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戦国ちょっといい話37

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0001人間七七四年2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0645人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:KgHgRreq
正家は後事についての遺言を書き残し、家人奥村左馬・西川兵庫・小西
治右衛門・長束与十郎らに形見を与え、白装束で切腹の座についた。

池田(備中守長吉)・亀井(武蔵守茲矩)に向かい「ここまで御出でいた
だきご苦労な事です。それでは今生の暇をたまわりましょう」と告げ、
切腹しようとしたところで、長束は再び両人に向かって「それがしの
家来奥村左馬は身近くで召し使ってきたものであるので冥途の供をする
覚悟と見えます。しかし無益の事でありますから殉死を留めて頂きたい」
と懇ろに言い残して切腹した。

奥村左馬は介錯したその刀を腹に突きたてようとしたが、(池田)備中守
家人武蔵掃部・瀧川織部らが間髪入れずに飛びついて刀を奪い、色々と
教訓したので奥村も力なく承引した。後に寺沢志摩守が召し出して領地
千石を与えられたと言う。

(關原軍記大成)

長束正家の最後の模様である
0646人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:jxIXN26k
>631訂正です
六行目 誤:道安 正:紹安
0647人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:Sks87be+
細川越中守国替之事

いにしえより細川家を見ていけば、足利義詮公が早世され、跡継ぎの義満公が
幼く征夷大将軍に任じられたこの時に、細川武蔵守頼之朝臣が後見をし奉り、
それより細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが、天文11年(1542)の春、
三好筑前守長慶が細川家に変わって天下の権を執り、細川晴元を捕えて芥川に押込めてより、
細川家は衰微して、永禄・元亀の頃には、細川兵部太輔藤孝は、微々たるありさまで、
山城国長岡に居住していた。

藤孝はこの頃、京都七人衆(稲屋妻豊後守、下津権内、岩成主税介、荻田亀之助、
細川兵部太輔藤孝、小泉某、鴨目某)と呼ばれた者達の一人であった。

嫡子の與一郎忠興は、明智日向守(光秀)の聟となり、明智の贔屓によって段々に立身し、
天正9年(1581)には丹後へ来たりて、翌年中に丹後一州、ことごとく手に入れ、
20余年の間、丹後の国主をされた、

慶長5年(1600)関ヶ原の一乱に莫大な軍功があったため、国替えを仰せ付けられ、
豊前、並びに豊後の杵築を与えられ、その年の冬、細川忠興は豊前の小倉に入部するため、
宮津の城を御出になった。

家の再興はこの宮津より起こり、また馴れ久しい国でも有ったため、忠興も
思い残すこと多く感じられたのであろう。犬の堂を過ぎると、天の橋立を
歌に詠まれた

 立ちわかれ 松になごりはおしけれど おもひきれとの天のはし立

(丹州三家物語)

細川忠興が、国替えのため丹後を出立するときの模様である。
0648人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:d5OfSJvu
>細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが

日本語でお願いします
0649人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:p4PW85Qg
日本語はどうでもいいけど武将の履歴書はキリなくなるからな…
なんでも「○○の模様である」って言えば逸話になるってもんじゃないぞ
>>644なんかは単身で敵中に飛び込んで〜ってあたりでオリジナリティがあるからいいけど
0650人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:lOqBGKNW
>>648
どうみても日本語だけど?
0651人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:wcR6MlGy
少し前に我らが常真様の話が出てたので、その後の常真様について

織田信雄の遺作

大阪城を退去した織田信雄とその郎党を、家康・秀忠は厚遇した。
上州甘楽などに5万石を与えるだけでなく、国主格まで与えたのだ。

「そういえば…北畠氏館にも見事な庭園があったな」
60近くなっていた信雄は、かつて自分が継いでいた名族の館にあった細川高国作の庭園を思い出していた。
そして実質的な藩運営は息子の信良に任せながら自身は陣屋内の作庭に没頭した。
「論語によれば智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむという。なら私は山を楽しもう」
とこの庭園を楽山園と名づけた。
その名の通り近隣の山々を借景とし、庭園内部にも山を思わせる立体的な空間を作ったその造りは見事で、
織田家が領地替えになった後も代々受け継がれ、初期大名庭園の傑作として群馬県での国指定名勝第一号となっている。

昨年発掘調査と復元工事も終わって一般公開されているので、一度是非。
城下の雰囲気もかなり残っていて、結構楽しめる場所ですよ。
0652人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:yUQUoM1X
常真様、智者でない自覚はあったのか・・・。
0653人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:UTGj2i6t
>>652
でもあの激動の時代を生き抜いて家を残してるところは並の人ではないな。氏真公にも言えるが
親父様は天下人だしそういうプライドが邪魔して普通は家つぶしてるよ
秀頼公も信雄公のように柔軟に生きられたら豊臣も残ってただろうにな
0654人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:oZdMkUTU
稲富(祐直)と言う者は。奇妙希代の鉄砲の上手であった。
その技術の妙を語っても、未だそれを実際に見たことのない人間で「そんな話は信じられない」
と思わぬ人は居なかった。

稲富が常に使っている鉄砲は一両から八匁弾(約40グラム弱〜30グラム)に限り、
その町間も8町(約870メートル)以上は好まなかった。
8町よりうちの物であれば、火蓋を切って当たらないというものはなかった。

あるいは闇夜に、狐や狼の声を聞きすえて、闇中で仕留めるのは、ただ箱の中の物を拾うがごとくであった。

稲富は25歳の時に橋立大明神に17日間断食して、目くら撃ちという工夫をしたと聞く。
十能十藝、いにしえより手練のものは多いが、離れたものに当てる飛び道具で、稲富ほど
精妙な者は未だ聞いたことがない。
(丹州三家物語)


稲富祐直の鉄砲の技術について伝える逸話である。
0655人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:0LWdkB0+
870メートルともなると本当にただ当たるだけなんだろうなあ…

