【平成26年】 黒田孝高総合スレ 3 【大河の主役】
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0001人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:GNajNkDoその知略、勇武は大海を泳ぐ魚の如き自由自在、変幻自在であり、
彼がいなければ秀吉も天下は統一できなかったとも言われます。
秀吉死後、関が原のどさくさに紛れて九州を支配し、天下を狙おうとしたのも
実は野心家である彼のみが成せる所業です。
官兵衛自身はもちろん、その功績、周りの人物、事象などでもおkです!
前スレ
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0109人間七七四年
2013/10/05(土) 00:19:36.74ID:fVeZ+x14いわゆる大河ドラマのご当地が複数あって地域的に分散してる
という理由が大きいのでは
それぞれがバラバラにキャラをつくってる
0111人間七七四年
2013/10/05(土) 19:51:12.72ID:vOyK33YT>香山加賀守はモヒカンっぽい
実在の人物じゃないから。そもそも香山城は官兵衛が陥落させているし。
0112人間七七四年
2013/10/06(日) 00:07:47.81ID:HGdG7+97>>山陽道を御着城内を通っているのに、秀吉が播磨入りした際、御着城を
>>通らずに秀吉一行は姫路城へ直行。
御着城は確かに通っているが、立ち寄らずにスルーしている。
理由は、信長に帰順する際人質を差し出すように言われたが
本来勘兵衛の主君である小寺家から出すべきところ政職が渋って
勘兵衛の息子松寿のちの長政を差し出したため、あえて政職の居城である
御着城を通り過ぎたという理由。そのことは秀吉も十分承知していたから
勘兵衛の内心を慮りながら御着城を通り過ぎたという。
0114人間七七四年
2013/10/07(月) 22:33:02.93ID:OpB0N0QRhttp://www.kobe-np.co.jp/news/hokuban/alacarte/201310/0006399950.shtml
女性向けには牛兵衛が秀逸だと思うんだけどね
官兵衛からのクイズ挑戦状 10/1〜12/25
http://www.hyogo-tourism.jp/shirotabi/
0115人間七七四年
2013/10/07(月) 22:47:53.11ID:ghqWnAOr0116人間七七四年
2013/10/07(月) 22:55:09.55ID:O6S/iCa/0117人間七七四年
2013/10/08(火) 02:05:39.55ID:LUgb0i8y長政が官兵衛にタメ口なのは駄目だろ、キャラ作りやり直せ
0118人間七七四年
2013/10/08(火) 08:22:32.24ID:eI57H/uY0120人間七七四年
2013/10/11(金) 18:19:43.08ID:gqNvkMnj架空の家臣キャラはタメ口だったしな
ただ子が親にタメ口なのは印象悪くするから
コスプレ宣伝隊としてそれはNGだろって話
0121人間七七四年
2013/10/14(月) 20:54:31.29ID:MJGwCgwkhttp://www.nishiwaki-kanko.jp/blog/2013/10/20131006.html
西脇市黒田庄出身のトータス松本さんデザインのゆるキャラ、黒田牛兵衛人気
http://www.kobe-np.co.jp/news/hokuban/alacarte/201310/0006415545.shtml
この漢数字の、「八」とか「一」なんかがくっついてるのは、鼻と口か。腹かと思ってた。
黒田庄和牛なんだから庄兵衛なんかでも良かった気もするな。
http://www.nishiwaki-kanko.jp/blog/images/1006genki02.jpg
西脇市の先輩ゆるキャラの「にっしー(播州織の反物)」は
好きな食べ物が「黒田庄牛、播州ラーメン、黒田庄和牛コロッケ」らしい。食われる。
0122人間七七四年
2013/10/14(月) 23:00:20.47ID:ED3AJC8t>好きな食べ物が「黒田庄牛、播州ラーメン、黒田庄和牛コロッケ」らしい。食われる。
ヤメテwにっしーは可愛い女の子なんだからww
0123人間七七四年
2013/10/14(月) 23:12:26.70ID:lJwFkTQm>この漢数字の、「八」とか「一」なんかがくっついてるのは、鼻と口か。腹かと思ってた。
「八」はヒゲだろう。
0124人間七七四年
2013/10/15(火) 00:15:26.03ID:nr1B2bY70125人間七七四年
2013/10/15(火) 12:05:07.86ID:CiiFsPjRいま九州にある福岡ってところ、あれは元々ただの小さな漁村にすぎないような所だった。
で、福岡という地名は元はいまの兵庫にあって、官兵衛はそこで育った(生まれは近江とか、そういう説もある)。
後に北九州に転封になった時、故郷の播磨福岡にちなんでそこに福岡と言う名前を付けた。
それが今に至る。
46 名無しさん@13周年 2013/10/14(月) 20:31:02.82 ID:ZG/Uerzu0
何倍も兵力持ってたのに勝てず和睦結んでおきながら城に呼んで城井氏を謀殺した外道だよね。 城井氏の呪いは末代まで続いたと。
0126人間七七四年
2013/10/15(火) 12:15:58.16ID:BcFBzr7j0127人間七七四年
2013/10/15(火) 12:54:56.41ID:M4ARDiRd0128人間七七四年
2013/10/15(火) 16:45:17.39ID:uEvG6KXPほぼ脇役だけど
蜂須賀小六と一緒に外交やってたのは良かった
>>125
そのスレ見たけど島津も伊集院を騙し討ちしてる事を棚に上げてるな
> 48 名前:名無しさん@13周年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 20:34:54.38 ID:iDkmZauJ0
> >>4>>46
> 城井一族の恨みは忘れてはいけない。
> 卑怯もいいとこのDQN親子。
> 山内一豊も土佐で無茶苦茶やったくずだったけど。
>
> その天罰か血自体はとっくに途絶えて、家名だけしか残ってない。
> 今の当主も島津だの徳川からの養子の子孫。
0130人間七七四年
2013/10/15(火) 17:45:15.38ID:uDrUtusF0131人間七七四年
2013/10/15(火) 22:39:09.14ID:qEq8Mrtn秀吉の死後速攻で徳川にのりかえたのは事実ではある
他の豊臣恩顧の大名と比べても秀頼や豊家に対する思い入れを窺わせる
事跡とか残ってないし
そういう意味では身も蓋もなく現実的な家なんだろな
0132人間七七四年
2013/10/15(火) 22:52:15.80ID:wpVwqDWy0133人間七七四年
