、平々たる広野に出た。
そこには村もなく里もなく、また山もなく、ただ大きな川原があった。
東西の方向も定かではない広野にたたずんでいると、どこからともなく雷のような音が鳴り響いた。
一体なんだろうと、諸人が怪しみながら川端に近づくと、音も次第に大きくなる。
元親が「誰かある、あれを見てくるのだ」と言うと、若侍二人がかしこまって駆け走り
その後に別の三人が続いていった。
驚くなかれ、そこにはふた抱えほどある大木で、枝のない松のようなものが一丈ばかり立ち上っており、見るとそれは大蛇であった。
両の耳は唐犬の如く垂れ、目は日の如く光り、口広く耳の根まで裂け、紅のような舌をひらめかせて立ち上がった。
先の二人は驚いて立ち止まり見入ると、続いた三人も同様に立ち止まってしまった。
そこに土佐国韮生の住人小松左衛門が馬で駆け寄せ、鉄砲で狙いすまして撃つと、喉笛に発止と命中した。
大蛇とてこれは急所なので、仰傾けに倒れ川に入り、身悶えしてしばらく流れていたが
ついに沈んで見えなくなり、たちまちに川は紅色に染まった。
左衛門が川端に馳せ寄せみると、大蛇が倒れた際、石か何かに当たったのであろうか
大きな鱗が落ちているのを見つけたので、元親に差し出した。
元親は「これは日本では見たことのないものである。故郷への土産にせよ」と言い
そのまま左衛門に賜わったそうである。
「土佐物語」
0441人間七七四年
2014/02/22(土) 20:45:31.03ID:f27vMd/J0442人間七七四年
2014/02/22(土) 22:39:05.06ID:QphLMAUJ0443人間七七四年
2014/02/23(日) 10:14:10.77ID:U2GCbk1u0444人間七七四年
2014/02/23(日) 10:33:22.46ID:cWrDbmU50445人間七七四年
2014/02/23(日) 12:24:31.29ID:vrRx5zHc図体でかいのに、鉄砲一発とは情けない。
0446人間七七四年
2014/02/23(日) 12:39:48.99ID:3rGzu6Jd現存してるのかな?
0447人間七七四年
2014/02/23(日) 17:46:07.12ID:9GhmNLc7「とにかく家康公へ御付きになるのが適当です」と諌めた。
安房守はこれを受けて「いやいや、家康公へ付いても、
わしほどの者はたくさんいるので、重宝に思ってはくださらないだろう。
太閤へ付いたならば、重宝に思ってくださるだろう」と言って、
最後には太閤へ属した。そうではあるが、子息伊豆守(信之)を家康へ出した。
――『武功雑記』
0448人間七七四年
2014/02/23(日) 20:56:20.44ID:vLF4YCSg長刀に金鍔を打ち、衣服等にも紅裏をつけ、その他不行跡な事があり、江戸中の上下の取りざたとなり、
お付の家老、中山備前守(信吉)が、毎回色々と異見申し上げても、それを聞くことはなかった。
ある時、幕府の老中より備前守に奉書を以って『御用の義これ有り候。明四ツ時(午前10時頃)
登城候様に』との命があったので、備前守が登城した所、老中たちは彼に
「今日そこもとを召した御用に関しては、我々も存じていません。この後、公方様(秀忠)の御前において、
直接に御用を申し付けられる、とのことです。」
これを聞くと中山は
「皆様いずれもご存じない御用のことで、私が御前に召される、と言うことは、私にも存じ当たりが
あります。これはきっと、水戸殿(頼房)の行跡についてお尋ねになるのだと、推察いたします。
つまり、有り体に申し上げれば、主人の悪事を訴えろ、ということです。
しかし、『何事も私は知りません』と申し上げる、もしくは悪しき事をも宜しきように取りなして
申し上げるというのは、御上を欺く、後ろ暗いと申すものです。
ですので、私は御前に出てしまっては、もうどうしようもありません。
私が御前に召されるという件については、登城はいたしましたが、このまま退出させていただきます。
この場合、御上の御意に違うのは私のことであり、その御機嫌を損ないお仕置きなどを仰せ付けられても、
それは覚悟しております。」
老中たちはこれを聞いて何れも留まるように説得したが、備前守は承知せず帰宅した。
帰宅の途中、中山は水戸家の上屋敷に立ち寄った。そこでは頼房も、この日備前守一人が
御用として召されたことを納得できずに居たので、御用が済んで備前守が帰ってくるのを待っていたため、
早速召し出すと、備前守は江戸城内での次第を申し上げ
「私については、公方様より、今後どんなお咎めを受けるかわかりません。わたしは切腹と
覚悟を決めております。ですが、この上ながら残念なことが3つあります。
1つは、私に才知が無いため、御前様(頼房)のご行跡を聞くたびに、それをお改めなされるように
ご異見申し上げても、これを聞き入れて頂くことが出来ませんでした。
2つ目は、御前様はご若年でありますが、この備前守を付ければ気遣いもない、とご安堵なされた
権現様のおめがねを相違いになし奉ってしまい、これは今更申し訳も出来ないことです。
3つには、とくに考えていなかったわけではないのですが、かれこれと見合わせているうちに
すっかり引き伸びにしてしまいまい、御前様の不行跡の相手をする、不届きの奴原を成敗せずに
安穏に差し置いたまま私が相果ててしまえば、いよいよその行跡に差し障るのは必定です。
たとえ、私は切腹しこの身命が終わりましても、魂はここで、殿のお側を離れません!
願わくば、ご行跡をお改に成り、御上の思し召しにも叶いあそばされるようあってほしいと、存じ奉ります。
これは、私の今生の暇乞いですので、願わくば御酒を頂戴いたしたく、これを持ってくるように
申し付けさせて下さい。小姓衆!酒と盃を!」
そう備前守が言った所、頼房は小納戸衆を呼び集め、日頃用いていた伊達な拵えの刀、脇差、衣服等
尽く取り出し持ってくるように、と命じ、備前守の見ている前で、それらを小姓衆に残らず分け下し、
その上で挿していた脇差しの鍔元を小刀で打ち、
「今後は行跡を改める!であるので、備前守も気遣いせぬように!」
と言った。
ところでこの時の、中山備前守が無断で江戸城から帰宅したことについては、その内容が
老中達から秀忠の上聞に達し、秀忠は
「備前がそのような了見であるのなら、水戸の行跡もきっと治るであろう。重畳の事だ。」
と語ったそうである。
(駿河土産)
中山備前守、命がけで徳川頼房の不行跡を改めさせる、というお話
0449人間七七四年
2014/02/23(日) 21:15:54.81ID:JJQL3nwu命がけで諌める中山備前守
金打までして誓って見せる頼房
そして安定の秀忠クオリティ
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