戦国ちょっといい話38
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0001人間七七四年
2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:7tklFMSw戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1365370828/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372591033/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0827人間七七四年
2013/12/05(木) 10:41:12.19ID:002oOzSR・・・食い物で暴利をとると恨まれるのでやめておいたほうが吉。でないと打ち壊される。
米貯めといて適宜オペするのがいいんだろうけど当然商人はいい顔しねえな
・・・米以外で儲けろと特産品作らせるしかないか
0829人間七七四年
2013/12/06(金) 00:37:49.16ID:yii96d5n九月二十五日から義光公も長谷堂表へ出られ、敵陣から五十町を隔てて陣取られた。
このような所へ早馬が到来し、上方御合戦が家康公の御利運となり石田治部少輔を
始め関西の諸将はことごとく敗軍との事であった。
義光公は大いに悦ばれ、すぐさま使番を送って「敵は今日明日のうちに撤退するで
あろうから皆、油断せぬように」と再三にわたって諸軍へ触れられたので、何れも
準備をして待ち構えていた。
義光公はいささかの休息もとられず、会津勢が陣取っている戸上山の方をじっと
見つめられていた所に、陣屋を焼きたてる火の色がほのめき見えたので「いまこそ
敵が退いていくぞ、法螺を吹き立てよ者ども」と御身も罷り出られた。
諸卒もかねて待ち構えていたので馬を引き寄せひたひたと乗り打ち、もみにもんで
馳せつけ、切り伏せ突き伏せ進んだ。
杉原常陸守、溝口左馬助は敵の殿であり五、六百騎ほどで取って返し戦ったが、
ついにこれを追い崩して長井の境目まで追いかけ千人余りを討ち取った。
味方も騎兵十五騎、歩行の者四十八人が討たれた。
なおも勝ちに乗って追いかけて行くと、直江も弓矢功者の侍大将であったから、
山に陣取って押し返し激しく戦った。
味方は追い返され十町ばかり退いて陣を構え、直江山城もその夜はそこに野陣を
固め敗軍を集めた。
(最上義光物語)
0830人間七七四年
2013/12/06(金) 08:26:12.43ID:yii96d5n翌日十月一日の払暁。直江山城は陣を払って退くかのようにみせかけ、山の斜面に
鉄砲を段々に備え、峰々に陣を堅くして待ち構えていた。
味方はこれを知らず、先手より「敵が退いて行きます」との報告に、義光公は御馬
を引き寄せられ、ゆらりとうち乗って出られた。
この時は朝霧も深く未だ夜も明けきってなかったので、敵の備えに気づかず
我先にと進んだ所を近くまで引き寄せられて撃たれたので、先陣はこらえられずに
一度にハッと引き退いた。
義光公はこれを見て「旗本に入れ替えて追い崩せ」と進み出られたので、近習の者
どもは我劣らじと前に進み、敵もここを先途と打ちかかってきたので志村藤右衛門
をはじめとして数多の味方が討たれた。
ここに筑紫出身で堀喜吽斎という者がいた。諸国で兵法修行して"今判官"と呼ばれ
た人で近年山形へ来て義光公の御伽衆となっていた。
喜吽斎はこのありさまを見て、義光公の鎧の袖をとらえ「あまりの混戦でもあり
旗本も近くにおりますので、いま少しお退がり下さい」と申した。
義光公は喜吽斎をにらんで「汝はなんと臆病な申しようか、これほどの混戦の
中で大将が退けば士卒は我先にと逃げて却って追い討ちにされるわ。
最早ここまで攻めかけた軍なれば多くを討たれようとも、ただひたすらに攻め上げる
しかない。この山の敵を追い落とせば、続く峰に陣を張る敵勢も敗軍に巻き込まれ、
おのずと崩れ散るであろう」と大音声で叫ばれた。
喜吽斎は面目を無くし「臆病かどうか只今ご覧あれ」と義光公のそばを駆け抜け
二十間ほど進んだ所、あえなく鉄砲で左の肩先から右の乳下まで撃ち抜かれて
まっさかさまに落ちて行った。
義光公はこれを見て「ぐずくずしていたのでは、なおさら討たれてしまうぞ。
隙間なく攻め上れ」と例の鉄棒を挙げて真っ先に進まれた。
(最上義光物語)
