倹を守りて士を引く
寺沢広高は肥前唐津の城主となった。12万石の大名になったのに、その奥方は木綿の衣服を着た。
年始などの儀式であっても塩魚又は乾魚を用いた。このように倹約とするかと思えば、部下には千石取りの者を40人を養った。
広高は常に我を通さず人の意見に耳を傾け、技能ある者を招いた。故に豪傑の武士は先を争って集まったという。

(武人百話)