戦国ちょっといい話37
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0814人間七七四年
2013/08/01(木) NY:AN:NY.ANID:dTvFgpKp「関白秀次が高野山にて自害した時のこと(文禄4年(1595)秀次事件)である。
太閤殿下(秀吉)に、私が殿下に背こうとしていると讒言するものがあったため、私は
十騎ばかりで急ぎ大坂へと上った。
枚方まで至った時に、石田(三成)、富田(一白)、施薬院(全宗)が御使として来て、
『其の方は関白ととりわけ睦まじい間柄であったこと、隠れない事実である。
その仔細を正直に申せ』
との事である。私は畏まって
『いかにも秀次公には親しくしていました、されども、太閤殿下の天下無双の御眼鏡であってさえ、
思いの外に違われたからこそ、このような事態になったのではありませんか!
まして私は片目であり、見損なうのは当然のことだと思われませんか!?
秀次公は殿下の御子として世を譲るのだと聞いていたからこそ、私も取り入ったのです。
ただ殿下をお頼みしたいとそうしたのです。
それを過ちであるとお考えに成るのなら、仕方ありません。どうぞ私の首を刎ねて下さい。』
これを聞いた施薬院は慌てて
『そのような反論をどうして殿下に申次できるでしょうか。取り成しすることもできません。』
私は施薬院を睨みつけて怒鳴った
『おぬしは病人を扱う事こそ知っているのだろうが、武士の道をどうやって知れようか!
ただ此の侭に申せ!』
私の言葉に3人はどうにも出来ず帰っていった。
翌日、太閤殿下より富田左近(一白)が遣わされて、
『翌日、(大阪城)山里曲輪にて御茶を賜るので、かならず来るように』
と伝えられた。その日になって私は、ただ二騎を引き連れて大阪に行くと、
富田左近の家来の侍一人が案内として出てきた。それを先に立たせて御庭に行ったが、
樹木が隙間なく立っている所に到って、その案内の侍が、どこに行ったのか影も形もなかった。
そういうことか、私はここで討ち殺されるのだ
そう心を定めていると、茶頭のような姿をしたものがやって来て、『刀脇差を出して頂きたい』と言う
『なに!?侍の刀をよこせとはどういうことだ!?』と叫んだ所で太閤殿下が木陰より歩み出て
『和尚、そちらに出ているのか?』
と、例の大きな声で言われたので、私は刀をその茶頭に渡して殿下のもとに進むと、
『こちらに来い』と茶室に招き入れられ、手ずからの茶を頂き、何事も無く暇を許されたのだ。」
(話園)
秀次事件の後、秀吉に呼び出された政宗についての逸話である。
0815人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:aP8Lb7CL大名自らこういう記録を残してくれたのは後世の者にとっていい話ということで、整理して書いてみようと思う。
○まずは女性たちの身分と名前について。
一、当家の当時の女は、
そばめ(妾也):身馴、色香
膝本(妾):八重
奥:滝野
家見:小梁
中居:七、梶本、貝、糸竹、松(半下)、山路、小雪、小重、才、小糸、岩
まゝたゝき:田巻(上方)、若江(同)、もミぢ(次方)、柳(同)、坂本女、杉、松、塩、吉
筆取:井筒(中居)、縁(上)
下女:藤、梅、玉、なべ。以上。
○外出する時は
一、傍女、妾、ひざもと(膝本)ハのりもの。
一、奥、家見、次(の)のりもの。中居以下歩行。
中居ハぼうし、その上「奥かミ」麻かつぎ、ひざもとより上ハ衣かつぎ(の使用を許されていた)。
0816人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:aP8Lb7CL一、政則の時より、
・傍女には、ひたい櫛、根櫛(べつがう<鼈甲>)ぞうげ)、銀まきゑ。髪は片曲結。
下に白むくりんず<綸子>、上に紫かのこ<鹿の子>上ほりに、ぬいちらし小袖。
帯ハぬいの帯、織紋帯にうしろ帯。
銀のかんざし、帯は五尺さがり、三重りんず、手おゝひ、白きぬたび、しゅすさげ帯(是ハ節日)
夏ハすゞしの織。色は右に同じ。
・妾女は、ぞうげ根櫛、つげの添櫛、髪は片曲。
下に白むく、上に紫かのこ上ほりに、しゅす<繻子>小袖、
帯は織紋うしろ帯、
帯は五尺さがり、二重白衣、手おゝひ、白たび、染衣、さげ帯。
・奥かミは、ぞうげ根櫛、髪は片曲。
下に白むく、上にしゅす、りんず、色小袖、上ほりしゅす。
帯はちりめん、りんず。
右袖下三尺さがり、二重さげ帯なし。白衣、手おゝひ、白たび。
夏は右に準ず。以上。
・節日の中居は、兵庫わけかミ<髪>、
染小袖、下に白むく。さげ帯ならず。前おび、櫛は根ぐし計、ぞうげ又ハつげ、
手おゝひ、たび、ならず。
・そばめは、高雄、吉野のるい。
・妾は、右に同じ。或ハ巻絹、小琴。
・奥かミは、小梶るいなど。
・中居は、七、梁、梶のるい。
・以下は、若な、もみぢのるい。
一、内室は、根櫛:ぞうげ、金まきゑ。ひたい櫛:べつかう、金まきゑ。
下にりんず、或ハしゅす。上に紅紫、ぬひちらし、上ほり金入織紋。
髪はさげ髪。金のかんざし、
金織紋、おび三重五尺、うしろ帯、しゅちんのさげ帯。
白りんずたび、織赤紋、ておゝい、色のふく面。
節日、夏も右に準ず。
そばめ、妾女、ふく面はまれ也。名は国名又は何の御方。
当時、身馴ばかり白衣ふくめん。
(秘事枕(播陽万宝知恵袋に収録))
0817人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:FGrSjeTP0818人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:JzFxxB+f「今世上で目付・横目(人々の監視役)といえば、諸人に迷惑をかけ、
しかも良いことは少なく悪いことは多い連中だ。
俺は若い頃から今まで、目付・横目という物を付けたいと思ったことはない。
物事の仕置を、目付・横目を付けて、それに脅させて法度を人々に聞かせようというのは、
