戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0723人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:soQ/799xこの源左衛門は討ち果たされるようなことを無意識にたくさんやってそうw
0725人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:VHn20M5U0726人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:FkOVtbEo天正10年(1582)、高松城籠城戦の末、宗治が切腹をすると、又八郎は在所に引き込み、帰農した。
又八郎は元々実直な人物で、友人たちも多かったが、慶長16年(1611)に病死した。
ところが死去して二七日(14日)過ぎると、蘇った。
墓所より大声が聞こえたため、村人たちが慌てて掘り返すと、以前と変わらぬ又八郎が現れた。
墓から出てきた彼が言うことには
「あちらで閻魔王に言われたのだが、『お前は今こちらに来るべき者ではないが、年来仏を
信心しているので、来世を見せよう。今後も信心堅固に、仏法を願い申すように。』
とのことであった。
そうしてこの世に帰ってきたのであるが、万人講を行なって、この郡の奥里鬼城に閻魔王堂を建立し、
朝夕念仏を勤めてほしい。
ここは郷境であり、年来争い多くあり、戦死した傍輩も数多ある。この死者たちが来世において
難儀の体をしていることを、彼らの家の子、家流の者達に伝えてほしい。
そしてこの郡の岩屋に毘沙門堂を建て、備前の八木山常慶に本尊を作らせるように。」
そう、夢うつつのように語った。
その後平山村法道寺に阿弥陀堂を建て、朝夕念仏を唱えて後生を願い、
また『往生仕候はば、末世子孫可為繁盛』と万人講を勧めた。
そうして上記の願いが成就すると、又相果てたとの事である。
(中國兵亂記)
0727人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:wMkXErXu0728人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:8Jl3h8L0宇都宮に滞在した時、徳川家康家老の本多に用があって呼んだ事があった。その節、忠勝は一揆退治として
下総の庁南にいたが、早々と宇都宮に参った。
秀吉は諸大名出仕の中で「わしはこの度熊野山より佐藤四郎忠信の兜を求めた。兜の主忠信は忠義も武勇も
数百年の後まで人に語られて知らぬ者はいない。その忠信に変わらぬ剛の者にこの兜を取らせたいと思う。
天下に忠信と同じ兵は誰がいるだろう」と尋ねた。諸人は謹んで申し出す者はいなかった。
すると秀吉は「忠信に勝るとも劣らぬ兵は家康公家中の本多中務である」と言った。
その子細は、先年、長久手合戦の時、池田勝入父子と森武蔵守を家康に討ち取られた秀吉は無念至極なので、
六万人の兵で早々と楽田を出立し、長久手へ駆け付け、家康の疲れ足へ仕かけようと揉みに揉んで行くと、
五百騎を率いた忠勝が四、五町を隔てて並び軍勢を進めていた。忠勝は少しもひるまずに、
「今ここで秀吉公が戦を挑む時は軍勢を進めて前の妨げとなる。秀吉公が長久手へ駆け付けることを滞らせ、
長久手表の家康公は十分に御勝になるだろう。ここで秀吉公を遮り留めて討死し、上方勢の長久手到着を
遅らせるぞ」と士卒に下知して、五百の小勢で本陣数万へひたすら挑戦し、鉄砲を撃ちかけた。
諸大将はこれを討ち取ろうと望んだが秀吉は許さなかった。両軍は並んで二里ばかり移動したところ、
鹿の角の兜を被った武者一騎が川岸へ乗り下し、馬の口を洗った。秀吉はこれを見て、
「大将分の者のようだ。何者なのか見知っておらぬか」と問うと、稲葉伊予守が「本多平八です」と申した。
秀吉は覚えず感涙を流して「平八は先年姉川で先陣して朝倉一万の中へ馬を入れたが、その戦功が
ちょうど目の前に見えている。只今、彼が小勢で秀吉の大軍に仕かけているのは、秀吉を道で手間取らせて
家康に合戦をなし遂げさせるためだ。古今の勇士、忠義の士である。只今平八を討ち取っても秀吉の運が
極まれば戦いに負けるだろう。たとえ家康が数万の勇士を持つとしても、わしの運が強ければ戦いに
勝つであろう。絶対に平八を鉄砲で撃ってはならぬぞ」と皆々に言って矢止めさせたのであった。
秀吉は「この場の働きは忠信にも勝るものだ。故に忠信の兜を中務に取らせる」と言うと、その翌日に
忠勝を呼んで先の件を話し、かの兜を与えた。その晩、秀吉は忠勝を呼んで御前で茶を下し、その上で密かに
「人はお前の武勇を知っているといえども、名を天下に知らしめようと忠信の兜を遣わし、大剛一の兵と
日本に披露したのは秀吉の恩だ。それでは、家康の恩とわしの恩とはどちらが深いと思うか」と尋ねた。
忠勝は頭を地に付けてとかくの答えもなかった。だが、秀吉がしきりに問い詰めた時、忠勝は涙を流して
「君の恩は海よりも深いものですが、家康公は譜代の主でございますので同日には申し上げられません」
と答えた。秀吉は機嫌を悪くして座を立ってしまった。この忠勝の答えを天下の人々は誉めたのだとか。
――『責而者草(武辺咄聞書)』
0729人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:raG9RO2S0730人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:81fUZ/QC忠勝「いまわたしの官位は義経より上なのに、その家来の兜と言われても」
0731人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:1OJpSu240732人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:ALqSd73d「古田織部の焼かれた茶入の中でも良い物で、なおかつ織部自身の茶の湯に出した
茶入というものは、あるのでしょうか?」
遠州は答えた
「ええ、御座います。その茶入は、餓鬼の腹によく似ているからと、『餓鬼はら』と名付けられた
茶入です。実に、一段見事な茶入です。」
これを聞いてその茶入を手に入れたく思った利常は、遠州の語った内容を書き付け、
京都でこれを尋ねよと高田弥右衛門らに命じた。
高田達が探し尋ねると、その茶入はとある町方のものが所有していることがわかった。
その町人に、譲ってもらうよう頼み、代金のことについて尋ねると、
高田が買取の値段を言い出す前に町人は
