土屋昌次(昌続)は武田信玄が死去した時に殉死しようとしたが、
高坂昌信に「今死ぬことは容易いが、生きながらえて主君のために戦死することは
難しいことであろう」と強いてとどめられ、その通りだと思って殉死を止めた。

その後の長篠合戦で昌次は「今日の討死は高坂がかねて諫めたところだ」として
織田家の陣に向かい、柵際に攻めよせて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦し、
鉄砲に当たって討死した。

――『寛政重修諸家譜』