戦国ちょっといい話37
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0869人間七七四年
2013/08/11(日) NY:AN:NY.ANID:3dCBIko2ビッグマウスは主君だけでなく、その家臣もだった
いわき市に残されている文化財の一つ 片倉小十郎景綱の書状 より
ttp://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10090.002/html/00180.html 以下に引用元 画像有り
「〜伊達政宗の家臣・片倉小十郎景綱(一五五七〜一六一五)が、天正十八年(一五九○)六月十四日、
岩城常隆の執権(家老)の志賀甘釣斎武治・右 衛門尉武清親子に宛てたものである。」 ここまでが引用
「〜書状の概略は次の通りである。
主人の政宗が秀吉のもとに行き万事思い通りとなった。岩城家も進退がうまく行くよう政宗が申し入れて置いた。
秀吉喜んで、政宗に出羽・陸奥両国を任せると言っていた。岩城家は政宗の取り成しで別状はないから、
秀吉への用向きは政宗に相談すると良い。それをしなければ秀吉は望みを叶えてくれないから予め貴方に申しておく。
奥羽両国は政宗が支配することになった。そのため相馬が政宗の不在中に伊達を攻めたので相馬を討つことにした。
だから岩城も遅れずに参加するよう常隆様に申してください。そのことが常隆様の御為になります。」 ここまでが引用
だが、現実は政宗は奥羽統一どころか会津没収・減封な訳で、岩城常隆はこの後、鎌倉で病死…家督は佐竹家へ。
もし、常隆がこの書状を鵜呑みにしたまま小田原に参陣したならば、直面した現実はさぞや厳しかったであろうと推察する。
恐るべきは伊達主従の口車、いや、戦国の世ということであろう…
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