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大坂の陣で豊臣家が幕府軍に勝利する方法

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0001人間七七四年2013/09/19(木) 17:44:52.85ID:nmTcKAHP
大坂の陣で豊臣軍が幕府軍を撃破・潰走させたのち、
豊臣家が天下を平定するまでのシナリオを考えて下さい。
0103人間七七四年2013/12/22(日) 00:29:36.57ID:+lTKDWqw
捕捉してもあの近辺じゃ万を超える勢力が結集できる場所なんてないだろ。
大阪城に2〜3万くらいの兵を残して、残る7万の兵で
砦や柵を築いて幕府軍の侵攻を冬まで抑えられていたら豊臣側は大分楽に進めることが可能だった。
後詰めの期待もないのに最初から籠城を選んだ大野と淀が馬鹿過ぎなんだよ。
0104人間七七四年2013/12/22(日) 00:40:55.66ID:mvvHpviV
>砦や柵を築いて幕府軍の侵攻を冬まで抑えられていたら豊臣側は大分楽に進めることが可能だった。

いくらなんでも頭が悪すぎるだろ
0105人間七七四年2013/12/22(日) 00:41:38.52ID:diHTfw0G
ほとんどが寄せ集めのゴミ兵なので無理
0106人間七七四年2013/12/22(日) 01:40:35.92ID:ikJV7mVW
秀頼が陣頭指揮
0107人間七七四年2013/12/22(日) 06:28:43.04ID:Wz+wgiU6
>>103
なぜ幕府軍が豊臣がいろいろやるのを黙って見てるなんて思えるの?
大軍の集結できる場所?
関西の地理が理解できてんの?
冬の陣の段階で豊臣は詰んでんだよ。
援軍の無い籠城を愚かと嘲笑うのはいいが、できもしない真田の出戦案の無謀ぶりにも気付きなよ。
そんなんが成るぐらいなら、太平洋戦争末期の日本軍にだって勝ち目がでちゃうよ。
真田は「かっこよく死のうぜ」って言ってるだけの無理心中強要者なんだよ。
0108人間七七四年2013/12/22(日) 06:48:26.10ID:vRW+Uaxm
代替わりしただけで家臣がいなくなってしまう豊臣氏に問題ありすぎるんだよ
徳川の場合、酒井や本多らがそうやすやすと寝返るとは思えん
0109人間七七四年2013/12/22(日) 07:16:20.10ID:loit9Ti+
>>102
どちらも奇跡を当てにしてるんだったら、治長が籠城の方を選ぶのもわかるような気がする。
一か八かの出撃なんて、寄せ集めの兵じゃ一時的な勝利を掴んでも最後は各個撃破されてすぐ終わりそう。八尾若江や道明寺の戦いと同じ結果になるだろう。
籠城の方がある程度時間稼げて、相手方に不測の事態が発生する可能性もあると踏んだんだろうな。治長が馬鹿だとは思わない。
0110人間七七四年2013/12/22(日) 09:30:17.81ID:amCM5l94
大野治長は関ヶ原合戦に参加したから大軍同士の戦闘については、
それなりの見聞があるからな
0111人間七七四年2013/12/22(日) 10:30:37.86ID:+lTKDWqw
>>104
砦や城の役目すら理解してない馬鹿?
上田城攻めで真田昌幸が秀忠の率いる大軍を遅参させたように
時間稼ぎや足止めは重要だよ。

>>107
スレタイ読めよ
0112人間七七四年2013/12/22(日) 13:03:05.82ID:1RFhliqs
>>110
その見解は
例えるなら
トヨタ自動車の課長ならマツダの社長が務まるってレベルのことだ。
あれとなら真田幸村wがましかもしれん
0113人間七七四年2013/12/22(日) 13:26:09.38ID:PRh0dRuW
大阪城がコンスタンティノープルみたいに前面にだけ敵を集中させられるような造りの城塞だったら
籠城も攻撃的な手段たり得たけど
0114人間七七四年2013/12/22(日) 13:28:15.91ID:diHTfw0G
物資の輸送人足の手配運用等雑用係がが出来る人がどれだけ居るのやら
0115人間七七四年2013/12/22(日) 13:30:50.82ID:diHTfw0G
>>113
あれは制海権は取れてたから守れてたんでそ
0116人間七七四年2013/12/22(日) 13:59:25.59ID:amCM5l94
とりあえず大砲の目標になる天守を筆頭に、御殿を破壊して掩体壕を構築する
そして解体した資材を周辺に構築した砦等の増築・強化に充てる
淀川の封鎖と大坂湾への海路を確保して、後はひたすら粘る
0117人間七七四年2013/12/22(日) 17:21:18.20ID:Wz+wgiU6
>>111
出戦して戦域を拡大させた後にどうやって多数の出城を守る兵力を捻出するの?
関ヶ原の秀忠遅参は雨による伝令の遅れが原因で真田の手柄でも秀忠が無能だったわけでもない。
上田城攻略はもともと家康の命令。
美濃口の西軍が家康の陽動にまんまと引っ掛かって関ヶ原に出てきてくれたから秀忠を待たずに決戦に及んだだけ。
0118人間七七四年2013/12/22(日) 18:06:09.57ID:1RFhliqs
>>117
(?_?)
まず出城を守るってのがわからん
討って出るべきって無茶を書いてる奴は、場をかき回して、徳川方の物心両面の疲弊を狙ってんだろw
守るべきは大阪城であって出城や浪人共と戦い徳川が消耗するのを期待してるんじゃね?


