戦国ちょっと悪い話37
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0001人間七七四年
2013/06/30(日) 20:17:13.43ID:Ex1hHKaY戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1365370828/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0951人間七七四年
2013/12/02(月) 22:51:10.03ID:WZk/UhXC0952人間七七四年
2013/12/02(月) 23:01:00.95ID:p8yzePM2(サブ) 信忠の遺骨の収集
0953人間七七四年
2013/12/02(月) 23:27:30.33ID:Bb5zUdFM0954人間七七四年
2013/12/02(月) 23:44:13.94ID:NieEJxuc0955人間七七四年
2013/12/03(火) 02:12:25.14ID:QPNPT//g0956人間七七四年
2013/12/03(火) 03:42:54.07ID:cGqg1pxH綻びはすでに秀次事件の駒姫の死から始まっていたのだろうか
嫡男義康の暗殺、藩租義光の死、一栗の乱、義親誅殺
さらには家親の急死と元和の最上家は武断派の重臣を幼少の藩主では統制出来ずに御家騒動によって出羽の最上家は事実上瓦解した
前後の最上家中の人々を見て頂きたい
最上義光…1614年、山形で没
最上義康…1603年、廃嫡後暗殺
最上家親…1617年、江戸表で急死
清水義親…1614年、家親に攻められ自刃
山野辺義忠…騒動後岡山池田家お預け、後に水戸徳川家へお預け。赦免され水戸藩家老に
上野山義直…1622年、騒動後筑前黒田家お預け、自害
大山光隆…1625年、騒動後上州酒井忠世預け、広島で自害
松尾姫…1606年頃、山形で没(延沢光昌室)
駒姫…1595年、秀次に連座し処刑される
竹姫…没年不明。騒動後長門で没(氏家光氏室)
禧久姫…1664年、騒動後阿波で没(東根親宜室)
0957人間七七四年
2013/12/03(火) 04:14:02.92ID:cGqg1pxH松根光広…騒動後筑後柳川立花家お預け
楯岡満茂…騒動後上州酒井家お預け
志村光安…義光の生前に没す
志村光惟…一栗の乱で暗殺
寒河江肥前…義光に殉死
寒河江十兵衛…義光に殉死
寒河江親清…会津蒲生家お預け、後に加藤家へ仕官
長岡但馬…義光に殉死
山家河内…義光に殉死
延沢光昌…騒動後肥後加藤家へお預け、数年後に没す
氏家光氏…騒動後萩毛利家へお預け
下吉忠…義光の生前に没す?(一栗の乱で暗殺とも)
下秀実…一栗の乱で暗殺
里見義近…義光死後成敗
里見民部…義光死後成敗
里見主水…義光死後成敗
里見正光…義光死後成敗
坂光秀…騒動前に没す
坂光重…騒動後国外追放。米沢上杉家へ足軽頭扱いで仕官
東根景佐…騒動直前に没す
東根親宜…騒動後阿波蜂須賀家へお預け
鮭延秀綱…騒動後佐倉土井家へお預け
滝沢政道…義光の生前に没す
滝沢兵庫…秋田へ落ち行き自害
小国光基…騒動後佐賀鍋島家にお預け
中山朝正…騒動前に没す
中山光直…騒動後山形より追放
新関久正…騒動後佐倉土井家へお預け
成沢道忠…騒動により伊達領松島へ出奔
飯田播磨…騒動後徳川頼宣へお預け
北館利長…騒動後庄内酒井家からの150石の仕官を断り、世を捨て托鉢僧へ
他に幕命等により長崎式部、那古屋越前、奥川常陸、近藤壱岐らが騒動により山形から追放か
短期間でここまで崩壊した大名家の記録がある程度史料から掴める、もの哀しい話
「寛政重修諸家譜」「奥羽永慶軍記」ほか
0958人間七七四年
2013/12/03(火) 04:26:30.87ID:cGqg1pxH「○○家お預け」→「○○家へお預け」他
誤)大山光隆…1625年、騒動後上州酒井忠世預け、広島で自害