0831人間七七四年
2013/12/06(金) 08:35:50.27ID:yii96d5n嫡男修理大夫殿は峰を隔てたところからこのありさまを見て、馬では行けぬと皆を
徒歩立ちにさせ、千余人を引き連れておめき叫んで横合いから駆けあがられた。
長谷堂加勢のうち小国大膳、谷地盛伯耆守、川熊讃岐らが手の者八十騎を引き連れ
敵の退路を遮断しようと峰続きに回り込んだ。
敵もこれを見て三方から取り囲まれては敵わぬと思ったのであろうか、退がる気配が
見えた。
義光公はなおも大音声をあげ「ここをもめや者ども」と隙間なく下知なされたので
士卒はなおも気を励まし、手負い死人を乗り越え撥ね除け攻め上ったので、さしもの
敵勢も支えられずに退いていき、味方の兵は勝ちに乗って一人も逃がすなと短兵急に
追いかけた。
大軍が崩れたときの常として「返せ戻せ」と言う声は聞こえるが、我先にと逃げて行き
地理不案内であった為、険しい峰の細道へ大勢が逃げかかり、道や橋から転げ落ち、
岩に砕かれたり、水に落ちて溺れ死ぬものが大勢いた。
味方は地理に詳しく、そこかしこに追い詰めては討ち取り、敵は一人も助からぬかの
ようにも見えた。
直江山城守は人数三百騎余りで少しも崩れず、向こうの峰まで素早く退いてから反撃し
追い乱れた味方をあまた討ち取ったが、そこから追撃はせずに退き直江は虎口を逃れて
敗軍を集め心静かに会津へと帰陣して行った。
その日討ち取った首の数は計1580余と記されている。味方も雑兵をあわせて623人が
討ち取られた。
その時、義光公は「景勝一味の諸将が上村でことごとく敗れたと報告されても、直江
は少しも臆さず心静かに陣払いし撤退していった様は慌てた気配もなく、勝ちに乗った
味方を数多討ち取り、つつがなく会津へと帰陣した事。誠に謙信武勇の強みがいまだ
残っておる」と言われ深く感心なされた。
(最上義光物語)
0832人間七七四年
2013/12/06(金) 19:09:52.48ID:jwCXAmsB(´・ω・`)「兜がなかったら即死だった」
志村さん「殿、前に出すぎるからです」
0836人間七七四年
2013/12/07(土) 01:43:17.76ID:BDncvnB30837人間七七四年
2013/12/07(土) 17:43:48.97ID:zuqygFTH先駆けて槍を交えた。そして八田金十郎と戸塚左太夫がこれに次いだ。
これに徳川家康は「満坐と川手は先駆けたとはいえ、軍令に従わなかった。
いま、功があることにより、これを許す。八田と戸塚は後れたとはいえ、
よく令を守った。感状を賜り、これを許す」と言った。
――『日本智嚢』
0839人間七七四年
2013/12/07(土) 18:41:22.77ID:0O8Fu+zTそして子供の数ほどの矢を取り寄せると子供達にこう遺言した。
「矢は一本ずつ折れば問題なく簡単に折れるものです。
しかし、この矢を一つに束ねて折ればたとえ細い物でも折れなくなります。
各自、同じ思いで親の私の言うことをよく聞かなければなりません。」
そこで控えていた小早川隆景はこう付け加えた。
「兄弟が不和になるのは何事もみな欲から発生する問題ですから、欲を捨て義をしっかりと守り通せば
兄弟の仲が悪くなることはあるわけがないのです。」
これに元就は大いに感心して「各自、隆景が今言ったことに従うように。」
と子供達に言い聞かせたという。
――『前橋旧蔵聞書』
0841人間七七四年
2013/12/08(日) 00:44:24.12ID:ptEJlXdJラスボスへの義を通すため養子を迎えざるを得なくなったのであった
0842人間七七四年
2013/12/08(日) 06:37:35.11ID:7illiONFかといってB専でもなかったので兄者を憚って生涯独身でいたのさ
いい話だろ
0844人間七七四年
2013/12/08(日) 10:03:16.43ID:dObSBKEeちゃんと嫁さんいるだろ。小早川の分家に婿養子で入ったんだから。
義理の兄貴は盲目だから出家して、本家の跡取りは第1次月山富田城で戦死したってことで、小早川本家を「運良く」相続したけど。
ところで、この逸話の突っ込みどころは吉川元春は月山富田城包囲戦から帰ってきてないだろ、ってところだな。
その点、>>840の解釈は正しいのではないかと。
0845人間七七四年
2013/12/08(日) 10:04:18.49ID:Q3k9fcp5おまえいつも投下してから誤字を訂正してるやつだろ?