2013/10/16(水) 08:39:05.76ID:pZFvry+Mと秀吉に言ったのに
「光秀を討てば、天下がとれますよ。御運が開けましたな。」
と発言したことにされている、世間に誤解された人。
0134人間七七四年
2013/10/16(水) 21:04:52.34ID:yIg5aA8nその内容がかなり衝撃的だったので書いとく
「近年、豊前国に居住した官兵衛は 悪 逆 非 道 の人 である。
神明に背き、人心を妨げ、ほしいままに振舞っている。吉統はかねて諌める
気持ちがまったくなかったわけではないが、官兵衛の豊前での非道は歴然としている」
とあって、続いてあいつが豊後に攻めてくる疑いがある。
もし祈願成就(官兵衛を討つこと)したなら宇佐郡一円を神領として
寄進すると記している(柞原八幡宮文書)らしい
豊前で大友家を怒らせるような何か悪行を官兵衛がしたらしいんだけど
真正面から「悪逆非道」と書かれて本気で死ねばいいと祈願されているのは
ちょっとすごい
0135人間七七四年
2013/10/16(水) 22:08:49.04ID:43ok5vj4その忙しい時期に何を言ってるんだ
まあ島津戦でも唐入りでも前線見捨てて逃げた人なら
この程度の騒ぎは日常茶飯事なのかもしれないが
0136人間七七四年
2013/10/16(水) 22:30:36.42ID:zssU+MP/0137人間七七四年
2013/10/17(木) 11:30:39.23ID:yxrj5b2jという理由を挙げてる。でも具体的にはよくわからん
もともと豊前は長い間大友領だったから
黒田の豊前入り後も大友家の家臣のなかには牢人として豊前に残った者も
多いだろうし、城井氏をはじめとする豊前国人の一連の一揆に参加していても
不思議はないけどどうだろね
0138人間七七四年
2013/10/17(木) 14:35:45.25ID:vo/UBaTz城井氏はもともと大友家に臣従してて(城井鎮房の「鎮」は義鎮から拝領)
しかも一門にあたるわけだから、そら吉統からすれば騙し討ちで
叔母ともども城井氏をほぼ皆殺しにした黒田家は「悪逆非道」で討ち果たしたい
と願っても、それはそれで当然という気はする
0139人間七七四年
2013/10/17(木) 19:57:38.47ID:HBv403UV壁の血しぶきが取れないので壁を全部赤色に塗り込めた寺だっけ?
そんな壁の前に立ったらさぶいぼ立ってしまうw
0141人間七七四年
2013/10/18(金) 20:25:42.70ID:txnWQM9U黒田節の名槍「日本号」モニュメント“復活” 飯塚市東町商店街 [福岡県]
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/46855
飯塚市周辺の黒田官兵衛・長政、ゆかりの地マップ(PDF)
http://www.kankou-iizuka.jp/public/kanbemap.pdf
小豆島の新スポット・天狗岩丁場跡 黒田官兵衛ゆかりの史跡
http://www.travelnews.co.jp/special/west/13/kagawa/05.html
黒田官兵衛「広報マン」へ勉強会 福岡・行橋市
http://www.asahi.com/area/fukuoka/articles/SEB201310160036.html
西脇市 黒田の里 官兵衛まつり
http://www.k-denku.com/%E5%AE%98%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7%EF%BC%91.JPG
http://www.k-denku.com/%E5%AE%98%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7%EF%BC%92.JPG
黒田官兵衛が一時居城 篠ノ丸城跡:立体画像化 宍粟市、航空レーザー測量に成功 「史跡指定目指したい」
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20131017ddlk28010387000c.html
官兵衛ごめん…幽閉された城のあった伊丹市が謝罪、姫路市と友好交流協定を締結
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131017-00000661-yom-soci
0142人間七七四年
2013/10/18(金) 21:35:13.73ID:upJkQGr8>官兵衛が幽閉中に眺めていたとされる藤の木を植える。
小寺「藤」兵衛政職にハメられたのに、官兵衛が藤の木を見て心を和ませた等とは信じがたい。
なお、小寺家の家紋は藤巴。
0143人間七七四年
2013/10/18(金) 21:45:30.22ID:txnWQM9U神功皇后の三韓征伐の帰りに新羅の王子が草案を建てたという由来を持ち
既に衰退していたようだが1578年に官兵衛が先陣を務める秀吉軍に全山焼き討ちされたらしい。
つまり、第二次上月城の戦いの最中に反旗を翻して足利・毛利方についた別所長治に呼応して、
書写山を本陣とした秀吉軍に返り討ちにあったと言うことだろうか。
0144人間七七四年
2013/10/18(金) 22:11:13.27ID:n8s7mCt7自分ちの家紋に因む花見て和んでも別に不思議はないし
小寺藤兵衛政職が気に入らないのなら姓を黒田に戻した時に
家紋も小寺の藤巴紋は捨てて黒餅紋1本にしてるだろ
0145人間七七四年
2013/10/20(日) 06:18:02.34ID:2e3ykfVJ渡邊大門氏の中経社から7月末出版の「黒田官兵衛の謎」読んで
出版社の校正のお陰もあったりするのか意外と面白かったけど
キャリアが違うから仕方ないんだろうけど永禄12年に小寺が織田に降ったとか
本山先生の青山の戦いの記述と比較したりするとおかしいなって部分が幾つかあったな。
その後にまた講談社から『黒田官兵衛―作られた軍師像』というのを出版しているけど
レビュー読む限り内容はほぼ同じみたいだな。何処まで補完されているのかな。
最近ではルイス・フロイスの方からも調べているみたいだけど、前書には引用無かったな。
本屋で一緒に『黒田官兵衛〜乱世を水の如く行きた最強軍師〜』というムック本も並んでいた。
http://www.sansaibooks.co.jp/wp-content/uploads/2013/09/hyousi_hp1.jpg
『月の武将 黒田官兵衛』『鏡の武将 黒田官兵衛』の上田秀人監修となっていた。
大河脚本の前川洋一氏のインタビューが巻頭掲載だったので
大河がこういう脚本になる可能性もあるのかな?
0146人間七七四年
2013/10/20(日) 06:44:28.45ID:2e3ykfVJ青山の戦い前後の資料が出るたびに織田方と渡り合った官兵衛さんマジぱねぇ度が天井知らず。
織田と毛利に挟まれてこれだけ大規模にやり合ってたって事は
三好氏とももっと積極的な協力関係にあったのかな?