正)大山光隆…1625年、騒動後上州酒井忠世へお預け、広島で自害
>>957も
「○○家お預け」と「○○家へお預け」が統一されておらず、読み辛くて申し訳ございません
お手数ではありますが訂正して頂けますと幸いです
0959人間七七四年
2013/12/03(火) 04:52:41.44ID:cGqg1pxH1600年、関ヶ原の戦い、長谷堂の戦い
1614年、最上義光没す、一栗の乱、清水城攻め
1622年、最上家改易
他
清水義継…1614年、山形で成敗(清水義親嫡男)
一栗高春…1614年、一栗の乱を起こし一族は誅殺される
松根広親(弘親)…騒動後宇和島伊達家へお預け
0960人間七七四年
2013/12/03(火) 06:55:26.83ID:+/xG7jDw0961人間七七四年
2013/12/03(火) 07:55:05.50ID:fncee4oq0962人間七七四年
2013/12/03(火) 09:00:36.06ID:zrGdK2ojもっと器用にやって欲しいもんだが
0963人間七七四年
2013/12/03(火) 09:58:53.59ID:DAgbg1IC0964人間七七四年
2013/12/03(火) 12:10:48.07ID:i6bat0SE見かけたらNGって意味ないんじゃないだろうか
0965人間七七四年
2013/12/03(火) 20:42:24.65ID:Q9xaGRyA公儀からの御構もなく、また織田一門よりも御構なく、少々の寺領、御茶湯領すら無く、
大切な御墓所も無縁となり年数を送っていることは、悲嘆の至極のことである。
しかしこれには仔細があって、このようになったのだ。
明智日向守光秀の逆心によって信長公が御生害された時、羽柴筑前守秀吉公は西国で合戦の
最中であったが、注進によってこれを聞くと早速西国より兵を返され上京し、光秀を難なく
滅ぼし、亡君の無念を晴らし、天下の逆乱も大方鎮まり、秀吉公は天下の武将となられた。
そして信長公の遺骨は阿彌陀寺に葬られていることをご存知であったので、当寺にて御法事御修行
あるべき旨を仰せ出された。
しかし当寺の清玉上人は「この儀は御無用であります。手前にて御法事も相応に相勤め、真志を
営みますので、それには及びません。」と、秀吉公の仰せを受けなかった。
これに秀吉公は
「そういう事なら」と、法事料として、並びに御位牌の弔い料として三百石の御朱印を下された。
ところが清玉上人はこれも受け取らず、返答に
「法師の身に、これほどの知行を頂いても使い道がありません。ご命日の法事はこちらで相応に
行います。」
と、御朱印を返納した。
秀吉公はそれでも「お前の言う事は尤もではあるが、永代御廟所相続の為である。末々のための
寺領と考えて、これを受け取るように。」と上使を以って3度まで御朱印を下し置かれたが、清玉上人は
一切受け取ろうとせず押し返した。
秀吉公は大いに立腹し、「そういう事なら今後阿彌陀寺には、自分は勿論、織田家門の者達も
関わらせず、他に寺を建立し寺領を付け、そこに参詣する!それでも受け取らないと申すか!?」
そう申し遣わされたが、清玉上人は返事に「勝手次第になさって下さい」と申し上げられた。
このため秀吉公はいよいよ激怒し、「そういう事であれば、今後阿彌陀寺には一切関わり合わない!」
と仰せ渡された。これにより織田家一門も秀吉公を憚り御仏参も無くなり、全く関わり無いように
成って、大切な御墓所も無縁になってしまった。
その後秀吉公は、紫野大徳寺の境内に一寺を建立され、信長公の御法名を用いてハ見寺と名付けられ、
先の御朱印mp寺領はその寺に与えられ、ここで御法事が行われ大名衆は皆紫野へ参詣された。
これより阿彌陀寺は廃れて、いよいよ無縁寺に成ってしまった。
しかし清玉上人が秀吉公からの御朱印を断ったのには訳があった。
もし秀吉公が天下の逆乱を鎮めた後、天下を信長公のご子孫、又は御連枝方にお渡しになり、
秀吉公は天下の御執権として国土を治められるのであれば、清玉上人も有難くそれを認めたのであろうが、
