1595年、豊臣秀吉が非常に可愛がっていた甥の秀俊(豊臣秀保とも呼ばれる。関白豊臣秀次の
弟にあたる)が死去したため、秀吉は非常に盛大で荘厳な葬儀を行うことにした。
 この葬儀には前田玄以の長男で、すでにキリシタンであった前田左近将監秀以も、他の人々と
一緒に招待されたので出席しなければならなかった。葬儀が始まってから秀以は、困ったことに
直面していることに気づいた。葬儀では仏教の形式に従って故人の像に敬意を捧げて
焼香しなければならないのだが、キリシタンである秀以がこれをすると背教者となってしまう
恐れがあるのだ。かといって立場上、拒否するわけにもいかずに悩んだ末、秀以は席を外して
自分の名前が呼ばれる時には その場にいないようにした。
 葬儀で参加者たちを順番に呼び出す係の者は、秀以が退出した理由をすぐに察したので
わざと前田秀以の名前を小さく呼び、そして、すぐ後に次の者の名前を呼んだ。幸いなことに
参加者たちの人数があまりにも多かったため、前田秀以の不在は気づかれずに済んだ。
(イエズス会日本年報 ルイス・フロイス書簡)