「何と言っても御大名様がお尋ねになった事ですから、金五百枚と申し上げてください。」
と、金五百枚を要求した。そこで高田弥右衛門もこれを利常に報告した。
そうした所で利常は小堀遠州に京へ言ってもらい、その茶入を確認してもらった所、
「成程なるほど、間違いなくこの茶入です。」
とお墨付きを得たため、利常は高田に金五百枚を遣わし、町人より茶入を買い取った。
その後、小堀遠州がまた利常の元に参った時、利常はこの『餓鬼はら』の茶入で茶の湯をされた。
茶の湯が終わると小堀遠州が尋ねた
「この茶入を買い入れるのに、代金はいかほど必要だったのでしょうか?」
「持ち主が金五百枚と申しましたので、その通りに遣わしました。」
これを聞くと小堀遠州、手を叩いて痛快そうに
「実にご尤もなことです!御大名がそのようにしていただいてこそ、織部の焼き物に
価値が付くというものです!織部も泉下にて喜んでいることでしょう!」
そう申し上げ、帰っていったそうである。
これは今枝伊兵衛の話に承った事である。
(微妙公夜話)
0733人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:MNPFUEiv0734人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:S2B+QJIP0735人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:HtKZ9df0先代の事などで争い治まりかねない所もあった。
これによって本多作左衛門がやってきて制札を見た所、法度の箇条
が多くて内容も難しかったので、
一、人を殺すものは命が無いぞ
一、被をつけると火あぶりになるぞ
一、狼藉をすれば作左しかるぞ
と言う三カ条にして仮名文字へと書き改めた。
その後はよく治まったと言う
(古老物語)
作左が叱るの別バージョン
0737人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:7Rhnmpwc違うのは傷害が火付けになってるとこか
0738人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:5Okx8lxE0740人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:NujmEwqjいる父勝重の家老へと申し送ったが、どういう支障があったのか
秋の末まで一品も届かなかった。
再度連絡を入れ「以前に連絡した御供支度の品々が只今になっても一品
もやってこないのは、不届き千万です。早々に送っていただきたい」
と催促した。
十月になって荷物が一個届いたので家老どもがこれを披露した所、
重宗はすぐに「ここへ持参せよ」と申されたので、家老両人が
これを開けて中を見られると大きな竹の子笠が一つだけ入っていた。
家老たちは何れも呆れた様子であったが、重宗は何か気づいたようで
笑いながら「下げよ」と申された。
その時、谷三助と言うものがそばに居合わせ「なにやら御合点なされた
ように見受けますが、あの笠はいったい何の御用に立つものなので
ございましょうか」と尋ねると、重宗は「あの笠を着て上を見るなと
言う事だよ」と破顔一笑なされた。
三助は「親も親、子も子である」と感じ入ったと言う。
(古老雑話)
「笠を着て上を見るな」と題される板倉親子のコミニュケーション
0741人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:eAqvRqgq0742人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:kQ2J5fDN0743人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:C6lOJI8L0744人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:+Df13ACw家康公がある時、鷹野へと御出でになられたが今日は終始養生の為の出御で
あるから、何れも御前をはばからずに休息するようにとの事で、野に幔幕を
めぐらせた。
上様にもお弁当を召し上がっていただこうと御小姓衆が重箱を持参していた
のを本多佐渡守が見つけ
「これは御慰めの御成に用いるべき器ではない。かような品に華美を尽くし
ては、御供の末々までが見習って奢侈の始まりとなるだろう。天下の政務を
とられる御身には以ての外である。」
と言い重箱を取り捨てられた。
家康公はこれをもっともと思われたのか、いささかも機嫌を損ずること無く
御供の者に持参した握り飯を取り出させて召し上がられたと言う。
(翁草)
0745人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:dj1tS+n0サドの守も根は・・・
0746人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:vRxasmXX0747人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:De49AHFU0748人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:T1hGTjTW0749人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:2aZxhEOM「この一巻は、とし頃心にかけて、要用の事ども秘書の中より撰、又智ある人にたづねもとめ、家の宝と記し置侍るもの也。」
として、文学や和歌の解釈や、しきたりの解説など、有職故実の秘伝を著したものである。
中には当時の赤松家の格式や、家中の女たちの名と身分別の服飾について詳しく述べている部分もある
貴重な資料でもあるが、それだけではない。
日々の生活の中で役に立つ(かもしれない)秘術も、いくつか書き残してくれているのだ。
以下に書き出してみよう。
一、おもふ人を恋しくバ、あまがいる(雨蛙)に名を書て、其おもふ人の戸の口に入るべし、必出来るぞ。
一、ぬす人の呪い(まじない)にハ猋符をかく。
(猋=ひょう(犬という字を3つ書く)。犬が群れになって駆けるさま。転じて「つむじ風」)
一、おもふ女恋敷バ、あり原と書、狐のほこらへ入る。
一、犬きびしくおそひなば、五ツのゆびの内四ツのゆびを、未申酉戌と四本の指をしかとおさへ、戌にむくべし、退くべし。
あの魔法使いの甥(ただし養子)が伝える戦国の秘法、試してみてはいかがかな?