>>652
でも智者より仁者のほうが格上っぽいw
0656人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:xgCwvMxK
ライフリング無しだと絶対に着弾がばらつきそうだけどなあ
0657人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:sdeKJFjI
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  ヽヽ|.{    /  | |  \    i.|//  確実に仕留めるのは八町までだ
   \|.i   /  ,,.. | l._,, . \  i !/
    乂i  /    - (__,)-゛   ' {丿
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    人 \   .!''''" ̄~ ̄`''!  / 人
   ./ | .\ ,\  '-"" ゛-'  / / | .ヽ
  ノ  .{  \ .ヽ,.,   .:   ,イ /  }  ヽ
-'″  l    `' 、`.───″    .}    ヽ
0658人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:yUQUoM1X
※ただし目の前の虎は除く
0659人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:vQUXyBbc
※ただし実戦には使えない
0660人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:m1TV0Nsx
のちの八町ミッソーである
0661人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:EX41pm2q
さて、蘆名修理大夫盛高は俗類の親しみにより師(天海)を会津に呼び請け、
稲荷堂の別当にした。盛重が会津を落とされて常陸国江戸崎という所に移ると
師も伴われ、その領分の不動院という旧寺があったものを修造して住まわれた。

文禄二年の夏、日照りが続いて草はみな枯れてしおれ、千里の間に青苗は見えず、
民は憂いてどうしようもなかった。里の人々は苦しんで師に雨の祈りを願ったので、
師がただちに川のふちに出て修法なさるところに、一人の女が五鈷を持ってきた。

女は「これで加持してください」と言って師に五鈷を与えて消えてしまった。
師は川のふちにのぞみ請雨の法を執り行い、仏舎利一粒を竹葉に乗せて水の上に
浮かべなさった。

すると水中より青蛇が出てきて舎利を咥えて沈んだ。少しの間に黒雲は立ち重なり、
雷はひどくうなって稲光が起こると、急に大雨が降って枯れた稲葉も色を変え、
百穀は実って人民も栄えた。

先の女についてはその行方を尋ねたが、どこの誰とも知る人はいなかったという。
五鈷は今に当山の霊堂にある。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』
0662人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:UXpdGKNA
天正15年(1587)肥後国惣国一揆の時のこと、私(水野勝成)は佐々内蔵助(成政)に支えており、
方々に働いた。

佐々方は山家の城の近くに付城を一つ作り、そこには佐々が取り立てた三田村庄左衛門という者を
置いていたのだが、その城に兵糧を入れるという時、安国寺恵瓊を物頭として、毛利殿より
兵糧を入れることとなったが、一揆勢は兵糧を入れさせまいと、ウチノコカという場所から軍勢を出した。
そのため立花左近(宗茂)兄弟が軍勢をこれに詰めた。

兄の左近殿も手柄をなされたが、とりわけ弟の弥七郎殿(直次)、この頃20歳ばかりに見えたが、
残る所なく大いに働かれた。

天野源右衛門(安田国継・本能寺で明智方として森乱丸を討つ)は太閤様の御舎弟美濃殿(秀長)の
家来であったのだが、浪人し西国へと下ってきていた。美濃守殿の所に居た頃は安田作兵衛と
名乗っていた。この頃は立花殿に客分として在り、この戦いでも白に鶴の絵の指物を差し残る所なく
働いた。

佐々内蔵助の手勢では、私と遠藤助右衛門と申す者の二人が、この方面に出撃し戦っていた所、
立花殿の家臣で十時(連貞)と申す者と、先の天野源右衛門が合流し、弓をとって互いに言葉を合わせ働いた。

ところで私はこの時の立花殿の家臣の名を失念していたのだが、先年、肥後加藤家改易(寛永9年(1632))
による肥後の城の請取に参った時、立花三左衛門(鎮久)に逢い、原の町の茶屋で

「昔、肥後の山家の付城に兵糧を入れた時、そなたの朋輩で私が知っている居るはずなのだが、
久しいことでも在り名前を失念してしまった。何と申す人であろうか?」

「それは十時と申す者です。」

そう教えてくれた。その後、十時の倅である山弥が私のところにやってきて、肥後でお逢いした。

「あなたの親父殿は今も御息災だろうか?」

「去年、おこりを患い、だんだん悪化して、今は歩くこともかないません」

そのようなことを語ってくれた。

天野源右衛門は上方に在り、今も友人である。
(水野日向守覺書)


水野勝成、肥後国人一揆における兵糧入れについての証言である。
0663人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:9wcel/X/
本物の仏舎利なら、五鈷より貴重な気がするけど
0664人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:eYSg+cGL
>>654
スペンサー銃を持った八重以上の腕前だね
※但し、実戦を除く
0665人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:+RrdzeUR
藤堂高虎 供養の茶園

藤堂高虎は加藤嘉明とは犬と猿だったそうだが、
加藤清正については憎からず思っていたようである。


藤堂和泉守高虎は忠厚にして、また故舊に厚し。

肥後の領主加藤忠広が国替えとなった時、
その父加藤清正の位牌は、京都の本國寺にあった。
だが、もはやそれを祭る者もいなくなってしまった。

これを憂えた高虎は、
「あれほどの茶人であったのに・・・」とでも思ったのであろう、
宇治に茶園を置き、清正の供養にあてた。

そこは歳月を経てもなお、絶えることなく茂れたという。

                            「茶道美談」
0666人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:mNzfjgk3
それほどの茶人なのに、なぜ落語の「荒大名の茶会」では作法を知らないことに
さすがに三歳様は作法に詳しいことになってたけど
0667人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:0q3JhaWw
そういえば、あの話には高虎は出てこないな。
0668人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:xYgqJVLO
清正「茶もいいけど、酒の方が…」
0669人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:I3PfL6gs
毎日、髭を扱きながら精進したんだろ
0670人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:Z6dCIJ8o
家伝の御旗系図を再度お手に入れられる事

祐兵様が入国に及び、日向没落時の奈須右近将監祐貞(日向星原城主)の
忠節の功を謝する為かつ三位入道殿が預け置かれた御旗御系図等を返して
もらう為にと、曽我雅楽助を使者として送られた。

右近将監は「曽我は我が親類であれば他人の疑いも遁れ難い。大切な御旗
系図であるから伊東の御一族か、さもなくば一軍の大将たる人を寄越して
頂きたい」と申され曽我をすげなく返された。

