戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0756人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:BTaLqH8H家中の士が具足甲冑頬当をすれば戦場で見ても誰だか判らなくなる
だろうと、家中の士の具足冑前立までそっくり違わぬように極彩色で
描かせて、その者の姓名を記した。
会津城広間の番所から書院に至るまで屏風を何双も立て置き、諸士
が互いにこれを見知るようにされた。
もし誰かが具足を威しなおす等、品の変わる事があれば役人までこれ
を届けさせ、絵師がかの士の許へと行って、とくと見届けさせてから
前々の絵を書き改めさせて張り直した。
六尺の六枚屏風に六人づつ描かれていたが、大大名であったので
全ては描き尽くせず、侍大将・組頭・物頭・物奉行・小荷駄奉行・目付・
横目・あかし・使番等が出されていた。
馬廻の士は一手一手の旗指物、相印で区別が付いた。
その頃、諸家においてはこれを取沙汰して、もっともよい格式である
と評判であった。
(当代奇覧)
0757人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:pLWRatP90758人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:MDDnDXwB通直の死後、信治は仙石越前守秀久に付いて豊臣秀吉に仕えようとした。
秀久は先に秀吉の命により、大友氏の加勢となって豊後国に至り、
島津の兵と戦って利を失った。この時、秀久は信治に救われて逃げることができたので、
この事が露見するのを恥じて、信治のことを秀吉に讒言した。
そのために信治は高野山に逃れ、その妻子を安芸国竹原に隠した。
その後、織田信雄が伊予国に下向の時、信治はおもむいてこれに属した。
信雄は土方雄久と天野雄光をもって秀吉に請い求め、信治を剃髪させてその死を償はせた。
信雄が京都に帰る時、信治はこれに従い、終身扶助を被って死去した。
――『寛政重修諸家譜』
0759人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:igpQpala系図の書き換えがどうのと子孫の人のHPにあったが、それが正しければ武田元明の従兄か従弟なのか
0760人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:TmkU2EJ90761人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:0WfaAUvp0762人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:aUKSJxzL安国寺恵瓊:安芸武田家
蠣崎信広:安芸武田家5代目(若狭武田家2代目)武田信賢の息子とされる
木下勝俊(長嘯子):武田元明の息子という奇説あり
どこまで本当だろ
0763人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:igpQpala0764人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:M7mvSSdV「俺はもう生まれて七旬(7回目の10年)に及ぶわけだが、どんな事だって若い連中には負けないと思ってる。
だけどな、年齢を経ることが必要な事ってのは、別にあるんだ。
俺なんて未だ若年の頃の心が失せなくてね、人さえ許すのなら今でも飛び出して行きたいんだが、
そういうことをぐっと抑えているのが、年齢なんだよ。
年齢や経験を持たないただ若いだけの奴らが、分別無くどうにかして人と変わったことをしようと思うのは、
まあ尤もなことさ。
若い時って、悪事をしても許されることが多いよな。
俺は、召し使っている小姓なんかでも、その前髪を取らせれば普段召し使うにも便利はいいのだが、
前髪が未だあるんだと思えば、もっと幼かった頃からの気分が離れず、気遣いしないんだよ。
同じ頭でも前髪が無くなっちゃうとな、大人しやかに見えてしまって、もう接する心地が違うんだ。
だからなかなか前髪をとらせないんだよ。
第一に、前髪を取らないのはその本人にとっていいことがあってな、歳が行っても前髪が有ると、
どんな悪事をしても『前髪の有る若輩故のことだ』と、許されることが多いんだ。
逆に良いことをすると『未だ若輩なのに奇特だ』と、人もやたら褒めてくれる。
前髪がないと、そういう事がないんだよなあ。何につけても、良いふうに取ってくれないんだよ。』
(政宗公御名語集)
伊達政宗の年齢論?みたいな話である。
0765人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:X8HjAZMo政宗と和解させる伏線だったのか
0766人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:uMnhwpxr0767人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:uEWy1HX30768人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:4xxAUktY烏丸光広卿が有馬へ入湯していた時、播州加東郡より貧しい病人が
来ていて入湯していた。
光広卿はこれを憐れみ御台所にて養わせていたが、有馬を出立する際
に宿の亭主に病人を労わってやってくれと言い残し、その代金を与えて
帰洛された。
病人は本復して故郷へと帰り父にこの事を報告すると、父はこれを喜び
都へと上り、烏丸邸へ参上してこの件の御礼を申し上げた。
光広卿はこれを聞かれ「奇特である。よくここまでやってきた」と言い
いろいろな品を与えられ、さらに自詠の短冊をも与えられた。
あしきとて思ひは捨し親と子のうときをは猶哀れとも見よ
今もその家ではこの短冊を持ち伝えてると言う
(当代奇覧)
0769人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:++CW38Ni0770人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:nUhTQfLI幕末に総髪が多くなるのは、志士の間で総髪にすることで、『俺は月代を剃る暇もないほど国事に奔走しているんだ!』って
世間にアピールする面が大きかったらしい。
0771人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:3IIEf/D5関係ないが、ゲルが整えない状態の髪をテレビで公開したときの衝撃を思い出したわ
0772人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:QyNlIWGn高坂昌信に「今死ぬことは容易いが、生きながらえて主君のために戦死することは
