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戦国ちょっと悪い話37

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0001人間七七四年2013/06/30(日) 20:17:13.43ID:Ex1hHKaY
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1365370828/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0202人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:6zA7awEo
>>201
あ、すいません、最後のほうかなり書きミスしてしまいました。
以下のものでお願いします

伊達政宗、喜多七太夫の勧進能・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-169.html
↑の逸話の、伊達家の側からの記録である。というか、伊達家で記録していたんですねこれw
ともかくも、よくこんなことやったものである。
0203人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:XMJHvHeF
政宗はホント生涯政宗だなぁ
0204人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:ZvLBiGZU
>>201
>しかしこういう事は、学んで出来ることではないな。
いや、学ばない方がいいと思います
0205人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:RzpKoNGh
酒池肉林の類だよなあ
最近で言うならバブルの狂騒とか
0206人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:PShcSDRB
大分話が違うな
0207人間七七四年2013/08/23(金) NY:AN:NY.ANID:c/pxcuqn
夏らしい怖い話
上杉謙信公が亡くなる前、数々の怪異があった。

天正5年の11月頃から6年の正月にかけて、謙信公の姉君・善道院の居所では
様々な怪異が起こったが、その内の一つは、或夜、大きさ4,5尺にも足らない人形が、
小馬に乗って何処かから飛び出し、そのあたりを徘徊した。

人がそこに近寄れば影も形もなく、しかし遠くから望むと姿が見えた。このことは数日間続いた。

また春日山城内の毘沙門堂のあたりでは、頭の毛の逆さまに生えた者が、
その髪の毛で顔を覆い、毎夜その辺りに出現して、行人を悩ませた。
これは先に、謙信公によって非業の死を遂げた柿崎景家の怨霊だと噂された。

天正6年3月朔日には、深夜、皆寝静まっている時に、城下の侍屋敷のあちこちで突然、
老若男女の悲鳴の声、遠くからも近くからも響き渡り、人々に戦慄の念を抱かせた。

恐怖に囚われた番卒は、それでも震える足元を踏みしめつつ、役目のため嫌々ながら、声のした方に
向かっていったが、すると悲鳴はパタリと止んで、その他人の声もなく、またどこから
その声が上がったのかも解らなかった。

3月3日の戌のころ(夜8時頃)には、春日山城大手の下乗場側に立ててあった大石が、
俄に二つに裂けて互いにぶつかり合い、暫くの間奮闘突撃しているように見えたが、
破片が霰のように飛ぶためそちらを見ることも出来なかった。

ややあって片方の石が微塵に砕けたかと思うとその石の戦いは終わり辺りは静まり返って
そのまま夜は開けた。
石の戦いの場に通りかかった3,4人の者達は、有り有りとこの様を見て恐怖の念に駆られ、
声も立てずに逃げ帰った。

やがて夜明けに成ってその場に行ってみると、石には少しの変わりもなかった。
ただ、その付近一帯は、血を流したかのように一面赤く染まっていた。
(上杉謙信言行録)

上杉謙信の死の前に起こったとされる怪異についての逸話である。
0208人間七七四年2013/08/24(土) NY:AN:NY.ANID:xanQ9QzD
>>193
衆道が盛んだったんじゃないかな

女が感じないと男は産まれないから、
家のために好きでもない穴に出しても
そりゃ嫡男も産まれにくいだろう
0209人間七七四年2013/08/25(日) NY:AN:NY.ANID:34rycCVL
池田輝政が大封を得た後に、諸大名の宴会があった。この時、ある人が
こっそりと輝政の身長の低さを嘲った。

すると輝政は扇を挙げ、起き上がって舞い「このように勇功があって、
このように領地がある。どうして身の丈を求めるだろうか」と言った。

――『名将言行録』
0210人間七七四年2013/08/25(日) NY:AN:NY.ANID:1RhR0KVf
>>194
微罪で重罰が不服なら出奔して他所の大名に仕えればいいじゃん・・・と思ってしまうんだが駄目なのか?
上杉の傘下あるいは友好勢力は回状回って無理かもしれないけど敵ならかまわんだろ?
0211人間七七四年2013/08/25(日) NY:AN:NY.ANID:rqFQLPPA
>>209
馬に乗って前立の長い兜をかぶればいいんだよ
0212人間七七四年2013/08/25(日) NY:AN:NY.ANID:SZgVdbxB
>>209
輝政は寝てたのか?w
02131/22013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:E86BTfVu
あるとき、浅野幸長は病と称し、江戸に出仕しなかったことがあった。
当時は大名同士が互いの国元へ見舞いに赴く事は禁じられていたのだが、
そんなとき、突然黒田長政が海路より紀州に見舞いに訪れたのである。

城内に通された長政は幸長と終日話をしていたが、夕刻になると長政は
洲本に供船を待たせているのでそろそろ戻らなければならない、と言って帰ろうとした。
ところがこれを聞いた幸長は、

「今日は泊っていった方がいい。ここの湊は見た目と違って中々難しい湊で、
小船でさえすぐに出すのは難しいし、まして夜に大船を出すことなど出来ないのだ。
是非泊っていくといい。見舞いに来た人に怪我などさせてはこちらの外聞が悪い。」

と言って長政を引き留めるので、その夜は人払いして夜通し物語などしていた。

次の日の早朝、茶の湯をした後で長政は出発することになった。
幸長も見送るからと、大船三艘に古老や覚えある侍らを乗せて出てきたのだが、
幸長は長政に自分の家老や物頭らを
「これは何々と申す者、どこそこの戦いで功名を顕した者、あの者は云々…」
と一々紹介してくれるので、長政もまたその者らに一々会釈をしていた。

幸長は川口まで長政を見送り、
この先の見送りには案内人として、小姓上がりの永原大膳を付け、小舟で先導させることにした。
幸長は大膳に、

「大膳よ、必ず沖を通ってはならん。
わしは数年来、松江浜を経由し、加太の田倉崎へ行くようさせているからな。」

と申し付けた。
そして長政と大膳は幸長らと別れ、大膳は言いつけ通りの航路を通り中松江に差し掛かった。
ところがその海域に差し掛かると大波が押し寄せ、それを被った長政の船は水浸しになってしまった。
さらに、船の者たちが騒ぐ間に2つ目の大波まで押し寄せ、それをも被ってしまったのである。
大膳は混乱しながらもどうにか下知して船を出させ、洲本まで長政を送り届け、
長政は礼に刀をやって大膳を帰した。

