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戦国ちょっといい話37

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0001人間七七四年2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0069人間七七四年2013/04/18(木) 23:21:04.68ID:vsTgSpYd
>>68
>徳川家康が小幡昌忠のこの働きを聞いて本多正信にこう命じた。
>「昌忠は出陣するごとにいつも手痛く戦う。
>片手でこのように危ない戦いをすれば、
>討死してしまうのではないかといつも心が痛んでしまう。
>これ以降は昌忠を本陣に留めおき、みだりに先手に進ませないようにせよ」
>本多正信は承り、この旨は白須平次を通じて小幡昌忠に伝えられた。

某ルーデルさんみたいなパターンになるのかと思ったら、
案外あっさり言うこと聞いたんだなw
でも、36歳で死んでるってあんまり意味ない(ry
0070人間七七四年2013/04/18(木) 23:38:18.06ID:BiwbsjNG
>>69
享年36とは言え、エピソードは天正13年から慶長4年だぜ
十分に意味があるだろ
0071人間七七四年2013/04/19(金) 12:57:30.94ID:6rZbRRr7
武士は主君に忠義を尽くし、仲間に信義を守るものだと世間は軽く言うが、
これを生半可な覚悟で行うならかえって仇となることもある。
それについて武田信玄は、
「忠義は不満(を生み)、不満は謀反(を生み)、謀反は没落(を生む)」
と語っていた。
忠義を尽くすぞと骨折る苦労をしたけれど、
主君からはなんのお褒めもなく、
上下の意志疎通がバラバラとなれば、
やがては不満が限界に達し、
気持ちも荒んで、ついには謀反心が生じる。
逆に、もとから忠義という観念が頭にない者は、
あたりまえに謀反という観念も頭にないのだから、
生半可な忠義の心掛けは、無学なものよりかえって悪いということになる。
友達に親切にすることにもこれは当てはまる。
相手が自分の親切に対し感謝をしないと、
気を悪くし、感謝を知らない奴だと見限り仲違いし、
結果、親切にしないよりも悪いこととなる。
そういうこともあるから、武士は最初の覚悟こそが大切なのだ。
主君からお褒めにあずからずとも、
少しも怨まず、いよいよ忠義を尽くし、
友達に親切にし、かえって取り違えされ、
遺恨を抱かれても、いよいよ親切にする。
この覚悟を決めてこそ誠の武士であろう 【葉隠】
0072人間七七四年2013/04/19(金) 18:28:38.03ID:xp2BZJGn
見しは昔。上野国岡根という山里に、藤次という身は貧しく、姿は無骨な者がいた。
六、七年以前、江戸へ来たり、志葉の町のはずれに小さき草の庵を結び月日を送っていた。

年を経てその身の上はよろしくなり、今は江戸も栄えた町になって家屋敷を求め、たくさんの什物を貯えて、
人との交わりも睦まじくなった。「普段の振る舞いが他の人よりも勝れている」と人々に誉められ、
目出度く栄えた。

「賤しき身とて思ひ捨めや」という前句に「立ちぞ寄る人を厭はぬ花の陰」と兼載は付けられたものだ。
この者は古郷にいたならば一期は貧しく、心愚かなまま果ててしまっただろうが、生まれた地を見捨て、
繁昌の江戸へ来たり、人の形儀作法を見習い、仁義の道を学んで今人と呼ばれたのも、よき住処にいるからだ。
0073人間七七四年2013/04/19(金) 18:30:43.15ID:xp2BZJGn
人間は天理といって、この理を持たない人はいないけども、それを分明しないので万事につけて迷う。
その上、心の愚かな人は学ばなければ道を知ることは難しい。先哲も一期の大事は住処と言っている。
まさに人間は、一期を楽しむべき住処が肝要なのだと求めることをせず、生まれた地を慕い、旧縁に繋がれて
いたずらに一生涯を送り暮らすのが常の習いだ。孟母とは孟子の母であるが〜

(中略。孟母三遷の教えを例にあげる。教育には環境が大切であるという教え)

さてまた、頭虱といって虱は住処によって色々である。首に住むものは黒く、身に住むものは白い。
麝香はかやを食して香ばしい。このように人も住処によって悪人とも智者ともなる。

花山院の御製に「木の本を栖とすれば自ら、花見る人と成りぬべきかな」と詠じておられる。
また昌叱の「詫びて住とも都なりけり」という前句に紹巴は「遠近の花の梢をみぎりにて」と付けた。

こんな目出度き江戸の花の都を余所に見て、片田舎に住んで果てるのは愚かな心ではないだろうか。

――『慶長見聞集』
0074人間七七四年2013/04/19(金) 20:06:40.20ID:pa3XMz0z
丹後宮津藩(宮津城)初代である京極高知が病気となり、京へ養生のため上られたが、
この時、内匠豊後がお供をした。内匠豊後は高知お取り立ての者であり、常にお側に有った。
その上、高知の三男である修理太夫高三とも大変懇意な者であった。

高知の病状が甚だしくなると、内匠豊後は仮に御書を作った。その内容は。
京極領12万3千石のうち、嫡男である采女正高広に7万8千石、三男の修理太夫高三に
3万5千石、甥で婿養子の、主膳正高通に1万石あまりを継がせる、というものであった。

これを作り置き、高知が終に前後不覚の状況となると、内匠豊後は高知の手を添えて
その御書に御判物を書かせたという

高知が死ぬと、内匠豊後はその御書を高知の遺書だと言い、それは江戸の将軍にまで達し、
幕府からその内容通りにするよう仰せ付けられた。

後に、この事は全て内匠豊後のはかりごとであったことが顕れたが、京極家中の者達は皆、
内匠豊後の手柄であると言っていたそうである。
(宮津日記)
0075人間七七四年2013/04/20(土) 00:27:34.29ID:bFgtfghp
>>74
「はかりごと」とはいえ、特に問題視はされなかったんですよね
結果論かもしれんが、京極家も無事に明治まで生き延びられたからいい話 ということですよね?