当時は小寺の家名って想像されているよりも各勢力に知られていたんじゃ、
村重や半兵衛などにより小寺が調略出来た時には織田方は心底ホッとしたんではないだろうか。
0147人間七七四年
2013/10/20(日) 11:53:55.96ID:t4/juMNH>三好氏とももっと積極的な協力関係にあったのかな?
小寺氏は、浦上村宗に播磨を追われた際、三好氏の援助を受けていた。
このため、阿波の三好町に小寺の感状が残っている。
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/srch/srch_arch_detail.php?pno=1&no=%EF%BD%B2%EF%BD%B8%EF%BE%8100084000
また、大物崩れで細川高国&浦上村宗が敗死した際も、小寺&赤松本家の赤松晴政は、細川晴元・三好方
として参戦している。
>当時は小寺の家名って想像されているよりも各勢力に知られていたんじゃ、
小寺政職あての将軍義昭の命令書が残っている。どう見ても幕府の敵w
青山合戦の時の播磨侵攻は、赤松政秀救済&小寺政職掃討を目的とした出兵。
>村重や半兵衛などにより小寺が調略出来た時には織田方は心底ホッとしたんではないだろうか。
信長に屈服したというのが実態だと思われる。
なお、半兵衛は小寺の調略には無関係。
0148人間七七四年
2013/10/20(日) 21:36:00.59ID:2e3ykfVJ三好が健在だった頃の小寺も、もっと分かってきて欲しい。
小寺が長らく三好派だった事が、後に将軍義昭と対立した信長に付くことや、
本能寺の変後に秀吉を天下人に押し上げることを、
官兵衛にためらわさせなかった性格形成への大きな要因の一つだろうか。
>信長に屈服したというのが実態だと思われる。
その根拠としていた織田の加勢による赤松政秀の浦上内蔵助討伐の、
内蔵助が宗景の事なら、信長と義昭が対立する頃まで健在で
一方で政秀は没落しているってのが通説だと思うけど、この辺りとの整合性はどうなんだろう?
取れてるかどうかで屈服か和睦かの色合いが変わりそう。
>なお、半兵衛は小寺の調略には無関係。
既に秀吉が播磨方面の軍団を担当してたんだよね?
半兵衛が宇喜多氏の備前八幡山城を調略していることから
外交官として活動していたのも事実でいいのかな?
もちろん半兵衛が対小寺の外交官だったなんて史料も無いんだろうけど。
0149人間七七四年
2013/10/21(月) 19:01:24.51ID:/AY/4IBa特に重大なイベントの一つはやっぱり三木合戦になる?
それとも数あるイベントの中の一つでしかないのか
手広くやるとキリがないので三木合戦をつきつめたい
週末早速三木城へ行って隣の図書館で文献をあさりまくる
0150人間七七四年
2013/10/21(月) 23:05:11.92ID:Rh002OnS黒田的には華々しい戦果かもしれないけど
結局のところ一時的・局地的な勝利に過ぎないわけで
「信長の中国計略を小寺(黒田)が阻んだ」とかいう大層な話では
まったくないと思うわ
織田が本格的に播磨攻略に着手するのは時期的に天正年間に入って
しばらくしてからであって、青山の戦いの後、織田は他方面での
軍勢の展開で忙しくなったので、西播磨の小寺あたりは地理的に
しばらく放置されただけというのが実態に近いと思う
0151人間七七四年
2013/10/21(月) 23:56:28.44ID:2wdUnmkwあるいは織田の美濃攻略以降の快進撃を、最初に止めたのが、黒田という可能性もあるのか。
0152人間七七四年
2013/10/22(火) 00:15:18.71ID:AdEqsvXe黒田スレで言うのもアレだけど
ちょっと黒田を買いかぶりずぎw
0153人間七七四年
2013/10/22(火) 03:41:17.97ID:DOnyL0rnそう言う場合は、買いかぶられているのは文章的に、織田って事かな?
それで、織田の快進撃を止めたのは、具体的には何処との何の戦い?
0154人間七七四年
2013/10/22(火) 11:32:25.83ID:nFuPFw0B青山の戦いで織田の快進撃が止まったわけでもない
戦い自体はあくまで黒田対赤松政秀の局地戦であって
信長が派遣した織田の本隊と戦ったわけじゃない
赤松が織田方(当時は織田=足利義昭方)だからって
じゃあ黒田が織田に勝ったって言えるのか?ってこと
重要なのはこの頃は信長がまだ義昭を推戴している時期なので
信長は赤松・小寺と険悪になった義昭の要請で播磨に派兵しただけであって
本格的な播磨平定・中国攻略はまだ織田家としては計画にのぼってない
いわば将軍への義理で派兵してるわけで、すぐに西播磨に派遣した池田や
羽柴を播磨から引き上げたのはそういう理由。別に黒田が赤松に勝ったからじゃない
実際東播磨の別所はこの時すでに織田方になってて、小寺は圧迫されてる状態
だから小寺・黒田も数年後に遅ればせながら織田に臣従せざるを得なかった
そういう意味では青山の戦いってそれほど重要なのかなぁ、と
毛利vs織田の中国攻略というより大きな局面に影響をあたえたという点では
小寺が織田に臣従した後、天正5年の英賀合戦の方がずっと重要だと思う
この勝ちで毛利の第1次の東上計画の足止めされ時間を稼げたわけだから
0155人間七七四年
2013/10/22(火) 11:37:27.09ID:2z39hrcA黒田と北畠で止めたというのが正解であろう。
播磨・但馬侵攻と同時期に信長は伊勢侵攻をしているが、攻城戦に失敗して長期の包囲戦を
余儀なくされている。
播磨と伊勢の二正面作戦を展開している間に、三好がイロイロ動き出して播磨撤退という流れ。
宇喜多直家が信長についていた頃なので、薄い連合体として、備前まで信長の勢力圏が
つながった可能性があるが、それを断ち切ったという点で意味があると思う。
>>150
中央で大きなイベントが起こるたびに、織田方の別所が小寺を攻撃している。
別所が小寺を攻めきれなかった(=官兵衛が防いだ)から、織田の勢力圏に
ならなかった。
0156人間七七四年
2013/10/22(火) 20:58:10.50ID:BSyIhQKg単に昔から敵対していた赤松(政秀)との抗争を続けていたら
こじれて将軍を敵に回すことになって
結果的に義昭の命で信長(についた別所・赤松)と戦う破目に
なっただけじゃないの?