一方の幸長は川口浜に幕を張り酒宴をしていたが、大膳の船が見えたと聞くと
何やら楽しみそうな様子でその帰りを待った。
02142/22013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:E86BTfVu
戻ってきた大膳は一通り送別が済んだ事を報告したが、
それを聞いた幸長は不満な様子で「それだけか?」と尋ねた。
すると大膳は顔を真っ赤にし、ややあってから

「さても今日は迷惑なことでした!
黒田様の船へ大波が二度も流れ込み、黒田様は船屋形の戸を立てていたので
大丈夫だったでしょうが、他の者らは皆ずぶ濡れになり、酷く迷惑いたしました!」

と答えた。
これを聞いた幸長、大いに機嫌が良くなり、

「わしが聞きたかったのはそのことだ。
わしが小姓から取り立て、馬前で役に立とうというお前が、
その程度の事に気がつかない訳がなかったな。

そもそも筑前めが、家康の内意を得ずに見舞いになど来るものか。
この幸長が色々病気だと言って江戸や駿府に行かないので、
様子を見て来いと言われて来ただけの事だ。ただの見舞いのはずがない。

そういうことだから、明日にも幸長を退治せよとなれば、
西国から筑前が、紀州の湊に通じているからと先手となり船で攻めてくるだろう。
そうなると面倒なので、今日は筑前に波を喰らわせ、紀州の湊は中々難しいと筑前に思わせてやったのだ。
これを聞いて西国の奴らは皆怖れるだろう。
そして和泉路から来るには山越えになるから、こちらが勝つのはたやすい。」

と理由を説明し、
「それにしても筑前めの肝を潰してやったわ、満足満足」
と上機嫌で幸長は城に帰ったのであった。

(浅野長政公伝)より


長政、幸長の罠に嵌って酷い目に遭う、というお話。
前半部分で幸長が長政を引き留めたり、長々と家臣を紹介したりと
時間を稼ぐような行動をしているのは、恐らく夜や早朝に帰られると
海が凪いでいて、威力のある大波を喰らわせられないためと思われる。
0215人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:U2EEhzjR
秀次の重臣熊谷大膳は嵯峨二尊院にいたが、徳善院は賜死の使者として
大膳と親しい家老松田勝右衛門を遣わした。

大膳は松田と会い「私が召し使っている者どもが最後の供をしたいと言う
のを色々と押しとどめています。もし私が死んだあとにこの旨に背いたら
来世までも勘当し縁者一類をも五畿内近国より所払いにすると申し付けま
すので、くれぐれもお願いします」と頼んだ。

最後の盃を松田と酌み交わしていると、大膳の郎党どもが「最後のお供を
すれば勘当されるのならお先に参ります」とあっと言う間に三人が腹を
切って死んでしまった。

残るものはこれを見て「これは理である」と我も我もと続こうとするのを
松田の郎党や寺中の僧達が一人につき三人五人と取りついて、太刀を奪い
取った。

大膳はこれを見て「何という不覚なる者どもか、誠の志あれば命長らえて
熊谷の菩提を弔って欲しい。これでは却って黄泉路のさわりとなろう。

主がこの世にあればこそ主の為に命も捨てるのだ。

この大膳もすぐさま出家して主君の御菩提を弔いたいがお許しが無くて
どうしようも無いのだ」と涙にむせんだ。

郎党も仕方がないと諦め「皆で髪を剃り主の御坊の御弟子となって、後は
ねんごろに弔います。御心易く最後のご用意を」と申した。

熊谷はことの他これを喜び、すぐに行水をして仏前に向かって礼をし客殿
の前に畳を裏返して重ね、その上で水盃を取り交わして、三方に乗せた
脇差を取り、西に向かって腹を十文字に切って、首をのべて討たせた。

松田も日頃から深い付き合いであったので、涙にむせびつつ御坊に頼み
百箇日までの弔いのように勤めてもらった。

(聚楽物語)

秀次事件に連座した熊谷大膳の最後について
0216人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:Q+yKU0Wp
>213
腹黒っ!NAGAMASA(浅野の方)も宇都宮や九戸でも腹黒い事してたよな。
0217人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:9Cd7M8E5
小姓の自殺競争も秀次だったっけ
人徳あったのかなあ
0218人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:sQ4s80q3
>>213
見舞い禁止されてるのに、大して親しくも無いのが来たら警戒するよな
0219人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:9PJ9+7on
>>209
してその嘲った者の名は何と?
政宗?
0220人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:tL85zpxm
酒の席での市松の不安…
0221人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:SfT6Bwj7
和田喜兵衛は上野国群馬郡高崎城主・和田兵衛大夫の弟であったが、
若い頃から上杉輝虎(謙信)に仕えていた。

ところがこの喜兵衛が、兄が武田信玄に内通し、深谷、倉加野、高山等と語らって箕輪を乗っ取ろうという
企てが有る、との情報を得、密使を走らせ

「このような事ですので、少々軍勢をこちらに向けていただきたい。あとは自分が手引して、
謀反人を追放させます。」

と、輝虎の近習で、僚友である小野伝助へと伝えた。

輝虎はこの時少勢で箕輪まで出ていたのだが、これを聞くと早速高崎城へと向かった。

ところが、である。
その途中の鳥川という土地で、密使を出した和田喜兵衛が現れ、こう言ったのだ

「謀反のことは、私の聞き違いでした!謀反はありません。
しかし聞き違いで遣いを出したことが発覚し、私は城にもいられなく成り、こうして逃げてまいりました。」

これを聞いた輝虎は当然ながら激怒した
「このような未熟な内通の容疑で出馬を促すとは、何たることか!」
そうして喜兵衛を、輝虎に従って付いて来ていた小野伝助と一緒にまとめて斬り捨てた。

しかし、ここで輝虎は思った
「この上は聞き違いであったと言って厩橋に戻るのも、後日の笑い草になってしまう。
そもそも、火のないところに煙は立たぬというではないか。謀反の気がないわけでもないのであろう。
よし!少勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を攻めよう!
後のことはそれから考えよう!」

