戦国ちょっといい話38
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0001人間七七四年
2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:7tklFMSw戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1365370828/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372591033/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:SXhn3q/6>>1のスレ立て御照覧あれ
0004人間七七四年
2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:nMVkQe8t0005人間七七四年
2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:w+zchL550006人間七七四年
2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:6XFOWKQo彼女を愛して慕いこがれ、仲立ちを入れて婚姻を望んだのであるが、北政所の父は
これを認めなかった。このために、秀吉は心をいっそう病んだ人のようであった。
この件が織田信長の耳に達し、信長は近臣を介してその実否を尋ね、父に命じて
北政所を秀吉に嫁がせたのだという。
――『新東鑑』
0007人間七七四年
2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:mMEqwZncこの時長野業政の家臣で、隠れなく勇者と呼ばれた赤名豊前守が殿となって退いていたが、その途中、
自分の旗指物を道の傍のサイカチの木に引っ掛けてしまった。
赤名は取ろうとするも枝葉が茂り、そのうえ刺が生えているので取ることが出来ない。
しかしこのまま捨てていくのは武士の名折れ、家の恥であると難渋している所に。同僚である
土肥実吉が引き返してきた
「何をしている!?早く城へ戻れ!」
そう怒鳴ったが赤名は退こうとしない。
この上は木を切り倒すより仕方がないと、二人は馬から降り、その馬の尻を叩いて城の方に駆け去らせると、
サイカチの木を切りにかかった。
もし敵が追撃してくれば、ここで斬死する他ない。やっとの思いで木を切り倒し、旗指物を取り戻すことが出来たが、
その時にはもう敵の甲州勢4,50騎が直ぐ目の前まで迫っていた。
しかし、さすがは勇者である、赤名豊前守と土肥実吉は少しも動じず槍を取って構えた。
ところが、どうしたことであろう、敵は目の前5,6間ほど先でピタリと止まり、掛かってこようとしなかった。
彼らは、道に意味ありげに倒れているサイカチの木に、なにか仕掛けがあるのではて警戒したのである。
その時、先に追い返した馬をみた城兵が、赤名と土肥が危ないと見て、10騎ばかりで引き返してきた。
その騎馬の足音を聞いた甲州勢はやはり罠だと思い
「すわ!反撃してきたぞ!」
と、口々に叫んで逃げ去った。
こうして赤名と土肥は危ない命を全うし、箕輪城へと戻ることが出来た。
(関八州古戦録)
0008人間七七四年
2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:O18MHKQv0009人間七七四年
2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:yBNh4XDa意図しなかったとはいえ空城計に通じるものがあるな
0010人間七七四年
2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:lEn5yrH0小田城を狙っているのです!!!
0011人間七七四年
2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:bDMg7T570012人間七七四年
2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:9zYsfYAG0013人間七七四年
2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:O9vwY6Hs0014人間七七四年
2013/08/31(土) NY:AN:NY.ANID:sOTeg4TL0015人間七七四年
2013/08/31(土) NY:AN:NY.ANID:R9llPonMやがて高慢の心を越し無学な者を見下し始め、
他人からは今の人とは違うなどと言われよい気になり、
私は今の時代には惜しく、戦国時代、はたまた鎌倉時代に生まれるべきだったと、
そんなことを言い出し、自分を特別な人間のように思いだす。
こういう武士には天罰が当たるに決まっている。
どれほど優れた才能持ちでも、
人に好かれぬ性格の者は役に立たない。
お役に立つこと、奉公にも、自分をへりくだらせ、
同僚たちの風下に立つことを喜べる人間ならば、
人から嫌われるということはないものである 【葉隠】
常朝さん奉公の場でなんかあった日の書き置きだろうねw
0016人間七七四年
2013/08/31(土) NY:AN:NY.ANID:usMvy3t2いちおここ戦国時代だから
0017人間七七四年
2013/08/31(土) NY:AN:NY.ANID:0Kx82jpiその身一人の栄華を極めるというわけでもない。皆々がこのような太平の時に巡り遭って、
福を子孫に遺そうと思うのは、万人にとって同じ事であろう。其の方もそのように思うか」
と、尋ねた。
これに春野は「その通りの御尋ねでございます。御馬の先の働きも只今の御治世の勤めも
皆御意の通りです。自分の子孫をも潰し、忠義の為に身を落ちぶれさせる者は、
古よりめったにない有り様であると存じます」と答えた。
さらに忠朝は「人々がこのように大切でいとおしい子孫に、よく教えようとしないのは
何事であろうか。多くの人はその身が大禄、高位になると、自分が下賤だった時を忘れて
子孫にも栄華に奢らせてしまい、自身が死んで三年も経たないうちに家風は甚だ衰微し、
老功の家来も散々になってゆく。そんな様子を私は数多く目の当たりにした。
かつて駿府の町人に一子がいた。その者は子のためと一生稼ぎ、万両を重ねて与えて死んだ。
ところが、子は栄華に育ち、万金を宝とも思わず、五年のうちに尽く他人の宝となった。
ついに子は家を売って乞食となってしまった。
これを町人は愚かだと言う人もいるが、武士も多くはこれに似ている。人は子孫に幸を遺そうと
思うのなら、教えが第一なのだ」と言った。この春野には一子がいて寵愛していたので、
忠朝はこのように風刺したのであろうということだ。
――『責而者草(太平将士美談)』
0018人間七七四年
2013/08/31(土) NY:AN:NY.ANID:R9llPonM面白い話だと思ったのでつい・・・
一応自己判断で戦国時代に関する内容、
もしくは島原の乱に参戦した世代までで書いてますけど、
ちょっと今回無理矢理だったですね
ごめんなさい(ToT)
0020人間七七四年
2013/08/31(土) NY:AN:NY.ANID:26RuGwK/0021人間七七四年
2013/09/01(日) 00:04:13.84ID:1yKI0p48紹介する人は、いつも結構気を付けてるよ。
0022人間七七四年
2013/09/01(日) 00:45:05.77ID:cEfABFN/武田崩れにより、天目山に逃れようとした武田勝頼一行は土民に遮られそれも叶わず、
天目山麓の田野に陣をはり、最後の別れの宴を催すことにした。
宴もたけなわとなった頃、土屋昌恒は
勝頼に向かい、「こんな野原で最後の宴をせねばならなくなったことを思うと
心は乱れ、正気を失い、理性を失いそうなほど辛いことです。
このようになってしまったのがどうしてかと申せば、
家臣達が心変わりしたためですので、そうであるなら
御屋形様はこの私も裏切るのではないかとご警戒なさってはいやしないか、
ずっと案じておりました。
そこで、そのようなことは決してない証を、御目にかけましょう。」
と言って、5歳になる我が子に向かい
「お前は、まだ幼少なので、大人とともに歩むのは難しい。
だから先に行って、六道へ続くあの世の岐路で、
御屋形様が来るのをお待ち申し上げよ。私も御屋形様とともに行く。
さあ、西を向いて手を合わせ、念仏を唱えよ。」
と言った。それに対し昌恒の子は
「私は父上の子ですので、言いつけに従いそのようにいたします。」
と答え、楓のような手を合わせ念仏を三回唱えた。
昌恒は腰の刀を引き抜いて我が子の胸元に押し当て、刺し殺した。
勝頼はこの有様をご覧になり、
「なんということをするのだ。最後の言葉も他にかけようがあっただろうに。」
(あまりあへなき事を、いたしけるものや。さいごのこと葉をも、かけやうつるものお)
とおっしゃって涙を流し、供の者達も涙で小手の鎖を濡らしたという。
理慶尼記より雰囲気訳で。
忠節もここまでいくと悪い話な気もしますが、5歳の子の健気さに免じていい話にしておきました。
0023人間七七四年
2013/09/01(日) 20:46:14.78ID:zIN5y4iZのぶは青岩院の住職の母だったという。
そんなのぶの武勇伝を3つほど。
1:天正の時代、沼田城をめぐって武田と北条が凄烈な戦を繰り返していた。
ある時、北条軍が沼田へ侵攻してきて、あちこちで略奪暴行放火を行った。
そしてそれがのぶの村へ及びそうになったため、のぶは他の村人を山へ隠し、1人で北条の軍兵に応対した。
のぶは薪を2束持って峠の上に立ち、下のほうから来る北条軍を待ち受けた。
そしてやってきた北条軍4,50人に対して「こんな女を捕まえても酒代にもなるまい。
大勢隠れている所(沼田城か)へ行って奪い返したらどうだ!」と叫んで、持っていた薪を敵兵へと投げつけた。
薪は唸りを上げて先頭の敵兵にぶつかり、敵兵を倒した。
続いて2本3本と薪を投げつけると敵兵はバタバタ倒され、北条軍は負傷兵をかついで退却した。
その現場は四辺に血が飛び散り、のぶが投げた薪は地面に深くつきささり抜けなかったという。
2:あるとき、のぶが洗濯をしていると、ガタイの良い男が来て「(布の片側を持って雑巾絞りのように捻じって)
水を絞ってやろう」と言ってきた(そのまま布を引き抜いて盗み去ろうと企んでいたのか)。
どうも盗人らしいのでのぶは表面的にお礼を述べて、「女であるが絞る力はあるから用心してくれ」と言って、
2人はそれぞれ両端を持ち洗濯物を絞っていった。
そして最後にのぶは男ごと布を高く振り上げて、降り下げて、男を石に叩きつけて殺したという。
3:のぶが6,70歳のとき、子である文凰の寺を新築することになった。
しかし梁が大工10人がかりでも上に上がらない。
それを見かねたのぶは息子である文凰を呼ぶと、2人でなんなく梁を上げてしまったという。
「上州のおんな」より
上州のかかあ天下はこの辺りから始まったのかもしれない。
0024人間七七四年
2013/09/01(日) 21:49:27.32ID:TAaLyFp4お前のようなババアがいるか
0025人間七七四年
2013/09/01(日) 21:52:26.43ID:RkELit1H0026人間七七四年
2013/09/01(日) 23:33:05.51ID:2GFdSp9uさせてはならない」と家憲に定めた。その理由について光悦は「そのようなことを
すれば、その娘が将軍家のお気に入りとなり、若君を産むことになるかもしれない。
そうなると、一門の者が手厚い引き立てをこうむるだろう。女の縁で栄えたとなっては
先祖は不快であろう。高言を申すようだが、この心掛けは大名、小名、旗本、陪臣の
人々にも持ってほしいものだ」と説明した。
江戸時代を通じて旗本らが出世の糸口として将軍家に娘を側室として差し出すことが
当たり前のように行われていたことを考えると、光悦の家憲は異色であり、その心は
清廉であった。
0029人間七七四年
2013/09/03(火) 12:15:46.10ID:54ym2F4b水軍の将なのに陸戦モンスターな武将
陸戦型モンスターのおかん
陸戦型モンスターの住職
夏になると襲来する人型災害の軍神
戦国の関東地方間違いなく修羅の国だろ
0030人間七七四年
2013/09/03(火) 12:19:59.68ID:m6DXoPXl0031人間七七四年
2013/09/03(火) 12:32:19.71ID:RaItPiyL0032人間七七四年
2013/09/03(火) 17:01:46.35ID:cLNOne+j0033人間七七四年
2013/09/03(火) 18:13:10.59ID:ozVi0gocある日、秀吉が徳川家康と囲碁をする時、長晟は碁石を温めて献上した。
家康はその気の利いている事を褒め称え、長晟が成人した後、
常にその人となりを称誉していた。
――『寛政重修諸家譜』
0034人間七七四年
2013/09/03(火) 19:05:16.62ID:vp2wnvDa0035人間七七四年
2013/09/04(水) 12:12:10.81ID:iO7OvFGN0036人間七七四年
2013/09/04(水) 12:53:43.54ID:KnFbnJks過ぎるのも悪く、及ばないのも悪い。」との事であった。
(翁草)
ししあてと言うのは鳥の胸筋を親指と人差し指で挟んで肉付きを計る事です。
強く挟むのは良くなく、緩く挟みすぎるのも良くないと言うことで
0037人間七七四年
2013/09/04(水) 13:57:58.21ID:NBMDFz4+0038人間七七四年
2013/09/04(水) 15:40:19.73ID:pZojWgQq皆さんご存知の『海苔』は、江戸時代までは貴重品でした。
古く『大宝律令』にも献上品とされるほどの、希少な珍味が、
庶民の食卓に上がるきっかけになったのは、徳川家康のお陰。
江戸幕府を開いた家康に新鮮な魚を献上する際、悪天候でも
漁に出る事無く、安定して魚を供給できるように、生簀を作った所、
柵として海中に埋めた雑木に、大量の海苔が付着したのです。
家康は海苔が好物だったらしく、大いに喜び海苔の養殖を奨励。
江戸近辺の品川・大森で海苔の大量生産が始まったそうです。
その後、浅草で紙づくりの技法を応用した板海苔の製造が盛んに。
江戸の名物として持て囃され、全国の庶民に広まったそうです。
ソースは『海苔 家康』で検索すると、詳しい説明がされています。
0039人間七七四年
2013/09/04(水) 15:54:27.65ID:0hSh/XBf0040人間七七四年
2013/09/04(水) 17:05:50.59ID:B8mLSUxC家康公はいい仕事したな
0041人間七七四年
2013/09/04(水) 23:38:36.09ID:ImEPggs90042人間七七四年
2013/09/05(木) 00:18:40.58ID:2YHlU/b50043人間七七四年
2013/09/05(木) 00:23:03.45ID:Z7myl96m気候と治安の落ち着き、流通網の確立で各地で芽吹いていた特産品づくりに拍車がかかった感じかな
0045人間七七四年
2013/09/05(木) 18:24:45.16ID:sqpeqVL6そんなある時の御咄で、秀忠は「下々はこの星を乱の兆しと疑っているが、いずれもよく心得よ。
広大な天下に星ひとつ現れたところで、どこの国に該当するのかなど誰にも分からない。
必ず自分の国が該当して乱が起こるなどと思うのは愚かなことだ。
それに、たとえ善くても悪くても、天の気に現れることをどうして人間に除くことができるだろう。
これはみな愚か者の申すことである」と言った。その明君の心掛に感じぬ者はいなかった。
――『責而者草』
0046人間七七四年
2013/09/05(木) 23:06:35.57ID:lM0bQjHn>乱が起こる
>どこの国に該当するのかなど誰にも分からない。
いやいやいや、あいつしかいないだろwww
0047人間七七四年
2013/09/06(金) 00:29:16.94ID:AA8S7NYdあいつじゃなくてあいつのいとこ達のいざこざじゃね?
0048人間七七四年
2013/09/06(金) 09:39:11.13ID:hM9lccFi何でもかんでも結び付けようとすると無理な解釈になるぞ
0049人間七七四年
2013/09/06(金) 11:05:22.37ID:r3AMGQUI0050人間七七四年
2013/09/06(金) 20:42:34.47ID:GYFI/Lw6ある時、安土城に堺衆が参ったので皆を天守に召し連れ御茶を下された。
信長公はその中にいた木津屋と言う町人が堺一番の目利きだと聞いていた
ので、かの光忠を残らず見せ「この中に実休光忠がある。どれか選び出して
みよ」との仰せであった。
木津屋はすぐに二十五腰を残らずじっくりと観察し、そこから一腰を取り
出して「その御道具はこれでございます」と申し上げた。
選び出された刀は間違いなかったので、信長公は手を拍たれ「どうやって
見分けたのか」と尋ねた。
木津屋は「この太刀は切っ先に少し刃のこぼれが見られます。実休は最後
に敵の脛当を切り払い刃が少し欠けたと伝え聞いておりますので、この刀
だと申し上げました」と言った。
信長公は感じ入られたと言う。
(翁草)
三好実休最後の佩刀「実休光忠」のお話
0052人間七七四年
2013/09/07(土) 13:04:50.25ID:hBWbco2M0053人間七七四年
2013/09/07(土) 13:28:16.21ID:34RxAEqM0054人間七七四年
2013/09/07(土) 14:24:20.33ID:59SWZme6東京の地下鉄溜池山王駅の近くには溜池発祥の碑があり、その由来についてこのように書かれている。
「溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備をかねた外堀兼用の上水源として作られ 水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には 鯉、鮒を放し 蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。
徳川家光は遊泳したとも伝えられ,、江戸後期には日枝神社より赤坂四丁目に通じる 料金を取った銭取橋が架設され 「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと云われる。(後半略)」
明治時代に埋め立てられて今に至るのであるが、秀忠公が戦国の時代を忘れないながらも庶民の暮らし・娯楽にも配慮したお話。
0055人間七七四年
2013/09/07(土) 19:13:10.49ID:ob4rvdHM0056人間七七四年
2013/09/07(土) 19:46:50.18ID:hBWbco2M0057人間七七四年
2013/09/07(土) 21:08:11.86ID:I0PrKMFi義堯が
「昔、異国の孟賁という豪傑は、牛の角を握って捻り潰したというが、本朝には未だ、
そのような武者はおらんなあ。」
と言うと、そこに正木大膳亮(信茂)が進み出て
「私がやってみます」
と言い出した。里見義堯は宴会の良い余興だと面白く思い、庭に出て大きな牛を連れてこさせた。
すると、大膳亮は牛の角を左右の手に握り、まるで五月雨の頃に草を抜くように、
いともたやすく牛から二本の角を引き抜いた。
これには里見義堯以下、驚き肝をつぶさぬものはいなかったという。
(関八州古戦録)
0058人間七七四年
2013/09/07(土) 21:32:27.95ID:er6/6ZjN0059人間七七四年
2013/09/08(日) 05:25:15.57ID:ttDeX7al0060人間七七四年
2013/09/08(日) 06:07:17.64ID:pUDhCi6C0061人間七七四年
2013/09/08(日) 06:23:25.36ID:blsv0fNV0063人間七七四年
2013/09/08(日) 07:53:44.59ID:OlnOaeaz0064人間七七四年
2013/09/08(日) 10:44:06.44ID:bK/qCks70065人間七七四年
2013/09/08(日) 18:47:31.26ID:CRrfZWGO0066人間七七四年
2013/09/08(日) 19:03:12.03ID:7jINFss/寝ながら考えたけど、H川F孝って誰か分からん。
てか、F行ってことは「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」のどれかだよな。
一体誰だ?w
0067人間七七四年
2013/09/08(日) 19:07:30.12ID:HcnRaQ8K・握撃
でわかる人多いと思うが
細K藤Tだろう
0068人間七七四年
2013/09/08(日) 19:13:06.67ID:JrMmHmej0069人間七七四年
2013/09/08(日) 19:15:40.80ID:HcnRaQ8K不干斎ハビアンはFabianだし
0070人間七七四年
2013/09/08(日) 19:17:38.69ID:HcnRaQ8K0071人間七七四年
2013/09/08(日) 19:23:02.53ID:3xK8lQqR0072人間七七四年
2013/09/08(日) 19:25:06.05ID:KFgB3Lv4立花宗茂が信頼できる(ラテン語でfida)人だったからだったり
0073人間七七四年
2013/09/08(日) 19:36:28.54ID:NKCzoW0T0075人間七七四年
2013/09/08(日) 19:48:33.15ID:KFgB3Lv40077人間七七四年
2013/09/08(日) 21:21:36.66ID:XyVVbRT2現代がhiなら500年前はfiだったとしても違和感ないな。
0078人間七七四年
2013/09/08(日) 21:32:14.73ID:NKCzoW0T単純に現在の発音に置き換えるのも危険かと
0079人間七七四年
2013/09/08(日) 21:37:19.62ID:wTGbpE250080人間七七四年
2013/09/08(日) 23:30:10.58ID:vjme8aqk0081人間七七四年
2013/09/08(日) 23:40:48.39ID:l1iIOzhHまた、スペイン語でもラテン語のfがhに変わっているから
f→hはよくある変化だったかと(hは他のラテン系言語同様発音されないが)
あと、奈良時代まで遡ればハ行はpだったみたい
0082人間七七四年
2013/09/09(月) 02:27:28.51ID:WFAeV14U0083人間七七四年
2013/09/09(月) 02:36:12.65ID:hwC/kQAa漢音の発音とか梵語とかでハ行がp音と想像がつく
般若(はんにゃ)→prajna
波羅蜜多(はらみた)→paramita
鉢納?(はんどま)→padme
0084人間七七四年
2013/09/09(月) 10:54:05.28ID:j9AOOZfrその頃の観世太夫が幕から出てきたのを、列席のなかからイヤと声
を掛けた人があった。
おごそかな席で軽率な事をしでかしたのは誰であろうか、御不興を
蒙るのではないかと、各自が唾を飲み互いに顔を見合わせたが誰が
言ったのかは判らなかった。
案の定、御能が終わってから「先ほど列席のなかから声を聴いたが
誰であるか、何を思って声を掛けたのか」とのお尋ねであった。
その時、柳生但馬守が進み出て「先刻、観世太夫が切幕から出てきた
のを見た所、その気満ち満ちて一身の固めが隙もなく、中々容易には
立ち向かい難く見えましたので、御前を忘れ思わず声を掛けてしまい
ました」と申し上げると
「流石は但馬守、相応の褒めようだ」と言い、何の咎めも無かったと
言う。
(翁草)
0085人間七七四年
2013/09/09(月) 16:12:54.47ID:DbvvDBkA去ぬる三月十八日の軍、畢て後は敵味方互に我居城/\へ取籠り、六月上旬迄休息をぞしたりける。
斯て上坂治部大輔泰貞は屋形へ登城して、謹て言上しけるは、
今度鳥井本表にをいて忠戦をとげ候綿々に、恩賞褒美あたへさせられ、
尤たるべき旨をぞ申遣る。雄家卿宣ひけるは、今度の一戦に勝利を得る事、偏に汝が武畧の達したるゆゑなり。
我汝を見立名代をゆづる処に不レ違、眼力佐々木六角に一しほ付け候儀、満足此所に期す。
江北の諸士家恩褒美の儀は、我隠居の身なれば、汝心に相叶ふやうに可2執行1。たとへ我弟なりとも不忠にをいては其罪をたゞし、
誅罰すべしと仰ければ、泰貞も達て謙退申上げれ共、雄家卿立腹に及び畏て候とて、それ/\〃に恩賞褒美をあたへける。
各忠より賞の重ければ、世中の習にて欲にはふけるものなれば、諸卒大に悦て勇みをなさぬ者はなし。
かくて上坂の城にて江北の諸侍をそれ/\〃のもてなしにて、三献の酒も漸過行は、泰貞立出軍評定せしむべしとて、
旗頭共と評しけるにも、浅見対馬守、上坂信濃守などは年老たけたる者なれば、二人進み出て申けるは、
今度のてだて何と可レ被レ遊候やと申ければ、泰貞申されしは、去ぬる三月の軍は鳥井本にての取合なれば、
場所窄くして働自由ならざる故、思ふ程に勝利なし。重ては濱道越に押よすべし。
此中は幸に空打つゞき雨降す磯山の脇并に四川なども白河原に成たると聞、此分にて有ならば五三日の内に雨降べしとも不レ覚。
たとへば一日二日大雨降どもわたらざる程にはよもふらじ。
さあらんにをいては鳥井本口は付城の面々可レ防。磯山越に打寄無二の一戦可レ遂なり。
先てだてといづば随分此議を秘すべしとて、皆並居たる侍をのけ、只旗頭四人近付ての評議なり、
明後十一日は吉日なり。十日に廻文をまはし支度をさせ、十一日も暮四つ時分に当城を立て、
磯山の城へ取のぼり、後陣の者共を待合せ、人数余程着たりと見は、付城の者に約諾して置、
一左右すべし。其時鳥井山、米原山に郷人少々雇ひ置、鬨を作らすべし。敵其声を聞、此方より又中道をよすると思ひ、
切通道へかけむかはん事案の内なり。若さなくともからめてを大事とかたむべし。其時味方の鳥井本口の付城の者共、
城より人数を出し責戦ふべし。旗本よりよき時分をはからひ松原村へ切て入、平井、奈良崎、朝がけにふみつぶし、
佐和山の追手へ押よせ、外かまへ町屋を焼払ひ、追手からめ手一同に攻めなば、城中やはかこたふべき。
即時に城は此方へ可2乗取1と申ければ、浅見対馬守、上坂信濃守尤よろしき御術にて御座候。
去ながら観音城より多人数可レ被レ寄、大将の旗むかはさるさきに佐和山の城御手に入申事はいかがと申ければ、
泰貞こたへていはく、尤なる不審なり。からめて一千七百にて付城の者ども責させ、磯野、阿閉、西野、今西、両熊谷、
彼等五人をして平田山に人数を段々に立させ戦ふべし。然らばたやすく来る事よもならじ。
其内には城をもみ落すべしといはれたりければ、尤御術よろしきとて旗頭共、同音に感じける。扨それよりして、諸士をのれ/\が住所へ帰り支度をぞしたりける。
0087人間七七四年
2013/09/10(火) 05:48:44.42ID:gmqUApuHそこで気分が少し良くないと、日夜御薬師衆に脈を見せ薬などお召し上がりになった。
政宗公は常々健康に深く気を使われていて、ご自身で脈を見、少しの不調でも薬を召し上がるなど
されていた。
ある時のお話に
「病というものを、症状が軽いなどと言って油断するのは、不覚悟というものだ。
どんな物事も、小事より大事は起こるのだから、症状が軽い時こそ養生第一なのだ。
養生などしなくても、時節が来なければ死ぬことはない、などと世間ではいうが、
身を捨てたままにしておくのは天道に背くのと同じことである。
であれば、少しの煩いでもしっかり養生すべきなんだ。
まあ。俺なんかは若い時から、風邪をひいて患った、なんて事はほとんど記憶に無い。
少し風邪っぽいなと思った時は、具足を着て馬に乗っていればいつの間にか治っていたものだ。
あれは、医者の薬にも優っていたよ。
この頃の若い奴らを見たら、世間の風俗に従っているのだ、なんて言いながら、小袖をいくつも重ね着して、
そのうえ朝から晩まで焚き火やコタツから離れない有り様だ。
ああいう連中に、薄着に具足を着せて野山に滞在させたら、敵に合う前に凍え死にしちゃうな。」
そう言って、お笑いになった。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、健康についてのお話である。
0088人間七七四年
2013/09/10(火) 09:54:08.91ID:WaHVwlZD・・・・・・・・・いや、なんでもない
0089人間七七四年
2013/09/10(火) 10:22:48.08ID:o0WtZN5xはい
いいえ
逃げる
0090人間七七四年
2013/09/10(火) 12:28:35.23ID:ka5t23dF0091人間七七四年
2013/09/10(火) 14:43:11.15ID:kTlcmov7やだー!
0092人間七七四年
2013/09/10(火) 17:22:58.46ID:94lW3wVaある人が「あなたは何故自分の功を言わないのだ」と、尋ねると、
由久は「夜戦の射は功となすに足らず」と言った。その後、由久の射た矢を送って来た者がいて、
矢には漆でその姓名が記してあり、蜂須賀至鎮は由久を呼んでこれを示した。
由久は矢を取り、灯火に照らしてじっと見ると、「字が剥がれています。恐らく私の名では
ないでしょう」と言って、その賞を辞した。
――『峻徳公略伝』
0093人間七七四年
2013/09/10(火) 23:45:26.17ID:DhDE9OYD0094人間七七四年
2013/09/11(水) 00:11:01.16ID:scoqACeA0095人間七七四年
2013/09/11(水) 00:14:51.48ID:d6Kvm/fL天正5年11月18日、信長公は東山で鷹を使われていたが、にわかに大雪が
降ってきて鷹は風に乗って大和国内の方へと飛んで行ってしまった。
御秘蔵の鷹であったからこれを探してあちこちへと尋させた所、次の日に
なって大和国の越智玄蕃と言うものがこの鷹を連れてやってきた。
信長公は非常に上機嫌で褒美として御服一重、秘蔵のブチの馬を下され、
更に「望む事があれば言ってみよ」と仰せられた。
玄蕃は「年来の所領を闕所とされ失ってしまったのです」と事情を申し
上げた所、所領を安堵され忝くも朱印状まで与えられた。
禍福は天にありとはこのことであろう。
(信長公記)
信長公の迷い鷹を保護して旧領を回復できた大和国人のお話
0096人間七七四年
2013/09/13(金) 01:16:40.63ID:IDv+2p7H種村肖稚守は元々柴田家にいて評判が良かった。
後に多くの人から招かれたが仕えなかった。前田利家も懇ろに迎えられたけれども種村は仕えなかった。
利家は種村が琵琶を弾くこと好むと聞いて、白雲という名物の琵琶を種村に贈った。
するとその志に惹かれたのだろうか、利家に仕えて佐々成政と越中朝日山の合戦で、目を驚かす功名を遂げた。
その後、浅野長晟に奉公して、彼の白雲の琵琶は今浅野家にあるという。
(常山紀談)
有名な逸話を一つ。利家公のケチじゃないちょっといい話でした。
0097人間七七四年
2013/09/13(金) 01:30:58.24ID:h0RdJRX0そこに島津義久がやってきた。
「やっべ、逃げなきゃ!」
盛秀は慌てて逃げ出したが、そのときに笠を狩場に落としてしまった。
しかもその笠にはご丁寧に「肥後権之丞盛秀」と自分の名前が書かれていた。
戻って笠を拾うわけにも行かず、盛秀は隠れて見守るしかなかった。
そして義久は笠を拾い上げ。笠の内にある名前を見た。
「ヤヴァイ見つかった!殺される。間違いなく俺は殺されるガクガクブルブル」
どうしたことか笠の名前を見るや義久は微笑し、筆を取り笠の名前の部分を墨で消した。
そして何事も無かったかのように狩りを始めたのである。
こうして盛秀は命拾いし、以後盛秀は一層忠勤に励むようになったという。
慶長16年(1611年)、盛秀は義久の死に殉じた。
0098人間七七四年
2013/09/13(金) 12:16:21.81ID:1HQZ0GQa0099人間七七四年
2013/09/13(金) 12:30:41.20ID:72lGd9ja0100人間七七四年
2013/09/13(金) 16:47:38.02ID:qY8PPkwB0101人間七七四年
2013/09/13(金) 17:02:03.45ID:iXc9A5tl0102人間七七四年
2013/09/13(金) 17:04:16.32ID:xaaHGw2G0105人間七七四年
2013/09/13(金) 18:20:50.10ID:IDv+2p7Hhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778090
ココを見ると、「しょうちのかみ」と読むらしい
詳細は不明
0106人間七七四年
2013/09/13(金) 18:28:05.52ID:SnJbCcWi0108人間七七四年
2013/09/13(金) 20:27:48.69ID:QxYbf4H+0110人間七七四年
2013/09/13(金) 21:04:08.94ID:QxYbf4H+http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778095/79
常山紀談は近代デジタルライブラリーにも複数あるけど
種村肖稚(推か?)寺となってるものもあった。
底本によって相違があるのかも知れない。
その他でも種村肖稚守、種村肖椎寺、種村肖推寺とか
いろいろあって混乱してる模様
0111人間七七四年
2013/09/13(金) 21:24:57.22ID:QxYbf4H+思いっきり崩して書くと書体が似てるから
原典から起こす時に「寺」→「守」に化けたのかもしれない。
0112人間七七四年
2013/09/13(金) 21:43:33.25ID:S1BGN2z10113人間七七四年
2013/09/13(金) 21:51:04.10ID:QqZZYeT/http://www.e-tmm.info/komatu.htm
「椎」かどうかはこの文書だと微妙だけど、他にあるんだろうね。
「守」と「寺」とは、崩し似てるからよく間違われる。
とは言え、意味的には間違われにくいはずだけどね。
東百官にもないし、なんだろうと思ってたから「寺」とわかって納得した。
0115人間七七四年
2013/09/14(土) 13:16:00.79ID:T7Wcvv0M悪い文化人 細川忠興
0116人間七七四年
2013/09/14(土) 15:03:51.00ID:3SM9mdo60117人間七七四年
2013/09/14(土) 15:24:57.02ID:XLGnFnct0118人間七七四年
2013/09/14(土) 17:51:50.23ID:bupZ0KhP直孝の器識卓越を見て、三女を直孝に嫁がせた。後に直孝は大坂の役で功あって
彦根三十万石となった。直孝は深く主恩に感激して、つねづね人に対してこれを語った。
家政はしばしばこれを諌めて「ただ、感戴の心を持って、その終わりを全うするべきだ。
盛んにこれを言い立てるよりも、黙々と胸中に銘じたほうが良い」と、言った。
直孝は深く感謝して、これを常に徳とした。
――『蜂須賀蓬庵』
0119人間七七四年
2013/09/14(土) 17:57:35.68ID:aKzFUpsv0120人間七七四年
2013/09/14(土) 18:00:10.24ID:6dKoS9sY0121人間七七四年
2013/09/14(土) 18:48:17.27ID:yUnyqPrAなぜヤツはこの人のことを「古狸」なんて言ったんだろうw
0122人間七七四年
2013/09/14(土) 18:58:55.35ID:XLGnFnct0123人間七七四年
2013/09/14(土) 19:05:57.03ID:1coYmZzv0125人間七七四年
2013/09/14(土) 20:51:59.25ID:Ii/ORhFp江戸での葬儀の後、政宗の死骸は乗物に乗せられ仙台へと出発した。
ところがこの乗物が、日を追うごとに重くなり、江戸を出た頃はわずか10人ほどで担いでいたのが、
後の方には30余人でようやく担いでいた。
それに加えて、何より不思議だったのが、死骸の乗物の先に、政宗が日ごろ愛蔵していた
鷹二羽が鷹匠の手に据えられた状態で仙台へと下っていたのだが、江戸から離れて千住の
少し先において、先を行っていた鷹が突然、鷹匠の拳に強くしがみつき、羽を少し出すように
見えたが、そのまま拳から落ちて死んでしまった。
鷹匠は「これは!?」と驚き後ろの鷹匠を見ると後を着ていた鷹も、先の鷹と全く同じように
拳より落ちて死んでいた。
本当に不思議な事である。
このようにして政宗の死骸は忌中は30余日にて仙台に到着し、覚範寺に入れられた。
これは松島(瑞巌寺)が狭かったためである。
そのうちに高野山を始めとした他国の出家衆も諷経のため参集した。
さて、死骸が仙台に着いて3日過ぎると、政宗に束帯の装束、冠を着け、太刀、腰の物、脇差しを入れ、
人が静まった後、御城より南、愛宕のわきに堅固の地を見立て、乗物を石の唐櫃に入れて、
一丈あまり(およそ3メートル)ほど掘りそこに沈め、その上に、嫡子忠宗が御霊屋を建立した。
ところで、ここで死骸を納めるための土を掘っていた時、何かの蓋にしたような、大石が掘り出された。
古き人がこれについて
『これこそ昔、万海上人がここに葬られた時にその棺の蓋石であろう』
と申していた。確かにこの伊達政宗という殿は万海と呼ばれた上人の再誕であると言われていたが、
なんという有難き奇縁だろうかと、人々は話し合った。
この御霊屋は瑞鳳殿の名付けられ、保春院(清岳)が導師として、自分の寺は金蔵主という僧に渡し、
自身はこの霊屋の下に新寺をたて、正宗山瑞鳳寺と言った。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の死後の、様々な不思議な出来事についての逸話である
0126人間七七四年
2013/09/14(土) 20:56:49.97ID:1coYmZzvこれを元にしたのか、それとも実際に細川家でもあったのか
0127人間七七四年
2013/09/14(土) 20:58:59.81ID:atXhZ6mNこれひょっとして万海上人の墓暴いちゃった?
0128人間七七四年
2013/09/15(日) 20:54:30.62ID:GYo8cNo4ある日、彼は自宅に総奉行の佐世元嘉を招いて宴会を開いた。元嘉は毛利輝元の寵愛と庇護を
最も受けている人物で、外面的にはキリシタンにも親切そうであったが、内心では嫌っていた。
宴会の後、熊谷元直ら二人はキリシタンの教えについて論じ合うことになった。
佐世「キリシタンの教えには役立つものは何もなく、すべて実質の無いものだと思う。これは
経験的に見て、有力な人はその教えを受け入れないし、もし誰かが受け入れたとしても
小西行長や大友吉統などのように領地を不運に失うことになった」
熊谷「キリシタンの教えを信じる要人たちが悲惨な目にあうという貴殿の意見には何の根拠もない。
神仏を篤く信じる主君の輝元殿さえ、やはりその所領を没収されてしまった。仏僧の安国寺
恵瓊や仏教の諸宗派を庇護した石田三成なども生命と財産を失ったし、多くの異教徒の領主
たちも貧窮に陥り、追放され、権力や地位、名声を失った」
佐世「私の意見が正しかろうが正しくなかろうが、要人がキリシタンにならないのは事実だ」
熊谷「それでは毛利殿の家中で私は貴殿ほど優れていないという言うのか? ならば、どうして
誰もキリシタンにならないと言えるのか?」
怒りのあまり、冷静さを失った熊谷元直は思わず短剣を引き抜いた。それを見た佐世元嘉は
立ち上がって広間の外に退出しようとしたが、元直はすぐに冷静さを取り戻し、短剣を投げ捨てて
自分の非礼を詫び、許しを請うた。
熊谷「今のは時として人を襲うことのある突発的な情熱であった。短剣を抜きはしたが、それで
貴殿を傷つけるつもりなど微塵もなかった」
そこに居合わせた数人の身分の高い武士たちが、すぐに割って入って仲直りできるよう
仲裁してきた。これにより二人は和解し、佐世元嘉は熊谷元直に対して、生きている間はいやな
思いはさせないし、その問題には触れないと約束した。
0129人間七七四年
2013/09/15(日) 21:23:03.66ID:MJOrvx9F宗教論争しても答えなんか出ないだろうしな
その人が信じてるからこそ意味のある事を、理屈で説き伏せるのはうまくいかない
うまくいかないどころか関係が悪くなる
それ考えたら熊谷さん佐世さんともに立派な態度
人によっては斬るまでいってたと思う
0130人間七七四年
2013/09/16(月) 09:12:49.07ID:mhszX0vTこれが熊谷粛清の原因?