これによって山田土佐入道匡徳が豊後大友殿へ先年の謝礼の為に使者と
して送られていたが、続いて神門村へと赴き御旗御系図等を受け取って
帰るようにと仰せ付けられ、かの所へと到着した。

右近将監は畏まって預け置かれた御旗御系図ならびに文書目録を調えて
一紙に抑留仕らぬ旨の起請文を添えて渡し、匡徳にも馳走して藤島の脇差
を与えられたと言い伝えられている。

(日向記)

山田土佐入道は、以前の逸話にも登場した島津義久に妻子を送り返して
貰った人で匡徳(匡得または京得とも言う)は入道後の号です。
0671人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:ljsgihvP
>669、髭を茶筅にするわけですね。わかります
0672人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:TSNLLwvw
>>670
家久勢を破った堅田合戦で佐伯勢の指揮採った人か
0673人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:Z6dCIJ8o
>>672
その人です。

三位入道たちが豊後を去った後、佐伯氏に仕えて島津と戦い続け
九州征伐後に伊東家へと帰参した訳です。
0674人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:XFzDdm9d
南龍公・徳川頼宣は天下の人が仰ぎ見る勇猛な人であったが、ある時、紀州藩の
附徒歩の衆に盗みをしたものが在り、頼宣はこれを庭前に引き出させると、自ら業物を
抜き放ち、袈裟懸けに斬って捨てた。
そして徒歩頭の水野甚三郎を諸士並み居る中に呼び出し

「甚三郎!自分の組下にこのような悪人が居ることも知らぬ愚か者め!
汝もこのように罪人を斬って見せよ!」
と、怒鳴りつけた。

甚三郎は主人と言えども、諸人の面前でこのように辱められたことに強く憤り、頼信が
奥殿に下がった後、感情が爆発した

「親の心すら子知らず、という!ましてや組子の心の中など知る事ができるだろうか!?
なんと無理なことを仰せ付けられるのだろう。
侍に対しこのような辱めを受けた以上、御奉公も今日これまでである!面白からず!」

そう叫びながら脇差で髻を掴んで切り払い、家にも帰らず和歌山城下を立ち去った。
翌朝、頼信はこの甚三郎の小舅である、水野淡路守重良を召し出し

「淡路!其方の親類であるが、徒歩頭の水野甚三郎はよくよくのたわけ者である!
私の耳に入るまで、組下の者が城下にて盗みをいたすを心得ず、私がその者を手討ちにして
恥ずかしむれば、主に暇をとって立ち退く有様である。
淡路、汝の親類であるぞ!いかに心得るのか!?」

そう言って淡路守を叱責したが、淡路守重良も甚三郎の小舅であるので申し開きをすることも
憚られ、ただ頭を伏して当惑するのみであった。

その時、傍にあったのは徳川家康によって頼宣に付けられた安藤帯刀直次であったが、
彼は頼宣が淡路守を責めるのを聞くと、こう、声を上げた

「淡路守殿!甚三郎を呼び戻されよ!」

淡路守は御前であるのでとかくの返事も出来なかったが、帯刀は再三同じ言葉を繰り返したため、
頼宣も気に触り、彼の方を見て言った

「帯刀は何と心得てそのように言うのか!?組下に悪人があるのを知らず、それを咎めれば
主に暇をとって立ち退くような奴を、戻す道理などあるものか!」

帯刀、頼宣に向かって

「親の心も子は知らず、まして組子の心など、頭が知れるわけがありません!
これは無理なご批判でござる!」

しかし頼宣は納得しない

「帯刀は知らないのか!?権現様(家康)の時代、徒歩の者が奥女中に文を遣わすという
罪を犯した。そしてその罪で徒歩頭の松平若狭守は改易になったのだ。そのような先例もあるのだぞ!」

これに帯刀は立ち上がり、頼宣を睨みつけ、大声で怒鳴りつけた

「権現様も、凡夫ではありませんか!決して仏でも神でもない!
親のしたことであっても、阿呆なる事まで子は学ぶべきでしょうか!?」

(権現様も凡夫にて御座候ぞ、佛にても神にてもなし。
親のしたる事にても、あほうなる事は子はまなぶ物にて候歟)

そう言い放つと御前を退出した。
(徳川武士銘々伝)

安藤帯刀直次の、強烈な換言についての逸話である。
0675人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:x78r2ohj
安藤さんその後どうなったんやろ?
0676人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:o9g1z5M4
いつもの安藤帯刀さんですね。
0677人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:XsRHo0Kf
>>675
この程度で安藤帯刀をどうにかしていては
紀州の主は務まらない
0678人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:SnZQXFKP
頼宣も叫ぶ、勘三郎も叫ぶ、帯刀も叫ぶ、今のドラマみたいだなw
0679人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:a0sRqpWE
頼宣と帯刀っていつもブチ切れあってるけど仲いいよな
0680人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:Ws5UmFIv
ただ仲が悪いからブチキレてるワケじゃないしね
0681人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:jAEdRPYB
なんだ、ただの三河武士の日常じゃないか
0682人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:CojEoLp9
仲が良いと今言ってるのは諌言だと受け止めて貰うのが大変だから強烈になっていくんだろうな
0683人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:5Gws/2E1
諫言ってほんとうに難しいよな
主従相互の信頼感が無いと絶対にできない

その点この二人は、なんのかんのでちゃんと信頼しあってるよね
ちょっと強烈すぎるけど
0684人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:p+FSF0e8
>>681
やっと理解できた
0685人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:cHx6w69f
徳川家康の家臣、清水久三郎は徳川家の古い侍であったが、家康が江戸に移った後は
榊原康政の組下として上州館林に在った。

ある時、久しぶりに江戸に出府し家康に謁見しようと登城したのであるが、江戸に来てみれば
昔とは何事も異なり、如何にも将軍職の居城に相応しい、広大なものとなっていた。

久三郎はあまりの広さに打ち驚き、玄関のあたりをただウロウロして、どうして良いのか解らぬ
有様であった。
ちょうどその時、昔の朋輩である旗本の某という者がそこを通りかかった。
久三郎が戸惑っているのを見つけ