高知が南北朝バサラの子孫という事しか知らないニワカの独り言でした、スマソ
0076奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2013/04/20(土) 00:49:10.50ID:dAGbjGFw
>>75は狡猾。
0077人間七七四年2013/04/20(土) 09:33:26.80ID:a32B7T14
本家の石高下がって格は下がったけど無嗣断絶の多かった時期で分家作りが流行ってた頃でもあるからなあ
0078人間七七四年2013/04/20(土) 15:39:13.04ID:/bj2iR3L
ある時、織田信長は不思議な夢を見たので気がかりに思っていた。
誰に判じさせたらよいかと彼是案じ悩んでいたが、きっと思い付いて、翌日に乗慶僧都を招いた。

「ちと御房に判断してもらいたいことがあって、お招きしたのだ」
「承ってみましょう。どのような御事ですかな」
「実は今宵なんとも理解できない夢を見たのだ。御房の了見を聞かせてほしい」

「広々とした山野をただ一人辿り出て、東より西へ行こうと思ったが、道の中程と思わしき所に、
向こうへ半段ばかりと見渡せる大河があった。岸を打つ波は荒く、水面もすさまじく尋常ではない。
これを渡りたいと立ち休んでいたところ、この河の水がにわかに紅血に変じてとても生臭い。

そのような所に、三十ばかりに見える剣が一振り流れていた。夢心にこれを取ろうと思うも、
容易くは取れず、どうしたらよいかと色々と案じておると、そのまま汗をかいて夢は覚めた」

「これは誠にめでたき御夢です。近いうちに河内国は御手に入ることでしょう。
その剣はすなわち敵の魂です。その精魂が抜け出て、水に流れて消えるという御告げですぞ」

僧都がそのように判じると信長は大いに感じ入って手を丁と打ち、
「さてもさても、めでたい判断をしてくださったな。年来の本意を達せられるならば喜悦の眉だ」
と喜び、「それぞれ」と言って当座の引出物として料足五貫文、白布二反を与えると、
律師は「有り難し」と拝領して御前を立った。

――『室町殿物語』
0079人間七七四年2013/04/20(土) 15:47:27.79ID:ehV0KQud
西に向かうとか、途中で三途の川っぽいものがあるとか、死亡フラグのようだけどな
0080人間七七四年2013/04/20(土) 16:01:24.43ID:9QzqIF4t
この手の話は吉夢と解説して後で実は凶兆だったというオチがデフォだと思ったがw
0081人間七七四年2013/04/20(土) 16:30:48.56ID:BGIjtejT
花落つる 流れの末を せきとめて
0082人間七七四年2013/04/20(土) 17:44:59.62ID:E/gEUAWC
まぁ信長もこれヤバい夢なんじゃ?って思ったから呼んだんでしょ
そこで機転をきかせて吉夢ということに切り替えさせたこの坊さんがうまい
0083人間七七四年2013/04/20(土) 21:52:07.35ID:eFlA0Mhp
>>80
魏延「まさかそんなw」
0084人間七七四年2013/04/20(土) 22:19:56.14ID:+TbimQD8
>>83
アンタ吉夢だって言わないと斬るじゃないですかー!

信長様はそんなこと致しませんよ…ね?
0085人間七七四年2013/04/21(日) 09:54:55.01ID:0BxUDqg8
朝鮮の役の時のことである

正月元日の未明、挑戦に在陣していた毛利宰相秀元の本陣に、太鼓や鐘をかき鳴らして何者かが近づいてきたのが聞こえてきた。
その日は元旦であったので、秀元の本陣では、上下とも静まり返って朝拝の儀式を執り行っていた。
そんな時にこのような事があり、敵が攻め寄せてきたのではと申す者も有り、秀元は物見の者に、急ぎ見てくるよう命じた。

物見は馬を飛ばしそれに近づいて見ると、獅子頭、赤頭など、いろいろな面をかぶり、異形なる衣類の美麗な出で立ちをして、
旗印、笠鉾などを指した2,3千の人々が、太鼓や鐘、笙や篳篥(ひちりき)などの楽器をかき鳴らし進んでいた。

物見が、これは一体何者なのかと聞くと、通訳は
「あれは年頭の御礼に、大将軍(秀元)に踊りの興行をかけ奉る者達です。」
と言う。

急ぎ帰ってこのことを報告すると、秀元は
「日本では盂蘭盆に踊りがあるが、正月元旦に踊るとは、風俗も違っているのだな。」
と仰り、それから支度のため待たせ、大手の門を開いて彼らを尽く入れて踊らせた。

この踊りの者達は、様々な曲を仕り楽を奏し、四ツ時分(午後10時頃)まで踊った。
秀元はこれに褒美として、鳥目五十貫を取らせた。

その後彼らは加藤主計(清正)殿の所に向かい、その他諸侯を3ヶ日の間、次々と踊りまわったという。
(義殘後覺)
0086人間七七四年2013/04/21(日) 10:05:05.81ID:0BxUDqg8
>>85
あー変換ミス。2行目 挑戦→朝鮮です。申し訳ない。
0087人間七七四年2013/04/21(日) 11:26:52.99ID:hH6Pfpc7
どんな罠かと思いながら読んでたがここはいい話スレだった
0088人間七七四年2013/04/21(日) 17:05:43.99ID:0fEREdcl
武田の風林火山の旗を見れば、
腰抜け武士はそれだけで逃げ出す。
そんな武田家全盛の時代のこと。
武田信繁は重臣にこの思いを書き残した。
「たとえ自分の立場が時勢に適応して、
地位、力のある者が親類、周囲にあったとしても、
そのことに安心して、軟弱な趣味を持ったり、
あるいはことさら派手な振舞いなどと、
そういったことをしてはいけない。
なぜなら、それは武士として大切な勇を失いがちになるからだ。
三略にも上の者に勇がなければ、
役人、武士もこれを軽く見るとある通りだ」