後、真田がぁとか秀忠がぁってのは一部の基地外が騒いでるだけで
変わらないどころかもっと酷い史実として、
関ヶ原がもっと時間がかかってれば徳川秀忠率いる徳川方が関ヶ原になだれ込んでくるって恐怖だろ
0119人間七七四年2013/12/22(日) 23:55:28.71ID:loit9Ti+
討って出るとしたら最低でも京と伏見を占領して瀬田の橋を落として東からの守りを固めた上で西国大名に誘いの手紙を出して自陣営に引き込むしか勝利の可能性は見出だせないが、
大坂方の統制力の脆弱さじゃ伏見城落とす事もできないだろうなぁ。史実の冬の陣のように、勝てないまでも籠城して戦い、良い形での引き分け狙いが一番現実的だろう。
まぁ現実は大坂方の弾薬枯渇してしまい、負けに近い形(濠を埋める)で引き分けてしまったけど。
0120人間七七四年2013/12/23(月) 00:45:47.59ID:KW+iB7C6
>>119
>>籠城して戦い、良い形での引き分け狙いが一番現実的だろう。

それが出来なかったから滅んだんだけど・・・
弾薬不足って懸念材料があるのに野戦もせず最初から銃火器がメインの
籠城戦を選んだのがそもそもの間違い。
後詰を期待できない寡兵が大軍を撃破するには野戦に
賭けるしかないのは古今東西の常識。
0121人間七七四年2013/12/23(月) 05:37:20.49ID:CtjkcTV2
>>120
ちょっと聞きたいんだけど討って出るのに賭けるって、どこまでやれば成功になるの?
籠城は家康の寿命死による幕府の方針変化に期待、あるいは継戦費用の負担を膨大にすることで幕府の戦意を挫くことだろうけど、積極策にはどんな成算があるの?
0122人間七七四年2013/12/23(月) 09:50:49.04ID:ckyVKvzK
死場所を求めて大坂に集まった諸将が
華々しく死ねます。
彼らを統率出来る大将が居れば良かったけど
夏の陣の段階では何をやっても手遅れ。
0123人間七七四年2013/12/23(月) 10:03:50.06ID:NT3lcp/i
そういうことが分かる大将がいたら、そもそも開戦しないわな
0124人間七七四年2013/12/23(月) 14:17:40.10ID:OfreiSlw
織田信雄すら冬の陣の段階でどう考えても勝てないとわかってるから逃げ出したというのに
0125人間七七四年2013/12/23(月) 16:54:24.00ID:KW+iB7C6
>>121
総大将を討てればそれが最上。
または小牧・長久手の戦いのように幕府軍を
攻めあぐねさせ厭戦気分を高めさせれば成功。
ただ籠城してるだけで幕府の方針が変わるわけないし
戦意を挫けるわけがない。
0126人間七七四年2013/12/23(月) 17:33:23.94ID:NT3lcp/i
小牧・長久手の戦いも籠城戦みたいなもんだけどね
0127人間七七四年2013/12/23(月) 17:35:10.86ID:OfreiSlw
強力な指導力がないと小牧長久手みたいな塹壕戦は不可能
0128人間七七四年2013/12/23(月) 17:53:33.46ID:VjzZ37xL
四面楚歌の状態じゃ先にヘタレちゃうよね

小牧長久手はまんだ九州やら関東やらが残ってたけど
0129人間七七四年2013/12/23(月) 18:34:10.02ID:CtjkcTV2
>>125
そこが間違ってる。
将軍や大御所を討たれて幕府が引っ込めるわけがない。
積極策の成功はイコール大坂方の破滅だよ。
この戦いの百万に一の可能性は時間を稼いで家康の「自然死」に期待することだけ。
討ち取っちゃダメなんだよ。
ま、自然死したって方針が変わる保証もまるで無いけどさ。
それでも可能性ゼロの真田ら浪人衆より、大野の方が理屈だけは通っていたと思うよ。
0130人間七七四年2013/12/23(月) 19:30:16.91ID:MtnD7uR7
小牧長久手合戦は徳川方陣地はほとんど無防備な状態だったから実質野戦だろ。
三河物語によると柵をさへ付けさせ給わずとか書いててほとんど無防備な状態だったし
0131人間七七四年2013/12/23(月) 19:32:56.13ID:MvHasVJJ
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0132人間七七四年2013/12/23(月) 19:33:02.65ID:OfreiSlw
>>130
アホか。考古学調査で徳川方の長大な塹壕と大改修された小牧城の存在が解っとるわ。
ちょっとは調べてから言えよ
0133人間七七四年2013/12/23(月) 19:34:04.35ID:U0mFC2gL
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0134人間七七四年2013/12/23(月) 19:35:58.99ID:MvHasVJJ
>>考古学調査で徳川方の長大な塹壕と大改修された小牧城の存在