そう決心しまっしぐらに高崎城に向かった。
輝虎は自ら槍を取って大手門に突撃、続く直江実継、大関親益、永井尚光といった家臣たちも
負けじと駆け込む。

この突然の輝虎の攻撃に、高崎城は訳のわからぬまま防戦したが、1つ2つと城門が破られていく。
しかし城主の和田兵衛大夫も豪の者であったので、自ら槍を取って必死に戦った。
そうしている内に輝虎も、軍勢が少数で疲れきっているのを見て取り、引き上げを命じた。
そして郭外に放火し、早々と厩橋に帰っていったという。
(関八州古戦録)

軍神様、無理を通して道理を粉砕、という逸話である
0222人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:mEZ0xZqn
高崎城落としたのならともかく、落とせなかったのだから
粉砕しとらんやん
0223人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:vqX5PoaN
小野伝助すげえとばっちりじゃね
0224人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:NT45Hasp
後詰に出陣したら、到着前に落城したから腹いせに無関係の城攻め落としたり...
0225人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:wT3rH8vG
「後のことはそれから考えよう!」ってのはダメな人の考えだw
0226人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:/SSlbey9
分別も久しくすればねまる(in沖田畷)
0227人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:+jpn1Lw4
そら実際に来るまでは北条につきますわ
0228人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:Rf3PPeou
小さな道徳観にとらわれていてはいけないと思わされました
0229人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:EqTJz5ew
軍神様は天才と基地外は紙一重である事を体現した人
0230人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:gHI+7cZo
この件のせいで高崎城が武田に寝返ってもしょうがないよなw
0231人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:PRTuB8UT
>>230
間隙見逃す武田でもないしな。
まあそれ以前に激怒した和田兵衛大夫が積極的に誼通じに行くと思うけど。

これが宇喜多とかが理不尽に攻めた、だったらもぐりこますための策略か!って疑うとこだが軍神様はマジ基地だから・・・
0232人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:4TgGD+R2
DQN四天王に上杉謙信がログインしました
0233人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:9JK/COS/
政?「俺は席空けねーぞ」
0234人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:Dd6YvFtk
謙信はDQNとは少し違うにおいがする
切れる老人的な
0235人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:raFkBi0C
信長ラスボス的な紙一重枠だろ
0236人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:vQh5f4kg
上杉征伐の時、徳川家康から石田三成と北国上方の様子を注進せよと命じられた
堀尾吉晴は、越前国に向かう途上で三河国池鯉鮒に至った。

時に水野忠重は吉晴と信友であったので、刈屋からやって来て吉晴を饗応した。
この時、図らずも加賀井秀望もやって来て三人は談話をしながら酒を飲んだ。

日はすでに暮れて吉晴は酔って眠ってしまった。すると突然、秀望は忠重を斬殺した。
太刀音を聞いて目覚めた吉晴は秀望を組み伏せて刺殺した。事態に気付いた忠重の
家臣達は刀を振るって吉晴に向かって来た。

吉晴は彼らを制したが聞き入れてもらえず、灯火を倒して暗闇にまぎれて庭に下り、
堀をつたって逃れた。吉晴は数ヶ所の傷を負い、家臣に扶持されて浜松へ帰った。

忠重の家臣達は吉晴が逆心により忠重と秀望を殺害したと関東へ報告した。
これを聞いて徳川秀忠は「吉晴と忠重の二人に限って逆意を企てるはずがない」と言ったが、

日あらずして飛脚が来たり「秀望の死骸をあらためたところ、三成の書簡がありました。
それには『徳川家の老臣、または吉晴か忠重を殺害したならば重く恩賞を与える』と
ありました。ですから秀望が忠重を殺し、吉晴が即座に秀望を討ったのです」と報告された。

よって吉晴の子息忠氏のもとへ使者を下してその功を賞し、家康も吉晴に御書を与えて、
その傷を見舞った。

――『寛政重修諸家譜』
0237人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:kKwI9dDG
下総の千葉氏といえば武家の名門である
千葉宗家は代々星の宮と称して妙見大菩薩を祖神とし、数多の星の中でも一番優っているというところから
北斗七星を崇め、そこから北斗を家紋とし、月に星、或いは十曜を用いた。そして

『月星を手に取るからに この家の 栄えんことは銀河のごとし』

と、自らを謳った。

そんな千葉宗家の後を継ぐ惣領には必ず、体の中に月星のイボがあった。これは不思議な事であったが事実である。
千葉邦胤の祖父・利胤が弘治三年(1557)八月七日に30歳で亡くなる。彼には二人の男子が在ったが、
長男の胤富にはそのイボがなかったが、次男の親胤には7つのイボがあったので、無理に兄の胤富を押しのけて
次男の親胤が後を継いだ。

ところがこの親胤は生来暴虐で、領民の保護も出来ぬ有り様であり、千葉家中では危機感を持ち、天正七年(1579)五月四日、
密かにこれを殺し、改めて長男胤富が家督を継いだ。

しかしこの胤富に、殺された親胤が怨霊となって祟り、胤富も早死してしまった。
胤富の後を継いだ子の邦胤も、元々邪狂の性質はあったものの、たかが屁のことで殺されてしまったのである
(屁と恨み http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3035.html

このこともまた、殺された千葉親胤の祟りであると、噂されたのである。
(関八州古戦録)

千葉氏当主の特徴と、千葉氏を襲った千葉親胤の祟りについての逸話である。
0238人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:vII51v6o
イボは7つだけじゃなくて、8つ目の死兆星もあったんだろうなきっと
0239人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:jqbIHLb0
北斗七星は死を司るから不吉って、初期のケンシロウが言われてた
0240人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:J9/XG8id
孔明は北斗に祈って寿命を伸ばそうとしてた
0241人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:RC7CS/1y
ジョースターの血統かよ
0242人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:rt3oW6BU
別記によると、今年、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家、大谷吉継が五奉行と定められた。

しかし、大谷は癩病を煩って後年には病が眼中に入り、盲目となったので奉行職を辞退したが、
大谷は朝日御方の甥で政所の従弟であるうえに、才智があって節操があり、篤実な者なので、