《信玄家法》
0089人間七七四年2013/04/21(日) 18:46:07.77ID:q0Uxl8Mt
>>85
経久「正月に踊るのは実にいいぞ」
0090人間七七四年2013/04/21(日) 19:03:19.48ID:KSMvLDiY
信繁堅いなー。背中叩くとカーンて音が鳴るかも
0091人間七七四年2013/04/21(日) 19:51:59.51ID:MOMKxQKX
超義理堅い堅物と思われてた方が安全ではあっただろうな
謀略に長けた兄を持ってしまうと
0092人間七七四年2013/04/21(日) 20:54:40.71ID:d651/HJ0
信繁には、本当に兄貴に取って代わるつもりは無かったのか聞きたいw
0093人間七七四年2013/04/22(月) 09:40:43.28ID:fiL1TWLm
信繁「兄貴に取って代わって家訓を199条まで伸ばしたいなー」
0094人間七七四年2013/04/22(月) 23:54:29.03ID:q6xkh75J
相国寺善光院の宣長老は大徳寺の僧・董甫の弟にして藤原惺窩の伯父である。
当時、五岳第一の学者であった。

宣はかつて「舜首座(惺窩)に逢っては物が言えぬ」と言った。
そのまま、やりこめられてしまうからである。

当時の人に宣は勝れた人として知られていた。そんな人がこのように言ったから、
惺窩が傑出した人ということが初めて知られたのである。

――『老人雑話』
0095人間七七四年2013/04/22(月) 23:59:04.31ID:q6xkh75J
>>94
申し訳ありません訂正します。
×相国寺善光院
○相国寺普光院
0096人間七七四年2013/04/23(火) 01:47:02.03ID:1wp3YhB6
儒者は正義を前面に出してくるから口喧嘩ははげしく強い。
それが政治において実現されるのかは別だがw
0097人間七七四年2013/04/23(火) 01:54:36.50ID:hcxVDQ0g
腐れ儒者を信長公とかDQN眼と戦わせてみたい
0098人間七七四年2013/04/23(火) 13:39:00.96ID:VpP9+GPo
先日『戦国大名の四天王列伝』という文庫本を買った。

ちゃんと(?)龍造寺四天王が5人いて、人数がおおいい話。

・・・スレ違いでゴメン。
0099人間七七四年2013/04/23(火) 15:50:02.41ID:5QSpVB8x
それじゃあここで意外と今まで出てはいなかった、
龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話でも簡単にまとめるか

成松信勝
龍造寺四天王の筆頭
今山夜襲の折には敵大将の首を取る大功を立てており、その槍は今も現存している
沖田畷の戦いでは隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる

百武賢兼
もとは戸田と名乗っていたが、その武勇を隆信から讃えられ「百人にも勝る武」という意味で百武という姓を与えられた
志摩守を名乗っており龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる、奥さんが剛腕で大薙刀を振るっていたことでも有名
沖田畷の戦いでは主君隆信を守り勇戦し果てた

江里口信常
元は直茂が千葉家から鍋島の家に戻る際につけられた12名の家臣の一人で、後に隆信に直参となった
沖田畷で隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久のふとももに刀傷をくわえるも、あえなく討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称されて、一族の者がいれば召し抱えたいと言わしめた

円城寺信胤
名門千葉氏の一族である、この円城寺と下記の木下は史料によってどちらかが四天王に加わる
沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦した

木下昌直
京の出身であるが、龍造寺隆信の武名を聞きはるばる仕えに来たと言われている
隆信の戦死を知った昌直は、山の手を攻めていた政家、直茂の軍の殿を務めた
その際に命を落としたとも言われるし、ともに逃げ延びたとも言われ、生死が定かではない
0100人間七七四年2013/04/23(火) 18:08:31.89ID:2UmPyGJY
百武さんの子孫には百武兼行がいて、分家の子孫と言われてるのが旧軍の百武三郎(海軍大将)、源吾(海軍大将)、晴吉(陸軍中将)なんだよな
0101人間七七四年2013/04/23(火) 19:49:32.10ID:Zc0/cTF9
四天王、みんな死に様がかっこ良いな
0102人間七七四年2013/04/23(火) 20:12:48.37ID:sewJ/kWG
朝鮮の役でのこと

漢南大将(李如松)は本唐・新羅の軍勢を合わせ20万騎を率いて、小西行長の要害を百重にも取り巻き
即座に攻め落とすと、その余勢を駆って小早川隆景の要害に攻め寄せた。
いわゆる文禄2年1月26日(1593年2月27日)の、碧蹄館の戦いである。

この大軍に、城に近づけては敗れると判断し、小早川隆景は2万5千、立花宗茂は5千、
宇喜多秀家1万の軍勢で討って出た。
この時、御検使である石田三成、増田長盛、大谷吉継は都合8千の軍勢を率いており、小早川隆景の
指揮下で先陣をした。立花宗茂はその下の備を担当し、この陣形で合戦は始まる。

異国の軍兵は弓鉄砲を隙間もなく撃ってきて入り乱れ、”ちぎり”という物を1万も2万も撃って回った。
これに当たったものは、たやすく起き上がることが出来なかった。

双方、太鼓や鐘を打ち鳴らし、鬨の声をつくりかけながら攻め合い、小早川の軍勢も立花の軍兵も、
息を限りに戦ったが、敵は大軍であり、新手を次々と入れ替えつつ戦うため、小早川・立花の軍勢は、
もはや人馬ともに疲れはてたように見えた、その時である

備前宰相(宇喜多秀家)の1万余騎が、一塊になってどうと突き懸る。
これに漢南勢は押し破られ、終に敗軍した。
この時討ち取られたもの3万あまり、ちぎり、刀槍を始めとして、鉄砲や石火矢までも捨てて
逃げ帰った。