0750人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:irfFttyt「私は若年の頃から方々で合戦をしてきたが、心掛けた所に押し寄せ、、目的が叶わず
撤退した、などということは殆ど覚えがない。
無理な所でも形勢をよくみて押し寄せ、敵の軍勢を多く討たせ、或いは敵を追い出し、
或いは降参させたこともあった。様々に、心地良いことが多かった。
尤も、私自身が戦闘のまっただ中で乗り回し、采配が切れ落ちるほど戦った事もあったが、
どうして私一人でこのような戦いができただろうか?
歴々、親類衆から、その家中それぞれで備を形成したほどの下々まで、みな我が下知がなくても
一つの心で励まないものは一人もなかった。
だが、そう言う者たちも稀なのだ。惜しき者たちが次第に私の前から失せていくのは、
私の命を一つづつ、取り除くのと同じである。金の鎖で繋ぎ止められるなら、そうしたいのは、
良き武者の命である。しかしそういうことも出来ず、だからせめて今の若き者どもに、
昔の者達の名をつけて使いたいのだ。」
そう言って、ハラハラと涙を流されたそうである。
(政宗公御名語集)
晩年の政宗の、思いの伝わるような逸話である。
0751人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:CH0zadcSんで、よく泣いてる
きっと同じこと何度も話すじじいだよ
0752人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:BTaLqH8H秀忠様が諸大名を召して土井大炊頭利勝をもって来年嗣君に世を譲る
と仰せ出されたので、誰もがお祝いを申し上げているなかに井伊直孝
一人は黙然としていた。
利勝はそばに招いて「なぜそのようになさるのか」と問いかけると、
直孝は「天下乱れのもとになると存じますので、とても目出度くは
思えませぬ。」と答えた。
利勝が「その仔細は如何に」と問いただすと、直孝は「大坂の乱後、
すぐに江戸の石壁の営み、日光の御造営などが続き、天下の諸大名は
とても困窮しております。このような時に御代を譲られますと諸大名
は献上物への費えが嵩み、将軍宣下の祭礼を執行するにはなお困窮に
及び、重税を課して民を苦しめる他やりようがありません。これは
万民の嘆きとなり乱のもとになると存じます」と申し上げた。
利勝は「至極もっともな事である。この旨ありのままに言上しなさい」
と直孝を御次の間に伴って、利勝は御前へと進み出てしかじかの旨を
言上した。
秀忠様は即座に直孝を御前へと召され「汝が言うことはもっともで
あるが、既に公言してしまったからには止めがたい。今後もはばかる
事無く言って欲しい」と仰せられた。
直孝はそれは良くない事だと考えたので「そのように私の言う事を
もっともと言いながら用いられぬのは、いかに仰せとはいえ、よく
ありませぬ」と答えた。
暫くお言葉が無かったので、利勝が「私は既に年老いましたが、壮年
の者がこのような直言を申し上げた事は、誠に天下泰平の基でござい
ます。明日諸大名を召されて、掃部頭が申す事はもっともであるから
昨日の件は中止すると仰せ出されるべきでしょう」と申し上げたので
秀忠様は諌めに従われた。
直孝は「私の申す事を用いて頂き忝けなし」と謝し奉り御前を退去な
された。
秀忠様の諌めを受け入れる器量と、直孝の直言は君臣ともに立派なこと
だと世の人々は語ったと言う。
(明良洪範)
井伊直孝の諫言についてのお話
0756人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:BTaLqH8H家中の士が具足甲冑頬当をすれば戦場で見ても誰だか判らなくなる
だろうと、家中の士の具足冑前立までそっくり違わぬように極彩色で
描かせて、その者の姓名を記した。
会津城広間の番所から書院に至るまで屏風を何双も立て置き、諸士
が互いにこれを見知るようにされた。
もし誰かが具足を威しなおす等、品の変わる事があれば役人までこれ
を届けさせ、絵師がかの士の許へと行って、とくと見届けさせてから
前々の絵を書き改めさせて張り直した。
六尺の六枚屏風に六人づつ描かれていたが、大大名であったので
全ては描き尽くせず、侍大将・組頭・物頭・物奉行・小荷駄奉行・目付・
横目・あかし・使番等が出されていた。
馬廻の士は一手一手の旗指物、相印で区別が付いた。
その頃、諸家においてはこれを取沙汰して、もっともよい格式である
と評判であった。
(当代奇覧)
0757人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:pLWRatP90758人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:MDDnDXwB通直の死後、信治は仙石越前守秀久に付いて豊臣秀吉に仕えようとした。
秀久は先に秀吉の命により、大友氏の加勢となって豊後国に至り、
島津の兵と戦って利を失った。この時、秀久は信治に救われて逃げることができたので、
この事が露見するのを恥じて、信治のことを秀吉に讒言した。
そのために信治は高野山に逃れ、その妻子を安芸国竹原に隠した。
その後、織田信雄が伊予国に下向の時、信治はおもむいてこれに属した。
信雄は土方雄久と天野雄光をもって秀吉に請い求め、信治を剃髪させてその死を償はせた。
信雄が京都に帰る時、信治はこれに従い、終身扶助を被って死去した。
――『寛政重修諸家譜』
0759人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:igpQpala系図の書き換えがどうのと子孫の人のHPにあったが、それが正しければ武田元明の従兄か従弟なのか
0760人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:TmkU2EJ90761人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:0WfaAUvp0762人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:aUKSJxzL安国寺恵瓊:安芸武田家
蠣崎信広:安芸武田家5代目(若狭武田家2代目)武田信賢の息子とされる
木下勝俊(長嘯子):武田元明の息子という奇説あり
どこまで本当だろ
0763人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:igpQpala0764人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:M7mvSSdV「俺はもう生まれて七旬(7回目の10年)に及ぶわけだが、どんな事だって若い連中には負けないと思ってる。
だけどな、年齢を経ることが必要な事ってのは、別にあるんだ。
俺なんて未だ若年の頃の心が失せなくてね、人さえ許すのなら今でも飛び出して行きたいんだが、
そういうことをぐっと抑えているのが、年齢なんだよ。
年齢や経験を持たないただ若いだけの奴らが、分別無くどうにかして人と変わったことをしようと思うのは、
まあ尤もなことさ。
