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戦国ちょっといい話39

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0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0303人間七七四年2014/02/06(木) 23:25:56.97ID:mKEDwHO3
今から食べるとまた肥るんだよなー。

でも喰いたい。
赤松の献立には及ばぬが喰うぞ!
0304人間七七四年2014/02/06(木) 23:47:25.36ID:j1QXlBv9
玉子のふわふわ って何なんだ
0305人間七七四年2014/02/06(木) 23:51:04.11ID:r/x/pdyV
http://ja.wikipedia.org/wiki/たまごふわふわ
これ?江戸時代からとか書いてるけど
0306人間七七四年2014/02/07(金) 00:20:16.37ID:2Xilqmmi
9升も飲むのかよ!さすがは酒も豪傑じゃ。
0307人間七七四年2014/02/07(金) 00:22:27.12ID:2Xilqmmi
でも当時って塩味ばかりなんだよね。料理人も苦労したろうな。
0308人間七七四年2014/02/07(金) 00:27:36.23ID:523ZGKqr
醤油が誕生したのが家康の将軍宣下と同年なんだよね
0309人間七七四年2014/02/07(金) 00:29:59.23ID:9TqkH9Uq
まあ濁酒だろうし
それでも9升は多いが
0310人間七七四年2014/02/07(金) 00:54:10.41ID:7Bv4cmy6
夢前町のみなさん!
地域おこしグルメとして復元してみては?
家老の神村のメニューとか、いい感じに収まりそうだし。
鍵はやはり調味料か・・・
0311人間七七四年2014/02/07(金) 01:04:11.65ID:2Xilqmmi
>>299
戦国時代、まだいまのような蕎麦はなかったってつい最近読んだ。当時はそばがきだって。
0312人間七七四年2014/02/07(金) 01:39:27.44ID:7Bv4cmy6
>>311
となると、随分イメージが変わってくるね。


ちなみに『播州置塩夜話 屋形物語』(天正2年正月1日 相賀重茂、毛野武盈)では、

「右方すまし汁しるわん、左方そばゆで盛食わん、わんの前に小皿にかうとう、とうがらし、わさび、葱細に、大こん、かつほ、柚等きざむ。
さて客、食椀ふたをとり、汁わんふたを取、汁にかうとう望次第かきまぜ、そばにかくれば、下より種々の物、下より出る。
出と云か、鴨、鯛、しいたけ、あはび、木くらげ、麩、せん、玉子、油とうふ、雪とうふ、同こんにやく、雪もち、あぶら上のにんじん、
牛房、かうぺう等出る。下もりに仕也。」

となってます。
0313人間七七四年2014/02/07(金) 11:35:31.20ID:xTjnP8DB
長楽寺永禄日記より、賢甫義哲(住持)の食事
この日記は永禄八年分しか残ってないので、一年を通した食事の内容に相当します

主食
麺(饂飩・碁子麺・38回)・餅(焼餅・善哉・76回)・飯(麦飯・湯漬・焼飯・雑炊・茶漬・小豆飯・揚花・芋粥・割粥・挽粥・276回)・饅頭(20回)・茶菓子(38回)・その他(打麦・雲門など)

食材
米(餅米を含む自家製)・小麦・大麦・大豆・大角豆・山芋・里芋
蕪・茄子(自家製)・葱・韮・大根(自家製)・ウド・榎茸・松茸・筍・鶯菜・東坡
瓜(自家製)・梨・柚(自家製)・栗・柿・蜜柑(自家製)・杏・桃
豆腐・海苔・麩・串柿・昆布・干松茸・茶(自家製)・煎餅・菓子・宇治茶

副食についての記述は少ない(61回)ので、実際にはさらに沢山の食材が使われていたと思われる
寺領中には田や茶園や果樹園があり、また立野としていた山野まで備えているため山菜は豊富に供給出来た
不足していたのは昆布や干松茸のような加工品で、これは遠隔地と取引している土豪から貰っていたようだ
ちなみにここは禅寺なので、魚類肉類は皆無・・・ではなく元旦には食している
麺・蛸煮・田楽・曳干(魚の干物)・雑煮 等を肴に年始の客とともに八日間にわたって酒を飲んでいた
酒と雑煮は特に、大工や寺民や鍛冶・草刈りに至るまで広く振る舞われたようだ
なお料理の味付けはほぼ味噌である
0314人間七七四年2014/02/07(金) 13:21:21.06ID:balV8J82
禅寺だけど韮はおkなん?
0315人間七七四年2014/02/07(金) 14:44:25.43ID:KkgO+KmH
魚類肉類すら食してるんだからおkなんだろうねえ
0316人間七七四年2014/02/07(金) 14:49:52.50ID:KkgO+KmH
>>299
>なお、相賀光重と下毛野武盈は、天正元年、赤松則房が宇野下野守をもてなした際にも狸食を出しているが、この時は精飯でなく、蕎麦に汁をかけている。

天正元年なら宇野下野守は赤松政秀の事じゃないよね。息子の誰か?
それとも天正じゃなく元亀の元年?
0317人間七七四年2014/02/07(金) 15:06:22.91ID:BI2ukBVI
>>285だけど、正則側の記録では小山の陣での軍儀の際に自分から申し出た事になってる
「徳川殿が諸将をひきいて攻め上られれば、拙者は居城清洲をそっくりお渡しします。」と

NGMSありきで言ったんだろうけれど、空け渡す序でに先陣を望んだ上に黒の駿馬賜ってる
事前に決まっていたのか、はたまた政治的やりとりも上手かったのだろうか
0318人間七七四年2014/02/07(金) 18:59:56.10ID:7Bv4cmy6
>>316
天正元年です。
「天正元年十月八日宇野下野守参上、夜食出と。ほら進上、鷹一羽、鯉二こん、鯛五枚・・・」