それは江戸期に入った後構築されただけ。
当時の築城技術じゃ即席でそんな大規模な塹壕や陣地の構築は不可能。
北条が長期間かけて防衛普請された山中城の復元とかネットで見れるけど
まぁ貧相な物だよ。
0135人間七七四年2013/12/23(月) 19:38:19.66ID:5XDD4BBP
>>132
お前は相当馬鹿だな。
発掘といっても年代比定は適当だろ。
楽田や小牧山は元々両軍が接触する地点として全く想定されていなかった場所だし(両軍ともに当初は伊勢方面で会戦予定だった)
そんな即席で大規模陣地なんて構築できるわけねーだろアホ。
大阪城やその周辺などとは、準備期間で言っても全く桁外れだろアホ
0136人間七七四年2013/12/23(月) 19:39:08.73ID:PXXsKO6C
幕末までの時代までにも何回も普請や改修などはされてるだろうし
戦国末期のショボイ技術でしかも短期間で即席的にそんなもんが作れるというのは
大いに疑問がつくわな
つか接触ポイントはいくらでもあるのに小牧山ばっかり固めていたって意味がないし
周辺の砦や小城郭を先に落されればアボーンだろ
0137人間七七四年2013/12/23(月) 19:39:59.30ID:TcTFP/d8
中世に即席で作られた陣城を近世での本格的な城塞みたいに過大評価するのはおかしいだろ。
堅城であるはずの岐阜城、日本一の天嶮が立ち並ぶ信濃、上野、奥三河の山城
日本一の財力と期間で築かれた大阪城、いずれもあっさり陥落してる。
特に前二者は、ほんの短期間であっさり落ちてるし
ましてや2週間程度の即席の防衛施設なんてハナクソみたいなもんでしかないと思う
0138人間七七四年2013/12/23(月) 19:41:50.65ID:OfreiSlw
>>134
> それは江戸期に入った後構築されただけ。

そんな研究結果はない。勝手に捏造すんな。無知の上に恥知らずかよ、最悪だなお前
0139人間七七四年2013/12/23(月) 19:42:28.06ID:OfreiSlw
>>135
自作自演大好きだなお前。そういうことしてて恥ずかしいと思ったこと無い?
0140人間七七四年2013/12/23(月) 19:45:45.46ID:U0mFC2gL
>>126
小牧長久手合戦は寡兵の信雄16000が秀吉軍135000に寡兵で自分から攻めかかった攻城戦だよ。
信雄方は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に奪回し、関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪われたが、その後秀吉本隊を含めて135000の大軍に対して短期決戦でもって1万人討ち取る大勝利。
また4月下旬に二重掘合戦で秀吉は1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてる。
その後信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
0141人間七七四年2013/12/23(月) 19:46:54.24ID:5XDD4BBP
普通にかんがえりゃ分かる事じゃん。
何年もかけて莫大な財産かけてようやく築かれた城などでもあっさり陥落してるのに
わずか2週間で築かれる即席の防衛施設なんてたかがしれてるだろ
0142人間七七四年2013/12/23(月) 19:48:15.74ID:MtnD7uR7
中国西洋で言う城塞都市のまともな「城」の形にようやく少し近づいたのは
戦国後期織豊系城郭が普及した後の事だしそれ以前の日本の城塞なんて
山中城とか荒戸城とか各城郭の復元模型とか見る限りまぁお粗末なもんだよ
それで日本の築城技術や防衛普請技術がしょぼ過ぎるから毎年毎年上野や信濃といった日本一の天嶮がそびえる地域ですら
馬鹿みたいに城が陥落しまくってたじゃん。
ましてそれより遥かに短期間で即席的に作ったと思われる小牧山の防衛なんてたかが知れてるわ。
堅城とか捏造されてる岐阜城なんて6回くらい馬鹿みたいにあっさり落ちてるし
0143人間七七四年2013/12/23(月) 19:49:00.02ID:TcTFP/d8
戦国期の城郭なんてほとんどショボイ砦みたいなものが大半でしょ。
山中城とか忍城とか荒戸城の復元がネットで見られるけど城と呼ぶには到底貧相な代物だし
日本で最も厳しい天嶮が立ち並ぶ信濃とか上野とか奥三河の城だって馬鹿みたいに落城しまくってるし
堅城とか言われてる岐阜城なんて6回くらいあっさり陥落してるし
ましてそれより遥かに即席で作ったのが小牧山なわけだし
0144人間七七四年2013/12/23(月) 19:50:03.78ID:U0mFC2gL
基本的に後詰なしの篭城戦は負けるしかないといわれるほど愚策だからね。
何もせずにほっといても勝っても領土の広がらない上に兵力劣勢の城方は降伏・自落・寝返り・逃散で楽に勝てるのは
目に見えてるし長期間もたつくのはよほど寄せての大将が雑魚の時だけだよ。
0145人間七七四年2013/12/23(月) 19:51:35.75ID:NV1MZACX
>>138
だってそんな事書いてる史料ないし、家康からすれば蟹清水、外山、宇田津、比良、小幡といった
秀吉方に狙われる拠点は一杯あるわけで、小牧山なんて固めた所で周辺や背後から攻められて孤立無援にされるだけだから
そんな事したって無意味なんだよ。つか小牧山周辺の塹壕研究なんて勝手に学者が論拠もなく天正12年に無理矢理比定してるだけだろうが。
>>135
そもそも城の築かれた時期そのものが無理矢理根拠なく比定してるだけじゃん。
江戸期に築かれたものか幕末に築かれたものかもわからんのに
0146人間七七四年2013/12/23(月) 19:54:39.39ID:TzPLvYbJ
小牧山なんて固めたって別方向から侵攻されれば終了だし周辺の砦を秀吉方に落されれば孤立するだけ。
小牧山なんて当初から対陣する予定の場所とは全く外れたところに位置する拠点なのに
小牧山を家康が固めたとか相当馬鹿だな。
0147人間七七四年2013/12/23(月) 19:55:32.78ID:OfreiSlw
>>145
最低限このくらいは読んでおいて。君みたいなバカにもわかりやすく書いてあるから