当時毛利と織田は表面的には友好関係を維持してる時期だし
この時点で小寺が反織田を掲げる明確な理由って特にない気がする
逆にいうといち早く織田に接近した別所の方が
この時点では小寺(黒田)より時流を読めていたんじゃないか?
0157人間七七四年
2013/10/22(火) 22:06:12.12ID:N+BmMaZo1 小寺は親三好派。
2 敵対する龍野赤松と別所が親織田。
もう少し後の時点なら
3 小寺政職が本願寺門徒&領民に門徒多数。
>この時点では小寺(黒田)より時流を読めていたんじゃないか?
別所は畿内(摂津)に隣接している分、中央の潮流に敏感。
0158人間七七四年
2013/10/22(火) 22:23:19.44ID:cfBa7BNK0159人間七七四年
2013/10/22(火) 22:38:34.18ID:BSyIhQKgそうそう、もともと別所も小寺も赤松の庶流なわけで
この時点では「打倒織田!」という目的より
昔ながらの播磨内部での抗争の延長で戦ってる部分が多いと思うのよ
別所が畿内に近い分敏感なのはそれはそう
もっともお隣の備前西部の宇喜多は信長の上洛要請で指名されてないのに
「備前衆名代」を名乗って速攻上洛して臣従してるから一概には言えないけどね
ただ長慶以来、東播磨は三好に度々侵攻されてるので
そら別所は三好の敵である織田につくのは当然と言えば当然ではあるけど
むしろ小寺の場合、家老の山脇六郎左衛門は早くから親織田派で
信長の上洛=臣従要請に応えるべきだと主張したのに家中が割れて
結局まとまらなかったのが大きい。この時点では黒田孝高は反対派で
織田派の山脇を主君に謀反の疑いありと密告して、政職の命で山脇を謀殺してる
山脇は黒田の前に姫路城主をつとめた有力な家臣だから
小寺家の内部で信長の上洛要請をめぐっていろいろ権力闘争があった模様
0160人間七七四年
2013/10/22(火) 23:59:53.07ID:QbZ5Ht0t織田に取っては播州平定は優先事項としたくは無かったかもしれないが
織田の推戴する足利義昭としては、赤松政秀の娘を側女とした事もあって、優先事項だったのではないかな?
織田は結局、浦上宗景と小寺官兵衛を止められず、
備前軍記によると元亀二年に、備前、美作、播磨の三カ国の朱印状を浦上に下している。
(ウィキだと天正元年に下した事になっているが、どちらだろう?)
>>155
織田の北畠戦はもう少し後だな。
そして信雄を養子に送り込んでいる。
0161人間七七四年
2013/10/23(水) 01:01:40.97ID:Pnq+6vzc「信長が宗景の実力を認めざるを得なかったので朱印状をだした」
というのは実際の経緯から考えて明らかに違う
播備作の3カ国の朱印状は「芸州(毛利家)に対して進ず」と明記してあって
「毛利家の承認のもとに、浦上宗景に対して所領を認める」という
実に中途半端な内容なんだよ
この朱印状自体、実は宗景側から熱心に懇願して信長に書いてもらったもので
信長は朱印状と引き換えに法外な金銭を宗景に要求した、と記した安国寺の書状が残ってる
この時点では信長は毛利との関係悪化を望んでいなかったので
頼まれて浦上に朱印状を与えたけど、こういう但し書をつけたわけ
0162人間七七四年
2013/10/23(水) 01:03:57.95ID:Pnq+6vzcそれは宇喜多直家という実に面倒な家臣が実質的には備前・美作の大半を
すでに支配していたので、宗景としては信長という中央の「公儀」の力を借りて
直家くんを抑えようとしたのよ
すでに宇喜多は毛利に臣従してるので、直家は直家で鞆の浦の将軍・
足利義昭というもうひとつの「公儀」によって支配を正当化しようとして
両者が対立したということ
0163人間七七四年
2013/10/23(水) 01:07:00.18ID:Pnq+6vzc宗景は毛利輝元にも助けを求めたけど、毛利はあっさり直家を支持
結局天神山城落城で浦上宗景終了のお知らせの流れになるので
むしろ信長の朱印状は藪蛇だったわけだけど
0164人間七七四年
2013/10/23(水) 07:40:41.16ID:E1grTpOk>そうそう、もともと別所も小寺も赤松の庶流なわけで
小寺は赤松の譜代の家臣で、別所は赤松政則の代に成り上がった一族なので
少なくとも小寺には、別所が同じ赤松庶流という意識は無いと思われる。
>織田に取っては播州平定は優先事項としたくは無かったかもしれないが
但馬平定は優先事項だったと思う。
堺衆の利権の根源の生野銀山を押さえたことで、反信長派の堺衆は屈服、
生野銀山の利権は親信長派の今井宗久に移っている。
今井宗久の口添えで復権した但馬の山名祐豊が尼子残党(生野銀山の開発は
尼子系の鉱山師がやっている)を応援し続けたことで、毛利との対立が深く
なるという副作用もあったけど。
0165人間七七四年
2013/10/23(水) 13:18:35.14ID:3RSs276t織田、毛利、宇喜多などの「公儀」側の勢力との和睦の証として、領国化の朱印状を求めるのも、
領国化の朱印状を貰った大名が、「公儀」に対して大金を「納税」するのも当然の事じゃないのかな?