家臣団の名前から推測するに、宍粟郡長水城主・宇野下野守祐清かと。
0319人間七七四年2014/02/07(金) 20:05:51.58ID:KkgO+KmH
赤松政秀が亡くなった後の
民部大輔の前の名乗りだったのかな?
0320人間七七四年2014/02/08(土) 01:36:10.49ID:wfRVODml
天下一

真のsuky(数奇)を本業とする人の中には、すべての点で他の誰よりも優れた人が必ず1人いて、
そのために他の人から重んぜられ、尊敬される。
その人は、この宗門または芸道の師匠や頭領であり、それはjenxos(禅宗)―この芸道はそれを模倣している―を真似て、
俗にsukynovoxo(数寄の和尚)と呼ばれている。
その頭領すなわち師匠は、あたかも我々が「博士」と呼ぶように、この名前で呼ばれている。
この事に関連して、注意しておかねばならないのは、すべての学術、工芸には、
ふつうその道において他のすべての人より優れている1人の師匠や頭領がいるが、全ての者が彼らをそういう人だとして認め、
その方面で彼の教えに従っているという事である。
それらの中の何人かは、国王から称号を授けられ選び出されて、権能を与えられる。
0321人間七七四年2014/02/08(土) 01:38:25.13ID:wfRVODml
(中略)
また、往々にして、ある者たちは、自分たちを認めてくれるような者がいなくて、かかる者として自分で名乗り、
Tencaichi(天下一)を自称する。
それは、この道にかけては国内で最も主要な者、caxira(頭)、すなわち頭領の意であり、
もしも世襲で、同一の団体が多数あれば、団体または仲間の頭領の意味で、zagaxira(座頭)という。
これらの人々は自分の家の戸口に看板や表札を掲げるのが習慣となっていて、
たとえば、書写用などの毛筆を作ることで、全国で最も優れている者は、Fude tencaichi(筆天下一)と書いておく。
0322人間七七四年2014/02/08(土) 01:40:37.72ID:wfRVODml
かかる人の中に、剣術の師匠も含まれるが、彼らはその道における第一人者からその名を取ろうとして自信を持った者に立ち向かうのである。
天下の首都、Mayaco(都)という宮都では、門の入り口のように、全ての人が行きかう都市の広場や公道や大通りに、
次のように書いた立札を立てる。
「某地の某、日本国中、すなわち天下の剣術の達人、某通り、または某家に居住す。
 異議ある者、挑戦を希望し、木刀または真剣をもって試合したい者は申し込まれたし」
もしも、誰をそれを求めず、挑戦する者もなければ、
天下の首都に、あえてそれを否定しようとするものがいないのであるから、確認されたことになる。

(日本教会史)
0323人間七七四年2014/02/08(土) 16:34:08.37ID:nin/vNx8
>>314-315
それどころか酒まで飲んでるじゃないかw
0324人間七七四年2014/02/08(土) 17:25:26.50ID:mYm7n5SY
寺沢志州の家に千賀五助という武士がいた。千賀の力は人よりも優れていた。

正月二日、志州は唐津城下で馬揃をして見物した。この時、何としたことだろうか、
人喰馬が轡を脱して駆けて来た。

千賀はこれを見て袴のももだちを高くとって馬場の中に走り向かい、片膝をついて待った。
この馬が千賀を見て眼を開き牙を剥いて飛び掛ったところを、

千賀は立つやいなや馬の平首を抱いて押し伏せて膝で平首をしき、手を挙げて馬副を招くと、
口を割って轡をはめさせた。

――『武将感状記』
0325人間七七四年2014/02/08(土) 20:43:21.72ID:DYVeuB5O
徳川家康公は慶長5年(1600)9月朔日に江戸をお立ちになり、その日は武州神奈川に御宿陣、
同10日、尾州熱田に御着、11日に清州城に入られた。軍兵は城中から溢れ、町中付近に
充満した。

清須に1日滞在され、人馬の労を休め、13日岐阜に御着された。翌14日朝岐阜をお立ちになり、
この日は進軍する姿を敵に見せないために大垣の敵方をわざと避け長良川を越えて、横大路呂久川を
渡り、西の保片山を経て赤坂の後ろ、虚空蔵山と、その北南禅寺山との間にある金地越を通られた。

赤坂に居た東軍諸将は途中までこれを御迎えに出て家康公に拝謁した。家康公は、諸大将の
これまでの苦労を謝せられた。

ここで本多中務大輔(忠勝)が、家康公の輿の傍に寄り、あたりの人間を密かに下がらせ、申し上げた

「黒田甲斐守(長政)の計略により、筑前中納言(小早川)秀秋、御味方に参られ返り忠を
仕るということで、甲斐守より互いに人質を取り交わし、堅く契約申し置いたということです」

この詳細を聞くと、家康公は御輿の中より高らかに言った

「筑前中納言が、味方に参り返り忠をすると申し入れてきた!合戦はもはや勝ったぞ!」

諸人はこれを聞いて、喜び勇むこと限りなかった。

この日、西の保を通られた時、美濃国安八郡八條村瑞苑寺の禅僧が、大きな木練柿を一折り、
杭瀬川の傍で家康公に献じた。

家康公はその柿を一つ手に取られて、「大がき(大垣)既に手に入りたり!」と仰せられ喜び、
残りは近習に与えた、ちなみにこの瑞苑寺には後で田地を附け与え、寺号を『柿寺』と改めさせた。