史跡で読む日本の歴史 7
戦国の時代
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b37974.html
0148人間七七四年2013/12/23(月) 19:55:42.21ID:TzPLvYbJ
上杉と北条での関東の城郭攻防戦とか両軍の遠征のたびに天嶮のガチ山城が陥落しまくってるし
武田の信濃侵攻なんて侵攻側にしては大して多くもない兵力で北信濃の日本で最もキツイ天嶮山城を毎回毎回簡単に落しまくってるからな。
織田徳川の大軍に対して行われた三・遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってる。
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
0149人間七七四年2013/12/23(月) 19:56:49.53ID:zXJ50e5V
>>145
> つか小牧山周辺の塹壕研究なんて勝手に学者が論拠もなく天正12年に無理矢理比定してるだけだろうが。
じゃあそのソースを出せ。証拠を出してから言え。証拠がない限りお前の言っていることが虚言であり捏造だ
0150人間七七四年2013/12/23(月) 19:57:12.70ID:PXXsKO6C
>>147
だから天正12年に行われたという年代比定の根拠がなく、無理矢理決め付けてるだけじゃんって言ってるんだが
0151人間七七四年2013/12/23(月) 19:58:41.74ID:U0mFC2gL
>>149
証拠



145 :人間七七四年 :2013/12/23(月) 19:51:35.75 ID:NV1MZACX
138 :人間七七四年 :sage :2013/12/23(月) 19:41:50.65 (p)ID:OfreiSlw(6)
>>134
> それは江戸期に入った後構築されただけ。

そんな研究結果はない。勝手に捏造すんな。無知の上に恥知らずかよ、最悪だなお前
>>138
だってそんな事書いてる史料ないし、家康からすれば蟹清水、外山、宇田津、比良、小幡といった
秀吉方に狙われる拠点は一杯あるわけで、小牧山なんて固めた所で周辺や背後から攻められて孤立無援にされるだけだから
そんな事したって無意味なんだよ。つか小牧山周辺の塹壕研究なんて勝手に学者が論拠もなく天正12年に無理矢理比定してるだけだろうが。
>>135
そもそも城の築かれた時期そのものが無理矢理根拠なく比定してるだけじゃん。
江戸期に築かれたものか幕末に築かれたものかもわからんのに


146 :人間七七四年 :sage :2013/12/23(月) 19:54:39.39 (p)ID:TzPLvYbJ(2)
小牧山なんて固めたって別方向から侵攻されれば終了だし周辺の砦を秀吉方に落されれば孤立するだけ。
小牧山なんて当初から対陣する予定の場所とは全く外れたところに位置する拠点なのに
小牧山を家康が固めたとか相当馬鹿だな。
0152人間七七四年2013/12/23(月) 20:00:16.97ID:zXJ50e5V
>>151
頭に血が上ってるみたいだけどIDちゃんと確認してからそういうレス投稿しろ。
自作自演バレバレだぞ?
0153人間七七四年2013/12/23(月) 20:01:47.23ID:OfreiSlw
>>150
だから誰がどういう根拠で無理矢理と決めたんだって聞いてるんだろうが?
お前が勝手に直感で言ってるだけなんだよ。本当に頭悪いな君は
0154人間七七四年2013/12/23(月) 20:01:48.09ID:PXXsKO6C
つか、伊勢方面に出兵してた家康が、美濃尾張ラインが突破されるとわかって
尾張に戻ってきた3月中旬からの一ヶ月足らずの短期間でそんな堅固な陣地が構築できるなら
長期間莫大な金かけて築かれた大阪城や
大阪城よりは短くても小牧山に比べれば遥かに長期間をもって構築されたであろう岐阜城はじめ日本の城郭なんてそうそう簡単に落ちないっつーの。
信玄や謙信や氏康なんて毎年馬鹿みたいに関東や信濃などの天嶮ガチンコ山城落としまくってるじゃん。
0155人間七七四年2013/12/23(月) 20:02:42.37ID:zXJ50e5V
>>154
だからちゃんとID確認しながら書き込め。キャラがブれまくってるぞw
0156人間七七四年2013/12/23(月) 20:03:38.13ID:1sscaOxg
>>152
問題は内容なんであって、誰が書いたとかは全くどうでもいいことだな。
>>153
だから年代比定の根拠があいまいだって言ってるんだが?
それに三河物語にもちゃんと小牧山は無防備で柵も付けてなかったってちゃんと書いてる。
0157人間七七四年2013/12/23(月) 20:05:48.03ID:GaINtqyr
>>149
で、お前の年代比定の証拠は?
一般向け本の書写とかじゃなくて、ちゃんとそれが天正12年の物だという証拠をお前が出せ。
出せなきゃ単なるお前の妄想。
0158人間七七四年2013/12/23(月) 20:06:30.99ID:PXXsKO6C
普通にかんがえりゃ分かる事じゃん。
何年もかけて莫大な財産かけてようやく築かれた城などでもあっさり陥落してるのに
わずか2週間で築かれる即席の防衛施設なんてたかがしれてるだろ
0159人間七七四年2013/12/23(月) 20:07:19.85ID:MtnD7uR7
小牧山なんて固めたって別方向から侵攻されれば終了だし周辺の砦を秀吉方に落されれば孤立するだけ。
小牧山なんて当初から対陣する予定の場所とは全く外れたところに位置する拠点なのに
小牧山を家康が固めたとか相当馬鹿だな。
0160人間七七四年2013/12/23(月) 20:08:20.32ID:PXXsKO6C
戦国期の城郭なんてほとんどショボイ砦みたいなものが大半でしょ。
山中城とか忍城とか荒戸城の復元がネットで見られるけど城と呼ぶには到底貧相な代物だし
日本で最も厳しい天嶮が立ち並ぶ信濃とか上野とか奥三河の城だって馬鹿みたいに落城しまくってるし
堅城とか言われてる岐阜城なんて6回くらいあっさり陥落してるし
ましてそれより遥かに即席で作ったのが小牧山なわけだし
0161人間七七四年2013/12/23(月) 20:08:43.24ID:TzPLvYbJ
豊臣時代の規格外の財力の限りをつくして築城されたと思われる大阪城ですら兵力3倍程度であっさり陥落してるしね
0162人間七七四年2013/12/23(月) 20:08:45.46ID:zXJ50e5V
>>157
いやいやいやいやいや
小牧城遺構は小牧長久手の合戦の時のものとするのがとっくに定説なんだけど。
それを否定する研究者自体居ない。