>>162-163
むしろ浦上側の山中鹿介たちの方が活発で、
あまつさえ三村、大友たちと毛利包囲網を構築する始末。
宇喜多直家や小早川隆景の才覚かで覆されてしまったようだが。
0166人間七七四年
2013/10/23(水) 17:54:11.45ID:E1grTpOk数か月前まで、将軍と信長の二つの「公儀」が並列し、かつ将軍=信長(表面上のみだが)
の時代に和睦をしてもらいながら、信長の方に納税した(=公儀と認めた)という事は、
信長的には重要ではないかいな。
0167人間七七四年
2013/10/23(水) 19:06:04.63ID:vzGRM7t0政秀が降伏して信長から三カ国朱印状を貰った以上は敵対する理由も無いしな。
まさか宇喜多と小寺から反感買って明石に内応されるとは予想外だったのだろうが。
0168人間七七四年
2013/10/23(水) 21:46:35.11ID:om5gk5ZG宗景としても直家の反発は予想してたはず
信長から朱印状をもらった時点で、浦上宗景が実効支配してる地域は
天神山周辺の備前東部の地域にすぎないのでいわば詰んでる状態
この前後、宗景は備前の国人領主に知行宛がい状を乱発してなんとか
自分の味方につけようと必死の展開を試みるけど
謀反前の段階で備前の国人の大半は直家を支持してるので無理ゲーだった
むしろ毛利の反発の方が予想外だったかも
ただ信長が実際にどこまで備前や播磨の統治の実態を知っていたのか
知ったうえで本気で朱印状だしてたかについては大いに疑問ではある
あとで反故にした約束も多いし結構適当だよね。いろいろ空手形つかませてる
毛利から織田方に備中・備後の所領と引き換えに寝返らせた
備中の三村元親は捨て殺しで、毛利・宇喜多に挟撃されて三村一族滅亡
3カ国の朱印状を与えた浦上宗景にも、宇喜多・浦上の戦いに際しては
荒木村重に天神山に兵糧を運搬させただけで実質的な援軍を派兵せず
見捨てたも同然だったわけだし
0169人間七七四年
2013/10/23(水) 21:53:13.79ID:E1grTpOk天正元年時点では、播磨西部も領有している。
旧赤松政秀領有地域も実効支配しているはず。
0170人間七七四年
2013/10/23(水) 22:13:12.97ID:om5gk5ZGそうか、西播をすっかり忘れてた。自分は備前のことしか頭になかったわ
黒田スレなのに備前の話ばっかりですまんね
そろそろ浦上スレか宇喜多スレに移った方がいいかなぁ
0171人間七七四年
2013/10/24(木) 01:01:06.34ID:JfRkwgDpこの山脇六郎左衛門の暗殺って…
やっぱり黒田にとって目障りな家中の政敵で重臣を謀反の濡れ衣着せて
密告して上意討ちに名を借りて殺しました!ってことだよな、実態としては
「官兵衛より時期的にずっと早い段階で織田につくよう主張した小寺の家老」って
「播磨で織田の実力をいち早く見抜いて味方したのは黒田だけ!官兵衛さすがよな」
という一般的な先見の明に富んだ官兵衛イメージと齟齬をきたすから
存在自体が不都合からか、ほとんどの小説や書籍でスルーされてる気がする
0172人間七七四年
2013/10/24(木) 04:56:14.11ID:xOoNdbzt除いては平和で、官兵衛は天下の計略の構想を練りつつ、秀吉旗下で活躍する
竹中半兵衛の活躍を憧れの目で見ている...という設定になっている。
NHKの大河ドラマでは、青山合戦は描くし、印南野合戦も描くとは思うが、
合戦の背景をすっとばして、単なる土豪の抗争にしてしまうと思う。
信長・義昭と絡んだ抗争なのに、合戦に至る背景をかけないから、天下の抗争を
横目に、能力を持て余して土豪の小競り合いを続ける官兵衛みたいな話になる訳で...
0173人間七七四年
2013/10/24(木) 15:58:09.72ID:5iy68cHU輝元を秤にかけた上で、信長に臣従したのは事実なのかな?
永禄8年(1565年)5月、三好・松永久秀が足利義輝を打つ(永禄の変)。8月、松永頼長が戦死、丹波を失う。
永禄9年(1566年)、三好三人衆と久秀の対立。
永禄10年(1567年)8月、赤松政秀が娘を足利義昭に送るものの、小寺に捉えられる。
永禄11年(1568年)2月、政秀の娘が開放される。9月、義昭を奉戴して織田信長上洛、三好を破り、池田勝正を降す。
永禄11年(1569年)1月、三好が義昭を襲撃するが失敗(本圀寺の変)。
7月、木下秀吉が2万の兵で生野銀山を制圧、山名追放。
小寺が政秀を破る(青山の戦い)。
元亀元年(1570年)4月、信長の朝倉攻めが浅井の寝返りで失敗。
6月、池田家臣の荒木村重が三好に寝返る。
9月、三好長治・篠原長房・本願寺が信長を破る(野田城・福島城の戦い)。浦上宗景が別所の三木城攻め・政秀殺害。
12月、信長と包囲網側が和睦。
元亀2年(1571年)2月、信長が佐和山城の磯野を下す。
5月、宗景・長房が備前児島で毛利を破る。
6月、毛利元就が死去。
8月、村重が足利家臣の和田惟政を破る(白井河原の戦い)。
元亀3年(1572年)、織田は浅井・朝倉に対して優勢。
10月、信長が義昭に詰問状。浦上と毛利が和睦。
12月、武田信玄に織田・徳川が敗れる(三方ヶ原の戦い)。
元亀4年(1573年)1月、義昭が信長に対して挙兵。
3月、村重と細川藤孝が義昭から信長に寝返る。
4月、信玄が病死。小寺が別所を退ける(印南野の戦い)。
5月、内紛により長房が三好長治に攻められ2ヶ月後に戦死。
7月、義昭追放。9月、浅井滅亡。
11月、義昭を庇護した三好義継が戦死(若江城の戦い)。
12月、信長の計らいで宗景が別所と和睦、三カ国守護の朱印状を受ける。
天正2年(1574年)3月、宇喜多が毛利と結び、浦上宗景の戦い(天神山城の戦い)。
4月、信長が三好残党(三好康長・池田勝正)・本願寺と交戦(第一次高屋城の戦い)。
5月、小寺が別所を退ける(置塩城の戦い)。
9月、長島一向一揆全滅。
11月、三村元親が毛利と手切れ、二カ国守護の朱印状を受けて信長・宗景と結ぶ。
天正3年(1574年)2月、信長が毛利との尼子討伐の約束を反故。
4月、信長に三好残党・本願寺が敗れる(第二次高屋城の戦い)。
5月、信長が武田勝頼を破る(長篠の戦い)。
6月、三村元親が宇喜多・毛利により敗死。
7月、小寺孝高が岐阜城で信長に謁見。
9月、宗景が宇喜多・毛利に敗北。
天正4年(1575年)2月、義昭が毛利を頼り鞆の浦に移る。
0174人間七七四年
2013/10/24(木) 20:03:57.69ID:5iy68cHU天正2年(1574年)2月、織田信長が毛利輝元との尼子討伐の約束を反故。
天正3年は1575年。
こうやって見ると、三好氏が信長・輝元に対しての挽回が困難になったところで、
信長と輝元との間の溝が深まり始めたので、輝元に付こうという意見も多かったが、
孝高が信長に付くことを押し切ったとなるのだろうか?