14日午の刻(正午)、赤坂の岡山に到着された。

(黒田家譜)

黒田家譜より、徳川家康が江戸を出て赤坂に到着するまでの模様である。
ここでも神君のネーミングセンスが遺憾なく発揮されていたのである。
0326人間七七四年2014/02/08(土) 20:52:09.55ID:o7IPbrK/
>>325
柿寺www
坊さんも渋いのかな、やっぱり。
0327人間七七四年2014/02/08(土) 20:54:15.11ID:34l7ZZPm
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8204.html
このコメントで
>209
家康「大柿が手に入ったわい」
ってあったのはそのせいか
0328人間七七四年2014/02/08(土) 23:49:41.14ID:QmtTzYi7
神君流石です
0329人間七七四年2014/02/09(日) 09:16:01.75ID:lmtg7MGE
二重スパイとかいなかったのかな。
いろんな武将の前でこれから敵の誰かが裏切るとか言ってていいんだろうか。
0330人間七七四年2014/02/09(日) 16:07:47.26ID:ZIqDdczn
 ある人が夏と冬の茶の湯の心得を千利休に尋ねると、利休は「夏は涼しく、冬は暖かく風情を作り、
炭は湯が沸くように燃やし、茶はよく飲めるように点てるのがコツです」と答えた。問うた人は不機嫌に
なって「そんなことは誰でも承知していることです」と言うと、利休は「ならば、私が言った通りの茶を
点ててみてください。それが出来たら私はあなたの弟子になりましょう」と言い返した。
 すると、その場に同席していた笑嶺和尚が「今の話は唐の道林和尚の『諸悪莫作 衆善奉行』の教えと
同じですな」と言った。(南方録)

 唐の時代、仏僧の道林和尚は詩人の白楽天に『諸悪莫作 衆善奉行』(悪いことをせずに良いことをせよ)
と言うと白楽天は「そんなこと3歳の童子でも知っている」と答えた。すると道林和尚は
「3歳の童子が知っていることでも80歳の老人すら実践するのは難しい」と応じた。
0331人間七七四年2014/02/09(日) 22:33:31.42ID:gXyZEWaL
某「明日もう一度来てください、本当の茶を飲ませますよ」
0332人間七七四年2014/02/09(日) 22:39:18.24ID:lJkkkQqA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7078.html
こっちの話では笑嶺和尚は出てるが、『諸悪莫作 衆善奉行』だけ抜けてるな
0333人間七七四年2014/02/10(月) 07:18:02.30ID:l/xnaAIK
慶長15年4月の上旬の頃、エゾの松前が駿府・江戸に出仕し、大御所(徳川家康)に
カイクジン(海狗腎)という魚を調理して進上した。
この魚を食せば長命になると言われているそうだ。

この魚には、向かい合ったヒレがあり、身体には毛が生え、長さ一尺(約30センチ)、横幅が
4,5寸(約15センチ)程であったという。
別名にヲツトセイとも言うそうだ。

(当代記)

徳川家康、オットセイ料理を献上されるというお話。
0334人間七七四年2014/02/10(月) 08:26:03.95ID:r1RCSWcm
>>333
オットセイにしては小さくない?子供だったのかな。
0335人間七七四年2014/02/10(月) 09:55:23.00ID:OBpvfW/x
>>334
食材になった性器のサイズじゃね?
0336人間七七四年2014/02/10(月) 10:38:12.91ID:lkxvww1I
家斉公がアップを始めました
0337人間七七四年2014/02/10(月) 10:58:03.86ID:7dgzboew
>>330
>夏は涼しく、冬は暖かく

っエアコン
0338人間七七四年2014/02/10(月) 18:07:05.63ID:MPRjJTKC
ある若者のその後の運命

天正8年(1580年)8月、佐久間信盛・信栄親子は対石山本願寺戦における怠慢を
叱責され、織田信長より追放処分を受けた。持ち場であった天王寺の砦から
すぐに退去せよ、という命令であったため、手持ちにあった黄金20枚ほどを持ち、
とりあえず高野山を目指した。当時、信盛は七カ国の兵を動員する権限を有し、
それは織田家中で最大の軍事力といってよかったらしい。それが一枚の譴責状で
このざまである。つき従う者もわずか三人。周囲が信長を恐れたためか住む所も
なかなか見つからず、天王寺を出てから一ヶ月後にようやく落ち着き先を得る
ことが出来た。親子はそこで頭を丸め、信長の怒りがおさまるのを待った。
このとき、いまや乏しくなった懐から半分を出し、落ち着き先の金剛峰寺の
坊主に食事など身の回りの世話を依頼している。そして、こうも頼んだ。

「この身に不測の事態が起きたならば、お預けした金子で石塔を建てて下され」
(震え声)( TДT)

哀れである。しかし、信長の怒りは解けない。
「高野山に住まうこともまかりならぬ」

わずか10日後、親子は新たな落ち着き先を求め旅立つ。去り際に、もしもお怒りが
解けて復帰がかなったら200石寄進します、と連名で認めて坊主に渡しているのが
わびしい。事態がここまで悪化すると、つき従っていた供の者も「こりゃあかん」
と親子を見捨てて逃げてしまったらしい。お先真っ暗、どん底である。

