戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0624人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:VdEudswCそうなんですよ。他は幕末の人だったりしますしね。
次郎以外の又○郎だとすれば多数の候補が出てくるし
次郎が正しいとすれば藤次郎あたりもありそうですし・・・
0625人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ARBe2bS+山本瀬兵衛は御用によって、小松から金沢に召されたのだが、いつもどんな用であっても、
召された時には軽いものを利常公に献上していたのに、この時はうっかり忘れて来てしまい、
台所奉行の佐藤久右衛門の所に行き
「何でもいいので、手頃なものが有れば貸して頂けないだろうか?後で同じ物をそろえて返すので。」
と聞くと、「今朝方どこかからサザエが一折来ていたが」とのことなので、それを借りた。
ところが、その時期はちょうど夏であったため、サザエのうち1つか2つ、臭うものが有り、
「主に腐ったものを贈るなどあるものか!」
と、受け取った利常な以ての外に機嫌が悪くなり、そのため右筆の中村久越殿が山本の所に
やって来て、彼を散々に叱りつけ、この事を聞かせると、山本はしかし
「これは近頃迷惑なことです。私は急に召し出されたため、献上品を忘れてきてしまい、
台所に行って佐藤久右衛門殿に『何かあったら貸してほしい。後で揃えてお返しする。』と言って、
サザエを借りたのですが、その時私は焦っていて、それをろくに確認しませんでした。
そのため、少し悪いものがあったのでしょう。」
と言い、この事が中村久越から申し上げられると利常は
「それが申し訳になるものか!それは田舎たわけの披露というものだ!
佐藤久右衛門は田舎ぶりの抜けない人間で、それ故に信頼していたのに、久右衛門は
親や子供には知らないが、人に物の用に立つものを貸さないような者であったのか!
そのような人物を重宝して台所奉行に置いていればそれは、前田家全体が田舎一門と
見られてしまう。それはたわけの至極である!早々に調査をせよ!」
との御意であったので、次の日山本瀬兵衛が、再びサザエを佐藤久右衛門から取り寄せさせた所、
今度は初めのものより大きく新鮮で、見事なものをくれ、しかも目録に印まで押して遣わされた。
これを見た前田利常は
「久右衛門は山本瀬兵衛の事をちゃんと心に懸けておるわ」
とお笑いに成り、中村久越は山本に「昨日はお叱りになったのに、今日のサザエは見事だと、
お褒めになっていたよ」と伝えて笑われた。
この事は私(著者)の亡父である、山本瀬兵衛が話したことである。
(微妙公夜話)
0627人間七七四年
2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:5K76/cB6昭和時代の盆暮れの挨拶よりも面倒くせえよよよよよ
0628人間七七四年
2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:5PR2IANoあれも加賀藩だったけど
0629人間七七四年
2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:ZcdGcfU1義直に対しても忠勤を尽くして仕えた。
正成が日頃望んでいたのは「恐れ多いことだが、死後には尊神(家康)の
御かたわらに侍りたいと思う」ということだった。
程なく正成が身罷ると、義直はその志を思って遺言に違えず亡骸を日光山に送った。
その死の三日前の事。天海は「今朝神祠に参ったところ、正成がここに来て
神君の御前に侍っているのを見た。正成は近いうちにきっと身罷ると思う。
まもなくやって来ることだろう。本当に哀れなことだ」と言って涙を落とした。
――『東叡山開山慈眼大師縁起』
0630人間七七四年
2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:4dLEp5fA映画ては演出かもしれないけど
膨大な借金か抱えて家財道具売り払っても残り十年返済で事を納めたんだよな
0631人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:GuwzKjERあれこれ考えましたが、色々お望みされても、樂茶碗を皆様には準備できません。
私の手元の「大黒(おおぐろ)」は紹安(利休実子の道安)へ譲りたいと思っています。
「早舟」は松賀嶋殿(蒲生氏郷)にお届けしたく思います。
茶碗を早く欲しがっている越中様(細川三斎)もその事はご了解頂けないと困ります。
「大黒」を道安に、「早舟」を松賀嶋殿に与えるという事を古織様(古田織部)とご相談頂き、今日中に済ませてください。
明日には松殿(氏郷)は伊勢松ヶ嶋に戻られます。