穢い心だ。
そもそも目付・横目を付けるというのは、法度を執行した時の反応について、良い事も悪い事も
知るためなのだ。
それなのに、ああいう連中は良い事は百に一つも取り上げず、どうにかして悪いことを聞き立てて
言おう言おうとするのだから、悪い事は多く報告され、こちらは報告された以上対処せざるを得ない。
しかし、本当に悪しき者というのは、そういった目付・横目の前では行いを忍び、陰でいくらでも
悪事をしているものだ。そうなのだから本当の悪人が失うものは何もない。
それに、いくら目付・横目を付けた所で、その法度に対して最初から好意を持たないものは、
そうしたからといって好意を持つように成ることは無いだろう。
『法度を聞け聞け!』といくら言っても、無理に聞くものでは無い。いくら目付・横目を使っても、
法度を聞くのは結局、皆それぞれの心次第なのだ。
それらを差し置いても、我が家を代々変わらず支えてくれる、何より大切にしている者たちを、
そう言うふうに心を疑い無慈悲に扱うなんて、そんな事俺は嫌だ。
(とかく代々に変らず何より秘蔵なる者さやうに心うたぐり無慈悲なる事我等はいやなり)
横目を付けずに、今まで事欠いたこともない。見事善悪も知ることが出来て、かえって良いほどだ。」
(政宗公御名語集)
伊達政宗、目付・横目を嫌う、という話である。
0819人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:iqFlO0Wf0820人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:gEW9WFUH0821人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:Z2S3fWhj色々やってたっけねえ、そういえば。
本人基準では悪事じゃないかもしれんがw
0822人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:x/8x+kACさすが政宗公!俺たちに(ry
0823人間七七四年
2013/08/04(日) NY:AN:NY.ANID:qZB/MT5f>そう言うふうに心を疑い無慈悲に扱うなんて、そんな事俺は嫌だ。
こう言ってさりげなく家臣を持ち上げつつ牽制するあたり上級テクですな。
0824人間七七四年
2013/08/04(日) NY:AN:NY.ANID:qaiKAs5l0825人間七七四年
2013/08/04(日) NY:AN:NY.ANID:ZzcTcTMI彼の平生の志は「主君に仕え奉るのに、一命を上へ差し上げていなければ、
いつも御手討にされると思っていなければ忠臣ではない」というものであったという。
これゆえに、彼はいつも妻子に暇乞いして出仕していた。
彼は御前に出る時には「いつだろうと顔を犯して争い諫め、御手討にされるつもりで」
と、志を定めていたという。ある時、徳川頼宣が何事かを言った時に、
彼は頼宣の腹を指して「今の御意と御腹中とは違いがあります。
よくよく御顧みになってください」と、苦々しく申し上げたということである。
――『責而者草(加納五郎左衛門行状)』
0826人間七七四年
2013/08/04(日) NY:AN:NY.ANID:i8cdWFgq0827人間七七四年
2013/08/05(月) NY:AN:NY.ANID:FBEQmZBK0828人間七七四年
2013/08/05(月) NY:AN:NY.ANID:C7EKiTsx大名にまでなった
0829人間七七四年
2013/08/06(火) NY:AN:NY.ANID:vsphjN3+御奉公が進むようにと気を使ったお仕置きをなさっておられました。
政宗公といえば、他家では鬼神のように認識されていると存じていますが、家中の者達に対しては、
ついにお顔付が悪しきところを見たことがありません。
私たちは毎日毎夜、寝て起きて御城に詰め、御奉公いたしましたが、諸人、身分の高いものも低いものも、
御前に罷り出れば、例え立腹しているような時でも、その気持ちをたちまち忘れてしまいました。
いささかたりとも、御前に有りにくく、御奉公し難い、というような事は、夢々にもありませんでした。
御前では老若共に、夫々に座興なども言われ、心の中までゆるゆるとくつろぎ、はりきって御奉公
出来るようにと、環境を整えておられたのです。
そして御奉公申し上げた者には、その善悪を評価し、御知行、御扶持方、御切米、金銀諸道具、
その種類によらず、その時を延ばすことなくご褒美を下されました。
それらも全て、万事御奉公に励むようにと仕掛けられたことなのです。
例えば、御前に人より長く詰めて働いている者には
「そんなに根を詰めては、もはや気も詰まっているだろう。裏の方に行って、心なぐさめ休息してから
また戻ってきてこちらに詰めよ。」と仰せ下さりました。
また、御前に詰めようとしない者には、その事柄をその者の親類などに仰せられ、異見もし、
「よく奉公いたせよ。第一それは其の身其の身の為なのだ。私が家には人材に事欠かないのだから」
と仰せ下されました。
また或いは、患った様子で詰めているものには、直ぐに御暇を下され、「養生するように、今日は休息せよ。」
と仰せ下された。その上で「そもそも役人などというのは、普通の者よりなお一層気詰まりするものだ。」
と言って、夫々が患わぬように、気の詰まらないようにと、魚鳥のたぐいにかぎらず、色々と下され、
「以前の体調に戻るまで養生してから、奉公せよ。何としても、奉公人の患いは其の身のためには
大きな敵である。」
と仰られました。このように至ってお情けの強い方だったのです。
そんな方でしたので、もし又患った、などと聞かれましたら、薬師(医師)に仰せ付け、
その者の病状を、身分の高下にかかわらず何者であっても直にお聞き召され、如何様にも如何様にもと