だが、僅かな光明が灯された。
親子を慕って一人の家臣が駆けつけてくれたのである。
その若者はまだ十七歳。少し前に父親を亡くし、近江国で喪に服していたが、
主親子が追放と聞いて、いてもたってもいられず、高野山に向かい、方々捜して
ようやく熊野に向かう途中の親子を見つけ出すことができたのである。若さって
すばらしい。信盛はその忠心に涙し、何も与えることができぬ、せめて我が姓を
受け取ってくれ、と佐久間姓を名乗ることを許したという。
さて、高野山を離れた親子は、最終的に現在の十津川村に落ち着き、この地の
温泉(湯泉地温泉)で湯治をすることとなった。若い信栄はともかく、既に老境
に入っていた信盛は、追放により精神的にも肉体的にも相当なダメージを受けた
と思われる。悲しいことに養生にもかかわらず、追放からおよそ1年後、信盛は
息子と若者に看取られながら十津川で没する。涙する若者 (;´Д⊂)

信盛の死から半年、さすがに哀れに思ったのだろう、信長は信栄を呼び戻し、
赦免を与え再び出仕することを命ずる。喜ぶ信栄の横にはまたまた涙する若者の
姿があった。
0339人間七七四年2014/02/10(月) 18:08:49.85ID:MPRjJTKC
およそ三十年後、幾多の武功により大名に列せられていたかつての若者は、ある
政争に巻き込まれ、所領没収のうえ、息子とともに寺への蟄居を命ぜられる。
彼の脳裏に、旧主の姿がありありと映し出されたことだろう。だが、彼は旧主の
ように「待ち」の姿勢をとらず、己の運命を変えるべく親子して「攻め」に出たのだ。

自らの不遇を利用して、敵方勢力に味方すると見せかけ、相手の懐に飛び込んだ
うえで敵大名を暗殺してみせる、この献策が入れられぬと分かると、今度は息子の
方が勝手に寺を抜け出して戦に参加しようとする。関所で見破られ送り返される
と、あらためて通過のしやすい商人に成りすまし関所を突破、戦場へ駆けつけるが、
戦は和議が結ばれた後だった… ( TДT)

和議が破れ、再び戦が始まると、好機到来とばかりかつての同僚の軍勢に親子して
加えさせてもらい再起を懸ける。合戦が始まり敵勢目掛けて突進するも、前に出過ぎて
息子及び同道した弟は討ち死に……(;´Д⊂)(;´Д⊂)(;´Д⊂)

だが、彼等の死は無駄死にではなかった。失脚から15年、息子らの戦死から13年も
経っていたが、かつての若者、既に60歳を超えた老将は罪を許され、大名への復帰に
成功したのである。感涙を流す周囲の者を見つめ、はて、いつかどこかで見た風景…
と彼が思ったかどうか…。

彼の子孫は、二度と領地を手放すことはなかった。小さいながらも大名として存続し
続け、明治の代を迎えた。


牛久藩初代藩主、山口重政のお話。
0340人間七七四年2014/02/10(月) 20:51:02.60ID:lkxvww1I
後のサクマ式ドロップアウトである
0341人間七七四年2014/02/10(月) 23:23:12.13ID:an7pd4us
人は少年の時に学んで、壮年には早く立身するべきである。

四民の行為も何ごとも急げ。たとえ立身できるとしても、老いていれば晩年は短い。
日が暮れて道を急ぐことになるであろう。

(人は少年に学び、壮年にはやく立身すべきことなり、四民の所業もなにも急ぐべし。
たとひ成得ても老あれば末短かし、日暮て道をいそぐなるべし。)

(以下、例えをまじえて同じことを述べている)

――『東海夜話(沢庵宗彭著)』

このように沢庵は学ぶことそのものは肯定しているので、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8215.html の記述は学ぶなという話ではなくて、

「学ぶ人は自己を持って悪智慧を生じないようにしろ」ということなのだろう。
0342人間七七四年2014/02/11(火) 00:17:20.77ID:12PwH1cW
その例えの部分が詳しく知りたいですね
0343人間七七四年2014/02/11(火) 00:39:34.08ID:ULwduIJg
>>342
いまいち意味が理解できなかったのと、締めの言葉からして結局同じことのようだから省略した。

(北地陰寒の国には春の花おそし、陰寒にささへられて然り。しからば秋の花は末の陰寒を考えて
疾くひらくべけれども、節序あればこれも前年の寒気春に持こして、そのいたみにや、
秋の花もおそくさき出るゆゑに、又来る秋すゑの寒気にあたりて、さかりもほどなきなり。
人の中年すぎ立身して、すゑの短きが如し。)

註によると「皆少年に学ばざれば何の業も上達し難し、少年時は四季に於ける春なり、
此の時に於て充分養ひを取らざれば秋に良果を収むることかたし、」とのこと。
0344人間七七四年2014/02/11(火) 01:08:01.70ID:U74Vycw/
>>339
ドラマだねえ
しかし懐に忍び込んで暗殺してみせる敵大名って豊臣秀頼のことだよね、色々と凄いこと言うね
0345人間七七四年2014/02/12(水) 16:32:39.93ID:1JpDUISN
>>338>>339
ではここで山口さんが苦労するに至った、関係の深い方に伺いましょう。
いかがですか、このお話の御感想は?