0131人間七七四年
2013/09/16(月) 16:36:28.34ID:aQgLqbiZイエズス会日本年報によれば佐世と熊谷の論争があったのは1604年で、粛清の一年前だから
直接の原因ではないと思う。
ただ主君の毛利輝元は以前から熊谷元直がキリシタンの教えを捨てて改宗することを望んでおり、
たびたび部下を差し向けて論争を仕掛けていたようだ。
0132人間七七四年
2013/09/16(月) 19:37:46.09ID:VGBt9qR+「ほらやっぱり役立たねーじゃねえかww」
な感じで
0133人間七七四年
2013/09/17(火) 19:40:26.49ID:pow65qDPそして益田にはテルにも少しくらい良い所があるんだと語らせて欲しい
テルにも三成人気みたいなのが出るんじゃないかと私気になります
0134人間七七四年
2013/09/17(火) 21:53:05.51ID:pwMBEeys「俺は、昔長命なるものが二人居たのを召し出して聞いたことがある。
『どんな事でもいいが、長命のもとであると考えていることはあるか?』と
一人はこう言った
『私がこれだと思っていることは、先ず朝に、その日の気持ちに似合った朝食を
心のままに食し、その上、湯を好い加減の温度で沢山飲み、その後は晩まで何も口に入れずいれば、
一段心持ちが良くなります。
尤も晩も上記のようにいたしましたら、長き夜のわきまえの無い話ですが。』
もう一人はこうだ
『私は別に、これと行って思い当たることはありません。
ですが食べ物は、昼夜を限らず何度も、食べたいと思った時に少しずつでも食べ、
食べたくないと思っている時は、勧められても食べず置いておき、心のままに食事をするので、
この様に長命にもなったのでしょう。』
と言っていたよ。」
(政宗公御名語集)
伊達政宗が聞いた、長生きの秘訣についての話である。
特にオチはない。
0135人間七七四年
2013/09/18(水) 00:06:05.15ID:7zFhz/c9動物実験でも示されてた気がする
0136人間七七四年
2013/09/18(水) 01:30:26.20ID:2LmPf4Y60137人間七七四年
2013/09/18(水) 01:43:24.74ID:Cn0zKvWdしかしDQN四天王が比較的長生きなのは、ストレスレスだからなのか
0138人間七七四年
2013/09/18(水) 05:15:55.00ID:619smRxmでもその分だけ周りがストレスフルなんだよな
0139人間七七四年
2013/09/18(水) 11:57:43.86ID:JOk32wcgそれで「生活を真似すれば長生きって単純な話じゃなさそう」くらいには思ってそう
0140人間七七四年
2013/09/18(水) 12:03:22.55ID:7zFhz/c90141人間七七四年
2013/09/18(水) 12:25:44.73ID:ZUB6TiMs0142人間七七四年
2013/09/18(水) 13:35:10.28ID:vrKaJLdC0143人間七七四年
2013/09/18(水) 16:21:59.89ID:HaeJ4URT不憫すぎる
0144人間七七四年
2013/09/19(木) 00:11:39.23ID:x8Di44JS力を合わせて母親を養ったが、その生活は非常に貧しかった。そこで三兄弟はある取り決めを
した。すなわち、彼らのうち一人が巾着切り(スリ)になったふりをして、残りの二人が
彼を捕縛して司直に突き出すことであった。都ではこのような泥棒を捕らえたものには
若干の金の小判を与えられるとの布告が出ていたので、その小判で母親の窮状を救い、
生かせるつもりだったのだ。
くじで泥棒の役を決めた結果、末弟が選ばれた。末弟は二人の兄によって縛り上げられて
司直のところへ連行され、泥棒であると訴えられた。司直の取り調べに対し、末弟は自分が
泥棒だということを認めたので、司直は布告されていた通りに褒美の金の小判を二人の兄に
与えた。二人は小判を持ってすぐに立ち去ろうとしたが、その前に泥棒として処刑されようと
している末弟に別れを告げに行った。囚人の末弟は泣き出し、兄たちも涙を禁じえずにいた。
その様子が悪人に対するものとしてはあまりに不自然だったので、司直は二人が出て行く時に
家来に彼らの尾行を命じ、囚人の方は処刑せずに拘置しておくよう命じた。
二人の兄は自宅につくと事の次第をすべて母親に語った。あわれな女は話を聞くと泣き、
大声をあげながら言い始めた。
「黄金なんか欲しくない。そんなものは海に放りこむがよい。私のために息子が死ぬよりも
私が飢えて死んだ方がましである」
これを聞いた司直の家来はもどって主人にすべて報告した。司直が囚人の少年を呼び出して
問いただすと、そのあわれな少年はすべてを語った。司直はただちにこのことを徳川家康に
報告した。家康はたいそう感心し、その三人の兄弟たちを呼んでおおいに褒め、囚人となって
いた末弟に銀貨千枚分に相当する俸禄を、そして、二人の兄にはそれぞれ銀貨五百枚に相当する
俸禄を与えた。(イエズス会年報集)
0145人間七七四年
2013/09/19(木) 07:32:31.02ID:F5g8rYsA0146人間七七四年
2013/09/19(木) 07:44:59.84ID:9gHAW0cB0147人間七七四年
2013/09/19(木) 08:03:53.51ID:diKGQqas0148人間七七四年
2013/09/19(木) 10:16:29.62ID:MAe3BcXo0149人間七七四年
2013/09/19(木) 12:34:23.96ID:/qfkMUJmなり越中国木船城を攻めた。
利家旗本は十町余り脇に備え先備をもって城を攻めたが、先手が破れ
下の田中まで二町余り逃げ崩れて来た。
利家はこれを見て「なんとも大崩れしたものだ。先手に山崎勝兵衛が
居るなら、もう取って返す頃だがどうしたのだろうか」と申された時、
敗軍の中から誰とも知れぬ武者が一人取って返した。
これに励まされて加賀勢がドッと大反撃にでて敵を城へと追い込んだ。
しばらくして先手より鳥毛羽織の使番が来て勝利を注進してきた。
利家はこれを聞いて「誰が真っ先に取って返したか」と尋ねられた。
使番は「山崎勝兵衛が真っ先に引き返して突き返しました」と言い、
利家は「そうあるべき事だ」と申された。
諸人は大将というのはよく人を知っておられるものだと感心したと言う。
(翁草)
0150人間七七四年
2013/09/19(木) 18:45:35.59ID:uXBRmXpQ横槍を入れて大いに戦功をあげた。
同七日には水野日向守勝成と共に先駆けし、余すところなく相働いたので、
徳川家康は大いに感心し、
「藤堂和泉守と井伊掃部頭は天下の先手なり。堀丹後守は今後、横槍の備をすべし」
と、命じたのだという。
――『新東鑑』
0151人間七七四年
2013/09/19(木) 21:24:31.63ID:21IkK7OE0152人間七七四年
2013/09/19(木) 22:18:43.01ID:aT20A93i直弼横死後の処遇とか一橋派と政敵関係にあったこととか考えると
割と当然な流れという気も
0153人間七七四年
2013/09/20(金) 01:43:53.91ID:aXfFsYKg東照宮への攻撃命令は拒否したりと筋はそれなりに通してるわけだし
0154人間七七四年
2013/09/20(金) 10:31:33.60ID:xtcm4lv70155人間七七四年
2013/09/20(金) 18:23:52.63ID:Yx7K9cVm0156人間七七四年
2013/09/20(金) 22:39:30.30ID:pwag+Yl70157人間七七四年
2013/09/20(金) 22:48:31.56ID:3vQedzum0158人間七七四年
2013/09/20(金) 22:53:29.35ID:sakwLiPn0159人間七七四年
2013/09/20(金) 23:00:00.06ID:pwag+Yl7あの、
源平の時代なら平重盛、源義経
南北朝なら楠木正成
戦国なら真田信繁
みたいなのあるよね?
判官贔屓というか敗者の美学みたいな
0160人間七七四年
2013/09/20(金) 23:06:00.65ID:IdlRbwFy0162人間七七四年
2013/09/20(金) 23:08:00.57ID:LPH6QAGU0163人間七七四年
2013/09/20(金) 23:12:40.87ID:sbnA7TuCとりあえず歴史難民なあなたには↓
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1173399547/
0164人間七七四年
2013/09/21(土) 15:03:14.78ID:XPIvG35a立場考えたら信繁のほうが気楽に狂いながら突っ込めたかもしれないね
0165人間七七四年
2013/09/21(土) 15:06:50.75ID:URCEdLHY0166人間七七四年
2013/09/21(土) 15:19:34.29ID:JFYMTRxl0167人間七七四年
2013/09/21(土) 15:41:09.16ID:XPIvG35a味方に目がいってたのかw
0168人間七七四年
2013/09/21(土) 17:06:46.49ID:lgVP95c10169人間七七四年
2013/09/21(土) 20:30:51.56ID:DDm4deg5ある朝、その仏像は逆さまにされ、数本の指の部分が切断され、痛めつけられていた。
奉行の角左衛門はこれを知ると憤慨し、仏像にこんなひどいことをするのはキリシタンに
違いないと決めつけて、市中のキリシタンたちに元通りに仏像を補修するよう命じた。
キリシタンたちは無実であったので、そのようなことには応じない、と、きっぱりと拒否した。
この毅然とした返事に奉行はいっそう腹を立て犯人を見つけ出すために多数のキリシタンを
拷問にかけることにした。このことは市中に知れ渡った。しかし、日本人は自分が犯した
罪のために無実の罪の人間が苦しむことを不名誉と考えているので、すぐに加藤清正の家臣
である三人の男たちが奉行所にやってきて、自分たちが酒の勢いで仏像にひどい侮辱を
くわえたことを白状した。この仏像の一件がキリシタンのせいにされ、拷問されることを
阻止するため、真犯人である三人の男たちは罪に対する罰としてただちに切腹すると申し出た。
これを聞いた奉行はキリシタンに罪を着せていたことが間違いであると知った。そして、
真犯人の三人については切腹をさせないためか、あっさりと許した。(1605年イエズス会年報)
0170人間七七四年
2013/09/22(日) 12:05:33.02ID:AnC5gjXE備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
0172人間七七四年
2013/09/22(日) 14:54:43.82ID:HaytvJp9「トンットンッ) 藤島殿、大変な事が起きました」
生益が戸を開けるとそこには天台宗本庄院の住職がいた。
「今朝、いつものように御神体を清めようと宝殿を開いたところ、
神仏の御首が落ちておりました。
なにか悪い兆しではないかと思い、
お城へも申し上げるべきかとそれを持参いたしました。」
生益は、
「住職殿のお気遣いありがたく思いますが、
御神体のお首というものは殿にお目にかけるものではありません。
しかし、事の次第はわたしが申し上げておきましょう」
と言って登城し、そのことを申し上げた。
すると直茂さまは、思いのほかお怒りになり、
「酷い生臭坊主がいたものだな。
この鍋島直茂に計略を仕掛け騙そうとは。
すぐに牢屋番の者を召し連れて行き、拷問にかけて本音を吐かせよ」
と仰せになられた。
生益には直茂さまの怒りがまるでわからないので、
「お言葉ですが、あの住職は不吉な兆しを感じたゆえ、
殿の御ためを思い朝早くから駆けつけ参ったのでございます。
拷問にかけるなどとはいかがなものでございましょうか」
すると、ますますお怒りになり、生益も叱りつけ、
「出来ないのならもうよい、他の者を使わすから下がってよいぞ」
と、生益は、
「出来ないと申しているのではありませぬ。
わかりました。わたしが行きます」
とお答えして、牢屋番の者を召し連れ本庄院へと向かった。
そして住職を呼び、
「殿が非常にお怒りになっておられる。早急に拷問を加えよとのことだ」
と伝えると、
「なんとも迷惑な話。さっぱり意味がわかりません」
と住職が答えた。生益は、
「住職ほどの身が拷問にかけられ白状させられたとあっては、
誠に見苦しいことだとは思わぬか。
そんな姿をさらすまえに、ありのままを話してはくれぬか」
と言ったので住職は、
「わかりました。それならば本当のことを話しましょう。
御神体を清めておりますとき、ゆれ動かした拍子でお首が落ちてきたのです。
そこで、ふと思いついたのが、早朝のように申し上げたなら、
この寺の御造営費も増やしていただき、繁盛もすると考え致したことでございます」
と白状した。(1/2)
0173人間七七四年
2013/09/22(日) 15:22:24.30ID:HaytvJp9すると直茂さまは先程とは打って変わってお笑いになられた。
それとは反対に生益は怒りをあらわにして、
「あの住職は朝早くからわたしを叩き起こし騙しました。
その怨みもございますので磔にしてやりたいと思います。
どうかあの住職の処分をわたしに下されますようにお願いします」
と申し上げた。
すると直茂さまはますますお笑いになられ、
「そちは、最初に住職の言葉を信じたので、
いまその嘘が明らかとなり腹を立てているのである。
このわたしは初めから住職の企みを察していたから、
最初に腹を立てたけれども、今はさほど腹の立つこともない。
あの坊主は、普段からわたしが通りかかるたびに、
『鍋島さまを尊敬しています。ぜひ寺へお立ち寄りください』
と言うから、わたしも行かねばならぬと一度立ち寄ったことがあるのだ。
そして住職は吸物を出してきたが、椀の底に土が付いていた。
そんなことをしながら、顔を合わすと、
『鍋島さまの御恩、ありがたいことでございます』
などと言っている。
そのように思う相手に、膳を出すときに注意が欠けるとは思えないから、
このクソ坊主め、腹の中では何を考えているかわかったものではないぞと、
常日頃から思っていたのだが、今日ついにこのような企みまで始めた。
しかし神仏にかかわることでもあるし、磔にかけるほどではない。
あの住職を寺から追い出すだけでよかろう」
と仰せられた。
生益は直茂さまの洞察力にただただ驚愕したという。
これは生益の孫の清左衛門から聞いたことだ(2/2) 【葉隠】
0174人間七七四年
2013/09/22(日) 20:06:56.00ID:wShu+/Jv0175人間七七四年
2013/09/22(日) 20:16:00.60ID:zPTnO4cn0176人間七七四年
2013/09/23(月) 18:28:42.07ID:/tgL76Ie第一に奥州より献じられた白譜の鷹。これは希代の逸物である。
第二に青の馬。どんな砂浜石原を乗り回しても躓かない龍馬とも言うべき馬である。
第三に長康(森蘭丸)である。その忠功は世に知られている。
信長はこの三つがすぐれた秘蔵であると常々口にしていたという。
――『名将言行録』
0177人間七七四年
2013/09/23(月) 19:55:14.56ID:50/jNX11藤田は直江に憲元を家臣として召しだすよう推薦し、直江が直接会ってみたところその作法態度が只者では無かったため、三千石で召抱えた。
関ヶ原の戦いが起きる少し前、上杉家では浪人を集めていた。
憲元もその下命にしたがい530人の浪人を集めたが、その中に昔なじみの根岸という剛の者がいた。
ところが憲元はこの根岸を適当な理由を付けて断ってしまったのだ。
直江は剛勇の友を用いない憲元をなじったところ、憲元は
「根岸は大剛の士であるが、大欲無道の者である。
昔、ともに武者修行していて苦難がひどくなった時、根岸は”(自分の)三人の子を斬り殺しても良いから千貫の身上になりたいなぁ”と放言した男だ。
武道を立つることは先祖への孝、子孫の繁栄を思い、恥を受け、誉を取らんためであるはずのに、恐ろしい心根だ。
そう思い、それ以来彼を疎んじたのだ」と言ったので、直江は納得したという。
その後、憲元は長谷堂の戦いで撤退する味方を逃すため一人踏みとどまった。
そして押し寄せる敵20数人を撃殺した後、敵将と組打ちのまま山崖から谷に落ちて相打ちとなり死んだ。
享年46歳。
『上毛剣豪史』(1)より
0178人間七七四年
2013/09/23(月) 22:57:28.06ID:ldCwQIkj直江配下みたいに書かれてるけど
0179人間七七四年
2013/09/24(火) 00:35:04.29ID:xprAOJX8なんで直江は以下みたいに書かれてるのかはしらんけど
0180人間七七四年
2013/09/24(火) 01:22:54.27ID:FqoTJc3x関ヶ原の戦いに敗れた小西行長は伊吹山に逃げ込み、川合という集落にたどりついた。
そこで地元の源太夫という男が行長を見つけ、行長を匿うためにさらに山奥の中山村に連れていった。
中山の人々は行長を観音寺の須弥壇の中に匿った。
しかし同じ中山に住む要之助という男は、炭焼きに行ったときに林蔵という男から、
家康が西軍武将を厳しく探させているという話を聞き、行長を匿っていることがバレたら厳罰を受けると考え、
その場で林蔵と相談して領主の竹中重門に報告してしまい、行長は捕らえられた。
要之助の独断に中山の人々は困惑したが、そんなことは知らない行長は騙されたと思って強く恨み、
連行されていく最中に「あの村を3度焼き払ってくれようぞ」と言って中山をにらみ下ろした。
以降、中山ではたびたび火事が起こるようになり、「小西様の祟り」と噂されたため、
1754(宝暦4)年、人々は観音寺に行長を祀って供養した。
その後、1923(大正12)年、高木某という人がやってきて「最近私のところへ小西行長公の霊が現れ
『中山が私を仏として扱うのは不愉快である』と言われるので、今後は神としてお祀りなされ」
と言ったので、観音寺の隣に小西神社を立てて祀ることになった。
この寺社には行長がキリシタンであったということは全く伝わっていない。
0181人間七七四年
2013/09/24(火) 02:53:31.39ID:ou74h0q10182人間七七四年
2013/09/24(火) 10:18:32.62ID:+7YmAon20183人間七七四年
2013/09/24(火) 10:40:35.87ID:L2XC6c2Lキリシタンの神は唯一のもんじゃないのか?
0184人間七七四年
2013/09/24(火) 10:45:26.57ID:PUdWBT1nでもバチカンの認可がないとダメか
0185人間七七四年
2013/09/24(火) 11:01:35.46ID:hBiBPHEy0186人間七七四年
2013/09/24(火) 14:09:45.34ID:ToMjLLjS宗教は生きてる人間が必要としてるもんだから
0187人間七七四年
2013/09/24(火) 19:57:15.38ID:ntBi/JQl0188人間七七四年
2013/09/24(火) 23:49:21.62ID:l1i8co3uところが、三郎兵衛は嘲笑って、
「貴殿の骨相が普通ではなかったから、百万石、五十万石にも立身するだろうと思い、
奥秘を残さず伝えたというのに、わずかに十万石止まりでしかないのは、
以前から臆病なうえに、人を殺すことをお好みになったからであろう。
過ぎたことはどうしようもないから、今後はお慎みになるべきだ。
私が頼りにされて国の世話をするべき人は、日本に一人か二人しかいないのだ」
と言うと、立ち帰ってしまった。勝成はこういう事にはよく腹を立てる人だったが
その様子も無く、三郎兵衛が存生のうちは時々使いを立てて見舞い、品物を贈ったという。
三郎兵衛は姓名や出身を人に語らず、また知る人もいなかった。
あるいは、かの『どちへんなしの三郎兵衛』(天野康景)ではないかというけれども、
藩翰譜を按ずると年月が食い違う。
この三郎兵衛は野山を眺める時も、人と物語する時も必ず一つの石に腰掛けていた。
『三郎兵衛の腰掛石』といって今もなお存在するという。
――『福山志料』
0189人間七七四年
2013/09/25(水) 10:10:55.35ID:6c8NSRy80190人間七七四年
2013/09/25(水) 14:18:09.94ID:WhZ0MgL40191人間七七四年
2013/09/25(水) 14:32:22.33ID:XdIp9GC70192人間七七四年
2013/09/25(水) 14:36:15.79ID:3sKlWNHh0193人間七七四年
2013/09/25(水) 14:53:17.24ID:BRZXy2yT0194人間七七四年
2013/09/25(水) 15:06:39.26ID:9mi7qrGd0195人間七七四年
2013/09/25(水) 16:07:16.89ID:RD6s5O5p0196人間七七四年
2013/09/25(水) 16:18:08.13ID:/Kc9jkdR0197人間七七四年
2013/09/25(水) 16:40:33.39ID:o2VYhpW8家康の娘として嫁がせたってことだから
家康に限らず、部下の娘を一旦養女にして結婚させるのはよくある
家康自身の嫁さんだって義元の娘ということで嫁いできたんだし
0198人間七七四年
2013/09/25(水) 19:52:06.65ID:fqlUL/C/俺の妄想だけど、本当に自分好みの女がいて、一緒になりたいのに身分が…という時の手段のような気がする。
後見人や諸事情を考慮しても丸く収まりそうだし。
0199人間七七四年
2013/09/25(水) 20:12:53.05ID:Jm6B8kBf0200人間七七四年
2013/09/25(水) 20:52:35.53ID:9mi7qrGd0201人間七七四年
2013/09/25(水) 21:07:16.63ID:kWThHOwu武田信玄の死後、織田信長は表向きは上杉謙信の機嫌をうかがい追従策をとっていたが、
一方では越中の神保を信長の妹婿にして謙信にけしかけたので、謙信は怒って神保を攻め、
続いて加賀の松任城にいる信長方の長続連を攻撃した。
信長は支援のために先陣として兵を少し差し向けた。
そのときの侍大将は柴田修理、佐久間玄蕃、丹羽五郎左衛門、長谷川竹前、前田又左衛門、木下藤吉、徳山五兵衛、大柿卜全、滝川伊与
以下4万8千で、信長はその後陣として出陣した。
信長勢は松任城から1里半ほどにある川を越えたところに陣取ったが、謙信はすでに松任城を攻め落とし、長続連の首を取っていた。
謙信は信長が後陣にひかえていると聞き、夜中に出陣し、翌朝卯の刻(6時)に合戦すると決めた。
一の鐘で食事し、二の鐘で武具を着け、三の鐘で出動する、という謙信出陣の報を受けて、信長勢は退却を始めた。
あとさきない夜逃げということで川を越えるときに雑兵が流されて死ぬといった様相だったが、信長勢は越前まで退却した。
謙信は卯の刻にその川の端まで軍を進め、近辺の村人に尋ねてこの事を知り、大いに笑って
「さすがは信長勢だ、このまま布陣していたなら蹴散らして川へ斬りこんでくれたのに、
いちはやく退却するとは戦術が巧みなことだ」とほめてから、このことを書状にしたためて信長に送った。
0202人間七七四年
2013/09/25(水) 22:11:19.98ID:GudRKxHkおしゃべりしてる中で新左衛門が家康に「世間では、大黒天を福の神として祭っている。
だがその理由を知る者は少ない」と言ってきた。
家康がその理由を教えてくれと頼むと新左衛門はこう説明した。
「大黒天の風貌は頬を膨らまし、目を細くし、眉を高くしている。さらに黒い帽子を頭にかぶる姿は、
上をうかがいのぞむ心が無いことを表している。上をうかがいのぞまなければ、すなわち傲慢の
心も消え、周りの人も身分相応に扱う。これが福を呼ぶ理由なり」
すると家康は笑いながら頷き、
「なるほど。私も5文字の秘訣を持っている。『うへをみな』、これは上を望むなという意味。
あとさらに7文字の秘訣を持っている。『みのほどをしれ』、これは自分の身分を知れという意味。
これとまったく同じことだな。
そもそも大黒の黒い帽子にはさらに深い意味があるのをご存じかな?」
と聞いてきたので、新左衛門は「知らない」と答えた。
すると家康はこう言った。
「その帽子をかぶる理由は、一たびそれを脱ぎ捨て、天を望まんとするのみだ。
これは武士の刀に例えることができる。常に刀を鞘に堅く収めているのは、一たび刀を抜いて
その用を為す時を待つためなり。刀も抜かなければ無用の長物であり、帽子ももし脱がなければ
何の意味もないだろう?」
新左衛門は驚いた顔をしていたが、しばらくしてこれに納得した。
近古史談より
0203人間七七四年
2013/09/25(水) 22:57:52.15ID:zaxcUgtWまとめブログかなりの話数が集まってるけど、
他にも有名逸話でまだ出ていないのあるかもしれないな
0204人間七七四年
2013/09/26(木) 01:19:46.68ID:lhNIVHa0藤堂高虎の推薦もあって会津四十万石の守護となった加藤嘉明は、
高虎の屋敷に出向いて礼を述べた。
「年来の不和でありながら、恨みを捨てての推薦、光栄に過ぎまする。
貴殿の厚い恩には感謝の言葉もない。
旧怨を捨て、これよりは末永く交わって頂きたい。」
高虎は応えて、
「推薦は公事、不和は私事である。
貴殿の知恵と勇気を将軍へ申し述べたまでじゃ。
さすが将軍の見極めは、喜びに耐えぬ。
これよりの親しい交わりはもとより願うところ。」と言った。
嘉明は饒舌であった。
「かくなるうえは、お望みがあれば何でもそれがしにお申しくだされ。
決してお言葉には背くまいぞ。」
さて、嘉明の庶子に伊予松山の山林を支配する甚右衛門という男がいた。
藤堂家と加藤家が四国で隣り合っていた頃である。
甚右衛門は生来の酒好きで、隣藩藤堂家の美酒の醸造に優れた士と懇意にしていた。
ある時、藤堂藩では今治城の普請のため、材木、杉皮等が多量に必要となった。
これが甚右衛門の尽力により、安く買い入れられたのであるが、
それを知った嘉明は激怒した。
「不仲の藤堂家に良材を送るとはけしからん。討ち取ってまいれ!」
甚右衛門は藤堂領に逃げ込んだ。
高虎は、
「窮鳥が懐に入れば猟夫も殺さず。甚右衛門を捕らえさせてはならぬ。」
と、彼をかくまった。
甚右衛門をいっこうに捕らえられない嘉明は、高虎をますます恨んでいた。
「甚右衛門を許してやって欲しい。」高虎は、嘉明の言葉を聞いてそう申し出た。
「無理。それだけは、応じがたい。」嘉明は、きっぱりと断る。
「ならば、これよりの親睦もまた応じがたい。」高虎が言うので、
嘉明もついにこれを譲り、甚右衛門を藤堂家に預け置くこととした。
「・・・・っただし、武士としては取り立てないよう願いたい。」
甚右衛門は、武士の籍にこそ入らなかったが、藤堂家の扶持を受け、
一時は代官職も任されたという。
(高山公言行録、加藤甚右衛門由緒書)
0205人間七七四年
2013/09/26(木) 23:39:09.81ID:PNUL3oGj0206人間七七四年
2013/09/26(木) 23:41:57.96ID:w1xUuMgr藤堂の嫌がらせだったのか、私怨を忘れた行動だったのか
0207人間七七四年
2013/09/27(金) 02:10:30.34ID:o4dgIL13という冗談は置いといて、会津に誰を置くかってのは重要な人選だから私怨ではないと思うよ
会議の席での話だから周囲も納得する人じゃないといけないしねー
0208人間七七四年
2013/09/27(金) 07:47:25.29ID:7XzuOQFI0209人間七七四年
2013/09/27(金) 20:16:28.22ID:V1YMHe6H0210人間七七四年
2013/09/28(土) 17:54:33.96ID:+xx6otal度々戦功をあらわした。勝次が亡くなった時には、たいへんな哀惜のあまり涙を流したものだ。
その子供は本多忠勝に属していたのだが、この七、八年ばかりどこにいるのかを知らない。
誰ぞ知っている者はいないか」と、尋ねた。
これに本多忠政が「その者はかつて臣の家におりましたが、故あって現在は田中忠政のもとに
参ったとお聞きしております」と申し上げた。
よって家康は忠政に「召し連れて来るべし」と言い付け、その後、勝次の子、庄之助勝成は駿府へ
参り、家康に謁見した。家康は勝成に向かい「お前の父は毎度戦功をあらわし、忠勝が病気の折には
いつも代わって軍卒を指揮していたうえに、たいそう気幅ある武士であった。
今に存命であれば、並々の者では及ばないことだろう」と言った。これを聞いて勝成は、
「たいへん幼くして父と別れ、何事も理解しておりませんでしたので、只今の御詞で亡き父の遺事まで
御賞誉をお受けし、追慕の心はいっそう堪え難くなりました」と申し上げた。
家康は永井尚政を田中のもとへ遣わし、これまで数年勝成を扶助したことを賞して勝成を召し出し、
後に書院番にしたという。
――『徳川実紀(貞享書上)』
0211人間七七四年
2013/09/28(土) 19:06:23.09ID:ZzG3Pejm0212人間七七四年
2013/09/28(土) 20:23:44.23ID:nMAxIXjX敵の大将を口汚くいうのは、弱将の下に属する未熟な兵達の作法だ。
大体一国の大将ならば、敵味方にかかわりなく、話すときでも書面でも、敬意を表すのが礼というものだ。
何故なら、日本全体でも一国の将と言えるのは百人に満たず、66人にすぎない。
だからこそ、一国の将で古来から続いている大将には、その家柄を思い敬うべきであり、
同様に新たに興った国持大将には、その知恵や強運を思えば、下卑するのは非礼で良くない事である。
敵を謗るというのは、自分の国が逆に弱いからである。
(甲陽軍鑑)
高坂弾正の言葉とされる、「敵に敬意」を求めた文章である。
0213人間七七四年
2013/09/28(土) 21:50:28.48ID:EG2E+pLz語呂のよさか?
0214人間七七四年
2013/09/28(土) 21:58:05.48ID:Yr2aFeBO0215人間七七四年
2013/09/28(土) 21:59:02.96ID:WXmCcbYa壱岐対馬をなぜ含めないのか、てこと?
0216人間七七四年
2013/09/28(土) 22:43:42.10ID:Yr2aFeBO面積的にも人口的にも。
0217人間七七四年
2013/09/28(土) 22:46:47.43ID:TLyaxDR10218人間七七四年
2013/09/29(日) 00:12:36.73ID:OXNdQZbX0220人間七七四年
2013/09/29(日) 00:41:38.30ID:BEFIsqj9八丈島は知らん
0221人間七七四年
2013/09/29(日) 00:43:45.37ID:dAO5GwXkとしても対馬宗氏は一応国主大名
0222人間七七四年
2013/09/29(日) 00:57:48.59ID:0fYBd+Sd0223人間七七四年
2013/09/29(日) 02:19:55.46ID:BEFIsqj9唐の律令制の影響だろう
壱岐国、対馬国入れる場合は備前、備中、備後をまとめて吉備国とし六十六国にするらしい
無理矢理感が強いので書状ではたいてい『日本六十余州』って書かれているね
0224人間七七四年
2013/09/29(日) 08:25:11.43ID:neBnQWq3いや、ルールとしては国だし、国主だけどさ。
それで実質的に大和の国主とかと戦国武将として同格か、と言われるとなんか違うだろ。
この逸話の場合は、それなりの力のある人として国主を語ってるんだし。
0225人間七七四年
2013/09/29(日) 08:58:42.27ID:DZnV+i2Yこれで済めば何でもない話ですが、先主の本多忠政より、クレームが入ります。
「勝成はもと忠政への附属の臣です。田中家から呼び戻すなら忠政に附属させられたい」
というのです。
勝成は「辞して、私は家康公より召出の仰せをうけました。ここで忠政に属すれば家康公の御心に準ずる
ことになりません。強いて忠政が強請するのなら、私は日光の東照宮の庭掃除になります」と答えます。
将軍秀忠は「勝成にも忠政にも言い分がある、そこで勝成が徳川家に勤仕しても、棒禄はないことで
収めよう」と、将軍といえども主・従の筋目に苦労しています。
けっきょく八年間無給勤仕の実績をもとに、桜井家は旗本に再復帰し最高千八百石の家禄をうけました。
――小川恭一『江戸の旗本事典』
0226人間七七四年
2013/09/29(日) 09:56:55.30ID:i6q/hVAY0227人間七七四年
2013/09/29(日) 14:28:57.28ID:FRW7WDDU家臣のいない現代人でも8年も無職だと干上がるよね
0228人間七七四年
2013/09/29(日) 14:39:34.20ID:4zLYvN7X主君から与えられた所領と、個人で購入した土地等の財産の権利は別なので、
そういう個人財産があったのでしょうね。
0229人間七七四年
2013/09/29(日) 14:47:38.24ID:lFucSecA0230人間七七四年
2013/09/29(日) 17:06:52.21ID:oVM8zxl0この桜井家や近藤秀用は再復帰できた稀有な例。
0231人間七七四年
2013/09/29(日) 18:16:33.47ID:WGc2hdJ6武田が滅び、梅雪が宇治で討たれた後、徳川家康は彼女を江戸に招き
世話をして、田安門内の比丘尼町という所に住まわせた。
この尼が参上してお目にかかる時には、家康はいつも上段より下って
厚く礼遇した。これも信玄の娘だからであろう、と人々は言った。
――『徳川実紀(以貴小伝、武辺咄聞書)』
0232人間七七四年
2013/09/30(月) 01:50:46.95ID:ViFLgWKY0233人間七七四年
2013/09/30(月) 08:40:29.56ID:+KIIzRkR秀吉だったら側室にしそう
0234人間七七四年
2013/09/30(月) 08:44:28.24ID:Tsg5nqFg立ち振舞も悪く、修行中の同僚が食事をする時、それを奪い取って自分が食べてしまうなど、
様々に破廉恥な行為をされること際限なく、寺の法印も持て余し、周りの人々も
あまりに粗暴なこの様子に、
「物の役に立つ人ではあるまい。弾正忠(織田信秀)の子にしてはあまりに似つかわしくない」
と噂した。
ある時信長公の母君より、銭一疋が届いた。
信長公は同僚の手習い坊主や近所の子供達30人近くを集め、竹や木の枝で鑓や刀を作り
合戦ごっこをした。
信長公は隊を二つに分けると、母君からの銭を、味方の強そうなものに先ず前金として
2銭、3銭と与え、また残りの銭は手柄を立てたものに分け与えると約束してて戦わせ、
思うままに叩き勝つと上機嫌で引き上げ、その時味方で手柄のあったものには約束通り
残った銭を与えた。
寺の法印はこれを知って、
「さてさて頼もしい人物だ。将来きっと名誉ある良将となるだろう。
戦う前に大勢の中から良い者を選び出して銭を握らせ、また済んでから与えると言う事は、
並の人間に発想できるものではない。将来大物に成るだろう。」
と、当時13歳の信長公を褒めたのである。
(甲陽軍鑑)
0235人間七七四年
2013/09/30(月) 17:13:27.68ID:XDGherU0強い者や功のあった者に銭を配るのが信長さんらしいかな?