なので否定する方はその根拠をきちんと提示することが必要なの。わかる?まあ解らないか君には。
0163人間七七四年2013/12/23(月) 20:09:05.84ID:NT3lcp/i
>>156
小牧山城なら発掘調査で家康による改変があったとしているな
http://www.city.komaki.aichi.jp/bunkazai/komakiyama/002844.html
0164人間七七四年2013/12/23(月) 20:09:44.41ID:GaINtqyr
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
そもそも攻撃側は攻めるのキツイと思ったら攻めずに十分準備を整えてから攻めるか
他の拠点を攻めればいいだけだけど、防衛側は戦闘の回避→領土喪失、死につながるからそういうわけにはいかないからな。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0165人間七七四年2013/12/23(月) 20:11:40.06ID:TzPLvYbJ
>>162
その定説とやらの根拠は大半が江戸期の軍記とか家譜ばかりで、ろくなソースも根拠もないただの妄想じゃん。
ほとんど希望的観測だけで言われてる事を無理矢理当たり前の常識みたいに言われても困る。
0166人間七七四年2013/12/23(月) 20:23:40.46ID:TzPLvYbJ
>>163
結局ソースはなしでネットサイトかよ。
ちなみにそのサイトは嘘ばっかり書いてるから一つ一つ指摘してやるよ。