「やあ、久三ではないか!一体いつ江戸に登られたのだ!?
いやはや、関ヶ原の御勝利の後は、御城も今見えるように、かように広大となったのだよ。
どこに行かれるのかな?私が案内いたそう。」

久三郎、ホッとして嬉しそうに
「これはこれは、某殿ではないか!一別以来だが、ご健勝だろうか!?
この久三郎も久しく大殿様(家康)にお目にかからず、御ゆかしく存じ上げ、
にわかに登城したのだよ。」

「そうであったか。御次の間はこちらである、私の跡をついて来られよ。」

そうして久三郎を案内し、小姓衆に頼んで、清水久三郎がご機嫌伺いに参ったことを伝えてもらうと、
家康も機嫌よく、「久三郎ならここへ呼び出せ」と言い、久三郎は家康のいる居間に通された。
家康はにこやかに

「久三郎、息災か?この頃は館林に居るようだが、田舎であれば色々と不自由もあるだろう?」
と懇ろに声をかけると、久三郎は

「いいえ、不自由なことは特にありません。ですが、濁り酒ばかりで、澄酒(清酒)の無いのには
閉口しております。」

家康笑って
「酒飲みが、田舎に住んで良い酒が飲めないのは一段不自由であるな。
好き酒を取らせよう。」
と、小姓を呼んで
「台所の役人にこう申せ、久三郎は酒好きゆえ、極上々の酒樽を遣わせ。」

やがて二人の小姓により酒樽が運ばれ、久三郎は三河以来の話をして、酒樽を賜いて席を退いた。
帰る時、家康は小姓二人に、玄関まで案内をして送らせた。

小姓二人が帰ってくると、家康は彼らに「何関わったことは在ったか?」と聞いた。
「別段、何も変わったことはありませんでした。ただ、御玄関まで見送った時に、私達両人に、
大儀なりと申され、銀銭2枚取り出し投げ呉れられましたが、いい気持ちはしませんでしたので
そのままに捨て置きました。」
と、少々憤って言う。家康はこれを聞くとまた笑い出し

「あの久三郎が銀銭などを持っているはずがないが…、ああ、思い出したよ。あれは姉川合戦の時のことだ。
久三郎が織田信長から武功の褒美として、銀銭を数多貰ったことが在った。
お前たちに投げた銀銭は、その時のものだろう。
久三郎はああいう武骨者だが、無双の勇士であるぞ。お前たちは彼の武勇にあやかるよう、
その銀銭を守袋に入れて、首に掛けよ。」

と語ったそうである。

ちなみに久三郎、玄関より酒樽を持って帰ろうと思ったが、重かったので、
スルスルと股ぐらから下帯を引き解き、それで樽をくくり肩に引き掛けて帰っていったという。
(徳川武士銘々伝)
0686人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:eMFvHqET
家康、記憶力すごいよな
どのくらいの家臣の顔覚えてるんだか

しかし最後下帯ってw
0687人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:a0sRqpWE
権現様の記憶力すげええと思ったのにオチがwww
0688人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b5vxQ4Qx
 武田信玄の死後、後を継いだ武田勝頼は家臣たちから常に信玄と比較され、やりづらい
思いをしたが、そんな中でも長坂釣閑・跡部勝資の両名は積極的に支持してくれたので、
勝頼は この二人を側近として重用した。
 長篠合戦から七年後、織田・徳川の連合軍が武田領への侵攻を開始した。部下の寝返りや
領内の城が次々と陥落したなど良くない知らせばかり飛び込んできたため、戦況の不利を
認めざるをえない勝頼は守りの薄い本拠地の新府城を離れ、家臣の小山田信茂の居城である
岩殿城へ移って立てこもることにしたが、前途に不安を感じた将兵たちは移動途中で
次々と脱走していった。 (続く)
0689人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b5vxQ4Qx
>>688の続き
 手勢の数を大幅に減らしながらようやく笹子峠に辿り着くと迎えに来ていた小山田信茂
の兵は心を変じて勝頼の軍勢に 鉄砲を撃ちかけてきた。このせいで勝頼の兵はさらに逃げ、
わずか43人に減ってしまった。 この時、逃げた者の中に勝頼が重用していた長坂釣閑・
跡部勝資も含まれていた。
「雑人どもが逃げ散るのは仕方ないが、長坂と跡部だけは許せぬ。追いかけて討ち取れ」
 と勝頼は土屋惣蔵と安西平左衛門に命じ、2人は弓に矢をつがえて追いかけた。もう日が
暮れかかっていたが跡部は提灯を馬の鞍の前輪に結び付けていたのでよくわかった。
 土屋惣蔵の放った矢が跡部勝資の背中に命中し、射落とすことが出来たが、長坂の方は
暗闇にまぎれて逃げてしまった。土屋たち2人は跡部の首を持ち帰って勝頼に報告した。
 この報告は織田・徳川連合軍の侵攻以来、良くない知らせばかり耳にしていた勝頼に
とって唯一のちょっといい知らせであった。
0690人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b1n0iIqo
>>689
この逸話の出典は何でしょうか?
どこかで読んだような記憶があるんだけど思い出せなくて
0691人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:OpO7ySR5
甲陽軍鑑あたりじゃないの
長坂は勝頼と天目山で最後まで奮戦したはずだし、跡部も逃亡してないようなのに
二人まとめて逃亡したことになってる
0692人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:FMG1rW/R
なんでこんなに嫌われてるんだろう
0693人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b1n0iIqo
甲陽軍鑑では跡部はいつの間にか逃げたことになってたし、
最近丸島先生に、信頼性が比較的高いと評価されてた甲乱記では、最後まで付いてきてたし…、
と思って調べたらわかった。この話、多分武田三代軍記だね

最後の二行が手元にある武田三代軍記とちょっとニュアンスが違う気もするけど、解釈の違いかな
0694人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b5vxQ4Qx
>>690
688-689の話は武田三代軍記をもとにしました
0695人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7686.html
こちらに出で来る廣田図書とたぶん同一人物