難しいことであろう」と強いてとどめられ、その通りだと思って殉死を止めた。
その後の長篠合戦で昌次は「今日の討死は高坂がかねて諫めたところだ」として
織田家の陣に向かい、柵際に攻めよせて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦し、
鉄砲に当たって討死した。
――『寛政重修諸家譜』
0773人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:p7JI9yPt関ヶ原で西軍に付き、伏見城攻めなどに参加した雑賀孫市はその頃水戸徳川家に使えたが、
或る時、鳥居左京亮忠政の元に使いを送った。
『私は、あなたの御父、元忠君の(伏見城での)御最後に参り合わせました。
その時の元忠君の御物の具を、今日まで家に伝えております。
あなたの父君の御形見であるので、御覧になるのであれば、返還したいと思います。』
これに忠政は大いに喜び
「一見することを許していただけるのなら、大変ありがたい。」
と返答した。
やがて雑賀孫市は、元忠の甲冑を携えて忠政の屋敷を訪問した。
忠政は恭しく玄関に出迎え、書院に孫市を通して、父の甲冑を床の上に据えて、これに向かい拝礼し、
雑賀には山海の珍味を所狭しと並べ、心を尽くして饗した。
翌日、忠政は孫市の持ってきた父の甲冑、大刀を使いに持たせて、孫市のもとに送った。
そして
『あなたのご芳志により亡父の物の具を見ることが出来たのは、返す返すも大きな悦びでした。
そうではありますが、忠政の方には形見と見るべき物の具は少なからずあります。
ですのでこれは、見苦しいかもしれませんが、雑賀殿の戦功の御名誉とともに、
あなたの御家に差し置かれ、ご子孫にお伝え頂ければ、後世への御遺誡にも成ると存じます。』
そう、伝えた。
その後、鳥居家では毎年、綿を厚く入れた小袖を数多、常陸国の雑賀家に贈るのを恒例とした。
水戸徳川家ではその使者の来る時は、道路を修繕し、雑賀の家に魚鳥を多く与えその饗応に使わせた、
という。
(徳川武士銘々伝)
鳥居元忠の遺品の甲冑についての逸話である。
0774人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:N8q5VtOC厚恩を受けた家臣として、その主君に殉じるというのは立派だけど、兵を率いる指揮官としてはどうなんだろうなあ、と思わんでもない
0775人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:QmOHOR/p真田信幸が上田に居た頃(関ヶ原合戦後の頃か)、家臣らと船に乗ることがあった。
そのとき岸辺に杉菜が多く生えているのを見た信幸は、杉菜を指して家臣に問うた。
「お前たちはあの杉菜を食べたことがあるか?」
家臣たちはこれに答えて、
「いえ、まだ試したことはありませんが・・・」
信幸はそれを聞いてこう言った。
「それこそ泰平の世の恩恵だ。
昔、勝頼没落の時(甲斐から落ちのびる際の)道すがらに
あれを取って食べたことがあるが、とても食えたものではなかった。
ほかに稗粥も度々食べたのだが、これもまた非常に不味かった。
それでも、昔あのような苦労をしたからこそ、今お前たちを扶持することができるのだ。」
悪い話スレでいかもの喰いの話を見たので、普段食べないようなものを食べた話。
出典は国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られる「武人百話」という本から。
0776人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:HfEb4Ibv0777人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:zYj6vKDjついでにその甲斐から落ちのびる時の様子を「加沢記」から
これも近代デジタルライブラリーで読める
(勝頼が昌幸ではなく小山田の策を用いて裏切られた後、なぜか新府で?)
信幸公が勝頼公に召しだされ、
勝頼「昌幸のこたびの忠心は忘れぬ。小山田の言葉を信じたためにこうなってしまうとは、
とうとう神にも見放されたようだ。昌幸は私を甲斐のないものだと思ってるだろう。
どうか、お前の母、弟、一族を無事に逃がしてやってくれ。お前たちの繁栄を祈る」
と杯を賜り、甲州黒という名馬、金作りの太刀を下賜された。
また、勝頼公は若年の落人であれば生け捕りになりかねない、と考え数十人をさいて5,6里送り届けさせた。
これも昌幸公の忠義に感じいったからである。
信幸一行は三月五日新府を引き払い、信濃境に向かっていると、甲州の落人狩りのため盗人百人から二百人が襲ってきた。
当時、信幸十七歳、御弟の藤蔵(信繁)十五歳、源五郎七歳、御姉十八歳、そのほか矢沢、根津、室賀の娘などが同道していた。
信幸公は先陣に進み、その勢男女二百余人で盗人を追い払い、鳥居峠で人馬を休ませた。
このことは盗人に知れ渡ってしまい、信州のスッパ、上州、武州のワッパ千人余りが集まって峠の麓で鬨をあげた。
信幸公の母は百千の雷鳴に勝る鬨を聞き
母「多勢に無勢、しかも度々の戦で我々は手傷を負ってます。潔く自決をしましょう」
と涙ながらにおっしゃったが、信幸公は武勇の大将であるため、怒ってその母親に申し上げた。
信幸「あの程度の烏合の衆、百万騎でも物の数ではありません。ご安心を」
と鎧の上帯を締め直し、十文字の槍を取り、勝頼公より賜りし甲州黒にまたがり、
手勢二百人を五十人、五十人、百人に分け、鬨の声をあげさせた。
盗賊たちは、さては落人ではなく尾張勢であったかと思い、逃げ去っていった。
(その後、無事味方と合流し、信幸一行は戸石城におちつく。)
0778人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:it/TbstRばあちゃんがまえふきのとうとかつくしんぼとかの雑草を佃煮?のようなかんじで
調理してくれたことがあったけど普通に食べられたぞ
0779人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:or5clOXrhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000009-kana-l14
「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川
0780人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:MbCsF4HXこれはさすがにありえないなあ。
明応の大地震・大津波の時、伊勢宗瑞は小田原どころか伊豆討ち入り前だし、
そもそも小田原城奪取も、扇谷上杉配下だった大森氏が山内上杉に寝返ったことから。
扇谷上杉の要請で攻め落としたというのが今はほぼ定説になっているし。