豊臣秀吉は深く惜しんでしばらくはその願いを受け入れなかったが、病気は良くならず、
奉行職が欠けてしまったので、浅野長政を加えたのだという。

――『新東鑑』
0243人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:uERcNAWU
朝日姫の甥で北政所の従弟ってことなのだろうか
だとしたら世代があわないような
大政所の甥で朝日姫の従弟ならありえるけど
0244人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:rt3oW6BU
>>243
たぶん北政所の母親の方ですね。
(大谷は政所殿の御母、朝日御方の甥にて、政所殿とは従弟といひ、)
0245人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:U6F1NnDr
伊勢国鈴鹿郡に、関氏という国人がいた。
伊勢平氏の一族であり、一説には平清盛の孫・資盛を祖とするともいわれ、
関・神戸・峰・鹿伏兎・国府の五家に分かれて、関家を総領として五千人を動員できる勢力を有していた。
そんな由緒を持つ関家であったが、この関家の当主には代々ある身体的特徴があった・・・


天正10年、伊勢亀山城主・関盛信は、後継ぎを決めるために家老達を集め、
意見を求めた。(盛信の長男盛忠は既に長島一向一揆討伐の際に戦死していた。)
家老達の内、葉若藤左衛門は次男の一政を推した。
一政は足が悪かったので、僧になるべく当時は比叡山の稚児になっていた。
これに対し、岩間八左衛門は三男の勝蔵を推した。

なぜなら、一政は足が悪い以外は常人と変わらなかったが、勝蔵は違っていた。
勝蔵の体には乳首が『四つ』あったからだ。
関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており、勝蔵はこの条件に適っていたのだ。
勝蔵はこの頃、柴田家に仕えていた。

盛信は結局、葉若藤左衛門の意見を容れて一政を後継ぎにすることにし、
一政には蒲生賢秀の娘(氏郷の姉妹)を娶らせることにした。
(盛信自身も蒲生賢秀の姉妹を娶っていたから、蒲生家とはこれで二重に婚姻を結ぶことになった。)
この結果一政を推した葉若藤左衛門が権勢を握り、逆に岩間八左衛門の勢力は衰えてしまった。

その頃、羽柴秀吉は関家に対し、当時関家が従っていた織田信孝からの離反を勧めた。
盛信は、
「蒲生家と一致して行動することにしているので、蒲生の去就に任せる」と答えた。
蒲生家は既に秀吉の一味だったので、関家もまた秀吉に付いたわけである。

翌年(天正11年)の正月、関盛信・一政父子は秀吉に挨拶するため、
葉若藤左衛門を連れて亀山城を出発した。
ところが、この留守を窺っていた岩間八左衛門は、一類四十三人と共謀して反乱を起こし、
亀山城を奪い、隣領の滝川一益の軍勢を引き入れてしまった。
関父子は仕方なく蒲生家に逃げ込み、秀吉にこの事を報告した。

これを聞いた秀吉は大軍を率いて北伊勢に出陣し、一益との間で賤ヶ岳の戦いの前哨戦となる
戦いを繰り広げることになったのである。
秀吉軍の攻撃の結果、亀山城は開城し、関父子も領国に復帰したが、
そもそもの原因となった岩間一族は降伏して許され、元通り仕えることになったという。
(特に咎めがあったとは書かれていない。)


(勢州軍記)より


>>237の千葉氏の話と似たような話があったので投稿。
あちらは総領の証?がある方に継がせたら酷いことになったという話だが、
こちらはない方に継がせたら謀反を起こされたというお話。
0246人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:AcGrhOjk
何が蒲生に従うだよ、本能寺の変を聞いて大坂から逃げ出した爺のくせに
信孝軍を瓦解させた張本人
0247人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:1v1N2ah2
乳首4つとか…今なら萌えキャラで人気者になるけど
当時はどういう見られ方をしたんだろうか
0248人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:RE6nHA/V
はしゃいでて取れちゃった乳首をまたくっつけたんだな

いつだったか、ラジオでパーソナリティー(♀)が自分の婆ちゃんがそんなことしてたって驚いてたわ
0249人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:A6Rtcu9B
「五雑俎」人部一より
堯八眉,舜四瞳子,禹目跳,湯偏,文王四乳,仲尼面如蒙?,周公身如斷梶C?陶色如削爪,?夭面無見膚,
傳?身如植鰭,伊尹面無須麋,故知大聖、大賢不可以形貌相也。

周の文王も4つ乳があったとか
副乳のwikiみたら、女性の5%、男性の2%が副乳を持つとあったから
大きいものでなければそこまで珍しくはないな
0250人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:A6Rtcu9B
ついでにググったらグラビアアイドルの熊田曜子も副乳とあった
出身が岐阜市で高校が岐阜県関市とあるが
平姓関氏でなく、美濃関氏ならぴったりだったのに
0251人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:1AYzvXOQ
熊田は全身整形と小阪由佳が言っていたが
乳首はいじくってないのかな
0252人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:/foeKdQR
きっと黄金銃の使い手だったのかも
0253人間七七四年2013/08/31(土) NY:AN:NY.ANID:U/pLdYGV
ある時、神保長八や、我が祖父である脇谷九兵衛といった、微妙公(前田利常)と心安き者達が、
微妙公の御前に寄り合い、歓談していたことが在った。

この時微妙公がお尋ねになった

「下々はきっと私のことを、吝い殿様だと言っているだろう。」

座の人々は

「いいえ、そのような事は聞いたことがありません。ただ、『御物綺羅し』とは
呼ばれています。」

御物綺羅しとは、綺羅びやかな御物を取り揃えているといういみであろうか。
しかし微妙公は強く否定した

「いや、そのように言うはずがない!」

これには御前の人々も意地になって、誓言まで立てて同じことを申し上げる。
しかし微妙公は

「いいや、そんな事が有るはずがないのだ。私は歳を取って、殊の外吝くなったことを
自覚しているのだ。
昔と違って、加増や、その他褒美を取らせるときも、2度も3度も思案してしまうのだ。
昔は思い立ったらすぐさま、そのまま遣わしたというのに…。」

これは神保八左衛門の話に伺ったことである。
(微妙公夜話)

微妙公、歳をとってから褒美に慎重になってしまったことを嘆く、という話である。
0254人間七七四年2013/09/01(日) 10:13:51.64ID:oRnPhk4P
>御物綺羅しとは、綺羅びやかな御物を取り揃えているといういみであろうか