 水野勝成の家臣に広田儀太夫という者がいた。
 小身で右筆をしていたが、道明寺の戦いで敵の勇士と戦い首を獲って勝成に見せた。
 勝成が歓喜しているところに、儀太夫は何を思ったのか
「失礼だと思うのですが申し上げます。明日の戦いでは側近くに置いていただけないでしょうか」
 と願い出た。勝成は儀太夫の心中を察して側近くに置いた。
 さて、また当日に戦いがあり敵の隊の一つが水野軍の旗本に突撃してきた。
 儀太夫は一番に敵と槍を合わせて討死した。
 勝成自身が槍を振るうほどの状況になったが、やがて水野軍に加勢が来たため敵は退いていった。
 勝成は儀太夫が勇ましく討死したのを不憫に思い死体を確認すると多数の槍傷で体中が真っ赤に染まっていた。
 あまりに不憫に思った勝成が、笄(こうがい、刀の鞘に挿しておく、金属性のへらのようなもの)で儀太夫の口を開けて薬を飲ませると息を吹き返したため急いで医者を呼んで治療させた。
 治療の甲斐あって儀太夫は助かり、有馬温泉での湯治で完治した後に大加増され家老となり広幡図書と名を改めたという。『勇士物語』


 ちなみに水野家を代表する家老に広田図書という人物がいる。
 若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
(戦国武将データファイル99より)

 さらに余談として勝成は、家臣が病気になると、自ら薬を届けた逸話があるが
 勝成は当時、平戸に来る中国人との貿易を行っている(小場家文書)ので漢方薬が入手できたと思われる
 と『福山開祖・水野勝成』に書かれている
0696人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:RVtyxwpQ
>>695
現代の雑誌からの引用って、著作権的にマズいだろ
0697人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:8ibW5COi
引用自体は著作権的に問題じゃないよ、ソースも明記されてるしね
引用に関してのルールってのは結構複雑だけど、少なくともこういう引用は許諾もいらない
0698人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbj
そうなのか?
著作権などという難しいことはなにも考えずに書きこんだ
反省している
0699人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbj
>>697
よかった
0700人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:RVtyxwpQ
>>697
ここまでの引用は限度を超えてると思うぞ
0701人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbj
>>700
引用云々がそんなに面倒臭いとは思わなかったな
ちなみにあたなが心配している現代の雑誌から引用したのは、この一文だけ

 若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
0702人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:lK0ElBHH
>>700
> 引用は権利者に無断で行われるもので、法(日本では著作権法第32条)で認められた合法な行為であり、
> 権利者は引用を拒否することはできない[3]。権利者が拒否できるのは、著作権法の引用の要件を満たさない違法な無断転載等に限られる。

> 要件
> 文化庁によれば、適切な「引用」と認められるためには、以下の要件が必要とされる。

> 最高裁判所昭和55年3月28日判決[4]によれば、適切な引用とは「紹介、参照、論評その他の目的で著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録すること」とされる。

> ア 既に公表されている著作物であること
> イ 「公正な慣行」に合致すること
> ウ 報道,批評,研究などの引用の目的上「正当な範囲内」であること
> エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること
> オ カギ括弧などにより「引用部分」が明確になっていること
> カ 引用を行う「必然性」があること
> キ 「出所の明示」が必要(コピー以外はその慣行があるとき)
>
> ? 文化庁 (2010, §8. 著作物等の「例外的な無断利用」ができる場合 G ア、「引用」(第32条第1項))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E7%94%A8

引用は「正当な権利」であり、この場合「要件」にも合致しており、何ら問題はない。
引用の範囲を狭く取ろうとする考えのほうが学術的にも記念だよ
0703人間七七四年2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:lK0ElBHH
>>702
最後の行
×記念 ○危険
0704人間七七四年2013/07/15(月) NY:AN:NY.ANID:wcFOw4zh
天正三年より、加藤嘉明は近江長浜の羽柴秀吉に仕えた。
秀吉は嘉明を養子の秀勝に近侍させた。時に十三歳。

天正四年、秀吉が播磨を征伐するや、嘉明は主の秀勝に暇を告げずに
おもむいて軍に従った。夫人(政所)は怒って秀吉に、

「孫六は無頼な者です。早くお帰しになってください」と書を送ったが、
秀吉はその盛んで勇ましい志に感心して嘉明を軍中に留めた。

――『加藤嘉明公(家譜)』
0705人間七七四年2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:PbZX7DTZ
本多美濃守忠政は「昔から自分が楽しもうとして天下を望まれる主君は、
人が長く楽しませぬものと思われる。我が主君の御側に仕え、朝夕見奉って感じたことだ」
と言った。

また「今とても富める者がいたとして、他人に『十年のうちに家を潰し、朝夕の生業も
ままならなくなるだろう』と言い聞かされて怒らない者がいるはずはない。

しかし、贅沢を教えて淫酒を勧め、家を亡ぼさせて困窮に及ばせても人は怒らない。
これは愚かな例えではあるが、深く覚悟すべき事だ」と言った。

――『責而者草(太平将士美談)』
0706人間七七四年2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:w1rOqJDb
有名な「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」の三河三奉行の一人、
高力与左衛門清長について、これは三河一向一揆の時のことである。


高力の家の領地、高力郷は、一向一揆の本拠地といっていい土呂郷の隣であり、
一揆の脅威の正面に在り、領内の騒擾甚だしく、家康からは濫妨の禁止を命ぜられたものの、
一揆方よりの狼藉を止めることは難しかった。

そこで高力は思案し、高力郷中の仏像経巻を全て一ヶ所に集め、安全な場所に保管した。

一向一揆が静まると、高力はそれらの仏像経巻を取り出して元の寺々に返した。
これに寺僧はもちろん、郷民たちも大いに喜んだ。

これより後、人々は高力清長の事を「仏高力」と呼ぶようになったという。

(徳川武士銘々伝)

「仏高力」の名の由来について、こういう話もあったんですね、という逸話。
0707人間七七四年2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:Z2pSvH9S
>>706
どちへんなきの人は漫画になってたよね
0708人間七七四年2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:TtpWh5Rh
小田原が平定され、井伊直政は箕輪に封ぜられた。
移封される前に秀吉が直政を召して言った。

「汝が10万石(実際は12万石)の封を得たのは、
我が汝の多大な戦功や働きに感じ入り、徳川殿に勧めたからである。
我の厚意を知ったからには必ずその事を忘れぬように」