0236人間七七四年
2013/10/01(火) 22:35:44.14ID:UEltn00W敵の男が櫓の上から尻を出して家康を罵り、罵詈雑言の限りを尽くしてきた。
家康は怒り、従士の石川八左衛門に命じてその男を射させた。
矢は男に刺さり、男は櫓の上から転げ落ちて死んだ。
家康はこれを見て大笑いし、八左衛門も笑い転げた。
すると今度は敵側が射掛けてきた。
矢は笑っている八左衛門の口中に刺さり、八左衛門は後ろへ転んでしまった。
家康が八左衛門の肩を踏みながら矢を引き抜くと、鮮血が噴出し体中血だらけ。
そのまま本営に返された八左衛門は塩を口に含み血止めをして、その晩は休んだ。
しかし次の日、なんと八左衛門はいつものように出陣していた。
そしてこう言った。
「歯や舌も無事だし、飲み食いも問題ない。ただ言葉が少し話しづらいかな」と。
『近古史談』より、少し間の抜けた豪胆な三河武士の話
0237人間七七四年
2013/10/02(水) 01:25:34.67ID:OlxoqUu/0238人間七七四年
2013/10/02(水) 01:31:39.48ID:UkhFy6pW0239人間七七四年
2013/10/02(水) 04:48:37.76ID:McQPA0ff0240人間七七四年
2013/10/02(水) 09:54:06.74ID:YHatM0aV0241人間七七四年
2013/10/02(水) 11:54:58.06ID:39oTa8HHして敵側の弓の名手の名はなんと
0242人間七七四年
2013/10/02(水) 12:41:03.30ID:P2mQbq7M0243人間七七四年
2013/10/02(水) 18:58:10.97ID:isTVfQMf御油と刧村の間において徳川方の兵を囲んだ。時に内藤正成は後殿となって
追い来る敵を射る。その矢は鞍の前輪より後輪に貫かれ、敵兵は恐怖して退いた。
同年、徳川家康が御油城を攻めた時、城の男女ともに櫓に登って
鬨の声を揚げていた。味方の兵の多くがこれを射たが、間隔が遠く届かなかった。
時に家康は正成を呼んで射るように命じた。正成が直ちに三矢を放つと、
二矢が櫓の中に入り、敵兵は恐れをなして櫓より下った。
その矢には姓名が記されていたので、敵はその矢を徳川方に送り、矢文を添えて、
「今しばらく互いに矢止めしよう。この兵に再び一矢を放たせてくれ」と書いた。
家康はこれを見て「これは敵の謀だ。絶対に射てはならない」と制止した。
しかし、正成は勇敢忍ぶに堪えずして、進み出て矢を放とうとした。
その時、敵兵が楯を持って道のかたわらに伏せており、正成が進むのを待って
彼を突き殺そうとした。この敵兵に向けて正成が矢を放つと、その矢は楯を貫いて
かの兵を射殺した。両軍はともにこれを称賛した。
――『寛政重修諸家譜』
0244人間七七四年
2013/10/03(木) 20:38:52.76ID:lybihN7/他家の人と御目見得されると、下々と対しても言うに及ばず、一度顔を見て名字を聞かせられれば、
それを忘れるということが無かった、という事である。
人々は、大変有難いことだと感じ入った。
また殊更に有難く思われたのは、ある者に歴然の落ち度があって、定めて厳しい御究明があると
思われるような事であっても、誰かに御取り成しを頼み、また誰かを頼んで堅く陳情申し上げると、
政宗公はその言い分に任せ、その言葉を疑うなどということは夢にもなかった。
そのように家臣を信頼したので、逆に人々は、一層政宗公を恐れたという。
これも政宗公の、人々にむやみに過失を負わしたくない、という心によるものなのである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗が、人に対してものすごい記憶力の持ち主だったというお話
0245人間七七四年
2013/10/04(金) 01:06:30.78ID:RWMrXuP6でも、人のことはあだ名で呼ぶ政宗であったw
それはそうと、家臣ともいえないような下っ端の人が、
政宗のような(伊達家的には)偉大な殿様に顔と名前を憶えてもらえるってのは嬉しいことだろうね。
0246人間七七四年
2013/10/05(土) 07:44:17.30ID:TpseN78i岐阜城を陥落させた東軍諸将は更に進軍、筋道を放火しながら本海道をまっすぐに押し行った。
しかしこれを見た藤堂高虎は
「このようにどこまでも焼き払っていては、今夜の食を整えることも出来ず、大変に不自由である。」
と考え、先手の藤堂玄蕃に
「何処でも良き町を一ヶ所、確保しておくように。」
そう伝えると、玄蕃は赤坂の町口へ一番に乗り付け、個々には人を残し置いて、
後から来る味方には
「この宿は焼いてはならないと諸大将より仰せ渡されています。」
と説明するよう申し含め、玄蕃自身は馬より降り、歩行の者を左右に分けて町中に触れさせた
『この町は放火あるまじき旨を固く命じた。であるので、誰も立ち退きなどすること無く、
心やすくここに在って良いぞ。』
そう、静かに伝えた。
こうして諸軍はこの町に入り兵糧を整え、皆疲れを休めた。
それから町の後ろにある虚空蔵山へと上がり、何れもそこで宿陣をした。
諸軍の大将達は、
『赤坂の町を焼かなかったことは、高虎の軍事巧者ぶりの発揮であり、
おかげで味方の士卒は大変な自由を得た』
と感じ入った。
そして高虎は、また玄蕃を呼び出して、「お前が良き処置をしてくれたおかげで
赤坂を確保できた。」とその功を讃え褒美を与えた。
(関原合戦誌記)
藤堂高虎、赤坂の町を焼かず。というお話
0247人間七七四年
2013/10/05(土) 07:52:47.92ID:bonRNX/tまともじゃない人が多い戦国の逸話の中の癒やし系
0248人間七七四年
2013/10/05(土) 08:06:16.76ID:11llcnfKそういう意味でもすごいって思うわ
0249人間七七四年
2013/10/05(土) 11:56:49.90ID:W7GXRhBE0250人間七七四年
2013/10/05(土) 12:07:51.64ID:4BQaJR0y0252人間七七四年
2013/10/05(土) 16:17:45.68ID:EhqILol5しかもわかってんのかそうじゃないのか
その殆どはそう遠くない以前に投下された話ばかり
そしてちゃんと読んでるのかそうじゃないのかそれを指摘するのもいない
0253人間七七四年
2013/10/05(土) 17:00:18.62ID:QgZjYJqu0254人間七七四年
2013/10/05(土) 17:16:36.38ID:mWYlaOPV0255人間七七四年
2013/10/05(土) 17:37:06.94ID:WeZBeXsV0256人間七七四年
2013/10/05(土) 18:01:15.73ID:U7Zr5a9J小牧の陣の際、九鬼嘉隆勢に属して蟹江へやって来たが、織田・徳川勢の反撃で
嘉隆の水軍は敗走してしまい、逃げ遅れた平六兵衛は敵の捕虜になってしまった。
捕まった平六兵衛がまさに首を斬られようとしたその時、
平六兵衛は、
「某は山田の住人じゃ。今一度、伊勢神宮を拝み奉り、最後の御暇を申したい。」
と嘆願した。
敵は皆これを許してくれたので、平六兵衛は手水を使うからといって海辺へ近付いた。
ところが平六兵衛はそのまま海に飛び込み、水中に潜って遥か沖に浮かび出ると、
悪口を吐いて泳ぎ去った。
尾張衆は船を浮かべて平六兵衛を追いかけたが、平六兵衛は敵が近付くと水中に潜り、
あるいは敵船の下で息を継ぐなどして難なく泳ぎ渡り、ついに山田まで帰って来た。
まさに前代未聞の高名である。
(勢州軍記)
0257人間七七四年
2013/10/05(土) 22:52:03.34ID:PTCv4cB10258人間七七四年
2013/10/05(土) 23:09:12.48ID:WbfYHjUA0259人間七七四年
2013/10/05(土) 23:49:45.93ID:F4ZGstEnまさかクロールじゃないよね
0260人間七七四年
2013/10/06(日) 00:30:02.28ID:ZD3T+Vcr髪長いからあんまり顔を水につけたくないだろし横泳ぎ的な感じだっけかな〜
0261人間七七四年
2013/10/06(日) 00:34:33.86ID:PiC0cIhR0262人間七七四年
2013/10/06(日) 00:43:14.22ID:osLUynJd0263人間七七四年
2013/10/06(日) 02:45:30.58ID:OBF++a5E0264人間七七四年
2013/10/06(日) 13:03:34.94ID:/LL+Us3P0266人間七七四年
2013/10/08(火) 02:24:50.38ID:rqh6E1Wa且元の軍才
「長々の在陣、辛労是非に及ばず候、よって帷(かたびら)一を下され候…」
という且元あての手紙が残っている
文禄の役も終わりにさしかかったこのとき、且元は朝鮮で一軍を任されていた
このとき彼の下に配されていたのは譜牒余録によると弟の貞隆のほかに
古田重勝、太田一吉、加須屋武則、新庄直定、高田治忠、藤掛永勝、岡本重政、牧村政吉、小野木公郷
らで、そこには当時五千石に満たなかった且元より所領の多い大名まで含まれていた
且元は彼らをまとめて堅固な晋州城の包囲網に参加し、成果を挙げていたので冒頭の手紙につながる
且元にこうした軍事的才覚があることを、秀吉は見抜いていたのだろう
残念ながら、中央を巻き込んだ一大政局・浅利事件の調査を任された且元はこの後大きな軍事行動に関わっていない
0267人間七七四年
2013/10/08(火) 04:19:29.41ID:PDWPLzCZ「小心者の中間管理職」
みたいな描かれ方するよな
0268人間七七四年
2013/10/08(火) 10:46:01.36ID:efQn1taG現状を理解出来て解決のために苦慮する才覚があるから辛いんで、
馬鹿だったらそんな苦労もないんだが
0269人間七七四年
2013/10/08(火) 10:55:43.16ID:RNb3QAYBコピペのように在陣諸将に出されてるよね。
0270人間七七四年
2013/10/08(火) 11:34:19.06ID:mNrLwWdr0271人間七七四年
2013/10/08(火) 11:59:43.90ID:Hnvh7biB0272人間七七四年
2013/10/08(火) 12:20:40.40ID:RNb3QAYB中央政局としてはさして意味は無い事件だけど
0273人間七七四年
2013/10/08(火) 13:18:32.96ID:d4c9gQKO浅利側には浅野長政、秋田側は佐々行政がついてたそうな
0274人間七七四年
2013/10/08(火) 16:05:43.96ID:rqh6E1Waただ、そこに前田利家や浅野長政が浅利氏側の立場で介入してきたから
「大納言(利家)様や弾正殿(長政)がこの事件を斡旋する意図があるなら、さらに裁定を〜」
と露骨に不快感を示してる
当時の且元の政治的な立ち位置とか、地位がこの辺からも結構垣間見えるっていうか
0275人間七七四年
2013/10/08(火) 16:16:51.50ID:vho2ofyV0276人間七七四年
2013/10/08(火) 16:40:47.24ID:rqh6E1Wa秀吉死後の慶長四(1599)年4月2日に、家康に浅利事件の顛末を且元が直接報告してる
だから家康が浅利事件に強い関心を持ってたのは間違いないと思うー
0277人間七七四年
2013/10/08(火) 16:59:46.01ID:2YLZqCWu0278人間七七四年
2013/10/08(火) 17:28:51.53ID:RNb3QAYBこの時期になっても散発的に合戦しちゃう東北は本当にコワい
0279人間七七四年
2013/10/08(火) 18:09:33.39ID:esHebRd9http://www.excite.co.jp/News/society_g/20131004/asahi_20131004_0010.html
0281人間七七四年
2013/10/08(火) 21:31:23.87ID:qN0GJ5aC高虎は三成にこう、声をかけた
「お互い敵同士となって戦ったのも、武士の習いというものです。
我々は元より、秀吉公に同じく仕えていました。その旧好を忘れることは出来ません。
ところで、今度の合戦において私の備をあなたは敵となって見ましたが、そこに
怠る所はなかったでしょうか?
あなたがご覧になった感想をお聞かせいただければ、後日の心得と致したいと思っています。」
三成はこれを聞いて旧好を思い
「今のような身の上になった私に対しての、その御懇情、誠にかたじけなく思います。
あなたの備の事ですが、お尋ねになった上は、残らず申し上げましょう。
あなたの先手の鉄砲頭ですが、私にはそれが小身の者に見えました。
大身の者と小身の者とでは、その働きは大いに違います。
今回の合戦での働きは、小身の者のそれだと見ましたが、いかがでしょうか?
それ以外には、特に申し上げるべきことはありませんでした。」
これを聞いた高虎は、その後鉄砲頭の知行を、皆千石へと引き上げた。
これは伊丹平蔵が語った話である。
(秘覚集)
有名な逸話ですが出典を見つけたので、石田三成から藤堂高虎へのアドバイス、というお話。
0282人間七七四年
2013/10/09(水) 02:25:53.25ID:lCjhJAG5後でちゃんと実行してるとこが好き
0283人間七七四年
2013/10/09(水) 07:14:26.12ID:VKiUN12a0284人間七七四年
2013/10/09(水) 07:24:36.79ID:CF1AD67dこの逸話って単に礼に礼で答えたものとばかり思ってた。
三成と高虎ってそれなり(以上?)に旧交があったんだね。
0285人間七七四年
2013/10/09(水) 08:27:43.05ID:aGG0PWxB親交が有ってもおかしくない。
同じく近江出身で秀長に仕えた小堀家と縁組してるし。
0286人間七七四年
2013/10/09(水) 18:07:47.67ID:JoV1z0ESこの時、阿波守は嘉明に賤ヶ岳の軍状を尋ねた。しかし、嘉明は、
「私は普段よりも酒を飲みすぎてしまった。市正、どうかあなたに頼みたい」と言って、
酒に酔ってよい気持ちになりながら、あおむけになって寝てしまった。
そこで阿波守は市正にこれを尋ねる。市正はとても得意気に当時の戦況を語った。
その語りが嘉明の事に及んだ時、嘉明はたちまち起きて反論した。
「貴公の如きはもともと七人の中に加わるべき者ではなかった。それを私達諸将と
相談して太閤にお願いし、曲げて先鋒に列しさせたのだ。あの石子兵助の伏屍を
踏んで敵将を刺し殺したのは他でもない、この私だ!」
市正もまたこれに反論して譲らず、意色甚だ悪し。しかし、阿波守が二人の間に立って
調停したので大事には至らなかった。
――『鹿深遺芳録』
慶長八年、将軍宣下拝賀のために蜂須賀至鎮が江戸へ向かった時、ちょうど天龍川が
増水していて渡れないので、至鎮はしばらく滞留して減水を待った。
そこへ加藤左馬助、片桐市正(或は福島左衛門大夫とも云う)もまたやって来た。
ある晩の話の折、至鎮は賤ヶ岳先登のことを質問した。すると、二人の語る事が食い違って
互いに譲らず、終いには刀傷に及ばんとした。
至鎮は祖裼して二人の間に入って辞謝し、「それがしは無益の問を起こし、
おしはからずに公等の忌諱に触れました。本当に、このまま放っておくわけには参りません。
まずは、それがしが切腹して罪をお詫びします。その後で二公は良いように
事を処理してください」と表情を改めて決意したので、二人は大いに恥じて先非を悔い、
和解して事なきを得た。
程なくして川は減水したので、共に川を越えることができた。至鎮は二人を旅館に招き、
盃酒を勧めて別れたという。
――『峻徳公略伝』
0287人間七七四年
2013/10/10(木) 07:42:22.11ID:ddF5PZEH0288人間七七四年
2013/10/10(木) 08:03:03.73ID:hQ0qrR0v(やっぱこうなったしwww)って
0289人間七七四年
2013/10/10(木) 12:13:48.06ID:kXmB4JVh0290人間七七四年
2013/10/10(木) 15:00:39.62ID:BrbjmR+T0291人間七七四年
2013/10/10(木) 21:19:27.90ID:8uiHBRskそして職隆は天性慈愛深い性格であったので、人に恵み、天涯孤独の窮身で、飢えて寒さに苦しむ者たちを救うため、
大きな長屋を二つ作り、そこに飢えた人々を多く招き集め、また、通で非人に逢えば、
「汝、我が所に来い。扶養してやる。」
と言っていたため、飢人たちが多く集まり来た。
職隆は、これら一人ひとりに食を与え、衣服を着せ養い置かれた。
後に羽柴筑前守秀吉が姫路に居られた時、この黒田職隆が天性真実であるのを知り、その寵遇は
他と異なるものであった。元日の賀礼に麾下の諸士に杯を与えるときも、最初に職隆を召された。
そして黒田職隆が年老いて隠居しても、秀吉が出陣している間は、彼に城の留守を任せた。
これは黒田職隆のその人となりが忠信なる故であった。
(黒田家譜)
黒田如水のお父さんはこんなに聖人だった。というお話
0292人間七七四年
2013/10/10(木) 22:49:54.19ID:YY6F599S長政はどうだったんだろ?
0293人間七七四年
2013/10/10(木) 23:02:57.70ID:g3p40ZM7そういえば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4495.html
でNGMSの忠之に対するしおらしい遺言があったけど
渡邊大門「黒田官兵衛」読んだら家臣に対する遺言があって
・俺の智謀で毛利家、小早川秀秋を味方とし、多くの大名が東軍の味方になったのだ
軍功第一は当然
・もし俺が西軍に投じたなら、福島、加藤清正、浅野、藤堂はみんなその日のうちに
西軍に寝返っただろう。その上で俺と島津が先鋒として出陣したら東軍は戦うことなく降伏した
・親父が西軍になれば清正はもちろん味方になった。
ほかの九州勢も西軍だから、途中で中国地方の軍勢と合わせれば10万騎
これなら家康も簡単に潰せる。
やり損なっても近江に引き返せば相手は瀬田の橋を渡ってくる気はないだろう。
また、親父と清正さえいれば日本どころか異国から孔明・太公望・項羽・韓信が来ても
俺たちを破ることができようか。
信長、信玄、謙信が家康に味方しても打ち負かす自信がある。
0294人間七七四年
2013/10/10(木) 23:11:08.60ID:6gOFStJd0295人間七七四年
2013/10/11(金) 00:16:56.14ID:WICHRbS2ヴァリニャーノの一行が豊臣秀吉に謁見できるよう手続きをしていたのだが、秀吉は
巡察師の上洛を望んでいないだけでなく、不快の意向を漏らしていた。
ある日、キリシタン大名の黒田官兵衛孝高が宣教師たちのために発言すると、秀吉は
「お前は性懲りもなくバテレンどものことを話すのか。お前がキリシタンであり、バテレンらに
愛情を抱いておったために、お前に与えようと最初に考えていたよりも低い身分にしたことを
お前は心得ておらぬのか」と言って黒田官兵衛の口を封じたので、黒田官兵衛はそれ以上、
発言することが出来なかった。
それにも関らず、黒田官兵衛は宣教師たちの窮状を何とかしてやりたいと思い、同僚の大名
である 増田長盛に取りなしを頼んだ。長盛はその頼みを引き受けて、ただちに秀吉に進言した。
そのおかげで秀吉はインド副王の使節として巡察師ヴァリニャーノの一行の謁見を認めた。
(ルイス・フロイス書簡)
0297人間七七四年
2013/10/11(金) 08:31:15.47ID:RIj+WRDm官兵衛さんについて、まだまだ一次資料からも出てくるってことか。
低い身分てどういうことだろ?
従五位下が他の武将と比べて低いとも思えないし
中津六郡のことかな?
0298人間七七四年
2013/10/11(金) 09:53:07.58ID:0rnvDN+Cなお大河自体はまったく期待して無いもよう
0299人間七七四年
2013/10/11(金) 09:58:39.56ID:LsGm1yaq見せ場は関が原で浪人集めて大友攻め
道糞の説得に失敗して幽閉されたのは愛嬌
0300人間七七四年
2013/10/11(金) 12:54:40.47ID:JR80sj/p遺言と称して自慢しとるだけのような。
しかも下半分お父ちゃん自慢w
そして何故か清正も混ざってるんですが。
0301人間七七四年
2013/10/11(金) 13:07:30.90ID:sFOzJmyS誰かの威を借りての策謀はハマっても、当人主導だと小大名すぎて駄目っぽい感じ
0302人間七七四年
2013/10/11(金) 16:50:38.27ID:KjYoS0Qp????「役立たないな治部、ほんとうに役立たずだ」
0303人間七七四年
2013/10/12(土) 13:10:05.28ID:XNt4CV0g自分にもこの遺言は誇大妄想というか何か壮大に勘違いしてるとしか思えない
なんで中国・四国の西国大名が長政くん程度の豊臣恩顧の一大名に同心するのかと
とことん問い詰めたい気分だわ
吉川・小早川の内通にせよ徳川家の威を借りてこその調略成功であって
別に黒田長政本人(と親父)の智謀を評価したわけではないのに
0304人間七七四年
2013/10/12(土) 15:43:13.97ID:kGibLO0Dそれなりに結束力はあったとは思う
秀吉の死後に家康派と利家派に分かれたけど
利家が死去した瞬間に結集して三成を襲撃するとかしてたしね
なので長政くんの言ってることは半分くらいは事実だったのでは無いだろうか
残りは親父様と兄貴分たちへのリスペクトと言うことで
0305人間七七四年
2013/10/12(土) 17:04:19.60ID:YE+jO9VDとても結束してるようなは見えんな
0307人間七七四年
2013/10/12(土) 17:46:36.65ID:qx22qh6Q0308人間七七四年
2013/10/12(土) 17:50:22.31ID:WEAKvoVJ0309人間七七四年
2013/10/12(土) 18:14:27.83ID:VaRzWnxq0312人間七七四年
2013/10/13(日) 01:12:34.29ID:Wn09c5Z60313人間七七四年
2013/10/13(日) 04:29:32.38ID:cjcvyfET豊臣古参武将が大将格、九州の新参武将は属将と見做したので島津は省く
東軍の朝鮮出兵組は、清正、黒田、福島、藤堂、嘉明、蜂須賀、有馬、脇坂、浅野、小早川など
西軍の朝鮮出兵組は、小西、石田、大谷、毛利、宇喜多
西軍の内、石田と大谷は奉行衆
毛利の実質的な大将格は、広家、秀元、安国寺で、広家は内通、秀元は動かず
宇喜多は、朝鮮出兵で実質的な大将格だった戸川は、宇喜多騒動で出奔して東軍入り
0314人間七七四年
2013/10/13(日) 06:54:45.53ID:zaQkmhfc0315人間七七四年
2013/10/13(日) 09:02:07.59ID:3gtWC9JH0316人間七七四年
2013/10/13(日) 13:26:53.64ID:R4JTkaBCそれは、伊達政宗が江戸参勤のときいつもいつも城下に本陣を
置くことであった。
時に、その忠郷には蒲生源左衛門という家来がいた。
源左衛門、その主君の不平を聞いて「次に来たら私にお任せください。
二度とそういうマネはさせんようにします」と政宗を待ち構える。
はたして政宗はやってきて、またしても忠郷の城下にて本陣を置いた。
源左衛門、それを聞くやすかさず本陣宿屋に直行、宿屋の主人が
制止も「本人が来たら退くから心配するな」と一蹴し、ズカズカと
着座の間まで突入した。
やがて到着した政宗が部屋に入ってみたものは、床を枕にして堂々と
空鼾をかいて寝そべる大男の姿。
思わず「お前誰だ!」と聞いた政宗の前に、悠々と起き上がるや
「蒲生源左衛門と申します。鷹野の帰りで疲れたもんでここで休んで
いました。いやぁここが御本陣とも知らずに無礼仕りました」
と畏まって見せる源左衛門。
政宗、「かねてから源左衛門の名はよく聞いてたぞ。これもまた縁というもの、
今後の知人となるうえで、ここに一つ面会の祝儀をやろう」と腰の脇差を
手に取り、「これは名物というものでもないが、かつてはその方のような
大男を袈裟に切ったら股まで切り裂いた代物だ。(其の方の様なる大男を
大袈裟に切りたるに、股の下まで切り下げたり)」と源左衛門に賜った。
源左衛門、それを恭しく受け取ると、「お腰を空にさせるわけには。
畏れながら私の脇差をお受け取りください」と今度は自分の脇差を差し上げると、
「この脇差は私の領内の片目の大男を頭より尻まで真っ二つにしてみせた
業物です。(私領内の片目の大男を天窓より尻の割目まで真二つにしたる業物也)」
と、言い残してそのまま退出した。
後にのこった政宗、「蒲生には氏郷以来の良い家来がいると聞いたが、
なるほど源左衛門とは大したものだ」と一人感服。
以後、政宗は城下に宿泊することはなかったとのことだ。
(一話一言)
ライバル関係な御家の、主君と家臣が豪気なエールを交し合い、八方丸く
収まった良い話。
話中の源左衛門は多分この人かな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-849.html
0317人間七七四年
2013/10/13(日) 14:15:07.56ID:TzT7j2MZ0318人間七七四年
2013/10/13(日) 17:43:42.76ID:faE1hxnmどの蒲生さんなんだろうか。
0319人間七七四年
2013/10/13(日) 18:50:36.60ID:AB+OJ64y0320人間七七四年
2013/10/13(日) 20:11:43.65ID:HEooxCmD0321人間七七四年
2013/10/13(日) 20:31:54.61ID:KBnaMG4J童名は坂小判。幼少の頃より剛の者の気質あり。
その暴れぶりはやがて柴田勝家がもて余すほど。
ついに柴田家を追い出され、同族である蒲生氏郷を頼った。
氏郷のもとで次第に頭角をあらわし先駆けの功名を数多立て、
天正十八年氏郷が会津に置かれると知行五万石を宛がわれ、
名実ともに蒲生家の重臣となったのである。
源左衛門の名は、太閤秀吉公から頂いたものである
(武士の家訓を参照)
0322人間七七四年
2013/10/13(日) 20:49:27.89ID:KBnaMG4J・武家ならば弓馬、槍、兵法を朝暮の掟と心掛けよ。
しかし、武道を上手にやろうとする必要はない
・今の武士はおごり、その本分を忘れている者が多い。
武具や馬具を大切にせず、戦場での立ち回りも学ばず、
うわべの都合のよい理屈ばかりを好んで、
ことに近年は茶の湯などということに金銀を浪費しているが、
蒲生家の者たちはまずそんなことは慎んだほうがよい。
・主君に忠、親には孝を忘れぬように。
下の者へのあわれみを忘れぬように。
主となるも家来となるも天道である
・仲間が落ちぶれたなら我が知行の十分之一をもち養うように
・身の程を知れ。
それぞれの身の程に合った立場を保つことが大切である
(蒲生家系図由緒書)
0323人間七七四年
2013/10/13(日) 21:58:09.51ID:2KNEgtIv>ことに近年は茶の湯などということに金銀を浪費しているが、
>蒲生家の者たちはまずそんなことは慎んだほうがよい。
ちょっと、何、殿様ディスってんの?
0324人間七七四年
2013/10/13(日) 22:12:45.58ID:agWEVbBd部下レベルだとその価値がわかってなかったんだと思う
0325人間七七四年
2013/10/13(日) 22:37:23.00ID:wU8QEICi「給料数ヶ月分出して買っちゃったこの茶器どうよ(ドヤァ」
とかやってたんだろう
要するに、一番最後の身の程を知れ、に集約されるんだろうなぁ
まあでも、ある程度世の中定まってから産まれてきた彼らは彼らの言い分もあるんだろうけどさ
0327人間七七四年
2013/10/14(月) 00:31:34.37ID:OmpT59sH0328人間七七四年
2013/10/14(月) 00:54:17.56ID:A8mSFcGSそこで五番目の身の程を知れの教えだろ
現代でもあるよ
人脈目的でパーティー参加する人と、
パーティーに参加してる自分が好きな人
0329人間七七四年
2013/10/14(月) 00:59:18.73ID:X9nrWnAG>パーティーに参加してる自分が好きな人
なるほど、わかりやすい喩えだ
0330人間七七四年
2013/10/14(月) 08:02:08.86ID:6nfWMAqx0331人間七七四年
2013/10/14(月) 18:34:39.67ID:b4Ou875A0332人間七七四年
2013/10/14(月) 19:41:51.03ID:1/fC+wzd0333人間七七四年
2013/10/15(火) 09:36:09.21ID:WYZ7w8Rvttp://yoshiaki400.jp/
この連休にはよしあきフェスタと称してパレードまでやってたとか
0334人間七七四年
2013/10/15(火) 19:52:31.13ID:4ctRj7wC釣瓶の縄を引いてみると、冬の寒さで凍りついて動かない。利休が思うに、この時刻になるまで
水を汲んでいなかったのであろう。そうなると、朝茶には昨晩に汲んできた水を使うのではないか、と
思い、不機嫌になった。茶の湯の水は朝会、昼会、夜会でもその日の明け方に汲んだ水を用いることに
なっており、汲んでから一晩置いた水は「陰」の気が含まれているため、忌避されているのである。
利休が小座敷に入らず帰ろうとすると、その様子を隙間から覗いていたその家の亭主が笑いながら
顔を出し、「利休殿は朝茶の水は昨晩の水ではないかと思ってお帰りになるつもりでしょう。私は
いつも名水として知られる醒ヶ井の水を取り寄せて茶を点てています。ここの井戸の水は使わないから
縄が凍ったままなのです」と説明した。
利休はそれならばということで機嫌を直し、気持ちよく茶を楽しんだ。
0335人間七七四年
2013/10/15(火) 20:03:39.55ID:pdYLBrpM0336人間七七四年
2013/10/15(火) 20:21:10.55ID:/e7FKxGO0337人間七七四年
2013/10/15(火) 20:35:21.35ID:bs3KsPvr0338人間七七四年
2013/10/15(火) 20:37:05.49ID:4ctRj7wCいつも醒ヶ井の取り寄せているそうだから、亭主は毎朝、わざわざ醒ヶ井まで
水を汲みに行かせているようだ
0339人間七七四年
2013/10/15(火) 21:02:53.90ID:pdYLBrpM0340人間七七四年
2013/10/15(火) 21:14:03.98ID:xxMymtFF(戦国時代にも同じような話があったような)
利休でなくても気づくはず
0341人間七七四年
2013/10/15(火) 23:23:22.92ID:bs3KsPvr感覚が麻痺した現代人じゃ無理
0342人間七七四年
2013/10/15(火) 23:33:12.87ID:uEvG6KXP駅以外でいい水が出てるとこあったのかな?
0343人間七七四年
2013/10/15(火) 23:48:51.52ID:qPAwVE1p料理人とかなら出来るでしょ
ラーメンマニアとかでも
マニア「○○が入ってますね?」
店長「はい」
みたいなやってるし
0345人間七七四年
2013/10/16(水) 12:33:51.19ID:VLp4v6e/パレード用にボランティア募集したけど人集まらんかった
追加募集もかけたけど結局ダメだったんじゃないかな
0346人間七七四年
2013/10/16(水) 13:07:30.28ID:587jV7kG前に山形城いったけど、超最上押しだった。いかんせん、山形城が何も残ってないのと、最上義光がとなりのあれと比較すると人気がない。マッシブな鉄棒とか銃弾跡がある兜とかええもんのこってるんだが。
山形城の像はかっこいいよね。
0347人間七七四年
2013/10/16(水) 16:57:28.39ID:z2g3fn3bその槍はいつも血塗られた。
そのため清康の仰せにより、『血鑓九郎』と名を改め、皆朱の槍を許された。
後に松平広忠に仕えて、天文十七年、三河国碧海郡西野での織田家との
合戦では信政は一番に馳せて、槍をとって盾を破った。
松平勢はこの勢いに乗じて進んだので敵は敗走した。さらに後には徳川家康に
近侍し、信政は生涯に九十三の首級を得た。
これより後、長坂家代々は毎歳正月の鏡餅を九十三個用いるようになり、
これを『首餅』と称した。
――『寛政重修諸家譜』
0348人間七七四年
2013/10/16(水) 20:21:53.76ID:uDTiWdCC「郷左衛門、その刀を自在に抜くことが出来るか」と問われた。
大竹は「自在に抜けぬ刀を士が差すでしょうか」と答え「それならば
抜いてみよ」と仰せられたので、御言葉に従い素早く抜いて見せた。
これを見て御機嫌も良く御泊りになられた時も郷右衛門を着けられ
百石御加増なされた。
(翁草)
0349人間七七四年
2013/10/16(水) 23:07:55.13ID:TBSOQmg8ジャパン400
http://japan400.com/ja/
あと記念コイン
http://www.eicgold.com/japan400/
権現様とジェームス1世が並んでる絵面が笑えるw
今年はスペインとも400年だからかこちらの方でも記念コインあるな
0350人間七七四年
2013/10/17(木) 08:09:20.66ID:vIR3sgdN戦国じゃないけど寛永の三筆、松花堂昭乗に水の話があるね
昭乗は能書の聞こえあり、関東へ下って将軍家の御前にて物を書いて
みたが「関東は水が悪くて筆の勢いが伸びがたいのです」と言った。
「都ではどのような水を使って書いておるのか」と問われ「京の柳の
水こそ軽くて良いです」と申しあげた。
将軍はあやしく思い、ひそかに都へ人を上らせ柳の水を瓶に入れて持ち
帰らせ、再び昭乗を召して試された。
筆をとって硯にひたし、いくらか文字を書き始めたが、やがて筆を止めて
かたわらへ向き「これは軽くて良い水です、京で使っていた柳の水と
変わりません」と申した。
人々は大いに驚いたと言う。
(落栗物語)
0351人間七七四年
2013/10/17(木) 12:05:39.90ID:lL9FqfDN0352人間七七四年
2013/10/17(木) 13:23:38.41ID:IXSS6C8e0353人間七七四年
2013/10/17(木) 13:55:14.82ID:9Zk62yRA0354人間七七四年
2013/10/17(木) 16:34:24.58ID:fO8OLoczいい話なのか悪い話なのか
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131017-00000661-yom-soci
0355人間七七四年
2013/10/17(木) 16:55:45.78ID:+Oqkn6X2書の人間なら筆の走りでわかってもおかしくはないと思うが
おれには騙されるとかのオカルトな逸話に思えないのだが
0356人間七七四年
2013/10/17(木) 17:17:08.23ID:fQgpfRuB水の違いで味が変わります。
絵具の溶け具合も変わるので
その』道の達人なら
それほど凄いことでもないかと。
0357人間七七四年
2013/10/17(木) 17:20:12.63ID:zhRHyi130358人間七七四年
2013/10/17(木) 17:31:33.13ID:xP4nw0KD0359人間七七四年
2013/10/17(木) 18:09:01.74ID:Bg6bzQzo15違えば結構差を感じるかな。
0360人間七七四年
2013/10/17(木) 19:57:31.57ID:BI8D72SV0361人間七七四年
2013/10/17(木) 21:46:56.02ID:v8HLZbWI0362人間七七四年
2013/10/17(木) 21:58:15.06ID:NSCZAewcイギリスのおばさん「ミルクに紅茶を入れたほうが、紅茶にミルクを入れるより美味しいわ!」
科学者「んなアホな。なら数カップ用意するからどっちかあててくださいね」
おばさん「これとこれとこれとこれと・・・」
科学者「げ、全部当てやがった」
それはそうと闘茶で水の産地とかはなかったのだろうか
0363人間七七四年
2013/10/17(木) 22:59:16.93ID:PPU5netG0365人間七七四年
2013/10/18(金) 08:31:36.80ID:YFIdObWY0366人間七七四年
2013/10/18(金) 11:12:41.90ID:z502H7GH士寄(攻城用陣地)の構築や、合戦における諸事の手立てについて、藤堂高虎は巧者であるため
見習うように、との徳川家康からの上意で、家康の息子である尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房の
3人が同道して、藤堂高虎の士寄場を見学した。
この頃藤堂高虎は、ためし兜にためし具足(仮の武装ということだろうか?)を付けて、
毎日昼夜を問わず、銃弾避けの竹束の下に出て、士寄の工事に関わる全てのことを現場で下知していた。
この事に工事をしている下々も
「もうお年も寄られているというのに(当時58歳)、本当にご苦労なされることだ。」
と、感じ入ったそうである。
(西嶋留書)
さすが藤堂高虎は戦国の土木建築の巨匠なのである。
0367人間七七四年
2013/10/18(金) 13:04:58.09ID:feZXuYTk0368人間七七四年
2013/10/18(金) 14:04:41.12ID:si0X43mw0369人間七七四年
2013/10/18(金) 14:27:24.17ID:ZfsiqCJa0370人間七七四年
2013/10/18(金) 17:19:22.38ID:eOdC8mbB多久長門殿はとてもお怒りになられたが、
事情もあり、神右衛門は浪人しただけで事が済んだ。
そして、年の暮れには再仕官の運びとなった。
そこで、神右衛門はまず長門殿のもとへ挨拶に出向いたところ、
奥の間で話をしたいと言われ、邸内に通されることとなった。
そして神右衛門の家臣、大河内勘解由が帯刀したまま奥の間へ通ろうとすると、
長門殿の家来たちが、
「邸内の話し合いに従者が帯刀のままとは礼儀知らずだろう」
と咎めると、
「わたしは生まれつき主人の側を離れないように出来ているのです。
平時も戦時も以前からこれで貫いておりますので、お許し願いたい」
と言って、奥の間までおし通っていったという。
誠に一騎当千の剛の者である 【葉隠】
0371人間七七四年
2013/10/18(金) 17:57:42.88ID:23ys40hf0372人間七七四年
2013/10/20(日) 08:58:07.95ID:nbdaL5fRどちらが上か?って言われても甲乙つけがたい
量は高虎、質は清正って感じかな
0373人間七七四年
2013/10/20(日) 15:44:21.54ID:WenBGnoJhttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1382245061/
典厩だとカッコイイけど、左馬助だとチョット間抜けな感じを受ける
0374人間七七四年
2013/10/20(日) 15:49:49.15ID:CbFUHTOS要塞としての防御力だけで考えれば清正のが上。
高虎はコストも重視してるから引く手あまたで数が多い
0375人間七七四年
2013/10/20(日) 15:55:50.35ID:Y2EKd+Ow0376人間七七四年
2013/10/20(日) 16:48:05.58ID:xe2TTAyL高虎さんは、褒めることはあっても貶すようなコメントは残さないイメージ
0378人間七七四年
2013/10/20(日) 22:17:05.68ID:I+Fu43kb0379人間七七四年
2013/10/21(月) 03:47:06.48ID:6HeaDS9Sだとしたらそういった技術は高虎のほうが高いんじゃないかなぁ
高虎は自分の技術に自負があったようで、どこかの築城で前田家に対して「御ふしんの邪魔」って言ってた記憶
0380人間七七四年
2013/10/21(月) 08:55:49.91ID:Cwmtakx7領地内の腕のいい職人を奨励してたってことなんですかね
転封されたときも連れて行ったりとか。
0381人間七七四年
2013/10/21(月) 09:11:15.85ID:rspMH4Qg藤堂が関わって普請内容知ってる=幕府に筒抜け=秘密はございません
というアピールにもなって、安心の公認ブランドというかJISマーク的な意味も
あったりして
0382人間七七四年
2013/10/21(月) 09:57:41.21ID:R9r7s/mP0383人間七七四年
2013/10/21(月) 20:19:50.96ID:/CS/OUr4藤堂高虎の部隊に岸本某という射手がいたのだが、
ある日、陣地を離れなんと大阪城の堀際にまで行って、そこで火矢を連発した。
ところが、この時ふとしたはずみで弓を堀に落としてしまった。
堀の深さは一丈あまり(約3メートル)、大阪城からの攻撃もあり、これを取るのは誰が見ても
甚だしく難しいものであった。
ところが、この岸本某はゆっくりと自分の甲冑を外すと、堀を降り始めた。
城中からは、そんな岸本に霰のように矢弾が集中した。
これには味方の者達も驚き、岸本の所属する部隊の隊長や同僚が駆け寄って
「帰って来い!帰って来い!」
と叫んだが、岸本は聞かずついに堀の底に降り弓を取り戻すと、再び上がって甲冑をつけ、
そしてゆっくりと歩いて陣地へと戻った。
彼の体には、傷ひとつ付いていなかった。
これを見た者達は驚愕し、「あいつは神だ!」と言った。
(観者駭嘆して似て神と為す)
(宋國史太祖記)
大阪冬の陣で、神認定を受けた高虎配下の武士についての話である。
0385人間七七四年
2013/10/22(火) 01:01:24.30ID:suOahIkq「宗國史」ね
0388人間七七四年
2013/10/22(火) 10:51:48.44ID:n3io6Ys10389人間七七四年
2013/10/22(火) 10:55:06.84ID:8rEmS6kf0390人間七七四年
2013/10/22(火) 11:17:03.82ID:uCqjKygl0391人間七七四年
2013/10/22(火) 11:25:55.48ID:cZ8fRsvG謙信はあんまり影武者使ってなかったと思いたい
0392人間七七四年
2013/10/22(火) 11:40:26.57ID:ewEmgqLw作家の火野葦平は、中国戦線で敢えて敵弾に悠然と身を晒す下士官を見て
「そんなのは勇敢なのでもなんでもない、私は幾多の戦場でよくこういう英雄を見かけた」
と皮肉っぽく批判してるけど、
実際こういうことをやると、味方のテンションはかなり上がるものらしいな。
0393人間七七四年
2013/10/22(火) 14:21:06.28ID:rbdMPLtZ戦闘においてはやはり兵士の士気は重要な要素だからなあ
テンションを上げてくれるような勇者が居るとやはり盛り上がる
0394人間七七四年
2013/10/22(火) 14:29:38.86ID:XN7ZrXmw前後の文がないとなんとも言えないけど
0395人間七七四年
2013/10/22(火) 21:31:46.57ID:rTSslT3W機関銃とか高性能ライフルが狙ってる戦場で身を晒すのは勇敢というより馬鹿だろ
0396人間七七四年
2013/10/22(火) 21:43:20.90ID:BSyIhQKg弾丸が雨あられのように飛び交うなかでも勇敢に戦い続けた兵士は2通りあって
もともと冷酷で残酷さに鈍感な犯罪者すれすれのタイプか
逆に生真面目で普段はおとなしい性格で、修羅場でも律儀に義務を果たすタイプだった
って「レイテ戦記」で書いてた記憶がある
0397人間七七四年
2013/10/22(火) 22:03:06.42ID:rbdMPLtZ戦友の某は戦場では勇敢で誰もが一目を置く兵士だったけど、
収容所ではボンクラなダメ男みたいな説明をされていた奴がいたな
平時で輝くタイプと、戦時で輝くタイプは違うんだろね
平時に生きる我々はちょっとそこら辺わかりづらいね