異国の具足というものは、黒鉄を平たく伸ばし、金属の鎖で繋ぎ合わせたものを、ただ地の着物に
貼り付けただけのものであった。雑兵にいたっては黒鉄の平板を繋ぎ合わせたものを、そのまま着ていた。
大将や騎馬武者のものは、五色の漆で見事に塗り分けられていた。

兜も、ただ黒鉄を伸ばして、鍋の縁を反らせたような形にして、これをかぶっていた。

馬乗りは、獣の皮を股引のように拵えて、これを鞍にしっかりと括りつけ、乗る時はそれに、
太ももまで入れ込んでいた。
この中には、馬に乗らないときには兵糧も入れられ、
また草臥れて馬の上で寝る時、あるいは一斉に駈け出して山坂を自在に昇り降りをするときも、
馬から落ちるような危ないことは些かもなく、実に便利で利点の多いものであった。
これによって彼らは、馬上で弓鉄砲も自在に撃ちはなした。
(義殘後覺)
0103人間七七四年2013/04/23(火) 20:13:20.07ID:g26aoxZV
てっきり沖田畷で死んだのが後世四天王扱いにされたかと思ったら
みんな相応の武士だったんだな
0104人間七七四年2013/04/23(火) 22:02:51.17ID:8PRpe9RV
>>102
”ちぎり”って何?
投石系の武器?
0105人間七七四年2013/04/23(火) 22:18:35.15ID:3mSfHB9G
秀家は甘い坊ちゃんと言われてるけど若い時から戦いぶりは見事なんだよな
良い家臣が揃っていたんだろうけど宇喜田騒動後の関が原でもきっちり戦っていたし
0106人間七七四年2013/04/23(火) 22:25:14.98ID:7RO21V+k
半分程度の福島と良い勝負っぽいけどなぁ > 関ヶ原の宇喜多
0107人間七七四年2013/04/23(火) 22:30:59.89ID:sewJ/kWG
>>104
調べてみたけどよく解らなかったです。すいません。

>>106
宇喜多騒動で家中がボロボロに成って、関ヶ原の時は慌てて雇った浪人衆が中心で、
組織としてかなり弱体化していたのは確かみたいね
0108人間七七四年2013/04/23(火) 23:16:24.43ID:KfKIui8O
>>104
乳切棒サイズの振りずんばいみたいな物を想像した
0109人間七七四年2013/04/23(火) 23:58:27.68ID:+v3PqY6p
フロイスの「日本史」に明軍の装甲に苦戦する日本軍の話があったが
異国の鎧は興味深いものだったんだろうか
0110人間七七四年2013/04/24(水) 00:16:10.19ID:UVm6ppJ6
安積覚兵衛敵の傷兵を慰む

小笠原氏の兵に安積覚兵衛という者がいた。
関が原の戦いにて敵の首級を五つまでも斬り取り帰ろうとしたとき、
道で敵兵が弾丸に当り痛み苦しんでいる所を見た。
覚兵衛は大いに哀れみの心を起こし、懐中より用意の薬を取り出してこの敵に与えた。
敵兵は涙を垂れて深くその徳を深く感謝したという。(武人百話)
0111人間七七四年2013/04/24(水) 00:18:33.88ID:WUOOn8ck
手柄を立てた者の余裕だな
0112人間七七四年2013/04/24(水) 00:53:11.32ID:UVm6ppJ6
不覚にも二回深くしてしまったorz
まとめのときは後半の深くを消して下さい。申し訳ないです。
0113人間七七四年2013/04/24(水) 08:37:13.55ID:VLYuLecK
>>112
>不覚にも二回深くしてしまった
【審議中】
0114人間七七四年2013/04/24(水) 10:14:30.56ID:jpOzawHf
敵兵にあげた薬ってやっぱ馬糞なのかな
0115人間七七四年2013/04/24(水) 14:40:59.52ID:aP/+VbRj
宇喜多備前中納言八郎秀家、日本軍の危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l  
0116人間七七四年2013/04/24(水) 17:56:16.43ID:tsTNVN3D
>>110
安積覚兵衛って徳川光圀の部下じゃあなかったっけ?
0117人間七七四年2013/04/24(水) 20:04:32.46ID:HIWjC6t1
渥美格之進だったかな
0118人間七七四年2013/04/24(水) 20:05:47.99ID:l8zmPzHF
助さん格さんの格さんのモデルか
0119人間七七四年2013/04/25(木) 01:02:54.87ID:2K+/FzGx
さすがに逸話のほうは別人でしょ?
モデルのほうは江戸中期の人らしいし
祖父か曾祖父あたり?
0120人間七七四年2013/04/25(木) 01:09:51.62ID:sGsayooU
たぶん祖父だとまとめのコメントにもあった
0121人間七七四年2013/04/25(木) 09:48:52.95ID:cv448O93
兵庫のじいの爺さんが鮭様だっけ?
0122人間七七四年2013/04/26(金) 02:32:17.22ID:tctn1ZL0
>>121
鮭様の息子のうちなんだかんだで長生きできたのは山野辺義忠だけで、
水戸黄門の設定に一番近いっぽい水戸藩家老山野辺家の当主がその息子の義堅
それでも計算は合わないんだけど、その次の代だともっと計算が合わない
0123人間七七四年2013/04/26(金) 08:38:38.83ID:tevBDvFt
いつぞやHRって動画の企画があったけど
そのなかで、山野辺さまは当主になる前の黄門さまに、自身の体験を引き合いにして歴史を綴るものの心得を喚起しながらも藩の金を無駄にするんじゃねえと釘をさしてたなあ
0124人間七七四年2013/04/26(金) 16:21:44.73ID:6ELO8pjd
日置弾正正次は大和の人。弓術を好み、また非常にすぐれていた。わが国弓術中興の始祖である。

大昔から弓術をもって名を顕す者は多いといえども、その強弱、審固、持満は詳らかではない。
しかし、正次は一人その微妙を得ている。古今に傑出しているというべきだ。

正次は諸国に遊び、後に紀州高野山に赴き、剃髪して瑠璃光坊威徳と号した。五十九歳で没す。
(武家小伝)