宇喜多対三村
永禄2年(1559年)、宇喜多直家は、浦上宗景の命に依り、義父の沼城主・中山信正を討ち、後を継ぐ。
永禄8年(1565年)5月、三村家親は、毛利元就との月山富田城・尼子義久攻めから外れ、直家・宗景と戦闘。
永禄9年(1566年)2月、家親が直家の刺客に暗殺される。11月、尼子義久が元就に降伏。
永禄10年(1567年)7月、直家が家親の子・三村元親を破る(明善寺合戦)。
0175人間七七四年
2013/10/24(木) 20:27:35.91ID:xOoNdbzt>元亀元年(1570年)4月、信長の朝倉攻めが浅井の寝返りで失敗。
>6月、池田家臣の荒木村重が三好に寝返る。
この直後に姉川の合戦が勃発。というより、浅井・朝倉と織田との対決の中で
の織田方勢力の切り崩し。
摂津の織田勢力が大打撃を受け、孤立した別所を浦上・小寺連合軍が攻撃。
>7月、小寺孝高が岐阜城で信長に謁見。
黒田家譜では岐阜城となっているが、激しく疑問。
7月に信長は上洛し、別所等と面会している。おそらく別所と同じ時期に
会ったと考える方が自然だろう。
ちなみに天正3年4月5日付けで信長は小早川隆景に「播州別所の件を承った」こと
を返答している。何を承ったのか非常に気になる。
0176人間七七四年
2013/10/24(木) 22:05:13.85ID:/GSknnVZおそらく永禄年間の小寺・黒田の対織田・対将軍家の戦いを再評価しよう
ということなんだろうけど
どこか過大評価気味というか議論の前提に根本的なところで違和感がある
「畿内で展開される天下をめぐる抗争(三好・織田・将軍家)が
地理的に隣接する播磨にも当然波及して、播磨の大小名や黒田のような
土豪も影響を受けた」やはりそれが実態に近いのではないかと
それは当然と言えば当然で、これまでも播磨守護職の赤松や別所・小寺は
畿内の足利将軍家や細川・三好の動向に大きく左右されてきた
逆に中央(京・畿内)の動向と地理的に無縁でいられるわけがない
しかし、それは黒田や小寺が「天下」をめぐる何らかの構想や戦略をもって
積極的・主体的に戦ったわけではないと思う
つまり織田との抗争も、これまでの播磨国内での敵対関係上、別所・龍野赤松らと
争っていたら、先に相手が織田方についたので、結果的に小寺・黒田は
反織田・反公方になってしまっただけで、特に戦略的な選択ではないのでは?
という疑問
0177人間七七四年
2013/10/24(木) 23:49:22.52ID:5iy68cHU赤松本家重臣の小寺は三好派の中でも小大名ながら強力で
三好本家が没落し織田が別所や波多野などを後援する中でも勢力を保ち続ける。
新たに織田と毛利の間に溝が出来始めると
そこで積極的に織田に味方するようになり対毛利戦線で活躍するようになる。
今のところこんな印象も持てるがどうかな?
0178人間七七四年
2013/10/25(金) 01:47:43.41ID:y83+Gl1k誕生しなかった、というのは結構大きいかも
織田の中国攻略が本格化する天正年間のはじめの時期に
播磨を統一するような大名があったらかなり毛利・織田の戦いの様相も違ってきたはず
可能性としては別所が一番高かったのに、もったいないなぁと思う
0179人間七七四年
2013/10/25(金) 06:23:40.53ID:2u+Dc/48>守護の赤松が衰えたのち、ついに播磨は一国を実効支配する大名が誕生しなかった
正確に言うと、浦上村宗が播磨・備前・美作と摂津の一部、100万石を支配したので、
一度は統一されている。浦上村宗の戦死で、すぐに崩壊したけど。
浦上村宗の覇道と没落の過程で、播磨の大名は八墓村も真っ青なドロドロの関係に
なってしまっており、修復は困難な状態になっている。
その第一歩が官兵衛の妹と浦上政宗の息子との結婚のはずだった。
官兵衛の妹(NHKでは初恋の人らしいけど)が室津城で殺されたのも、元をたどれば
浦上村宗が原因。
ちなみに浦上村宗(浦上政宗・宗景兄弟の父)が主君の赤松義村(赤松晴政の父、
赤松晴政は赤松政秀の舅)を幽閉・殺害したのも同じ室津城。
0180人間七七四年
2013/10/25(金) 06:42:00.47ID:2u+Dc/48>しかし、それは黒田や小寺が「天下」をめぐる何らかの構想や戦略をもって
>積極的・主体的に戦ったわけではないと思う
もちろん、黒田や小寺が主体的に天下の構想や戦略に関われるはずがない。
その一部に関わらざるを得ないという関係だけ。
ただ、小説なんかで単なる土豪の抗争扱いされてきた戦いが、天下の構想・戦略
の一部であったことは、再評価されるべきだと思うよ。
>つまり織田との抗争も、これまでの播磨国内での敵対関係上、別所・龍野赤松らと
>争っていたら、先に相手が織田方についたので、結果的に小寺・黒田は
>反織田・反公方になってしまっただけで、特に戦略的な選択ではないのでは?
小寺家は、既に三好方を応援している以上、足利義昭を援助することは立場上できないだろう。
小寺家文書によれば、かなり早い時期から義昭から何度も書状を貰っているが、その上での選択
なので、戦略上の選択だと思う。
足利義昭は、父親の足利義晴が赤松義村(赤松晴政の父)に播磨で養育されていた関係があったり、
播磨に疎開していた冷泉家を通じて歌の関連で細川藤孝が播磨に縁故(赤松政秀は連歌に精通、
冷泉家とも学問的な関係も深い)があったりするので、その辺も影響しているのかもしれない。
赤松政秀の娘を側室にするというのは、もともと強い関係があったからかもしれない。
0181人間七七四年
2013/10/27(日) 00:39:23.03ID:0XAlkfIS0182人間七七四年
2013/10/27(日) 07:23:15.63ID:PLmb1zrIhttp://www.oita-press.co.jp/localNews/2013_138249284937.html
北条の宿はくらんかい:加西で、100年ぶり後藤又兵衛展。
http://mainichi.jp/feature/news/20131025ddlk28040356000c.html
0183人間七七四年
2013/10/27(日) 15:08:19.55ID:LZbmQse5官兵衛グッズのテントの横に城井鎮房のテントが並んでたわ
0184人間七七四年
2013/10/28(月) 10:30:24.20ID:GgJKx8ah黒田如水所用だってさ。
でも、これ明らかに江戸時代中期の構成なんだよね。
この出品者は明らかに時代違うものを信長のモノだとか言ったりで、詐欺骨董やバロス
0185人間七七四年
2013/10/28(月) 12:06:51.25ID:ApYvH+Oe0186人間七七四年
2013/10/29(火) 13:55:50.45ID:YV/b2wle六角「さあ来い織田ァァ! オレは実は一日攻められただけで落ちるぞオオ!」
(ザン)
六角「グアアアア! このザ・ナンコウフラクと呼ばれた四天王の観音寺城六角が・・こんな小僧に!