0398人間七七四年
2013/10/23(水) 00:20:27.78ID:02t5fLBF0399人間七七四年
2013/10/23(水) 01:29:38.15ID:Pnq+6vzc0400人間七七四年
2013/10/23(水) 02:38:43.98ID:mYVkBbsk0401人間七七四年
2013/10/23(水) 06:19:48.29ID:shVP74YX『内々の御状うけ給い候。いまにはじめざると申ながら、御懇のだん、ぜひにおよばず候。
其方のぎは、我等おととの小一郎め、どふぜんに心やすく存候間、なに事をみなみな申とも、
其方ぢきだんをもつて、せじ御さばきあるべく候。此国においては、せじよからば、
御両人の御ちさうのやうに申なし候まま、其方も御ゆだんとてはいかが候間、御たいくつなく、
せじ御心がけにて御ちさうあるべく候。御状の趣一々心ゑ存候。
かしく
七月二十三日 ちくぜん
小くわん参る 御返事
なをなを、其方と我等間がらのぎは、よそより人々さげるみもあるまじく候間、
なに事をもそれへまかせ申候ても、よそよりのひたちあるまじく候。人もはやみおよび候と存候。
我らにくみ申者は、其方までにくみ申事あるべく候。其心得候て、やうじんあるべく候。
さいさいは、ねんごろにはまうされず候間、ついでをもて、ねんごろに可申入候。
此文みへもすまじく候間、さげすみ候て御よみあるべく候。以上』
(あなたからの内々の書状を受け取りました。今に始まったことではありませんが、
あなたの懇ろな対応には、感謝の言葉もありません。
あなたに対しては、私の弟の小一郎(秀長)の奴と同然に心やすく思っています。
他の者達が何事を言って来ても、あなたの直の判断で、万事処理して下さい。
この国(播磨)においては、万事良い状況であれば、御両人(政職・官兵衛親子)の
手腕のように言われるのですから、あなたも、油断などは無いでしょうが、退屈すること無く、
万事に心がけて政治を行って下さい。あなたからの書状については一々心得ました。
かしこ
7月23日 羽柴筑前守秀吉
小寺官兵衛殿へ ご返事として
追伸 あなたと私の間柄は、余所の人々からの蔑みを受けるようなものではありません。
何事もあなたに任せても、余所からの批判など受け入れません。
そういった事は人々ももはや知っていると思います。
私を憎んでいるものは、あなたまで憎むこともあるでしょう。どうか用心して下さい。
最近は、じっくりお話する機会がなかったので、ついでを以って、懇ろに申し入れました。
この文は大変見栄えが悪いと思いますが、秀吉の文章はこんなものだと蔑んでお読み下さい。以上』
秀吉公は卑賤の出であり、文筆に関する教育を受けなかったのか、その文章は拙く、
言葉の誤りも多い。
だがこの書において、秀吉公が英材であることを見なければならない。
(黒田家譜)
黒田家譜に見える、秀吉の官兵衛への信頼がよく解る書状である。
0402人間七七四年
2013/10/24(木) 07:30:35.42ID:0KNR1rSSのが作法であったから、料理人がこれを撫でた時、鯉がはねて俎板の上
から落ちそうになった。
この時、まな箸を取り直して両目を一箸に突き刺し、そのまま調理した
様がいかにも手際良かったので、周囲のものはいずれも感嘆し賞せられる
のではないかと話し合った。
秀忠公は初めから余所を向いていて見もしなかったが、調理ができあがり
左右へも賜られたところ、風味も格別であると周囲がまた言い出したが
「このような小事には賞を行わぬものよ。賞罰というのは全てつり合いが
取れていなくては成り立たない。この鯉を調理した時にもし取り落とした
からと言って罰するべきだろか。汝らはただ目前の事を見るだけで前後の
思慮が無い」と仰せられた。
(徳川実記)
0403人間七七四年
2013/10/24(木) 14:12:17.49ID:cBOtFCYU時にその料理人と賞すべしと申した者の名はなんと
0404人間七七四年
2013/10/24(木) 22:07:01.81ID:1GzK+ktS0406人間七七四年
2013/10/24(木) 22:56:03.03ID:/GSknnVZ感激させて一生懸命働かせたあたり、秀吉は人使い上手いっていうか
やっぱり天性の人たらしだなぁ、と思う
0407人間七七四年
2013/10/25(金) 00:07:38.83ID:yrwsuMaa佐久間親子は茶会を開いて信長をもてなした。
信長は京に戻ってきてからこう言った。
「信栄の茶の湯の手前、ことのほか上手であった。しかし羨ましいとは思わない」
0408人間七七四年
2013/10/25(金) 00:13:38.61ID:ptmj4Qfehttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4448.html
一、貴様(親子)が本願寺を包囲している間に手柄を立てた話は聞いたことがない。
二、もっと臨機応変に戦うべきなのに、貴様は包囲一辺倒で工夫がない。
十二、貴様の息子はろくでなしだ。
信栄が茶の湯より戦に励んでいればよかったものを
0409人間七七四年
2013/10/25(金) 01:38:10.58ID:D7rKQx7mと。
まあでも信盛にしてみりゃ、ウッカリ動いて負けでもしたら自分が討ち死にせずとも塙直政一族みたく潰されるんじゃないか、とか考えてたんじゃないかなあ
0410人間七七四年
2013/10/25(金) 01:40:12.78ID:tdHrFcQD0412人間七七四年
2013/10/25(金) 10:55:51.70ID:2xlYhFig0413人間七七四年
2013/10/25(金) 12:39:13.22ID:D7rKQx7mそれに家臣も散ってるし、何より腐っても織田の重鎮の一人だった信盛と違って、息子だから戻しても問題ないかなとかじゃないの
敵に内通した、とかの疑いじゃないしね
0414人間七七四年
2013/10/25(金) 17:21:16.40ID:4Y/L2yAU貴賎ともに、人に望みが無いという事はない。望みが有るからこそ、
すなわち今日の行跡を慎んで乱れないのである。
ところが何事も望みが無いと言う人は、己の心を基本として我儘で気随なものである。
今日は心よく付き合うとしても、明日には勝手な振る舞いが表れて極まるものと知るべし。
――『山本道鬼入道百目録聞書』
0415人間七七四年
2013/10/25(金) 19:06:11.52ID:sVFaAJ4L0416人間七七四年
2013/10/25(金) 19:20:25.93ID:7A29hjLT0417人間七七四年
2013/10/25(金) 20:05:57.73ID:MTndVanY三木の城山より尾根が続いて下る山の尾崎があり、秀吉はその向かいの山の陣を敷いたが、
その距離は甚だ近いものであった。
三木城からは度々この尾崎に兵を出し羽柴軍と小競り合いを起こし、何度も敵が利を得て帰っていった。
とある早朝、秀吉が本陣から見ると、その尾崎の後ろの方の山陰に、4,500ほどの兵が備えており、
伏勢のように見えた。あれが敵か味方なのか、秀吉が迷っていると、竹中半兵衛がこれを見て言った
「今日の合戦は味方が勝利するでしょう。何故なら、あの山陰に見える伏勢は敵ではなく、
小寺(黒田)官兵衛の部隊だからです。
と言っても、私が官兵衛殿と話し合ったのではありません。ですが、官兵衛はここに私が居ることを
知っています。
彼の伏勢を見ますと、三木城から人数が出撃した時、尾崎の前に備えている神子田半左衛門(正治)は
それと一戦し、わざと早々に引き退く作戦をとるべきでしょう。そうなれば敵は必ず、
逃げる軍勢を追撃します。
その時官兵衛殿は伏兵を起こし、追い打ちにするのです。
そうなると、追い詰められた敵はこの本陣の前を通過するはずです。そこでここからも兵を出し
それを討てば、必ず充分なる勝利を得られるでしょう。
官兵衛殿の考えは、鏡を合わせて見るように解ります
神子田殿に敵が出てくれば矢戦を少々やって、必ず早々に引き退くようにと仰せ付けられるべきです。」
秀吉はこれを聞いて尤もだと思い、神子田に使いを送ってその旨を命じた。
この時竹中半兵衛は、印をつけておくと、小笹を7,8本切らせて腰にさし、馬に乗って
尾崎と本陣の間まで行くと、谷あいを横に見た所にこの笹を挿した。
そして本陣に帰ると「敵があの笹の印を越えてきた時、ここから人数を出して、
横合いに攻めかかるようにして下さい。」と言った。
この様に、神子田も下知を得て待っていた所に、案の定三木城から兵が出てきた。
神子田は下ってくる敵に矢戦にて一戦するように見せたが、早速撤退を始めた。
敵はこれを謀とは知らず、後ろについて追撃を始めた。
ここで案の定官兵衛の伏兵が立ち、追いかけて三木勢を手痛く攻撃した。
こうなっては三木勢は、後ろに戻ることが出来ないため秀吉の本陣の前を通過するより他にない。
そして例の笹の印を超えた時、兼ねての想定通りに本陣より兵が出て横合いに攻めかかる。
後ろからは官兵衛の部隊が更に激しく攻めかかり、神子田勢も取って返してこれを攻撃する。
こうして前後と横から挟み討たれ、敵は一支えも出来ず即座に壊乱し、その殆どが討ち取られた。
合戦が終わって秀吉は、官兵衛と半兵衛の謀を大いに感じ入った。
官兵衛は伏兵を置くことを、秀吉や半兵衛に告げなかったのは、急に敵が出てくる様子があったため
にわかに兵を備えたため、連絡する暇がなかったのだ、と語った。
(黒田家譜)
竹中半兵衛、黒田官兵衛の意図を即座に理解し戦勝に導く、というお話。
0420人間七七四年
2013/10/26(土) 00:22:50.13ID:8yfDmZf/0421人間七七四年
2013/10/26(土) 00:38:52.42ID:2zS4mEmT0422人間七七四年
2013/10/26(土) 01:04:12.34ID:j0ARABPu0424人間七七四年
2013/10/26(土) 01:36:02.17ID:jGB7mCkb井伊が誘ったから寝返ったのかな
それとも井伊に頼み込んだのかな
0425人間七七四年
2013/10/26(土) 03:33:42.12ID:ZIyHnAFD0427人間七七四年
2013/10/26(土) 10:46:07.76ID:DzMsDEuO「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬという者は始末におえない。だがそういうものでなければ大事はなせない」
By 勝海舟
0428人間七七四年
2013/10/26(土) 13:02:16.53ID:UJJpVPKX『心知らぬ人は言わば言え
身をも惜しまじ名をも惜しまじ』
明智光秀
0430人間七七四年
2013/10/26(土) 13:36:43.12ID:UJJpVPKX0431勝海舟
2013/10/26(土) 16:57:12.52ID:DzMsDEuO0432人間七七四年
2013/10/26(土) 17:25:40.19ID:IW6UAmv80433人間七七四年
2013/10/26(土) 17:34:43.78ID:Hu1FX0cx三舟どれでもいいや
0434人間七七四年
2013/10/26(土) 22:20:50.39ID:3Ymjx0z2封し文の事、女郎よりはうつくしく封してこす物なり。
おとこよりつかはす封じ文は、ひしひしと折まきて、
封じめ計に糊を付て、上下は其のまま置くべし。
若し大事の用をいひやらば、封しめに印判はくるしからず。
それとても、上下をおりかけ糊付にするは初心に見ゆ、
文箱にいれて封付けたるなどはくるしからず。
細川忠興入道三斉は、封じ文の上下はいふに及ばず、
封じめに糊おほく付る事さへきらひ給へり。
糊多く付たるは野体なる物也。 以上、 色道大鏡 巻第二・寛文格 より原文引用
(遊女からの文は美しい封をして寄越すもの。男から出す文はしっかりと封をする事。)
(大事な用を書いたなら、封じめに捺印するのは見苦しくはない。)
(上下を折り込み糊付けするのは初心者。文箱に入れて封をつけるのは見苦しくない。)
(細川忠興は封じ文の上下の折込はもとより、封じめに糊を多く付ける事さえ嫌う。)
(糊多く付けるのは野暮である。) 以上、転載者の適当な意訳
三斎様の出す文には、彼なりの拘りと美学があったのでしょう。男が出す文のお手本ですね。
しかし、遊女の手解き書に書かれるくらいなのは、実際に三斎様が文を遊女に送ったか、
貰った遊女がとっておいたのかは定かではない。ですが、三斎様の艶文、見てみたいものです。
0435人間七七四年
2013/10/27(日) 10:32:22.48ID:OSATyEou0436人間七七四年
2013/10/27(日) 17:51:27.63ID:CpyCjo5J人の姿の命など、仮初めのものに過ぎない。
0437人間七七四年
2013/10/27(日) 19:50:33.83ID:Hsl4ksYA小寺政職は、自身への追求は逃れ難いと御着城を出奔し、中国所々を流浪しながら信長に対し
赦免を乞うたが、一旦味方に属しながら敵に寝返ったことへの信長の憤りは激しく、それを許すことは
無かった。その後、備後の鞆に居住し、天正十年に卒した。
小寺政職は男子一人、その後を付いて加賀守氏職と称した。その他、娘が数人あった。
小寺の家が滅び、その子がこのように零落したことを、黒田宗円・官兵衛親子は深く嘆き、
ある時秀吉に申し上げた
「小寺政職の不義によってその家はすでに滅び、流浪の身と成って、終に死去いたしました。
然る上は、その子供の罪は御免して頂けないでしょうか?
彼を召し寄せ、養育したいと考えています。」
秀吉は、旧好を忘れぬ志に感じ入り、その願いを許した。
これによって官兵衛は家臣の衣笠久右衛門を使いとして備後の鞆に派遣し、小寺氏職を迎えて
懇ろに養育した。
世の人々は
『小寺政職は信長公に背き、罪なき官兵衛を疑い、その身を危うくさせたと言うのに、
今その旧悪を忘れ、却ってこのように情深く憐憫される事。
誠に、恩を以って仇を報ずるとかかかる事である。』
と、感じ思ったそうである。
(黒田家譜)
黒田官兵衛、仇を恩で返すというお話
0438人間七七四年
2013/10/27(日) 20:57:09.51ID:sghIEC8B0439人間七七四年
2013/10/27(日) 21:06:26.43ID:6tbPYIo90440人間七七四年
2013/10/28(月) 11:33:13.84ID:w7yJGO+80444人間七七四年
2013/10/28(月) 21:35:46.05ID:TUlAiWxa大坂の事について相談した。この時、家康は「心にかかるものは一人、織田常真である。
お前はなんとかして彼が大坂の城に籠らないようにはからえ」と言ったということである。
秀政は答えて「以前、常真の心底をうけたまわりましたところ、長久手の役の御恩恵は
いつも忘れていないとの旨を申しておりました。ですから、御言葉の趣旨を伝えれば、
必ず御味方に参ることは疑いありません」と申し上げた。
家康はこれを聞いて「お前の申すように必ず味方に属すのであろうな?」と重ねて尋ねた。
秀政は承って「もしこの御使いを仕損じた時には、それがしの白髪首を速やかに
お刎ねになってください」と、言った。
これに家康はとても上機嫌になって、それならば少しも常真を疎んじる気持ちはない
との旨を言いつけた。秀政はこの事をもって常真と通じ、味方させた。
――『寛政重修諸家譜』
0445人間七七四年
2013/10/29(火) 13:00:50.43ID:BCLP5R4h家康が関東転封の時に家康旧領へ転封蹴って改易になったくらい時流が読めない方だし
0446人間七七四年
2013/10/29(火) 13:51:26.13ID:SUzHFdTK織田家の長者でもあり、淀殿の親族の長老でありと、名目的に旗頭になるには十分な境遇あり
信雄を名目的な中心として烏合の衆がまとまる可能性があった訳さ
んで、その後の信雄無き大坂方はみんなの知っての通り3派4派に分かれて派閥争いでグダグダ
0447人間七七四年
2013/10/29(火) 15:11:02.99ID:M+pvybLe戦っているんだけどね...(´Д` )
まぁ、率いりゃ良いってもんじゃないけどね。
ふと思ったけど相手が毘沙門天や鬼とかの渾名付きで天庵様運が悪かったのかもね。
0448人間七七四年
2013/10/29(火) 17:46:59.35ID:oLTHvw/c0449人間七七四年
2013/10/29(火) 17:54:38.06ID:tiBiOe3n0450人間七七四年
2013/10/29(火) 19:21:46.75ID:YBvvq51bしかし秀吉は、この城を浸から攻めにすると味方に多くの損害が出ると見て、
高松城の、地勢が低く二方が山に近く、またその中に川が流れている地形を見て、
水攻めにするしかないと、城の二方30余町(約30メートル弱)の間に堤を作らせた。
その堤の内に、大小7つの川より水を流し入れた。水は一ヶ所に落ち合って堤の入り口まで
4,50間(約40メートル前後)というところで大河と成って堤を破壊した。
これをせき止めようと。大石を数多く投げ入れたが、水の勢いが強く、2,30人で
持つような石でも容易く流された。
また枝葉の多く茂った大木を多く伐って川上につなげて流しかけ、その他様々に手立てを変えて
流れを抑えようとしたが、水の勢いは強く、竹木土石、尽く押し流され、どうしようもなかった。
秀吉はこれを大いに憂い、黒田官兵衛に
「どうにか才覚を以って、緊急に堤を築き立ててほしい」
と仰せ付けた。
官兵衛はこれを受け、川下にある大船を、人夫を多く派遣して2,30艘引き上げさせ、
水上に錨を入れて、土手の間に、この2,30の船を隙間もなく並べて繋ぎ止め、
その中に大石を多く積み、そこで船の底を破ると、船はたちまち沈んだ。
そして、かねてよりその辺りの家屋を破壊して竹木土石を多く集め置いていたのであるが、
それを沈んだ船に投げ入れた。
これによって即座に水をせき止め、その後、土石を以って難なく堤を築き立てた。
はじめこの堤を築こうとし、水の勢いが強くてせき止めかねたのを、
官兵衛のこのような巧みによって終に完成させたことに、秀吉の御感は甚だしいものであった。
(黒田家譜)
有名な、黒田官兵衛、才知を以って備中高松城水攻めの堤を築く、というお話。
0451人間七七四年
2013/10/30(水) 20:20:33.35ID:j8lfx3zPこのはかりごとは、相手がはかりごとだと思っていても、仕掛けていくと相手が乗ってくるものが本物である。
仕掛けておいて、こちらの術中にはまったところで勝つことだ。
はかりごとに相手が乗らなければ、次の手の仕掛け方が考えられてくる。
だから、こちらのはかりごとに敵が乗らないこともまた
こちらのはかりごとに乗ったということにもなるのである。
(柳生宗矩 兵法家伝書)
0452人間七七四年
2013/10/30(水) 20:22:37.27ID:wfXyVMsk0454人間七七四年
2013/10/31(木) 07:20:40.17ID:RaiMKiAr「一人でも降りるものは切り捨てにすべし、消防できずば皆焼死せよ」と下知して、
自分も家人もあちこちに怪我はしたが櫓は無事に残した。
この働きを和歌山中の者は貴賤ともに賞賛しないものは一人も無かった。
しかし頼宣卿は何とも仰せられず、その他にあちこちで火を防いだ者にも一言の
御意もなかったので、家老を始め下々の者まで不審に思っていた。
それより二、三年過ぎて御近習の士を集めてお話になられていた時、火事の話に
なり仰せられたのは
「失火の際に消防に身命を軽んじて働くのは血気の勇で、真の義勇にはあらず。
ただ智が足りないだけだ。
0455人間七七四年
2013/10/31(木) 07:22:50.00ID:RaiMKiArただし水がよく行き届く時は消防も行き届くが、もし水が行き届かない時は家屋は
もちろん人まで焼亡してしまう。
どうして家屋が燃えつきる事を厭って人を損ずるべきであろうか。これは無智の勇に
して、ただ血気の勇である
いかなる金殿玉楼であろうとも人には替えられない。家は幾度消失してもまた元の
通りに造れるが、家人一人を損じたらその家人はもう戻ってこない。
失火の為に我が大切な軍兵を失えば、それこそ不自由というものだ」と仰せられた。
久野和泉守はこれを聞いて感心していたと紀州家の三刀谷伴蔵が物語った。
(明良洪範)
0456人間七七四年
2013/10/31(木) 09:21:12.96ID:loSbYA7vスレタイわかってる?
0457人間七七四年
2013/10/31(木) 09:35:35.20ID:DhARhHe+0458人間七七四年
2013/10/31(木) 12:58:30.02ID:eqnLTJY5命には代えられないといってやればいいのに。
0459人間七七四年
2013/10/31(木) 13:04:41.64ID:X2DSLFvN0460人間七七四年
2013/10/31(木) 17:35:45.16ID:sbzUBMtC遊び戯れていると、狂った僧が来て利隆を奪い、空室に入った。
衆人はただそこを取り囲むばかりであったところ、乳母は衣を持って
静かに落ち着いて僧に近づいた。
「とても寒いですから、どうぞしばらくその子を私に貸してください。
あなたがこの衣を着た後に、お返しします」と、乳母は僧に言った。
すると僧は利隆を放したので、乳母は利隆を抱いて離れた。
――『皇朝金鑑(日本智嚢)』
0461人間七七四年
2013/10/31(木) 21:12:53.66ID:6wUnyXdP0463人間七七四年
2013/11/01(金) 18:36:20.41ID:5XK1ent50465人間七七四年
2013/11/01(金) 21:44:20.57ID:VlTXoGo40466人間七七四年
2013/11/01(金) 23:47:33.83ID:amd12zl70467人間七七四年
2013/11/02(土) 17:03:04.18ID:pm8g5n3i「国を形作るための三つの方法がある。
一つ目は量国、二つ目に量人、三つ目に量食だ。
量国とは国の大小、地の遠近を知って治めることである。
量人とは人の多数少数を知って治めることである。
量食とは食の充足を知って治めることである。
この三つを知らなければ国を治めることはできないのである。
ゆえに、民が多く密であれば、民に広々とした荒れ地を
切り開かせることで国は富み、民は旺盛になるのである。
民がまばらであれば土地を開く事に適さず、良田は必ず廃れる」
――『皇朝金鑑(貴言為孝記)』
0468人間七七四年
2013/11/02(土) 17:30:55.86ID:jZSxebqCある日、藤堂高虎家臣、磯野平三郎(行尚)の屋敷を一人の老女が訪ねてきた。
平三郎への面会を求めてきたため、これと対面すると、老女はこのように尋ねてきた
「先年、大阪表での合戦において、あなたは錦の羽織を着た大将を御討ち取りになり、
その差料、銘の付いたものを三腰まで添えて手に入れられたそうですが、それに相違ないでしょうか?」
「その通りである。しかしその大将が誰であったか、未だに名は知れぬ。
そして三腰のうち、太刀は澤田但馬守殿の家臣に、戦場で助けてくれた志への謝礼として与えた。
その他の二腰と錦の羽織は、私が所持している。」
「そうですか…。何卒!その品々を一目見せていただけないでしょうか!」
平三郎は老女があまりに熱心なことを不審に思い
「其方、女の身でありながら武具を見て、どうするというのだ!?」
となじると、老女は涙を流し、言った
「何を隠しましょう。あなたが御討ちになったその大将は、増田兵部(盛次)殿なのです。
私はその兵部殿の乳母でございます。
あの頃、兵部殿は大阪方にお味方されましたが、これを秀頼様は殊の外お喜びになり、
お手で自ら、錦の羽織と二腰の太刀を下され、組下の足軽その他三千人の大将に
仰せ付けられました。
この時、私は女のことですから何のわきまえもなく、兵部殿が元の大将に立ち帰られたように思い、
大喜びしたものです。
そして5月6日の夜中に出陣され、二度と戻っては来ませんでした。
付き添った者達が逃げ帰ってきて、彼らに尋ねても、『平野の近くまでお伴したが、その後は知らない』
と申し、又は平野で討ち死にしたのを見たものがある、とも聞きました。
口惜しく、悲しく、せめて亡骸を見つけ出し弔いたいと思いましたが、女の身であり尋ねに出ることも出来ず、
その日を命日と考え、水を手向け回向をいたしましたが、目当てにすべき墓所もなく、たいへんに
心苦しい月日を送ってまいりました。
ところが、この頃人の噂にて、藤堂様の御家中の磯野平三郎という人が、錦の羽織を着た大将を打ちとったが、
その姓名もわからない、という話を聞きました。これこそ!と思い、ここまで参ったのです。」
平三郎は尋ねた
「それだけでは本当のことかどうか判断できない。その錦の羽織は如何なる紋柄で、何色であったか?」
老女はそれに詳しく答えた。そこで三腰の刀について尋ねると
「太刀は備前兼光、脇添え石船切と銘のある一尺八寸のもの、馬手指し(短刀)は吉光の九寸五分のものです。」
と答えた。
「全て相違無い。今は疑いも無くなった。」
平三郎はそう言うと羽織と刀を取り出して老女に見せた。そして彼女の心底を察し
「これらの内一つ、何であっても望みにまかせ、あなたに遣わそう。」
と言うと、老女は
「この吉光の短刀は、兵部殿がお生まれになった時、父君の右衛門(増田長盛)殿より遣わされた
品です。そのため、兵部殿は常にこれを、身から離さず持たれておりました。
これを私に頂ければ、仏壇に置いて、回向をしたく思います。」
平三郎は老女の望む通りにその短刀を与えた。
この事により、磯野平三郎が大阪夏の陣の折に、増田盛次を討取ったという高名が初めて判明した。
そこで元和五年十月に、追って三百石が加増され都合千石となり、また鉄砲頭を申し付けられた。
(元和先鋒録)
0469人間七七四年
2013/11/03(日) 13:54:49.42ID:yJpzWcEFある日、夫(稲葉正成)の家にいた時、夜に狂暴な盗賊数人が現れた。
春日局は刀を振るってたちどころに二人を斬り、他の盗賊は皆驚いて逃げた。
――『皇朝金鑑(日本智嚢)』
0470人間七七四年
2013/11/03(日) 14:31:17.57ID:KQLn7oWZ平三郎って磯野員昌の孫なんだな
石田三成の逃避行に最後までついてったのもこの人
エピソード二つもあって出自もそれなりなのにドマイナー
0472人間七七四年
2013/11/03(日) 18:09:15.88ID:52brZvFK0476人間七七四年
2013/11/04(月) 03:48:57.08ID:gh8OiHCd紐を引っ張ると、天井から刀が千本ドドドと落ちて来た
0477人間七七四年
2013/11/04(月) 14:14:17.59ID:mndIJySd十四代渋江公勢のときに全盛期を迎えて、杵島郡近隣の諸勢力は渋江氏に人質を出してその傘下についていた。
永正元(1504)年のこと、渋江公勢は幕府の大番役として三年在京し将軍義澄に仕えていた。
無事に任を終えた公勢は、伊勢神宮に参ろうと大津の関にさしかかったところ、関所で立ち往生していた一行と知り合った。
それは、有馬家との戦いに敗れ本領彼杵郡を追われて、松浦郡加々羅島に逃れていた大村純伊であった。
大村純伊は数年前有馬氏との戦いに敗れ領地を失い、旧領を復活するために伊勢神宮に参拝し祈願を立てようとしたのだが、
大津の関でついに持ち合わせがなくなり、立ち往生していたのである。
この話を聞いた公勢は、これも何かの縁と純伊に協力を約束し帰国した。
永正四(1507)年、公勢は1800の兵を純伊につけて彼杵郡に向けて出兵させ、
さらに自身も1500の兵を率いて、高橋、塩田を経て鹿島へと侵攻し有馬勢を打ち破った。
これによって大村氏は本領復帰を遂げることができたのである。
0478人間七七四年
2013/11/04(月) 14:54:21.02ID:Iga7teb70479人間七七四年
2013/11/04(月) 15:00:39.74ID:mndIJySdその渋江氏解説だと曽孫は大阪の陣に参加して落城後はそれぞれ波佐見と長崎で隠居してるから、たぶん違うんじゃないかね?
0480人間七七四年
2013/11/04(月) 16:14:18.01ID:enyfS3yG0481人間七七四年
2013/11/04(月) 19:36:57.69ID:mndIJySdいやいや、ただ単に逸話として紹介しやすいように、自分で再構成して書いただけだぞ
史料やなんやから丸コピペみたいなのはとっつきにくくてやりたくないし
0482人間七七四年
2013/11/05(火) 22:50:44.27ID:dmGuqpFn心だに誠の道に叶ひなば
祈らずとても神や守らん
というものがあるが、この誠の道というのは、どのようなものであろうか?」
、と問うた者がいた。
ある歴戦の武士が答えこう言った。
「そなたは歌が好きなようだから、歌で教えよう。
何事もみな偽りの世の中に
死ぬるばかりぞ誠なりける
と、この歌のとおりである。
一日一日の覚悟、死人となって生きることが誠の道に叶うということだ 【葉隠】
0483人間七七四年
2013/11/05(火) 22:53:04.57ID:dmGuqpFnこの歌、反町隆史の歌みたいでカッコイイと思いませんか?
ぽいずん
0484人間七七四年
2013/11/05(火) 22:55:06.00ID:vB7adXMO0485人間七七四年
2013/11/05(火) 23:16:31.42ID:dmGuqpFn0486人間七七四年
2013/11/06(水) 00:52:21.18ID:O8mpcwXC山本常朝=バリバリの戦国気質だけど文官仕事まかされる
反町隆史=poisonのような熱いロック歌詞書いてもイケメン俳優のチャラチャライメージで見られてしまう
0487人間七七四年
2013/11/06(水) 19:02:32.33ID:10ek1I8hこれは天下の事を日々お聴きになられるので、その礼儀の為であった。
家光公はこれを聞き御気の毒に思われ、御政道の事はしばらくお耳に
入れぬよう老中へと申し渡したので、あらゆる報告が当分差し控えられた。
秀忠公は「天下の事を一日も聴かないのでは、気になってかえって気分が
優れなくなる。天地のうちに役割をもたぬものが居ないように、天下の
主将は死に至るまで政事を聞くことこそ本意である」と仰せられた。
その後は元のように報告するようになったと言う
(翁草)
0488人間七七四年
2013/11/07(木) 01:44:59.86ID:Cys9HTIs0489人間七七四年
2013/11/07(木) 01:55:37.54ID:vpG9NMfX0492人間七七四年
2013/11/07(木) 13:28:56.11ID:PNYa2dWB0493人間七七四年
2013/11/07(木) 13:33:48.51ID:Xpg7t0um0495人間七七四年
2013/11/07(木) 13:36:38.36ID:hZmbfMwM0497人間七七四年
2013/11/07(木) 18:15:52.02ID:IijRfdOJというか、上杉相手じゃないけど武田軍が鬨の声で味方応援した話は本当にあるぞw
鬨の声と言えば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1928.html
0498人間七七四年
2013/11/07(木) 18:29:45.65ID:ChDnXMdc0500人間七七四年
2013/11/08(金) 17:44:44.25ID:W5TeR3s8黒田官兵衛が派遣され小早川隆景と対面し、和睦について協議し、現状の領土維持を条件として
毛利が信長旗下に入ること、吉川、小早川の両川より誓紙を出し、毛利方より人質を送ることを約束した。
秀吉からも誓紙が出され、いよいよ和議は整った。この時である
その夜、子の刻(午前0時頃)、京都にあった織田信長家臣長谷川宗仁より飛脚が来て、黒田官兵衛に
直に対面し、昨2日、京都において、信長公及び信忠卿を、明智日向守が弑し奉った事を、密かに語って
書状を捧げた。官兵衛はこの飛脚に対し
「さても汝は早く来たものだ。信長公ご逝去のこと、絶対に人に語ってはならぬぞ!こちらに来い」
と手を引いて台所に連れて行き、酒食を与え休息させて、自身は秀吉の御前に出てその書状を披露した。
このことを知った秀吉の嘆きは深く、呆然として何も考えられないような様子であった。
ここで官兵衛は言った
「信長公の事は、とにかく言語を絶したものであり、後愁嘆至極の事であります。
しかし、こうなった上は貴方が天下の権柄を取られるのだと認識して下さい!
何故なら、明智日向守は君を弑せし乱臣である以上、天罰逃れ難く、これを討つのは容易い事です。
信長公の御子息両人(信雄、信孝)は随分御守り立てあるべきですが、しかしどちらも
天下を治めるような御器量ではありませんので、必ず諸大名はこれを侮り、天下を望み、
謀反乱逆を起こすもの、多く出てくるでしょう。
それを誅罰されれば、貴方の勢い、強くなります。」
秀吉は涙を流していたが、これを聞いて
「我もそう思う。しかしその計略は、いかがすべきか?」
「昨朝信長公を明智が弑し、御注進の飛脚京都よりこの地まで70余里の道を1日半夜にて来ること、
これぞ天のお告げであると思われます。そして本日の昼に毛利との和睦の約束が整っていたことも、
大いなる幸いです。
信長公のことは、明日の昼までは毛利には聞こえないでしょう。
明朝人質を受け取った後なら、この事が毛利に発覚したとしても、態度を変えることはできなくなります。
人質を受け取った後、
『信長公薨去に付いて、明智誅伐のため上京する。後詰めをお頼みする。』
と仰せ遣わされて、急ぎ攻め上がり明智を誅伐する事こそ然るべきと存じます。」
秀吉はこれを聞き、尤もであると感心した。そして
「これを知らせた飛脚が、信長公が弑されたことを人に語り、敵陣にも聞こえてしまっては
どうにもならない。急ぎその飛脚を殺せ。」
と命じた。
官兵衛は立って台所に行き、飛脚がくたびれて寝入っていたのを起こし、自分の陣所に連れて行くと、
「信長公が弑された事は、いよいよ人に語ってはならない。また、人に合うことも成らない。」
と堅く制して、家人に預け隠し置いた。
官兵衛はこう思ったのだ、『この飛脚が1日半夜で70余里の道を来て信長公のことを告げてくれたのは、
誠に天の使いである。その上、この飛脚には殺すような科はなく、むしろ早く来た功がある。
世が静かになれば賞を行われるべき者であり、どうしてこれを殺していいものか。』
そうして殺さず、隠し置いていたのだが、彼は長旅に疲れて飢え、その後俄に大食したためであろうか、
それからいくほどもなく病死した。
(黒田家譜)
黒田家譜における、本能寺の変を知った秀吉の対応と、それを知らせた飛脚についての話である。
0501人間七七四年
2013/11/08(金) 19:55:17.35ID:PZ1bgMY00502人間七七四年
2013/11/08(金) 20:20:58.66ID:jGDKFBH10503人間七七四年
2013/11/08(金) 20:39:47.06ID:NprG4Vhzhttp://livedoor.blogimg.jp/lovelive2015-kantai/imgs/2/b/2bc20e83.jpg
0504人間七七四年
2013/11/08(金) 20:44:33.93ID:NprG4Vhzhttp://blog-imgs-49.fc2.com/1/0/0/1004uploader/8c39a794.jpg
0505人間七七四年
2013/11/08(金) 21:04:56.61ID:j3MFdkJ20506人間七七四年
2013/11/08(金) 21:07:32.62ID:N7+08DzT0507人間七七四年
2013/11/08(金) 22:06:34.00ID:dOQFnTl7死期が近いと感じた秀吉は主だったものに対して遺言を伝え、近臣が覚書として記録した。
以下がその覚書である。
「太閤様御覺書」
太閤樣被成御煩候内ニ被爲 仰置候覺
一 内府久々りちきなる儀を御覽し被付、近年被成御懇候、其故 秀ョ樣
を孫むこになされ候之間、秀ョ樣を御取立候て給候へと、被成 御意
候、大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、
一 大納言殿ハおさなともたちより、りちきを被付御存知候故、秀ョ樣御
もりに被爲付候間、御取立候て給候へと、内府年寄五人居申所にて、度
々被成 御意候事、
一 江戸中納言殿ハ 秀ョ樣御しゅうとになされ候條、内府御年もよられ、
御煩氣にも御成候者、内府のごとく、秀ョ樣之儀、被付御肝煎候へと、右
之衆居申所にて、被付 御意候事、
一 虫ト肥前殿事ハ、大納言殿御年もよられ、御煩氣にも候間、不相替 秀
ョ樣御もりに被爲付候條、外聞實儀忝と存知、御身ニ替り肝を煎可申
と被 仰出、則中納言ニなされ、はしたての御つほ、吉光之御脇差被下、
役儀をも拾万石被成御候事、
一 備前中納言殿事ハ、幼少より御取立被成候之間、秀ョ樣之儀ハ御遁
有間敷候條、御奉行五人にも御成候へ、又おとな五人之内へも御入候
て、ゥ職おとなしく、贔屓偏頗なしに御肝煎候へと、被成 御意候事、
一 景勝、輝元御事ハ、御りちきに候之間、秀ョ樣之儀御取立候て給候へと、
輝元へハ直ニ被成 御意候、景勝ハ御國ニ御座候故、皆々ニ被爲 仰置
候事、
一 年寄共五人之者ハ、誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、さけさや
の躰にて罷出、双方へ令異見、入魂之樣ニ可仕候、若不屆仁有之而きり
候ハゝ、おいはらとも可存候、又ハ 上樣へきられ候とも可存と、其外
ハつらをはられ、さうりをなおし候共、 上樣へと存知、秀ョ樣之儀
大切ニ存知、肝を煎可申と、被成 御意候事、
一 年寄爲五人、御算用聞候共、相究候て、内府、大納言殿へ懸御目、請取を
取候而、秀ョ樣被成御成人、御算用かた御尋之時、右御兩人之請取を
懸 御目候へと、被成 御意候事、
一 何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意
候事、
一 伏見ニハ内府御座候て、ゥ職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守ハ
コ善院、長束大藏仕、何時も内府てんしゆまても、御上り候ハんと被仰
候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、
一 大坂ハ 秀ョ樣被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと
被成 御意候、御城御番之儀ハ、爲皆々相懃候へと被 仰出候、大納言
殿てんしゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成
御意候事、
右一書之通、年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候、以上、
0508人間七七四年
2013/11/08(金) 22:10:08.05ID:dOQFnTl7一応悪い話ではないのでこっちで投稿。
なお、出典元では変体仮名が多数使われていますが、再現不可なのでひらがなで代用しています。
続けて、桑田忠親著『太閤の手紙』から引用で現代語訳版も投稿。
『豊臣秀吉遺言覚書』
一つ、徳川家康殿に対しては、太閤様も、長い間その律儀な人柄であるのを知っていられ、
近年になって親しくされた。そうして、秀頼様をば家康の孫千姫の婿になされたのだから、
その孫婿の秀頼様を取り立てて頂きたいと、前田利家殿初め大老五人のいる所で、
度々仰せになったことである。
一つ、利家殿は、幼な友達の頃から律儀な人柄であることを知っていられるので、特に秀頼様の御守役に
附けられたのだから、お取り立て頂きたいものだと、家康殿を初め大老五人いる所で、
度々仰せになった。
一つ、徳川秀忠殿は、秀頼様の御舅の間柄になったので、親の家康殿が年をとられ、
わずらいがちにでもなった時は、家康殿と同様に、秀頼様のことを面倒見て頂きたいと、
五大老のいる所で仰せになった。
一つ、前田利長殿は、親の利家殿が年も寄られ、わずらいがちになっても、相変わらず秀頼様のお守役に
附けることにしたから、忝く思って、世話をやいてほしいと仰せられ、これを中納言に進め、
橋立の茶壷と吉光の脇差を下され、祝儀として十万石も与えられた。
一つ、宇喜多秀家殿は、幼少の時から太閤様がお取立てなされたのだから、秀頼様のことは
放っておけない義理がある。或いは五奉行に交わり、或いは五大老の一人ともなって、
政務万端、重々しく、依怙贔屓なしに尽力してほしいと仰せになった。
一つ、上杉景勝と毛利輝元は、律儀な人柄だから、秀頼様のことを取立てて頂きたいと、
輝元には直々仰せられた。景勝は領国にいるので、皆々に云い渡された。
一つ、五大老は、たとい誰であっても、御法度に背くような事をしでかしたら、
さげ鞘の恰好でやって来て、仲違いした双方の者に意見し、仲よくするようにしてほしい。
それでも万一不届きな者があったならば、刀を抜いて斬れば、太閤様に対して追腹を切ったと
思っている。また、太閤様に斬られたとも思うがよい。たとい秀頼様に面をなぐられ、
草履を直しても、それを太閤様のやったことだと思い、大切に扱い、世話をやいてほしいと仰せられた。
一つ、五大老たちで蔵入の御算用を処理することにきめたから、家康殿と利家殿にそれを見せ、
受取状をとっておき、秀頼様が御成人なされて、御算用のことをお尋ねになった場合は、
御両人の受取状をお目にかけるようにしてほしい、と仰せられた。
一つ、どんな事でも、家康殿と利家殿の御意見を聞き、その御意見次第できめるように、と仰せられた。
一つ、伏見城には家康殿が居られて、庶務を世話やかれたい、と仰せになった。
留守役は前田玄以と長束正家がつとめるが、家康殿が天守までも上ると云われたら、
心配なく上げるようにと、仰せられた。
一つ、大坂城には秀頼様が居られるから、利家殿がお守役として、すべてについてお世話願いたいと仰せられた。
御城番のことは、皆で協力して勤めてほしいと仰せになった。そうして、もし利家殿が天守までも上りたいと
いわれたならば、心配なく上って貰うように仰せになった。
以上十一ヶ条にわたる御遺言は、五大老その外、お側にいられる女房衆まで聞き取ったのである。
0509人間七七四年
2013/11/08(金) 22:40:23.89ID:ktmJJLoq突っ込みどころは多いけど、一番アレなのは、この文書の「年寄」は五奉行の事で
「奉行」と書かれてるのが五大老、これを逆にしてるから無理のある訳になる
著作物からのベタ引用ってのもどうかと思うが、そもそも、これのどこが良い話なのだろうか。
0510人間七七四年
2013/11/08(金) 22:43:44.76ID:nXO39U1y0511人間七七四年
2013/11/08(金) 23:00:07.92ID:dOQFnTl70512人間七七四年
2013/11/08(金) 23:05:26.26ID:IbAGWW7X0513人間七七四年
2013/11/09(土) 07:50:36.58ID:kdPcn2jt豊臣家を封じこめる手際があまりにも悪すぎた。
0515人間七七四年
2013/11/09(土) 07:57:19.25ID:llHTHfMPこじつけかもしれないが家光の実弟忠長の処分も家康の秀頼殺害を模倣したようにも見える。
さらに邪魔者を膿ませて一度にまとめて切り取るやり口は幕府の悪しき定石になったかと
0516人間七七四年
2013/11/09(土) 14:46:38.30ID:hMZqmiVJ男の争いに女が介入するとろくなことにならない典型
0517人間七七四年
2013/11/09(土) 14:56:00.94ID:hMZqmiVJ政治も含めた長期戦の見通しとかは女は向いていないと思う
0518人間七七四年
2013/11/09(土) 14:56:41.71ID:Cq1Qd3Vi0519人間七七四年
2013/11/09(土) 14:59:02.72ID:uQo2Yytt0521人間七七四年
2013/11/09(土) 15:42:09.81ID:hMZqmiVJ明治維新だって江戸が無血開城しただけで、
会津長岡泥沼だったし、奥羽列藩同盟〜五稜郭までで足らず、
薩長方だった西南地方でも神風連を発端に反乱続出したではないの
歴史的に見て徳川幕府成立の過程の前政権への対処そんな無茶かね?