内野合戦の時、日置の矢先にとどまる物はなかった。矢種が尽きてしまうと日置は土居陰に隠れた。
そこを敵が襲ってきたので、日置はふと出でて弦打ちして「えい」と言った。
すると、敵はその声を聞いて逃げ散ってしまった。
(関六蔵伝書)

――『日本史伝文選』
0125人間七七四年2013/04/26(金) 16:46:37.63ID:lk5iIdeN
後の「不射の射」である
01261/22013/04/26(金) 20:05:43.28ID:8ddZDRGH
その頃秀吉公の御治世となり、高野山には秀吉より、御礼に上がるようにとの遣いが送られた。
これに高野山八谷は会合して詮議をした。何故なら秀吉の主君(信長)は高野山の大敵であったので、
今になって騙し寄せて、流刑や死罪を科すのではないかと強い疑いが有ったためである。
高野山ではそこかしこで集まっては、毎日この件を論じたが、自分が行く、という僧は一人も
いなかった。しかしこのまま遅参をしては、直以って不審を被る事になる。どうすべきかと
悩んでいた所に、とある僧がここんな事を言い出した

「私が思うに、近頃高野に上がってきた木食(木食応其)という者がいるが、これを頼んではどうだろう?
彼はよろずの事に学才があり、考え深い者なので、公儀に送っても間違いはしないでしょう。」

これを聞き、僧たちは皆、それが最も良いと考え早速木食を召し寄せた。

ところでこの木食は、近江北部の武士であったが、戦乱により一所懸命の地を離れることになって
世を恨み、それならば高野山に上り木食(木の実や草だけを食べて修行すること)を成して、
往生の素懐を解くべきと思い定め、峠の川で御山の方を伏し拝み

『我、故郷を去って大師を頼み、高野山に上る以上、今後再びこの川を渡らぬ!』

と大願を立てて高野に上ったのである。
かくして柴の庵を結び、木の実を食して経を読み念仏し、また徒然には歌を読み、趣味に
連歌などして光陰を送るほどに、高野の各寺院の僧たちも彼を寺に呼んで、茶を轢かせたり
掃除をさせるなどさて、ここそこで「木食、木食」と召し使っていた。

さて、衆徒会合の桟敷に罷り出て、沓脱ぎのあたりに畏まった木食は「何の御用でしょうか?」と
申し上げると、高野山の長吏が代表して
「ただいま汝を呼び出したのは他でもない、御辺も聞き及んでいるだろうが、殿下様(秀吉)より
高野の老僧に急ぎ御礼に参るようにとの御諚使を下された。ではあるが我らは山僧なので
公儀の儀礼作法など知らない。

一方汝は年頃も丁度良く、また才覚のある人物なので、高野山の代僧となって殿下のもとに
行って頂きたいのだ。これをやり遂げればその後、その方の望みは何であっても叶えて取らすぞ?」

木食承って「皆様がこのようにお頼みになっている以上、拒みがたい事ではありますが、私は
この山に登ろうと決心した時、峠の川において大師に、この度この川を、今生渡るまじきと申し
誓いを立てたのです。ですので当山を降りる事は出来ません。」

僧たちはこれを聞いて「その義は安心してほしい。高野の一山が大師にお詫び申し上げる。
よって罪は些かも御辺に科されることはない。」

これに木食も「そこまで言われては、この上は仕方有りません。」と了承し。大阪へと
参ることと決まる。諸僧は大いに喜んだ。
01272/22013/04/26(金) 20:06:18.05ID:8ddZDRGH
さて、大阪では秀吉が、高野山からの御礼を待ちかねていた。
「お主は高野山の長吏であるか?」

「左様でございます。木食上人とは愚僧のことでございます。」

木食の事を聞いた秀吉は、彼が木食の修行をしている事を大変殊勝に思い、たいへん機嫌も良く、
そのまま逗留させ高野山の様子を丹念にお尋ねになった。木食は元より文才深厚の人物なので、
秀吉はすっかり彼に魅了され、ついには

「今後は木食上人に高野山の支配を任せ置く!もし異議に及ぶ僧などがあった場合は、
上人の心次第にいかようにも計らいをなされて、無事に治めてほしい。

弘法大師の仕置のごとく、仏法勤行を昔に返し、経学を業とすべし!
甲冑や武具など出家の身に必要ない。早急に点検して没収すべきである!」

この命を受けて木食は大阪を離れることとなった。その際様々な禄を給わったという。

かくして木食上人は大阪より輿に乗り、秀吉より付けられた50人の足軽に守られ高野の麓の
木ノ芽峠まで来るとここで一宿して高野山へと使者を立てた。
『一山、老僧を始めとして一人残らず出迎えに来るように。』

これを見た高野の僧たちは大いに驚き、
「これは一体何事か!?かかる慮外千万の使いを木食はどうして寄越したのだ!?」
と憤慨し評議したが、一方で
「いやいやそのように考えてはならない。殿下様からいかなる事を仰せ付けられたのか測り難いではないか。
まずは言われた通りに行って見るべきであろう。」
この意見に皆もそう思い、老若の僧たち揃って木ノ芽峠に集まった。

そこで木食は座上に座り、彼らに申し渡す

「いかに高野の法師たちよ!今後一山をこの木食が仕置いたす事となった!
仔細は後で山で聴かせるであろう。
僧侶たちよ!この木食の乗っている輿を担いで、私を山に上げよ!」

木食の前後には6,70人の侍があり、僧たちが反抗的な態度をとるのを厳しく制したため、
僧たちは異議に及ばず、各々輿を担いで山へと上ったそうである。

木食はこうして一山の長吏となり、新たに制法を定めた。これにより山も治まり、
つつがなく目出度いことである。
(義殘後覺)