0781人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:3FcPthVwツクシが花でスギナが葉っぱと考えれば良い。
ちなみに、スギナは苦くて食えない(実体験)。
食える野草は限られてるのでチャレンジしないほうがいい。
0782人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:TK4sLSeM食べれる野草はこれも食べれるんかってくらい結構あるけど
毒草も身近にいっぱいあるから気をつけなあかん
0783人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:iVk54BOr0784人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:vGyyOMM6舐めただけで死ぬレベルの物を食おうとするとか昔の人達の食欲は恐ろしい
0785人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:or5clOXr0786人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:vGyyOMM6指摘サンクス
0787人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:5OIfLFkU0788人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:BtDg4Hdxすげえよな歴代の死んでった人たち…
(武将の話関係ねえ)
0789人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:vx/GOXbS日本だと毒魚扱いで販売禁止だが、たちの悪いことに味がいいんで
どうせ売れないし漁師の中にはオムツをしながら食べる人もいるとか
近海で取れる結構な大型の魚だから戦国時代でも食べる人は食べてたんだろうな
アレルギーと同じように人によって許容量が全然違うから毒見役がセーフで要人が垂れ流しになるとかあったりしたのかも
0790人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:KHHFZ0hwふきのとうもツクシも食べられる山菜として有名なもんだよ
珍味としても知られる、買うと結構高いぞ
0791人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:AJ+vCHuD山菜とは言わねえよ。畑とか野原に勝手に生えてくるし。邪魔だし。
山で取れるから山菜だからね?
春の七草は大根と蕪を除けばみんな雑草だけど、平安の昔から食べてたのと同じ原理。
買うと結構高いけど、自分で揃えるとめんどくさい。
0792人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:vxJaUW70どこがくるかしら^−^・
0793人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:bdg6zIGeスレ違いかつ横レスだけど一般的には山菜は、山「野」で採れるから山菜と呼ばれる
ttp://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E8%8F%9C
語句としては、食べられる野草のことで、自分たちで栽培する野菜の対義語として江戸時代あたりから一般化したもの
だから野山に自生して食べられる植物であるつくしやふきのとうは、字義的に見ても山菜にあたるし
山菜の種類には、地域性があるのは確かだけど、
ふきのとうもつくしも全国的に山菜として扱われるのが普通だと思う
この流れで言うと、このスレ的には(ちょっと時代がずれるけど)上杉鷹山が、食べられる野草錘R菜を
飢饉対策として研究させて、一覧化した「飯粮集」「かてもの」という冊子を作成したので有名だね
(ちなみにつくし、すぎな、ふきのとうはそれぞれ載ってたり載ってなかったりする)
近デジ「かてもの」
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183113
米沢図書館「飯粮集」
ttp://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/AB610_view.html
0794人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:GkuuUDhn少なくとも雑草とは言わん
0795人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:/PaPUbjJ地域によるのかな
0796人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:GkuuUDhn0797人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:e3maUbqd0798人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:/ibtXo1+だが店で食べても有り難味が全く無い食材だと思う地元民であった
0799人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:NT66srHk今年の春に通りがかったときにつくしがびっしり生えてた
人が入れないから大繁殖してたみたい
0800人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:GcFUEDU/「奉公人は上下ともに、手を清める心掛けが大切だぞ。
近いことで言えば、普段使ってる小姓たちが俺の前に出る時に、手を清めて出てくれば、
俺から「髭を抜け」「髪をなでよ」「形無を持て」と言われても、危ぶむこと無く安心して
用を勤めることが出来るだろ?
これが、手水を使わずに俺の前に出てきたらそうはいかない。手を清めずに用を勤めようとしたら、
手の汚れが他につかないかと、気遣いすることが多いんだよ。
何かに限った話じゃなく、万事にわたる事だ。手を清めることを、常に心がけておけ。
それを良くしておけば、何事にも行き詰まる事はないものだ。
諸人にこの心を、絶えず持たせたいものだ。」
と仰られた。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の「手を洗おう」というお話である。
0801人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:QC9mfxuBあれ本当にいい話だと思うんで、広まって欲しい
腐った人たちが盛り上がるかもしれんけど
(でも、腐った人たちのターゲットは父の方だから、息子はどうでもいいのかね?)