>>天正12年3月13日、秀吉軍は、犬山城を攻略して、清須をめざし南下しようとした
秀吉軍が狙ってたのは清洲ではなく三河や遠江。清洲を攻めるだけなら伊勢方面からわざわざ転進して楽田に居座る必要は0.
>>3月18日から小牧山城跡の大改修を開始
そんな事全くやってない。ただの妄想。
>>22日には陣城が完成し、ここにたてこもった。
そんな事全くやってないし、完成したなどとどこにもかかれてない。ただの妄想
>>軍道で結び、南への進路を遮った。
軍道で結んでなんていない。ただの妄想。
>>大軍が対峙したが決戦は行われず、わずかに4月2日秀吉軍が姥ヶ懐へ来襲
そんな事全くやってない。ただの妄想。
>>翌3日に家康軍が二重堀砦を奇襲した小競り合いがあった
二重掘合戦は4月下旬〜5月上旬。これは信雄からの感状や家忠日記などでわかるし三鬼氏も書いてる。
>>家康軍も小牧山から八幡塚まで土塁を築き、防備を固めた
そんな事全くやってない。ただの妄想。
>>4月6日夜から秀吉軍の一部が東へ向かう迂回作戦を開始し
迂回ではなく九鬼の水軍なども含む陸海両面からの大規模作戦なのも知らんアホっぷり。
>>家康軍は、4月7日に秀吉軍の動きを察知
根拠なし。ただの妄想。
>>小牧村庄屋江崎善左衛門が道案内をつとめ秀吉軍を追撃し
根拠なし。ただの妄想。
>>翌朝までに小牧山城へ戻った
根拠なし。ただの妄想。
>>両軍とも防備を固め、大きな戦いはなく
戸木城の合戦、二重掘合戦、蟹江合戦など各地で戦いが起こりまくってる。
>>家康軍の榊原康正が小牧山城に行った改修は、土塁を高め、堀を深くし、要所に砦を築くなど
根拠なし。榊原がそんな事命じられてる様子もないし、一次資料はおろか家記にすら書かれてない。
>>防御工事をわずか5日間で完成させたといわれる
そんな短期間でできるわけがない。
>>麓で行われた発掘調査によって
年代比定の根拠はなし。
0167人間七七四年2013/12/23(月) 20:26:09.00ID:PXXsKO6C
幕末までの時代までにも何回も普請や改修などはされてるだろうし
戦国末期のショボイ技術でしかも短期間で即席的にそんなもんが作れるというのは
大いに疑問がつくわな
つか接触ポイントはいくらでもあるのに小牧山ばっかり固めていたって意味がないし
周辺の砦や小城郭を先に落されればアボーンだろ
0168人間七七四年2013/12/23(月) 20:28:08.19ID:3JBugkSw
小牧山なんて秀吉からすりゃただの一通過点にすぎず
元々会戦場所として全く想定されていないどころか、
攻略目標枝城の一つですらないのに家康が短期間で固めたとか
榊原に普請を命じたとか妄想ばっか書いてて相当馬鹿だな。
0169人間七七四年2013/12/23(月) 20:50:20.58ID:NT3lcp/i
>>166
発掘調査の部分を見ろよ…
0170人間七七四年2013/12/23(月) 20:59:18.11ID:MtnD7uR7
どこにも年代比定の根拠が書いてない件
0171人間七七四年2013/12/23(月) 21:00:16.39ID:iIwYDsjp
ゲリラ戦をすれば良かったんじゃねえ。大阪城を囲んでいる兵を錯乱させて、精神的苦痛を与えるってやつ。
0172人間七七四年2013/12/23(月) 21:50:51.45ID:rCLzFeTM
福島正則の入城だよ
戦のことは福島正則に全権委任
0173人間七七四年2013/12/23(月) 22:07:22.58ID:aoH6/D0X
福島なんて簡単に落城する雑魚城の岐阜城を、寝返りあり&事前情報有りで陥落させるくらいしか実績ねーじゃん
0174人間七七四年2013/12/23(月) 23:22:46.69ID:nq76jjq0
幸村が全軍指揮できてたら100%勝てただろ。
徳川軍なんて四天王が次々病死、他の諸大名も世代交代してて大した連中もいないし
大阪方の方が戦績豊富な連中多いんじゃね
0175人間七七四年2013/12/23(月) 23:40:26.02ID:6JapkmCv
冬の陣の時点でかなり劣勢だったからなぁ。

木津川口砦の戦い→徳川方の勝利(木津川口砦占拠)
今福・鴨野の戦い→徳川方の勝利(鴨野の拠点を占拠)
博労淵の戦い→徳川方の勝利(博労淵砦占拠、大阪方の守将平子正相戦死)
野田・福島の戦い→徳川方の勝利(野田・福島の拠点占拠)
その後豊臣方は残りの拠点も放棄して大阪城に逃亡

後厭戦気分になってるのはむしろ豊臣方だわな
12/15に淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出され、家康はこれを拒否
また大阪方は弾薬・兵糧も不足しだし、大筒を打ち込まれると即座に和睦交渉に乗っかる。
また、朝廷から後陽成上皇の命により、17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、
あくまで徳川主導で交渉を進めた。
0176人間七七四年2013/12/23(月) 23:49:35.31ID:KW+iB7C6
>>126
小牧・長久手の戦いが籠城戦とか・・・

