有るとき、伊達政宗が若林城(政宗の隠居城)南の川除普請を行った時に、
政宗公が仰ったことである

「昔の話だが、その頃、年月がたって水により橋が傷んでな、このままでは役に立たなく成ると
思ったのだが、普請益を負わされる人民の潰えを思って悩んでいたところ、ある事があって、普請を
家中の全ての侍衆に頼むことになったのだ。

尤も普請場には少数の人数が置いてあり、そこに先ず1日づつ侍衆が出て、是非精を出せと申し付けたのだが、
時期は8月の末でな、世の中、気温がいっそう冷え込んできて、若者たちでも川の中に、
しばらくも入ることができないほど水温が冷たくなった折節であったので、普請も中々進まず、
五日十日の内に出来るとも思えぬ状況であった。

そういった状況であったので、普請は次の日に行うとし、その日は日暮れに皆ををれぞれの宿所に
帰すようにさせ、『明日は思い思いに、少々おどけた、気楽な心持ちで罷り出てくるように。』と伝えた。

さてその日、人を使って普請の様子を尋ねたところ、大川の、しかも水を先に迂回させる
大工事であるので、なかなか工事が捗らないようなことを言うので、直接普請場に行って
そこで貝を吹かせて集合させ、色々と諌めたのだが、寒いのは寒いし、川の水流は遡るにしたがって
強くなるし、なかなか普請の者たちも、いさみかねる状況であった。

その時私は、『行動するのはここだな』と思い切り、南次郎吉という小姓を相手にして、
いかにもむさ苦しいモッコに土を入れて叫んだ

『おのおの、進めや進めや!私も自身この有様であるぞ!見よ!』

そういって6,7度これを川の中に運んだ。

これを見ると、普請場に居た下々は言うに及ばず、侍以外の、普請見物に来ていた町人や在村の者達まで
自分から川まで進んできて、一度にわめき叫ぶと、土砂くれによらず何によらず、手にあたったのを幸いと
持ち寄り持ち寄り、川の中に運んで水をせき止めた。これだけの大川であったが、私一人の下知によって、
片時ばかりの間に普請が進んだのだよ。

こういうことを思い出すにつけても、昔が懐かしくなるなあ。
さてさて、我が家中ながら皆心根もよく、小気味の良い有様であった。」

そうお話されたのである。
(政宗公御名語集)