感動的なこと言っておきながらすぐまた江戸で会うんだけど
0802人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:gxxVNgUl高野山へ行こうとした。
時に秀信を生け捕りにすべきだと言う者がいた。福島正則はこれを聞いて、
「武士は約束を違えることを恥とする。
和睦が成立して戦いを止めたところを陥れるのは、武の冥利の尽きるところである」
と、固く制止したので、事故もなく秀信を通したのだという。
――『名将言行録』
0803人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:lau0QR5U0804人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:naIGmsib0805人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:5eKdGnD70806人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:GcFUEDU/初音を聞かせたことを大いに悦び、その晩、片倉小十郎重綱の居城である白石に宿泊した。
小十郎重綱は種々の珍物を整え大いに饗したが、この頃小十郎に対し悪心を抱くものが在り、
小十郎の身の上に悪しきことが有ると書き立て、目安に整え申し上げてきた。
政宗は内密に調べたが、しかし全て事実無根であることがわかり、かえってその讒人の心を蔑んだ。
そして、国に讒人あればその国は治まり難いことを深く悲しんだ。
翌日、小十郎が膳をさし上げると、政宗は一層機嫌よく酒を出させ、かれこれの人々に御盃を下された。
その頃小十郎は、外孫を自分の養子とし、三之助と名付けたが(後に小十郎景長)、この子が
御目見得仕り御寄場に畏まっていたのを、南次郎吉という御小姓衆が政宗のご機嫌を伺いながら
「冥加のため、御盃を三之助に下されませんでしょうか?」
と申し上げたが、聞こえぬ様子で他の者と四方山の話をしていた。ややあってから南は再び
「三之助はいかが?」と申し上げると、政宗は彼の方を向いて
「以前にも言い、又も言う。そういうふうに声をかけるものではない。
お前などに気をつけてもらうような私ではないぞ!あの子に酒を与えるのは何でもない事だが、
敢えてそれを控える仔細があるから、そうせぬのだ。
小十郎は子を持たず、あの孫を取り立て、誠に無事に育つかと心配に思っているため、片倉の家では
下々まで、あの子を手の中の珠のように、労り育てていると見える。
まあ、実際に4つ5つの幼児であるから仕方がないのであるが、前にあの子が私の前に座って対面した時は、
小十郎の心配をよそに、見苦しく、苦しそうであった。
そんな子を座敷に呼び出して盃の取り回しなどさせたら、幼児であれば、どれだけ難儀に思うだろうか?
また余所からは、見苦しき有様であり、あの小十郎の子には似合わぬなどと言い出すものも有るだろう。
それは小十郎に為悪しく、恥を与えるようなものだ。」
と仰った。
さて、御立ちの時、政宗は三之助を乗物の前に召し寄せて、自ら挿していた脇差を脇差を与え、
それを自ら、三之助に挿してやり
「さてもさても、小十郎は果報者かな。これほど良き子は、良き者に預けて育てるように。」
と言った。そして小十郎重綱を乗物の中に引き入れ
「其方のことを悪しく思うものがあり、十度にわたって種々目安を以って私に讒言を行った。
しかしそれは全て偽りであり、疑うにも及ばぬもので、打ち捨てた。
其方が、例え憎しみで如何様に言われようとも、私がある限りは何事も心安く思ってほしい。
ただ、讒言をするような者が、国の中にあることこそ嘆かわしい。
私とて、これから何年命を長らえられるであろうか。
私が死んだ後は、よろず見を慎み怒りを抑え、国の久しきことを心掛け、ひとえに計らってほしい。
奢りは身命を失う根本であるぞ。
もし明日何事かあっても、其方と私があれば、老年の思い出に、其方の名を上げさせたいのだがな。」
これを聞くと小十郎は感涙を流した。政宗もまた涙にむせびながら白石を発った。
(政宗公御名語集)
これが伊達政宗と片倉小十郎重綱の、今生の別れであった。
そして政宗より脇差を頂いた三之助は、後、伊達騒動で混乱する仙台藩を見事に取り仕切り、
彼の活躍によって改易を免れるのである。
0807人間七七四年
2013/07/30(火) NY:AN:NY.ANID:lTGZNC3/白石涙の別れエピソードキター! リク聞いてくれてありがとう!
>よろず見を慎み
よろず「身」だね
>もし明日何事かあっても、其方と私があれば、老年の思い出に、其方の名を上げさせたいのだがな
ここが、他の本(『木村宇右衛門覚書』)だと、
「明日にも天下に一大事が起こり、先鋒を承って向かうのならば、その方(小十郎)に先を蹴散らさせ(先陣をまかせ)、成実に一方の団扇をとらせ(指揮をとらせ)、
三人心を合わせたならば、時期はずれの花を咲かせようものをと思う」って政宗が言ってるんだよね
死ぬ間際にこんなこと言ってるじじいっぷりがいい
0808人間七七四年
2013/07/30(火) NY:AN:NY.ANID:f4BGy2Te0809人間七七四年
2013/07/31(水) NY:AN:NY.ANID:X6gkfR9gおべっか使いを脇差で血が出るまで殴るとかもちゃんとやってるあたりが期待を裏切らない仙台黄門
政宗萌えはギャップ萌えなんかね?
0810人間七七四年
2013/08/01(木) NY:AN:NY.ANID:dSxzOCn+>これが伊達政宗と片倉小十郎重綱の、今生の別れであった。
>>801
>感動的なこと言っておきながらすぐまた江戸で会うんだけど
ん?