御物綺羅しとは、立派なアレをお持ちという意味では?
0255人間七七四年2013/09/01(日) 13:18:41.79ID:OMByHB3N
キラキラ鼻毛
0256人間七七四年2013/09/01(日) 19:50:23.15ID:qbO2Ka5m
伊達政宗公は、眠る前の宵に、明朝起こす時間を寝ずの番をする坊主衆に申し付けられていました。
そして、明六つ(午前5時頃)と仰せられた時は、例え八つ(午前1時頃)や七つ(午前3時頃)に
目を覚まされても、明六つと申し上げなければ、起きられず御床でお待ちになり、
六つになって時刻を申し上げると

「明六つになるのを待っていたのだ」

お仰り起きられました。

またある時、七つ時に起こすように仰せ付けられた時、時刻になりこれを申し上げると、
政宗公は百夜に一夜ほどは、よくよく眠く思われたので

「あまりに眠いから、あと半時(1時間)ほど過ぎてからまた起こしに来い。」

と言われて返され、その時刻になってまた申し上げると、その時も眠く

「とにかく明六つまで寝かせよ!」

とか

「明六つ半に参れ!」

などと時間を指定されました。

(政宗公御名語集)

伊達政宗も眠い時は布団に潜り込んで、「あと一時間〜」とかやっていたのだ、というお話w
0257人間七七四年2013/09/01(日) 21:55:53.43ID:pGOlE1sF
こういう時のために、強いカーチャンは必要
0258人間七七四年2013/09/02(月) 01:38:47.48ID:y3+9/53d
岩下母ちゃんなら、どんな起こし方をするか
0259人間七七四年2013/09/02(月) 11:57:16.63ID:hvZBfXFL
伊達政宗が伊達政宗を起こすとどうなるんだろう?
0260人間七七四年2013/09/02(月) 12:04:29.37ID:+VWD5GcO
起きない相手に酒を垂らすくらいはやりそうだな。
0261人間七七四年2013/09/02(月) 14:34:35.23ID:G5+2hvDA
独眠竜 政宗
0262人間七七四年2013/09/02(月) 15:44:00.92ID:Ffu7UxG1
臥竜っぽいな
0263人間七七四年2013/09/02(月) 22:57:03.01ID:LfGqrUcP
まとめの「上原能登守輝幸・中務父子顛末」に出てくる上原能登守輝幸には海野長門守幸光という兄がおり、
矢沢頼綱に「海野兄弟猛勇の兵なり」と言わせるほどの武勇を誇っていた。
幸光は真田昌幸に仕え、岩櫃城を任されていた。

しかし天正9年に鎌原、湯本、植栗、池田、浦野、西久保、横谷の七人から昌幸へ
「海野兄弟に逆心あり」と注進されてしまった。
昌幸は弟の隠岐守昌君を中心に海野兄弟討伐の軍を派遣し、それぞれの館を襲った

弟輝幸のこの時の武勇伝はまとめにも出ているが、幸光の抵抗もすさまじかった。
幸光は御年75歳、体はまだ動くが目はほとんど見えなかった。
そこで幸光は甲冑で身を包んだ上で部屋に麻ガラをばらまき、敵兵がそれを踏み折る音を頼りに
三尺五寸の太刀でもってこれを叩っ斬った
たちまち敵兵14,15人を斬り伏せた。
そして敵兵が四方へ逃げたところで、「もはやこれまで」と
腹を十文字にかっさばいて切腹した。

哀れ幸光、その35歳(?!)の妻と14歳の娘も、国元である越後へ落ち延びようとしたが
敵に囲まれて、家来である渡利常陸守がこれを殺した。

『羽尾記』より
0264人間七七四年2013/09/03(火) 01:21:55.88ID:YeE+lilo
真田軍記の海野能登守自刃か
0265人間七七四年2013/09/03(火) 08:37:51.77ID:6542c/7s
>>263
貴重な年の差夫婦が
0266人間七七四年2013/09/03(火) 12:15:36.03ID:mh+e5N4I
75歳でそれほどの武勇を表せたのなら、ある意味いい話かもしれないな
0267人間七七四年2013/09/03(火) 17:23:56.84ID:JbuHno4d
日向伊東家においては、『四天王』と称する家柄は、それぞれ二つある。

その一つは、山田、荒武、津留、大脇の四家であり、これは興禅公(伊東祐重(氏佑))が
京より下向されるとき、先に国元にあってこの下向を周旋した人々である。

もう一つは、稲津、落合、湯地、川崎の四家であって、こちらは興禅公に供奉して
京都より来た人々である。

この人々は下向の衆であるからとして客座に着座し、国元に在った四家は
居付きの衆であるからと主座に着座する慣例となっていた。

これはいずれの四家も序列の甲乙がつけがたいため、このように命じられたのだという。
(日向纂記)

「四天王だけど五人六人いる」というのはいくつかありますが、こちらは
『四天王Aと四天王Bの二つ有る』という、斬新な形態である。
0268人間七七四年2013/09/03(火) 19:35:18.14ID:bh4mIP9F
満州八旗みたいなものか
0269人間七七四年2013/09/04(水) 04:27:47.17ID:P8HCoiTH
恒例の細川忠興から忠利宛の書状ネタ。
 
  あの茶釜を(忠興弟の)興元が欲しがっているようだが、おかしくてたまらぬ。
  興元にあの良さがわかるはずがない。
  あの釜は貴方が思っている以上に良い物だ。
  他の者にやるなどと言わず、是非とも自分に譲って欲しい。
  興元には別の釜をやればいい。

忠興、興元兄弟和解後の元和期に書かれた書状だが、
利休高弟の自負心溢れるいかにも忠興らしいお手紙でした。
0270人間七七四年2013/09/04(水) 09:27:57.80ID:yDSF2cya
本当に良い釜だったのか?ただの興元さんへの嫌がらせなのか?それが問題だ
0271人間七七四年2013/09/04(水) 14:02:05.05ID:NBMDFz4+
>266、討ち取られなきゃおにいちゃん以上に生きるんじゃないか?
・・・パパンって高野山とかいかなきゃもっと長生きしたんだろうな
0272人間七七四年2013/09/04(水) 18:44:23.54ID:KnFbnJks
度々仕物(暗殺)で手柄を立てた士がいた。若い士がその心得を問うたのに
答えていわく