0522人間七七四年
2013/11/09(土) 16:07:42.16ID:L5bk+GR4あんなの家康じゃなくても、もう殺さないとどうにもならんよ。
0523人間七七四年
2013/11/09(土) 16:13:59.79ID:e+b9Cyhtある意味豊臣系大名も秀頼殺しに納得したんじゃないかね
0524人間七七四年
2013/11/09(土) 16:18:27.73ID:Yks+cYuL0525人間七七四年
2013/11/09(土) 16:43:50.93ID:e+b9Cyht家臣「さすが殿!」
秀吉「生きてるらしいな」
黒官「・・・すみません今晩やります・・・」
家臣(家譜)「助けたのに死んじゃったよ?。でもいい話だから載せておこう」
と読んだ
0526人間七七四年
2013/11/09(土) 16:53:54.45ID:yDgn7lsR0527人間七七四年
2013/11/09(土) 17:32:02.36ID:kp+VozRl小早川隆景公認の先走りぶりから考えると
官兵衛が秀吉に報告する前に勝手に使者を処断
秀吉「生かしとけよ」
官兵衛「……え?」
ー後日
秀吉「あの使者はどうしてる?」
官兵衛「にわかに発病してあえなく……残念です」
というパターンもありうる。
0529人間七七四年
2013/11/09(土) 19:04:03.04ID:dNaRYZ880530人間七七四年
2013/11/09(土) 19:10:24.89ID:dNaRYZ88なんてみっともないこと言ったら豊臣の歴史がパアになるでしょう
穏便な対処を引き出すのも武略、
ここが死に場所と散るのも武略だと思うけどね
豊臣氏も徳川氏も成すべき事をしたでFA
0531人間七七四年
2013/11/09(土) 19:23:03.59ID:Yks+cYuL0532人間七七四年
2013/11/09(土) 19:29:46.19ID:ZlWoXKKeどうせ滅ぼす事になるならささとやっときゃよかったって
0533人間七七四年
2013/11/09(土) 19:35:16.20ID:nXoNAlSq(情けというより故主の遺児殺しの汚名を避けたいという点で)
さっさとやるとなるともっと幼い時期に殺すことになるから更に外聞が悪い
ギリギリ自分の寿命に尽きる前に決着つけたのは結果的にいいタイミングだったんじゃないか
0535人間七七四年
2013/11/09(土) 20:14:36.94ID:Cq1Qd3Viいや、豊臣家を滅ぼす策略が15年もかかったと見るべき
その間に何もしていないわけではない、ちゃんとしてるよ
0537人間七七四年
2013/11/09(土) 20:23:14.27ID:uQo2Yytt専用のスレへ行けばどうだろう
0538人間七七四年
2013/11/09(土) 22:20:38.37ID:cKtXN3LF0539人間七七四年
2013/11/09(土) 22:35:07.53ID:5yIshaz9「今、諸侯は従順となり、天下には事もありません。
もし皇居を伊勢に遷し、公卿百官には太廟の祭祀を行うことを職とさせれば、
則ち天子は神祇伯(律令官制における神祇官の長官)と変わりません
そうなれば、幕府の尊さは、おのずから今の天朝と等しいものとなるでしょう。」
藤堂高虎はこれを聞くや
「それは不可なる事である!
諸藩、諸将が尽く幕府に屈するのは、それが能く皇室を尊び、名分を重んじ、
それを以って萬姓の心を得ているからです。
もし天子をして神祇伯のようにしてしまえば、諸侯諸将はこれを以って名分とし、
争って兵を起し、以って天朝を侮蔑するの罪を問わんとするでしょう。
これは大乱の基であります!」
徳川秀忠は、この高虎の発言を深く然りとした。
(昭代記)
0542人間七七四年
2013/11/10(日) 03:22:41.91ID:mw4AMHgmさる年の正月、山形城に年賀の挨拶に登城した一栗高春に最上義光は「兵部(一栗高春)は狂歌が得意だったよね?上の句を詠むから下の句を続けてみて」とおっしゃった。
(´・ω・`)最上義光「最上よし あきのかたへや 押出(いで)ん」
(´・ω・`)「さぁ兵部、どう詠む?どう返す?」
一栗高春は「では、とりあえず…」と下の句を返した。
一栗高春「みな切捨にせんぼくの敵」
この年の「明の方(恵方、縁起のよい方向)」は北の方角。
上の句…最上よしあきは今年は頑張る、良い方に行く、最上よし(山形周りは安定している)、あき方へ押出るつもり(領土拡張)…エトセトラ
下の句…みな切捨にせん(軍評定の方針を聞いて頂ける程信用されている、合戦は任せてください)、ぼくの敵(最上に敵対する者)、せんぼく(仙北・小野寺)…エトセトラ
他にも二人の関係と言葉遊びが読み取れますので、隠されたキーワードを探してみてください。
「連樫はありません」の時の話とは異なる
教養の感じられる良い話。
0543人間七七四年
2013/11/10(日) 03:58:03.28ID:mw4AMHgm妻のとしよ姫の実家である大崎家の改易後に多くの大崎旧臣を抱えた鮭様。特に大崎・葛西一揆で伊達勢を相手に奮戦をした一栗高春を身近に置いてかわいがった。
最上義光(´・ω・`)「武勇の士っていいよね!力こそパワー最高!高春くんは芯が強いけど根は単純。でも、そこがいい。
そういえば似た感じの人だと家康さんの所に大久保彦兵衛や曲淵勝左衛門がいたか。
福島正則さんのとこにも可児才蔵って人がいるんだけど、名字が「かに」だから「ササガニ」みたいだね。腰指に笹の葉を用いるからホントに「笹蟹」って表現がぴったりだよ。高春の名字も「一栗」だから、「サルカニ合戦」みたいだねw
武勇に長けてるとことか機転がきくのに猪武者タイプみたいなところもそっくりだよw」とたびたび笑われてたとか。
0544人間七七四年
2013/11/10(日) 04:03:58.93ID:mw4AMHgm0545人間七七四年
2013/11/10(日) 07:28:46.56ID:VfszSPPp白鳥とか、あの辺はみんなやってることなのに
やっぱ独眼竜の原田義光の影響とかあるのかな
0546人間七七四年
2013/11/10(日) 07:50:46.17ID:d2SOX/AR0547人間七七四年
2013/11/10(日) 08:35:46.49ID:VfszSPPp0549人間七七四年
2013/11/10(日) 11:52:30.24ID:CHTKHBYk0550人間七七四年
2013/11/10(日) 13:06:50.81ID:RpMjM3fT関ヶ原の戦いで西軍はすでに敗れ、行長は捕虜となった。
加藤清正は隼人へ使者を遣し、城を渡して去るように告げた。
しかし、隼人はいまだ確報が無いので、毅然としてこれを聞き入れなかった。
やがて、清正は行長の敗兵を捕らえて城下に送り、これによって
隼人たちは初めて西軍に利が無いことを知った。
そこで彼らは清正に「城を明け渡してもよいが、そうなれば、
宇土と八代両城の士卒は流浪の身となり、妻子は離散して世の笑いものとなる。
それでは、たとえ命をまっとうしても何になるだろうか。
もし、幸いにも両城の士卒に禄を与えてくれるなら、ただちに城の留守の
隼人と若狭が腹を切り、その後で城を明け渡そう。この言葉を受け入れて
もらえないなら、城を枕にして死ぬだけだ」と告げた。
これを聞いて清正はその志にたいへん感動し「もしも、そうしたならば、
両城の士卒には皆禄を与えよう」と言った。
隼人と若狭はとても喜んで自殺し、城を明け渡した。
そして、清正は約束の通り士卒に禄を与えたという。
――『皇朝金鑑(備忘録)』
0551人間七七四年
2013/11/10(日) 13:31:02.26ID:mw4AMHgm某の代に至るまで七代最上の家に仕えてきましたが、元和の騒動で仕える御家は所領を召し上げられてしまいました。嘆かわしい事です。
それ以後私も浪人の身となり諸国を巡り、今は武蔵の葛西といった処に引きこもっておりました。
折りから近所に会津の浪人がおり、互いに身の上を話し合い、主家の今を悲しみ伝えたところ、
会津の浪人は「あなたはもうだいぶ歳で日に日に弱っていく様が正直見ていてつらく感じます。
あなたの子や孫には旧主の最上の御家が、徳川家にどれだけ忠節を尽くされたのかは話をされているのですか?
旧主家の事績が誰にも語られる事なく消えていく事は非常に寂しい事です。
見聞し体験なされた事を書き残し、子らに形見に遺すべきでしょう」と言いました。
(つづく)
0552人間七七四年
2013/11/10(日) 13:32:18.90ID:mw4AMHgmもっともな事と思い、虫の鳴く秋の深夜、昔の事を思い出し、とりつくままに書き付けます。
こんなわけでけっこう昔の事とかは記憶が曖昧な部分もありますが、子孫へ最上の御家と義光の大殿の事を書き残します。
時代が前後していたり、思い出せないので書き出していない話もあります。
(つづく)
0553人間七七四年
2013/11/10(日) 13:34:28.81ID:mw4AMHgm老いがつらく、身体を起こす事も不自由になってきたので書きたい気持ちはあるのに筆をもつ事もままならなくなってきました…
清書も出来ず、書き付けの紙片の集まりみたいな草稿でこのままお蔵入りになってもやむを得ないものだけれど、
子孫で心ある者がいれば事象のつながりがおかしい部分や矛盾を調べ直し、
鬼も口にしたがらない様な私の文の拙ずさがそしられるのを救ってほしい。
寛永十一(1634)年
それが心残りだ
「伝山形九左衛門之子九兵衛入道休賀斎直臣志村書付」「最上記」「続群書類従」
0554人間七七四年
2013/11/10(日) 13:41:12.38ID:mw4AMHgm誤「伝山形九左衛門之子九兵衛入道休賀斎直臣志村書付」
↓
正「伝山形直臣志村九左衛門之子九兵衛入道休賀斎書付」でした
0555人間七七四年
2013/11/10(日) 15:13:59.03ID:d2SOX/AR0556人間七七四年
2013/11/10(日) 19:35:54.68ID:RDd/D9ss清盛が頼朝を生かしておいた事で、後に反平家の旗頭に祭り上げられて、
平家が滅亡したのを気にしてたはず
0557人間七七四年
2013/11/10(日) 20:57:00.03ID:khTU4rPU0559人間七七四年
2013/11/10(日) 21:26:11.01ID:VNBg96W70560人間七七四年
2013/11/10(日) 21:28:17.14ID:gwduslN5藤堂高虎は発心し、出家して高野山へと登った。
登山の途中、高虎は
『おのが音に つらき別れの有とだに 思ひもしらで 鳥やなくらん』
との古歌を口ずさんだ。また
『旅衣 紀の路の末の哀れさに いたると鳥の音にやなくらん』
と口ずさみ、従う家臣に
「どうだ吉太夫、聞いてくれ。私のごとき身の上には、これまでこの様な歌の教養など
いらぬ事であったのだが、これから芋掘り坊主になってしまえば、このようなものを
口ずさむようになるであろうよ。」
と、戯れに語った。
高野山では高室院に落ち着いたが、院主より、
「ここまで登られてお疲れでしょうから、どうぞ休息されて下さい。
これを食べて、御気晴らしをなさって下さい。」
と、饅頭菓子を5つ持ってきた。高虎は
「さてさて、有難いことです。この新米坊主、随分と御奉公いたしますぞ!」
と笑いながら饅頭を3つ食べ、2つは吉太夫に与えた。
この高野への在山中に高虎の詠んだ歌が
『身の上を 思へばくやし罪科(つみとが)の ひとつふたつにあらぬ悲しさ』
やがて豊臣秀吉の命により高野山を下山することと成ったが、その時に詠んだ歌が
『帰るさの 道に迷わぬ燈し火も 浮世の闇をてらすばかりに』
その後、伊予宇和島において7万国を拝領した。
藤堂高虎は、高野山を下りた後は、その一代のうち、歌を詠むことは勿論、
歌の話すらしなかった。
外でそう言う話が出た時も、「私は至って武骨者ですから」とのみ言っていた。
(平尾留書)
藤堂高虎と歌についての逸話である
0561人間七七四年
2013/11/10(日) 21:30:36.56ID:7pYAt2Dtスレ範囲内の会話すら気に入らないと他でやれとするのはおかしいかな
0562人間七七四年
2013/11/10(日) 21:37:45.58ID:Z+pVm8gf0563人間七七四年
2013/11/10(日) 23:07:10.20ID:uZQjUsjH同じ歴史好き、仲良くやろうぜ
0564人間七七四年
2013/11/10(日) 23:14:46.08ID:5M+NQJhr0566人間七七四年
2013/11/10(日) 23:49:10.70ID:PImXkmBd0567人間七七四年
2013/11/11(月) 00:05:34.33ID:Qevdgqic曇りなき心の月を先だてて
浮世の闇を照らしてぞゆく
伊達政宗
よわりける心の闇に迷わねば
いで物みせん後の世にこそ
波多野秀治
0568人間七七四年
2013/11/11(月) 00:12:36.15ID:Ni5hN6dl0570人間七七四年
2013/11/11(月) 08:09:34.67ID:SN0gYITH目の周りを隠す半面を着けた一人または複数の人が舞台上に現れ
即興の掛け合いや寸劇をしつつ最後にオチをつけて、話を決着させるというもので、
話の内容は世相を風刺したり、政治を諧謔したり皮肉ったりといったものから
日常生活を茶化したりからかったりというもので、種類としては「お笑い」に近いといえる芸能である
この芸能の起源の説は幾つかあるのだが、その一つに関わるのが黒田官兵衛である
播州播磨の一宮、伊和明神で行なわれる例祭の一つに「悪口祭(踊)」というものがあった
これは祭りの日を無礼講とし、人々が個人への不満から治世に対する怒りまで、大小さまざまな悪口を、
踊りや冗談を交えて大いに言い合い、笑い飛ばす事で日頃の鬱憤を大いに晴らす、というもの
播州生まれの官兵衛は若い頃からこの祭りが大好きで、同時に人々の意見が聞けるこの祭りを貴重と思っていた
その為、後に福岡入りした際、官兵衛は博多の町人を伊和明神に派遣し悪口祭を伝承させた
それが現在の「博多にわか」の原型になったのだと言われる
無論一説ではあるのだが
官兵衛の逸話等の言動に妙にユーモアがあったり、皮肉・毒舌の成分を含む事があったりするのは
本人がそういったものを好んでいたからかも、という話
0571人間七七四年
2013/11/11(月) 08:37:36.12ID:rF41ueuX0572人間七七四年
2013/11/11(月) 12:30:35.70ID:F3woZrQK縛られてたんだねNGMSさんは。
2代めはやっぱ辛いんやね。まあどこの家でもそうやろうけど。
0573人間七七四年
2013/11/11(月) 14:36:03.65ID:JtTrup1v0574人間七七四年
2013/11/11(月) 15:47:59.64ID:WbincC9Yえ? 口ゲンカのこと?
流れをまともに把握せずマジレスしてみた スマソ
0575人間七七四年
2013/11/11(月) 18:55:26.28ID:6yCUI/n+0576人間七七四年
2013/11/11(月) 19:15:02.44ID:nBONwserこの歌の後にジャイアンみたいな悪ガキが「ごめーん」って謝りに行く。
これと「博多ぶらぶら」が双頭だったな。今は知らんけど。
0577人間七七四年
2013/11/11(月) 19:20:25.32ID:nBONwserhttp://www.youtube.com/watch?v=ivIvif4RzQU
「博多ぶらぶら」
http://www.youtube.com/watch?v=HqeXHQGF7ok
「博多の女(ひと)」を忘れてたw
http://www.youtube.com/watch?v=TajWnbRRs04
旧三大銘菓。
0580人間七七四年
2013/11/11(月) 22:03:33.59ID:Qevdgqic0581人間七七四年
2013/11/11(月) 23:04:00.29ID:KXJCRtTY小早川隆景の所に遣いに出向いた黒田官兵衛は、このような事を言い出した
「実は、少々思うところがあり、毛利家の旗を2本、お貸し頂けないでしょうか?」
隆景はこれを不審に思い、少し思案して
「旗だけをお貸しするなど、そちらへの御馳走にはなりません。
しかし今、輝元の人数は此処にはおりませんので、私の手勢だけでもお供いたしましょう。」
「いやいや、あなたがご不審に思われるのはご尤もです。しかし何も仔細のあることではありません。
貴方がお上がりになるには及ばぬことです。どうか旗だけお貸し下さい。」
そう重ねて言ってくるので、隆景も然らば希望に任すべしと、旗20本を貸し与えた。
また、宇喜多秀家の家老たちは、備前の片上まで秀吉を見送りし、そこで暇乞いをして帰ろうとした時、
官兵衛は彼らからも、旗10本ばかりを借り受けた。
そして備前播磨までは旗を巻いていたが、兵庫あたりに来ると、毛利宇喜多から借り受けたこの旗たちを
尽く張らせ、秀吉の陣の先に立てた。
これは敵の方から物見が出た時、また合戦に望む時、毛利、宇喜多の両家が秀吉に与し、
先手として上がってきたように見せれば、敵の気力が削がれ、味方は勇を増す、という策略であった。
秀吉はこれを見て大喜びし、
「若き者共よ、ああ言う事を見て後学にせよ!合戦というものは、はかりごとで勝つものである!
敵を斬り、首を取るなどというのはわずかなる匹夫の働きで、誰にでも出来ることだ。
官兵衛の今の謀は、凡人の及ぶところではない。
あのような手立てを行うことこそ、誠の大切と言うべきものぞ!」
と激賞した。
(黒田家譜)
黒田官兵衛、旗を借りる。という逸話である。
0582人間七七四年
2013/11/11(月) 23:12:51.41ID:91nLuiTp0583人間七七四年
2013/11/11(月) 23:16:54.68ID:Gkt2IC0z貝原益軒による「好事家流の創作」だろとツッコミを入れてる話だったりする
・隆景と黒田の会見自体、黒田家譜にしか記載がなくおそらく事実ではない
・講和直後に毛利(小早川)が自軍の表彰である軍旗をやすやすと貸すわけがない
・本当に借りたとしたら人質として羽柴陣中にいた2人(吉川広家と小早川秀包)に
ついてきた毛利の手勢からかりたんだろ
と、わりと冷静に益軒による捏造認定をしている
0584人間七七四年
2013/11/12(火) 03:24:04.33ID:lVxs6Pcs隆景への脅迫状を送った後の話だしなぁ
0585人間七七四年
2013/11/12(火) 10:38:12.46ID:++en7h9l人質として秀吉側から毛利重政・高政兄弟、
毛利側から吉川広家、小早川秀包が送られたとなっています。
0586人間七七四年
2013/11/12(火) 10:43:45.32ID:szbYdel20587人間七七四年
2013/11/12(火) 12:45:37.33ID:o1HAiL4J0588人間七七四年
2013/11/12(火) 13:12:20.37ID:1dJGWvXnこう書くと悪い話になっちまうが
0590人間七七四年
2013/11/12(火) 15:11:03.82ID:lHdbh4/O0591人間七七四年
2013/11/12(火) 16:01:17.39ID:++en7h9l確かに広家、秀包のところは天正11年の分しか載っていないですね。
しかし、賤ヶ岳以降であれば、秀吉側とすれば、人質交換の形にする必要は無い。
10年の中国大返しの時の人質交換と、
11年の賤ヶ岳以降の、完全に従属してからの人質と混同されていないですかね?
0592人間七七四年
2013/11/12(火) 16:34:08.31ID:szbYdel20593人間七七四年
2013/11/12(火) 18:06:35.26ID:6Xc33ZES0594人間七七四年
2013/11/12(火) 18:15:06.68ID:Cm+jXDiZ甲斐に攻め入り、韮崎で一日のうちに四度の合戦に及んだ。
晴信は韮崎に向かう時、諏訪や小笠原とゆかりのある者は、原加賀守(昌俊?)
を始めとして、数多くの者を甲府に残していった。
この時、原が人々に向かい「各々たちは今日の合戦で功名を遂げるべきなのに、
留め置かれたのは二心を疑ってのことだ。今日、敵に向かわなければ、
長く弓箭をとる身の恥となると思うが、どうであろうか」と、言った。
これに皆は「二心もないのに疑いを蒙るよりは、敵にあって討死することが
勇士の志である」として、我先にと韮崎へ馳せて行った。
この頃、晴信は合戦すること三度に及び、戦い疲れたところを頼茂と長時が
一手になり進んできたので危うく思われたが、原が来たので力を得て勇み進んだ。
晴信は原を呼んでその志を感心してほめ、日向、今井たちを後ろにひかえさせ、
競いかかる敵に当たって打ち破った。
これは晴信の武士を励ます策であり、わざと原たちを甲府に残したのであろう。
――『常山紀談』
0595人間七七四年
2013/11/12(火) 18:38:54.27ID:lHdbh4/O0596人間七七四年
2013/11/12(火) 18:39:47.57ID:0pSCtFd1大返しの時の人質は小早川秀包と桂広繁ですからね。
吉川広家はこのときは人質になってませんし。
要するに大返しの時の人質交換は一度解除されて、11年にあらためて人質交換したということでしょう。
あと黒田家譜のこの話は元の話が様々な史書に記載されているので完全創作ではなく
官兵衛大活躍Verへの改竄と見るべきです。
他では記載されているのに武器を貰ったことに全く触れられてないのは官兵衛に力量をはるかに超えてしまい
流石に胡散臭くなってしまうからでしょう。
0598人間七七四年
2013/11/12(火) 19:03:55.81ID:0pSCtFd110年 小早川秀包と桂広繁 で人質契約
一度解除
11年 小早川秀包と吉川広家 で再度人質契約
OK?
0599人間七七四年
2013/11/12(火) 19:16:54.56ID:lVxs6Pcs論外
小早川秀包が最初に人質になったのは天正11年
桂広繁は人質ではなく秀包の同行者です
これ以上なにかあるのであれば真偽スレでどうぞ
0600人間七七四年
2013/11/12(火) 19:39:28.89ID:0pSCtFd110年(対織田)と11年(対羽柴)では契約対象が違いますので大返しの時も人質交換があったとしてもなんら不思議はありません。
書類が残ってないのも再契約したから破棄したとも考えられますし。
あとは真偽スレで
0601人間七七四年
2013/11/12(火) 21:30:45.94ID:++en7h9lhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/418-419
私も、人質交換があったと考えるのは、論外では無いと思いますが、
もう少々、詳しい論拠をお聞かせ下さい。
0602人間七七四年
2013/11/13(水) 01:19:12.40ID:ns4lGB9U小和田か加来のどっちかが秀吉の知略と真実として話していた記憶が
専門家なら通説に過ぎないことはわかっているはずなんだが
0603人間七七四年
2013/11/13(水) 05:31:27.02ID:kGizzBjR代官が出目米(目減りを防ぐために余計に入れる米)を不正に徴収している、というのである。
この訴状を受け取った家康は、直ちに年貢米を保管する蔵を封鎖し、その代官も呼び寄せた上で、
隠し事の無いように、という事であろう、蔵の後ろの壁を壊し、そこから米俵を取り出して、
毛氈の上で皆が見ている前で計量させた。
その結果百姓の主張が正しく、出目米が不当に徴収されていることがわかった。
これにより代官は、切腹に処された。
(徳川実記)
徳川家康、直訴を裁く、というお話。
0605人間七七四年
2013/11/13(水) 18:01:43.23ID:h1aeyPmy信長はその首を掴んで侍臣に向かい、
「このようにする者は勇敢か?」と尋ねた。これに側近は、
「これは小さな蛇です。これでどうして勇敢と言えましょうか」と答えた。
すると信長は「蛇は小さくとも必ず毒があるのだ。
お前は蛇を小さいからと侮るが、主人である我を幼いからという理由で、
同じように侮るのか?」と、言った。
これには侍者も懾服した。
――『日本智嚢』
0606人間七七四年
2013/11/13(水) 18:17:45.56ID:h1aeyPmy申し訳ありません、誤訳しました。
×「このようにする者は勇敢か?」と尋ねた。これに側近は、
○「このような蛇は勇ましいだろうか?」と尋ねた。これに側近は、
0607人間七七四年
2013/11/13(水) 18:24:17.30ID:l0dZjOSc怖いw
0608人間七七四年
2013/11/13(水) 18:42:56.69ID:cpBuua7P0609人間七七四年
2013/11/13(水) 18:44:27.19ID:7OCeHcZk0611人間七七四年
2013/11/13(水) 20:48:58.17ID:8HJgArbM0612人間七七四年
2013/11/13(水) 22:15:38.26ID:+MI3pfooいくら毒があっても信長にはそれがない ノミと同類よ
0613人間七七四年
2013/11/14(木) 15:46:43.38ID:fTOy0Bbaあるとき山崎の町人が、1年前に明智光秀と村井貞勝の前で決着した訴訟について、文書を偽造して信長に直訴した。
信長が村井にこのことを聞くと、村井はすでに決着していることを答えた。
信長はけしからんことだといってこの町人を成敗した。
0614人間七七四年
2013/11/15(金) 08:58:45.78ID:0Bt9nsHFさすが逸話として残るだけのことはある
0615人間七七四年
2013/11/15(金) 09:16:52.81ID:quLIRWAi0616人間七七四年
2013/11/15(金) 09:19:19.56ID:iDc7XhX1もうそれだけで研究テーマになるほど
0618人間七七四年
2013/11/15(金) 12:05:05.60ID:QZun4wvx0620人間七七四年
2013/11/15(金) 13:51:34.47ID:iajMvByV安重根は伊藤博文暗殺理由の一つに孝明天皇弑逆をあげてるが
弑逆説信じてる人って安重根は英雄だと思ってるんだろうか
0621人間七七四年
2013/11/15(金) 13:54:49.73ID:3zaQi9xN0622人間七七四年
2013/11/15(金) 17:43:40.21ID:YA14mP7p宗茂が山中を歩いていると、道には栗の毬が満ちていた。
宗茂はこれを取り去るように命じた。
すると、家老の小野和泉(鎮幸)は毬を取って掌にのせ、
「こんなものがどうして人を傷つけられようか」
と言うと、毬を揉み潰してしまった。
――『日本智嚢』
0623人間七七四年
2013/11/15(金) 18:12:10.10ID:dcDjy/Zu0624人間七七四年
2013/11/15(金) 18:12:47.26ID:6yixRfa60625人間七七四年
2013/11/15(金) 20:20:49.32ID:usTYfZpR0626人間七七四年
2013/11/15(金) 20:26:42.92ID:XmguWrso0627人間七七四年
2013/11/15(金) 20:51:37.14ID:Ocf306ef0628人間七七四年
2013/11/15(金) 21:24:38.46ID:iDc7XhX1お入りになったのは、夕方の七つ時(午後4時頃)でした。
藤堂高虎様は御門の外一町ばかり先に、お迎えに出られていました。
この時新七郎殿(藤堂良勝)、仁右衛門殿(藤堂高刑)も高虎様のお供をされていました。
高虎様は御腹巻に小手を着け、茜色の木綿の御紋付きの胴服に、革の御立付を召されておりました。
それから屋敷にお入りに成って、ご密談をされている間に、明かりを灯しました。
そのうちに、加藤殿福島殿をはじめとして、追々大名衆が御出になりました。
家康公のお供である重臣の方々を始め、大勢が入られたため、御屋敷の中は混雑で通ることも
出来ないほどでした。
しかし挑燈(ちょうちん)によって御屋敷内は昼のように明るく、大阪城辺りからは、
まるで火事のように見えたということです。
この時、御膳が出されましたが、献立は荒昆布の煮物、鯛の焼き物、イワシの辛子和え、
香の物、というものでした。御汁については失念いたしました。
家康公の重臣の方々や、諸大名にもこの御膳が出されました。
その他の人々には、兵糧食が出されました。
高虎様は夜中も、御屋敷の内外を見回られました。
御屋敷の中は、御出でになった大名衆が増え続けたため、外に溢れ出すほどでした。
藤堂家の御家中は、夜を徹して御門の外、4,5町の間を固めていました。
夜が明けると、家康公は御屋敷を出立されました。
その夜は、大阪の五奉行が家康公に対し夜討を仕掛けるべしとの評議を行ったそうですが、
藤堂家の御屋敷に大勢が詰め、厳しく用心している事が伝わったため、それを中止したのだと、
後日承りました。
高虎様もこの時は
「今夜は最大限の警戒をしなければならない。家中の者達も、必死の覚悟で警護せよ」
と仰せに成りました。
(平尾留書)
石田三成らによる家康襲撃が懸念される中、家康が宿泊した藤堂屋敷の人間が見た
その記録である。
0629人間七七四年
2013/11/15(金) 22:12:14.23ID:O8dUpduQ日本智嚢
もうそろそろ智の逸話もお願いします
0631人間七七四年
2013/11/15(金) 23:48:53.34ID:NfGSYPNg0632人間七七四年
2013/11/16(土) 01:35:50.92ID:b+Wwfrhp吉統の妻子らは豊後の屋敷を追い出され、放浪生活をすることになった。
そんな時に柳川の領主の立花宗茂は、宗麟の強力な味方で忠実な友人で
あったため、彼女らを領地に招き保護したという。(イエスズ会年報)
しかし、吉統の妻で宗茂の叔母である菊姫が1594年に病死し、
その息子である男也(おとや)も96年に疱瘡で死亡すると、
ジュリアは残った孫達を連れてキリシタンの多い長崎へと旅立ち、
浦上渕村の庄屋となっていた元大友家臣の志賀親成の屋敷に迎えられた。
その地で吉統の娘である阿西(おにし)御前は桑の栽培や養蚕、機織の
技術・行儀作法を近隣の住民に教えたため桑姫と呼ばれて尊敬され、
1627年に彼女が病死するとその徳を讃えられ社に祀られたという。
(桑姫社由来等)
ソースがばらばらだけど、大友家改易後の吉統の家族についての話
0633人間七七四年
2013/11/16(土) 08:52:44.53ID:QxHBvC8M0634人間七七四年
2013/11/16(土) 15:32:27.70ID:fqT3bCcl0635人間七七四年
2013/11/16(土) 16:35:54.06ID:Ml9WCBEb慣れて毎日見れば、後は見好いものである。
これは血気に間違わされてこのようになるのだ。
最初の一念は本心に感じるために、そのものの好し悪しを有りの儘に知るのである。
それゆえ、人の好悪はよく見えるものである。
自分の好悪は分からぬものである。自分の所作は我が身に慣れて分からないものだ。
そのうえ、悪いと知ってまげて悪を行うのは道理の外である。
一、何事もやろうと思うことをずんと思い切ってやるのは本心である。
こうしようか、しないかと二途にわたるのは血気である。
二途にわたって分別の極まらないことをすれば、必ず悪い。
これは血気に惑わされたのだ。これをやろうと思ったなら一道にしたほうが好い。
二途にわたるくらいならばしてはいけない。初めの一気は皆本心である。
二つにわたるのは血気である。本心ならば皆好い。血気は悪い。
――『玲瓏随筆(沢庵宗彭著)』
0636人間七七四年
2013/11/16(土) 18:16:16.46ID:NGypLPZ30637人間七七四年
2013/11/17(日) 00:39:18.99ID:RBt0zcfO徳川家当主 苦労は悪いことができないこと「カンニングもできなかった(笑)」
11月6日夜、朝日新聞東京本社読者ホールに戦国時代を代表する、徳川、武田、長宗我部(ちょうそがべ)、真田各家の現当主が、集結した。
名付けて「戦国ビッグ4座談会」(主催・週刊朝日、分冊百科編集部)。司会は渡辺真理アナウンサー、コーディネーターは小和田哲男・静岡大名誉教授。
日本人なら知らない人はいない有名なご先祖様たちや家の歴史をどのように見ているのだろうか。
徳川恒孝氏(同徳川):会津松平家には保科正之公が書かれた「会津藩かくあるべし」という家訓がありまして、呪縛にかかり戦争に突っ込んでいったんです。
徳川家には特にそういうものはありません。「人の一生は〜」というのがありますが、家康公ご当人の作ではありません。
宗家を継いだ苦労は、やっぱり悪いことができないことですね。カンニングもできなかった(会場笑)。
渡辺:家康公はどんなイメージですが。
徳川:狸親父(たぬきおやじ)と言われてますが、それほど狸だったとは思いません。
関ケ原が終わった2年目に、正倉院御物を守るため、巨大で頑丈な宝物を入れる櫃(ひつ)をたくさん納めました。
それで正倉院からどんどん物がなくなることが止まった。京都の御所を造り直し、寺院の修復にも莫大な支援をしています。
古き良き日本を守り通そうとの思いがとても強かったと思います。
渡辺:武田さんは信玄公に対して、どう思ってらっしゃいますか。
武田邦信氏(同武田):「五分の勝ちをもって上となし、七分の勝ちをもって中となし、十分の勝ちをもって下となす」という言葉があります。
戦は引き分けか、少々勝てばいい。100%の勝ちは味方の損害が出る。これが信玄公の根本的な戦です。それから信玄堤や金山等々、人をピックアップして適材適所でやらせました。そこが素晴らしかったと思っております。
会津松平家について、初代の正之公を成人までお育てしたのは、武田の見性院(けんしょういん)様なんです(会津の松平容保=かたもり=公のひ孫でもある徳川氏、頭を下げる)。
いやいや、とんでもない。家康公も信玄公も、こういうところでお話しできるなんて、本当に喜ばれているでしょう(笑)。
(以下ソース)
http://news.livedoor.com/article/detail/8258184/
0638人間七七四年
2013/11/17(日) 08:38:10.44ID:qHIZMUw50639人間七七四年
2013/11/17(日) 08:47:30.67ID:uq813rE8>>637は悪い話スレの方に出てた先祖の対談の記事じゃないの?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372591033/731
0640人間七七四年
2013/11/17(日) 08:50:02.92ID:qHIZMUw50641人間七七四年
2013/11/17(日) 14:52:01.50ID:9+cZXGvS旗本の老武士、北見久太夫殿もお見えになり昔の戦話などをした。
場も盛り上がり夜のふけたころ、
給仕役の小姓が銚子を持ちながらつまずいてしまい、
久太夫殿の膝に酒を浴びせたので、
その小姓は失態を恥じその場に赤面し固まってしまった。
すると他の小姓がやってきて、久太夫殿を次の間に案内し、
衣装の着替えを用意して、酒の場も後始末をした。
あとでわかったのだが、久太夫殿は高齢のうえ長座されたので、座ったまま小水を漏し、
それが座から流れ出したのを見つけた小姓が、
わざと酒をこぼして誤魔化したということがわかった。
その小姓へは褒美があったとのことだ 【葉隠】
0642人間七七四年
2013/11/17(日) 14:58:49.00ID:hWCXneXk0643人間七七四年
2013/11/17(日) 15:07:03.05ID:9+cZXGvS0644人間七七四年
2013/11/17(日) 15:33:20.75ID:qZWVEHer0645人間七七四年
2013/11/17(日) 15:33:22.87ID:iF40cN/60646人間七七四年
2013/11/18(月) 07:45:44.51ID:n4gZmj0J> 575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 15:50:47.14 ID:3em9xmQH
> 1621年9/12に江戸城で能があって、秀忠が景勝と義宣と政宗を呼んで楽しんでたり
> 10/14に秀忠が数寄に、またこの三人を呼んでいるんだよね。
> ワリとこの4人ってウマがあったのかねぇ。
> 景勝は1623年3月に死去するから、このメンバーが集ったのはレア。
> 1622年9月に最上改易で景勝は山形へ兵を送っているが、あるいはこの時に政宗にあっているのかも試練ね。
> 583 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/11/17(日) 21:44:30.10 ID:DFFunjVq
> >>575
> みんなで若い時の話をして盛り上がってたのかもね。
> 秀忠も含めて東国組って感じだしな。
0647人間七七四年
2013/11/18(月) 17:09:52.26ID:9dn8KpG9死を逃れようと計る。この蜘蛛は小智によって人を計ろうとしている。
少しでも走って逃げれば、それだけ命も長らえるであろう。かの蜘蛛の謀計を人はよく
知っている。かの蜘蛛は、人は知らないと思っているのだろう。
無智の人が有智の人を計ることも、蜘蛛の謀略と同じだ。
一、さて、大きな毛虫が地上を歩いている。これを犯す時には毛虫は憤然として
身体を反らせる。そうしたとしても、人はこれを事とも思わない。
小人が大人に向かってこのような風情をなすことは、毛虫と変わらない。
――『玲瓏随筆(沢庵宗彭著)』
0648人間七七四年
2013/11/18(月) 20:05:58.04ID:qFBDwIDi島津に属し、未だ秀吉に従わないものが多かった。
この事を黒田官兵衛は思慮し、「計略を持って味方に引き入れるべし」と、
筑前、筑後。肥前、肥後、所々の城に廻文を遣わした。
「廻文は万一露顕したとしても、それはそれで敵を疑わせる謀ともなる。」
そのような考えのもと、この計画を進めた。
官兵衛は遣いに才覚あるものを選び、貝原一兵衛、久野勘助と言う者両人に廻文を持たせ遣わし、
口上にも、秀吉公の武威が盛んなることを述べ、
『味方に参られれば、秀吉公に良きように申し上げ、本領安堵いたしましょう。
ただし小身の人々が島津と手切れしては、その身の禍ともなるでしょう。
ですから、内々に志を通じ、殿下の御下向を待って降参いたして下さい。』
そういった内容を細々と説明した。
貝原一兵衛は、小倉より海路を経て筑前筑後を過ぎ肥後に赴き、
久野勘助は陸より筑前に入って秋月に至り、筑後を過ぎ、また、豊前の所々をうち巡り、
各々、廻文を出し口上を述べれば、多くはその旨に従い、密かに味方に参る旨を内通し、
よって秀吉公の九州下向の時、速やかに降参するものが多かったのである。
官兵衛はかねてこの内通を、秀吉に申し立てしておいた。そのため、多くは本領安堵を受けた。
これによって、肥前の鍋島、松浦、大村、肥後の相良、日向の伊東などはその家恙無く、
黒田官兵衛からの恩を強く感じていたのである。
(黒田家譜)
黒田官兵衛、九州の島津刃の国人を調略する、というお話。
0649人間七七四年
2013/11/18(月) 20:16:33.79ID:jCn5CVqQ0650人間七七四年
2013/11/18(月) 20:21:08.23ID:niWlfcVA0651人間七七四年
2013/11/18(月) 22:17:45.42ID:2ScZJ1hu0652人間七七四年
2013/11/18(月) 22:43:47.43ID:INIGcdwr0653人間七七四年
2013/11/19(火) 01:08:38.49ID:nMz19MV20654人間七七四年
2013/11/19(火) 01:25:26.18ID:xcnBUlmiこんな逸話が→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6258.html
秀忠の茶会でもやらかしてるくさいあたり。将軍様の茶会なのに〜。
ん?1607年に家康もこの三人呼んで茶会やってる?何か話残ってないかな。あの人参加だし。
(というか秋田に飛ばされても付き合わされる義宣さん…。
0656人間七七四年
2013/11/19(火) 19:21:38.98ID:cohbReQ4勝重は太郎作が律義である事を知って信用した。
ある年、賄い方の人が扶持方升を小さくした。太郎作は諌めようと思って
勝重の前に出た。すると、勝重は「何か目新しいことはないか?」と問うた。
「この頃、狂歌を読んでいる者がおります」
「それはお前の作意か?」
「私は文盲です。どうして歌を詠めましょうや。
『ほそき物 恋の心に 琴の糸 三郎が脚 扶持方の升』という世上の者が詠んでいる狂歌です」
『三郎が脚』とは、その頃、三郎という脚の痩せて細い男がいたからである。
勝重はこれを悟ってその升を改めさせた。太郎作の諌めは、皆この類であった。
――『武将感状記』
0657人間七七四年
2013/11/19(火) 22:33:40.24ID:Gk+GIWkd0658人間七七四年
2013/11/19(火) 22:58:01.31ID:O7LbM1480659人間七七四年
2013/11/20(水) 04:46:40.59ID:GLbc1BSI0660人間七七四年
2013/11/20(水) 06:58:35.49ID:KSi/G5u7藤堂家の藤堂仁右衛門(高刑)は、あまりに戦い続けたため息切れし、谷水を探し山の間に入った。
すると一町ばかり先に、武者が一人うずくまっていた。怪しく思い近づくと、それは
大谷吉継の重臣、湯浅五助ではないか。
仁右衛門はこれ幸いと、彼に向かって声をかけ氏名を名乗った
「湯浅殿!鑓合わせ致そう!」
湯浅五助は名誉の大剛とは雖も、今朝からの合戦に、負傷もし疲弊していた。
そのためか、槍を構えても下鑓になり、そこに仁右衛門は、右の高股を突くと、五助は
尻から倒れた。しかし倒れながらも咄嗟に仁右衛門の鑓を切り折った。
そこで仁右衛門は太刀を抜いて飛び掛ったが、そこで五助は声を上げた
「申し上げたいことがある!待ち候へ!」
仁右衛門が動きを止めると、このように言った
「只今山際に埋めたのは、我が主君、刑部少輔の首である。
癩病にて、その面貌甚だ見苦しく、そのためこれを隠し埋めたのだ。
そなた以外にこれを知るものは居ない。どうか必ず、人に漏らさぬよう頼み申す!」
これを聞いて仁右衛門は感心した
「さてさて、なんと忠臣であろうか。成る程、武士たるもの、誰もそのようでありたいものよ。
承知した。軍神にかけて他言すまじぞ!」
五助は大いに喜んだ
「さすがは藤堂の甥であるぞ!さらば、我が首参らせん!」
立ち上がり一鑓合わせて、そして討ち取られた。
それから仁右衛門は、湯浅五助の首を主君高虎の実検に入れた。
高虎は大いに喜び、仁右衛門を徳川家康の本陣まで召し連れて
「私の甥が、名にしおう湯浅五助を仕留めました」
そう家康に申し上げた。家康も大いに喜び、
「仁右衛門、若年ながら比類なき手柄である。ではあるが…」
家康は仁右衛門に尋ねた
「湯浅五助は其の方に、容易に打ち取れるような武将ではない。どのようにして仕留めたのか?」
仁右衛門は彼を討取った様子を申し上げた。すると家康は
「五助ほどの者が、主人である刑部の先途を見届けずに討取られるような事はあるまい。
刑部が切腹したことは解っているが、その首の行方は現在まで捜索しても未だ知れず、不審に思っている。
もし刑部の始末を五助が取り扱ったのであれば、五助は何か心にかかることを、そなたに言わなかったか?」
仁右衛門は言った
「なるほど、刑部少輔の首については知らないわけではありません。ですがその事について私は、
絶対に言わないと五助と約束いたし、その上で鑓を合わせ仕留めたのです。
只今の上意が重いものであるからといってこれを話せば、私は武士を欠いてしまいます。
この上は、不届きであると私に刑罰を申し付け下さい。」
これを聞いた家康は、機嫌よく高笑いした。そして
「さてさて、律儀なる若者である。有り体に言えば、和泉(高虎)からも抜群の褒美を与えられただろうに…」
と、彼を御前近くまで呼び寄せ、手ずから刀を与えた。そして
「仁右衛門の鑓は切り折られたそうだな。これを遣わせ。」
と、側に立ててあった鑓もまた与えた。
これらは今も、仁右衛門の家に残されている。
(平尾留書)
0662人間七七四年
2013/11/20(水) 09:37:18.74ID:GirJ9Sae秀吉が毛利と戦い始めた辺りから鍋島は秀吉と手紙のやり取りしてる
0663人間七七四年
2013/11/20(水) 17:36:30.30ID:t9nVMBdFこのために、正則は甚だしく怒った。
次の夜、虎がやって来て軍営を窺った。
この時、正則は肌脱ぎになって虎と向き合った。
すると虎は動かず、正則は左手で虎の頭を捉え、
右手であごの下を力を入れて押さえつけた。
そして回転して組み打ちし、とうとう虎を殺した。
――『皇朝金鑑(渉史偶筆)』
0664人間七七四年
2013/11/20(水) 18:03:34.80ID:NJZMulJ/チンパンジーでさえ大きくなると人間の手には負えないようだし
0665人間七七四年
2013/11/20(水) 18:07:38.00ID:GO6y201W0666人間七七四年
2013/11/20(水) 18:19:36.32ID:WubgtGUgもっと北の方だけだと思ってた
0667人間七七四年
2013/11/20(水) 18:24:39.23ID:qvxnMFZe0668人間七七四年
2013/11/20(水) 18:30:23.03ID:MusKRbKY0669人間七七四年
2013/11/20(水) 18:31:50.71ID:GLbc1BSI0670人間七七四年
2013/11/20(水) 18:38:40.14ID:LYrf9Ll70671人間七七四年
2013/11/20(水) 18:41:56.80ID:RzV74dOZ0672人間七七四年
2013/11/20(水) 18:43:45.23ID:FoKOl/rM0673人間七七四年
2013/11/20(水) 19:15:27.78ID:SN1m5sgT0674人間七七四年
2013/11/20(水) 19:32:05.98ID:NdLFfSHy0675人間七七四年
2013/11/20(水) 20:20:38.16ID:pJq4u2oU0676人間七七四年
2013/11/20(水) 21:42:21.28ID:gZhs8Adt秀吉に臣従し朝鮮に攻めいる越後の虎
どっちもしっくりこない
0678人間七七四年
2013/11/20(水) 22:32:26.48ID:MbAjfK+6筋トレする家康
0679人間七七四年
2013/11/21(木) 07:54:09.12ID:cgDcQOO5大隈城(益富城)の跡地に入った。
ここで秀吉は敵の気力を削ぐため、暮れに及ぶと嘉摩穂浪(現福岡県嘉麻市)の村々に、
篝火を多く焚かせた。この命令は南は桑野より、北は飯塚のあたりまで及んだ。
秋月家の者達が古所山の頂上から東のほうを見渡すと、秀吉の軍勢は周囲に充満し、
諸軍が陣に燃やす火は晴れた日の空の星のようで、野も山も村里も、皆軍兵と化したような
夥しさであった。
夜が明けて古所山の山上より大隈城を見ると、なんと、一夜の間に見慣れぬ白壁に
腰板を打った城が出現しているではないか!