0811人間七七四年
2013/08/01(木) NY:AN:NY.ANID:B37cAW3r806が書いたみたいに考えるとまとまったいい話なんだけど、政宗が江戸でいよいよ死ぬってなりかけたときに、
家臣たちが続々と江戸入りして、小十郎重綱も追っかけて江戸に行ってるんだよ(幕府の人たちと会ってるのが記録に残ってる)。
なので806の書いたのは、実は政宗と重綱の今生の別れではない。
で、あまりにも上府する人が多く、いろんなところで潜伏したりする人とかが増えて、幕府と藩からもう行くなって禁止令が出た。
でもそれでもこっそりこようとする藩士が多かったので家光が感動して、大目に見るからからこっそりこいみたいなことを言ってたらしい。
一門の伊達成実もギリギリになって上京しようと出発したり、石川宗敬(昭光の孫)はギリギリすぎて間に合わなくて、
江戸行く途中で政宗の訃報とかち合ってそのまま戻ったりしてる。
政宗というか、家光のいい話。
政宗の見舞いに来たときに家光が忠宗にいうセリフも結構いい話なんだよな…。
0814人間七七四年
2013/08/01(木) NY:AN:NY.ANID:dTvFgpKp「関白秀次が高野山にて自害した時のこと(文禄4年(1595)秀次事件)である。
太閤殿下(秀吉)に、私が殿下に背こうとしていると讒言するものがあったため、私は
十騎ばかりで急ぎ大坂へと上った。
枚方まで至った時に、石田(三成)、富田(一白)、施薬院(全宗)が御使として来て、
『其の方は関白ととりわけ睦まじい間柄であったこと、隠れない事実である。
その仔細を正直に申せ』
との事である。私は畏まって
『いかにも秀次公には親しくしていました、されども、太閤殿下の天下無双の御眼鏡であってさえ、
思いの外に違われたからこそ、このような事態になったのではありませんか!
まして私は片目であり、見損なうのは当然のことだと思われませんか!?
秀次公は殿下の御子として世を譲るのだと聞いていたからこそ、私も取り入ったのです。
ただ殿下をお頼みしたいとそうしたのです。
それを過ちであるとお考えに成るのなら、仕方ありません。どうぞ私の首を刎ねて下さい。』
これを聞いた施薬院は慌てて
『そのような反論をどうして殿下に申次できるでしょうか。取り成しすることもできません。』
私は施薬院を睨みつけて怒鳴った
『おぬしは病人を扱う事こそ知っているのだろうが、武士の道をどうやって知れようか!
ただ此の侭に申せ!』
私の言葉に3人はどうにも出来ず帰っていった。
翌日、太閤殿下より富田左近(一白)が遣わされて、
『翌日、(大阪城)山里曲輪にて御茶を賜るので、かならず来るように』
と伝えられた。その日になって私は、ただ二騎を引き連れて大阪に行くと、
富田左近の家来の侍一人が案内として出てきた。それを先に立たせて御庭に行ったが、
樹木が隙間なく立っている所に到って、その案内の侍が、どこに行ったのか影も形もなかった。
そういうことか、私はここで討ち殺されるのだ
そう心を定めていると、茶頭のような姿をしたものがやって来て、『刀脇差を出して頂きたい』と言う
『なに!?侍の刀をよこせとはどういうことだ!?』と叫んだ所で太閤殿下が木陰より歩み出て
『和尚、そちらに出ているのか?』
と、例の大きな声で言われたので、私は刀をその茶頭に渡して殿下のもとに進むと、
『こちらに来い』と茶室に招き入れられ、手ずからの茶を頂き、何事も無く暇を許されたのだ。」
(話園)
秀次事件の後、秀吉に呼び出された政宗についての逸話である。
0815人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:aP8Lb7CL大名自らこういう記録を残してくれたのは後世の者にとっていい話ということで、整理して書いてみようと思う。
○まずは女性たちの身分と名前について。
一、当家の当時の女は、
そばめ(妾也):身馴、色香
膝本(妾):八重
奥:滝野
家見:小梁
中居:七、梶本、貝、糸竹、松(半下)、山路、小雪、小重、才、小糸、岩
まゝたゝき:田巻(上方)、若江(同)、もミぢ(次方)、柳(同)、坂本女、杉、松、塩、吉
筆取:井筒(中居)、縁(上)
下女:藤、梅、玉、なべ。以上。
○外出する時は
一、傍女、妾、ひざもと(膝本)ハのりもの。
一、奥、家見、次(の)のりもの。中居以下歩行。
中居ハぼうし、その上「奥かミ」麻かつぎ、ひざもとより上ハ衣かつぎ(の使用を許されていた)。
0816人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:aP8Lb7CL一、政則の時より、
・傍女には、ひたい櫛、根櫛(べつがう<鼈甲>)ぞうげ)、銀まきゑ。髪は片曲結。
下に白むくりんず<綸子>、上に紫かのこ<鹿の子>上ほりに、ぬいちらし小袖。
帯ハぬいの帯、織紋帯にうしろ帯。
銀のかんざし、帯は五尺さがり、三重りんず、手おゝひ、白きぬたび、しゅすさげ帯(是ハ節日)
夏ハすゞしの織。色は右に同じ。
・妾女は、ぞうげ根櫛、つげの添櫛、髪は片曲。
下に白むく、上に紫かのこ上ほりに、しゅす<繻子>小袖、
帯は織紋うしろ帯、
帯は五尺さがり、二重白衣、手おゝひ、白たび、染衣、さげ帯。
・奥かミは、ぞうげ根櫛、髪は片曲。
下に白むく、上にしゅす、りんず、色小袖、上ほりしゅす。
帯はちりめん、りんず。
右袖下三尺さがり、二重さげ帯なし。白衣、手おゝひ、白たび。
夏は右に準ず。以上。
・節日の中居は、兵庫わけかミ<髪>、
染小袖、下に白むく。さげ帯ならず。前おび、櫛は根ぐし計、ぞうげ又ハつげ、
手おゝひ、たび、ならず。
・そばめは、高雄、吉野のるい。
・妾は、右に同じ。或ハ巻絹、小琴。
・奥かミは、小梶るいなど。
・中居は、七、梁、梶のるい。
・以下は、若な、もみぢのるい。
一、内室は、根櫛:ぞうげ、金まきゑ。ひたい櫛:べつかう、金まきゑ。
下にりんず、或ハしゅす。上に紅紫、ぬひちらし、上ほり金入織紋。
髪はさげ髪。金のかんざし、