だいたい仕物というのは相手に刀も抜かせずに切ろうと言うのは早計だ。
それでは多くは仕損じてしまう。

まず第一に後ろからは斬りつけないものだ。
これは有利不利ではなく近寄って人を斬る前に声を掛けなくては騙し討ち
になるので必ず声を掛ける。

その時に心得た者なら前へ一、二間ほど飛びのいてから振り返りざまに
抜き合わせるので、先に太刀を打つこともできずに慌ててしまい仕損じる
ものだ。

前から斬りつけるのは有利ばかりという訳でもないが得もある。
その者は後ろには飛べず、互いに向かい合って「御意である」と言って、
刀に手を掛ける。これが先太刀なのだ。

相手が心得たりと刀に手を掛けた時には、我は半ば抜いている。
相手が半ば抜いた時には、我は全て抜き放っている。
相手が全て抜き放った時には、我は斬りかかっている。

これが先に太刀を抜かせぬ理なのだ。こうして心を静めれば仕損じる事は
無いものだと語った。

(翁草)

姓名不詳の仕物名人のお話
0273人間七七四年2013/09/04(水) 20:39:20.30ID:MAm0IXz/
天正18年(1590)2月16日の夜、諸国一斉の大地震が在った。
中でも安房、上総の両国は殊更ひどく、山が崩れ海を埋め、見る見るうちに土が盛り上がって
丘になった所もあった。
社頭、仏閣、寺院、坊、寮、また士農工商の家々尽くが倒壊した。
まさに稀有の出来事であった。

明け方になると海では潮がにわかに引いて、30余町(およそ3.3km)も干上がった。

古く伝えられたところには、康安元年(1361)7月24日の地震で、摂津国難波浦で数百町が干上がったことが
在ったというし、またその時には、阿波国鳴門の沖数十町が干潟となり、周防国では海中に
20丈ばかりの島が浮き上がったという。
このように先例がないわけではないが、この辺りでは初めてのことであった。
これに津々浦々の漁夫、海人は言うまでもなく、村里の老若男女尽く、肝を冷やさぬものは居なかった。

海が干上がった場所では、波打ち際や切り岸の間に、螺、栄螺、蛸、鮑、海藻磯菜が充満して、
足の踏み場もないほどであった。
人々は、最初はただただ仰天していただけだったが、里の子供たちが争ってこれらの獲物を
拾い集めた。魚や貝などがいくらでも取れた。

しかし、翌々日の10日夜半になって、遥か沖合に鳴動が聞こえ、黒雲の渦巻くのが見えた。
人々はこれを見て

「すわ!津波だ!」

と叫び、妻子の手を引いて争って山へと逃げた。
しばらくすると案の定、高波が打ち寄せ、うねるように波がみなぎり湧いて、数十丈(1丈約3メートル)の
山々の中腹まで水が押し寄せた。
民家は尽く波に飲み込まれ、人馬の溺れ死んだものはその数をしれず、堤は切れ、橋は落ち、
陸地を船が往来した。

安房、上総、下総の浦々45ヶ所全てが一様にこの高波の被害を受けた。
その名残であろうか、波の引いた後、そこにあふれた魚の名前が、今の地名に残っている。
例えば「鱸の谷」「鯛の谷」などという地名である。
常陸国の浦々も、これとだいたい同じ惨状であった。

数日の後、地震も止み、波も引いたが、およそ20日の間、死体となった人間や牛馬、
また家財道具などが磯辺に流れ寄せた。
小舟に乗ってこれらの死体を引き上げ葬った者もあり、また家財を拾い集めて一儲けした者もあった。
(関八州古戦録)

天正18年の、東国での大地震と津波についての記録である。
0274人間七七四年2013/09/04(水) 20:56:24.31ID:SytOrjOi
>>272
深い
0275人間七七四年2013/09/04(水) 20:57:52.44ID:06Ly+HhY
>>273
津波がずいぶんのんびりしてるな
0276人間七七四年2013/09/04(水) 21:30:26.98ID:WAyvec6c
>>273
翌々日の「10日」は「18日」の間違いということでよろしいか?
0277人間七七四年2013/09/04(水) 21:32:07.66ID:0kSJD+lc
>>276
すいません、記入ミスです
0278人間七七四年2013/09/05(木) 00:33:42.92ID:Z7myl96m
豊後でも大船をつける港として利用されていた湾内の島が海中に没したことがあったけど、もっと前の地震だったかな?

今世紀は日本周辺の火山活動が活発化するとされているから、もう数回震災クラスを体験することになるのかな
0279人間七七四年2013/09/05(木) 00:52:10.26ID:OfF2ABMu
瓜生島だな。
確実な資料が無くて諸説あるけど、
あれもほぼ同時期のはず。
0280人間七七四年2013/09/05(木) 16:42:56.15ID:n8IVE67a
聚楽城の生身魂祝

天正十九年七月、秀次公から生身魂の御膳が聚楽へと差し上げられ、
秀吉公、北政所、松の丸殿、淀殿が座を共にして祝われ、その日の
御馳走として観世今春方松に能を仰せ付けられていた。

秀吉公は「今日は秀次の馳走であるから客人の望み次第であるな。
能の番組は何であろうか」と仰せられ、方松は「白髭・忠度・野の宮
でございます」と申し上げた。

秀吉公はこれを聞いて「脇能は誓願寺をいたせ」と告げたが、方松は
「古より脇能は目出度い神祇の能を用います。誓願寺などは如何かと
存じますが」と答えた。

秀吉公が再び仰せられたのは「阿弥陀如来は九品の浄土の主である。
その主たる身が喜び踊り上がるのは、ますます目出度い事だろう。
さすれば今日の能は誓願寺を脇能に致すべし」との事で、その通りに
相勤められたと言う。

(翁草)

なお生身魂(いきみたま)は御盆の前に生きている目上の人に対して
馳走すると言う習慣だそうな。

秀次の孝行ぶりと秀吉のちょっとだけ我儘な話
0281人間七七四年2013/09/05(木) 20:23:36.48ID:U/JkuELF
文明18年(1486)、日向伊東氏の一族である伊東二郎佑邑は日知屋の城主であったが、
豊後の大友家に遣いを出して隣国のよしみを通じた。これは、現在伊東家が戦っている
島津家が大敵であるために、大友家と有効を深めれば国家(伊東家)の強みになるとの
趣旨からであった。