「早舟」については仕方ありませんし、お届けする事は難しいです。
越中様もご理解くださいまして、
右の通りに「早舟」は氏郷殿に、「大黒」は紹安に与える事に致します。
申し訳ないですが、そのように致します。
天正十五年頃、利休が作らせた黒茶碗という名物に
利休の弟子の三人(三斎、織部、他一名不明)が強く魅入られ
唐物とは別の新しい茶の湯の形が出来上がっていく当時の事情が伺える書状である
0632人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:dyP9ywVX茶の湯批判した武士の言葉も残ってるがなんかわかるな
いらぬ争いや、いらぬ浪費になる部分が茶の湯にはあるかもね
0633人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:ArubJxJS御油断なく、御心を使っておられた。
しかし、それでもその統治には非常にご苦労が多く、下々までも疲弊し根気を尽くしてしまい、もし合戦があれば、
軍は弱体化し敗北に及ぶであろうと、過半の人々が思っていた。
しかしそう言う時に元春公は、帰路の道における橋などを外され、わざと帯紐を解かせ背中炙り(背中に日を当てること。つまり上半身裸)
の姿となって、川を渡るようなことが度々有った。
(老翁物語)
意図が解るような解らないようなお話ですが、たしかになんだか凄そうです。
0634人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:IOjK+Hvw実戦期である戦国時代の甲冑がそのままの状態で残ることは極めて希で、
身分の低い雑兵のものに至っては単なる消耗品なのでまず現存しないという。
実戦期の軍装の詳細についてはよくわかっていない点が多い。
その点、当時の日本を訪れた宣教師や、文禄・慶長の役で実際に日本の鎧武者を目撃した明・朝鮮人の証言は
誇張や卑下表現が含まれているとしても、参考になると思う。
何故なら日本人にとっては当たり前でいちいち記録に残さないような事柄でも、異国人である彼らには
驚きの目で捉えられることが少なくないからだ。
というわけで、以下にまとめてみた↓
「我々の武装具は極めて重い。日本の物はとても軽い」
「我々の甲冑は、すべて鋼鉄で出来ている。彼ら(日本人)のは角または革の薄片を、縒り糸で縫い合わせたものである」
「我々の兜は瞼甲(ヴィゼイラ)を着ける。日本人は顔に悪魔の半分の仮面を着ける」
・・・ポルトガル、ルイス・フロイス「日欧文化比較」
「倭国軍は鬼や獅子の面を被っていたので、人馬が驚いて退き、ぬかるみにはまって動けなかった」
・・・明国、宋応昌「両朝平攘録」
「奇怪な身なりをして敵を驚かせ、牛頭に鬼面をした者もある」
・・・明国、李睟光「芝峰類説」
「おおむね倭人たちは紅黒の鉄の甲冑を着て色とりどりの鉄兜を被り、口角には髭を縦横に生やし
鉄広大(鉄の衣を着た道化方)のような姿をしており、金冠の黄金色の羽根・金挿・羽衣・羽箒・螺角などことごとく奇怪な形相である。
奢侈であり、鬼神のようでもあり、獣のようにも見えたので、これを見る者、驚かざるをえなかった」
・・・李氏朝鮮、李舜臣「忠武公全書」
「華麗多く虎皮及び鶏尾をもって戦服を作り、金銀をもって仮面を拵え、馬面及び人面を表す、それは偽り驚かすこと甚だしく、
人の眼に眩いばかりに光り輝いた。壬辰年に敗退した軍の者たちは皆、虎・豹・水石の怪物が一時に出現したようで、不覚にも気を失い、
魂を奪われたと言っている」
・・・李氏朝鮮、姜侃「倭情録」
0635人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:BwAmEKdz獣の皮を軍服につけるようなコケオドシに驚いて逃げてどうする、と
朝鮮軍を批判している箇所があったような
ついでに、日本ではしょうもない茶碗に何両も出して馬鹿じゃないのか、と書かれた箇所も
0636人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:L5vtjPnZもうちょっと体裁整えてほしい気がするなあ
0637人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:pEeQQoRE0638人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:L5GXRMT6やっぱり面頬あってこその具足だと思うぜ
0639人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:dyP9ywVXマレー系やポリネシア系も獣装ったりするでしょ
0640人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:gVAVZrexおおむねって言ってるから多分雑兵含んでるんじゃないか?