若い時って、悪事をしても許されることが多いよな。
俺は、召し使っている小姓なんかでも、その前髪を取らせれば普段召し使うにも便利はいいのだが、
前髪が未だあるんだと思えば、もっと幼かった頃からの気分が離れず、気遣いしないんだよ。
同じ頭でも前髪が無くなっちゃうとな、大人しやかに見えてしまって、もう接する心地が違うんだ。
だからなかなか前髪をとらせないんだよ。
第一に、前髪を取らないのはその本人にとっていいことがあってな、歳が行っても前髪が有ると、
どんな悪事をしても『前髪の有る若輩故のことだ』と、許されることが多いんだ。
逆に良いことをすると『未だ若輩なのに奇特だ』と、人もやたら褒めてくれる。
前髪がないと、そういう事がないんだよなあ。何につけても、良いふうに取ってくれないんだよ。』
(政宗公御名語集)
伊達政宗の年齢論?みたいな話である。
0765人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:X8HjAZMo政宗と和解させる伏線だったのか
0766人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:uMnhwpxr0767人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:uEWy1HX30768人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:4xxAUktY烏丸光広卿が有馬へ入湯していた時、播州加東郡より貧しい病人が
来ていて入湯していた。
光広卿はこれを憐れみ御台所にて養わせていたが、有馬を出立する際
に宿の亭主に病人を労わってやってくれと言い残し、その代金を与えて
帰洛された。
病人は本復して故郷へと帰り父にこの事を報告すると、父はこれを喜び
都へと上り、烏丸邸へ参上してこの件の御礼を申し上げた。
光広卿はこれを聞かれ「奇特である。よくここまでやってきた」と言い
いろいろな品を与えられ、さらに自詠の短冊をも与えられた。
あしきとて思ひは捨し親と子のうときをは猶哀れとも見よ
今もその家ではこの短冊を持ち伝えてると言う
(当代奇覧)
0769人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:++CW38Ni0770人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:nUhTQfLI幕末に総髪が多くなるのは、志士の間で総髪にすることで、『俺は月代を剃る暇もないほど国事に奔走しているんだ!』って
世間にアピールする面が大きかったらしい。
0771人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:3IIEf/D5関係ないが、ゲルが整えない状態の髪をテレビで公開したときの衝撃を思い出したわ
0772人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:QyNlIWGn高坂昌信に「今死ぬことは容易いが、生きながらえて主君のために戦死することは
難しいことであろう」と強いてとどめられ、その通りだと思って殉死を止めた。
その後の長篠合戦で昌次は「今日の討死は高坂がかねて諫めたところだ」として
織田家の陣に向かい、柵際に攻めよせて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦し、
鉄砲に当たって討死した。
――『寛政重修諸家譜』
0773人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:p7JI9yPt関ヶ原で西軍に付き、伏見城攻めなどに参加した雑賀孫市はその頃水戸徳川家に使えたが、
或る時、鳥居左京亮忠政の元に使いを送った。
『私は、あなたの御父、元忠君の(伏見城での)御最後に参り合わせました。
その時の元忠君の御物の具を、今日まで家に伝えております。
あなたの父君の御形見であるので、御覧になるのであれば、返還したいと思います。』
これに忠政は大いに喜び
「一見することを許していただけるのなら、大変ありがたい。」
と返答した。
やがて雑賀孫市は、元忠の甲冑を携えて忠政の屋敷を訪問した。
忠政は恭しく玄関に出迎え、書院に孫市を通して、父の甲冑を床の上に据えて、これに向かい拝礼し、
雑賀には山海の珍味を所狭しと並べ、心を尽くして饗した。
翌日、忠政は孫市の持ってきた父の甲冑、大刀を使いに持たせて、孫市のもとに送った。
そして
『あなたのご芳志により亡父の物の具を見ることが出来たのは、返す返すも大きな悦びでした。
そうではありますが、忠政の方には形見と見るべき物の具は少なからずあります。
ですのでこれは、見苦しいかもしれませんが、雑賀殿の戦功の御名誉とともに、
あなたの御家に差し置かれ、ご子孫にお伝え頂ければ、後世への御遺誡にも成ると存じます。』
そう、伝えた。
その後、鳥居家では毎年、綿を厚く入れた小袖を数多、常陸国の雑賀家に贈るのを恒例とした。
水戸徳川家ではその使者の来る時は、道路を修繕し、雑賀の家に魚鳥を多く与えその饗応に使わせた、
という。
(徳川武士銘々伝)
鳥居元忠の遺品の甲冑についての逸話である。
0774人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:N8q5VtOC厚恩を受けた家臣として、その主君に殉じるというのは立派だけど、兵を率いる指揮官としてはどうなんだろうなあ、と思わんでもない
0775人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:QmOHOR/p真田信幸が上田に居た頃(関ヶ原合戦後の頃か)、家臣らと船に乗ることがあった。
そのとき岸辺に杉菜が多く生えているのを見た信幸は、杉菜を指して家臣に問うた。
「お前たちはあの杉菜を食べたことがあるか?」
家臣たちはこれに答えて、
「いえ、まだ試したことはありませんが・・・」
信幸はそれを聞いてこう言った。
「それこそ泰平の世の恩恵だ。
昔、勝頼没落の時(甲斐から落ちのびる際の)道すがらに
あれを取って食べたことがあるが、とても食えたものではなかった。
ほかに稗粥も度々食べたのだが、これもまた非常に不味かった。
それでも、昔あのような苦労をしたからこそ、今お前たちを扶持することができるのだ。」
悪い話スレでいかもの喰いの話を見たので、普段食べないようなものを食べた話。
出典は国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られる「武人百話」という本から。
0776人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:HfEb4Ibv0777人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:zYj6vKDjついでにその甲斐から落ちのびる時の様子を「加沢記」から
これも近代デジタルライブラリーで読める
(勝頼が昌幸ではなく小山田の策を用いて裏切られた後、なぜか新府で?)