木食上人が高野山の長吏となった経緯である。
0128人間七七四年2013/04/26(金) 21:36:07.25ID:EC1KSH/h
清僧が豹変してしまった悪い話に見えなくも無い

でもこの人が居なかったら高野山の復興は相当遅れただろうしなあ
0129人間七七四年2013/04/26(金) 21:44:12.69ID:EHn1Pe3t
>>124 >>125
源義家成分(要素?)もけっこうな濃度で入ってる気がする
もっとも、日置さんが退治したやつはモノノケじゃなくて生身の人間なんですねい
0130人間七七四年2013/04/27(土) 01:33:03.76ID:E5ujqAhY
日置弾正=吉田重賢説って信憑性あるんかね
0131人間七七四年2013/04/27(土) 12:01:35.57ID:JoVQ+hvd
常朝さん、出家の後に武士時代を語る

なんの取り柄もない私だから、
目立った奉公もせず、戦場の働きにも出会えなかったが、
若い頃からひたすら一心に、
「殿の一番の家来は自分である。
武士の道では誰にも負けない」
と、骨の髄まで思い込むようにしていたからか、
どれほど知識ある人も、また武勇ある人も、
私を見下すようなことは出来なかった。
それどころか、人々が親切にしてくれてもったいないばかりであった。
自分はただ殿を大切に思い、何が起ころうと、
そのときには直茂さまより伝わる、
死狂いの働きを我一人がするのみぞと、
その覚悟を決めていただけのことであった。
これまで口にしなかった事を今だから言うが、
一念が神仏に通じたとでも言えばいいのだろうか、
不思議と私の覚悟を世間も認めてくれたものである。
(1/2)
0132人間七七四年2013/04/27(土) 12:31:21.93ID:JoVQ+hvd
そして、殿の家族をはじめ、
御一統の方々の親切に心から感謝の意を表すばかりである。
主君に身命を捨ててお仕えすることは、
お家代々に仕えてきた武士の場合は、
奉公に出るのか、出ないのかは別にして、
なにか御用を勤める場合には、
格別の心がまえを持つべきであろう。
録高を増していただいたり、
金銀をたくさんいただいたり、
それらもとてもありがたい事だが、
切腹するほどの志は、主君のありがたい御一言から起こるものだった。
江戸で火事場の部署を決めるときに、
私を御書物の係にするよう申し上げられたところ、
「若者の事であるから、私の直参として召し抱えよう」
と仰せられたときは、すぐにも身命を差し上げる気持ちになった。
また、殿の使われた夜着とお布団をいただいた時にも、
「私が独断で召し抱えた者に録高を増すのも憚るから、
気持ちだけのことをお前にしたまでだ。
家老たちに礼を言う必要はない」
と仰せられた。
このときも、追腹の法度が出る以前なら、
このお布団を敷き、夜着をかぶって、
殿の後を追うほどの御恩だと、
格好をつけず自然とありがたく思ったものである【葉隠】
(2/2)
0133人間七七四年2013/04/27(土) 14:06:44.92ID:Zm2+Zaus
>これまで口にしなかった事を今だから言うが

葉隠れでは何度もこんなことを語ってるけど本当に黙っていたのだろうかといつも気になる
0134人間七七四年2013/04/27(土) 14:15:24.22ID:JoVQ+hvd
>>133
黙っていたのは本当だと思うよ。
田代陣基が、山本常朝の出家した後の籠り山を訪ねなければ、
葉隠は世に出ていないだろうから
0135人間七七四年2013/04/27(土) 14:46:40.56ID:ESSa2gdl
しかも燃やせ燃やせって言ってるのに残ったもんだからなあ
常朝さん的にはあの世でフェイスファイヤーもんだろう
0136人間七七四年2013/04/27(土) 14:58:35.87ID:N+FLUHz7
人に見せるなよ。門外不出だよ?と言いつつ、
どう見ても他向けに書いた彦左衛門さんに何か
0137人間七七四年2013/04/27(土) 15:01:20.23ID:JoVQ+hvd
>>135
いろいろ藩内のこと言ってるからねw
それでも常朝さんの遺言通り、葉隠の原本は世に残っていない。
現在まで続いたのは写本が何種類かあったお陰様
0138人間七七四年2013/04/28(日) 00:04:31.89ID:zc7Bpf76
日記というものは死後に公開されることを狙って、
他人の悪口を書き連ねるもの。
0139人間七七四年2013/04/28(日) 03:06:49.33ID:RAYSwZPo
藤堂高虎「男の値打ち」


二代将軍秀忠のころ。
秀忠に従って上洛した藤堂高虎は、
月代を剃ろうにもあいにくその心得のある者を同行していなかった。
(もっとも、藩邸にあってもお抱えの月代剃りなといなかったようだが)

そこで「一銭剃り」なる町の髪結い職を招いたところ、
これがまたはるかに上手で心地良かった。
高虎が
「なかなかの腕前。十三石で召抱えよう。」
と言うほどであった。

ところがこの髪結い職、
「仰せはありがたいのですが・・。
うちには妻子と老いた母がおりまして、十三石ではとてもとても。
十五石五人扶持なら御奉公いたしますが?」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「十五石五人扶持といえば、平侍一人の禄と同じ。
それを剃工一人に与えるなどとんでもない。
この話、なかったことに。」と言った。

 
同じ日。高虎は家臣から、
福島浪人久留島和彦左衛門が会阪街でわび住まいしていることを聞く。
「これは捨て置けぬ。一万石で召抱えよう。」
と、さっそく使いを出した。

ところが、この久留島、
「仰せはありがたいのですが・・。
旧主、福島左門太夫が和泉殿と不仲であるのは周知の事実。
扶持米欲しさに元の主人の仇に仕えるなど、できませぬ。
よろしくお断り申し上げる。」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「さすがは豪傑!よくぞ申した。さても惜しいことよ。」と言ったという。