しかし秀吉公は、若年より莫大な信長公の御恩を受けて身を立てた人だというのに、信長公が不慮に
亡くなったのを幸いに、天下を我が物にしてたちまち御重恩を忘れ織田の家門を家来としてしまった。
この事を清玉上人は無念に思われ、秀吉公のことを常に、人でなしの人非人とのみ申されていた。
もし信長公の御遺跡が変わらす、織田家門の天下にて御朱印寺領が下されれば、清玉上人は大いに悦び
拝領したことであろう。しかし秀吉公は不義不道であると考えられたため、如何様に成ろうとも
受け取らないと決心し、このようにあったのである。
(阿彌陀寺由飼V記)
0966人間七七四年
2013/12/04(水) 09:13:28.40ID:PK20oFe9しかるに慶長十二年十二月二十三日に無嗣のまま卒去。これまで宇都宮に無嗣の場合
庶流多賀家よりこれを継ぎ、多賀に子が無い場合は宇都宮の庶子を遣わして継いだ。
今度はこれに反し家老神野川与左衛門は密かに正安らと相談して浅野弾正三男を養子
として家名を立てようとした。
多賀はこれを聞いて大いに怒り正安がこの事を談合する為に上方へ登ったのに追っ手
を遣わし正安を殺害し、神野川与左衛門の元へも討手を送って屋敷を取り囲んだので
与左衛門は思うさまに戦ってから切腹した。
この事を家康公が聞かれ大いに咎められ多賀には切腹を仰せ付けられ、宇都宮の所領
は没収となり、永く続いた家名が断絶したのは惜しまれる。
かの家の祖、栗田関白道兼公の玄孫宇都宮宗円以来、代々弥三郎下野守を称し数百年
宇都宮の領主であったが、この時一朝にして滅びたのは無情のことであった。
後裔は今わずかに残って水戸家に仕えている。
(翁草)
大意は残ってるけど時期やら登場人物やらがえらい事になってる逸話
伝言ゲームって怖いよね
0967人間七七四年
2013/12/05(木) 04:30:45.25ID:XPYGYYA1御向月の御法事を毎年執り行っていた。年中の御茶湯料も少々づつ送り遣わされていた。
しかし美作守殿の御家がお取り潰し(元禄10年(1697年))になった後は、これも相止み、
無縁と罷りなってしまった。
それでも毎年6月2日の御向月の御法事は、搭頭にうち寄り、現在においても懈怠無く執り行われている。
信長公百年忌の節は、森美作守殿の御家が御繁昌であったので、美作守殿より御法事として
千部読経の御執行が有った。またご由緒の方よりの御使者、御香典等もあった。
(阿彌陀寺由飼V記)
阿彌陀寺が、忠政の森家と繋がりがあったらしい、というお話
0968人間七七四年
2013/12/05(木) 05:12:57.33ID:Dz+7Iu3o柏木山の戦いの直後に上山城の惣堀に引いた伊達勢と上山勢は軍を再編
柏木山方面から南下して来る最上義光の軍を備えを固めつつ待ち構えた。
そこに徒士に担がれたひとつの輿が現れる。
最上義光「…なんぞ、あれ…」
伊達輝宗「何者ぞ?」
輿の供の者から旗が振られ、最上と伊達の陣に使いの者がそれぞれ口上を伝えた
従者「義光さま、義姫さまがお話があるそうです」
従者「輝宗さま、お東さまがお話があるそうです」
伊達と最上の双方の陣から旗の合図がなされ、戦場に不意に現れた輿の存在により半ばなしくずしに様子見からの一時休戦となった
義光と輝宗がわずかばかりの供の者を従え、輿へと馬を近付けた
輿の従者が簾を上げると涙ながらに義姫が輿の外へと歩み出た
(つづく)
0969人間七七四年
2013/12/05(木) 05:30:10.18ID:Dz+7Iu3o義姫「輝宗様がどこぞに御出陣かと思いきや、まさか義兄弟間での御合戦とはなんとも珍しいですこと
父義守が倒れた砌(みぎり)、お二人を枕元に呼ばれて『義兄弟仲良くな。かわいい孫の藤次郎(伊達政宗)もやがては成人する事だろうし、輝宗殿と義光が魚と水の様に相睦まじければ、上杉と佐竹が攻めてこようとなにも怖いものはないだろう。
伊達家中は義光を嫌っている事は知っておるし