信幸公が勝頼公に召しだされ、
勝頼「昌幸のこたびの忠心は忘れぬ。小山田の言葉を信じたためにこうなってしまうとは、
とうとう神にも見放されたようだ。昌幸は私を甲斐のないものだと思ってるだろう。
どうか、お前の母、弟、一族を無事に逃がしてやってくれ。お前たちの繁栄を祈る」
と杯を賜り、甲州黒という名馬、金作りの太刀を下賜された。
また、勝頼公は若年の落人であれば生け捕りになりかねない、と考え数十人をさいて5,6里送り届けさせた。
これも昌幸公の忠義に感じいったからである。
信幸一行は三月五日新府を引き払い、信濃境に向かっていると、甲州の落人狩りのため盗人百人から二百人が襲ってきた。
当時、信幸十七歳、御弟の藤蔵(信繁)十五歳、源五郎七歳、御姉十八歳、そのほか矢沢、根津、室賀の娘などが同道していた。
信幸公は先陣に進み、その勢男女二百余人で盗人を追い払い、鳥居峠で人馬を休ませた。
このことは盗人に知れ渡ってしまい、信州のスッパ、上州、武州のワッパ千人余りが集まって峠の麓で鬨をあげた。
信幸公の母は百千の雷鳴に勝る鬨を聞き
母「多勢に無勢、しかも度々の戦で我々は手傷を負ってます。潔く自決をしましょう」
と涙ながらにおっしゃったが、信幸公は武勇の大将であるため、怒ってその母親に申し上げた。
信幸「あの程度の烏合の衆、百万騎でも物の数ではありません。ご安心を」
と鎧の上帯を締め直し、十文字の槍を取り、勝頼公より賜りし甲州黒にまたがり、
手勢二百人を五十人、五十人、百人に分け、鬨の声をあげさせた。
盗賊たちは、さては落人ではなく尾張勢であったかと思い、逃げ去っていった。
(その後、無事味方と合流し、信幸一行は戸石城におちつく。)
0778人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:it/TbstRばあちゃんがまえふきのとうとかつくしんぼとかの雑草を佃煮?のようなかんじで
調理してくれたことがあったけど普通に食べられたぞ
0779人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:or5clOXrhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000009-kana-l14
「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川
0780人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:MbCsF4HXこれはさすがにありえないなあ。
明応の大地震・大津波の時、伊勢宗瑞は小田原どころか伊豆討ち入り前だし、
そもそも小田原城奪取も、扇谷上杉配下だった大森氏が山内上杉に寝返ったことから。
扇谷上杉の要請で攻め落としたというのが今はほぼ定説になっているし。
0781人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:3FcPthVwツクシが花でスギナが葉っぱと考えれば良い。
ちなみに、スギナは苦くて食えない(実体験)。
食える野草は限られてるのでチャレンジしないほうがいい。
0782人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:TK4sLSeM食べれる野草はこれも食べれるんかってくらい結構あるけど
毒草も身近にいっぱいあるから気をつけなあかん
0783人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:iVk54BOr0784人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:vGyyOMM6舐めただけで死ぬレベルの物を食おうとするとか昔の人達の食欲は恐ろしい
0785人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:or5clOXr0786人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:vGyyOMM6指摘サンクス
0787人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:5OIfLFkU0788人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:BtDg4Hdxすげえよな歴代の死んでった人たち…
(武将の話関係ねえ)
0789人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:vx/GOXbS日本だと毒魚扱いで販売禁止だが、たちの悪いことに味がいいんで
どうせ売れないし漁師の中にはオムツをしながら食べる人もいるとか
近海で取れる結構な大型の魚だから戦国時代でも食べる人は食べてたんだろうな
アレルギーと同じように人によって許容量が全然違うから毒見役がセーフで要人が垂れ流しになるとかあったりしたのかも
0790人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:KHHFZ0hwふきのとうもツクシも食べられる山菜として有名なもんだよ
珍味としても知られる、買うと結構高いぞ
0791人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:AJ+vCHuD山菜とは言わねえよ。畑とか野原に勝手に生えてくるし。邪魔だし。
山で取れるから山菜だからね?