煽りとかじゃなくてわりとマジで心配してのレスだが、
注意欠陥障害とか何かの発達障害の疑いがあるから、専門の機関で検査受けたほうがいいぞ。
わずか5行の文章すら誤字なしに書けないのはかなりヤバいわ。
0846人間七七四年
2013/12/08(日) 14:54:22.06ID:U9k3pcdi0847人間七七四年
2013/12/08(日) 15:29:21.38ID:7sux1NkL0848人間七七四年
2013/12/08(日) 18:50:40.31ID:6JzoDOWM〉‐r '´ `丶
/:::ヽ ヽ
. ,':::::::::::ヽ. '、
. l:::::::::::::::/ .,、z:ュ、,_. ,、=,
l;:::::::::::/ ´ ,r'ャ、`' i'rャ;|
l ヽ::::::::l ''`¨¨´ ヽ |
ヽ ヽ::::::! ,ィ _. ', .l
ヽ_λ:i. ' `'゙`'‐'i゙ ,' …わかった この話はやめよう
l ヽ`'. ,∠.ニフ /
l ` 、 、 い.... ,' / ハイ!! やめやめ
,r<ヽ、 ヽ', .ヽ`二フ.,'
,.イ \.丶、`' .、,_`,.ィヽ、
. / .', \ 丶、 l. ', ヽ'.-、
,. -.'´ \ \ \ ! .l ', `‐ 、
.'´ \ \. \| | i 、 ヽ
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ヽ \ \ | | ', ', . _
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ヽ .: / }´ l ,., \. │ | ',.l l / /' .〃 /
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0849人間七七四年
2013/12/08(日) 20:27:26.89ID:DFRrkqfnその容貌はそれほど優れた人ではなかったが、鋭気鬱勃、颯爽として近付き難い威があった。
だいたいの合戦では具足を着ず、黒い綿の道服を着て鉄の小さい車笠を被り、采配や軍扇を執らず、
ただ青竹の三尺ばかりの、杖のようなものを持って馬にまたがり、電雷の如く疾駆し、
その青竹を振って指揮したという。
これは梁の韋厳(韋叡)の竹如意(韋叡は生来体が弱く、戦場でも馬に乗ったことがなく、
常に儒服をまとい輿に乗り、竹の如意で軍を指揮した、という逸話)に倣った物だという。
(古雄逸談)
謙信、韋厳の竹如意に学ぶ、という逸話である。
0850人間七七四年
2013/12/09(月) 09:39:16.48ID:4+YqhRq0ファミ通だっけ
あんた、新作の信長の記事の中で政宗に父の仇として畠山の代わりに銃撃されとったな
0851人間七七四年
2013/12/09(月) 09:56:37.39ID:6H1u/mZB0852人間七七四年
2013/12/09(月) 20:34:12.09ID:jKSfonJQその性質は温和で優しく、同時に廉直で正義の友である。そのため、恐れられているが、
それ以上に愛されている。
何故なら、通常彼の統治のもとにおいては、有力者も卑賤の者も、兵士も商人も、誰もが平和に
己の財産と土地を享有し、社会的不公正、苛斂誅求、暴虐といった天下の主君に対する不満も
存在しなかったからである。
むしろ、万事において彼が守る平等と公平に接し(これは異教徒の領主としては、領主たちが気ままで
勝手で絶対的である日本においては一層驚くべき事である)、人々は彼の死よりも、
長命をより願っている。
そしてデウスは現世における彼のこれらの道徳的美点に対し、全日本の一般的平和と万人が
彼に服従しているその大いなる従順さのみならず、彼に与える繁栄と富を以って報い給いて
いるように思われる。すなわち、彼の時代に多くの大銀山が発見され、日増しに多く見出されつつ
あるからである。日本本土から15ないし20里離れた北方の島である佐渡国で特にそうである。
それらの鉱山から毎年、150万近くの金が彼の元にもたらされるが、その全てを、他の鉱山と
彼の通常の領地から入るその他の物とともに蓄え、莫大な蓄財をなしつつ有り、
彼自身すら、自分がどれほどの財産を有するか解らないほどだ。
(16・17世紀イエズス会日本報告集「1603、04年の日本の諸事」)
徳川家康が将軍になった頃の、家康の統治に関する、イエズス会への報告書である。
0853人間七七四年
2013/12/09(月) 20:43:21.86ID:3n9htrgX0854人間七七四年
2013/12/09(月) 20:45:38.75ID:GVe9cOsq0855人間七七四年
2013/12/09(月) 20:47:19.61ID:ZdDWT3fI0856人間七七四年
2013/12/09(月) 21:06:20.49ID:u3+/maNH0857人間七七四年
2013/12/09(月) 21:11:26.34ID:3n9htrgX生産量の増大は海外からの製錬技術導入がデカいかと
0858人間七七四年
2013/12/11(水) 11:28:42.04ID:JLb88KpBこれにより早飛脚を江戸へ遣わしたが、その文箱の表書には「二月二十七日落城」
と記してあった為、到着後は開けるよりも前に落城だと解り上様は非常にご機嫌であった。
豆州の才知を人は皆賞賛したと言う。
(翁草)
知恵伊豆のわかりやすい吉報の伝え方
0859人間七七四年
2013/12/12(木) 20:54:25.79ID:YL3k1QBG彼に服従しているその大いなる従順さのみならず、彼に与える繁栄と富を以って報い給いて
いるように思われる。すなわち、
0860人間七七四年