意外に着飾ってたんだな
雑兵は鎧もつけないってのは嘘か
0641人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:x5lDZsPG人数とか装備とか揃えて出してるだろうし
戦国中期ぐらいまでの地侍が集めてきたようなほんとの雑兵(?)はバラバラだと思う
0642人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:OOoYPZdE0643人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:KgHgRreq大名直属の兵でさえ装備が揃ってるのは珍しいよ。
しかも豊臣政権は軍役が過重だったから、どこも人数を揃揃えるのに苦労して
地侍層も動員されてる。
0644人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:662ovtGo天正12(1584)年に島原有馬の陣で隆信が戦死したとき、牟田家の紀伊守家式もともに戦死したが、
その次男である信式は、天正4(1576)年のころ讒言により武雄に逃れ後藤家信の家臣となって外助を称し、犬走に五十国の領地を得て、
以降幕末明治に至るまで後藤家に忠勤をはげんだという。
慶長5(1600)年、鍋島家は関ヶ原で西軍に加担したが、家康より許しを得柳川立花家を攻めた。
後藤家信の子茂綱も2500の兵を率いて参陣し、信式の息子である二代目外助もまた弟助九郎とともにその戦列に加わった。
この戦いでは立花方もよく守り戦ったので、鍋島方はどうしてもこれを破ることができなかった。
そこで外助は単身で敵陣に切り込み、軍扇を以て見方を誘導し、ついに立花方を崩すことに成功した。
しかし外助は敵兵のために斬り死に、弟の助九郎もともに戦死した。
兄外助21歳、弟の助九郎は19歳であった。
茂綱はこの兄弟の死を深く憐れみ、その墓を武雄円満寺に建て、厚く弔った。
山内町史(現武雄市)より、武雄牟田家の逸話でした。
ちなみに外助の遺児六兵衛はこの時1歳で、後に茂綱に従って島原の陣に出陣して功を上げ、
茂綱の死去した際には、生前の寵恩に報いる為に殉死したと書いてあります。
子孫は幕末武雄の近代化軍隊の装備充実に貢献し、戊辰戦争でも大砲隊の隊長として活躍したということです。
0645人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:KgHgRreq治右衛門・長束与十郎らに形見を与え、白装束で切腹の座についた。
池田(備中守長吉)・亀井(武蔵守茲矩)に向かい「ここまで御出でいた
だきご苦労な事です。それでは今生の暇をたまわりましょう」と告げ、
切腹しようとしたところで、長束は再び両人に向かって「それがしの
家来奥村左馬は身近くで召し使ってきたものであるので冥途の供をする
覚悟と見えます。しかし無益の事でありますから殉死を留めて頂きたい」
と懇ろに言い残して切腹した。
奥村左馬は介錯したその刀を腹に突きたてようとしたが、(池田)備中守
家人武蔵掃部・瀧川織部らが間髪入れずに飛びついて刀を奪い、色々と
教訓したので奥村も力なく承引した。後に寺沢志摩守が召し出して領地
千石を与えられたと言う。
(關原軍記大成)
長束正家の最後の模様である
0646人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:jxIXN26k六行目 誤:道安 正:紹安
0647人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:Sks87be+いにしえより細川家を見ていけば、足利義詮公が早世され、跡継ぎの義満公が
幼く征夷大将軍に任じられたこの時に、細川武蔵守頼之朝臣が後見をし奉り、
それより細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが、天文11年(1542)の春、
三好筑前守長慶が細川家に変わって天下の権を執り、細川晴元を捕えて芥川に押込めてより、
細川家は衰微して、永禄・元亀の頃には、細川兵部太輔藤孝は、微々たるありさまで、
山城国長岡に居住していた。
藤孝はこの頃、京都七人衆(稲屋妻豊後守、下津権内、岩成主税介、荻田亀之助、
細川兵部太輔藤孝、小泉某、鴨目某)と呼ばれた者達の一人であった。