末々の者にまで厚くお情けをかけられました。
このような事でしたから、私達諸奉公人は、何があろうとも御奉公であれば、火の中水の底までもと、
一心に決意し、御奉公をしていました。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、家臣への接し方についての記録である。
0830人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:2Pikygnt0831人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:zxMNKudQ後ろに政宗が立ってるでしょこれ
0832人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:oM12j7Li0833人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:k04fOTGI小姓の木村宇右衛門が書いた『木村宇右衛門覚書』
従兄弟の伊達成実が書いた『政宗記』『成実記』他
そしてこないだから訳してる人がいる『御名語集』
御名語集は作者不明(成実説もあるが、成実が筆者以外として登場するところもあるので、全部を書いたわけではない)リライト説や侍女の女性説もある
一番辛辣な成実でも、「政宗は素晴らしい主!」が基本なので、他のふたつは言わずもがなの政宗礼賛に終始してる
内部と外部(今ならファンとそれ以外)で政宗のイメージが激しく違うのはそのせいじゃないかな
藩士はこれらの本の逸話教えられて育ってDQN逸話全く知らなかったかもしれん
0834人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:q2XxiHOAある年の元旦に因幡殿は息をひきとられた。
因幡殿が亡くなったと聞いた神右衛門は、
「隣は大勢の出入りで、朝の支度も出来ないだろう。
今日は元日であるから、当家の節料理を差し上げてこい」
と中野の者どもに申しつけた。
家来どもが、
「それは神道でも仏教でも縁起がよくないと思いますが…」
と、嫌な顔をすると、神右衛門は、
「侍というものは死の場にても怯まず助け合うものだ。
こちらの節料理は遅れてもかまわない」
と言い、出来たばかりの節料理を残らず差し上げたとのことだ 【葉隠】
0835人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:9VVyGVOW秀忠公は前年よりの病気が次第に重くなり、正月も半ばには、もはや長くないと思われる様態となった。
この時、秀忠公は伊達政宗様を呼び出され、こう申し出された
「去年のうちから病状が悪化してな、こうしてもう、回復は無理のようだ。
私が、少しでも意識がはっきりしている間に、あなたに言っておきたい事がある。
昔から今に至るまで、あなたの志は一つとして忘れたことがない。
先ず、もう随分昔の話だな、大御所様(家康)が駿河でご病気が重くなった時だ。
あの時、悪しき者達の申し立てで、あなたがこの機に乗じて謀反をするとの風聞があった。
そのために私も、大御所様のご病気にもかかわらず奥州の状況を警戒していたのだ。
ところがそんな状況の中あなたは駿河へと上がられ、江尻に逗留されたが、
ここで大御所様は周りにいた大小名を皆下がらせ、あなた一人を内々に駿河の御殿に呼ばれ、
互いに御存念を語り合い、その上で私の事をあなたにお頼みなされた。
『どうか秀忠を、天下の主として取り立ててほしい。』
大御所様のこのお言葉を、あなたは違えること無く、おかげで私は今日に至るまで、天下に騒動は
一度も起こることなく治めることが出来た。
その天下を私は将軍(家光)に譲る。
これは大御所様があたなに、私のことをお頼みなされたのと、全く同じ事だが、
今また、将軍のことをあなたにお頼み申す。
将軍はまだ若い。なので万事あなたを、親と思えと言っている。
将軍に古きことを聞かせ、また差し出たことなどと遠慮せずに、見苦しいことがあれば
異見をし、天下を安寧に保たせてほしい。どうか、お頼み申す。
そして、あなたも随分年を取られた。あなたのめでたき跡は、ご子息の越前守(忠宗)については、
逆に将軍にその処遇をお預けになられよ。決して粗略にすることはない。
…私が、この53の歳になるまで天下の安寧を保てたのは、偏にあなたのおかげだよ。」
この時、秀忠公、政宗様は互いに涙を落とされたそうである。
(政宗公御名語集)
徳川秀忠による、政宗への遺言である。
0836人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:85PWUyj00837人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:L+7jINdP箱の中から「お前は柿好きだから〜」ってでっかいの探してくれたってやつ
0838人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:ffy7+IV/「あるとき、折(箱)に御所柿を入れて、諸大名へくだされた。
政宗の普請場へいらっしゃったとき「政宗は大物がすきだから、大きくなったのを
欲しいだろう」とおっしゃり、折の中をひっくり返され、「これより大きいのはないぞ」と
言って柿を下された。
政宗は遠国生まれなので(秀吉に仕えはじめるのが遅く)たった1、2年の奉公であるのに
このように気に入られていたのは、神々の加護による人徳だと人々は話していました」
『伊達日記』
政宗逸話のすげーのは、同時代の近臣(この場合は伊達成実)がかいてるのが(一応)
はっきりしてるから逸話の信憑性が他の武将の伝聞逸話と段違いなんだよな。
後世に作られて尾ひれがついた話ともまた違うし。