2013/12/12(木) 21:23:54.46ID:kGo+PvsQ0861人間七七四年
2013/12/12(木) 21:26:23.30ID:0Dqn7Mo80862人間七七四年
2013/12/12(木) 23:07:01.39ID:m2JjHdAW0863人間七七四年
2013/12/13(金) 00:39:10.43ID:10YkNS0b0864人間七七四年
2013/12/13(金) 00:47:10.26ID:i/S2zPc20865人間七七四年
2013/12/13(金) 01:37:28.99ID:UJw9Q4/o0866人間七七四年
2013/12/13(金) 04:46:09.72ID:3n1ZdTDjそれゆえ将軍、すなわち公方である内府様(徳川家康)がそれら諸国すべての絶対的君主と成って以後、
既に数年にわたってそれを享受していることは、極めて大いなる奇跡である。
彼は大将軍としての勇気、気力を欠くわけではないが、すこぶる思慮に富み、生来安寧を愛するので、
日本帝国の統治を巧みに行い、誰も彼に対して頭を上げぬよう、万人を制御して帝国を平和の内に
維持し、保持するのみならず、また領主や個々の殿達の間に、かつて有ったような軋轢や不和が
生じないようにしている。
そして、その前任者太閤(秀吉)の息子の若君(豊臣秀頼)(その父の死によって「内府」は若君の
最高後見人となり、成人した暁には帝国を譲渡することになっていた)に関しては、こうなるのでは
あるまいかと思いながらも、内府様が如何なる決断を下すか解らないため、これまで全ての人を
不安がらせていたが、本年、決意を明らかにし、帝国を己の物として占奪するだけでなく、自らの
一族の内に永遠に留めることを決めた。
これ故、己の世襲の帝国である関東諸国から息子(秀忠)を上洛せしめた。二男ではあるが、彼に将軍、
あるいは公方の称号を与え、自分の死後は帝国を相続するよう、彼を嗣子、かつ相続人にしておいた
のである。
この若君(秀忠)はその国だけでなく近隣諸国全ての領主を伴い、7万の戦士とともに来た。
この随行者たちを引き連れて、父が待っている都に近い伏見の政庁と城に到着した。
こうして、このような盛儀を凝らして都に入り、多数のいとも素晴らしい兵士たちを華々しく披露した。
彼らは様々な衣服や衣装を身にまとい、落ち着き払っていて、ヨーロッパにおいてさえ一見の価値のある
ものだった。
数日後、内裏の手から将軍の称号を受けに行ったが、都の入った時よりもいっそう豪華絢爛であり、
万事において整然と秩序だっていたので、これを見た全ての人をすっかり驚嘆させた。
しかし、更に驚くべきことは、全てが平穏かつ冷静に行われたことである。
息子とともに来た者、父のもとに居る者とで10万以上の兵士が集まり、またこの盛儀の模様を
見物のため、至る所から集まってきた他の人々は無数に上るにも拘らず、その盛儀の続行中と、
さらに新将軍が政庁に留まっていた間、ずっと騒乱、混乱、喧嘩、抜刀騒ぎも障害沙汰も
見られなかった事は、どのキリスト教団にあっても奇跡的なことと考えうるが、日本においては
尚の事である。
この事は全て、老将軍(家康)が平穏や冷静と逆のことを厳罰を以って禁じ、良政を施き、秩序をもたらした
故である。
(16・17世紀イエズス会日本報告集「1605年の日本の諸事」)
イエズス会士の見た、秀忠の上洛と将軍宣下の模様である。
0867人間七七四年
2013/12/13(金) 08:27:57.39ID:Mp1RUEqp市原悦子か家政婦ミタかって気がしてきた
0868人間七七四年
2013/12/13(金) 08:31:59.77ID:kvdTqzD10869人間七七四年
2013/12/13(金) 08:56:31.96ID:3Mw3fjM6慶長のご時世に信康事件なんて記憶のかなたなんだろうなぁ
0870人間七七四年
2013/12/13(金) 12:31:58.03ID:VrQd2kJn0871人間七七四年
2013/12/13(金) 15:00:16.15ID:iMqDIAli0872人間七七四年
2013/12/13(金) 19:46:45.39ID:LCgDdyEp「いいか、絶対人に見せるなよ、絶対だからな!」
て書いてるようだし
0874人間七七四年
2013/12/13(金) 21:11:12.89ID:ufDYiMOw0875人間七七四年
2013/12/13(金) 22:38:58.34ID:s3z/37Jl・・・三河物語は日記ではないのかw
0876人間七七四年
2013/12/14(土) 09:18:29.46ID:rYHd2BrEそれをいいことに、茂賢の家臣の何某が、茂賢の膳に座り、焼き魚をつまみ食いしていた。
そこに、にわかに茂賢が戻ってきた。
何某はうろたえて、その場から走って逃げ去った。
茂賢は
「あいつ、人の食ふものを食ふて、にくい奴」
と言っただけで、そのままその膳に座り、家臣の食べかけの焼き魚をそのまま食べた。
この何某はのち、茂賢に殉死した。
(葉隠)
0877人間七七四年
2013/12/14(土) 09:41:50.79ID:+Be+fVmw0878人間七七四年
2013/12/14(土) 16:20:06.33ID:cP/j8n0+昔の武士は梅の花を好んだ。
まだ厳しい寒さが残る季節に他の花に先駆けて咲く梅を愛した。
また梅干しは、三毒を断ち今日の難をのがれる、と言う縁起物として、
また戦場での塩分補給、生水を飲んだ時の消毒用として、
梅干しと米粉と氷砂糖粉を練った梅干丸を携帯したという
0879人間七七四年
2013/12/14(土) 17:06:43.77ID:NdzNtOkV0880人間七七四年
2013/12/14(土) 18:04:23.19ID:yoT5N7Fsみんな湧かして飲んでたのか?