嫡子の與一郎忠興は、明智日向守(光秀)の聟となり、明智の贔屓によって段々に立身し、
天正9年(1581)には丹後へ来たりて、翌年中に丹後一州、ことごとく手に入れ、
20余年の間、丹後の国主をされた、
慶長5年(1600)関ヶ原の一乱に莫大な軍功があったため、国替えを仰せ付けられ、
豊前、並びに豊後の杵築を与えられ、その年の冬、細川忠興は豊前の小倉に入部するため、
宮津の城を御出になった。
家の再興はこの宮津より起こり、また馴れ久しい国でも有ったため、忠興も
思い残すこと多く感じられたのであろう。犬の堂を過ぎると、天の橋立を
歌に詠まれた
立ちわかれ 松になごりはおしけれど おもひきれとの天のはし立
(丹州三家物語)
細川忠興が、国替えのため丹後を出立するときの模様である。
0648人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:d5OfSJvu日本語でお願いします
0649人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:p4PW85Qgなんでも「○○の模様である」って言えば逸話になるってもんじゃないぞ
>>644なんかは単身で敵中に飛び込んで〜ってあたりでオリジナリティがあるからいいけど
0651人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:wcR6MlGy織田信雄の遺作
大阪城を退去した織田信雄とその郎党を、家康・秀忠は厚遇した。
上州甘楽などに5万石を与えるだけでなく、国主格まで与えたのだ。
「そういえば…北畠氏館にも見事な庭園があったな」
60近くなっていた信雄は、かつて自分が継いでいた名族の館にあった細川高国作の庭園を思い出していた。
そして実質的な藩運営は息子の信良に任せながら自身は陣屋内の作庭に没頭した。
「論語によれば智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむという。なら私は山を楽しもう」
とこの庭園を楽山園と名づけた。
その名の通り近隣の山々を借景とし、庭園内部にも山を思わせる立体的な空間を作ったその造りは見事で、
織田家が領地替えになった後も代々受け継がれ、初期大名庭園の傑作として群馬県での国指定名勝第一号となっている。
昨年発掘調査と復元工事も終わって一般公開されているので、一度是非。
城下の雰囲気もかなり残っていて、結構楽しめる場所ですよ。
0652人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:yUQUoM1X0653人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:UTGj2i6tでもあの激動の時代を生き抜いて家を残してるところは並の人ではないな。氏真公にも言えるが
親父様は天下人だしそういうプライドが邪魔して普通は家つぶしてるよ
秀頼公も信雄公のように柔軟に生きられたら豊臣も残ってただろうにな
0654人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:oZdMkUTUその技術の妙を語っても、未だそれを実際に見たことのない人間で「そんな話は信じられない」
と思わぬ人は居なかった。
稲富が常に使っている鉄砲は一両から八匁弾(約40グラム弱〜30グラム)に限り、
その町間も8町(約870メートル)以上は好まなかった。
8町よりうちの物であれば、火蓋を切って当たらないというものはなかった。
あるいは闇夜に、狐や狼の声を聞きすえて、闇中で仕留めるのは、ただ箱の中の物を拾うがごとくであった。
稲富は25歳の時に橋立大明神に17日間断食して、目くら撃ちという工夫をしたと聞く。
十能十藝、いにしえより手練のものは多いが、離れたものに当てる飛び道具で、稲富ほど
精妙な者は未だ聞いたことがない。
(丹州三家物語)
稲富祐直の鉄砲の技術について伝える逸話である。
0655人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:0LWdkB0+>>652
でも智者より仁者のほうが格上っぽいw
0656人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:xgCwvMxK0657人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:sdeKJFjI| |