0839人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:B1SH3gY7桃の時輝元に突き返して顰蹙買ったから痰の毒は政宗にでもやることにしよう」
0840人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:DRtSJFOD他を下げるのはやめとけよ
ちょっと嫌味ったらしいぞ
0841人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:VhQuf07U朝廷は大納言実枝を信忠邸に遣わし、その功を賞して従三位中将に任命し、昇殿を許した。
しかし、これを信忠は「朝恩の厚いことはたとえようもありません。しかしながら父に告げずに
お受けすることは臣下の道ではありません」と言って固辞した。
信忠は実枝が再三すすめても勅命に応じなかったので、帝はその控え目で、
思いのままに振る舞わないことを叡感した。
しばらくして信忠は使いを父信長のもとへ送りこの事を告げた。信長は「久秀は鍛練の老将であったが、
お前は年若くしてわずかなうちにこれを誅滅した。この功は大きなものである。ぜひとも詔を奉じて
官爵をお受けせよ」と言った。ここにいたって信忠はかたじけなくも謹んで勅命を受けた。
――『寛政重修諸家譜』
0842人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:B1SH3gY70843人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:Y3e9JJQK0846人間七七四年
2013/08/09(金) NY:AN:NY.ANID:Gn3m6Oux清兵衛は病気で死に際の時に「今生の望みに、今一度公の御目にかかりたい」と言った。
三左衛門尉は急いでやって来て「どうしたのだ清兵衛。近頃そのような望みがあるとは
知らなかった。申しておきたい事があるならば申すがよい」と言った。
清兵衛は頭を上げて手を合わせ「これまでの入御有難く存じ奉ります。
ただ一言申したき事がございますので、これを申し上げます。君はいつも掘り出しを
御好みになられ、ひたすら士の掘り出しを第一とお思いになられています。
これはよからぬ御癖です。士はその身の程よりも一際相応に仰せ付けられてこそ、
永く御家を立ち去らずに忠勤を致すものです。この事を申すために御目にかかりたかった
のです」と言った。
これに三左衛門尉は「今の諫言はもっともだ。その志は山よりも高く、海よりも深い。
わしは決して忘れない」と、清兵衛の手を取り、涙を流して別れた。
それより池田家の家風はよくなったということである。
――『責而者草(古実話)』
0848人間七七四年
2013/08/09(金) NY:AN:NY.ANID:/FMh7SlT和泉にこんなことを尋ねた
「和泉殿、あなたは書状の往復に困却することは無いか?
私の如きは、幼少より戦場にのみ臨んで、更に読書習字をする暇が無かったために、
今日に至るまで書状の往復には常に困難を感じることが多いのだ。」
和泉はこれを聞くと
「私は61歳までいろはのいの字も知らなかったのです。ですが、かつて高麗在陣の時に、
毛利甲州殿よりの書状が至りました。
その時、私は賊の首実検をしていたのですが、この書状を読もうと思ったものの、それが出来ず、
立花の家老とも称され、60にもなろうという者が書状を読むことさえ出来ないとは、
この和泉一人の恥辱にとどまらないと、冷や汗を流しました。
この時は幸いに、内田玄恕がたまたまこちらに来たので、書状を見せて彼に返書を書かせました。
しかしこの事は深く私の心に刺さった出来事でした。そのため、帰国してから妻にいろはを書かせ、
習字を練習しました。これによって幸いに、今日においてはにじり書きだけは良く出来るようになったのです。」
そう笑いながら語った。
清正は、和泉が謙遜してそんなことを言っているのだと思ったが、他日立花の諸士に聞くと、
果たして小野和泉の言に違いはなかった。
清正は感嘆して、
「古より偽りがないのが武士であるとは聞いているが、和泉ほど偽りのないものは
稀である。小野和泉こそ、真の武士の典型である。」
と語ったそうである。
(古雄逸談)
0849人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:QE5deDv10850人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:7Q+T9pPf出典忘れたけど「この国の人たちはほとんどが読み書きできる」という書状が残ってる
武士で文字が読めない人は珍しかっただろうな
0851人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:4seFcnCN0852人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:RdqJDEZb他の村と同盟結ぶ時も文書交わさなきゃいけなかったから
ある程度の人数、読み書きできる人はいただろうね
0853人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:TgO+iliV他の宣教師や朝鮮人も一様に驚いてるから高かったことは確か
江戸時代と違って率までは推測できないが
0854人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:rf1ru16Q0855人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:TgO+iliV0856人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:oYPyEHVI一概に識字率高かったとは言えないんじゃない?