ところが佑邑のこの行為に対し、『国家のためではなく我が身のためにやっているのだ』との
流言が言われた。

これは伊東佑邑の舅が、伊東家重臣の野村右衛門佐であり、彼の一族は伊東領内11箇所の
城主に任じられ、野村の威勢は、当時並ぶものが無く、また自らも恣なる挙動が多かった。
其の上先代の光照公(伊東祐国)が楠原の戦いで戦死(文明17年(1485))した時、それは
指揮をとった野村右衛門佐の作戦が悪かったためだと、国中の者達が爪弾きにして彼を憎んだ。

そのように野村に悪評が集中していた時期だったため、この事も、伊東宗家には
光照公の正しき嫡男である伊東尹祐が居るにもかかわらず、それを差し置いて、婿である
佑邑を家督に据えようとしているのだ、と疑われたのである。

同年、4月9日の事である。
その日伊東佑邑は日知屋の屋敷で早く起き、発句を考えていた。そして

『露はおき 萩はまだぬる朝哉』

と、発句を吟じた、その時、
その声を合図にしたように刺客が現れ、たちまちに佑邑の首を獲った。
同時に野村右衛門佐父子を始めとした野村一族の11箇所の城に伊東家の軍勢が押し寄せ、
尽く腹を切らせた。
伊東宗家による野村一門への粛清であった。
この事は、後に「野村の乱」と呼ばれた。

ところでこの時殺された伊東佑邑は、この後、伊東家に祟りをなしたらしい。
そこで享禄4年(1531)12月13日、都於郡一乗院にて、この佑邑を祭り八幡大菩薩と崇めたが、
しかしその霊魂が祟りをなすことを止めることは出来なかった。
そのため、遂には天文5年(1536)重ねて佑邑の霊を国富荘本郷に移して神とし、
さらに、朝廷に奏聞を経て、加護八幡の勅号を賜ったのである。
(日向纂記)

戦国初期の日向伊東家における「野村の乱」と、その後の祟りについての逸話である。
0282人間七七四年2013/09/06(金) 22:12:05.30ID:RdyeBw4w
鶴岡監督や浅香光代が激怒しそうな乱だな
0283人間七七四年2013/09/06(金) 22:27:51.45ID:3+5POUxL
上州は吾妻の地に羽尾治部入道道雲(幸全)という人物がいた。
海野長門守幸光、海野能登守輝幸兄弟の兄である。
羽尾道雲は同じく海野氏族である鎌原宮内少輔と西吾妻の覇権を争っていた。
武田信玄による仲裁も入ったが、結局鎌原宮内少輔は自領を追われて信濃へ逃れた。

永禄五年六月、羽尾道雲が万座温泉に湯治に出かけた隙をついて、鎌原宮内少輔はこれを奪還する。
逆に今度は羽尾道雲が信濃へ逃れた。
羽尾道雲はまた領土を取り戻すべく、自身の親類で鎌原氏の重臣である樋口某に「勝てば鎌原領はおまえのものだ」と内通を呼びかけた。

樋口某はこれに応じ、「攻めるのであれば雪が深くならないうちが良い。大前方面から攻めれば宮内少輔は自ら出てくるはずだ。
それで出陣の際は宮内少輔は黒い馬に、私は葦毛の馬に乗って出る。黒い馬を目印にこれに乗っている宮内少輔を鉄砲で撃て」と助言した。

そして羽尾道雲は大前方面から兵を進めた。
それを討つべく宮内少輔も樋口某を連れて兵を進めようとした。

すると鳥居川を渡ったところで、宮内少輔の馬が足を前膝を折って伏せてしまった。
「この馬は足立ちが悪い。樋口某、馬を代えてくれないか?」
さすがにこの場で断るわけにもいかないので樋口は力なくそれを受け入れた。

しかしだんだん戦場が近づいてきて鉄砲の音が聞こえると樋口は自分が撃たれると怖くなり、
そこかしこで止まったりしたため、宮内少輔からは1町ほど離れてしまった。
それ(樋口某の旗印が後方にある様子か)を見た羽尾入道は「樋口は内応するつもりだから後方にいるのだろう」
と特に異変には気付かなかった。

そしてついにその時が来た。
羽尾道雲に「黒い馬に乗った将が来たら、それを撃て」と命じられて潜んでいた鉄砲名人の猟師が、
黒い馬に乗った樋口某を見つけ、これを撃ったのだ。
猟師が撃った弾は樋口某の銅丸を打ち抜き、さらにその遠くにいた郎党の頭を打ち抜いた。

その報告を聞いた羽尾入道は「大将は討たれ、残った樋口は味方だからもう大丈夫だ!」と弓鉄砲を袋に収めさせ、
弁当を出させて宴会を始めた。
そこへ無傷な状態の鎌原軍が襲い掛かり、さらに裏切り者も出たため、戦いに敗れ羽尾入道は1騎で落ち延びたのだそうな。
0284人間七七四年2013/09/07(土) 02:57:41.47ID:e7W2zYB8
策士策に溺れる・・・いや狩人罠にかかるのほうが近いか。
0285人間七七四年2013/09/07(土) 18:06:04.11ID:7bpdfZ+l
天正十九年、豊臣秀吉は南部信直の老臣、九戸政実が陸奥国において諸士を集めて
近郷を掠め、土民を悩ましていると知ると、関白秀次を大将として進発させた。

この時、仕置軍の攻撃に城を保ち難く感じた九戸政実は、九月七日の夜、密かに
浅野長政の陣所に行き「信直の本領を安堵してくださるなら速やかに城を退く」と告げた。

長政はこれを許諾し、政実と南部の家臣、櫛引出雲某を許し、その他数百人を焼殺した。
八日、政実と久慈備前某を連れて、秀次の陣営は会津に至るところであった。

その時、秀次は、「長政が我が命を受けずに政実を許したことは無礼である」と怒り、
長政に命じて中途で政実を誅殺した。凱旋の後に南部家の所領に差し障りがなかったのは、
長政が先の政実との約束を違えずに言上したからであった。

――『寛政重修諸家譜』
0286人間七七四年2013/09/08(日) 08:15:26.33ID:uYQMvhav
天正19年…
九戸政実の乱の際、九戸城包囲の陣中でのこと。

蒲生氏郷の陣では、馬を放つ事・喧嘩・大声・抜け駆け等は法度で堅く禁じられていた。
しかし、このとき蒲生家に仕えていた関東侍どもは、そんなことも知らない新参者どもであり、
己の勇気の命ずるがまま、抜け駆けして名を上げ、褒賞に与ってやろうと思ったか、
二騎の関東侍が連れ立って、勝手に城の堀際まで進んで行ってしまった。