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ヽヽ|.{ / | | \ i.|// 確実に仕留めるのは八町までだ
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人 \ .!''''" ̄~ ̄`''! / 人
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0658人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:yUQUoM1X0659人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:vQUXyBbc0660人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:m1TV0Nsx0661人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:EX41pm2q稲荷堂の別当にした。盛重が会津を落とされて常陸国江戸崎という所に移ると
師も伴われ、その領分の不動院という旧寺があったものを修造して住まわれた。
文禄二年の夏、日照りが続いて草はみな枯れてしおれ、千里の間に青苗は見えず、
民は憂いてどうしようもなかった。里の人々は苦しんで師に雨の祈りを願ったので、
師がただちに川のふちに出て修法なさるところに、一人の女が五鈷を持ってきた。
女は「これで加持してください」と言って師に五鈷を与えて消えてしまった。
師は川のふちにのぞみ請雨の法を執り行い、仏舎利一粒を竹葉に乗せて水の上に
浮かべなさった。
すると水中より青蛇が出てきて舎利を咥えて沈んだ。少しの間に黒雲は立ち重なり、
雷はひどくうなって稲光が起こると、急に大雨が降って枯れた稲葉も色を変え、
百穀は実って人民も栄えた。
先の女についてはその行方を尋ねたが、どこの誰とも知る人はいなかったという。
五鈷は今に当山の霊堂にある。
――『東叡山開山慈眼大師縁起』
0662人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:UXpdGKNA方々に働いた。
佐々方は山家の城の近くに付城を一つ作り、そこには佐々が取り立てた三田村庄左衛門という者を
置いていたのだが、その城に兵糧を入れるという時、安国寺恵瓊を物頭として、毛利殿より
兵糧を入れることとなったが、一揆勢は兵糧を入れさせまいと、ウチノコカという場所から軍勢を出した。
そのため立花左近(宗茂)兄弟が軍勢をこれに詰めた。
兄の左近殿も手柄をなされたが、とりわけ弟の弥七郎殿(直次)、この頃20歳ばかりに見えたが、
残る所なく大いに働かれた。
天野源右衛門(安田国継・本能寺で明智方として森乱丸を討つ)は太閤様の御舎弟美濃殿(秀長)の
家来であったのだが、浪人し西国へと下ってきていた。美濃守殿の所に居た頃は安田作兵衛と
名乗っていた。この頃は立花殿に客分として在り、この戦いでも白に鶴の絵の指物を差し残る所なく
働いた。
佐々内蔵助の手勢では、私と遠藤助右衛門と申す者の二人が、この方面に出撃し戦っていた所、
立花殿の家臣で十時(連貞)と申す者と、先の天野源右衛門が合流し、弓をとって互いに言葉を合わせ働いた。
ところで私はこの時の立花殿の家臣の名を失念していたのだが、先年、肥後加藤家改易(寛永9年(1632))
による肥後の城の請取に参った時、立花三左衛門(鎮久)に逢い、原の町の茶屋で
「昔、肥後の山家の付城に兵糧を入れた時、そなたの朋輩で私が知っている居るはずなのだが、
久しいことでも在り名前を失念してしまった。何と申す人であろうか?」
「それは十時と申す者です。」
そう教えてくれた。その後、十時の倅である山弥が私のところにやってきて、肥後でお逢いした。
「あなたの親父殿は今も御息災だろうか?」
「去年、おこりを患い、だんだん悪化して、今は歩くこともかないません」
そのようなことを語ってくれた。
天野源右衛門は上方に在り、今も友人である。
(水野日向守覺書)
水野勝成、肥後国人一揆における兵糧入れについての証言である。