見る者驚き、あたかも神変が起こったかのような思いをした。
しかしこれは、敵の目を驚かせ、勇気を挫くための秀吉の策略であった。
彼は播磨杉原の紙を使って夜中に城の壁として張らせ、民家の戸板を集めて墨を塗り、
腰板にさせたのだ。
(黒田家譜)
これに驚愕した秋月種実は意気消沈し、戦意喪失して秀吉に降伏したという。
豊臣秀吉、九州征伐での一夜城についての逸話である
0680人間七七四年
2013/11/21(木) 19:21:31.53ID:hxdXKr2T0681人間七七四年
2013/11/21(木) 23:28:00.00ID:m1yqi8VD圧倒的な兵力を持った薩州勢の前に阿蘇配下の平野部諸城はことごとく落城。筆頭家老甲斐親英も敵へ寝返ってしまう。
これを聞いた家臣団は大宮司惟光に身の危険が及ぶことを恐れ、惟光・惟善兄弟の目丸への避難を提案
先代当主惟種の近習坂梨弥吾助惟連、西源兵衛惟惟景、渡辺軍兵衛といった大宮司家へ忠誠を誓う家臣達がこれに付き添った。
その道中何者とも知れぬ者達が追いすがり、惟光・惟善兄弟を捕えようと襲いかかるが
渡辺軍兵衛は槍で突き伏せて退散せしめ、西源兵衛は肩に乗せた惟光をしっかりと離さず
坂梨弥吾助は先頭に立って10人あまりを切り伏せるなど家臣三人の武勇もあって無事目丸の隠れ家へ辿り着いた。
この後も阿蘇家は秀吉の九州征伐時に当主幼少を理由に参上しなかったため所領没収、肥後国人一揆や惟光処刑といった苦しい時期を送るが
関ヶ原を経て肥後を支配した加藤清正の配慮によって慶長六(1601)年弟惟善が社家として阿蘇家復興を許される。
その際最後まで惟善に付き従った坂梨惟連・西惟景は惟善より恩賞が下され
特に弥吾助こと惟連は忠勤功労第一であるとして阿蘇家家司・惣庄屋に任ぜられた。
惟連は慶安四(1651)年二月に80余年の生涯を閉じるが、以降も坂梨家は先祖同様阿蘇家を支え今日に至っている。
http://seiwabunraku.hinokuni-net.jp/play/play08/
0682人間七七四年
2013/11/23(土) 00:28:47.09ID:FnK7PD8H国道57号の滝室坂の辺りも含めて、あの辺り一帯が坂梨だから、そこら辺の人か>坂梨弥吾助
坂梨氏や西氏、高森氏とかは阿蘇氏の通字の「惟」の字使ってるし、元々阿蘇氏の一族とかだったのかな?
0683人間七七四年
2013/11/23(土) 01:38:40.42ID:hBdr+YrO坂梨、西、高森の三つとも阿蘇家の分家で、結構な重鎮
他に村山とか上島、中村、光永、竹永、仁田水なんかも。
(マイナーどこでは津邑、阿蘇品、白石、二子石といったメンツなどあり)
阿蘇流坂梨の姓は複数の系統があって、異なる時代に阿蘇家の一族が家祖の異なる坂梨家を作ってるのでややこしい。
ちなみに北里氏や木山氏のように阿蘇氏以外の氏族ながら「惟」の通字を賜った一族もあり
佐伯氏、大蔵系氏族のようにもともと「惟」の字を使う者達もおったそうな
0684人間七七四年
2013/11/23(土) 01:44:37.53ID:hBdr+YrO「坂が無い(梨)=平」という意味で作った苗字・地名であるともされ
「平家出身の坂梨氏が住んでいた地にちなんで阿蘇氏の一族が多系統の坂梨姓を名乗った」
という更にややこしい説もあるらしい
0685人間七七四年
2013/11/23(土) 08:08:15.75ID:QGru8z6r0686人間七七四年
2013/11/23(土) 16:07:21.42ID:UzDP5ZQf滝室坂の辺りは豊後街道(肥後街道)にあって、参勤交代で鶴崎の港に向かう途上になるんだけど
今も当時を思わせるような石畳の道が残ってたりするんだ。
あるときここを通りかかった武士が「坂梨という名なのにこれほどの坂があるとすれば、大坂にはどんな辛い坂があるんだ・・・」と悲嘆して
ついに自殺をしたっていう昔話があったりする。
俗に「大坂に坂なし、坂梨に坂有り」なんて言われる滝室坂の逸話
戦国時代じゃないからスレチだけどね
0687人間七七四年
2013/11/23(土) 19:14:00.73ID:d29KtPWMこれほどの坂。。。
じゃあ、大坂って。。。
もぅマヂ無理。。。
切腹しょ。。。。
0688人間七七四年
2013/11/24(日) 02:04:12.90ID:2X3nnihr0689人間七七四年
2013/11/24(日) 02:31:53.14ID:wWoFliZiある時、大友勢が筑後に攻め込んだ時、筑後の国境付近にある八幡社の近くで戦闘になった。
大友勢が優勢になって敵が逃げ始めると、この柴田リイノは八幡社に突進して放火し、破壊し始めた。
周囲の人間はこれに激怒し、彼を非難して言った。
「殿がどれだけ八幡を崇めているか知ってのことか」
柴田リイノは大笑して答えた。
「お前たちの知ったことではない。
殿が崇めている八幡は敵ではなく味方である。それは府内に鎮座している。
だが某が目下、焼き払い、破壊しているこの八幡は敵であって、だからこのように扱うのだ」
大友義統はこの事を遺憾と思わないではなかったが、柴田のことを必要としていたので、関わらないことにした。
いい話と悪い話どっちに投稿したものか迷ったが
「フロイス日本史」より、大友義統がまだキリシタンになっていない頃の話
0690人間七七四年
2013/11/24(日) 02:56:59.67ID:PxWXDeve「異教徒は消毒だ〜!」
が出来るから、ヒャッハーしたようにしか見えん
0691人間七七四年
2013/11/24(日) 03:07:01.26ID:GGFRUOH0宣教師達からヘラクレスと言われるほどの偉丈夫でありながら
田原家の反乱後の国東の復興や、府内の諸行事を一手に引き受けて、
府内奉行とも言われた辣腕家だったんだけどな
0692人間七七四年
2013/11/24(日) 09:51:37.28ID:ajXvnMIY0693人間七七四年
2013/11/24(日) 10:03:20.65ID:GGFRUOH0道雪は宗茂を饗応し、家臣を呼び寄せ弓を射させて見せた。
そして戯れに「そちはまだ幼いので、弓はうまく射れまい」と言った。
すると、宗茂は側にあった弓を引いて「これは弱い弓なので、
強い弓をお貸しください」と言って道雪から剛弓を借りて射た。
四本のうち三本までを当ててみせたという。(名将言行録)
その数十年後
本多佐渡守が将軍に見せるため弓の的当てを行わせた際のことである。
佐渡守は的場を通常15間(約28m)のものを、17間(約31m)にして
射手衆に射らせてみたが、的が遠いためかさして当たらなかった。
御前は少し笑って佐渡守に耳打ちすると、佐渡守は見に来ていた宗茂に
「一矢射て見せてやってくれまいか」と上意を伝えた。
宗茂は「年寄りの私がお見せするのはいかがなものかと存ずるが、
上意とあれば断れませんな」と言って立ち上がった。
そこへ周りの者たちが弱弓・強弓を5、6張差出してきたのに対して
「弓はいずれにても良く候」と言って弓と矢を取り諸肌を脱いで矢を構え、
早矢を放つと、串の竹を射削り的の内に射込んでみせた。
周囲のものは言うに及ばず、御前も聞きしに勝る見事の手前と感嘆した。
御前より「もう一本仕れ」と言われ、また矢を放つと今度は的の星を
射抜いてみせた。満足した御前は宗茂に盃を与え慰労した。
宗茂はこの時のことを立花壱岐に「若年から弓を好んで使っていたが
天下の御前で所望されるとは思いもよらなかった」と語ったという。
(淺川聞書)
少年の頃には強い弓を使うのを好んだ宗茂が、
年をとっては弓の強弱に拘らなかったという対比が興味深い
0695人間七七四年
2013/11/24(日) 10:49:37.15ID:xYv+1f+30696人間七七四年
2013/11/24(日) 11:12:57.00ID:AmWov5Tr0697人間七七四年
2013/11/24(日) 20:34:01.50ID:Os8/qInk殿といっしょでデカい弓無理やり引く話はこれが元ネタだったのかw
0698人間七七四年
2013/11/24(日) 22:29:14.67ID:Wr5kzpiA上達するに従って、いろんなものに対応できるようになるんだろうね。
弓の強弱にこだわらなくなる→弓の有無にこだわらなくなる→不射之射
→そして伝説へ
0700人間七七四年
2013/11/24(日) 23:28:23.54ID:9A2NmT8P0702人間七七四年
2013/11/24(日) 23:34:06.62ID:8vfA90IR0703人間七七四年
2013/11/25(月) 11:56:36.33ID:CYCXQnst0704人間七七四年
2013/11/25(月) 17:11:07.83ID:o+v+9uSdその境地に到達する手間考えたら、敵の射ち手を射殺したほうが早いんだよなあw
後者を選ぶべきだろう
偽りだらけのこんな世の中じゃのポイズン精神で(爆)
0708人間七七四年
2013/11/25(月) 20:37:16.29ID:D91OLbge0709人間七七四年
2013/11/25(月) 23:51:00.07ID:dExin3eJリアルで蝿を箸でつかめるかなと思ってやってみたら
弱っていた蝿だったのか本当に掴めちゃってどうしてみようもなくなった事が
0710人間七七四年
2013/11/26(火) 16:14:42.98ID:/L3nXWsc二万近い兵士を擁する豊後勢は、先に筑後国で叛旗したクロギ(黒木)という城を包囲するために出動した。
(豊後勢は)優れた指揮官を欠き、隊列も整わず、十分な協議もせずに襲撃したところ、
城中の兵士は猛烈果敢に応戦して、豊後勢に三百名の死者と七百名ほどの負傷者を出さしめたので、
残りの者は意気阻喪し、怖気づいて、我先に豊後へと敗走し始めた。
だが豊後にいた他の諸城の指揮官たちは、退却してくる彼らを襲って全滅させるように打ち合わせていたので、
彼らは前進することも後方へ退くこともできなくなった。(※)
この事態はタチバナ城の城主に伝えられた。
七十歳をいくつか越えたこの老いた城主は、人々が語るところによれば、
ただちに豊後随一の優れた槍の鞘を払い、
「(某の)鎧に封印をせよ。かの城、および他の城を占領するまで、某はこの鎧を体から外さぬ」と言ったということである。
そして六、七千名の有能な兵を率い、筑後の国内を通過し、途中、通行を妨げる幾人かの敵と戦い、
難なく彼らを制圧し、四、五日の旅の末、ついに不安におののいている豊後勢がいる場所に着いた。
豊後の軍勢は、差し迫ったこの危機から自分たちの救出に駆けつけてくれた彼を見て、この上もなく喜んだ。
老人は、ただちに軍勢の指揮官たちを招集し、一同を厳しく叱責した後、激怒しながら言った。
「お前たちは。
もし女なら、なぜ逃げぬのか。
またもし男なら、卑しくも兵士と言われながら、なぜ戦わぬのか。
よいか、合戦において卑怯な態度を見せたり、『豊後へ帰りたい』などと言いだす輩は、
某が自ら殺してしまうから、よく覚えておくがよい」と。
(彼は)時を移さず、幾日もの旅の疲れを物ともせず、自ら先頭に立って、
地の利といい籠城している兵士の勇敢さといい難攻不落と思われた城に対し、果敢な襲撃を試みた。
最初の攻撃で彼らは城内に突入し、城内にいた敵の大部分を殺害した。
この間、味方が被った損失はごくわずかに留まった。
彼はこの勝利を得ると、気力を失い臆病風にとりつかれていた豊後の兵士たちを感奮させようと、
さらに他の二城を彼らと一緒に攻撃した。
それらの城はいずれも彼の武威に屈した。
0711人間七七四年
2013/11/26(火) 16:15:48.91ID:/L3nXWscその頃、豊後の殿の一人を父に持つ若者が(キリシタンの)説教を聴いていたが、突如出陣することになったので、
さしあたっては洗礼を受けることができなかった。
彼は自らの慰めとして、コンタツを首にかけて出陣した。
陣営では、朽網殿と称する異教徒である彼の父が、老いた総指揮官を訪問しようと思って息子を同伴した。
その際、父親は息子に、
「そなたも知るように、タチバナドノはキリシタンをあまり好まれぬので、そのコンタツを目に触れないように隠しておけ」と注意した。
若者はそのように見せかけたが、父と一緒に総指揮官のいるところに入ると、これ見よがしにわざとコンタツを表にとりだした。
父親は息子の仕業に赤面して言った。
「この倅は馬鹿者です。
ここに罷り出るに先立って、貴殿はコンタツをお好み遊ばされぬゆえ、取り外すよう注意しておきましたが、
このように出して見せる始末です」と。
老人が答えて言うには、
「貴殿、御懸念には及ばぬ。
なぜならば、優れた兵士は初志を貫徹すべきで、後退してはなりますまい」と。
このことから言い得るのは、日本人がいかに理性的で、答弁にあたっていかに分別があるか、ということである。
(フロイス日本史より)
※の行の内容については、なぜ豊後の城主たちが豊後勢を攻撃しようとするのか、訳者いわく「事情を理解しがたい」とのことですが
そのまま書きました。
0712人間七七四年
2013/11/26(火) 17:37:25.05ID:gYfr5t4H0713人間七七四年
2013/11/26(火) 18:23:13.51ID:Hw+bNMU+「甲午です」
「ならば我と同い年だな」
「君の午は、たとえれば、良馬にして金稜の鞍をそなえているようなものです。
臣は駑馬にして粗悪な鞍の午なのです。どうして同列に語ることができましょうか」
これを聞いて信長は微笑した。
――『日本智嚢』
0714人間七七四年
2013/11/26(火) 19:47:42.64ID:kU9V66kv0715人間七七四年
2013/11/26(火) 20:08:41.60ID:YSG+f5uB0716人間七七四年
2013/11/26(火) 20:15:33.91ID:WwPQEH4Bなんでそうなる?みたいな
0717人間七七四年
2013/11/26(火) 20:46:12.86ID:83o/nW8B後に山城花山でも作られ刻み売られた。これを花山多葉粉と言う。さらに吉野、
続いて丹波にも植えられた。
はじめはキセルという物も無くて紙を巻いて吸ったり、あるいは葭または細い竹
を切り、それに煙草を盛って吸ったと言う。これには受け渡しの作法があったと
言うが今は廃れてしまった。
今のキセルのように前後に金物を用いるのは最近の事である。
元和元年六月二十八日、日本全国で煙草が禁止された。
その頃、白木屋某という人が江戸柳原土手を通った時に飢えている筈の乞食が
菰の下で隠れて煙草を吸っているのを見かけた。
これほど厳しく禁止されているというのに食べる物さえ乏しい者がこれを止めない
と言う事は、広く世の人が好むのは明らかだ。それならば程なく煙草は許される事
になるだろうと考え、それから京・江戸・大坂で捨てられるキセルやその他煙草の
道具をことごとく買い集めて蔵に収めた。
案の如くそれから少し経って禁止令が緩められたので、その際に一度にこれらの品々
を売り出して富裕の身となり、今も栄えていると言う。
(翁草)
慶長年間に流行り始めたと言う煙草のお話
0718人間七七四年
2013/11/26(火) 20:58:56.24ID:yFvpZP1S0719人間七七四年
2013/11/26(火) 21:00:27.91ID:dKIre1kM薩摩守はいたかも
0720人間七七四年
2013/11/26(火) 21:02:51.22ID:WwPQEH4B0721人間七七四年
2013/11/26(火) 21:47:45.60ID:TOvKWCQp0722人間七七四年
2013/11/26(火) 22:58:19.84ID:Tk56WMrd0723人間七七四年
2013/11/26(火) 22:59:10.73ID:fLT7hjzk0724人間七七四年
2013/11/26(火) 23:53:15.00ID:rGsWkNvAただ、日本で生産が盛んになった時期はよくわからんね
0725人間七七四年
2013/11/26(火) 23:56:37.88ID:3UzO46mS0726人間七七四年
2013/11/27(水) 01:06:01.40ID:8/JHbvO00728人間七七四年
2013/11/27(水) 11:36:15.92ID:yrZQW2db0729人間七七四年
2013/11/27(水) 11:53:03.83ID:WN/XovJd南米のコカイン(コカ)のように
0730人間七七四年
2013/11/27(水) 12:32:04.65ID:jMABUFqu0731人間七七四年
2013/11/27(水) 12:43:46.25ID:Hbx4tM4G0732人間七七四年
2013/11/27(水) 12:44:30.44ID:b/2kwER50733人間七七四年
2013/11/27(水) 13:04:33.41ID:wBXaRz6z0734人間七七四年
2013/11/27(水) 13:40:20.88ID:wBXaRz6z一般南米人はコカ葉を噛んだり茶にする(ハーブとして生活利用)
南米マフィアはコカ葉を科学合成してコカインにする
この違いハッキリさせとかないと南米人(先住民系は特に)は怒るみたいだよ
0735人間七七四年
2013/11/27(水) 14:20:04.14ID:4BPVaUIu熱処理中に「酔う」と
作業効率が落ちるので
幻覚成分をほとんど含まないように
品種改良されたものらしいです。
0736人間七七四年
2013/11/27(水) 18:23:14.78ID:yGYAMYLq見しは今。たばこという草が近年異国より渡り、老若男女がこの草に火を付けて煙を飲みなさる。
そのような者で、江戸町に道安という流行り薬師がいるのだが、夜も昼も飽きずにたばこの煙を吸いなさる。
愚老(三浦浄心)がこれを見て「このたばこは何の薬であろうか」と問えば、道安は答えて、
「昔から国では薬を焼いて、その煙を筆管を使って飲んでいる。我朝の人は賢くて金属で作り、
『きせる』と名付けた。序例には『人がいて久嗽を病んだ。肺虚して寒熱を生じる。
款冬花を三両使い、芽を焼いて煙が出るのを待って、筆管を使いその煙を吸う。口に満ちた時には
これを飲む。嫌になった時には止める。およそ数日の間五七にして癒える』と記している。
しかしながら、このたばこという草は医書にも見えず、薬とも毒とも理解しがたい。されども、
典薬衆を始めいづれの人も飲んでおられる当世の流行物だから、私もこれを使う」との返答であった。
これは愚かなることだよ。
0737人間七七四年
2013/11/27(水) 18:25:35.77ID:yGYAMYLq亦いたづらならくのみ(夏炉冬扇)」とある。その昔、神農は千草までもを味わい知って、今の世の人の
為になさった。「すべらぎのみつを其代の始にて」という前句に、「薬の草葉種はつくせし」と、
兼載はお付けになったのである。
さて、日本は粟散辺地にして大国と比べて及びがたいといえども、智恵第一の国と言い慣わし、
文武をもって国を治め、他国までも恐れ、絶えず御調をそなえなさる。そのうえ当代の名医には、
施薬院、寿命院、驢庵、以庵、(てへんに色)法印、延寿院などという数多の人がいらっしゃる。
これは薬師の変化かと沙汰される。少なくともこの草を知らなくては、異国の聞こえはよろしくない。
――『慶長見聞集』
悪い話だろうが、たばこ繋がりということでこっちに。
0738人間七七四年
2013/11/27(水) 19:58:46.73ID:jeeaFZ27本丸の老中達を呼びこのように言った
「今度駿府城に引き移るにつき、ここで私が今まで貯めた、金15万枚を秀忠に譲る。
この金子だけでは不足だろうから、追ってまた譲ろう。
ただし、この金子は私用に使ってはならない。天下の金であると常に意識して、普段使う分は
通常の収入から出すようにせよ。
天下を取ったのであるから、資金が不足してもかまわない、という考えは宜しくない。
極力無用無益なことには出費をしないようにし、金銀を蓄えるようにせよ。
この金銀の目的は三つ有る。
一つは軍用のためである。
第二には、これは昔、京鎌倉でも在ったことだが、今後江戸で、家屋が一軒も残らないような大火事が
無いとも限らない。その時に、居城は勿論、城下の貴賎万民たちが住居に困るような事が無いように、
この資金を用いよ。
第三に、日本国中において、それぞれに国主・郡主を置いた以上、大抵の凶作などに対しては、
その地の領主の力によって、諸人が飢え凍えるなどという事が無いように、対策されるべきである。
ではあるが、天災という物は人間には測りがたいものである。凶年が何年も続くようなことも
ありうるのだ。
そういう時に、領内の民百姓を、領主の力では支えられない、そういう訴えが有れば、
その領主にこの資金から援助をし、私領の民百姓であっても、助けなければならない。
これもまた、天下を治める者の役割なのだ。」
(駿河土産)
徳川家康の貯金の使い方、である。
0739人間七七四年
2013/11/27(水) 22:10:09.58ID:iu+0H8Jf0740人間七七四年
2013/11/27(水) 22:51:00.49ID:x4dF+/h70741人間七七四年
2013/11/28(木) 00:14:44.08ID:AXReeG870743人間七七四年
2013/11/28(木) 15:49:23.08ID:F23O/WeV0744人間七七四年
2013/11/28(木) 18:26:27.44ID:F23O/WeV各々が登城した。
御能の二番過ぎ清水という狂言の半ばで、にわかに大地震が起こり揺れ出したので
見物の面々は互いに顔を見合わせていた所、まだ揺れが止まらない為、思わず一人
二人が御庭へと下り、終いには伺候の面々のうち過半数が座敷から飛び出した。
秀忠公はまったく御騒ぎになる御様子もなく扇をつかいながら人々が仰天する様を
ご覧になられていた。
その頃、家光公はまだ竹千代君といい御年十二。駿河殿は国千代君と言い御年十で
あった。二人は秀忠公の右の御座敷脇に屏風を隔てて座っていたが、あまりにも
地震が強かったので竹千代君を青山伯耆守が抱きかかえ、国千代君を御側衆が抱き
御庭へと移った。
その時、竹千代君は「上様は来られておるのか」と尋ねた。伯耆守が「存じませぬ」
と申し上げると「上様が来られておらぬのに、なぜ連れ出した」と御手にて伯耆守
を叩かれ、各々はこれに感じ入ったと言う。
秀忠公は普段から「侍には三つの心得ておくべき事がある。第一に狂人闘諍、第二に
地震雷鳴、第三に火事。これら三つは不意に起こる事であるから、その時にどうする
べきか普段から考えておけば、仰天する事も無いものだ」と仰せられていた。
さればこそ、この地震の時にも膝を直されることも無く顔色も普段通りだったという。
(翁草)
いつもの秀忠と家光がちょっぴり可愛い話
0745人間七七四年
2013/11/28(木) 20:28:57.54ID:XRinO0RK0746人間七七四年
2013/11/28(木) 20:47:56.90ID:3dU20Eex0747人間七七四年
2013/11/28(木) 20:50:30.73ID:JtRjbXq20748人間七七四年
2013/11/28(木) 21:36:08.79ID:k7rHjhiO0749人間七七四年
2013/11/28(木) 23:05:14.28ID:jq2+Yxx1危ない時ほどイキがる癖があるような、これで建物の下敷きになっていたら匹夫の勇と言われていたろうな
0750人間七七四年
2013/11/28(木) 23:06:44.60ID:BLLWTAYa0751人間七七四年
2013/11/28(木) 23:11:29.76ID:ZPTDLQbV危険なところに飛び込んでいく性格なんだろ、本来。
家康に似てるよね。
0753人間七七四年
2013/11/29(金) 05:51:06.57ID:AOkQt3IDそれに該当するものって真田討伐に行って奇襲受けたときが一番可能性高いんだよなあ
関ヶ原に遅参したのも実はこれが原因だったのかもしれない
0754人間七七四年
2013/11/29(金) 07:46:50.34ID:I1S2g+lN0755人間七七四年
2013/11/29(金) 08:11:12.49ID:2NIep9jM銃弾がその時なら恨んでても不思議ではないな
自分を撃った島津のために頑張った井伊さんのようなこともあるけど
0756人間七七四年
2013/11/29(金) 08:17:21.55ID:tZX/B3tZ当時の遺骨の扱いは現代の感覚からすると信じられんくらいいい加減だし
0757人間七七四年
2013/11/29(金) 10:19:30.33ID:2NIep9jMなぜか梟雄まで書いちゃってた
親父はともかく兄ちゃんは違うのに
0758人間七七四年
2013/11/29(金) 14:41:24.55ID:VQAqj0M40759人間七七四年
2013/11/29(金) 15:27:08.48ID:CTDP+CB00760人間七七四年
2013/11/29(金) 15:56:28.21ID:Uixui+g3秀忠は夏の陣でも本陣に切り込まれて絶体絶命で
冬の陣でも一人で富田まで逃げてたっていい話しであったよな
0761人間七七四年
2013/11/29(金) 16:20:16.23ID:WS6hx+Ghhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6275.html
しかし、このくらわんか舟の話、嘘くさいとはいえ難波戦記に載ってるのに
勝手に司馬遼太郎の創作と決めつけてるようなレスやコメが多くてちょっと腹が立った
こんなんじゃ逸話持ってきた人も困惑するだろう
0762人間七七四年
2013/11/29(金) 17:15:59.27ID:VQAqj0M40763人間七七四年
2013/11/29(金) 19:50:45.33ID:0GfILU9Nその結果、本多さんが家康に疎まれ桑名赴任だなんて。
0764人間七七四年
2013/11/29(金) 21:20:29.65ID:QqMeI5xz0765人間七七四年
2013/11/29(金) 21:30:14.52ID:jQ3/jq790766人間七七四年
2013/11/29(金) 22:03:37.48ID:NBOUzmVJ0767人間七七四年
2013/11/29(金) 22:06:29.54ID:tZX/B3tZ0768人間七七四年
2013/11/30(土) 02:16:57.70ID:zqke0Ka8先日まで山形県立博物館で最上義光公四百周忌の年に、それまで秘蔵なされていた最上家の宝物の一部が、初となる一般公開がなされた事があった。
展示なされた物の一つには「天下呑分の杯」
元の所蔵は最上氏の庇護を受けた寺領1370石の真言宗寶幢寺(明治の神仏分離で廃寺)。
寶幢寺の宝物を記した『大和錦襍紀』には、
「一 神君御陣羽織 是ハ於関ヶ原御着用セシ物
一 同御杯 是ハ天下呑分ノ杯ト称ス 但上ノ字ノ処ハ神君 下ノ字ノ処ハ義光呑ム処ナリ
一 同二俣竹杖 是ハ於関ヶ原御所持の品
以上三件ハ於駿府神君ヨリ最上義光九品拝領ノ内祐雄受領之」とあり
慶長18(1613)年に最上義光が病をおして駿府にいる徳川家康を訪ねた時に拝領したものを、寶幢寺の僧である祐雄(尊雄(慶長16年〜慶長19年)?)が受領したものと伝えられている。
(つづく)
0769人間七七四年
2013/11/30(土) 02:19:37.14ID:zqke0Ka8杯は木製で内面が朱漆、外面が黒漆で塗り分けられ、内面には茶色がかった黒の漆で「上」「下」の二文字が記され、これが『大和錦襍紀』にある記述と対応すると考えられている。
則ち、上の字のところからは家康が飲み、下の字のところから義光が飲んだという事になる。
外面には葵紋と桐紋が装飾的に描かれ、高台内面にも葵紋が描かれている。
杯を包んでいる袱紗も絹製で葵紋を施す上質な品である。
江戸幕府の公式記録の『徳川実紀』には駿府で家康は義光に薬や着物などを与えたとあり、『大和錦襍紀』の記載と一致しない部分も見受けられる。
(山形県立博物館のホームページより一部を編集)
※「最上記」には駿府詣の際には義光が家康自ら調合した薬と愛用の着物を授かったといった記載があり。
0770人間七七四年
2013/11/30(土) 02:24:02.93ID:zqke0Ka80771人間七七四年
2013/11/30(土) 02:37:01.31ID:zqke0Ka8家康「出羽殿、今回の戦いでは苦労を掛け申した」
義光「いえいえ、とんでもございません
…それより、差し支えなければ、その杯を記念に戴けませんでしょうか?」
とかいった流れだったのだろうか?