もちろんそれでも普通の国よりは高かったってことだろうが。
0857人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:TgO+iliV比率はともかく字が読めるレベルとやらに差は無い
0858人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:+q5dUrzN各時代の有名人の母系がらみの系図を作成するべく、あれこれ検索掛けていたら。
大久保忠佐の母親が大臣家の三条西家の人と書いてあるサイトに複数出くわしました。
年代的に見てもあまりにもありえない組み合わせに思えるのですけど、これは本当なんでしょうか?
0859人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:d4ZfabKU0860人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:OFW0q4Ln0861人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:Bm0jeVDH【疑問】スレ立てるまでもない質問11【戦国時代】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1362228842/
0862人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:HIS5h/KI万松院殿(足利義晴)の御治世の前後では、京においてすら文字を書けるものは千人に一人も無かった。
しかし書を成すと云われる程の人は、後の世にも見られないほど見事な書を書かれた。
(義殘後覺)
0863人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:FyiIlVC8政宗公が仰ったことである
「昔の話だが、その頃、年月がたって水により橋が傷んでな、このままでは役に立たなく成ると
思ったのだが、普請益を負わされる人民の潰えを思って悩んでいたところ、ある事があって、普請を
家中の全ての侍衆に頼むことになったのだ。
尤も普請場には少数の人数が置いてあり、そこに先ず1日づつ侍衆が出て、是非精を出せと申し付けたのだが、
時期は8月の末でな、世の中、気温がいっそう冷え込んできて、若者たちでも川の中に、
しばらくも入ることができないほど水温が冷たくなった折節であったので、普請も中々進まず、
五日十日の内に出来るとも思えぬ状況であった。
そういった状況であったので、普請は次の日に行うとし、その日は日暮れに皆ををれぞれの宿所に
帰すようにさせ、『明日は思い思いに、少々おどけた、気楽な心持ちで罷り出てくるように。』と伝えた。
さてその日、人を使って普請の様子を尋ねたところ、大川の、しかも水を先に迂回させる
大工事であるので、なかなか工事が捗らないようなことを言うので、直接普請場に行って
そこで貝を吹かせて集合させ、色々と諌めたのだが、寒いのは寒いし、川の水流は遡るにしたがって
強くなるし、なかなか普請の者たちも、いさみかねる状況であった。
その時私は、『行動するのはここだな』と思い切り、南次郎吉という小姓を相手にして、
いかにもむさ苦しいモッコに土を入れて叫んだ
『おのおの、進めや進めや!私も自身この有様であるぞ!見よ!』
そういって6,7度これを川の中に運んだ。
これを見ると、普請場に居た下々は言うに及ばず、侍以外の、普請見物に来ていた町人や在村の者達まで
自分から川まで進んできて、一度にわめき叫ぶと、土砂くれによらず何によらず、手にあたったのを幸いと
持ち寄り持ち寄り、川の中に運んで水をせき止めた。これだけの大川であったが、私一人の下知によって、
片時ばかりの間に普請が進んだのだよ。
こういうことを思い出すにつけても、昔が懐かしくなるなあ。
さてさて、我が家中ながら皆心根もよく、小気味の良い有様であった。」
そうお話されたのである。
(政宗公御名語集)
0864人間七七四年
2013/08/11(日) NY:AN:NY.ANID:wg9i2krs既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2309.html
0865人間七七四年
2013/08/11(日) NY:AN:NY.ANID:Tt42UUaI8月末で寒くなるのか
旧暦だから9月東北地方と考えても今と違ってかなり寒かったんだろうな
いわゆる小氷河期
0866人間七七四年
2013/08/11(日) NY:AN:NY.ANID:Ln/OyNsxで、平安時代が暑かったとか
0867人間七七四年
2013/08/11(日) NY:AN:NY.ANID:TdhBvaCeこの時、三成が「およそ戦死を好むのは匹夫である。将たらん者は命の危険を避けて、
再び戦を遂げることを本意とする。私は決して臆してなどいない。
なんとかして大坂に至り志を遂げようと望んだが、運が尽きて捕らえられてしまったのだ。
各々方は将帥の法を御存知ないのか!」と、怒ったところ、
これを聞いた福島正則は「至極の理に候。武将たらん者は誰もがそのように心得るべきである。
どうして恥辱とすることだろうか」と言って三成の心を慰めた。人は皆「勇将かな」と褒め称えた。
――『名将言行録』
0868人間七七四年
2013/08/11(日) NY:AN:NY.ANID:Cd1F9Z3F0869人間七七四年
2013/08/11(日) NY:AN:NY.ANID:3dCBIko2ビッグマウスは主君だけでなく、その家臣もだった
いわき市に残されている文化財の一つ 片倉小十郎景綱の書状 より
ttp://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10090.002/html/00180.html 以下に引用元 画像有り
「〜伊達政宗の家臣・片倉小十郎景綱(一五五七〜一六一五)が、天正十八年(一五九○)六月十四日、
岩城常隆の執権(家老)の志賀甘釣斎武治・右 衛門尉武清親子に宛てたものである。」 ここまでが引用