直政は拝謝して答えた。

「殿下の御厚意はこの身が終わるまで忘れません」

続いてまた秀吉が言った。

「ならばもし、豊臣と徳川の両家が信を失い、東西兵を構えることになったら、汝は誰の為に忠謀をなすのか?」

直政はこれに答えた。

「私の身命を賭して、死を以てして必ずや両家の御和睦を成してみせます」

秀吉は甚だ感賞して言った。

「汝は将才のみにあらず、治国の事にも長じておるな」


──直政は天下に両兵部と言われる一人である。
小早川隆景は賞して言った。

「直政は小身なれども、天下の政道相成るべき器量あり」と。

(名将言行録)
0709人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:4csEEpJg
ちなみに、もう一方の兵部さんは、隆景さんとこの乃美宗勝さんらしい
0710人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Zt8IRpVx
小田原前も6万石くらいあったのに、それでも小身扱いなのか
0711人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:U0thrqxv
>>710
天下を治めるには6万石では小身という意味だと

名将は名将を知る
0712人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:aMEsZfWB
小田原の時、殺そうって進言したんだよな
0713人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:U0thrqxv
小田原の時といえば戦後は書状とかがのこっているけど
氏政たち兄弟の為に結構動き回っていたね
氏規の自害を身を呈して止めたりとか
0714人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Er1CMP1q
伊勢新九郎長氏は子供の頃から武芸に励み、家を興し父母の名を後代に残さん事を工夫し、
備中国吉備津大明神に願をかけ、三七日(21日)参籠が満るその夜、夢のなかに

『東国に行き給え、御剣を遣わすであろう。』

と顕れたため有難く思い、東国に向かうとその途中、華表の傍にて旅人に行き会った。
彼が申すには

「私は路銀が無くなってしまい、大変難儀しています。この刀を差し上げますので、
代金を頂けないでしょうか?」

新九郎は『夢に出た御剣とはこの事である。』と悟り、刀を買い取り三度押し頂いた。
それから武者修行を思い立ち、近郷にて名家の子息、内藤、笠原、二階堂、大道寺、
松田、井上、平井といった勇士30人が新九郎に同道して、諸国に武者修行に出た。

そして数度の戦功があった後、駿河太守の妻は新九郎の叔母であったため、駿河に下り
扶持を請け、新九郎は大気者であるとの評価を得て、興国寺城番大将となった。

延徳年中に堀越城主足利茶々丸を攻め取り城主となる。
その後相模国小田原城を乗っ取り、姓名を改め北条早雲瑞公となり、関八州の太守と成られた。

(中國兵亂記)

伊勢新九郎盛時の故郷である備中のあたりに伝わったと思われる、北条早雲についての伝承である。
0715人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:InJKhd0c
オンラインニュースにまとめスレの管理人さんも薦めていた水野勝成「天を裂く」の紹介があったんだが

【水野勝成の逸話まとめ】
●16歳のとき、高天神城攻めで15の首級をあげ、主君だった信長から戦巧者として永楽銭の旗印をもらう。

●19歳のとき、甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。

●21歳のとき、父親の家来を殺してしまい、勘当される。

●その後、「奉公構」(他家仕官禁止→再就職できない)を言い渡されたので、偽名を使って、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正など、
名だたる武将のもとへ仕官。どこでも大活躍するが、次第に戦い自体に虚しさを感じて失踪する。
※この時代の逸話も多く、虚無僧になったり、姫谷焼の器職人になったりしたほか、大坂で泥棒をやっていたという説まである。

●36歳で父親が味方に暗殺され、16年ぶりに実家に帰って家督を継ぐ。

●関ヶ原の戦いで徳川家康に呼ばれて参戦。敵将の福原長堯から名刀「名物日向正宗」(現在の国宝)を奪い取るなど、数多くの武功をあげる。

●関ヶ原の戦いの活躍が評価され、大坂の陣では軍監(軍の最高責任者)に任命される。

●宮本武蔵と親交があり、息子・勝俊のボディーガードをさせる。

●大坂夏の陣では、軍の責任者なのに自ら先陣に立って戦い、大坂城に一番乗りを果たす。ちなみに、勝成はこのとき51歳だった。

>●19歳のとき、甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。
って、黒駒合戦はともかくそんな逸話あったっけ
0716人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Zt8IRpVx
地震キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
0717人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Zt8IRpVx
ごめん誤爆(´・ω・`)
0718人間七七四年2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:7us94E0h
>次第に戦い自体に虚しさを感じて
これだけは無いと断言できる
0719人間七七四年2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:yUwHaGZZ
軍監は目付であって最高責任者じゃないけどな
0720人間七七四年2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:p1hg5PWF
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5150.html
上記リンクの逸話に登場する相浦源左衛門のお話

あるとき、源左衛門に仕える者が家老衆に呼び出された。
その者が家老衆のもとへ行くと、源左衛門への手紙を渡された。
その者が手紙を届けると源左衛門はその場で一読し、
「家老衆がおまえに不届きな行いがあるから、
わたしに討ち果たすようにと言ってきた。
おまえも侍であるから剣術を常日頃心掛けていただろう。
これまで限りの命、東の土手でわたし相手に思う存分働くがよい」
と、その男に言った。男も、
「わかりました」
とだけ、答えた。
そうして源左衛門はその男を引き連れ堀端沿いに歩いていくと、
「源左衛門殿っ!!」
と、堀の向こう側にいた源左衛門の知り合いが叫んだ。
その声に反応して源左衛門が振り返ると、
引き連れた男が刀を抜き後ろから斬りかかろうとしていた。
気づいた源左衛門は後ろに飛ぶと同時の抜き討ちに男を斬り殺した。

源左衛門はこのとき着ていた着物を封印し、一生人に見せなかった。
死後、取り出してみると襟が切り裂かれていたという【葉隠】
0721人間七七四年2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:p1hg5PWF
この逸話は源左衛門の息子の源左衛門(ややこしい)が話したとのことで、
葉隠には斬り合いの様子にもう一説あるとあり、
その一説では、