>>127
いくらなんでも塹壕戦はないだろ。
戦国時代に塹壕戦って・・・

>>129
封建主義を理解してる?封建主義制度だと総大将が討ち死に。
あるいは病没したら優勢でも帰国するんだよ。
三方ヶ原で徳川勢を散々に蹴散らした武田家だって
信玄が病没したために帰国してる。
勝頼は西進を主張したらしいが、
あの時点では正式な当主ではないから西進策は却下されてる。
0177人間七七四年2013/12/24(火) 00:12:10.20ID:Bg4VLeWg
中国西洋で言う城塞都市のまともな「城」の形にようやく少し近づいたのは
戦国後期織豊系城郭が普及した後の事だしそれ以前の日本の城塞なんて
山中城とか荒戸城とか各城郭の復元模型とか見る限りまぁお粗末なもんだよ
0178人間七七四年2013/12/24(火) 00:13:08.98ID:Vuz22SOb
信長が手こずった岐阜城とか堅城とか捏造されてるけど6回も簡単に落された雑魚城なんだよな。
単に寄せての大将が雑魚なだけでしょ。
0179人間七七四年2013/12/24(火) 00:15:05.84ID:jQFgXmdZ
織田信忠もあっさり二条城落されて殺されたしね。
0180人間七七四年2013/12/24(火) 01:42:01.48ID:ShbGd6Dk
>>174
徳川四天王はいなくても、その上の家康は健在だし、参戦した外様大名も藤堂高虎、黒田長政、細川忠興、加藤喜明、伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣、立花宗茂など錚々たる面子じゃん。大坂方に入れば総大将になれそうな人ばかり。
片や大坂方は真田、後藤、明石、長曽我部あたりだし、明らかに見劣りはする。
0181人間七七四年2013/12/24(火) 06:21:47.85ID:s+h82t6n
藤堂、黒田、細川、加藤(喜明)とか言われても全くといっていいほど凄みを感じないんだが。
参戦した戦自体は多くてもこれといって単体で大活躍したとか、大軍相手に蹴散らしたとかなく、
豊臣と徳川に追従しただけの連中であって、大坂方の毛利、真田、明石、後藤、長宗我部あたりの方がずっと名うての名将じゃね?
0182人間七七四年2013/12/24(火) 10:40:55.05ID:Efdbhumr
〜の支配下で活躍な人ばっかだな
0183人間七七四年2013/12/24(火) 11:13:31.93ID:cwYx28E4
そりゃアメリカ軍の規律に従いながら戦う正規兵より
自爆テロやりまくりのアルカイダ兵の方が危険で恐ろしいのと同じ理屈だろ
0184人間七七四年2013/12/24(火) 11:20:44.82ID:FOnKCjQM
アメリカ軍だのアルカイダだの訳の分からん例で例えられてもなあ
0185人間七七四年2013/12/24(火) 12:56:32.55ID:Y1HiBRuK
水軍率いて加藤義明が入城したら少しは面白くなったんじゃないか
総大将に福島正則も入れば諸将の自分勝手な行動も押さえられたと思うわ
負けの事実は変わらんだろうがな
0186人間七七四年2013/12/24(火) 13:08:41.87ID:Y1HiBRuK
嘉明…
0187人間七七四年2013/12/24(火) 20:30:37.45ID:cwYx28E4
>>184
当時の大坂方の浪人連中なんて実質はアルカイダと同じ無法集団でしかないだろ
0188人間七七四年2013/12/24(火) 21:34:08.39ID:ShbGd6Dk
>>181
後藤や明石はまだしも、真田と長曽我部なんて大坂の陣までは大した戦績ないだろ。幸村は昌幸の下で多少の経験あるだけだし長曽我部盛親は関ヶ原が初陣。毛利勝永も似たようなものだろう。
一方、藤堂黒田細川加藤嘉は場数もかなり踏んでるし、特に藤堂は慶長の役で日本水軍主導して漆川梁海戦で朝鮮水軍壊滅させてるし、
黒田も文禄の役では加藤や小西とともに先鋒務めてるし(後藤も傘下で活躍してるが)、関ヶ原は戦闘、策謀両面で活躍。少なくとも大坂の陣の前の時点では真田や長曽我部、毛利とは比べ物にならん。

まぁ真田や長曽我部、毛利も大坂の陣での戦いぶりからすると、将器はあると思われるが、大坂入城の時点では大した者とは思われてなっただろう。
0189人間七七四年2013/12/24(火) 23:59:10.73ID:FOnKCjQM
その歴戦のはずの藤堂高虎隊は味方が勝ち行く中唯一寡兵の長宗我部勢に負けまくり大損害出して死に体で帰ってきてる
確か関ヶ原合戦の際にも京極隊と連携してわずか1000そこそこの大谷隊を攻めたら大苦戦し
小早川が離反後も何度も押し返されて朽木・脇坂らが大谷隊に攻めかかるまで
ろくな戦果あげられなかったはず。
黒田長政も細川忠興と協力して6000そこそこの石田隊を攻めたらろくに戦績もない三成相手にほぼ互角の戦いで
切り崩せなかったし
大坂の陣の奮戦っぷりで見ても、個々の武将の能力でいえば大坂方の方がずっと上じゃね?
武器性能で言っても大坂方が特に勝っているはずはないしな。
0190人間七七四年2013/12/25(水) 00:11:21.09ID:8Q1cDMxH
場数踏んでるといっても豊臣徳川の日本総軍に追従しただけの戦で
単体で大敵相手に自力で戦った戦とは到底言えないからなぁ
0191人間七七四年2013/12/25(水) 07:12:41.50ID:30f646xE
>>189
長く書いてるけど
大谷も石田も大阪の陣には死んでるんだけどw
その論調なら武田信玄、今川義元に歯が立たない徳川家康率いる軍勢なんか取るに足らないってのと同じなのはわかってる?
0192人間七七四年2013/12/25(水) 10:55:04.07ID:ZeQyeXWY
関ヶ原の畿内以西の東軍兵数は『日本戦史』のそれより少ないと見るべきだよ
0193人間七七四年2013/12/25(水) 21:07:19.91ID:WuOW0BaN
決死の覚悟の少数の敵を数で押し潰すのは愚の骨頂
まして関ヶ原のような会戦は周りの状況に合わせて動かなければならない
関ヶ原の藤堂黒田細川は十分な働きをしている
むしろ関ヶ原の島津や夏の陣の大坂方のような
自隊のことしか考えない愚将がいれば
勝てる戦も勝てない
0194人間七七四年2013/12/26(木) 02:33:46.67ID:aBNmiJ1N
真田毛利は武将としてそれなりには能力あったとは思うが、
大坂の陣参戦の東軍の諸大名より能力が抜きんでているかといえばそうでもないだろ。
水野勝成が大坂方にいたとしても真田毛利並の活躍はしたと思うが。
0195人間七七四年2013/12/26(木) 10:42:56.07ID:ySGrZDxC
>>決死の覚悟の少数の敵を数で押し潰すのは愚の骨頂