バ・・バカなアアアアアア」
(ドドドドド 六角「グアアアア」 )
三好「六角がやられたようだな・・・」
岩成「フフフ・・奴は四天王の中では最弱・・・」
池田「東海衆ごときに負けるとは畿内衆の面汚しよ・・・」
織田「くらええええ!」
(ズザ)
三好・岩成・池田「グアアアア」
織田「(ハア ハア)やった・・・ ついに四天王を倒したぞ・・・ これで平島公方のいる居城の扉が開かれる!! 」
(キイイイイイイ 平島公方「よく来たな織田信長・・・ 待っていたぞ・・・」)
織田「こ、越水城が居城だったのか・・・! 感じる・・・平島公方の武力を・・・」
平島公方「織田よ・・戦う前に一つ言っておくことがある
お前は私を倒すのに「管領、丹波衆の力」が必要だと思っているようだが・・・ 別になくても倒せる」
織田「な 何だって!?」
(ゴゴゴゴ)
平島公方「そして囚えていた覚慶側女の龍野赤松の娘が痩せてきたので、
小寺に解放させておいた あとは私を倒すだけだなクックック・・・」
織田「 フ・・・上等だ・・・オレも一つ言っておくことがある
このオレに妹婿の同盟者が援軍に来るような気がしていたが 別にそんなことはなかったぜ! 」
平島公方「そうか」
織田「ウオオオいくぞオオオ!」
平島公方「さあ来い織田! 」
織田の勇気が世界を救うと信じて・・・!
小寺と三好対織田の関係ってこんな感じであってる?
0187人間七七四年
2013/10/29(火) 14:16:42.87ID:9AK3xy2Qラスボスの部屋に入っていたら、ラスボスが死んでいた感じ。
0188人間七七四年
2013/10/29(火) 15:27:51.24ID:ffAoIM6p一旦は織田を追い落としたんだから不思議なもんだ
0189人間七七四年
2013/10/30(水) 09:12:23.42ID:rS//bSNU竹森や井口や妻鹿が属していたとか?
0190人間七七四年
2013/10/30(水) 10:07:18.64ID:boeSYkp5http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/48861
博多人形:黒田官兵衛の一生を再現。博多人形は官兵衛の晩年期が起こりとされる。
http://mainichi.jp/select/news/20131029k0000m040107000c.html
中津のボランティアガイド、官兵衛特需で増員。今年度のガイド希望ツアー客、12月までの予約を含めて昨年度の約5倍、342団体・1万4098人。
http://www.oita-press.co.jp/localNews/2013_138300886159.html
0191人間七七四年
2013/10/30(水) 18:58:18.90ID:714nwDGR「かやのもり」と読みます、ある意味難読地名
0192人間七七四年
2013/10/30(水) 20:15:36.55ID:Tp8pOYMX関西では柏原を「かしわら」「かいばら」「かしわばら」の3通りの読みをする
0193人間七七四年
2013/10/30(水) 23:29:49.12ID:boeSYkp5http://himeji.keizai.biz/headline/1013/
無料情報誌「フリモ姫路」が1周年。「官兵衛の連載記事では男性読者の獲得にもつながった。」(10/28)
http://himeji.keizai.biz/headline/1058/
「三木合戦」ゆかり赤色ジャンバーでPR。一般向けには12月から市観光協会や市立公民館で販売予定。2900円。
http://www.kobe-np.co.jp/news/miki/alacarte/201310/0006456868.shtml
「山城の特徴がよく残る」。行橋市とみやこ町、黒田官兵衛が居城した馬ケ岳を市と町の文化財指定。
http://mainichi.jp/feature/news/20131030ddlk40040361000c.html
11月2日(土)、NHKチーフプロデューサー・中村高志氏による講演会を開催。申し込みは10月30日(水)までに。
http://kitabiwako.jp/kanbee/113/
11月3日(日)午後6時、新月の夜に、光姫の菩提寺である円応寺で、特別拝観と十夜会法要。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/charm/kanbei/event.html
黒田官兵衛、その波乱の生涯 ~天国と地獄~ (メディアックスMOOK) [大型本]
http://www.amazon.co.jp/dp/4862014526/ref=cm_sw_r_tw_dp_.38Bsb0X3FC9G
黒田官兵衛: 智謀の戦国軍師 (平凡社新書) 小和田哲男 発売日: 2013年11月19日(火)
http://sinkan.net/?action_item=true&asin=4582857035&ref=tw
官兵衛を姫路市長がPR。企画したゆかりの地めぐりバスツアーは当日に定員到達。
http://www.youtube.com/watch?v=UeVqeaK0r_8&feature=youtu.be
0194人間七七四年
2013/10/31(木) 22:33:09.70ID:J2LbKyxxhttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20131031/5032851.html
加古川市の和菓子店「喜倉堂」の洋菓子、「光姫いちじくブッセ」。
http://www.kobe-np.co.jp/news/touban/alacarte/201310/0006454327.shtml
日出暘谷・日出総合高校商業部が開発のスティックゼリー「@(あっと)官兵衛」、伊丹−大分便の畿内サービス品に。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/oita/article/49523
飯塚市穂波公民館で11月24日(日)11〜16時、酒は飲め飲め戦国歴史フェスティバル―黒田官兵衛&母里太兵衛物語―。
http://www.kankou-iizuka.jp/infos/592
『日本の軍師100人』。1000人大アンケート「理想の軍師は誰か」。黒田官兵衛・竹中半兵衛、小和田哲夫。
http://www.bunshun.co.jp/mag/special/
0195人間七七四年
2013/11/02(土) 19:52:51.09ID:6FhAbZ2ihttp://www.city.himeji.lg.jp/s60/2212506/_10016/_20895.html
「二兵衛」絆のあんぱん 姫路と岐阜の店が協力
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20131031-OYT8T01463.htm?from=popin
12月7、8日に中津市豊田町の中津文化会館で黒田官兵衛サミット
http://mainichi.jp/area/oita/news/20131102ddlk44040532000c.html
0196人間七七四年
2013/11/03(日) 23:28:43.16ID:bmT8dlT3http://content.hakusensha-e.net/viewer/index.php?bid=y-kurodak_015ljbfvv
戦え!官兵衛くん。 第0話
http://kurokanproject.blog.fc2.com/blog-entry-2.html
宇喜多直家が出てくるとワクワクしない?