これを軍奉行や横目の面々が氏郷に報告し、
氏郷は「志は勇ましいが、法度で禁じてあること故、その者らを切腹させよ」と申しつけた。
二人の関東侍はこれを聞いて津軽勢の小屋に逃げ込んだが、そこまで押し掛けて二人に腹を切らせた。

ところが今度は陣中の車丹波守が同じ関東侍と喧嘩を始め、
頭にきた氏郷は、「関東の奴らほど、法度を守らん連中はおらぬな!」
と蒲生家中の関東侍たちに一人残らず暇を出してしまった。

かの車丹波守は、元は佐竹義宣に仕えた高名な勇士であったが、
その後は蒲生郷可から扶持を受けたということだ(陪臣として仕えるならよかったらしい)。

(氏郷記)より


坂東武者の好き勝手に流石の氏郷も手を焼く、というお話。
ところでこの車丹波、後に上杉家に行くことになるのだが、
そこでも直江兼続に「こんな自分勝手な奴はクビにしてしまえ!」と言われていたりする…
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2935.html)
0287人間七七四年2013/09/08(日) 09:23:28.87ID:1WybXo7F
車丹波は一夢庵風流記で名前が上がってたね
0288人間七七四年2013/09/08(日) 19:00:55.98ID:HcnRaQ8K
車善七の父親なのか
しかし武士の息子が、いくら役得があるとはいえ非人ってのも不思議な話
0289人間七七四年2013/09/08(日) 20:12:31.73ID:z8mEpRp4
 関ヶ原で敗れて領国を二ヶ国に減らされたのは宣教師を放置した天罰であると
仏僧からそそのかされた毛利輝元は1602年に宣教師追放令を出した。宣教師の
いなくなった山口では代わりに熊谷元直というキリシタン武士がキリシタンの
庇護者として活動していた。元直は源平の合戦で活躍した熊谷直実の末裔で
毛利輝元に仕える有力な家臣であった。
 熊谷元直の娘もまたキリシタンであるが、仏教徒の領主と結婚していた。元直は
この婿をキリシタンに改宗させようとしたがうまくいかなかった。そして、その娘が
元直の自宅で亡くなった時、婿の菩提寺の仏僧たちがやってきて葬式をするために
娘の遺体を引き渡すよう元直に要求した。
 元直は娘はキリシタンとして埋葬するから絶対に遺体は渡さないと拒否した。このため、
仏僧との間で大論争となり、仏僧側が毛利輝元にこの問題を持ち込むと脅すと、元直は
数人のキリシタンを呼んで密かに娘を埋葬した。そして、その後で適当な重さの
石を入れた棺に外側を布でおおいつくして、それを仏僧たちに引き渡した。彼らは
娘の遺体を運んでいると思い、おおいに満足した。熊谷元直はもっと満足であった。
仏僧たちが娘の遺体を手中にしていないかぎり、仏教の葬式をおこなっても問題ない
と考えていたからである。(1605年イエズス会年報)
0290人間七七四年2013/09/08(日) 21:50:57.53ID:Ad/JEcID
宗教とか一族で揉める家系だな
鎌倉時代から現代まで、よくもまあ続いてるな
0291人間七七四年2013/09/08(日) 22:34:59.37ID:XsdrgKMh
熊谷さんとこは結局TERUによくわからない罪を問われてお取り潰しに。
吉川家にとっては母方なんだけどな。
0292人間七七四年2013/09/09(月) 08:26:09.93ID:8YOO3LBA
吉川は宗家とはともかく、家臣たちには評判が悪かったんだっけ?
0293人間七七四年2013/09/09(月) 14:09:44.03ID:5qkKBWo3
宣教師を放置した天罰なら宣教師を大切にするんじゃないかな?
それとも俺の感性がおかしいのか
0294人間七七四年2013/09/09(月) 14:33:30.27ID:YvfkpleT
野放しにした、と読み変えるがよろし
0295人間七七四年2013/09/09(月) 18:02:30.82ID:UcA1eE+g
 イエズス会年報によると関ヶ原の合戦が起きる前、毛利輝元は広島の市に宣教師が
常駐することを認めていた。そのように布教活動を許して野放しにしていたことが
敗戦という天罰を招いたと仏僧たちは輝元に主張していたわけだ。
0296人間七七四年2013/09/10(火) 21:51:59.08ID:gmqUApuH
後の上杉謙信、長尾虎千代がちょうど6歳の時のことである。
虎千代はあまりに乱暴や我儘が甚だしく、父親である長尾為景もほとほと困り果て、
手習いや学問を学ばせれば、少しは性格も治ると考え、春日山城下の禅院・仙林寺の
天室和尚の元に預けられた。

ところが、虎千代はなかなか、師の坊主のグズグズした意見など受け入れる様子はなく、
暇さえあれば相撲を取るとか庭木を伐るとか、小僧を泣かし寺男を困らせることを
毎日の日課のようにして過ごした。

寛仁大度の天室和尚ではあったが、もはや手のつけようがなく、為景に事情を知らせ
春日山城へと送り返した。これは翌7歳の時のことである。

これには為景も仕方なく、家臣の加治安芸守春綱を頼んで、彼の養子とし家の安泰を図ろうと
思ったが、これは虎千代が承知をしなかった。

そこで為景は再び天室和尚と相談し、今度は下越後・古志郡なる栃尾の浄安寺に預けることにした。
そしてこれが、虎千代と長尾為景の父子の、永遠の別れともなった。
(上杉謙信言行録)

どうしようもなく凶暴だったらしい、上杉謙信の幼少期についての逸話である。
0297人間七七四年2013/09/10(火) 22:22:52.67ID:4KOPYZhu
壮年期も関東にとってはどうしようもなく凶暴ですから
0298人間七七四年2013/09/10(火) 22:24:19.66ID:o00DY311
諦めんなよ父ちゃん
0299人間七七四年2013/09/10(火) 22:32:35.90ID:ScdTIMwV
三つ子の魂百まで、だな…
0300人間七七四年2013/09/10(火) 23:01:06.49ID:xCbFLYSa
これが軍神教育なわけだ
0301人間七七四年2013/09/10(火) 23:04:53.10ID:3pSLM9xq
なんか怖いな
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