正純「ふむふむ、で、佐久間信栄殿は200石を寄進されたのですかな?」
0346人間七七四年2014/02/12(水) 22:00:29.59ID:eCUrkUs7
信長の小姓の山口飛騨も同族なんかねぇ
03473412014/02/13(木) 02:45:01.03ID:8M8+nIEH
>>343
一応補足しておくと東海夜話も註も、禅門法語全集 詳註邦文 第1巻より引用した。
0348人間七七四年2014/02/13(木) 14:12:10.66ID:3K72IIox
今期のワールドカップが13戦10勝、全部3位以内だからな
そりゃ周りがメダルを期待するのも当然

やっぱり重圧だったんだろうな
でも不利な条件でよくがんばったよ
彼女を責める日本人は一人もいないと思う
0349人間七七四年2014/02/13(木) 14:13:07.98ID:3K72IIox
うあ。。。すまん
0350人間七七四年2014/02/13(木) 19:24:04.83ID:lpnw1paa
石田治部少輔(三成)、小西摂津守(行長)、安国寺恵瓊、この3人は今度の関ヶ原の大乱を起こした
張本人であったのだが、戦場にでも死なず、猶も命を逃れんとしたのか、ここかしこに隠れ居たのを、
皆搦め捕られて、先に大阪に遣わされ、諸大名登城の途中に晒された。

この時、石田治部少輔が搦め捕られているところを、諸大将は何の会釈もなく通り過ぎたが、
黒田長政ただ一人は、石田三成の傍に寄って、

「今度不慮のことが起こり、貴殿の成り行き斯くの如くとなり、無念千万な事でしょう。
去りながら武士は古よりかかるためしも多くあり、恥辱とは全く思いません。」

このように懇ろに懇ろに言ったので、治部少輔も流石その情けに感じ入ったのか

「このように成り果ててしまっては、誰かあって哀れという人も無いのに、誠に情け深く思われます。」

そう言って感涙を流した。

その後この3人は、町中を引き回し、また京都に遣わされ、十月朔日、あやしげなる荷車に乗せ、
天下の大敵であるので、先例に従って大路を渡された。京中の貴賎男女がこれを見物した。
一番は石田、二番は小西、三番は安国寺であった。そして六条河原で首を刎ねられ、
三条の橋の傍に獄門にかけられた。

(黒田家譜)

黒田家譜では、三成に声をかけたのは黒田長政一人だったということになっている、というお話。
0351人間七七四年2014/02/13(木) 19:56:50.67ID:Tvnh2NTZ
小西「どうやったら俺と大谷を間違えるんだよ!」
0352人間七七四年2014/02/13(木) 20:04:08.47ID:2bWKOb59
どこに大谷と小西を間違った的なこと書かれてるっけ
0353人間七七四年2014/02/13(木) 23:44:51.91ID:PTUORU8V
君に歯をあげよう


慶長元年冬。豊臣秀吉の奥歯が、抜けた
すでに60をこえた老人であるから無理もないことだった

彼はそれを拾い上げて、しばし眺めると

「これを、左馬介(加藤嘉明)に預けておこう」

そう言い出した

『一歯一本、其方ヘ預ケ置候也  慶長元年 極月   秀吉
                            加藤左馬介とのへ』


そんな手紙と共に、豪華なケースに入れられた歯が京都・豊国神社の宝物殿にありましたとさ
秀吉は嘉明のことを結構気にかけていたのかもしれないと感じたわ
0354人間七七四年2014/02/13(木) 23:53:05.86ID:CUk0U8Ep
こんなもんいらねーよ糞ジジイwww
0355人間七七四年2014/02/14(金) 00:02:47.44ID:mhY8AtC7
呪術に使われるもんですのでね
0356人間七七四年2014/02/14(金) 01:37:30.09ID:AcbzGhjf
秀吉「あいつどんな顔するんだろW」
0357人間七七四年2014/02/14(金) 07:54:24.52ID:+JHJY72M
現代でも誰某の使ったなんちゃらがオークションでかなりの値がついたりするからなあ
矢沢永吉の奥歯だって価値が出るやもしれん
0358人間七七四年2014/02/14(金) 08:01:12.67ID://AIZCJn
>>353
…いい話なのか…

いい話…
いいはなし…
いい歯なし…

(゜m゜;)!

良い歯無しなのかっ!!
0359人間七七四年2014/02/14(金) 08:22:29.10ID:KjPUMsZB
>>352
首謀者は三成、吉継、恵瓊だからでしょ
0360人間七七四年2014/02/14(金) 08:49:03.93ID:M2m21C9G
その時死刑になった人物以外を挙げていいなら、恵瓊じゃなくて輝元は?
とか秀家は?長束正家は?とかならないか
0361人間七七四年2014/02/14(金) 10:23:39.90ID:PHpJKy12
>>359
そんな話聞いたことねえw
0362人間七七四年2014/02/14(金) 14:14:57.25ID:0dMqAAbc
長政ではなく正則が言ったと書いてある資料が思い出せない
0363人間七七四年2014/02/14(金) 21:01:16.03ID:XBJy8bnz
>>361
よく聞くけど?
逆に小西が首謀者とは全く聞いたことない。
小西は成り行きで西軍に組み込まれたタイプのはず。
0364人間七七四年2014/02/14(金) 21:06:30.66ID:7BjaOQEG
関ヶ原合戦の戦後処理において、毛利輝元については、今回石田三成に与し、奉行衆もこれに一味して
西の丸に移り、諸方に内通を勧める回状に判形し、あまつさえ四国へ派兵し、その罪は莫大である。
しかしながら一族の吉川広家が、東軍に志を通じたその功績により、輝元は死罪・流刑を相赦し、
広家には中国地方のうち1,2ヶ国を与えるべきである、と議定した。

これにより広家を兵部少輔(井伊直政)宅に召し寄せ、『広家の今度の忠義に感じ入った故に、
中国の押さえとして周防長門の両国を与える』という徳川家康の内意を伝え、毛利家よりの人質であった
粟屋十郎兵衛も差し返した。
しかしこれを聞いた吉川広家は