0881人間七七四年
2013/12/14(土) 18:21:11.22ID:Ng1smCtb0882人間七七四年
2013/12/14(土) 21:28:49.82ID:cP/j8n0+宣教師により多様な種類の砂糖が入って来たのが戦国時代あたりらしい。
織田信長のドラマに高確率で金平糖が出てくるのも時代背景の演出かも
0883人間七七四年
2013/12/14(土) 23:47:26.20ID:wVoCp08T生国は尾張の瀬部であるが、後に志州が唐津に招いて最も篤く接待した。
剃髪して徳容と号し、嫡子三郎右衛門は禄二千石を受けて長臣となる。
ある夜、盗人があり、そこだぞここだぞと騒ぎになった。宅地の隅には高木が屏の上に
枝を垂れているところがあり、徳容は「盗人があらば、ここをたよりにして越えるだろう」
と、日頃から見定めていたので、ただちにその屏の陰に走って盗人を待った。
思った通り、盗人はその屏に登って逃げようとしたので、徳容は簡単に盗人を斬り留めた。
志州はこれを聞いて「壮年の者がかえって七十有余の徳容に殺されたのは、少しも
(壮者の)つたなさからではない。まさしく(徳容の)普段の心掛けに基づくのだ」と戒めた。
――『武将感状記』
0885人間七七四年
2013/12/17(火) 20:02:53.69ID:mbHB+0I8私への見舞いとして十介を送っていただき嬉しく思います。
一、私の病状は重かったのですが宗巴の針治療をいままで続け、その上に少峯の
薬を飲んで、もはや本復となりましたので、少しも少しも心配なさらぬように。
この他の事は特にお伝えするほどのこともありません。
一、このような状況でしたが気力が無く文を見ることはもちろん書く事も出来ず
あなたからの文も一つも見ることが出来ませんでした。
上様からも何度か御見舞いの使者を頂きましたが会うことが出来ませんでした。
あなたの文は見たかったのですが養生の為と思い見ないようにしていました。
この事はどなたにでもお話して下さい。
一、あなたや子供たちが息災であるとの事で満足これにすぎる事はありません。
子供の虫気も良くなったとの事で目出度いことです。
一、十介は私がもう少し元気になった様子を見せてから帰らせようと思います。
正月三が日を過ぎた頃にでもおっつけ上洛させます。
一、私は坊主になって(=剃髪して)顔を見た所、幽斎そのもので自分の事ながら
胆をつぶしました。歌道を知らぬ幽斎だと思っていただければ良いでしょう。
光賢殿、吉田浄勝院へもお話ください。十介が上洛する折に詳しく話させます。
三斎
宗立
閏十二月廿五日
春には上洛してお会いできるでしょう
(元和6年閏12月25日 まん宛細川忠興書状)
大病を患った後、忠興が娘(烏丸光賢室)に送った書状
0886人間七七四年
2013/12/18(水) 10:44:26.85ID:QFG9LPX3家臣36名「………」
0887人間七七四年
2013/12/19(木) 05:03:39.33ID:ACznjzyc天気雨ふり。お城には政宗様への御礼を述べる人々が参りました。田村、原田左馬介、桑折殿、大枝殿を
初めとして、各々罷り帰った事を申し上げました。
その後政宗様は西の丸に御出になりました。夜に入ると大唐人が3人参って、花火をしました。
その後、歌も歌いました。
(伊達日記)
当時政宗は会津の黒川城を居城としていましたが、そこに中国人の一団が来て花火を上げたり
していたのですね。
0888人間七七四年
2013/12/19(木) 08:48:05.16ID:OSByJAU8中国人だと毛利とか宇喜多の領民になってまう
0889人間七七四年
2013/12/19(木) 09:30:11.41ID:ihEDoJgo0890人間七七四年
2013/12/19(木) 12:41:02.24ID:VCt9Vx+F0891人間七七四年
2013/12/19(木) 17:20:09.08ID:PiemEt8y論説だとかコメンテーターに辟易してるからかもしれん
0892人間七七四年
2013/12/19(木) 19:33:09.82ID:u9luYqnm0893人間七七四年