源左衛門の家の門のを出る前にその男が後ろから斬りかかり、
気配を察知した源左衛門が振り返るも足を滑らす。
しかし仰向けに倒れながらも刀を抜いて、
そのまま寝た状態で横に刀で払って、
その男の両手を斬り落として、
立ち上がりしとめたとも言われている

とのことです
0722人間七七四年2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:Ba86fMnZ
>>713
伊達のまーくんも一揆で大変だった時に直政の尽力で助けられているんだよな
0723人間七七四年2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:soQ/799x
リンク先の二条城の逸話を見ると、
この源左衛門は討ち果たされるようなことを無意識にたくさんやってそうw
0724人間七七四年2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:ZazpUMmO
>>721
踏ん張りが効かない状態で両手を斬り落とすとは!
ライトセーバーでも持っていたのか
0725人間七七四年2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:VHn20M5U
村正ブレードじゃないか?
0726人間七七四年2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:FkOVtbEo
備中国賀陽郡平山村の笠井又八郎は若いころ、清水宗治に仕え、非常に目をかけてもらっていたが、
天正10年(1582)、高松城籠城戦の末、宗治が切腹をすると、又八郎は在所に引き込み、帰農した。

又八郎は元々実直な人物で、友人たちも多かったが、慶長16年(1611)に病死した。

ところが死去して二七日(14日)過ぎると、蘇った。

墓所より大声が聞こえたため、村人たちが慌てて掘り返すと、以前と変わらぬ又八郎が現れた。
墓から出てきた彼が言うことには

「あちらで閻魔王に言われたのだが、『お前は今こちらに来るべき者ではないが、年来仏を
信心しているので、来世を見せよう。今後も信心堅固に、仏法を願い申すように。』
とのことであった。

そうしてこの世に帰ってきたのであるが、万人講を行なって、この郡の奥里鬼城に閻魔王堂を建立し、
朝夕念仏を勤めてほしい。

ここは郷境であり、年来争い多くあり、戦死した傍輩も数多ある。この死者たちが来世において
難儀の体をしていることを、彼らの家の子、家流の者達に伝えてほしい。
そしてこの郡の岩屋に毘沙門堂を建て、備前の八木山常慶に本尊を作らせるように。」

そう、夢うつつのように語った。

その後平山村法道寺に阿弥陀堂を建て、朝夕念仏を唱えて後生を願い、
また『往生仕候はば、末世子孫可為繁盛』と万人講を勧めた。

そうして上記の願いが成就すると、又相果てたとの事である。
(中國兵亂記)
0727人間七七四年2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:wMkXErXu
岡山の鬼城って最近再建されたところ?
0728人間七七四年2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:8Jl3h8L0
本多忠勝の忠勇は世の人に知られていた。中でも豊臣秀吉が小田原を手に入れ、奥州白河まで動座して
宇都宮に滞在した時、徳川家康家老の本多に用があって呼んだ事があった。その節、忠勝は一揆退治として
下総の庁南にいたが、早々と宇都宮に参った。

秀吉は諸大名出仕の中で「わしはこの度熊野山より佐藤四郎忠信の兜を求めた。兜の主忠信は忠義も武勇も
数百年の後まで人に語られて知らぬ者はいない。その忠信に変わらぬ剛の者にこの兜を取らせたいと思う。
天下に忠信と同じ兵は誰がいるだろう」と尋ねた。諸人は謹んで申し出す者はいなかった。

すると秀吉は「忠信に勝るとも劣らぬ兵は家康公家中の本多中務である」と言った。

その子細は、先年、長久手合戦の時、池田勝入父子と森武蔵守を家康に討ち取られた秀吉は無念至極なので、
六万人の兵で早々と楽田を出立し、長久手へ駆け付け、家康の疲れ足へ仕かけようと揉みに揉んで行くと、
五百騎を率いた忠勝が四、五町を隔てて並び軍勢を進めていた。忠勝は少しもひるまずに、

「今ここで秀吉公が戦を挑む時は軍勢を進めて前の妨げとなる。秀吉公が長久手へ駆け付けることを滞らせ、
長久手表の家康公は十分に御勝になるだろう。ここで秀吉公を遮り留めて討死し、上方勢の長久手到着を
遅らせるぞ」と士卒に下知して、五百の小勢で本陣数万へひたすら挑戦し、鉄砲を撃ちかけた。

諸大将はこれを討ち取ろうと望んだが秀吉は許さなかった。両軍は並んで二里ばかり移動したところ、
鹿の角の兜を被った武者一騎が川岸へ乗り下し、馬の口を洗った。秀吉はこれを見て、
「大将分の者のようだ。何者なのか見知っておらぬか」と問うと、稲葉伊予守が「本多平八です」と申した。

秀吉は覚えず感涙を流して「平八は先年姉川で先陣して朝倉一万の中へ馬を入れたが、その戦功が
ちょうど目の前に見えている。只今、彼が小勢で秀吉の大軍に仕かけているのは、秀吉を道で手間取らせて
家康に合戦をなし遂げさせるためだ。古今の勇士、忠義の士である。只今平八を討ち取っても秀吉の運が
極まれば戦いに負けるだろう。たとえ家康が数万の勇士を持つとしても、わしの運が強ければ戦いに
勝つであろう。絶対に平八を鉄砲で撃ってはならぬぞ」と皆々に言って矢止めさせたのであった。

秀吉は「この場の働きは忠信にも勝るものだ。故に忠信の兜を中務に取らせる」と言うと、その翌日に
忠勝を呼んで先の件を話し、かの兜を与えた。その晩、秀吉は忠勝を呼んで御前で茶を下し、その上で密かに
「人はお前の武勇を知っているといえども、名を天下に知らしめようと忠信の兜を遣わし、大剛一の兵と
日本に披露したのは秀吉の恩だ。それでは、家康の恩とわしの恩とはどちらが深いと思うか」と尋ねた。

忠勝は頭を地に付けてとかくの答えもなかった。だが、秀吉がしきりに問い詰めた時、忠勝は涙を流して
「君の恩は海よりも深いものですが、家康公は譜代の主でございますので同日には申し上げられません」
と答えた。秀吉は機嫌を悪くして座を立ってしまった。この忠勝の答えを天下の人々は誉めたのだとか。