「思いもよらない、身に余る有難き仰せではありますが、もとより今回のことは、自分の身上を考えて
行ったのではありません。あくまで本家である毛利輝元の家を御立て下さるようにと存じ、先にも私は、
私に対しての報奨はお断り申し上げました。

今度のことは、決して輝元の心底より出たものではなく、ひとえに安国寺が策略をめぐらし、
奉行衆の言うに任せて、秀頼様のご命令であると信じてしまったために、是非に及ばず
ああなったのです。輝元に思慮がないことは、内府様も良くご存知のことです。

勿論、輝元のこれまでの分国を相違無きように、などということは申し上げるべきもない話ですが、
私に拝領される予定の国を、輝元に下されますように、どうか取り持ちをお願い致します。
もしこれをお聞き届けないのであれば、私についても、輝元同様に申し付けて下さるように、
幾度でもこれを申し上げ続ける覚悟を決めました。」

この返答に、黒田長政は福島左衛門大夫(正則)、井伊兵部少輔(直政)と相談した上で、
書状を広家に送った。その詞には

『尚々、今回のことは兎にも角にも井兵少(井伊直政)、福左大(福島正則)、そして私の
3人に任せ置いて下さるようにして下さい。さらにこの他に頼るような事は、決して無いようにして下さい。

さてもさても、中国についての事は、今日明日にも決定されます。あなたのご分別次第なのです。
井兵少に仰せになったあなたの御覚悟は、とても不可能なことだと思いますが、必ず、私と福左大が
家康公にお目にかかり、あなたの心底を残らず申し上げます。

しかし、中国の内、せめてあなただけでも大名として残ることは、家祖である毛利元就公に対し
報告するのにこれに過ぎた事は無いでしょう。中納言殿(輝元)と同じ処分を望まれるというのは、
一応二応まではご尤もにも思います。ですがそれで、あなたご自身も滅ぼしてしまえば、元就公に
どのように報告されるのでしょうか?どうか、分別のない考えはしないで下さい。

10月7日     長政 判
     吉殿様参       』

しかし広家はこれでも承知せず、返書に、長政および福島正則に宛てて、起請文を付けて、心底の趣きは
変わらないということを申し越した。この事はついに家康の聞き及ぶこととなり、広家の誠実さを、
律儀至極であると感じ入り、「輝元の今回の罪は莫大であるが、安国寺の策略によってああなったというのは
紛れも無いと、輝元も誓紙を以って釈明したのであるから、この上は広家に与えるはずだった防長二国を
輝元親子に仰せ付ける」と決まった。

(黒田家譜)

毛利家が防長二州を安堵されるまでの顛末である。
0365人間七七四年2014/02/14(金) 22:14:37.64ID:MloTOyW6
>>353
申し訳ないが無駄に行を開けると大変読みにくい。次回以降改めていただけないか?
0366人間七七四年2014/02/14(金) 22:23:17.97ID:Nf6SSgKt
とある作品では輝元を減封で留めるために
家康と広家で一芝居うったって事にしてたな
0367人間七七四年2014/02/14(金) 23:00:20.60ID:DrzEoWWR
家光公が剣法のお稽古を始めるということで、その師匠を誰にするか決めかねておられた。
ひとりは柳生流の高弟、紀伊家の木村助九郎、もうひとりは元茂さまであった。
どちらかに決めようとお考えになられ、
二人に剣法の極意を書いて差し出すようお命じになられた。
助九郎は奉書三枚に剣法の理を細かく説明書きしたものを差し出した。
元茂さまは、

「善いと思うのは悪い、悪いと思うのも悪い。
善悪ともに悪い。
無心となり雑念ないのが善い」

とだけ書いて差し出した。
それを家光公はたいそう感心なさり、元茂さまを師匠としてお稽古を始める予定であったが、
元茂さまが亡くなられたので、残念ながら実現することはなかった【葉隠】
0368人間七七四年2014/02/15(土) 02:06:55.83ID:cqitO867
確かにこれから学ぼうってときにその道の極意を事細かに説明されてもねえ
0369人間七七四年2014/02/15(土) 06:22:10.22ID:DuOpY85Q
性格か、あるいは相手が相手なので張り切りすぎたか
0370人間七七四年2014/02/15(土) 09:23:53.03ID:SXBHeHVN
>>353
ありがたやありがたやw 嘉明さんは真面目そうで好きな武将だからえがった
0371人間七七四年2014/02/15(土) 12:10:02.55ID:sTbst9ol
いや、最初は理論的に教えてもらいたいけど。
いきなり「考えるな 感じろ」とかだけ教えられても困るじゃん?
0372人間七七四年2014/02/15(土) 13:49:29.69ID:1/VgzNA7
極意に至るまでが剣の道って事よ
順路は自ら捜し給へ
0373人間七七四年2014/02/15(土) 13:59:08.21ID:1F9qayWv
>>371
極めたらどういう考えに至るの?と聞いてるだけだから
剣の基本や教え方は関係ないですよ
0374人間七七四年2014/02/15(土) 14:50:06.63ID:+Rpl3N9D
つか「天下人の剣法」なんだから、技術的なことより精神的な面を重視する事こそ実用的、じゃないの?
0375人間七七四年2014/02/15(土) 16:33:15.67ID:kB1KU6h5
>>366
黒田家譜読んだら恵瓊も
輝元の泥を被らされただけなんじゃないかと思えたり。
0376人間七七四年2014/02/15(土) 16:51:45.72ID:RtxR2MJ4
そんな黒田家譜の、家康の輝元評

家康公仰せられるは「輝元は愚かなりといえども、頼もしき人なり。石田が秀頼のためなりと称して、誑かしたるを誠と思い、
悪逆に与して家を破ること、余人にはちがひ、私の心はなし」とぞのたまいける。