「〜書状の概略は次の通りである。
主人の政宗が秀吉のもとに行き万事思い通りとなった。岩城家も進退がうまく行くよう政宗が申し入れて置いた。
秀吉喜んで、政宗に出羽・陸奥両国を任せると言っていた。岩城家は政宗の取り成しで別状はないから、
秀吉への用向きは政宗に相談すると良い。それをしなければ秀吉は望みを叶えてくれないから予め貴方に申しておく。
奥羽両国は政宗が支配することになった。そのため相馬が政宗の不在中に伊達を攻めたので相馬を討つことにした。
だから岩城も遅れずに参加するよう常隆様に申してください。そのことが常隆様の御為になります。」 ここまでが引用
だが、現実は政宗は奥羽統一どころか会津没収・減封な訳で、岩城常隆はこの後、鎌倉で病死…家督は佐竹家へ。
もし、常隆がこの書状を鵜呑みにしたまま小田原に参陣したならば、直面した現実はさぞや厳しかったであろうと推察する。
恐るべきは伊達主従の口車、いや、戦国の世ということであろう…
0870人間七七四年
2013/08/12(月) NY:AN:NY.ANID:3VREAz16>>ビッグマウスは主君だけでなく、その家臣もだった
そういうことじゃないんじゃないの?それ。
日付から考えたら、必死になってハッタリかましてるとしか解釈できねえんだが。
0871人間七七四年
2013/08/12(月) NY:AN:NY.ANID:9eqnP8j/0872人間七七四年
2013/08/12(月) NY:AN:NY.ANID:MuawoCkTいわゆる、武略ですな。
0873人間七七四年
2013/08/12(月) NY:AN:NY.ANID:4HWbpmGuあとでお取り潰しになった石川とかを一門首座にしてたりするから、あの時はうちのせいでゴメンナサイな意識はあったと思うけどなあ
この岩城常隆の子の政隆を一門にいれたりしてるし
0874人間七七四年
2013/08/12(月) NY:AN:NY.ANID:MkPOZj5f石川についてはそうだろうね
主家から見た傘下大名の処遇という点で
毛利を倣って二人の叔父(政景・昭光)を伴って参陣
していれば状況は変わっていたのかもしれない
政隆の厚遇については、政宗が慕っていた祖母・栽松院が
岩城家出身というのが大きいのでは?
また後年、亀田藩岩城氏が政隆の家系である、岩谷堂伊達家から
養子を迎えている等、旧大名の血筋を保護する事で勢力拡大の
チャンスを狙っていたのかもしれない
0875人間七七四年
2013/08/12(月) NY:AN:NY.ANID:sRHr9IkJ宗茂の家臣、伊藤某という者が、忠興にこんなことを質問した
「戦場において、往々に勇士と呼ばれた者が下帯を脱いだ醜状で、屍を晒していることがあります。
これはどうして、そのように成るのでしょうか?」
忠興答えて
「それは当然の事であり、特段不思議に考える程の事ではない。
総じて人の体というものは、血気充満している時に上帯も下帯も共に体に密着して
外れないようになっていても、勇士が戦いに斃れると、直ちに体はやせ細る。特に
刀剣の傷を追って斃れた者は、血液が一時に流出するため、たちまち身体が衰痩する。
それ故上帯はもちろん下帯も脱げ、見苦しい醜態を晒すことが多いのだ。
そうであるから、真の勇士はこのような状況を考え、下帯を肩から吊り下げて
落ちないように注意するのだ。
醜態を晒すのは、勇士と呼ばれるほどの者であっても、常に死ぬ覚悟がないから、
そういう注意もなく覚悟もないためなのだ。
これは、武士たるもの良く謹むべき事であるぞ。」
この言葉に、伊藤某はもちろん、宗茂も大いに感じ入ったとのことである。
(古雄逸談)
細川忠興の、フンドシの心得である。
0876人間七七四年
2013/08/12(月) NY:AN:NY.ANID:n2Ib811t0877人間七七四年
2013/08/12(月) NY:AN:NY.ANID:9yECAV+6>外れないようになっていても、勇士が戦いに斃れると、直ちに体はやせ細る
いくら科学が発達していないからって、経験的にありえないって分かるだろ(´・ω・`)
0878人間七七四年
2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:EWgVWtBb俺はフンドシの死体をみたことがないから、経験的にはわからないなぁ
0879人間七七四年
2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:JFDt+KEn0880人間七七四年
2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:mECXmptMその結果ドラクロワの有名な絵「民衆を導く自由の女神」の倒れてる男みたいになる。
0881人間七七四年
2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:gF9vDsen胸がはだけるのか
0882人間七七四年
2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:R6kFwoiy時代が後になるとラテン語がおフランス語にかわったりする
0883人間七七四年
2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:y6xeEluy如水の郎党・井上九郎左衛門と渡り合うことになり、討死を遂げてしまった。
里人は後に、石垣原の近所の別府という所の浜に石塔を立て、吉弘加兵衛尉と書き付けて安置した。
加兵衛尉は名高い武士であったので、心ある侍はこの石塔を拝しながら通ったという。
一方、近所の人たちは、瘧で震えが止まらなくなると塩垢離をとり(海水で身を清め)、洗米やお神酒などを供えて、石塔を拝した。
すると、瘧はたちまちのうちに治ったそうだ。
後に、加兵衛尉の子どもがこの話を聞いて別府に行った。
そして、父の石塔に向かって語りかけたのである。
「父上!手向けられた洗米や神酒のせいで、墓所がめちゃくちゃ見苦しいことになっているではありませんか!