春の七草は大根と蕪を除けばみんな雑草だけど、平安の昔から食べてたのと同じ原理。
買うと結構高いけど、自分で揃えるとめんどくさい。
0792人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:vxJaUW70どこがくるかしら^−^・
0793人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:bdg6zIGeスレ違いかつ横レスだけど一般的には山菜は、山「野」で採れるから山菜と呼ばれる
ttp://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E8%8F%9C
語句としては、食べられる野草のことで、自分たちで栽培する野菜の対義語として江戸時代あたりから一般化したもの
だから野山に自生して食べられる植物であるつくしやふきのとうは、字義的に見ても山菜にあたるし
山菜の種類には、地域性があるのは確かだけど、
ふきのとうもつくしも全国的に山菜として扱われるのが普通だと思う
この流れで言うと、このスレ的には(ちょっと時代がずれるけど)上杉鷹山が、食べられる野草錘R菜を
飢饉対策として研究させて、一覧化した「飯粮集」「かてもの」という冊子を作成したので有名だね
(ちなみにつくし、すぎな、ふきのとうはそれぞれ載ってたり載ってなかったりする)
近デジ「かてもの」
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183113
米沢図書館「飯粮集」
ttp://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/AB610_view.html
0794人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:GkuuUDhn少なくとも雑草とは言わん
0795人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:/PaPUbjJ地域によるのかな
0796人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:GkuuUDhn0797人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:e3maUbqd0798人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:/ibtXo1+だが店で食べても有り難味が全く無い食材だと思う地元民であった
0799人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:NT66srHk今年の春に通りがかったときにつくしがびっしり生えてた
人が入れないから大繁殖してたみたい
0800人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:GcFUEDU/「奉公人は上下ともに、手を清める心掛けが大切だぞ。
近いことで言えば、普段使ってる小姓たちが俺の前に出る時に、手を清めて出てくれば、
俺から「髭を抜け」「髪をなでよ」「形無を持て」と言われても、危ぶむこと無く安心して
用を勤めることが出来るだろ?
これが、手水を使わずに俺の前に出てきたらそうはいかない。手を清めずに用を勤めようとしたら、
手の汚れが他につかないかと、気遣いすることが多いんだよ。
何かに限った話じゃなく、万事にわたる事だ。手を清めることを、常に心がけておけ。
それを良くしておけば、何事にも行き詰まる事はないものだ。
諸人にこの心を、絶えず持たせたいものだ。」
と仰られた。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の「手を洗おう」というお話である。
0801人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:QC9mfxuBあれ本当にいい話だと思うんで、広まって欲しい
腐った人たちが盛り上がるかもしれんけど
(でも、腐った人たちのターゲットは父の方だから、息子はどうでもいいのかね?)
感動的なこと言っておきながらすぐまた江戸で会うんだけど
0802人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:gxxVNgUl高野山へ行こうとした。
時に秀信を生け捕りにすべきだと言う者がいた。福島正則はこれを聞いて、
「武士は約束を違えることを恥とする。
和睦が成立して戦いを止めたところを陥れるのは、武の冥利の尽きるところである」
と、固く制止したので、事故もなく秀信を通したのだという。
――『名将言行録』
0803人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:lau0QR5U0804人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:naIGmsib0805人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:5eKdGnD70806人間七七四年
2013/07/29(月) NY:AN:NY.ANID:GcFUEDU/初音を聞かせたことを大いに悦び、その晩、片倉小十郎重綱の居城である白石に宿泊した。
小十郎重綱は種々の珍物を整え大いに饗したが、この頃小十郎に対し悪心を抱くものが在り、
小十郎の身の上に悪しきことが有ると書き立て、目安に整え申し上げてきた。
政宗は内密に調べたが、しかし全て事実無根であることがわかり、かえってその讒人の心を蔑んだ。
そして、国に讒人あればその国は治まり難いことを深く悲しんだ。
翌日、小十郎が膳をさし上げると、政宗は一層機嫌よく酒を出させ、かれこれの人々に御盃を下された。
その頃小十郎は、外孫を自分の養子とし、三之助と名付けたが(後に小十郎景長)、この子が
御目見得仕り御寄場に畏まっていたのを、南次郎吉という御小姓衆が政宗のご機嫌を伺いながら
「冥加のため、御盃を三之助に下されませんでしょうか?」
と申し上げたが、聞こえぬ様子で他の者と四方山の話をしていた。ややあってから南は再び
「三之助はいかが?」と申し上げると、政宗は彼の方を向いて
「以前にも言い、又も言う。そういうふうに声をかけるものではない。
お前などに気をつけてもらうような私ではないぞ!あの子に酒を与えるのは何でもない事だが、
敢えてそれを控える仔細があるから、そうせぬのだ。
小十郎は子を持たず、あの孫を取り立て、誠に無事に育つかと心配に思っているため、片倉の家では
下々まで、あの子を手の中の珠のように、労り育てていると見える。
まあ、実際に4つ5つの幼児であるから仕方がないのであるが、前にあの子が私の前に座って対面した時は、
小十郎の心配をよそに、見苦しく、苦しそうであった。
そんな子を座敷に呼び出して盃の取り回しなどさせたら、幼児であれば、どれだけ難儀に思うだろうか?