最上家中も輝宗殿のあつかましさを嫌っている事は二人とも重々承知の事と思う。
まぁ、わし(義守)がこんな姿を晒しているとは言え、少しは慎んでくれると助かるのじゃがな』
とおっしゃいました
この父(義守)の御意見を、昨日今日に早くも忘れ、この様にいくさをなされるとは人語もわからぬどこぞの犬畜生なのでしょうか?情けのうございます
さっさといくさを止めて双方兵を引きなされ。
それが叶わぬのなら、さっさとこの場で私めを切り殺しお好きになさいませ」と戒めた。
(つづく)
0970人間七七四年
2013/12/05(木) 05:42:00.33ID:Dz+7Iu3o輝宗は内心これ以上のいくさをする事には特に乗り気ではなく、誰かが仲介をしてくれれば無駄な戦いを止め米沢に引き揚げたいと思っていたのと
一方の義光も上山攻めが無駄に長引く事を嫌がっていたので
いくさ場への義姫の輿の乱入により、微妙な後味を残しつつ、そのまま和議と相成った。
「最上義光物語」
1588年の大崎合戦の10年程以前にも、義姫が輿で戦場に乗りつけ、伊達と最上の戦いを止めさせた
良いとも悪いとも受け取められるお話。
0971人間七七四年
2013/12/05(木) 09:48:01.16ID:CZhjciOVもーホント男って面倒でいやね〜
じゃあそろそろ私の出番ね輿GO!」
0972人間七七四年
2013/12/05(木) 11:29:38.32ID:4uFJ2B87最近の義光
ttp://www.4gamer.net/games/215/G021583/20131003060/SS/020.jpg
0973人間七七四年
2013/12/05(木) 16:16:57.05ID:rC44V7Ou0974968
2013/12/05(木) 18:14:45.94ID:Dz+7Iu3o誤)最上家中も輝宗殿のあつかましさを嫌っている事は
正)最上家中も輝宗殿のあつかましさをよかれと思っていない事は
誤)さっさとこの場で私めを切り殺しお好きになさいませ
正)この場で私めを切り殺し、後はお好きになさいませ
>>970
誤)一方の義光も上山攻めが無駄に長引く事を嫌がっていたので
正)一方の義光も上山攻めが長引く事を嫌がっていたので
前後で似た語句が被りましたので、お手数ではございますが訂正の方を宜しくお願い致します
0975人間七七四年
2013/12/05(木) 20:42:19.83ID:mUJAoqmb今川義元
龍造寺隆信
大谷吉継
立花道雪
0976人間七七四年
2013/12/05(木) 20:45:37.17ID:jPs/rP8/私は長宗我部のおとなであった、中内惣左衛門と申す者の孫であります。
私の親は、中内彌五左衛門と申します。
この彌五左衛門は、先年大阪御陣(大阪夏の陣)の時、八尾表の合戦において、
故仁右衛門様(藤堂高刑)と鑓合わせをし、仁右衛門様も相果てられ、私の親も
打ち果てました。
この様に申し上げたことに、偽りは少しもありません。長宗我部家中の生き残った者達は、
何れもこの事を存じ上げています。藤堂家のご領地である伊賀や伊勢におられる土佐衆も、定めて
これを聞き及んでいるはずですので、何れの方でも、お尋ねになってみてください。
仁右衛門様を討ったと申す者が、今も世間に有るように承り、不審な事だと思っています。
後日において、故仁右衛門様と鑓合わせをして討取った、と言う御仁が現れるようでしたら、
何時でも、それを聞き及び次第まかり出て、吟味させて頂きたいと思っています。
右の事を申し上げるため、阿波より罷り越しました。
寛永11年(1634)極月(12月)10日 中内藤九郎
(中内家蔵・中内藤九郎書面)
さてさて、律儀なる若者である
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8048.html
この逸話でも有名な藤堂高刑が大阪夏の陣で、長宗我部隊との激戦によって討ち死にした事に、