0772人間七七四年
2013/11/30(土) 02:45:33.10ID:zqke0Ka80773人間七七四年
2013/11/30(土) 06:03:16.68ID:lZlK2kdX他の方のを参考にしてみては如何だろうか
0775人間七七四年
2013/11/30(土) 15:19:16.13ID:04NuBcaE0776人間七七四年
2013/11/30(土) 19:21:26.68ID:bC+TauCx清玉上人を、年来御別懇にお目にかけられた事、世に隠れもない事であった。
そんな所に、明智日向守光秀の謀反によって、天正10年(1582)6月2日の払暁、信長公が旅館にされた
本能寺に兵が押し寄せ合戦に及んだ。
清玉上人はこの事を聞きつけると大いに驚かれ、直轄の坊主、並びに搭頭の僧徒20人ばかりを召しつれ
ともかくも本能寺へと駆けつけた。しかし表門、合壁は軍勢で中々近寄ることも出来ないように見えた。
そのため、清玉上人は京の裏道、堀構の案内を良く存じられており、裏道に回り、本能寺の裏から
垣を破って寺内にようやく駆けつけられた時には、もはや本能寺に火が掛かり、信長公は切腹されたと
聞かされた。
上人は力を落として、ふと片脇を見ると、墓の後ろの藪の中に、10人ばかりが集まって、樹の枝などを
折りくべ、火を焚いていた。清玉上人は不思議に思いそこに近づいてみると、彼らは皆、上人も
良く知った武士たちであった。
「これはいかに?信長公は如何なされましたか!?」
上人が尋ねると
「もはや御切腹遊ばされ、御遺言に『死骸を敵に取られるな。首を敵方に渡すな』と仰せ置かれました、
しかし御死骸を抱いて立ち退こうにも、四方皆敵の中にあります。差当り致すべき思案もなく、只今
こうやって御死骸を火葬にし、灰と成して敵に隠し、私達はその後切腹して、信長公のお供を致そうと
考え、御弔いをしているのです。」
上人はこれを聞くと
「さては幸いのことです。私の事は内々に、皆様御存知の通り、信長公より旧来御懇意の上意を頂き、
有難く存じておりました。そのため、何か御用もあらんかと早々にここまで駆けつけた所、もはや
御生害なされておられ、是非に及ばぬ事であります。
しかし火葬は出家の役目です、ここは愚僧にお任せ下さい。僧徒も数多召し連れてきています。
御死骸を火葬にいたし、御骨を我が寺に持ち帰り奉って御墓を築き、御葬礼、御法事等も、
愚僧の力の限りに相働きましょう。
ですので、その事についてはお気遣いなく、此処をこの坊主に任せて、敵も表に見えますので、
皆様一働き、御働きあって、速やかに討ち死にされ信長公のお供をなさって下さい。」
これに武士たちは皆々喜んで
「信長公とかねてから御懇情の事でありましたので、その思し召しは至極に存じます。
そういう事でしたら、仰せに従い、貴僧に此処を頼り置き、我々はここから出撃し、
猶入ってくる敵を防いで、心静かに切腹し信長公のお供をしようと思います。そのため、
此処を頼み入ります。」
そう言うと上人たちを残し皆そこから立退き表に出撃した。そこで上人は火葬を受け取り、
暫時これを煙と成し、御骨を取り集め衣に包み、本能寺の僧衆が立ち退く風情をして
阿弥陀寺に帰り、御骨を先ず、深く隠しおき、暫く日数も過ぎて搭頭の僧徒ばかりにて、密かに
御葬礼をとり行い、御墓を築き、そこに御骨を納めた。
この墓所は阿弥陀寺にあり、今に至るまで御命日には懈怠無く相勤め奉っている。
(阿彌陀寺由飼V記)
信長切腹直後の本能寺の模様を伝える、阿彌陀寺の伝承である。
0777人間七七四年
2013/11/30(土) 22:07:53.97ID:Ez9Y5L4J諦めるの早すぎ
0778人間七七四年
2013/11/30(土) 22:36:39.53ID:mad9NJaP寺沢広高は肥前唐津の城主となった。12万石の大名になったのに、その奥方は木綿の衣服を着た。
年始などの儀式であっても塩魚又は乾魚を用いた。このように倹約とするかと思えば、部下には千石取りの者を40人を養った。
広高は常に我を通さず人の意見に耳を傾け、技能ある者を招いた。故に豪傑の武士は先を争って集まったという。
(武人百話)
0780人間七七四年
2013/12/01(日) 16:32:46.15ID:RT88/Kjt過去の逸話とかぶる箇所があるとは思いますが、みなさまの知識をお借り致したく、気になる部分や誤りがございましたらご指摘をお願いいたします
○高身長(単位はcm)
風魔小太郎216〜218(7尺2寸)
矢島満安207〜209(7尺余)
真柄直隆200〜
斎藤義龍197(6尺5寸)
豊臣秀頼197(6尺5寸)
加藤清正※191(6尺3寸)
藤堂高虎190〜
真田信之185〜194
長宗我部信親185
直江兼続182〜190
後藤又兵衛182(6尺)
前田利家182(6尺)
最上義光181〜183
津軽為信180〜
宮本武蔵180〜
浅井長政180〜
楯岡満茂180〜
龍造寺隆信180
小早川秀秋170〜
織田信長162〜170
0781人間七七四年
2013/12/01(日) 16:34:05.29ID:59CRrryx0782人間七七四年
2013/12/01(日) 16:45:01.45ID:RT88/Kjt加藤清正※161(5尺3寸)
伊達政宗159.4
徳川家康157〜159
徳川秀忠157.6
石田三成156
○やや小柄〜小柄
上杉謙信156(5尺2寸)
上杉景勝155
加藤清正※155
本多忠勝155
豊臣秀吉154
武田信玄153〜
前田慶次(利太・利益)150〜155
真田信繁(幸村)
池田輝政
山県昌景130〜140
0783人間七七四年
2013/12/01(日) 16:50:02.72ID:RT88/Kjt森可成・長可、長宗我部元親ほかの情報をご教授頂けますと幸いです
0784人間七七四年
2013/12/01(日) 17:04:19.63ID:z7FWmcGP0786人間七七四年
2013/12/01(日) 18:17:08.52ID:GRhOSKza0787人間七七四年
2013/12/01(日) 20:12:16.19ID:glES2RK1┃ 華厳宗 ┃ ┌─╂ 鎌 倉 幕 府 ╂─..臨済宗いいよ臨済宗 .──┐
┌╂ 法相宗 ╂──│┐┗━━┿━━━━━━┿━┛ ┏禅宗━━━━┿━━━━━━━━━━━┓
│┃┌────┐┃ ││ お ↑│↑ ハ,,ハ ┃ ↓ ┃
│┃│律宗 │┃ ││ 前 氏│└─..( ゚ω゚ ) ─┐┃ ┌臨済宗────────────┐┃
│┗┿━━━━┿┛ ││ が ぬ└支援するよ ─┐│┃ │Q バナナはおやつに入りますか ? │┃
│ │真言律宗│←氏ね──┐ な よ ││┃ │∧_∧ │┃
│ └────┘ │││ ↓ │ ││┃ │( ´・ω・) 入りますん │┃
│┏━平安仏教━━━┓│││ ┏日蓮宗━━━┿━━━━━━┓││┃ │( つ旦O │┃
│┃┌─密教──┐ ┃│││ ┃ ┃││┃ │と_)_) │┃
│┃│ 真言宗 │ ┃││└─╂\(^ν^)/ 法華経こそ正法 ┃││┃ └───────────────┘┃
│┃│┌───┐│←╂──氏ね╂ l_l 邪法は氏ね .┃││┃ ┌曹洞宗────────────┐┃
│┃└┤天台宗├┘ ┃││ ┃ / \ ┃│└╂─┼ │┃
│┃ └┼─┼┘ ┃││ ┗━━━━━┿━━━━━┿━┛└─╂→│ │┃
│┗━━┿━┿━━━┛││ 氏 └─氏ね→┃ │(-_-) … │┃
└───┼──────┘│ ね ┃ │(∩∩) │┃
│ └─────┴────────│─.汚物は消毒だ〜!!.→.┃ └───────────────┘┃
うるさい黙れ │ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
↓ ↓
┏━━浄土宗系━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┌浄土宗────┐┌浄土真宗────────┐┌時宗─────────┐┃
┃│ナムアミダブツナムアミ││ /⌒ヽ 善人(笑)が .││♪ ∧,_∧ レッツ !! │┃
┃│( ゚д゚ ) ダブツナム││∩ ^ω^)浄土に逝けるなら....││ (´・ω・`) )) ダンシング♪ │┃
┃│ノヽノ |.アミダブツナ.││| ⊂ノ 悪人のオイラも .││ (( ( つ ヽ、 ♪ │┃
┃│ < <ムアミダブツナ││| _⊃余裕で逝けるお . ││ 〉 とノ ))) │┃
┃│. ムアミダブツナムア.││し ⌒ ││ (__ノ^(_) │┃
┃└───────┘└────────────┘└───────────┘┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
0788人間七七四年
2013/12/01(日) 20:42:01.14ID:zgqj0oIQ千石取り40人だとそれだけで1/3か
石高のうち大名自身というか藩の取り分ってだいたい何割くらいなんだろ
0789人間七七四年
2013/12/01(日) 20:50:33.37ID:21AFGnTx蔵入地の割合は大名によってバラバラだね
時代の経過とともに藩財政の立て直しの為に蔵入地を増やす傾向にはあるけど
0790人間七七四年
2013/12/01(日) 23:29:44.00ID:SLkGZeGO0791人間七七四年
2013/12/01(日) 23:48:26.29ID:21AFGnTx島津みたいになっちゃうと酷いことに
0793人間七七四年
2013/12/02(月) 12:08:33.25ID:BgX6TQ7W0794人間七七四年
2013/12/02(月) 17:04:31.43ID:n113yo2Bどちらも単純でうさんくさいよな
0795人間七七四年
2013/12/02(月) 18:07:46.45ID:0FDYrBrC柏木山の戦い
最上義光(34才)は天童合戦において当時山形盆地で最上氏と拮抗、またはその実の上にあった天童氏を破り、八楯を降した。
この義光の勝利と、山形周辺での急激なパワーバランスの変化を恐れた上山領主で里見党惣主の上山満兼(里見満兼・武衛満兼)は米沢城の伊達輝宗(33)に加勢を頼み、天正6(1578)年山形南方の成沢へと侵攻する。
この時の成沢城主は成沢道忠(70余)で、義光は武田信玄にも武才を讃えられた伊良子宗牛(60余)といった老将を成沢城へ送り込み
義光「血気盛んな若者らが敵の姿を見て城から出て戦いたがるかも知れないが、成沢城は堅城だからけして簡単に打って出てはならない。
そなたが老練の将だからこそこの任を頼む。篭城に徹してまずはいくさの流れを見よ。しばらくは上山勢を足止めせよ。」
と申しつけた。
(つづく)
0796人間七七四年
2013/12/02(月) 18:09:51.96ID:0FDYrBrC上山に入った輝宗は満兼から成沢城が篭城策を取った事を聞くと
輝宗「義光の心底が読めた。老将を置く事により短期決戦を避け、いずこかで野戦になった際には方策を巡らせ、こちらの不意を突き成沢城兵と示し合わせ挟み打ちを目論んでいるに違いない。」
と考えた。
日を追い上山勢による成沢城攻撃も攻めあぐめ、早急に城を落とす事は難しくなっていた。そこに義光が領内から兵を集め成沢へと援軍に向かっているといった報せが届く。戦局は重大事を向かえた。
満兼「当初は上山に義光が攻め入って来た際に山谷に伏兵を置き、不意を打ってこれを討つつもりでしたがこのままでは長丁場になりそうです。
輝宗様の米沢軍と私共の上山軍を合わせれば味方は最上軍の上を行く兵力となります。主力をもって決戦を行えば数の内ではこちらが絶対優位ですし、義光を破れば成沢城も諦めて降伏する事でしょう」
輝宗も満兼の言に一理あると考え、軍議を終えた。
(つづく)
0797人間七七四年
2013/12/02(月) 18:34:37.42ID:mZp7YCifいつの時代もそうだけど、ゴチャゴチャした時代には特に多少胡散臭くても単純でわかりやすいのが流行るからね
0798人間七七四年
2013/12/02(月) 18:42:07.59ID:0FDYrBrC一方義光側も軍議を行っていた。
氏家守棟(46)「成沢城はよく敵を引き付けてくれています。それと満兼らの軍に動きがある様です。伊達軍の主隊も上山の奥から本陣を前方に進めて来るに相違ありません。
道程からすれば敵が陣を張りそうなのは柏木山。こちらも本隊を南下させつつ、遊軍を先に潜ませ、敵の不意を突きましょう。」
戦いの臨旨がはっきりとし、理に適っていたので義光は守棟の策を採用した。
上山・伊達連合軍、最上軍双方は柏木山方面へと向かう。
最上軍の先陣は天童合戦から最上方に与した出羽最強の呼び名の高い延沢満延(35)が承り、二陣は氏家守棟と七陣まであった。
両軍の先陣が松原で入り乱れて合戦が始まったが、義光はいくさの頃合いを見て本陣から太鼓と鐘を打ち鳴らす。
柏木山付近に先に伏せていた最上方の鉄砲隊200挺が太鼓の合図に伊達軍の本陣目掛けて釣瓶打ちへと撃ち掛かる。
輝宗の本陣は不意を打たれ、軍は乱れ、最上方の延沢・氏家の軍勢がここぞとばかりに押し込んだ。
延沢党の飯田小十郎らの前に多くの伊達譜代の旗本や衆目が討たれた。
金砕棒を奮い輝宗に縋る延沢満延に伊達の郎党たちが防戦し討ち死にする間、輝宗は命からがらに逃げ出し、上山城の惣堀まで退いた。
これを合戦の地の名を取り「柏木山合戦」と称す。
「最上記」
0799人間七七四年
2013/12/02(月) 18:45:48.12ID:0FDYrBrC0800人間七七四年
2013/12/02(月) 18:48:57.38ID:0FDYrBrC0801人間七七四年
2013/12/02(月) 19:03:40.45ID:BcrFBHvtしかも旧仏教と比べてわかりやすいと来たら学のない民衆も飛びつきやすかったろう
0802人間七七四年
2013/12/02(月) 19:16:48.33ID:Bgfzvsb90803人間七七四年
2013/12/02(月) 19:50:45.36ID:0FDYrBrCこの戦いで鉄砕棒を振るって先頭で戦う延沢満延に影響されたのかも
その後
→例の愛用の鉄指揮棒が登場
→寒河江合戦・八沼城で先頭たのしー!
0804人間七七四年
2013/12/02(月) 23:02:42.27ID:J0NbU8Tx兵庫県伊丹市は2日、来年のNHK大河ドラマで描かれる戦国武将・黒田官兵衛が伊丹の武将・荒木村重に宛てた書状を確認した、と発表した。
ともに織田信長の家臣だったが、村重は信長に反旗を翻し、説得に訪れた官兵衛を有岡城に幽閉。
“敵同士”のイメージが強いが、有岡城落城4年後の書状からは、豊臣秀吉の下で協力する2人の姿が浮かび上がる。
同市によると、書状は京都市の光源院所蔵で、1583(天正11)年11月12日付。
光源院は当時、現在の鳥取県にあった領地を地元豪族に奪われたため、秀吉に茶人として仕えていた村重に調停を願い出ていた。
村重は、中国地方の領地問題を担当していた官兵衛に意見を求めたとみられ、この書状は官兵衛からの返事。
解決への協力を約束した上で、「(秀吉の)お供で姫路においでになると思っていたが、おいでにならず残念。機会があれば会うことを考えている」などと記されている。
書状の存在は昭和初期の歴史書に記載されていたが、検証されたことはなかった。
神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)によると、所蔵の書状は原本の写しで、村重が光源院へ送った可能性があるという。
今井教授は「幽閉後の2人の交流を示す唯一の史料。官兵衛は非道な扱いをされた印象があるが、両者には一定の信頼関係があったことが分かる」と分析している。(太中麻美)
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/img/b_06542208.jpg
黒田官兵衛から荒木村重(茶人名・道薫)に送られた書状の写し(光源院所蔵)
ニュース系板からコピペですが、クロカン良い人すぎワラタ
0805人間七七四年
2013/12/02(月) 23:23:05.67ID:Bb5zUdFM0806人間七七四年
2013/12/02(月) 23:23:16.39ID:gsrnmq4p0807人間七七四年
2013/12/02(月) 23:27:23.06ID:e7KOlFA70808人間七七四年
2013/12/03(火) 00:11:13.95ID:DPKM0+whえ・・・さすが歴史認識の乏しい日本人だな。
こんな知識だから独島や釣魚島を日本領とか妄言はくようになるんだ。
0809人間七七四年
2013/12/03(火) 01:53:10.14ID:HIEgv+lX0811人間七七四年
2013/12/03(火) 02:19:22.28ID:GEkk+HwM復活前も後も下衆行為ばっかしてるし
0813人間七七四年
2013/12/03(火) 07:39:09.50ID:cGqg1pxH0814人間七七四年
2013/12/03(火) 07:47:31.96ID:gJ8l/0Pg宝暦年間に富士山が噴火した際には、
その貯めた金で庶民を助けるどころか
救済名目で諸大名から金を徴収して
幕府の赤字補填に流用したよね(´・ω・`)
0815人間七七四年
2013/12/03(火) 16:21:16.78ID:t4Xirr87何年経っていて天災人災が何回あったと思ってるんだ?
0816人間七七四年
2013/12/03(火) 17:23:21.31ID:KKjA3ymoこの時、太閤秀吉は民を募り、鴨川と桂川に堤防を築いた。
老少を問わず土砂を運ぶ者は皆銭を得て米を買い、
再び餓死者が出ることは無かった。
――『日本智嚢』
0817人間七七四年
2013/12/03(火) 17:29:03.33ID:izO/mytl> この時、太閤秀吉は民を募り、鴨川と桂川に堤防を築いた。
これ秀吉が大名にやらせた工事じゃなかったかな?
前田利家と利長が親子喧嘩してたような
0818人間七七四年
2013/12/03(火) 17:51:56.04ID:+/xG7jDw0819人間七七四年
2013/12/03(火) 18:03:52.35ID:DAgbg1IC0820人間七七四年
2013/12/03(火) 23:22:05.22ID:Q2MvQmPMてか、そんな回りくどいことせず、素直に庶民に施せばよかったのに。
0822人間七七四年
2013/12/03(火) 23:46:01.47ID:yEWcxxdM0823人間七七四年
2013/12/03(火) 23:49:30.03ID:NfJyoI6f俺ね歴史は好きだけど確かにあまり知識としては無いよ
まさかインドの人に言われるとは思わなかったよ
0824人間七七四年
2013/12/04(水) 00:07:29.57ID:khQAQ+rz0826人間七七四年
2013/12/04(水) 23:28:52.47ID:l8NuDcGJヨシフさんですか?ウラー!
そーいや知恵伊豆が米不足のとき旗本だかに米買う金支給したら
米買占めして値を吊り上げてた商人が、金があるなら高値で売れると踏んで
こぞって江戸に米運び込んだ結果、米が余って安く買えるようになったとかいう話を
知恵泉でやってたっけなー(かなーりうろ覚え。誰か詳しく知らんかのぅ)。
商人が当て込んで米過剰に運び込めばやっぱり値崩れして多少安くなったかもしらんな。
0827人間七七四年
2013/12/05(木) 10:41:12.19ID:002oOzSR・・・食い物で暴利をとると恨まれるのでやめておいたほうが吉。でないと打ち壊される。
米貯めといて適宜オペするのがいいんだろうけど当然商人はいい顔しねえな
・・・米以外で儲けろと特産品作らせるしかないか
0829人間七七四年
2013/12/06(金) 00:37:49.16ID:yii96d5n九月二十五日から義光公も長谷堂表へ出られ、敵陣から五十町を隔てて陣取られた。
このような所へ早馬が到来し、上方御合戦が家康公の御利運となり石田治部少輔を
始め関西の諸将はことごとく敗軍との事であった。
義光公は大いに悦ばれ、すぐさま使番を送って「敵は今日明日のうちに撤退するで
あろうから皆、油断せぬように」と再三にわたって諸軍へ触れられたので、何れも
準備をして待ち構えていた。
義光公はいささかの休息もとられず、会津勢が陣取っている戸上山の方をじっと
見つめられていた所に、陣屋を焼きたてる火の色がほのめき見えたので「いまこそ
敵が退いていくぞ、法螺を吹き立てよ者ども」と御身も罷り出られた。
諸卒もかねて待ち構えていたので馬を引き寄せひたひたと乗り打ち、もみにもんで
馳せつけ、切り伏せ突き伏せ進んだ。
杉原常陸守、溝口左馬助は敵の殿であり五、六百騎ほどで取って返し戦ったが、
ついにこれを追い崩して長井の境目まで追いかけ千人余りを討ち取った。
味方も騎兵十五騎、歩行の者四十八人が討たれた。
なおも勝ちに乗って追いかけて行くと、直江も弓矢功者の侍大将であったから、
山に陣取って押し返し激しく戦った。
味方は追い返され十町ばかり退いて陣を構え、直江山城もその夜はそこに野陣を
固め敗軍を集めた。
(最上義光物語)
0830人間七七四年
2013/12/06(金) 08:26:12.43ID:yii96d5n翌日十月一日の払暁。直江山城は陣を払って退くかのようにみせかけ、山の斜面に
鉄砲を段々に備え、峰々に陣を堅くして待ち構えていた。
味方はこれを知らず、先手より「敵が退いて行きます」との報告に、義光公は御馬
を引き寄せられ、ゆらりとうち乗って出られた。
この時は朝霧も深く未だ夜も明けきってなかったので、敵の備えに気づかず
我先にと進んだ所を近くまで引き寄せられて撃たれたので、先陣はこらえられずに
一度にハッと引き退いた。
義光公はこれを見て「旗本に入れ替えて追い崩せ」と進み出られたので、近習の者
どもは我劣らじと前に進み、敵もここを先途と打ちかかってきたので志村藤右衛門
をはじめとして数多の味方が討たれた。
ここに筑紫出身で堀喜吽斎という者がいた。諸国で兵法修行して"今判官"と呼ばれ
た人で近年山形へ来て義光公の御伽衆となっていた。
喜吽斎はこのありさまを見て、義光公の鎧の袖をとらえ「あまりの混戦でもあり
旗本も近くにおりますので、いま少しお退がり下さい」と申した。
義光公は喜吽斎をにらんで「汝はなんと臆病な申しようか、これほどの混戦の
中で大将が退けば士卒は我先にと逃げて却って追い討ちにされるわ。
最早ここまで攻めかけた軍なれば多くを討たれようとも、ただひたすらに攻め上げる
しかない。この山の敵を追い落とせば、続く峰に陣を張る敵勢も敗軍に巻き込まれ、
おのずと崩れ散るであろう」と大音声で叫ばれた。
喜吽斎は面目を無くし「臆病かどうか只今ご覧あれ」と義光公のそばを駆け抜け
二十間ほど進んだ所、あえなく鉄砲で左の肩先から右の乳下まで撃ち抜かれて
まっさかさまに落ちて行った。
義光公はこれを見て「ぐずくずしていたのでは、なおさら討たれてしまうぞ。
隙間なく攻め上れ」と例の鉄棒を挙げて真っ先に進まれた。
(最上義光物語)
0831人間七七四年
2013/12/06(金) 08:35:50.27ID:yii96d5n嫡男修理大夫殿は峰を隔てたところからこのありさまを見て、馬では行けぬと皆を
徒歩立ちにさせ、千余人を引き連れておめき叫んで横合いから駆けあがられた。
長谷堂加勢のうち小国大膳、谷地盛伯耆守、川熊讃岐らが手の者八十騎を引き連れ
敵の退路を遮断しようと峰続きに回り込んだ。
敵もこれを見て三方から取り囲まれては敵わぬと思ったのであろうか、退がる気配が
見えた。
義光公はなおも大音声をあげ「ここをもめや者ども」と隙間なく下知なされたので
士卒はなおも気を励まし、手負い死人を乗り越え撥ね除け攻め上ったので、さしもの
敵勢も支えられずに退いていき、味方の兵は勝ちに乗って一人も逃がすなと短兵急に
追いかけた。
大軍が崩れたときの常として「返せ戻せ」と言う声は聞こえるが、我先にと逃げて行き
地理不案内であった為、険しい峰の細道へ大勢が逃げかかり、道や橋から転げ落ち、
岩に砕かれたり、水に落ちて溺れ死ぬものが大勢いた。
味方は地理に詳しく、そこかしこに追い詰めては討ち取り、敵は一人も助からぬかの
ようにも見えた。
直江山城守は人数三百騎余りで少しも崩れず、向こうの峰まで素早く退いてから反撃し
追い乱れた味方をあまた討ち取ったが、そこから追撃はせずに退き直江は虎口を逃れて
敗軍を集め心静かに会津へと帰陣して行った。
その日討ち取った首の数は計1580余と記されている。味方も雑兵をあわせて623人が
討ち取られた。
その時、義光公は「景勝一味の諸将が上村でことごとく敗れたと報告されても、直江
は少しも臆さず心静かに陣払いし撤退していった様は慌てた気配もなく、勝ちに乗った
味方を数多討ち取り、つつがなく会津へと帰陣した事。誠に謙信武勇の強みがいまだ
残っておる」と言われ深く感心なされた。
(最上義光物語)
0832人間七七四年
2013/12/06(金) 19:09:52.48ID:jwCXAmsB(´・ω・`)「兜がなかったら即死だった」
志村さん「殿、前に出すぎるからです」
0836人間七七四年
2013/12/07(土) 01:43:17.76ID:BDncvnB30837人間七七四年
2013/12/07(土) 17:43:48.97ID:zuqygFTH先駆けて槍を交えた。そして八田金十郎と戸塚左太夫がこれに次いだ。
これに徳川家康は「満坐と川手は先駆けたとはいえ、軍令に従わなかった。
いま、功があることにより、これを許す。八田と戸塚は後れたとはいえ、
よく令を守った。感状を賜り、これを許す」と言った。
――『日本智嚢』
0839人間七七四年
2013/12/07(土) 18:41:22.77ID:0O8Fu+zTそして子供の数ほどの矢を取り寄せると子供達にこう遺言した。
「矢は一本ずつ折れば問題なく簡単に折れるものです。
しかし、この矢を一つに束ねて折ればたとえ細い物でも折れなくなります。
各自、同じ思いで親の私の言うことをよく聞かなければなりません。」
そこで控えていた小早川隆景はこう付け加えた。
「兄弟が不和になるのは何事もみな欲から発生する問題ですから、欲を捨て義をしっかりと守り通せば
兄弟の仲が悪くなることはあるわけがないのです。」
これに元就は大いに感心して「各自、隆景が今言ったことに従うように。」
と子供達に言い聞かせたという。
――『前橋旧蔵聞書』
0841人間七七四年
2013/12/08(日) 00:44:24.12ID:ptEJlXdJラスボスへの義を通すため養子を迎えざるを得なくなったのであった
0842人間七七四年
2013/12/08(日) 06:37:35.11ID:7illiONFかといってB専でもなかったので兄者を憚って生涯独身でいたのさ
いい話だろ
0844人間七七四年
2013/12/08(日) 10:03:16.43ID:dObSBKEeちゃんと嫁さんいるだろ。小早川の分家に婿養子で入ったんだから。
義理の兄貴は盲目だから出家して、本家の跡取りは第1次月山富田城で戦死したってことで、小早川本家を「運良く」相続したけど。
ところで、この逸話の突っ込みどころは吉川元春は月山富田城包囲戦から帰ってきてないだろ、ってところだな。
その点、>>840の解釈は正しいのではないかと。
0845人間七七四年
2013/12/08(日) 10:04:18.49ID:Q3k9fcp5おまえいつも投下してから誤字を訂正してるやつだろ?
煽りとかじゃなくてわりとマジで心配してのレスだが、
注意欠陥障害とか何かの発達障害の疑いがあるから、専門の機関で検査受けたほうがいいぞ。
わずか5行の文章すら誤字なしに書けないのはかなりヤバいわ。
0846人間七七四年
2013/12/08(日) 14:54:22.06ID:U9k3pcdi0847人間七七四年
2013/12/08(日) 15:29:21.38ID:7sux1NkL0848人間七七四年
2013/12/08(日) 18:50:40.31ID:6JzoDOWM〉‐r '´ `丶
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ヽ_λ:i. ' `'゙`'‐'i゙ ,' …わかった この話はやめよう
l ヽ`'. ,∠.ニフ /
l ` 、 、 い.... ,' / ハイ!! やめやめ
,r<ヽ、 ヽ', .ヽ`二フ.,'
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0849人間七七四年
2013/12/08(日) 20:27:26.89ID:DFRrkqfnその容貌はそれほど優れた人ではなかったが、鋭気鬱勃、颯爽として近付き難い威があった。
だいたいの合戦では具足を着ず、黒い綿の道服を着て鉄の小さい車笠を被り、采配や軍扇を執らず、
ただ青竹の三尺ばかりの、杖のようなものを持って馬にまたがり、電雷の如く疾駆し、
その青竹を振って指揮したという。
これは梁の韋厳(韋叡)の竹如意(韋叡は生来体が弱く、戦場でも馬に乗ったことがなく、
常に儒服をまとい輿に乗り、竹の如意で軍を指揮した、という逸話)に倣った物だという。
(古雄逸談)
謙信、韋厳の竹如意に学ぶ、という逸話である。
0850人間七七四年
2013/12/09(月) 09:39:16.48ID:4+YqhRq0ファミ通だっけ
あんた、新作の信長の記事の中で政宗に父の仇として畠山の代わりに銃撃されとったな
0851人間七七四年
2013/12/09(月) 09:56:37.39ID:6H1u/mZB0852人間七七四年
2013/12/09(月) 20:34:12.09ID:jKSfonJQその性質は温和で優しく、同時に廉直で正義の友である。そのため、恐れられているが、
それ以上に愛されている。
何故なら、通常彼の統治のもとにおいては、有力者も卑賤の者も、兵士も商人も、誰もが平和に
己の財産と土地を享有し、社会的不公正、苛斂誅求、暴虐といった天下の主君に対する不満も
存在しなかったからである。
むしろ、万事において彼が守る平等と公平に接し(これは異教徒の領主としては、領主たちが気ままで
勝手で絶対的である日本においては一層驚くべき事である)、人々は彼の死よりも、
長命をより願っている。
そしてデウスは現世における彼のこれらの道徳的美点に対し、全日本の一般的平和と万人が
彼に服従しているその大いなる従順さのみならず、彼に与える繁栄と富を以って報い給いて
いるように思われる。すなわち、彼の時代に多くの大銀山が発見され、日増しに多く見出されつつ
あるからである。日本本土から15ないし20里離れた北方の島である佐渡国で特にそうである。
それらの鉱山から毎年、150万近くの金が彼の元にもたらされるが、その全てを、他の鉱山と
彼の通常の領地から入るその他の物とともに蓄え、莫大な蓄財をなしつつ有り、
彼自身すら、自分がどれほどの財産を有するか解らないほどだ。
(16・17世紀イエズス会日本報告集「1603、04年の日本の諸事」)
徳川家康が将軍になった頃の、家康の統治に関する、イエズス会への報告書である。
0853人間七七四年
2013/12/09(月) 20:43:21.86ID:3n9htrgX0854人間七七四年
2013/12/09(月) 20:45:38.75ID:GVe9cOsq0855人間七七四年
2013/12/09(月) 20:47:19.61ID:ZdDWT3fI0856人間七七四年
2013/12/09(月) 21:06:20.49ID:u3+/maNH0857人間七七四年
2013/12/09(月) 21:11:26.34ID:3n9htrgX生産量の増大は海外からの製錬技術導入がデカいかと
0858人間七七四年
2013/12/11(水) 11:28:42.04ID:JLb88KpBこれにより早飛脚を江戸へ遣わしたが、その文箱の表書には「二月二十七日落城」
と記してあった為、到着後は開けるよりも前に落城だと解り上様は非常にご機嫌であった。
豆州の才知を人は皆賞賛したと言う。
(翁草)
知恵伊豆のわかりやすい吉報の伝え方
0859人間七七四年
2013/12/12(木) 20:54:25.79ID:YL3k1QBG彼に服従しているその大いなる従順さのみならず、彼に与える繁栄と富を以って報い給いて
いるように思われる。すなわち、
0860人間七七四年
2013/12/12(木) 21:23:54.46ID:kGo+PvsQ0861人間七七四年
2013/12/12(木) 21:26:23.30ID:0Dqn7Mo80862人間七七四年
2013/12/12(木) 23:07:01.39ID:m2JjHdAW0863人間七七四年
2013/12/13(金) 00:39:10.43ID:10YkNS0b0864人間七七四年
2013/12/13(金) 00:47:10.26ID:i/S2zPc20865人間七七四年
2013/12/13(金) 01:37:28.99ID:UJw9Q4/o0866人間七七四年
2013/12/13(金) 04:46:09.72ID:3n1ZdTDjそれゆえ将軍、すなわち公方である内府様(徳川家康)がそれら諸国すべての絶対的君主と成って以後、
既に数年にわたってそれを享受していることは、極めて大いなる奇跡である。
彼は大将軍としての勇気、気力を欠くわけではないが、すこぶる思慮に富み、生来安寧を愛するので、
日本帝国の統治を巧みに行い、誰も彼に対して頭を上げぬよう、万人を制御して帝国を平和の内に
維持し、保持するのみならず、また領主や個々の殿達の間に、かつて有ったような軋轢や不和が
生じないようにしている。
そして、その前任者太閤(秀吉)の息子の若君(豊臣秀頼)(その父の死によって「内府」は若君の
最高後見人となり、成人した暁には帝国を譲渡することになっていた)に関しては、こうなるのでは
あるまいかと思いながらも、内府様が如何なる決断を下すか解らないため、これまで全ての人を
不安がらせていたが、本年、決意を明らかにし、帝国を己の物として占奪するだけでなく、自らの
一族の内に永遠に留めることを決めた。
これ故、己の世襲の帝国である関東諸国から息子(秀忠)を上洛せしめた。二男ではあるが、彼に将軍、
あるいは公方の称号を与え、自分の死後は帝国を相続するよう、彼を嗣子、かつ相続人にしておいた
のである。
この若君(秀忠)はその国だけでなく近隣諸国全ての領主を伴い、7万の戦士とともに来た。
この随行者たちを引き連れて、父が待っている都に近い伏見の政庁と城に到着した。
こうして、このような盛儀を凝らして都に入り、多数のいとも素晴らしい兵士たちを華々しく披露した。
彼らは様々な衣服や衣装を身にまとい、落ち着き払っていて、ヨーロッパにおいてさえ一見の価値のある
ものだった。
数日後、内裏の手から将軍の称号を受けに行ったが、都の入った時よりもいっそう豪華絢爛であり、
万事において整然と秩序だっていたので、これを見た全ての人をすっかり驚嘆させた。
しかし、更に驚くべきことは、全てが平穏かつ冷静に行われたことである。
息子とともに来た者、父のもとに居る者とで10万以上の兵士が集まり、またこの盛儀の模様を
見物のため、至る所から集まってきた他の人々は無数に上るにも拘らず、その盛儀の続行中と、
さらに新将軍が政庁に留まっていた間、ずっと騒乱、混乱、喧嘩、抜刀騒ぎも障害沙汰も
見られなかった事は、どのキリスト教団にあっても奇跡的なことと考えうるが、日本においては
尚の事である。
この事は全て、老将軍(家康)が平穏や冷静と逆のことを厳罰を以って禁じ、良政を施き、秩序をもたらした
故である。
(16・17世紀イエズス会日本報告集「1605年の日本の諸事」)
イエズス会士の見た、秀忠の上洛と将軍宣下の模様である。
0867人間七七四年
2013/12/13(金) 08:27:57.39ID:Mp1RUEqp市原悦子か家政婦ミタかって気がしてきた
0868人間七七四年
2013/12/13(金) 08:31:59.77ID:kvdTqzD10869人間七七四年
2013/12/13(金) 08:56:31.96ID:3Mw3fjM6慶長のご時世に信康事件なんて記憶のかなたなんだろうなぁ
0870人間七七四年
2013/12/13(金) 12:31:58.03ID:VrQd2kJn0871人間七七四年
2013/12/13(金) 15:00:16.15ID:iMqDIAli0872人間七七四年
2013/12/13(金) 19:46:45.39ID:LCgDdyEp「いいか、絶対人に見せるなよ、絶対だからな!」
て書いてるようだし
0874人間七七四年
2013/12/13(金) 21:11:12.89ID:ufDYiMOw0875人間七七四年
2013/12/13(金) 22:38:58.34ID:s3z/37Jl・・・三河物語は日記ではないのかw
0876人間七七四年
2013/12/14(土) 09:18:29.46ID:rYHd2BrEそれをいいことに、茂賢の家臣の何某が、茂賢の膳に座り、焼き魚をつまみ食いしていた。
そこに、にわかに茂賢が戻ってきた。
何某はうろたえて、その場から走って逃げ去った。
茂賢は
「あいつ、人の食ふものを食ふて、にくい奴」
と言っただけで、そのままその膳に座り、家臣の食べかけの焼き魚をそのまま食べた。
この何某はのち、茂賢に殉死した。
(葉隠)
0877人間七七四年
2013/12/14(土) 09:41:50.79ID:+Be+fVmw0878人間七七四年
2013/12/14(土) 16:20:06.33ID:cP/j8n0+昔の武士は梅の花を好んだ。
まだ厳しい寒さが残る季節に他の花に先駆けて咲く梅を愛した。
また梅干しは、三毒を断ち今日の難をのがれる、と言う縁起物として、
また戦場での塩分補給、生水を飲んだ時の消毒用として、
梅干しと米粉と氷砂糖粉を練った梅干丸を携帯したという
0879人間七七四年
2013/12/14(土) 17:06:43.77ID:NdzNtOkV0880人間七七四年
2013/12/14(土) 18:04:23.19ID:yoT5N7Fsみんな湧かして飲んでたのか?