金織紋、おび三重五尺、うしろ帯、しゅちんのさげ帯。
白りんずたび、織赤紋、ておゝい、色のふく面。
節日、夏も右に準ず。
そばめ、妾女、ふく面はまれ也。名は国名又は何の御方。
当時、身馴ばかり白衣ふくめん。
(秘事枕(播陽万宝知恵袋に収録))
0817人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:FGrSjeTP0818人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:JzFxxB+f「今世上で目付・横目(人々の監視役)といえば、諸人に迷惑をかけ、
しかも良いことは少なく悪いことは多い連中だ。
俺は若い頃から今まで、目付・横目という物を付けたいと思ったことはない。
物事の仕置を、目付・横目を付けて、それに脅させて法度を人々に聞かせようというのは、
穢い心だ。
そもそも目付・横目を付けるというのは、法度を執行した時の反応について、良い事も悪い事も
知るためなのだ。
それなのに、ああいう連中は良い事は百に一つも取り上げず、どうにかして悪いことを聞き立てて
言おう言おうとするのだから、悪い事は多く報告され、こちらは報告された以上対処せざるを得ない。
しかし、本当に悪しき者というのは、そういった目付・横目の前では行いを忍び、陰でいくらでも
悪事をしているものだ。そうなのだから本当の悪人が失うものは何もない。
それに、いくら目付・横目を付けた所で、その法度に対して最初から好意を持たないものは、
そうしたからといって好意を持つように成ることは無いだろう。
『法度を聞け聞け!』といくら言っても、無理に聞くものでは無い。いくら目付・横目を使っても、
法度を聞くのは結局、皆それぞれの心次第なのだ。
それらを差し置いても、我が家を代々変わらず支えてくれる、何より大切にしている者たちを、
そう言うふうに心を疑い無慈悲に扱うなんて、そんな事俺は嫌だ。
(とかく代々に変らず何より秘蔵なる者さやうに心うたぐり無慈悲なる事我等はいやなり)
横目を付けずに、今まで事欠いたこともない。見事善悪も知ることが出来て、かえって良いほどだ。」
(政宗公御名語集)
伊達政宗、目付・横目を嫌う、という話である。
0819人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:iqFlO0Wf0820人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:gEW9WFUH0821人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:Z2S3fWhj色々やってたっけねえ、そういえば。
本人基準では悪事じゃないかもしれんがw
0822人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:x/8x+kACさすが政宗公!俺たちに(ry
0823人間七七四年
2013/08/04(日) NY:AN:NY.ANID:qZB/MT5f>そう言うふうに心を疑い無慈悲に扱うなんて、そんな事俺は嫌だ。
こう言ってさりげなく家臣を持ち上げつつ牽制するあたり上級テクですな。
0824人間七七四年
2013/08/04(日) NY:AN:NY.ANID:qaiKAs5l0825人間七七四年
2013/08/04(日) NY:AN:NY.ANID:ZzcTcTMI彼の平生の志は「主君に仕え奉るのに、一命を上へ差し上げていなければ、
いつも御手討にされると思っていなければ忠臣ではない」というものであったという。
これゆえに、彼はいつも妻子に暇乞いして出仕していた。
彼は御前に出る時には「いつだろうと顔を犯して争い諫め、御手討にされるつもりで」
と、志を定めていたという。ある時、徳川頼宣が何事かを言った時に、
彼は頼宣の腹を指して「今の御意と御腹中とは違いがあります。
よくよく御顧みになってください」と、苦々しく申し上げたということである。
――『責而者草(加納五郎左衛門行状)』
0826人間七七四年
2013/08/04(日) NY:AN:NY.ANID:i8cdWFgq0827人間七七四年
2013/08/05(月) NY:AN:NY.ANID:FBEQmZBK0828人間七七四年
2013/08/05(月) NY:AN:NY.ANID:C7EKiTsx大名にまでなった
0829人間七七四年
2013/08/06(火) NY:AN:NY.ANID:vsphjN3+御奉公が進むようにと気を使ったお仕置きをなさっておられました。
政宗公といえば、他家では鬼神のように認識されていると存じていますが、家中の者達に対しては、
ついにお顔付が悪しきところを見たことがありません。
私たちは毎日毎夜、寝て起きて御城に詰め、御奉公いたしましたが、諸人、身分の高いものも低いものも、
御前に罷り出れば、例え立腹しているような時でも、その気持ちをたちまち忘れてしまいました。
いささかたりとも、御前に有りにくく、御奉公し難い、というような事は、夢々にもありませんでした。
御前では老若共に、夫々に座興なども言われ、心の中までゆるゆるとくつろぎ、はりきって御奉公
出来るようにと、環境を整えておられたのです。
そして御奉公申し上げた者には、その善悪を評価し、御知行、御扶持方、御切米、金銀諸道具、
その種類によらず、その時を延ばすことなくご褒美を下されました。
それらも全て、万事御奉公に励むようにと仕掛けられたことなのです。
例えば、御前に人より長く詰めて働いている者には
「そんなに根を詰めては、もはや気も詰まっているだろう。裏の方に行って、心なぐさめ休息してから
また戻ってきてこちらに詰めよ。」と仰せ下さりました。
また、御前に詰めようとしない者には、その事柄をその者の親類などに仰せられ、異見もし、
「よく奉公いたせよ。第一それは其の身其の身の為なのだ。私が家には人材に事欠かないのだから」