(家康公が仰るには「輝元は愚かであるが、頼もしい人でもある。石田三成が秀頼のためだと称して騙したのを本当だと思い、
今回の悪逆に与して自らの家に被害を与えたが、他の者達とは違い、私心からの事ではないのだ」と言われた)
0377人間七七四年2014/02/15(土) 17:00:45.45ID:kO5zOqYT
>>363
そうなんだ…
大谷は関ヶ原で戦死したものだとばかり思ってた
すまん
0378人間七七四年2014/02/15(土) 17:56:15.49ID:m7sX+s0b
>>377
いや、吉継は関ヶ原で戦死しとる
>>351のレスは>>350の黒田家譜の記述に
『石田、小西、安国寺は関ヶ原の大乱をおこした張本人なので』と書いてあることに対する揶揄だろう
0379人間七七四年2014/02/15(土) 21:59:25.56ID:HcIKRIqh
>>376
輝元「という台本でお願いします。今後ともよろしく。」
0380人間七七四年2014/02/15(土) 22:16:15.74ID:ms9BPVi/
実際のTERUさんはノリノリであちこちに手を出してたのになぁ
0381人間七七四年2014/02/15(土) 23:58:57.11ID:m7sX+s0b
ノリノリで手を出してたからとっとと大坂明け渡して領国に戻ったんだろうなあ
0382人間七七四年2014/02/16(日) 00:43:15.54ID:EFOL4QZL
大坂は出たけど領国には帰ってないような
0383人間七七四年2014/02/16(日) 00:44:28.08ID:D/Lsw+o+
伊達政宗公のある時のお話に

「仮初にも、能などは気安いものではない。太夫が翁をかけ、全ての役者が烏帽子を着るなど、
ただ常のことではない。第一能というものは、我が身の祈祷であるのだから、身を清め行儀よくして
座敷においては大声も出さないように、三番四番までは能くじっとして見物をしなさい。

しかしその後は気が退屈しないように、能の間々に休息しつつ、見物をせよ。見る分には面白いのだから、
身体もくたびれないものだ。能が終わったら今度はどんな話題でもいいので皆で集まって一笑いして、
またくたびれを忘れるようにせよ。

だいたい見物というものは、何であってもそうだが、その時のくたびれを直さないから、重ねて
見物に行くのを好まなくなるのだ。それは心持ちが下手な故なのだよ。」

そう仰られたのである。

(政宗公御名語集)

伊達政宗の、何かを鑑賞する時の心持ちについての話である。
まあつまり一定のマナーは守って、あとは気楽に、無駄に疲れないようにして楽しめよ、ということですね。
0384人間七七四年2014/02/16(日) 01:14:29.72ID:JYim7sGM
72時間猿楽を放映したラスボスの前でそれ言えんの?
0385人間七七四年2014/02/16(日) 09:12:34.29ID:TGT/Nq0I
接待ゴルフみたいなもんで、結構めんどくさかったのか。
0386人間七七四年2014/02/16(日) 10:16:00.53ID:EFOL4QZL
三番を超える様な能は一大行事だし仕方ないわな
0387人間七七四年2014/02/16(日) 16:31:48.39ID:L5CwiN+g
石田三成家臣・八十島式部は長らく主から厚遇を受けていた。
関ヶ原の戦い当日も、八十島は三成本陣に居たのだが、
東軍勢がいよいよ迫り来るまさにその時、なにを思ったか、ただ一騎駆け出していった。
「なんだなんだ?」と皆が見守る中、
八十島はそのまま両鐙で馬の腹を思いっきり打ち、さらに速度を上げると
あっという間に何処ともなく逃亡してしまった。

おそらく呆気にとられていたであろう石田本陣。
そんな中、ある三成近臣が、古歌を引いてこう詠じてみせた。

「関が原 八十島かけて にげ出ぬと 人にはつげよ あまりにくさに」

この歌に、三成も家臣達も皆々大笑いした、ということである。

(関原軍記大成)

誰がうまい歌詠めと。ってことで、いい話にいれとく
0388人間七七四年2014/02/16(日) 18:19:28.91ID:VGZzl4fM
八十島って島津隊に伝令に向かったやつじゃなかったか?
馬上から伝令したとか?そんな話聞いたことあるけど
とんずらしたのはその後かな?
0389人間七七四年2014/02/16(日) 18:34:49.33ID:9lC7bs1m
>「関が原 八十島かけて にげ出ぬと 人にはつげよ あまりにくさに」

誰か解説してエロい人
0390人間七七四年2014/02/16(日) 18:39:44.54ID:3CY9DrX5
これのパロディ

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/72/19/tefu_tefutefu/folder/1297533/img_1297533_31615652_0
0391人間七七四年2014/02/16(日) 19:07:31.73ID:9lC7bs1m
ああ理解した。ありがとう
0392人間七七四年2014/02/16(日) 22:16:21.44ID:f6D5EAro
東軍の勢いにおののいてしまったのだな
0393人間七七四年2014/02/16(日) 23:47:28.69ID:JYim7sGM
兵どもにおののたかむら
0394人間七七四年2014/02/18(火) 12:40:08.11ID:DoakL7WC
伊達政宗公は、雪雨の時は申すに及ばず、暑天の時分も、御供衆から馬廻りの徒衆に至るまで、
笠を付けることを許されていた。
御旅行中でも御国中であっても

「町に入るときは笠を脱ぐようにするのだ、しかし道中においては苦しからず。
町々には諸国の者がいるので、人の口を考えねばならない。しかし町を出てしまえば、
いつものように笠を着けるのだ。」