2013/12/19(木) 20:45:22.63ID:8RKKPJp/wikiからの引用で申し訳ないが、調べてみると唐人とは異国人のことを指すようですね。
宣教師の可能性もあります。また打ち上げ花火は狼煙花火(信号弾)が進化したものらしい。
鼠花火の類は室町の頃からあったようなので「花火」だけではどれを指すのかわからんよ。
0895人間七七四年
2013/12/19(木) 21:05:23.22ID:7QhCaGbC「歌道を知らず」は三斎忠興のことを指している。
>>893
原文では「たいとうちん」となっているので支那人であることはほぼ間違いない。
宣教師だったら宣教師であることを記すはず。花火はせいぜい手元足元で鳴る程度のものだろうね。
0896人間七七四年
2013/12/19(木) 22:07:55.23ID:7QhCaGbC1580年三月、北条と交戦状態になった武田勝頼は織田信長との和与の道を探していた。
運良く佐竹義重が信長との和議を媒介すると言ってきたので、それに乗っかることにした。
複雑な経緯を経て武田の人質状態となっていた信長五男の信房をも織田に返還した。
ところがこの経緯を上杉景勝に知られ「織田との一和は我等と一統の上と決めたはずだ」
と怒られてしまった。「いや義重が頻りに取り持つと言ってきたもんだから」勝頼は弁解した。
「上杉も織田に使者を送ってると聞くが我等はそんな雑説は信用してない。
誓書も交わしたし今後も入魂で行こう」と牽制したりもした<跡部勝資書状写/歴代古案>。
と言いつつ勝頼は翌月も織田と交渉していたようだ<柴田勝頼書状写/信長文書の研究補遺208>。
勝家は「従甲州御詫言之使者<中略>無御許容候」と記す。佐竹義重の面目も丸つぶれという話。
さて同じ頃、北条氏政は関東八州を織田の「御分国に参る」として、
織田に対して従属の意思を表明していた<信長公記巻十三>。
信長はこれに上機嫌だったようで、氏政の使者を労い、京都見物や琵琶湖で舟遊をさせた。
氏政が何処まで本気だったのかは知らない。
或いは北条は、織田に対して徳川同然の立場をと考えていたのかもしれない。<おわり>
0897人間七七四年
2013/12/19(木) 23:29:08.83ID:8RKKPJp/唐人で調べてみろ
加藤嘉明も朝鮮人の職人を松山に連れてきて住まわせてる、その在所が唐人町な
唐だからって中国だけを指すのは大間違い、外国人なら唐人という認識だったと思う
支那だと言うなら東北大名が明の商人と交易していた事実を示してくれ
0898人間七七四年
2013/12/19(木) 23:32:31.82ID:0iEhCDur0899人間七七四年
2013/12/19(木) 23:35:52.67ID:2DJmvlGR「大唐人」とわざわざ「大」を入れてるってことは、その他の異国人と区別するためじゃないの、てことでは
0900人間七七四年
2013/12/19(木) 23:45:04.43ID:RNHTWueY0901人間七七四年
2013/12/20(金) 00:22:54.81ID:JgRG8k1f唐が中国という脳内変換は歴史を学ぶ上では危うい
北陸や東北は日本海交易が盛んだったと思うがそれは国内での話
0902人間七七四年
2013/12/20(金) 00:32:12.78ID:cma4lvlsそれを認識した上で「唐人(異国人全般)」と「大唐人(シナ人)」を区別したんじゃないのか
って議論では
だから「唐人」の資料ではなく「大唐人」の資料をもってくるべき
0903人間七七四年
2013/12/20(金) 00:35:48.40ID:JgRG8k1f東洋医学に通じていたのなら多分大陸のほうでしょ。
得体がしれないから唐人とされたのかもしれないけどね。
0904人間七七四年
2013/12/20(金) 00:41:12.52ID:JgRG8k1fじゃあ君が大唐人がシナ人と断ずるのなら、その資料を持ってきなよw
ちなみに松山の唐人町は大唐人、小唐人の二地域があるけどな
0905人間七七四年
2013/12/20(金) 00:43:55.42ID:YzQJhkeq0906人間七七四年
2013/12/20(金) 00:55:41.48ID:JgRG8k1fID:7QhCaGbCがID:cma4lvlsなんだろ?