と仰せ下されました。
また或いは、患った様子で詰めているものには、直ぐに御暇を下され、「養生するように、今日は休息せよ。」
と仰せ下された。その上で「そもそも役人などというのは、普通の者よりなお一層気詰まりするものだ。」
と言って、夫々が患わぬように、気の詰まらないようにと、魚鳥のたぐいにかぎらず、色々と下され、
「以前の体調に戻るまで養生してから、奉公せよ。何としても、奉公人の患いは其の身のためには
大きな敵である。」
と仰られました。このように至ってお情けの強い方だったのです。
そんな方でしたので、もし又患った、などと聞かれましたら、薬師(医師)に仰せ付け、
その者の病状を、身分の高下にかかわらず何者であっても直にお聞き召され、如何様にも如何様にもと
末々の者にまで厚くお情けをかけられました。
このような事でしたから、私達諸奉公人は、何があろうとも御奉公であれば、火の中水の底までもと、
一心に決意し、御奉公をしていました。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、家臣への接し方についての記録である。
0830人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:2Pikygnt0831人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:zxMNKudQ後ろに政宗が立ってるでしょこれ
0832人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:oM12j7Li0833人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:k04fOTGI小姓の木村宇右衛門が書いた『木村宇右衛門覚書』
従兄弟の伊達成実が書いた『政宗記』『成実記』他
そしてこないだから訳してる人がいる『御名語集』
御名語集は作者不明(成実説もあるが、成実が筆者以外として登場するところもあるので、全部を書いたわけではない)リライト説や侍女の女性説もある
一番辛辣な成実でも、「政宗は素晴らしい主!」が基本なので、他のふたつは言わずもがなの政宗礼賛に終始してる
内部と外部(今ならファンとそれ以外)で政宗のイメージが激しく違うのはそのせいじゃないかな
藩士はこれらの本の逸話教えられて育ってDQN逸話全く知らなかったかもしれん
0834人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:q2XxiHOAある年の元旦に因幡殿は息をひきとられた。
因幡殿が亡くなったと聞いた神右衛門は、
「隣は大勢の出入りで、朝の支度も出来ないだろう。
今日は元日であるから、当家の節料理を差し上げてこい」
と中野の者どもに申しつけた。
家来どもが、
「それは神道でも仏教でも縁起がよくないと思いますが…」
と、嫌な顔をすると、神右衛門は、
「侍というものは死の場にても怯まず助け合うものだ。
こちらの節料理は遅れてもかまわない」
と言い、出来たばかりの節料理を残らず差し上げたとのことだ 【葉隠】
0835人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:9VVyGVOW秀忠公は前年よりの病気が次第に重くなり、正月も半ばには、もはや長くないと思われる様態となった。
この時、秀忠公は伊達政宗様を呼び出され、こう申し出された
「去年のうちから病状が悪化してな、こうしてもう、回復は無理のようだ。
私が、少しでも意識がはっきりしている間に、あなたに言っておきたい事がある。
昔から今に至るまで、あなたの志は一つとして忘れたことがない。
先ず、もう随分昔の話だな、大御所様(家康)が駿河でご病気が重くなった時だ。
あの時、悪しき者達の申し立てで、あなたがこの機に乗じて謀反をするとの風聞があった。
そのために私も、大御所様のご病気にもかかわらず奥州の状況を警戒していたのだ。
ところがそんな状況の中あなたは駿河へと上がられ、江尻に逗留されたが、
ここで大御所様は周りにいた大小名を皆下がらせ、あなた一人を内々に駿河の御殿に呼ばれ、
互いに御存念を語り合い、その上で私の事をあなたにお頼みなされた。
『どうか秀忠を、天下の主として取り立ててほしい。』
大御所様のこのお言葉を、あなたは違えること無く、おかげで私は今日に至るまで、天下に騒動は
一度も起こることなく治めることが出来た。
その天下を私は将軍(家光)に譲る。
これは大御所様があたなに、私のことをお頼みなされたのと、全く同じ事だが、
今また、将軍のことをあなたにお頼み申す。
将軍はまだ若い。なので万事あなたを、親と思えと言っている。
将軍に古きことを聞かせ、また差し出たことなどと遠慮せずに、見苦しいことがあれば
異見をし、天下を安寧に保たせてほしい。どうか、お頼み申す。
そして、あなたも随分年を取られた。あなたのめでたき跡は、ご子息の越前守(忠宗)については、
逆に将軍にその処遇をお預けになられよ。決して粗略にすることはない。
…私が、この53の歳になるまで天下の安寧を保てたのは、偏にあなたのおかげだよ。」
この時、秀忠公、政宗様は互いに涙を落とされたそうである。
(政宗公御名語集)
徳川秀忠による、政宗への遺言である。
0836人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:85PWUyj00837人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:L+7jINdP箱の中から「お前は柿好きだから〜」ってでっかいの探してくれたってやつ
0838人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:ffy7+IV/「あるとき、折(箱)に御所柿を入れて、諸大名へくだされた。