と、特に心付けをされていた。また、政宗公は日に幾度も水を飲まれたが、良き水のあるところでは
徒衆から供をしている家臣たちに

「ここには良き水があるので、皆々も飲み、下々にも飲ませ、馬の口も洗わせるようにせよ。」

と仰せ付けられ、どれほどお急ぎの道中でも、その場所で馬からしばらく降りて、下々徒の物まで
水を飲ませ息をつがせ、その上で馬に乗られた。

誠にこのようにかたじけない事ゆえに、伊達家中の者達は手足を軽々と下々に至るまで勇み、
御供を仕ったのである。

(政宗公御名語集)

伊達政宗の、供の者たちへの気遣い、というお話。
0395人間七七四年2014/02/18(火) 22:20:40.13ID:jHYK/i1G
>>394
政宗はこういうところが尊敬されてるんだろうな。裏側では超面白いおっさんだし。
0396人間七七四年2014/02/18(火) 22:54:47.13ID:2vjxxELn
まー君がまるで名君だ
0397人間七七四年2014/02/18(火) 23:38:52.48ID:MB1uegMq
権現様の逸話にあってもよさそう
0398人間七七四年2014/02/18(火) 23:48:50.23ID:6D+aR1/t
権現様の場合、「水飲」とか名乗らせちゃうんです
0399人間七七四年2014/02/18(火) 23:53:18.81ID:UbZNyEn5
老婆「水代払え!」
0400人間七七四年2014/02/19(水) 00:48:33.25ID:57MX0Bve
政宗はきさくなんだよな
でたまにそのきさくさが暴走してとんでもないことにw
0401人間七七四年2014/02/19(水) 01:28:09.74ID:o9PMhOAH
きさくさときなくささが同居してます
0402人間七七四年2014/02/19(水) 12:49:11.70ID:EyfveLt7
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦役が進行する中。九州では黒田如水が大友義統との戦い、すなわち
石垣原の戦いを直前に控えていた。

ここで如水は、士卒に言い聞かせることがあると、軍勢9千あまりを広野にみな留め置き、
そこで大声で語りかけた

「今度上方において治部少輔(石田三成)が乱を起こし、内府公(徳川家康)を敵としたという事が
聞こえてきた。

治部少輔は、天性知恵なき臆病者である!その上総大将も居ない寄り合いの軍勢であるから、
諸大将は下知を受けず、諸人一致せず、彼らは必ず敗軍するであろう!

殊に、内府公は古今無双の良将であり、その下に属する味方も、みな優れたる武将、勇士が多く、
心も一同して内府公の御下知に従うのであるから、必ず、味方の勝利疑いなきこと、この手に既に
握ったかのように思われる!

これにより、それがしは今回内府公に一味して、九州を平らげんと思う故に、先に豊後に出兵し、
かの国にある敵どもを討ち従えた後、残る国々を治めるつもりである。
豊後の城はその大半が留守であり、これを接収するのはいと容易きことである。

そんな中、大友義統がかつて本国であった豊後を賜り、こちらに下ったとの情報が聞こえてきた。
太閤殿下の時代、私は大友の取次をした関係があったので、今回治部少輔に与することをやめさせ、
降参させるため、上関まで使いを遣わしたのであるが、これに同心しなかった。まったく痴愚の至り
であり、もうどうしようもない!まず、彼を退治するための出陣する!

義統は先年、朝鮮において大明人が来るという情報を聞き、敵をも見ずに逃げ退いたような
臆病者である!それゆえに豊後国を召し上げられ、毛利に預けられ、居るのかいないのか解らないような
状態で居たが、今回豊後に下り、私に対して挙兵するとは、実に片腹痛きことである。

今回出陣する士卒たちよ、良く心得よ!義統は大臆病者である!その下にある家人どもも、類を以って
集まり、上を学ぶ下であるのだから、皆臆病者と心得よ!大友の人数が例え何万騎あったとしても、
今度の合戦は百に一つも負けることはない!相手を強敵だと思って躊躇してはならない!

よいか!わたしは九州を片端から平らげようと思っているのだ!だから、合戦は今回に限ったものではない!
鑓、薙刀、刀、脇差しの刃をたしなんで、大事の時の用にたてよ!大友の兵たちは、武器を無駄に
破損させないよう、生け捕りにするか、峰打ちにして打ち倒してやれ!

総じて鷹を使う時、それが逸物であっても、最初から鶴を取らせるようなことはしない。先ず
鷺からはじめて、その後、鶴を取れるようにしていくのだ。
それと同じことである。大友の人数は鷺だ!若き者共もよくこれを捕らえ、諸士にも手柄を
させるであろう!相手は弱敵なのだから、棒で雪を撫でるように何の造作もなく一時に打ち払うであろう。

そして、大友義統を捕虜にせよ!彼を生け捕ったものには、直参や譜代に限らない、例え下人であっても
褒美として領地千石を与える!おのおの、随分精を出して手柄をいたせ!その功により、一層の
恩賞を与えるであろう。

九州には手強い敵は居ない!豊後を打ち従えてしまえば、九州を治めること、その勢いに乗じて実に簡単に
成せるであろう。さあ、はや打ち立て!!」

これを聞いた者達は、いすれも心の勇みが強くなり、たった今からでも敵を手の中で取り拉ぐように
思ったという。
(黒田家譜)

黒田如水、石垣原の戦い直前の、出陣演説である。
0403人間七七四年2014/02/19(水) 19:12:17.51ID:bvc/8DBl
内心治部GJ!ぐらい思ってるんじゃないのかw
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