――『責而者草(武辺咄聞書)』
0729人間七七四年2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:raG9RO2S
火にも水にも飛び込んでいく三河武士が権現様の宝物だな
0730人間七七四年2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:81fUZ/QC
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1989.html
忠勝「いまわたしの官位は義経より上なのに、その家来の兜と言われても」
0731人間七七四年2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:1OJpSu24
なんのかんので忠勝は秀吉のこときらいだよなw
0732人間七七四年2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:ALqSd73d
前田利常の元に小堀遠州が御出でになり、四方山の話をしていた時に、利常がふと

「古田織部の焼かれた茶入の中でも良い物で、なおかつ織部自身の茶の湯に出した
茶入というものは、あるのでしょうか?」

遠州は答えた
「ええ、御座います。その茶入は、餓鬼の腹によく似ているからと、『餓鬼はら』と名付けられた
茶入です。実に、一段見事な茶入です。」

これを聞いてその茶入を手に入れたく思った利常は、遠州の語った内容を書き付け、
京都でこれを尋ねよと高田弥右衛門らに命じた。

高田達が探し尋ねると、その茶入はとある町方のものが所有していることがわかった。
その町人に、譲ってもらうよう頼み、代金のことについて尋ねると、
高田が買取の値段を言い出す前に町人は

「何と言っても御大名様がお尋ねになった事ですから、金五百枚と申し上げてください。」

と、金五百枚を要求した。そこで高田弥右衛門もこれを利常に報告した。
そうした所で利常は小堀遠州に京へ言ってもらい、その茶入を確認してもらった所、
「成程なるほど、間違いなくこの茶入です。」
とお墨付きを得たため、利常は高田に金五百枚を遣わし、町人より茶入を買い取った。

その後、小堀遠州がまた利常の元に参った時、利常はこの『餓鬼はら』の茶入で茶の湯をされた。
茶の湯が終わると小堀遠州が尋ねた

「この茶入を買い入れるのに、代金はいかほど必要だったのでしょうか?」

「持ち主が金五百枚と申しましたので、その通りに遣わしました。」

これを聞くと小堀遠州、手を叩いて痛快そうに
「実にご尤もなことです!御大名がそのようにしていただいてこそ、織部の焼き物に
価値が付くというものです!織部も泉下にて喜んでいることでしょう!」

そう申し上げ、帰っていったそうである。
これは今枝伊兵衛の話に承った事である。
(微妙公夜話)
0733人間七七四年2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:MNPFUEiv
糞ガキの元ネタか
0734人間七七四年2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:S2B+QJIP
みんなで価値を釣り上げるのか
0735人間七七四年2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:HtKZ9df0
東照公が三州をお手に入れられた時、これまで今川領地の村々は
先代の事などで争い治まりかねない所もあった。

これによって本多作左衛門がやってきて制札を見た所、法度の箇条
が多くて内容も難しかったので、

一、人を殺すものは命が無いぞ
一、被をつけると火あぶりになるぞ
一、狼藉をすれば作左しかるぞ

と言う三カ条にして仮名文字へと書き改めた。
その後はよく治まったと言う

(古老物語)

作左が叱るの別バージョン
0736人間七七四年2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:HtKZ9df0
>>735
二条目は

一、火をつけると火あぶりになるぞ

でした。タイプミスすまぬ
0737人間七七四年2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:7Rhnmpwc
劉邦「法三章のみ」

違うのは傷害が火付けになってるとこか
0738人間七七四年2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:5Okx8lxE
でも他の者を褒めるとわしもわしもと言いだすんだだろうな。三河武士は
0739人間七七四年2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:x8GhauMr
>>735
わかりやすくていいな
法の抜け穴を探すまでもない簡潔さ
0740人間七七四年2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:NujmEwqj
板倉重宗が今だ御小姓だった頃、明年御上洛の御供支度について京に
いる父勝重の家老へと申し送ったが、どういう支障があったのか
秋の末まで一品も届かなかった。

再度連絡を入れ「以前に連絡した御供支度の品々が只今になっても一品
もやってこないのは、不届き千万です。早々に送っていただきたい」
と催促した。

十月になって荷物が一個届いたので家老どもがこれを披露した所、
重宗はすぐに「ここへ持参せよ」と申されたので、家老両人が
これを開けて中を見られると大きな竹の子笠が一つだけ入っていた。

家老たちは何れも呆れた様子であったが、重宗は何か気づいたようで
笑いながら「下げよ」と申された。

その時、谷三助と言うものがそばに居合わせ「なにやら御合点なされた
ように見受けますが、あの笠はいったい何の御用に立つものなので
ございましょうか」と尋ねると、重宗は「あの笠を着て上を見るなと
言う事だよ」と破顔一笑なされた。

三助は「親も親、子も子である」と感じ入ったと言う。

(古老雑話)

「笠を着て上を見るな」と題される板倉親子のコミニュケーション
0741人間七七四年2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:eAqvRqgq
どういうこと? 権力を笠に着て命令するなって意味? それとも質素にやれってこと?
0742人間七七四年2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:kQ2J5fDN
上を見れば見栄を張りたくなってキリがないってことでしょ
0743人間七七四年2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:C6lOJI8L
上の者が美々しい装束を次々買い換えて下げ渡せばいいんだよ
0744人間七七四年2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:+Df13ACw
本多佐渡守の諫言

家康公がある時、鷹野へと御出でになられたが今日は終始養生の為の出御で
あるから、何れも御前をはばからずに休息するようにとの事で、野に幔幕を
めぐらせた。

上様にもお弁当を召し上がっていただこうと御小姓衆が重箱を持参していた
のを本多佐渡守が見つけ

「これは御慰めの御成に用いるべき器ではない。かような品に華美を尽くし
ては、御供の末々までが見習って奢侈の始まりとなるだろう。天下の政務を
とられる御身には以ての外である。」

と言い重箱を取り捨てられた。

家康公はこれをもっともと思われたのか、いささかも機嫌を損ずること無く
御供の者に持参した握り飯を取り出させて召し上がられたと言う。

(翁草)
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