今後は、手向けなど取らず、塩垢離のみで本復させるようになさってください!
さもなくば、瘧を治すようなことなど、一切お止めになってください!」
それ以降も瘧治しの御利益は続いたが、息子の言葉通り、塩垢離をとるだけで治るようになったという。
(播陽諸所古今物語)
0884人間七七四年
2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:sbGLydInマテ。真ん中のオネエチャンじゃなくてその足元に倒れとるヤツのことやないかと。
血液だけで4〜5リットルあってその半分から三分の一が失われると失血死、
その他にも体液流れちゃうだろうからサウナで2〜3kg絞ったとき位はサイズ減るんかね?
+筋弛緩で緩んでもおかしくはないのかなー。褌使ったことないけど。あれどうなってんの?
0885人間七七四年
2013/08/14(水) NY:AN:NY.ANID:7ccVNWd2いつも槍を取り太刀を取っては勝つ事ばかりを考えている者だった。
ある時、小左衛門が朋友のところへ出かけた際に太刀勝負の事について
口論となった。実際に立ち会って小左衛門が勝ったが、続いて相手の父子
が一度にかかってきたので、今度は小左衛門が敗れた。
このやり方をもっての外だと怒った小左衛門はその場を立ち去り、相手を
討ち果たす覚悟を決めた。
小左衛門は一門に人を廻して「珍しい肴が到来したので料理して振る舞い
たい」と告げ、一門の者を呼び集めようとした。この事を横目が聞きつけ
様子をうかがっていたが、怪しい行動であったので家晴公へと報告した。
家晴公はすぐさま小左衛門を高城へと召し寄せられ、直接話を聞かれた所
この間の兵法勝負について憤懣がある事を知られた。「実際にあった事を
残らず申せ」との御意を受けて、松下は全ての事情を申し上げた。
その時、家晴公は「何事も私の為に堪忍せよ」と言い褒美として掛硯から
白銀3包を取り出して手ずから与え「この銀を急いで持ち帰り、一門の者
どもへ酒肴を調えて馳走せよ」と仰せられた。
この有難い措置によって小左衛門は遺恨を捨てた。
その後、家晴公が御近習の者へこの事をお話になられた事があり「この間
は安い値段で良い買い物をしたよ」と仰せられ、御近習の者が「いったい
何を買われたのですか」と尋ねると「役に立つ武士3人を銀3包で召し置く
事が出来たのだ」と仰せになられた。
小左衛門は高麗御陣にもお供してたびたび手柄を立て、帰陣後に家晴公が
他界された際には最初に殉死したと言う。
(古老咄聞書)
龍造寺家晴の良い買い物の話
0886人間七七四年
2013/08/14(水) NY:AN:NY.ANID:6CI0eY2o0887人間七七四年
2013/08/14(水) NY:AN:NY.ANID:WtnzsioH0889人間七七四年
2013/08/14(水) NY:AN:NY.ANID:B20Gs58+ちなみに龍造寺の家兼さんの親父さんは康家で家康の逆さまだったりする
0891人間七七四年
2013/08/14(水) NY:AN:NY.ANID:9Eku+TQl亀レスで申し訳ないが、その話は『細川三斎「パンツじゃないから」・いい話?』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-996.html で紹介済みなんだけど、
>>875では伊藤某という立花宗茂の家臣となってるけど、上記リンクの中では
細川家の御用医師・伊藤三白と細川家の人間となってますね。
0892人間七七四年
2013/08/14(水) NY:AN:NY.ANID:p1kaldgK良き「人材」は財産、まさしく「人財」ですなー(^O^)/。
0893人間七七四年
2013/08/14(水) NY:AN:NY.ANID:TdjXKN36ある日、この二人が共に下城することがあり、宗茂は忠興を自邸に招き
自ら茶を点てて饗した。この折に、忠興が宗茂に尋ねた
「あなたは、自分の臣下を治めるのに苦慮することなど少しもないと仰っている。
それは果たして真のことであろうか?