後になっても「自分が討取った」と言い出すものが有り、藤堂家においても調査されたらしい。
その時の、長宗我部家旧臣の家系の者からの証言である。
0977人間七七四年
2013/12/05(木) 22:33:26.88ID:HgVcWfzWこれに対して甲斐の武田信虎が和睦を申しこみ、美濃三人衆や尾張国守山城主の
織田信光(織田信秀の弟)が尾張への手引を申し出たので、清康は一万余の軍勢を率いて守山に出陣した。
この出陣の際、一門衆の松平信定は病と称して上野城に引き籠っていた。
信定は宇利城攻めで清康に遺恨を抱き、清康が信秀と戦っている間に
岡崎を奪い三河を自分の物にしてしまおうと考えていたという。このために信定が裏切るという風評が立ったが、
清康は「信定が裏切ったとして、どれ程の事ができようか」と言って、歯牙にもかけなかった。
また、重臣たちが
「織田信光は信定殿の婿であるので、信秀を迎え入れることでしょう。
退陣なさった方がよろしいのではないでしょうか」
と申し上げると、清康は
「信光が城を出るならば、迎え討ってそのまま城内に攻め入り、城を焼き払ってやる。
信秀が立ち向かってくるなら願ったりだ。一合戦してくれよう。
信秀と合戦するならば、信定は踏み潰す必要もない。勝手に自滅するだろう。
そもそも、信秀は私と戦おうとは考えてもいないだろう。奴は出陣できまい。
私が安祥にいた頃、手勢がわずか五百三百だった時、一度天下を治めたいと思ったが、
百々度(ももたび)の戦をしなければ、天下は治められない。野に向き山に向き、敵を見つけたら、
是非共に押し寄せ、百万騎いたとしても、百々度の戦をしようと思っている。
どんな時でも、私は戦でならば負けることはない。安心してくれ。」
と言った。
重臣たちが続けて、
「大給の松平親乗殿は、信定殿の婿であります。これは如何なさいますか」
と申し上げると、清康は
「尤もな事だ。だが、私は信秀でさえ何とも思わないのに、親乗ごときが出陣して私を防げるのか。
もし出陣するなら、それは首に石を付けて、自分から川の深みに飛び込むようなものだ。いや、それ以下だ。
池鯉鮒へ出陣し、そのまま上野へ押し寄せて、二の丸、三の丸を焼き払ってくれる。」
と言うので、重臣たちが
「小河の水野信元は信定殿の婿であるので、きっと小河からも加勢が来るでしょう」
と申し上げると、清康はからからと笑って、
「尤もな事だが、お前たちは何を心配しているのか。私が通るというのに、
信元などが百万の兵を持っていたとしても、私と戦おうとするだろうか。
出陣してくるならば、それもまたよし」
と答えた。
三河物語より、松平清康が自信満々……というか慢心の域に達してそうな話。
この直後に清康は横死するため、彼がこの発言通りの実力を持っていたかどうかは
永遠に確かめられなくなってしまった。
ちなみに今日で清康が横死する守山崩れから478年目になる。
0978人間七七四年
2013/12/05(木) 23:41:44.67ID:rC44V7Ou「この慢心が清康の身を滅ぼしたのである、よってうんぬんかんぬん」
とか書かれるレベル
0979人間七七四年
2013/12/06(金) 00:02:20.55ID:kyltXBmG0980人間七七四年
2013/12/06(金) 00:08:59.24ID:KMPzJFag0981人間七七四年
2013/12/06(金) 22:05:55.22ID:HIJhyBSL石火矢を城内に撃ちこむと、城中に立っていた吹貫を撃ち折り、堀の下へと落とした。
これに高虎は御機嫌と成り、
「あれは日中には回収できないだろう。夜に入ってどうにかして取り戻すだろう」
と言ったが、城中の者達は決死の回収活動をし、日中の内に堀から取り上げたという。
(高山公実録)
吹貫一つに起こった攻防戦である。
0982人間七七四年
2013/12/06(金) 22:56:56.66ID:OVSkYP8f旗みたいに大切な物なの?