お前は戦争における数の理論を全く理解していないな
例えば2対1で正面からぶつかった場合、2の方は1の方に比べて
攻撃力では2倍
防御力では相手から食らう攻撃は2分の一だから
単純に兵力が多い方は戦力の多さを全面に生かして相手をひねり潰せないとおかしいんだよ。
0196人間七七四年2013/12/26(木) 10:47:11.23ID:7uaksrzq
確かに兵力比と武器性能比の2乗=両軍の戦力比だからね
2倍くらいは兵力あっただろうに
寡兵の大谷やら石田やら長宗我部やらに正面衝突の野戦で五分五分だったり苦戦しまくった
細川や黒田や藤堂は指揮采配能力はかなり劣るとしかいいようがないわな。
大谷はまだ名将だとしても石田三成なんて武功派でもない後方支援組なのに
0197人間七七四年2013/12/26(木) 10:50:31.11ID:LxQqx1BR
兵力数と武器性能で戦争は決まるからね。
兵力比は実際にはその2乗となって戦争に影響するしこれに装備性能が加わったものが実際の戦力
これをくつがえすのはよほどの幸運・偶発的条件やうまい戦術、両将の指揮能力の差がないと無理(もちろん城攻めは別だが)
普通に平地でガチで遣り合えば100%兵力が二乗の戦力となり、装備差によって戦闘が決着する
ゲームでは統率や経略の少しの差で簡単に覆ってしまうが実際はなかなかそうはいかない

城攻めでも野戦でも兵力差が大きいと少ない方は味方の士気が下がったり離反や逃亡する兵が出る。
後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
逆にその影響度が圧倒的に大きい兵力差をひっくり返して撃破した武将と撃破された武将はかなり大きく指揮采配能力に差があるとみるべき。
0198人間七七四年2013/12/26(木) 10:51:25.39ID:znIzHmx/
武具とか装備にはそれなりにお金がかかるからね。それはいつの時代も同じで焙烙とか
大筒とか先進的な装備や強固な陣地構築技術は畿内など生産力の高い地域を取った大名の特権みたいなもの。
後進地域や、生産力低い地域の大名はそれだけ貧相な装備で戦わなきゃいけないからかなり不利だわな
0199人間七七四年2013/12/26(木) 10:52:37.63ID:FKIfemas
人間の心理でいうなら圧倒的に大軍側のが有利。
兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし

逆に寡兵側は寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。
実際戦史でみても逃亡兵や離散、寝返りが出てるのは寡兵側がほとんどで攻撃側は少ない。

兵力比や武器性能よりも心理の方が重要とか戦時中の日本軍みたいな馬鹿な発想だなw
勝てる勝てると盲信しまくって物量や装備で勝る米軍に果敢に突撃しまくったが見事にどんどん負けまくったんだろうがw
基本的に国の戦争の強さは、武器性能と国力とで決まるのが基本で心理なんてほとんど影響しない。
よっぽど大国側の指揮官が無能だったりする場合は例外だろうが
0200人間七七四年2013/12/26(木) 11:28:20.09ID:p0ZmpeaU
大体大軍の指揮には高度な指揮能力が必要で難易度高いというなら最初から頼りになる部下だけ連れて寡兵で出撃すりゃいいだけじゃん
物資兵糧調達や兵站の面・戦後の恩賞の面・行軍のスピード・機敏性など圧倒的に寡兵のがローコストでメリットも大きいんだし
それにもかかわらず毎回寡兵の敵に向けて大軍でたくさん物資や人件費かけてはるばる遠くまで出撃してるのはそれだけメリットが大きいんだろ
所詮大軍の指揮がどうとか妄言やいいわけにすぎん。

「大軍」は「寡兵」よりも圧倒的にアドバンテージであって、統率が難しいのではなく統率失敗するような武将は無能というだけ。

信長でも家康でも信玄でも敵が大軍であればあるほど、味方は寡兵であればあるほど苦戦や敗戦は増えてる
戦争なんて物量や兵力が圧倒的にものをいい、兵力の2乗は実際の戦力になる。
寡兵側が勝つには特別な戦術で敵を自陣深く釣り込んだり油断ついて奇襲したり地形をうまく使って包囲殲滅したり
偶発的条件、幸運などに恵まれない限り無理。普通にガチンコでやりあえば山地だろうが渓谷だろうが平野だろうが100%大軍が勝つに決まってる
0201人間七七四年2013/12/26(木) 11:30:20.41ID:T/nCasBT
普通の頭で考えれば地形に関係なく普通に正面からガチンコで戦えば大軍側が勝つに決まってるじゃん
20対10で戦った場合10人の方は結束したとしても20人分の攻撃を10人でうけなきゃいけないけど
20人の方は10人分の攻撃を20人で分散できるから一人のダメージ比は4対1だし
寡兵側が勝ってるのは相手の油断をついて奇襲・敵を自陣深くうまく釣り込んで殲滅・ポエニ戦争みたいに敵の左右の陣を突破して
包囲殲滅など優れた戦術や敵の油断をつくなど、かなりの指揮采配能力の差や、偶発的事故などが続くなりしないと無理。
普通に正面衝突すりゃ大軍側が100%勝つに決まってる
0202人間七七四年2013/12/26(木) 11:36:20.05ID:FKIfemas
豊臣家に対して重大な損益与えてるじゃん
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