関わり合いにはなりたくないけど。
0197人間七七四年
2013/11/04(月) 23:14:50.06ID:oh5uIShLなんで小説や漫画では孝高が調略したことになってるのが多いのか
前々から不思議ではある
まさに直家が寝返りを決めるタイミングが有岡城の牢にぶち込まれてる
期間ど真ん中だし、普通に宇喜多側から小西弥九郎や角南如慶を使者に立てて
羽柴・織田と交渉してるわけで、宇喜多側の史料や軍記物に
黒田ってそもそもほとんど出てこないし
0198人間七七四年
2013/11/05(火) 00:51:15.49ID:1lAv+eJw盛った話かどうかは分からん
0199人間七七四年
2013/11/05(火) 02:08:42.14ID:vPB1SBdM一箇所だけあることはある
ただ信憑性はどうだろ
秀吉の播磨入り直後に宇喜多とは交戦状態に入ってるし
その中で官兵衛が直家に会いに岡山まで行くっていうのは無理目だから
たぶん貝原益軒が盛ってる架空対話の可能性が高い
時期的にはどう考えても官兵衛が不在の時期に
宇喜多と秀吉で一番重要な寝返り交渉をしてる計算になるのと
信長は宇喜多の所領安堵を認めて以降は、宇喜多関係の戦況・指示は
基本的にほとんど蜂須賀正勝宛ての書状で伝えていることからも
官兵衛はあんまり宇喜多には関与してない感が強いけどね
0200人間七七四年
2013/11/05(火) 13:04:44.67ID:56qpnYeF調略対象側から「調略されました」という情報はあまり出てこないんじゃない?
調略後の指示が蜂須賀から出ているのは
官兵衛が捕らえられていたのと秀吉軍の中での地位の高さから。
推測だけど。
0201人間七七四年
2013/11/05(火) 21:26:25.81ID:NaSfUcsy0202人間七七四年
2013/11/06(水) 14:11:35.25ID:5kaHN9kSそうでなくても地縁や血縁によるツテは沢山あっただろうから、
黒田が宇喜多調略の中心になったと考えるのは自然な事ではあるけどね。
そう言っちゃうと官兵衛の才覚による部分が軽く扱わわれてしまうかもしれないけど
黒田程度の分間が釣り上げたと考えれば、それでも超大物だ。
0203人間七七四年
2013/11/06(水) 14:35:46.36ID:ls9QG8p+http://www.himeji-krd24pt.com/
>【主催】YEG 姫路商工会議所青年部。
>【応募期間】12月10日まで。
>【書類選考および面接の際の重要な選考ポイント】
>1.18歳以上26歳までの女性(高校生不可)※未成年は親権者の承諾が必要です。
>2.姫路市内まで無理なく来ることのできる方
>3.姫路にゆかり(在住、出身、通学、通勤、故郷など)がある、又は、姫路が好きな方
>4.姫路の歴史や文化に興味があり学ぶ熱意の有る方、姫路をPRしたい方
>5.プロ・アマ不問(但し、事務所からの応募は不可)
>6.結婚歴が無い独身者
>7.TATTOOや入れ墨不可
>8.比較的時間やスケジュールに融通つく方
>9.反社会的勢力との関わりの無い方
「黒田二十四騎」にちなんだアイドルユニット、結成へ向けメンバー募る
http://himeji.keizai.biz/headline/1066/
>発足後は来年1月に開館する「大河ドラマ館」に併設のステージなどへのイベント出演のほか、
>Facebookなどを利用する広報活動への参画も予定する。
>衣装は和服をアレンジしたデザインで用意。
>同ユニットならではの特徴として姫路の歴史や文化のPRに努める「語り部」としての役割も担ってもらう。
ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ館
http://himeji-kanbee.jp/drama/index.html
歌って踊ってサイン会と握手会でCD売って喫茶店で接客するんだろうか?
加古川、西脇、宍粟、備前福岡、有馬温泉あたりのゆかりの女性はどうなんだろう?
0204人間七七四年
2013/11/06(水) 17:25:03.71ID:ZTCEj/icもっと当の黒田家譜にいっぱい盛って書いてるだろうけど
あっさり流してるからなあ
0205人間七七四年
2013/11/06(水) 18:03:12.48ID:cMkzeWo6あっさり流しているんだよな
伊東はもっと早くに秀吉に仕えていたらしいが
0207人間七七四年
2013/11/07(木) 23:41:59.88ID:a+DHTLtpだいたい黒田家譜と言うくらいだから手前味噌当然だろ
史実として100%の信憑性があるとはとても言えんよ
0208人間七七四年
2013/11/08(金) 01:21:44.92ID:/rTjAIez天正六年に、宇喜多方の備前の八幡城主(これが具体的に誰かは諸説ある)を
織田方に寝返らせた功を賞して、信長が竹中重治(銀百両)と羽柴秀吉(黄金百枚)に
それぞれ恩賞を与えた、という記述がある
これは半兵衛自身が安土に行って、信長と直接対面・報告しているので
宇喜多寝返りの前年までは秀吉と竹中が宇喜多方の諸将の切り崩しに
従事していたのは確か
ただし宇喜多家そのものの織田への寝返りについては、信長は一貫して反対だったので
(もともと宇喜多に降伏も本領安堵も認めるつもりはなかった)
天正七年後半に入って半ば強引に、宇喜多の降伏を取次いで本領安堵まで
信長に認めさせた秀吉の力がやっぱり一番大きいと思うわ
0209人間七七四年
2013/11/08(金) 01:56:07.79ID:TtE4WGw7秀吉たちの手柄になる陪臣でしかも主家が離反だったから、
割り増しで考えてあげればいいのでは。
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