政宗の普請場へいらっしゃったとき「政宗は大物がすきだから、大きくなったのを
欲しいだろう」とおっしゃり、折の中をひっくり返され、「これより大きいのはないぞ」と
言って柿を下された。
政宗は遠国生まれなので(秀吉に仕えはじめるのが遅く)たった1、2年の奉公であるのに
このように気に入られていたのは、神々の加護による人徳だと人々は話していました」
『伊達日記』
政宗逸話のすげーのは、同時代の近臣(この場合は伊達成実)がかいてるのが(一応)
はっきりしてるから逸話の信憑性が他の武将の伝聞逸話と段違いなんだよな。
後世に作られて尾ひれがついた話ともまた違うし。
0839人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:B1SH3gY7桃の時輝元に突き返して顰蹙買ったから痰の毒は政宗にでもやることにしよう」
0840人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:DRtSJFOD他を下げるのはやめとけよ
ちょっと嫌味ったらしいぞ
0841人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:VhQuf07U朝廷は大納言実枝を信忠邸に遣わし、その功を賞して従三位中将に任命し、昇殿を許した。
しかし、これを信忠は「朝恩の厚いことはたとえようもありません。しかしながら父に告げずに
お受けすることは臣下の道ではありません」と言って固辞した。
信忠は実枝が再三すすめても勅命に応じなかったので、帝はその控え目で、
思いのままに振る舞わないことを叡感した。
しばらくして信忠は使いを父信長のもとへ送りこの事を告げた。信長は「久秀は鍛練の老将であったが、
お前は年若くしてわずかなうちにこれを誅滅した。この功は大きなものである。ぜひとも詔を奉じて
官爵をお受けせよ」と言った。ここにいたって信忠はかたじけなくも謹んで勅命を受けた。
――『寛政重修諸家譜』
0842人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:B1SH3gY70843人間七七四年
2013/08/08(木) NY:AN:NY.ANID:Y3e9JJQK0846人間七七四年
2013/08/09(金) NY:AN:NY.ANID:Gn3m6Oux清兵衛は病気で死に際の時に「今生の望みに、今一度公の御目にかかりたい」と言った。
三左衛門尉は急いでやって来て「どうしたのだ清兵衛。近頃そのような望みがあるとは
知らなかった。申しておきたい事があるならば申すがよい」と言った。
清兵衛は頭を上げて手を合わせ「これまでの入御有難く存じ奉ります。
ただ一言申したき事がございますので、これを申し上げます。君はいつも掘り出しを
御好みになられ、ひたすら士の掘り出しを第一とお思いになられています。
これはよからぬ御癖です。士はその身の程よりも一際相応に仰せ付けられてこそ、
永く御家を立ち去らずに忠勤を致すものです。この事を申すために御目にかかりたかった
のです」と言った。
これに三左衛門尉は「今の諫言はもっともだ。その志は山よりも高く、海よりも深い。
わしは決して忘れない」と、清兵衛の手を取り、涙を流して別れた。
それより池田家の家風はよくなったということである。
――『責而者草(古実話)』
0848人間七七四年
2013/08/09(金) NY:AN:NY.ANID:/FMh7SlT和泉にこんなことを尋ねた
「和泉殿、あなたは書状の往復に困却することは無いか?
私の如きは、幼少より戦場にのみ臨んで、更に読書習字をする暇が無かったために、
今日に至るまで書状の往復には常に困難を感じることが多いのだ。」
和泉はこれを聞くと
「私は61歳までいろはのいの字も知らなかったのです。ですが、かつて高麗在陣の時に、
毛利甲州殿よりの書状が至りました。
その時、私は賊の首実検をしていたのですが、この書状を読もうと思ったものの、それが出来ず、
立花の家老とも称され、60にもなろうという者が書状を読むことさえ出来ないとは、
この和泉一人の恥辱にとどまらないと、冷や汗を流しました。
この時は幸いに、内田玄恕がたまたまこちらに来たので、書状を見せて彼に返書を書かせました。
しかしこの事は深く私の心に刺さった出来事でした。そのため、帰国してから妻にいろはを書かせ、
習字を練習しました。これによって幸いに、今日においてはにじり書きだけは良く出来るようになったのです。」
そう笑いながら語った。
清正は、和泉が謙遜してそんなことを言っているのだと思ったが、他日立花の諸士に聞くと、
果たして小野和泉の言に違いはなかった。
清正は感嘆して、
「古より偽りがないのが武士であるとは聞いているが、和泉ほど偽りのないものは
稀である。小野和泉こそ、真の武士の典型である。」
と語ったそうである。
(古雄逸談)
0849人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:QE5deDv10850人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:7Q+T9pPf出典忘れたけど「この国の人たちはほとんどが読み書きできる」という書状が残ってる
武士で文字が読めない人は珍しかっただろうな
0851人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:4seFcnCN0852人間七七四年
2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:RdqJDEZb他の村と同盟結ぶ時も文書交わさなきゃいけなかったから
ある程度の人数、読み書きできる人はいただろうね
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