0983人間七七四年
2013/12/06(金) 23:09:03.73ID:+2myElMR0984人間七七四年
2013/12/06(金) 23:21:47.22ID:J/SPIBDq0985人間七七四年
2013/12/06(金) 23:31:14.49ID:+0JsNAQf0986人間七七四年
2013/12/07(土) 14:40:12.89ID:+16USYK4徳川家康と大賀弥四郎
http://i.imgur.com/KCjvmYY.png
0987人間七七四年
2013/12/07(土) 15:19:03.51ID:9jpxSNuP0988人間七七四年
2013/12/07(土) 15:34:41.75ID:9jpxSNuP0989人間七七四年
2013/12/07(土) 16:40:11.59ID:Q9J8BolJ立てた
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386401920/
0991人間七七四年
2013/12/07(土) 17:38:17.13ID:D5RFYXX3http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
↑こっちが先だからこれを先に使って
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386401920/
↑こっちは上が終わるまで残っていたら39にしましょう
0992人間七七四年
2013/12/08(日) 00:03:43.38ID:ucKho9tW黒田官兵衛の豊前入国の時、山田大膳、城井中務と共に、三人はその居所が山中で嶮岨の地であることを
頼って官兵衛に従わなかった。
しかし中間六郎左衛門には官兵衛より内意があって、早くに降参した。
中間が官兵衛に降参しようとした時考えたのは、黒田官兵衛に降参ずれば、本領を失うだけでなく
自身の身も失うのではないかという懸念であった。
しかし黒田官兵衛は聞こえた武将であるので、降参しなければ滅亡すること必定である。
如何すべきかと思案し、一つ思いつき、中間家に仕える者達を一人も残らず呼び出して、
このように言った
「黒田官兵衛に降参すべきが、そうしないべきか、各々の心中の所存を書き付け
入れ札すべし!」
家中の者達の意見を知りたいということである。
家臣たちはその下知に従い、それぞれが思う所を書き付け、入札をした。
乱世の時節であったので、文字の書けない武士もまた多かったが、文字の書けない者は
文字の書ける者に頼んでその意趣を書いてもらった。
皆書き終わり入り札が終わると、中間六郎左衛門はそれを取り出してこれを見てみると、
多く家人がいる中、一人も「黒田官兵衛に降参するのはよくない」と書いた者は居なかった。
皆、黒田に属するべきだと書いていたのである。
中間六郎左衛門は
「では、家人残らず同心の上は、衆議に従うのが宜しかるべきである。」
と、官兵衛への臣従を決めた。
その後城井中務が中間の元に使いを送り、黒田に背き自分たちに味方するように進めてきたが、
中間は同心せず、
「一度黒田殿に従った以上は、重ねて心変わりはしないものだ。」
と返書を送った。
この返書を持たせた使いを、黒田家の家臣が道にて捕らえて官兵衛のもとに連行したが、
官兵衛はその返書を見て、中間六郎左衛門の忠義に感じ入ったという。
(黒田家譜)
使いを途中で捕らえるあたり、それまでは信頼せず監視していたのでしょうね。
0993人間七七四年
2013/12/08(日) 20:05:00.18ID:7illiONF0994人間七七四年
2013/12/08(日) 20:11:10.97ID:C81qnjp90995人間七七四年
2013/12/09(月) 03:45:32.77ID:32iCPat10996人間七七四年
2013/12/09(月) 04:03:53.27ID:3n9htrgX0997人間七七四年
2013/12/09(月) 09:54:40.04ID:3r16wyod0998人間七七四年
2013/12/09(月) 16:43:33.95ID:sJyjoRMdたいていオチがつくけど
0999人間七七四年
2013/12/09(月) 16:46:53.97ID:jKSfonJQいい人かどうかはともかく。
1000人間七七四年
2013/12/09(月) 16:47:47.90ID:PB8/Xkvg10011001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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