あなたの家臣が善士に富むと雖も、一家を運営するというのはそれでも難しいものです。
いわんや一国の運営に到っては。
私はあなたに、治国の要を聞くことを請いたい。」
宗茂はこれに答えて
「別に、これといった秘訣はありません。
ただ何事も隠し立てをせず、閨中で家内に語るようなことも、臣下一般が知るように
望んでいます。
このようですので、臣下一般は私を信じ、何事も背くことはありません。
それ故に、国内も自然に治まりますので、何の苦心もありません。
私もまた、臣下一般を信じて、横目(監視官)など用いたことはありません。
外様の者であれ、譜代の者であれ、自分の家内同様に心得て、国を治めています。」
この宗茂の公明さに、忠興はいよいよ彼への尊敬を重くした、とのことである。
(古雄逸談)
0894人間七七四年
2013/08/14(水) NY:AN:NY.ANID:Rd9AfSFqこの話のコメントの逸話はこれだったのか
0895人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:IC86NBdk心のノートにメモぢゃ。
0896人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:SXl1NlBa0897人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:pR/+yBr7ある時眼前の敵にかまわず退いた事があり、神君は「半之丞はどうして
眼前の敵にかまわず退いたのか」と尋ねられた。
半之丞はこれに答えて
「我らに立ち向かってくる敵でならば、この身に矢が当たろうともその
敵を討ち取らずに退く事はありませんが、戦いを好まぬ敵は眼前にあろう
とも捨て置き退きます。
敵であろうとも従えば味方になります。ならば手向かいしない者を殺す事
は好まず生かして従える事こそ本意かと存じます。」と申し上げた。
神君は「知仁勇兼備である」として、ことのほか褒められたと言う。
(明良洪範)
0899人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:IjM0H9nU信濃、甲斐、駿河、上野等を尽く平定した。織田信長はたいへん喜んで、
福富平左衛門貞次を使いとし、信忠に父信秀の遺刀を授けて、
「お前が出陣することわずかに三十日で大敵を滅ぼし、数国を平定したことは、
先祖を辱めない活躍というべきである。今年の冬には必ず天下兵馬の権を譲ろう。
いま家伝の宝刀を授与してしるしとする」と、言った。(寛政重修諸家譜)
信忠は畏まってたいへん喜びながらも、天下を譲ることについては、
「いまだ若輩ですので思いも寄りません」と、返答した。(当代記)
0900人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:UlTecr3e0902人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:BxbQ080h0903人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:gQEbRXYh弟にあたる)が死去したため、秀吉は非常に盛大で荘厳な葬儀を行うことにした。
この葬儀には前田玄以の長男で、すでにキリシタンであった前田左近将監秀以も、他の人々と
一緒に招待されたので出席しなければならなかった。葬儀が始まってから秀以は、困ったことに
直面していることに気づいた。葬儀では仏教の形式に従って故人の像に敬意を捧げて
焼香しなければならないのだが、キリシタンである秀以がこれをすると背教者となってしまう
恐れがあるのだ。かといって立場上、拒否するわけにもいかずに悩んだ末、秀以は席を外して
自分の名前が呼ばれる時には その場にいないようにした。
葬儀で参加者たちを順番に呼び出す係の者は、秀以が退出した理由をすぐに察したので
わざと前田秀以の名前を小さく呼び、そして、すぐ後に次の者の名前を呼んだ。幸いなことに
参加者たちの人数があまりにも多かったため、前田秀以の不在は気づかれずに済んだ。
(イエズス会日本年報 ルイス・フロイス書簡)
0904人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:Mvv5JElJ0905人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:AwzhUaBg0907人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:gQEbRXYh死去の年が関白豊臣秀次の切腹事件と同年なのでまぎらわしいな
0908人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:pR/+yBr70909人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:goy77eNo0911人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:7FJpiMexこれをそのへんの市井の民に言ってたらあほだけど
0912人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:zLCbihqK興味わいてきたので、なんか他の逸話があったら教えてください。
0913人間七七四年
2013/08/16(金) NY:AN:NY.ANID:y/DTOoie念斎は嘉明の頼みに応じて、松山市街創設の際に町家の地割を行い、その経営に尽力した。
また、独力で濠を堀り、これを念斎堀と称した。
この念斎はそそっかしい性質で失言することが多かった。妻はこれをとても憂慮して、
嘉明に夫の性質を正してほしいと求めた。
これに嘉明は「不覚は大事というわけではないから、それほど気にとめなくともよい。
一日に三回までの失言は許しなさい。それ以上の時は注意しなさい」と答書してその末に歌を附した。
「六十にあまりしまでのねんさいを、いまさらしめすつまのやさしさ」
――『加藤嘉明公(伝説、仲田文書)』
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。