議論のすり替えwもいいけどさあ
人に資料を求めるまえに自分でも調べろよ
無学者の脳内変換は危ういぞっとw
以上
0907人間七七四年
2013/12/20(金) 01:11:29.39ID:cma4lvls自分は>>899=>>902だが>>895ではない
「きっとこういうことを言いたかったんじゃないの」と代弁というかしゃしゃり出ただけ
その上で>>901を書かれたから、自分も含め「唐=シナ(中国)」は危険、てのは認識していると強調した
もし>>895が違った理由で「シナ人」と主張したのなら単なる自分の勇み足だが。
今のところ調べた限りでは唐が存在していた時の「大唐人」、「琉球館訳語」での「大明人」「琉球人」「日本人」「大唐大人」と同列に
挙げられている「大唐人」しか見当たらないから、自分のレスに根拠が無いと言われても仕方ないが
0908895
2013/12/20(金) 01:22:23.83ID:Pk6rYjYc「たいとうちん」は支那人ではない可能性もあるということで謝罪致しまする。
ごめんなさい。
という訳で向後の為にもこの話題はこの辺で打ち止めがいいと思うっス。うぃっス。
0909人間七七四年
2013/12/20(金) 01:32:53.76ID:Ix0EMOIvでも>895さんももういいようだしいいや
0911人間七七四年
2013/12/20(金) 01:54:21.92ID:kNWRSvtc0912人間七七四年
2013/12/20(金) 02:23:36.55ID:eyNm+/h6三歳さんだって歌は人並み以上に読めたわけだよね
如何に幽斎玄旨が当時を代表する歌人だったのかが分かるね
0913人間七七四年
2013/12/20(金) 04:13:06.90ID:jzrQm4/nネットワークができていたので、中国語を普通に喋れる坊さんが結構いたみたいだ。
大名や武将の辞世で漢詩形式の物があるけど
中国語で読み上げてみると韻やリズムがきちんと揃っていて
いい出来なんだわ。
まぁ、辞世の作成にそういう連中が一枚噛んでると思うと
なかなか面白いものがあるよね。
0914人間七七四年
2013/12/20(金) 18:14:48.12ID:P2cxD71R大坂冬の役の前に、土井利勝へ書を贈り、
「日頃、御厚恩を受けてはいますが、現在は御勘当の身なので報い奉る期がありません。
いま罪を蒙っていることは天下の人の知る所ですから、偽って大坂へ籠もったとしても、
城中に疑う者はおりますまい。
されば間隙を窺って秀頼公を刺殺し、日頃の御厚恩を報い奉れば、兵を労さずして
天下は平穏となるでしょう。そこで妻子を留めて人質にするつもりです」と言いよこした。
これに利勝は返書して「私は以前から貴所が精忠にして私のないことを知っています。
しかりといえども、貴所が初めより将軍家の親愛を得られていたことを知らない者はいません。
今、わずかな罪を蒙られているとしても、余程の事があるわけではないのですから、
人がどうして疑わないことでしょうか。その時には貴所の志は成し遂げられません。
もしまた、城中が信用して貴所の志が遂げられたとすれば、世間は必ず将軍家がさせなさったと
みなすでしょう。その時には万世に婿を害したとの謗りを受けなさることでしょう。
絶対に人臣の為すべきことではありません」と言いよこした。
重政は書を受け、涙を流してこの事を止めたという。
――『名将言行録』
0915人間七七四年
2013/12/20(金) 18:23:29.29ID:o3xsw6+T0916人間七七四年
2013/12/20(金) 19:45:43.42ID:qxAnJEv4その夜は播磨国茨木に宿をとった。そして奉行に命じて、諸々の士卒、下人、水手に至るまで、
48万人分の兵糧を緒軍に分配した。
黒田如水はこれより以前、既に豊前を息子の長政に譲っていたため、今回は諸将とともに軍勢を率いて
渡海することはなかったが、彼は秀吉の帷幄の謀臣であったため、名古屋の幕下に留め置かれ、
軍の計策・評定に加わっていた。
この時、黒田長政の家臣である母里太兵衛に、秀吉がこのような言葉をかけた
「昔、中国四国、九州の先陣として、数度にわたって勘解由(如水)を派遣した時、その勘解由の
先陣は、いつも太兵衛が勤めていた。その上合戦のたびに、一度も遅れを取ることはなかった。
お前の数々の戦功には、感じ入る次第である。
そして今また、朝鮮に先手として甲斐守(長政)を遣わし、太兵衛もその共を仕るという。
であれば、これまでの戦功に対し、そして今回もその忠勇を励ますため、天下に隠れないほどの規模の
