桐野作人氏の検証によれば「毛利はなんらかの伝達で秀吉と講和の段階で本能寺の変を知っていたのではないか?」とあります。
それは毛利輝元が家臣へ宛てた書状に「羽柴筑前、和談を懇望(講和をしきりに成立したがった)云々。」。
江系譜という良質な資料では、秀吉が和睦の成立した4日に毛利へ本能寺の変を知らせると毛利家から対明智戦の
餞として鉄砲五百挺等を送られた、同様の記述は、池田氏家譜集成にもある・・と桐野氏の研究。