大坂落城の後、二条城にいた徳川家康は「昔、桜井庄之助勝次という者がいて、三河以来、
度々戦功をあらわした。勝次が亡くなった時には、たいへんな哀惜のあまり涙を流したものだ。

その子供は本多忠勝に属していたのだが、この七、八年ばかりどこにいるのかを知らない。
誰ぞ知っている者はいないか」と、尋ねた。

これに本多忠政が「その者はかつて臣の家におりましたが、故あって現在は田中忠政のもとに
参ったとお聞きしております」と申し上げた。

よって家康は忠政に「召し連れて来るべし」と言い付け、その後、勝次の子、庄之助勝成は駿府へ
参り、家康に謁見した。家康は勝成に向かい「お前の父は毎度戦功をあらわし、忠勝が病気の折には
いつも代わって軍卒を指揮していたうえに、たいそう気幅ある武士であった。

今に存命であれば、並々の者では及ばないことだろう」と言った。これを聞いて勝成は、
「たいへん幼くして父と別れ、何事も理解しておりませんでしたので、只今の御詞で亡き父の遺事まで
御賞誉をお受けし、追慕の心はいっそう堪え難くなりました」と申し上げた。

家康は永井尚政を田中のもとへ遣わし、これまで数年勝成を扶助したことを賞して勝成を召し出し、
後に書院番にしたという。

――『徳川実紀(貞享書上)』