褒美を与えよう!」
そう言って、抜身の鑓十五本を与えた
「これを、今後毎回、出陣に際して持つことを許そう。朝鮮に渡海すれば、これにて手柄をいたせ。
かつて織田信長公はそのお供に、抜身の大太刀を百振持たせていた。それは大変威勢のあるものだった。
太兵衛も、抜身の槍を十五本持たせれば、なお武名を顕すだろう。」
母里太兵衛は元より勇士であったが、今回秀吉によってその名を表され、さらに類なき御恩賞に預かり、
御領地をいかほど貰うよりも勝るものだと、かたじけなく思ったという。
(黒田家譜)
太閤秀吉、母里太兵衛に十五本の抜身の槍を与える、というお話。
0917人間七七四年
2013/12/20(金) 19:58:31.89ID:rCsAE7D70918人間七七四年
2013/12/20(金) 19:59:28.86ID:JkcNTlMY0919人間七七四年
2013/12/20(金) 20:03:45.29ID:Ix0EMOIv0920人間七七四年
2013/12/20(金) 21:05:53.53ID:Dl5YEsqb0921人間七七四年
2013/12/20(金) 23:58:27.52ID:e5TxBGZe>>920
京を出立したその日のうちに播磨に入れるとも思えないし、
播磨に「茨木」って地名があるなんて寡聞にして聞かないから、
多分そうじゃないかな?
0922人間七七四年
2013/12/21(土) 00:09:40.78ID:NiAQdOkr0923人間七七四年
2013/12/21(土) 00:15:26.65ID:w8e5ssZF0924人間七七四年
2013/12/21(土) 00:19:11.89ID:G38eoc5n金色の槍を携えた(アフリカの)カフル人を護衛として連れて参りました。
カフル人たちは赤い衣装をまとい、太鼓と笛を携えていました。
太閤様はカフル人たちに太鼓と笛に合わせて踊らせました。
カフル人たちは元来、この上もなく踊りが好きでしたから、それを見る人々は腹を抱えて笑い転げました。
と申しますのは、彼らは順序も調和もあったものではなく、あっちに飛びこっちに跳ね、
始めたら最後、いくら「もうよい、十分だ」と言いましても踊りをやめさせる方法はなかったからでございます。
太閤様は彼ら一人一人に、前が開き、きわめて繊細な麻で出来た肌着である白いカタビラをとらせました。
私が彼らに、これを賜わった方に尊敬をあらわし、名誉としてそれを頭上にいただくようにと言いつけますと、
彼らはカタビラを、まるでインドの船乗りたちのターバンのように頭にくくりました。
太閤様をはじめ、居合わせた政庁の人々全員が楽しんだ光景でありました。
カピタン・モールは、輝くばかりの出で立ちで訪れましたので、この政庁では彼の噂でもちきりとなって、
人々はあれほどの人間はこの世にいないと語らいました。
人々がそのように噂する動機をもたらしましたのは、たまたまその時、
一人は学者で、もう一人は軍事の高官である、二名のシナの使節が居合わせることになったからでありました。
彼らは七十名あまりのシナ人を従え、2人の使節は白馬に乗り、
従者たちは彼らの流儀で笛とパテーガス(金属製の鉢)を演奏していました。
ですが一行は誰も皆甚だ汚く悪臭を放ち、醜態の極みでありました。
もとより彼らの多くは大麻のような目の粗い胡椒袋のカルサンを着用していましたが、
その所持品はまったくくだらないものばかりで、太閤様への贈り物は携えていませんでした。
一行は数日間滞在して、その間、そこに居合わせていました日本の全諸侯からつねに余興を伴った宴会のもてなしを受けました。
しかしシナ人たちはいとも謹厳に構えて、あたかも誰をも相手にしないように見受けられました。
宣教師ジョアン・ロドリーゲスの手紙より
知ってる人は知ってるだろうが、当時のヨーロッパの衛生状態はかなり悪い
そのヨーロッパ人にここまで言われてしまうシナ人の話
0925人間七七四年
2013/12/21(土) 00:46:53.73ID:OEsnFTJh明皇帝からの勅使に偽装させた部下の謝用梓と徐一貫の事なのかな
ポルトガル人から見ても胡散臭かったってことか
0926人間七七四年
2013/12/21(土) 01:51:15.23ID:Wf+sB5zs16歳くらいに日本に来て、その後豊後の修練院で育った人で、
日本語や日本文化に精通して通訳士として活躍した人だから
感覚的にはあまり西洋人的ではないのかも
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。