また余所からは、見苦しき有様であり、あの小十郎の子には似合わぬなどと言い出すものも有るだろう。
それは小十郎に為悪しく、恥を与えるようなものだ。」
と仰った。
さて、御立ちの時、政宗は三之助を乗物の前に召し寄せて、自ら挿していた脇差を脇差を与え、
それを自ら、三之助に挿してやり
「さてもさても、小十郎は果報者かな。これほど良き子は、良き者に預けて育てるように。」
と言った。そして小十郎重綱を乗物の中に引き入れ
「其方のことを悪しく思うものがあり、十度にわたって種々目安を以って私に讒言を行った。
しかしそれは全て偽りであり、疑うにも及ばぬもので、打ち捨てた。
其方が、例え憎しみで如何様に言われようとも、私がある限りは何事も心安く思ってほしい。
ただ、讒言をするような者が、国の中にあることこそ嘆かわしい。
私とて、これから何年命を長らえられるであろうか。
私が死んだ後は、よろず見を慎み怒りを抑え、国の久しきことを心掛け、ひとえに計らってほしい。
奢りは身命を失う根本であるぞ。
もし明日何事かあっても、其方と私があれば、老年の思い出に、其方の名を上げさせたいのだがな。」
これを聞くと小十郎は感涙を流した。政宗もまた涙にむせびながら白石を発った。
(政宗公御名語集)
これが伊達政宗と片倉小十郎重綱の、今生の別れであった。
そして政宗より脇差を頂いた三之助は、後、伊達騒動で混乱する仙台藩を見事に取り仕切り、
彼の活躍によって改易を免れるのである。
0807人間七七四年
2013/07/30(火) NY:AN:NY.ANID:lTGZNC3/白石涙の別れエピソードキター! リク聞いてくれてありがとう!
>よろず見を慎み
よろず「身」だね
>もし明日何事かあっても、其方と私があれば、老年の思い出に、其方の名を上げさせたいのだがな
ここが、他の本(『木村宇右衛門覚書』)だと、
「明日にも天下に一大事が起こり、先鋒を承って向かうのならば、その方(小十郎)に先を蹴散らさせ(先陣をまかせ)、成実に一方の団扇をとらせ(指揮をとらせ)、
三人心を合わせたならば、時期はずれの花を咲かせようものをと思う」って政宗が言ってるんだよね
死ぬ間際にこんなこと言ってるじじいっぷりがいい
0808人間七七四年
2013/07/30(火) NY:AN:NY.ANID:f4BGy2Te0809人間七七四年
2013/07/31(水) NY:AN:NY.ANID:X6gkfR9gおべっか使いを脇差で血が出るまで殴るとかもちゃんとやってるあたりが期待を裏切らない仙台黄門
政宗萌えはギャップ萌えなんかね?
0810人間七七四年
2013/08/01(木) NY:AN:NY.ANID:dSxzOCn+>これが伊達政宗と片倉小十郎重綱の、今生の別れであった。
>>801
>感動的なこと言っておきながらすぐまた江戸で会うんだけど
ん?
0811人間七七四年
2013/08/01(木) NY:AN:NY.ANID:B37cAW3r806が書いたみたいに考えるとまとまったいい話なんだけど、政宗が江戸でいよいよ死ぬってなりかけたときに、
家臣たちが続々と江戸入りして、小十郎重綱も追っかけて江戸に行ってるんだよ(幕府の人たちと会ってるのが記録に残ってる)。
なので806の書いたのは、実は政宗と重綱の今生の別れではない。
で、あまりにも上府する人が多く、いろんなところで潜伏したりする人とかが増えて、幕府と藩からもう行くなって禁止令が出た。
でもそれでもこっそりこようとする藩士が多かったので家光が感動して、大目に見るからからこっそりこいみたいなことを言ってたらしい。
一門の伊達成実もギリギリになって上京しようと出発したり、石川宗敬(昭光の孫)はギリギリすぎて間に合わなくて、
江戸行く途中で政宗の訃報とかち合ってそのまま戻ったりしてる。
政宗というか、家光のいい話。
政宗の見舞いに来たときに家光が忠宗にいうセリフも結構いい話なんだよな…。
0814人間七七四年
2013/08/01(木) NY:AN:NY.ANID:dTvFgpKp「関白秀次が高野山にて自害した時のこと(文禄4年(1595)秀次事件)である。
太閤殿下(秀吉)に、私が殿下に背こうとしていると讒言するものがあったため、私は
十騎ばかりで急ぎ大坂へと上った。
枚方まで至った時に、石田(三成)、富田(一白)、施薬院(全宗)が御使として来て、
『其の方は関白ととりわけ睦まじい間柄であったこと、隠れない事実である。
その仔細を正直に申せ』
との事である。私は畏まって
『いかにも秀次公には親しくしていました、されども、太閤殿下の天下無双の御眼鏡であってさえ、
思いの外に違われたからこそ、このような事態になったのではありませんか!
まして私は片目であり、見損なうのは当然のことだと思われませんか!?
秀次公は殿下の御子として世を譲るのだと聞いていたからこそ、私も取り入ったのです。
ただ殿下をお頼みしたいとそうしたのです。
それを過ちであるとお考えに成るのなら、仕方ありません。どうぞ私の首を刎ねて下さい。』
これを聞いた施薬院は慌てて
『そのような反論をどうして殿下に申次できるでしょうか。取り成しすることもできません。』
私は施薬院を睨みつけて怒鳴った
『おぬしは病人を扱う事こそ知っているのだろうが、武士の道をどうやって知れようか!