ほどなくして、久留島は紀伊国に召抱えられることになった。
俸禄は1万石。
久留島は、
「これはまったく人を見定める力の賜物である」と
書状をもって、高虎に謝意を表したという。

                            「開国遺事」
0140人間七七四年2013/04/28(日) 03:15:24.02ID:RAYSwZPo
>>139
ミス多発。すみません。
和彦左衛門× 彦左衛門○ 左門太夫× 左衛門太夫○
0141人間七七四年2013/04/28(日) 09:33:11.02ID:26vnujXI
一銭剃りの髪結いは13石以上儲かってたってことかな
0142人間七七四年2013/04/28(日) 10:19:11.39ID:JO9xexL+
月代を剃る時って無防備な状態で相手は刃物持ってるんだから
大名クラスだと信頼できる近習にやらせるものだと思ってた

まあ高虎さんの近習は衆道大流行の集団だったらしいから別の意味で危険だったかもしれないが
0143人間七七四年2013/04/28(日) 11:46:24.67ID:RHQDyuxn
>>141
召し抱えになると出費も増えそうな気がする
付き合いも増えそうだし
0144人間七七四年2013/04/28(日) 14:48:24.79ID:7HUDBhEw
秋田俊季とタバコ

「秋之夜之夢噺」(個人蔵)という史料には、三春藩秋田氏歴代藩主のエピソードが記されています。
真偽とりまぜたエピソードの中に、初代俊季について、次の話が載せられています。

俊季はタバコが好きだったようです。3月か4月のころ、タバコの火消しを持ってくるよう声をかけたところ、
誰もやってこなかったそうです。俊季は、御殿を歩き回って家来を探しましたが誰もいません。

それもそのはず、家来達は、春の陽気に誘われ、三春城三階櫓の辺りで駆けくらべをやっていたのです。
家来達の遊びが終わった後、俊季は咎めることもせず、何の話もしなかったそうです。

俊季のタバコ好きはすさまじく、狩りに出かけた時は、馬の口取りをする中間のキセルを使ってタバコを吸ったそうです。
(記述者 個人名)

秋田俊季とタバコ|Web資料館|三春町歴史民俗資料館(生涯学習課) より引用

出羽より常陸宍戸、後に三春に移封した秋田俊季。俊季は、三春藩主になってわずか3年半、
ほとんど三春に住むことなく、慶安2(1649)年正月3日、52歳で死去しました。との記述もあります。

移封の顛末は 過去レスで 秋田実季と嫡男・俊季 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1136.html

三春は江戸時代から葉タバコの名産地だそうです。俊季が地元の煙草を吸っていたかどうかは
定かではありませんが、草葉(葉タバコ?)の陰から末永く三春の地を見守っていることでしょうね
0145人間七七四年2013/04/28(日) 17:38:30.55ID:9iZ4bBa4
>>144
春めいた、のどかでいい話ですね
今はタバコ受難の時代だけどw
0146人間七七四年2013/04/29(月) 00:37:22.45ID:llpKtHqJ
タバコの火消し程度で怒るのもバカバカしいと思ったんだろうか
でもタバコが狂おしいほど好きならそうは思わないよな
0147人間七七四年2013/04/29(月) 01:29:46.44ID:jqvMRw0N
そこは殿様の度量じゃないかな
せっかくみんなが楽しく遊んでるのに水を差しても可哀想だと思ったのではなかろうか
0148人間七七四年2013/04/29(月) 01:59:13.26ID:ADp+5ffo
誰も殿様に気付かなかったにも関わらず火消し所望してた記述は残ってるって…

それはさておきDQN眼竜も愛煙家だったっけ
0149人間七七四年2013/04/29(月) 06:30:46.22ID:BjfKzb7M
愛煙家エピが残ってるのは宗矩
0150人間七七四年2013/04/29(月) 12:14:18.03ID:u8LRxcpm
>>144
狩りには自分のキセル持っていかなかったのね
0151人間七七四年2013/04/29(月) 12:57:07.98ID:RWWE4Uuz
豊臣秀吉の死後、対立していた徳川家康と前田利家が急遽和睦したのは、以下の様な切っ掛けが有った。

両者の対立中、利家の傍にあった細川忠興は、彼の跡継ぎである肥後守利長についてこの様に語った

「仮に奉行の者共が内談して、家康公を滅ぼすような事になれば、大納言殿(利家)は老病であります。
遠からず卒去なされるでしょう。そうなった後は奉行たちが肥後守殿を追い倒すのに、手間はいりません。」

そのように将来を見通し、

「そういう状況であると私は判断しますが、ここで家康公と筑前守殿が入魂な関係になれば、これは将来的に肥前守殿の
おためにとっても良い結果となるのではありませんか?」

このように異見したところ、前田利家もこれに納得し、さらに加藤主計頭清正、浅野左京大夫幸長を加えて
相談した上、家康との和平を行うとの決断に至った。

この事は後になって知られたことである。
(玉露叢)

細川忠興、前田利家を説得する、というお話
0152人間七七四年2013/04/29(月) 13:04:43.06ID:GIZpt2zd
対立はしてても家康なら奉行と違って勝者になった後も追い倒したりしないと信頼してたってことか
0153人間七七四年2013/04/29(月) 13:11:06.96ID:RWWE4Uuz
あ、間違えていました。2行目と4行目、 ×肥後守 ○肥前守 です。申し訳ありません
0154人間七七四年2013/04/29(月) 16:12:40.42ID:MYQo4QZ8
徳川家康が駿河の城にいた時、江戸より浄土宗の和尚が来て、在府中しばしば夜話に上った。
ある夜、仏道の話題になって和尚が「仏法は元来釈迦如来の法ですが、八宗・十宗と分かれ、
その宗旨ごとに、それぞれの教え方、勤め様があります。

しかし、元来は一の法なので、諸宗を信仰し、あれもこれも学ぶことを雑学・雑門と申します。
どの宗においてもよろしからぬ事でありまして、ましてや念仏宗はたいそう嫌っています」
と申し上げた。