0881人間七七四年
2013/12/14(土) 18:21:11.22ID:Ng1smCtb0882人間七七四年
2013/12/14(土) 21:28:49.82ID:cP/j8n0+宣教師により多様な種類の砂糖が入って来たのが戦国時代あたりらしい。
織田信長のドラマに高確率で金平糖が出てくるのも時代背景の演出かも
0883人間七七四年
2013/12/14(土) 23:47:26.20ID:wVoCp08T生国は尾張の瀬部であるが、後に志州が唐津に招いて最も篤く接待した。
剃髪して徳容と号し、嫡子三郎右衛門は禄二千石を受けて長臣となる。
ある夜、盗人があり、そこだぞここだぞと騒ぎになった。宅地の隅には高木が屏の上に
枝を垂れているところがあり、徳容は「盗人があらば、ここをたよりにして越えるだろう」
と、日頃から見定めていたので、ただちにその屏の陰に走って盗人を待った。
思った通り、盗人はその屏に登って逃げようとしたので、徳容は簡単に盗人を斬り留めた。
志州はこれを聞いて「壮年の者がかえって七十有余の徳容に殺されたのは、少しも
(壮者の)つたなさからではない。まさしく(徳容の)普段の心掛けに基づくのだ」と戒めた。
――『武将感状記』
0885人間七七四年
2013/12/17(火) 20:02:53.69ID:mbHB+0I8私への見舞いとして十介を送っていただき嬉しく思います。
一、私の病状は重かったのですが宗巴の針治療をいままで続け、その上に少峯の
薬を飲んで、もはや本復となりましたので、少しも少しも心配なさらぬように。
この他の事は特にお伝えするほどのこともありません。
一、このような状況でしたが気力が無く文を見ることはもちろん書く事も出来ず
あなたからの文も一つも見ることが出来ませんでした。
上様からも何度か御見舞いの使者を頂きましたが会うことが出来ませんでした。
あなたの文は見たかったのですが養生の為と思い見ないようにしていました。
この事はどなたにでもお話して下さい。
一、あなたや子供たちが息災であるとの事で満足これにすぎる事はありません。
子供の虫気も良くなったとの事で目出度いことです。
一、十介は私がもう少し元気になった様子を見せてから帰らせようと思います。
正月三が日を過ぎた頃にでもおっつけ上洛させます。
一、私は坊主になって(=剃髪して)顔を見た所、幽斎そのもので自分の事ながら
胆をつぶしました。歌道を知らぬ幽斎だと思っていただければ良いでしょう。
光賢殿、吉田浄勝院へもお話ください。十介が上洛する折に詳しく話させます。
三斎
宗立
閏十二月廿五日
春には上洛してお会いできるでしょう
(元和6年閏12月25日 まん宛細川忠興書状)
大病を患った後、忠興が娘(烏丸光賢室)に送った書状
0886人間七七四年
2013/12/18(水) 10:44:26.85ID:QFG9LPX3家臣36名「………」
0887人間七七四年
2013/12/19(木) 05:03:39.33ID:ACznjzyc天気雨ふり。お城には政宗様への御礼を述べる人々が参りました。田村、原田左馬介、桑折殿、大枝殿を
初めとして、各々罷り帰った事を申し上げました。
その後政宗様は西の丸に御出になりました。夜に入ると大唐人が3人参って、花火をしました。
その後、歌も歌いました。
(伊達日記)
当時政宗は会津の黒川城を居城としていましたが、そこに中国人の一団が来て花火を上げたり
していたのですね。
0888人間七七四年
2013/12/19(木) 08:48:05.16ID:OSByJAU8中国人だと毛利とか宇喜多の領民になってまう
0889人間七七四年
2013/12/19(木) 09:30:11.41ID:ihEDoJgo0890人間七七四年
2013/12/19(木) 12:41:02.24ID:VCt9Vx+F0891人間七七四年
2013/12/19(木) 17:20:09.08ID:PiemEt8y論説だとかコメンテーターに辟易してるからかもしれん
0892人間七七四年
2013/12/19(木) 19:33:09.82ID:u9luYqnm0893人間七七四年
2013/12/19(木) 20:45:22.63ID:8RKKPJp/wikiからの引用で申し訳ないが、調べてみると唐人とは異国人のことを指すようですね。
宣教師の可能性もあります。また打ち上げ花火は狼煙花火(信号弾)が進化したものらしい。
鼠花火の類は室町の頃からあったようなので「花火」だけではどれを指すのかわからんよ。
0895人間七七四年
2013/12/19(木) 21:05:23.22ID:7QhCaGbC「歌道を知らず」は三斎忠興のことを指している。
>>893
原文では「たいとうちん」となっているので支那人であることはほぼ間違いない。
宣教師だったら宣教師であることを記すはず。花火はせいぜい手元足元で鳴る程度のものだろうね。
0896人間七七四年
2013/12/19(木) 22:07:55.23ID:7QhCaGbC1580年三月、北条と交戦状態になった武田勝頼は織田信長との和与の道を探していた。
運良く佐竹義重が信長との和議を媒介すると言ってきたので、それに乗っかることにした。
複雑な経緯を経て武田の人質状態となっていた信長五男の信房をも織田に返還した。
ところがこの経緯を上杉景勝に知られ「織田との一和は我等と一統の上と決めたはずだ」
と怒られてしまった。「いや義重が頻りに取り持つと言ってきたもんだから」勝頼は弁解した。
「上杉も織田に使者を送ってると聞くが我等はそんな雑説は信用してない。
誓書も交わしたし今後も入魂で行こう」と牽制したりもした<跡部勝資書状写/歴代古案>。
と言いつつ勝頼は翌月も織田と交渉していたようだ<柴田勝頼書状写/信長文書の研究補遺208>。
勝家は「従甲州御詫言之使者<中略>無御許容候」と記す。佐竹義重の面目も丸つぶれという話。
さて同じ頃、北条氏政は関東八州を織田の「御分国に参る」として、
織田に対して従属の意思を表明していた<信長公記巻十三>。
信長はこれに上機嫌だったようで、氏政の使者を労い、京都見物や琵琶湖で舟遊をさせた。
氏政が何処まで本気だったのかは知らない。
或いは北条は、織田に対して徳川同然の立場をと考えていたのかもしれない。<おわり>
0897人間七七四年
2013/12/19(木) 23:29:08.83ID:8RKKPJp/唐人で調べてみろ
加藤嘉明も朝鮮人の職人を松山に連れてきて住まわせてる、その在所が唐人町な
唐だからって中国だけを指すのは大間違い、外国人なら唐人という認識だったと思う
支那だと言うなら東北大名が明の商人と交易していた事実を示してくれ
0898人間七七四年
2013/12/19(木) 23:32:31.82ID:0iEhCDur0899人間七七四年
2013/12/19(木) 23:35:52.67ID:2DJmvlGR「大唐人」とわざわざ「大」を入れてるってことは、その他の異国人と区別するためじゃないの、てことでは
0900人間七七四年
2013/12/19(木) 23:45:04.43ID:RNHTWueY0901人間七七四年
2013/12/20(金) 00:22:54.81ID:JgRG8k1f唐が中国という脳内変換は歴史を学ぶ上では危うい
北陸や東北は日本海交易が盛んだったと思うがそれは国内での話
0902人間七七四年
2013/12/20(金) 00:32:12.78ID:cma4lvlsそれを認識した上で「唐人(異国人全般)」と「大唐人(シナ人)」を区別したんじゃないのか
って議論では
だから「唐人」の資料ではなく「大唐人」の資料をもってくるべき
0903人間七七四年
2013/12/20(金) 00:35:48.40ID:JgRG8k1f東洋医学に通じていたのなら多分大陸のほうでしょ。
得体がしれないから唐人とされたのかもしれないけどね。
0904人間七七四年
2013/12/20(金) 00:41:12.52ID:JgRG8k1fじゃあ君が大唐人がシナ人と断ずるのなら、その資料を持ってきなよw
ちなみに松山の唐人町は大唐人、小唐人の二地域があるけどな
0905人間七七四年
2013/12/20(金) 00:43:55.42ID:YzQJhkeq0906人間七七四年
2013/12/20(金) 00:55:41.48ID:JgRG8k1fID:7QhCaGbCがID:cma4lvlsなんだろ?
議論のすり替えwもいいけどさあ
人に資料を求めるまえに自分でも調べろよ
無学者の脳内変換は危ういぞっとw
以上
0907人間七七四年
2013/12/20(金) 01:11:29.39ID:cma4lvls自分は>>899=>>902だが>>895ではない
「きっとこういうことを言いたかったんじゃないの」と代弁というかしゃしゃり出ただけ
その上で>>901を書かれたから、自分も含め「唐=シナ(中国)」は危険、てのは認識していると強調した
もし>>895が違った理由で「シナ人」と主張したのなら単なる自分の勇み足だが。
今のところ調べた限りでは唐が存在していた時の「大唐人」、「琉球館訳語」での「大明人」「琉球人」「日本人」「大唐大人」と同列に
挙げられている「大唐人」しか見当たらないから、自分のレスに根拠が無いと言われても仕方ないが
0908895
2013/12/20(金) 01:22:23.83ID:Pk6rYjYc「たいとうちん」は支那人ではない可能性もあるということで謝罪致しまする。
ごめんなさい。
という訳で向後の為にもこの話題はこの辺で打ち止めがいいと思うっス。うぃっス。
0909人間七七四年
2013/12/20(金) 01:32:53.76ID:Ix0EMOIvでも>895さんももういいようだしいいや
0911人間七七四年
2013/12/20(金) 01:54:21.92ID:kNWRSvtc0912人間七七四年
2013/12/20(金) 02:23:36.55ID:eyNm+/h6三歳さんだって歌は人並み以上に読めたわけだよね
如何に幽斎玄旨が当時を代表する歌人だったのかが分かるね
0913人間七七四年
2013/12/20(金) 04:13:06.90ID:jzrQm4/nネットワークができていたので、中国語を普通に喋れる坊さんが結構いたみたいだ。
大名や武将の辞世で漢詩形式の物があるけど
中国語で読み上げてみると韻やリズムがきちんと揃っていて
いい出来なんだわ。
まぁ、辞世の作成にそういう連中が一枚噛んでると思うと
なかなか面白いものがあるよね。
0914人間七七四年
2013/12/20(金) 18:14:48.12ID:P2cxD71R大坂冬の役の前に、土井利勝へ書を贈り、
「日頃、御厚恩を受けてはいますが、現在は御勘当の身なので報い奉る期がありません。
いま罪を蒙っていることは天下の人の知る所ですから、偽って大坂へ籠もったとしても、
城中に疑う者はおりますまい。
されば間隙を窺って秀頼公を刺殺し、日頃の御厚恩を報い奉れば、兵を労さずして
天下は平穏となるでしょう。そこで妻子を留めて人質にするつもりです」と言いよこした。
これに利勝は返書して「私は以前から貴所が精忠にして私のないことを知っています。
しかりといえども、貴所が初めより将軍家の親愛を得られていたことを知らない者はいません。
今、わずかな罪を蒙られているとしても、余程の事があるわけではないのですから、
人がどうして疑わないことでしょうか。その時には貴所の志は成し遂げられません。
もしまた、城中が信用して貴所の志が遂げられたとすれば、世間は必ず将軍家がさせなさったと
みなすでしょう。その時には万世に婿を害したとの謗りを受けなさることでしょう。
絶対に人臣の為すべきことではありません」と言いよこした。
重政は書を受け、涙を流してこの事を止めたという。
――『名将言行録』
0915人間七七四年
2013/12/20(金) 18:23:29.29ID:o3xsw6+T0916人間七七四年
2013/12/20(金) 19:45:43.42ID:qxAnJEv4その夜は播磨国茨木に宿をとった。そして奉行に命じて、諸々の士卒、下人、水手に至るまで、
48万人分の兵糧を緒軍に分配した。
黒田如水はこれより以前、既に豊前を息子の長政に譲っていたため、今回は諸将とともに軍勢を率いて
渡海することはなかったが、彼は秀吉の帷幄の謀臣であったため、名古屋の幕下に留め置かれ、
軍の計策・評定に加わっていた。
この時、黒田長政の家臣である母里太兵衛に、秀吉がこのような言葉をかけた
「昔、中国四国、九州の先陣として、数度にわたって勘解由(如水)を派遣した時、その勘解由の
先陣は、いつも太兵衛が勤めていた。その上合戦のたびに、一度も遅れを取ることはなかった。
お前の数々の戦功には、感じ入る次第である。
そして今また、朝鮮に先手として甲斐守(長政)を遣わし、太兵衛もその共を仕るという。
であれば、これまでの戦功に対し、そして今回もその忠勇を励ますため、天下に隠れないほどの規模の
褒美を与えよう!」
そう言って、抜身の鑓十五本を与えた
「これを、今後毎回、出陣に際して持つことを許そう。朝鮮に渡海すれば、これにて手柄をいたせ。
かつて織田信長公はそのお供に、抜身の大太刀を百振持たせていた。それは大変威勢のあるものだった。
太兵衛も、抜身の槍を十五本持たせれば、なお武名を顕すだろう。」
母里太兵衛は元より勇士であったが、今回秀吉によってその名を表され、さらに類なき御恩賞に預かり、
御領地をいかほど貰うよりも勝るものだと、かたじけなく思ったという。
(黒田家譜)
太閤秀吉、母里太兵衛に十五本の抜身の槍を与える、というお話。
0917人間七七四年
2013/12/20(金) 19:58:31.89ID:rCsAE7D70918人間七七四年
2013/12/20(金) 19:59:28.86ID:JkcNTlMY0919人間七七四年
2013/12/20(金) 20:03:45.29ID:Ix0EMOIv0920人間七七四年
2013/12/20(金) 21:05:53.53ID:Dl5YEsqb0921人間七七四年
2013/12/20(金) 23:58:27.52ID:e5TxBGZe>>920
京を出立したその日のうちに播磨に入れるとも思えないし、
播磨に「茨木」って地名があるなんて寡聞にして聞かないから、
多分そうじゃないかな?
0922人間七七四年
2013/12/21(土) 00:09:40.78ID:NiAQdOkr0923人間七七四年
2013/12/21(土) 00:15:26.65ID:w8e5ssZF0924人間七七四年
2013/12/21(土) 00:19:11.89ID:G38eoc5n金色の槍を携えた(アフリカの)カフル人を護衛として連れて参りました。
カフル人たちは赤い衣装をまとい、太鼓と笛を携えていました。
太閤様はカフル人たちに太鼓と笛に合わせて踊らせました。
カフル人たちは元来、この上もなく踊りが好きでしたから、それを見る人々は腹を抱えて笑い転げました。
と申しますのは、彼らは順序も調和もあったものではなく、あっちに飛びこっちに跳ね、
始めたら最後、いくら「もうよい、十分だ」と言いましても踊りをやめさせる方法はなかったからでございます。
太閤様は彼ら一人一人に、前が開き、きわめて繊細な麻で出来た肌着である白いカタビラをとらせました。
私が彼らに、これを賜わった方に尊敬をあらわし、名誉としてそれを頭上にいただくようにと言いつけますと、
彼らはカタビラを、まるでインドの船乗りたちのターバンのように頭にくくりました。
太閤様をはじめ、居合わせた政庁の人々全員が楽しんだ光景でありました。
カピタン・モールは、輝くばかりの出で立ちで訪れましたので、この政庁では彼の噂でもちきりとなって、
人々はあれほどの人間はこの世にいないと語らいました。
人々がそのように噂する動機をもたらしましたのは、たまたまその時、
一人は学者で、もう一人は軍事の高官である、二名のシナの使節が居合わせることになったからでありました。
彼らは七十名あまりのシナ人を従え、2人の使節は白馬に乗り、
従者たちは彼らの流儀で笛とパテーガス(金属製の鉢)を演奏していました。
ですが一行は誰も皆甚だ汚く悪臭を放ち、醜態の極みでありました。
もとより彼らの多くは大麻のような目の粗い胡椒袋のカルサンを着用していましたが、
その所持品はまったくくだらないものばかりで、太閤様への贈り物は携えていませんでした。
一行は数日間滞在して、その間、そこに居合わせていました日本の全諸侯からつねに余興を伴った宴会のもてなしを受けました。
しかしシナ人たちはいとも謹厳に構えて、あたかも誰をも相手にしないように見受けられました。
宣教師ジョアン・ロドリーゲスの手紙より
知ってる人は知ってるだろうが、当時のヨーロッパの衛生状態はかなり悪い
そのヨーロッパ人にここまで言われてしまうシナ人の話
0925人間七七四年
2013/12/21(土) 00:46:53.73ID:OEsnFTJh明皇帝からの勅使に偽装させた部下の謝用梓と徐一貫の事なのかな
ポルトガル人から見ても胡散臭かったってことか
0926人間七七四年
2013/12/21(土) 01:51:15.23ID:Wf+sB5zs16歳くらいに日本に来て、その後豊後の修練院で育った人で、
日本語や日本文化に精通して通訳士として活躍した人だから
感覚的にはあまり西洋人的ではないのかも
0927人間七七四年
2013/12/21(土) 06:29:21.71ID:FRfUXB830928人間七七四年
2013/12/21(土) 06:31:04.11ID:RRRvXOwl関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
0929人間七七四年
2013/12/21(土) 06:33:49.86ID:RRRvXOwl秀吉 兄妹を殺す
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
0930人間七七四年
2013/12/21(土) 07:06:30.61ID:7EUzoZz7後半は既出っぽい、てかいい話?
0931人間七七四年
2013/12/21(土) 07:16:14.36ID:gIR0ZHw0ジョアン・ツヅ・ロドリゲスといえば、『日本語文典』という日本の文法解説書をはじめ、日本に関する著作をたくさん書いた人で有名。
日本語はイエズス会士の中で最もうまかったらしい。
人生的にも、高城・耳川合戦に居合わせたり、島津の府内攻撃で慌てて避難したり波乱万丈。
そのうえイエズス会士の財務担当としても大活躍。家康の貿易顧問にもなったり。
……なんてはなしがWikipediaに詳しく載ってる。
けど、この人のマカオに追放後の人生も非常に面白い。
というのも、明朝の軍事顧問・陸若漢として、砲兵部隊を鍛え、しかもその砲兵部隊を率いて実戦にも参加。
山東登州では、反乱軍と城門の中でやりあって負傷し、崇禎帝から褒美と「登州副将」の官職をもらってる。
明清あわせて、唯一の「夷人将軍」となったとか。
当然、ふつうの漢文もバリバリ書けるので、朝鮮人と文通して布教したりもする。
朱子学もわかっているから、うまく朱子学の教えと噛み合わせながら宣教できた。
ほんと、この人を大河ドラマにしたらめちゃくちゃおもしろいんじゃないかと。
0932人間七七四年
2013/12/21(土) 09:54:29.14ID:7ZB+1H2Q事実は小説よりも奇なりを地で行くような人生だな
大河ドラマ化は無理だろうから誰か小説にしてほしいわ
0933人間七七四年
2013/12/21(土) 13:14:28.55ID:tMED3JMG当時の言語(発音)では何て読(呼)んでたんだろう。
0934人間七七四年
2013/12/21(土) 13:15:24.79ID:MS3TCgbX半径3メートルの価値観でしか書けなくなっちまってるし
現代人の目線なんてどうでもいいんだよなあその時代の空気を感じさせてくれよってはなしで
0935人間七七四年
2013/12/21(土) 13:32:15.25ID:uhzBTJg32時間ドラマを無駄に引き伸ばしてるに過ぎない。
0936人間七七四年
2013/12/21(土) 14:30:26.94ID:/YVOXvI50937人間七七四年
2013/12/21(土) 15:50:45.50ID:7ZB+1H2Q吉田松陰の妹だね
まあ、お江も新島八重も大河までは一般的にはドマイナーだったし・・・
南北朝期とかやれば良いのに
0938人間七七四年
2013/12/21(土) 16:21:22.53ID:zLFoWEHw放送のやり方が時代にあってないんだよ
1話30分のドラマにして12話か24話くらいじゃないと中々時間がとれない
0939人間七七四年
2013/12/21(土) 16:30:23.32ID:N1NbNb/1その方式なら天庵様でもいけるかも
0940人間七七四年
2013/12/21(土) 16:50:39.68ID:23I4s9Xe漢字の音韻学のサイトで調べると洪武正韻箋(明初期)と分韻撮要(18世紀末?)のそれぞれの音韻は
http://ytenx.org/
陸:盧谷切 入聲一屋 祿小韻(洪武正韻箋)、來母 篤韻 陽入 六小韻(分韻撮要)
若:爾者切 上聲十六者 惹小韻or如灼切 入聲六藥 若小韻(洪武正韻箋)、日母 着韻 陽入 若小韻(分韻撮要)
漢:虚汗切 去聲九翰 漢小韻(洪武正韻箋)、曉母 干韻 陰去 漢小韻(分韻撮要)
と書いていてなんだが、正直11世紀初頭の「広韻」と、現代普通話の発音しか今わからないんで、両者併記でごまかす
陸の子音の「盧」「來母」は「広韻」で「l」、母音の「祿」「篤」は「入聲一屋」で「uk」(ただし入声は消失していたので末尾のkはなし)
若の子音の「爾」「如」「日母」は[ɲ]→[ɲʐ]→[ʐ]と変化し、母音の「上聲十六者」は「麻三開」で「ia」、「入聲六藥」「着」は「iak」
漢の子音の「虚」「暁母」は「x」、母音の「九翰」「干韻」は「寒部」で「an」
よって陸若漢は
lu ʐia xan
と普通話の
lu reかruo han
間なんで、ロドリゲス→lu(ルー)、ジョアン→ʐehanかʐuohan(ジョハン)
あたりが適当なんじゃないかと
0941人間七七四年
2013/12/21(土) 19:43:23.88ID:MY8zBmlCやはりストライプは股間の形を出しやすいし王道だな
0942人間七七四年
2013/12/21(土) 19:44:25.22ID:MY8zBmlC0943人間七七四年
2013/12/21(土) 19:47:47.89ID:+l8JmIvQ0944人間七七四年
2013/12/21(土) 23:47:34.86ID:HQ3QBMMd0945人間七七四年
2013/12/22(日) 00:26:43.84ID:a74Qrzqo0946人間七七四年
2013/12/22(日) 00:52:11.22ID:7tBz/44c0947人間七七四年
2013/12/22(日) 00:53:40.48ID:JEtn5g5D戦が起これば下賤問わず女は犯されるわけだから大政所も当然犯されていて、秀吉が他国に行ってる間に産まれていたのだろうな
で人売りしてなかったことにしてたんだろう
0948人間七七四年
2013/12/22(日) 01:03:23.41ID:bg6vnuh0そこは貴賤とか上下にすれば意味合いが通じる
0949人間七七四年
2013/12/22(日) 01:31:52.56ID:t6+WNYPK0951人間七七四年
2013/12/22(日) 02:31:06.42ID:xAuDZmjf0952人間七七四年
2013/12/22(日) 03:20:14.90ID:pzuFyjYV0953人間七七四年
2013/12/22(日) 03:33:52.57ID:F2ZX0Utxスレチだが歴史上は特に重要ではない女性の目を通して
八重の桜と対極の存在である松下村塾メンバー関係者と
その幕末明治を描いて行きたいのでしょう
脚本次第では良い味になると思われ
ちなみに個人的には近年では風林火山と八重はよく出来たドラマだったと思う
0954人間七七四年
2013/12/22(日) 08:13:17.82ID:W62gisPE女性目線とかほとんど功績のない者を主役にしてやる話ではない
義姫くらいだったらOKなんだけどね
0955人間七七四年
2013/12/22(日) 08:29:07.52ID:lMNErofCNHKあたりは、そういうのに弱そうだし
日本のフェミってアメリカのフェミ指導者からはフェミニズムを履き違えているって嫌われてるらしいね
0956人間七七四年
2013/12/22(日) 08:54:38.93ID:vmBYXErI0957人間七七四年
2013/12/22(日) 14:39:49.35ID:6jiOWd0Iされた。表向きはもめごとに介入して家臣団を分裂させたのが処刑の理由であったが、
真の理由は熊谷元直が主君に逆らってキリシタンであり続けたからだった。
毛利家臣団のキリシタン武士の中で熊谷元直に次ぐ実力者は狩野半右衛門という男で
乗馬の名人として知られていた。彼は毛利家の重臣にも懇意の者が多く、奉行の佐世元嘉
とも親しくしていた。
熊谷元直の処刑の翌日、半右衛門は奉行の佐世元嘉から呼び出しを受けた。熊谷一族の処刑の
件も聞かされたので、いよいよキリシタンである自分も処刑されるのか、と覚悟して妻に別れの
挨拶をして出発した。(続く)
0958人間七七四年
2013/12/22(日) 14:48:13.49ID:6jiOWd0I半右衛門が萩まで赴いて佐世元嘉と会うと、元嘉は処刑された熊谷元直の一族が所有していた
馬を半右衛門に預かってもらいたいと申し出た。これは単なる口実で真の目的は事が落ち着くまで
半右衛門を足止めするためである。佐世元嘉は熊谷一族粛清の一件で半右衛門や彼に従う多数の
キリシタンが恐れて出奔してしまう事態に発展するのを心配したのだ。そのようなわけで
半右衛門が山口の自宅に帰るのに数日を要した。
一方、山口では半右衛門が殺されたという噂が流れ、彼の妻の耳にも届いた。彼女は自分にも
処刑の魔の手が迫ることを覚悟し、洗礼名マリアという12歳の娘とともに信仰のために
死ぬ準備を始めた。
そこへ狩野半右衛門の親友で山口の奉行所に勤める男が訪れた。彼はキリシタンではないが、
半右衛門の死の噂を聞き、その妻子の命も危ういと考え、せめて娘の方だけでも救おうと決意して
半右衛門の娘を連れ出して自宅にかくまった。しかし、彼女は父と同様に信仰のために母とともに
死に赴くことを望むと言って強引に親友宅から出て母親のもとに戻り、聖画像の前にひざまずいて
母娘で死の準備を始めた。しかし、その準備の途中で狩野半右衛門が生きて無事な姿で戻ってきた。
誰もが半右衛門を死から甦った人であるかのように迎えた。(イエズス会年報集)
0959人間七七四年
2013/12/22(日) 15:06:17.57ID:+BIP+4YYうわ、詳しくありがとう。手間かけました。
ちゃんと姓名を返してたのなら、三浦按針とは違うんだね。
大陸の国と島国との差なんかな。色々面白いです。多謝。
0960人間七七四年
2013/12/22(日) 15:48:16.14ID:YhDm0bRZ0961人間七七四年
2013/12/22(日) 16:34:15.75ID:LxoTIZlE薙刀で畳を貫通して下の横木まで突き通した、かがり花
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-462.html
0962人間七七四年
2013/12/22(日) 18:55:23.32ID:ZGP5vD1E鍛えてたらしいけどギン千代の影響なんだろうか
0963人間七七四年
2013/12/23(月) 10:22:30.56ID:+tpLCNq/http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4605.html
0964人間七七四年
2013/12/23(月) 23:12:16.02ID:fiYNnWIWニコニコに一龍亭貞友のがあるはず
0965人間七七四年
2013/12/23(月) 23:13:49.63ID:fiYNnWIWやっちまった
0966人間七七四年
2013/12/23(月) 23:36:01.52ID:BZ8Y5Rlo0967人間七七四年
2013/12/24(火) 18:39:14.87ID:3S5L+UmG「確かにもっともではあるが、未だなんとなくやり方があるだろうと
思うので、とくと仲間衆と相談なさって申し出なさい。
仲間衆の相談で極めがたいなら親類衆、または、御自分の家来などへも
相談なさって申し出なさい」と、言った。
その人がそのように相談し、了簡して申し出た時、
利勝は、まことにもっともだと思えば、
「一段ともっともに思う。ぜひともその通りにしなさい」と指示した。
――『名将言行録』
0968人間七七四年
2013/12/25(水) 19:00:02.21ID:mxnu+bBb0969人間七七四年
2013/12/25(水) 19:15:17.03ID:nYAmJCrsttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3314.html
帯刀の人材育成を利勝流にアレンジした感じで
この逸話と合わせて読むと面白いかも
0970人間七七四年
2013/12/25(水) 21:42:52.35ID:XOExiR9t0971人間七七四年
2013/12/26(木) 02:44:29.50ID:+DFDB6aD城内での戦闘には薙刀が扱いやすくて向いてるのかな
0972人間七七四年
2013/12/26(木) 09:06:45.31ID:+qI3mXcu0973人間七七四年
2013/12/26(木) 09:47:59.67ID:PfDwTgJsそのような中、利常は参勤のため小松より出て金沢の浅野屋に宿泊し、そこから出立して
金沢の町端まで来たところに、金鎖橋のかなたに新八が罷り出て、田の際に這いつくばっていた。
前田家中の者達はいずれも「あれは御折檻人ではないか。どうしてここに?」と思っている所に、
利常の駕籠も近づき、これに気がついた。
「あれは澤田新八めか?」「その通りでございます。」「あやつは閉門をさせておいたのに、どうして
罷り出でてきたのか、尋ねてまいれ。」
そこで家臣が新八にこれを尋ねに行くと、
「私は、殿の御在国中には御免して頂けると思い、それを待って閉門していましたが、
お許しはなく昨日参勤のためお駕籠を出立なされました。
そこで、もしかしたら金沢でお許し頂けるかと思いました。
しかし、それも無いのであれば、もはや来年までには頼りも尽きてしまいます。そのくらいなら
死んだ方がましだと思いました。
ですが自害するよりも、御目通に罷り出でて誰かに斬り殺されたほうが御憤りも止んで宜しきはずと
考え、こうして罷り出て来たのです。」
新八はこのように語り、これを利常に伝えると、
「1年閉門させても足のいらぬ奴じゃ!…猿の革の毛巾着を今持っているのか聞いてまいれ。」
そこで尋ねると、「持っています。ここにあります」と、懐中より出して渡した。
利常はこれを御覧になって「新八に、それを下げて供をするように言え」と命じた。
こうして澤田新八は江戸までお供をし、御奉公申し上げた。
思い切ったことをすれば、お許しになることも間々あったのだと、これはこの参勤の時、
同じくお供をしていた塩江半右衛門がお話になった事である。
(微妙公夜話)
0974人間七七四年
2013/12/26(木) 10:41:17.84ID:j+ygRlkQ0975人間七七四年
2013/12/26(木) 11:45:21.74ID:zhwQjVI+0976人間七七四年
2013/12/26(木) 14:22:06.19ID:JEKTRj+x「はい・・・」
「罰金徴集っと。財布だけ返しとくわ」
こういう話かと思った
0978人間七七四年
2013/12/27(金) 15:30:52.27ID:7QXKyFi3内府様は今では、公方様(征夷大将軍)と呼ばれている。これは彼が新たに拝領した官位の名称であり、
その前任者(豊臣秀吉)の太閤の位よりも上である。何故ならこれは、日本の全軍勢の普遍的司令官と
同義語だからである。彼はその位階を、何年も前から名のみの存在であるが、実際の所全日本の
正当な国主である内裏より拝領したのである。
そしてこの位を内裏より受領するため、通過する道路を立派に修復し、道を真っ直ぐにするため多数の家屋を
取り壊させた。これにより政庁に集合させた全ての領主と君公を伴って、華やかに威風堂々と御殿を出た。
彼らは華麗な衣装をまとい、内府様はすこぶる豪華な車に乗って行った。
こうして内裏の宮殿に行き、そこで新しい官位を受理し、昇進したその位に相応しい礼節を以って遇された。
そして、前任者であった太閤が未だ存命中に、その太閤の息子である若君(豊臣秀頼)が適齢に達したら、
自らの嗣子(徳川秀忠)の娘、すなわち公方自身の孫娘と結婚させることが、太閤との間に取り決め
られていたので、今、この若君が12歳になったため、異常な壮麗さと盛儀をもって早速をの婚儀を
実行に移し、そのためにまた日本の全ての領主と君公を集合させた。
そして、そのような結婚においては、結婚の後、人々が贈り物を携えて新郎新婦に祝辞を述べに行くのが
彼らの間の習わしであるので、(日本の全領主が極めて豪華かつ高価な多くの贈り物をもってこの若君を
訪問したが、それはその父(秀吉)によって取り立てられた人たちが、それへの感謝の意を顕すために、
このことに大いに念を入れて行ったのである)
公方もまた25万クルザードに相当する金銀の延棒の贈り物を携えて若君を訪問し、その後、既に与えられて
いるものに加えて、さらに75万クルザードの扶持を加増した。
そして公方は非常に慎重であり、この日本帝国が政治的に変動するかもしれないこと(それは日本においては
ごく頻繁に起こることである)を知っているので、どのような変化があっても、現在の君主政体が
自分の家族と血において永続化することを望み、孫娘を太閤の息子である若君と結婚させただけでなく、
その他全ての、より強大な君公や領主たちと婚姻を通じて結びつくように務めた。
すなわち、ある者には孫娘その他の親族を与え、これによって帝国に何らかの騒擾、あるいは変動が
惹起するような場合には、どんな時でも、彼らがより一層自分に結びつき、彼らが味方することを余儀なく
させようとしたのである。
(16・17世紀イエズス会日本報告集「1603、04年の日本の諸事」)
家康の将軍就任や、秀頼と千姫の婚姻などについてのイエズス会の報告である。
それにしても征夷大将軍が、太閤の位より上だと認識しているのが、ちょっと面白いですね。
0979人間七七四年
2013/12/27(金) 20:01:48.86ID:u1AYQD+D0980人間七七四年
2013/12/27(金) 20:35:42.61ID:ckNw9WHs0981人間七七四年
2013/12/27(金) 21:40:52.48ID:y5jFvOTt0982人間七七四年
2013/12/27(金) 22:42:34.24ID:05Dctnwb最高位で間違いない
0983人間七七四年
2013/12/28(土) 00:33:03.53ID:LzVSiI6f0984983
2013/12/28(土) 00:38:26.58ID:tTuoGuEd↓スレタイ
戦国ちょっといい話39
↓テンプレ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0985人間七七四年
2013/12/28(土) 15:42:38.28ID:m9sYieeKhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
0986人間七七四年
2013/12/28(土) 16:02:34.55ID:lVCaeRxt物には時節というものがある、元服は人としての始まりでもあり大事な事だ。
早々に元服すれば諸人はこれに成人として挨拶するが、その時に若輩である為に
応対に失敗すれば、後々まで不調法者だと思われてしまう。
また遅く元服させれば、前髪がありながら諸事に長けたものに見えるが故に他人
の目には口舌の徒と映り、その批判は後まで残るだろう。
そのような訳で元服にも相応の時期というものがある。体格の良しあしや知恵の
程度に応じて遅くしたり早くしたりするものだ。
人は最初の評判に縛られるもので、元服が早すぎるのも遅すぎるのも時期外れで
良くない。時節を見失うのは親の迷う心から出るものだ。
(翁草)
島田利正の語る元服論
0987人間七七四年
2013/12/29(日) 09:56:27.89ID:Yt4uTbju諸大名の江戸城への出仕日に、林道春が罷り出でて、諸大名に問題を出し、「どうぞ解答を出して下さい」と
言って、様々に語っているのを前田利常が聞いて、道春を部屋に呼び出し、「何を語っていたのか」と尋ねた。
道春はこれに
「今日は1日長くもありますから、出御の前の待ち時間の御慰みにと、一つ問題を出してその解答を
当ててもらおうとしたのです。」
「それはいったい、どのような問題なのか?」
「はい。虎の首に鈴をつけ、千里の野に放った時、この鈴をどうやって取ればよいか、という問題です。」
これを聞くと利常は
「なんだ、それは問題という程でもない。簡単なことではないか」
道春は「いえいえ、なかなか難しい問題ですよ?」と反論したが、利常は
「道春は何を言っておるのだ。最初に、虎の扱いに長けた者が既に出ておるではないか。
虎に鈴をつけた人物だ。ならば、今度もまたその者に鈴を取らせれば良いだけの話だ。」
そう言って笑われた。
道春はこの答えに「さてさて」と大いに感心した様子であったという。
これは脇田九兵衛が語ったことである。
(微妙公夜話)
トンチですね
0988人間七七四年
2013/12/29(日) 10:06:28.03ID:coZqcFCs0989人間七七四年
2013/12/29(日) 10:21:32.04ID:Ei5U78eQ0990人間七七四年
2013/12/29(日) 10:24:21.67ID:coZqcFCs0991人間七七四年
2013/12/29(日) 13:39:00.70ID:spJkqD06この時、岡江雪入道は「只今こそ、夜の明けた心地がします。
勝凱を執り行いなさるのでしょうか?」と申し上げた。
これに家康は「今、従軍している諸大将の妻子はみな敵方に
囚われて大坂にいる。誰もがさぞ心許なく思っていることだろう。
我もまた、そのことを心苦しく思うのだ。
三日のうちには大坂まで押し至り、皆の人質を引き渡して、
そのうえで凱歌は行うべきだ」と言った。
いまだ誰も彼も妻子のことなど思い出す者はいなかったので、
この言葉を承っていずれも盛慮のほどを心肝に銘じ、おそれ多く思った
ということだ。
後年、浪花の役でも凱歌を奏しなかったという。
――『徳川実紀(天元実記、榊原日記)』
0992人間七七四年
2013/12/29(日) 13:45:38.56ID:n5E6Bx3Yますますどこで区切るのかわからなくなる
0993人間七七四年
2013/12/29(日) 14:26:54.17ID:nbxUz1SD0994人間七七四年
2013/12/29(日) 14:42:36.43ID:+Ba7VLdm0995人間七七四年
2013/12/29(日) 14:47:16.92ID:TbGNcQK/0996人間七七四年
2013/12/29(日) 17:35:19.81ID:56Jp5kJMではだめ?
0997人間七七四年
2013/12/29(日) 18:19:12.83ID:DxuISn5I…う〜んw
0998人間七七四年
2013/12/29(日) 18:45:20.30ID:asWR0Bac0999人間七七四年
2013/12/29(日) 18:54:04.90ID:nJ/4Q6eG1000人間七七四年
2013/12/29(日) 19:05:29.51ID:asWR0Bac10011001
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