ただ此の侭に申せ!』
私の言葉に3人はどうにも出来ず帰っていった。
翌日、太閤殿下より富田左近(一白)が遣わされて、
『翌日、(大阪城)山里曲輪にて御茶を賜るので、かならず来るように』
と伝えられた。その日になって私は、ただ二騎を引き連れて大阪に行くと、
富田左近の家来の侍一人が案内として出てきた。それを先に立たせて御庭に行ったが、
樹木が隙間なく立っている所に到って、その案内の侍が、どこに行ったのか影も形もなかった。
そういうことか、私はここで討ち殺されるのだ
そう心を定めていると、茶頭のような姿をしたものがやって来て、『刀脇差を出して頂きたい』と言う
『なに!?侍の刀をよこせとはどういうことだ!?』と叫んだ所で太閤殿下が木陰より歩み出て
『和尚、そちらに出ているのか?』
と、例の大きな声で言われたので、私は刀をその茶頭に渡して殿下のもとに進むと、
『こちらに来い』と茶室に招き入れられ、手ずからの茶を頂き、何事も無く暇を許されたのだ。」
(話園)
秀次事件の後、秀吉に呼び出された政宗についての逸話である。
0815人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:aP8Lb7CL大名自らこういう記録を残してくれたのは後世の者にとっていい話ということで、整理して書いてみようと思う。
○まずは女性たちの身分と名前について。
一、当家の当時の女は、
そばめ(妾也):身馴、色香
膝本(妾):八重
奥:滝野
家見:小梁
中居:七、梶本、貝、糸竹、松(半下)、山路、小雪、小重、才、小糸、岩
まゝたゝき:田巻(上方)、若江(同)、もミぢ(次方)、柳(同)、坂本女、杉、松、塩、吉
筆取:井筒(中居)、縁(上)
下女:藤、梅、玉、なべ。以上。
○外出する時は
一、傍女、妾、ひざもと(膝本)ハのりもの。
一、奥、家見、次(の)のりもの。中居以下歩行。
中居ハぼうし、その上「奥かミ」麻かつぎ、ひざもとより上ハ衣かつぎ(の使用を許されていた)。
0816人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:aP8Lb7CL一、政則の時より、
・傍女には、ひたい櫛、根櫛(べつがう<鼈甲>)ぞうげ)、銀まきゑ。髪は片曲結。
下に白むくりんず<綸子>、上に紫かのこ<鹿の子>上ほりに、ぬいちらし小袖。
帯ハぬいの帯、織紋帯にうしろ帯。
銀のかんざし、帯は五尺さがり、三重りんず、手おゝひ、白きぬたび、しゅすさげ帯(是ハ節日)
夏ハすゞしの織。色は右に同じ。
・妾女は、ぞうげ根櫛、つげの添櫛、髪は片曲。
下に白むく、上に紫かのこ上ほりに、しゅす<繻子>小袖、
帯は織紋うしろ帯、
帯は五尺さがり、二重白衣、手おゝひ、白たび、染衣、さげ帯。
・奥かミは、ぞうげ根櫛、髪は片曲。
下に白むく、上にしゅす、りんず、色小袖、上ほりしゅす。
帯はちりめん、りんず。
右袖下三尺さがり、二重さげ帯なし。白衣、手おゝひ、白たび。
夏は右に準ず。以上。
・節日の中居は、兵庫わけかミ<髪>、
染小袖、下に白むく。さげ帯ならず。前おび、櫛は根ぐし計、ぞうげ又ハつげ、
手おゝひ、たび、ならず。
・そばめは、高雄、吉野のるい。
・妾は、右に同じ。或ハ巻絹、小琴。
・奥かミは、小梶るいなど。
・中居は、七、梁、梶のるい。
・以下は、若な、もみぢのるい。
一、内室は、根櫛:ぞうげ、金まきゑ。ひたい櫛:べつかう、金まきゑ。
下にりんず、或ハしゅす。上に紅紫、ぬひちらし、上ほり金入織紋。
髪はさげ髪。金のかんざし、
金織紋、おび三重五尺、うしろ帯、しゅちんのさげ帯。
白りんずたび、織赤紋、ておゝい、色のふく面。
節日、夏も右に準ず。
そばめ、妾女、ふく面はまれ也。名は国名又は何の御方。
当時、身馴ばかり白衣ふくめん。
(秘事枕(播陽万宝知恵袋に収録))
0817人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:FGrSjeTP0818人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:JzFxxB+f「今世上で目付・横目(人々の監視役)といえば、諸人に迷惑をかけ、
しかも良いことは少なく悪いことは多い連中だ。
俺は若い頃から今まで、目付・横目という物を付けたいと思ったことはない。
物事の仕置を、目付・横目を付けて、それに脅させて法度を人々に聞かせようというのは、
穢い心だ。
そもそも目付・横目を付けるというのは、法度を執行した時の反応について、良い事も悪い事も
知るためなのだ。
それなのに、ああいう連中は良い事は百に一つも取り上げず、どうにかして悪いことを聞き立てて
言おう言おうとするのだから、悪い事は多く報告され、こちらは報告された以上対処せざるを得ない。
しかし、本当に悪しき者というのは、そういった目付・横目の前では行いを忍び、陰でいくらでも
悪事をしているものだ。そうなのだから本当の悪人が失うものは何もない。
それに、いくら目付・横目を付けた所で、その法度に対して最初から好意を持たないものは、
そうしたからといって好意を持つように成ることは無いだろう。
『法度を聞け聞け!』といくら言っても、無理に聞くものでは無い。いくら目付・横目を使っても、
法度を聞くのは結局、皆それぞれの心次第なのだ。
それらを差し置いても、我が家を代々変わらず支えてくれる、何より大切にしている者たちを、
そう言うふうに心を疑い無慈悲に扱うなんて、そんな事俺は嫌だ。
(とかく代々に変らず何より秘蔵なる者さやうに心うたぐり無慈悲なる事我等はいやなり)
横目を付けずに、今まで事欠いたこともない。見事善悪も知ることが出来て、かえって良いほどだ。」
(政宗公御名語集)
伊達政宗、目付・横目を嫌う、という話である。
0819人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:iqFlO0Wf0820人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:gEW9WFUH0821人間七七四年
2013/08/03(土) NY:AN:NY.ANID:Z2S3fWhj色々やってたっけねえ、そういえば。
本人基準では悪事じゃないかもしれんがw
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