それを聞いて家康は「それは当然だな。万の筋道を学び、諸芸を努めているようでは、
一筋に思い入って修行することが難しいのも道理である。

しかしながら、後世を願う有り様には大と小では心の違いがある。

つまり、我が身を助けたいためばかりに後世を願う者は、何れにしてもその身に
思い入る宗旨を一向に頼み入っていれば、他宗を構わなくとも埒が明く。

だが、天下国家を統治する者にとっては、自分一人が成仏する分別では義理が違う。
願わくは、天下の諸民をことごとく成仏させようと思う願いを立てなくては叶わない事だ。

宗旨には八宗・十宗があって一様ではない。それでも、諸宗とも手抜かりなく立て置き、
諸々の衆生を遍く導かす。これを天下を有つ者の願い様というのだ」と言った。

これを聞いて和尚は「誠に御尤もの事です」と感銘を受けた。

――『責而者草』
0155人間七七四年2013/04/29(月) 17:14:58.18ID:d4YkiolL
大と小って、大乗と小乗のことか?
0156人間七七四年2013/04/29(月) 17:40:08.52ID:RWWE4Uuz
>>155
個人として後世を願う範囲のことを言ってるんでしょ。>大小
普通の人なら個人の救済を願えばいいけど、天下人の立場だと自分個人より天下の人々全てに対する
救済を願わなければならない、という。
0157人間七七四年2013/04/29(月) 21:37:18.27ID:oyb4lvdo
>>146
そういう問題よりも、近習や小姓が一人も主君の声の届くところに居なかったっていうのは
本来はかなりの責任問題のような気がする
0158人間七七四年2013/04/30(火) 17:21:45.60ID:WcLDP+Sq
石川善助と言う者は、かつて三十貫の知行で徳川家康に仕えていたが、徳川家を出奔し、
加賀において三百貫の知行を得ていた。おそらく一向宗であったのだろう。

ところが、三方ヶ原の合戦で家康が敗北したことを聞くと、三百貫を捨てて家康の元に帰参してきた。
家康も不思議に思い

「どうして帰ってきたのだ?」

と尋ねると、善助は

「三方ヶ原にて御負けになったと承り、御用に立とうと罷り帰って参りました!
聞いた所によると、上方の誰々とか言うような名の通った者達を、80人ばかり召抱えて出陣した所、
その者達は皆、逃げ出したそうでは有りませんか!
だいたい上方者などというのは、何れもそういう連中なのですぞ!」

つまりまあ、そんな連中を召抱えるくらい困っているのであれば、自分が帰った方が役に立つ。
と言いたいのであろう。

これを聞いた家康は

「お前が居なくても、私が事欠くようなことなど有るものか!」

と強がったが、影では喜んでいたそうである。

(汝が無きとて御事欠らるべきやと御意成候へども、影にては御よろこび被成候由)
(紀伊國物語)

ちょっとツンデレな家康と三河者のお話である。
0159人間七七四年2013/04/30(火) 23:32:34.23ID:jVZGkdIB
徳川はツンデレばかりだな
0160人間七七四年2013/05/01(水) 11:05:29.74ID:VzXwjVnU
敗将になったタイミングで帰参とか面倒くさいなぁ
0161人間七七四年2013/05/01(水) 14:16:35.37ID:ZEPS/1lc
永禄八年(1565)
三河一向宗問題も落ち着き、
東三河の今川氏の吉田城を攻め落としたことで、
徳川氏悲願の三河統一を果たしたときのこと。
家康公は民政にあたらすために、
岡崎に三奉行をおくことにした。
その三人というのが、
高力清長、本多重次、天野康景。
この三人はそれぞれの気質から、
『仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野』
とそれぞれに異名がついていたのである
0162人間七七四年2013/05/01(水) 15:05:54.48ID:hDelicPc
「何方偏無し」か
0163人間七七四年2013/05/01(水) 22:14:44.51ID:bwMuGTIT
前々から疑問だったんだけど、
天野康景の「どちへんなし」っていうのは、公正無私っていう解釈でおkなのかな?

>>158
帰参した善助さんがどれくらいの知行を貰ったのかが気になるw
0164奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2013/05/01(水) 22:56:49.69ID:AQh68GHL
「どっちつかず」とも取れる。
0165人間七七四年2013/05/01(水) 22:59:08.37ID:u3rwnvl2
仏でも鬼でもない
つまり外面如菩薩内面如夜叉
0166人間七七四年2013/05/02(木) 16:30:16.37ID:adGYcaG/
葵徳川三代で津川家康が女官縛り上げながら興奮し能を舞うw
0167人間七七四年2013/05/02(木) 18:18:59.52ID:m+xnMj9D
佐々成政は八千の兵を率いて前田家の侍大将・奥村助右衛門永福が守る能登末森城を囲み、
成政は本陣をもって後巻を抑え、厳しく攻めた。成政は「この城さえ破れば能登一国は即座に
打ち従うことだろう。後巻のないうちに乗っ取れ!」と命じた。

末森城はわずか二、三百ばかりの士卒で敵を防いでおり、永福は「これほど強く攻められては、
もはやこれまでだ。自害しよう…」と悲観的であった。

しかし、その妻は小袖を掻き取り、鉢巻をして刀を横たえ、鹿をたくさん煮て下女に持たせ、
塀内の人々に自ら配り食べさせていた。

そして「昔、楠とかいう大将は日本国を敵にして籠城したと聞きます。
明日は金沢より後詰のあることでしょう。ただ、一夜を防ぎなさい」と励まし廻っていた。

その姿を見て永福は「今日の振る舞いは男子よりもすぐれている」と言った。

――『責而者草』
0168人間七七四年2013/05/02(木) 19:07:01.68ID:m+xnMj9D
>>167
申し訳ありません、ちょっと訂正します。 ×その姿を見て永福は ○これについて永福は
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