0663人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:9wcel/X/0665人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:+RrdzeUR藤堂高虎は加藤嘉明とは犬と猿だったそうだが、
加藤清正については憎からず思っていたようである。
藤堂和泉守高虎は忠厚にして、また故舊に厚し。
肥後の領主加藤忠広が国替えとなった時、
その父加藤清正の位牌は、京都の本國寺にあった。
だが、もはやそれを祭る者もいなくなってしまった。
これを憂えた高虎は、
「あれほどの茶人であったのに・・・」とでも思ったのであろう、
宇治に茶園を置き、清正の供養にあてた。
そこは歳月を経てもなお、絶えることなく茂れたという。
「茶道美談」
0666人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:mNzfjgk3さすがに三歳様は作法に詳しいことになってたけど
0667人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:0q3JhaWw0668人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:xYgqJVLO0669人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:I3PfL6gs0670人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:Z6dCIJ8o祐兵様が入国に及び、日向没落時の奈須右近将監祐貞(日向星原城主)の
忠節の功を謝する為かつ三位入道殿が預け置かれた御旗御系図等を返して
もらう為にと、曽我雅楽助を使者として送られた。
右近将監は「曽我は我が親類であれば他人の疑いも遁れ難い。大切な御旗
系図であるから伊東の御一族か、さもなくば一軍の大将たる人を寄越して
頂きたい」と申され曽我をすげなく返された。
これによって山田土佐入道匡徳が豊後大友殿へ先年の謝礼の為に使者と
して送られていたが、続いて神門村へと赴き御旗御系図等を受け取って
帰るようにと仰せ付けられ、かの所へと到着した。
右近将監は畏まって預け置かれた御旗御系図ならびに文書目録を調えて
一紙に抑留仕らぬ旨の起請文を添えて渡し、匡徳にも馳走して藤島の脇差
を与えられたと言い伝えられている。
(日向記)
山田土佐入道は、以前の逸話にも登場した島津義久に妻子を送り返して
貰った人で匡徳(匡得または京得とも言う)は入道後の号です。
0671人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:ljsgihvP0673人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:Z6dCIJ8oその人です。
三位入道たちが豊後を去った後、佐伯氏に仕えて島津と戦い続け
九州征伐後に伊東家へと帰参した訳です。
0674人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:XFzDdm9d附徒歩の衆に盗みをしたものが在り、頼宣はこれを庭前に引き出させると、自ら業物を
抜き放ち、袈裟懸けに斬って捨てた。
そして徒歩頭の水野甚三郎を諸士並み居る中に呼び出し
「甚三郎!自分の組下にこのような悪人が居ることも知らぬ愚か者め!
汝もこのように罪人を斬って見せよ!」
と、怒鳴りつけた。
甚三郎は主人と言えども、諸人の面前でこのように辱められたことに強く憤り、頼信が
奥殿に下がった後、感情が爆発した
「親の心すら子知らず、という!ましてや組子の心の中など知る事ができるだろうか!?
なんと無理なことを仰せ付けられるのだろう。
侍に対しこのような辱めを受けた以上、御奉公も今日これまでである!面白からず!」
そう叫びながら脇差で髻を掴んで切り払い、家にも帰らず和歌山城下を立ち去った。
翌朝、頼信はこの甚三郎の小舅である、水野淡路守重良を召し出し
「淡路!其方の親類であるが、徒歩頭の水野甚三郎はよくよくのたわけ者である!
私の耳に入るまで、組下の者が城下にて盗みをいたすを心得ず、私がその者を手討ちにして
恥ずかしむれば、主に暇をとって立ち退く有様である。
淡路、汝の親類であるぞ!いかに心得るのか!?」
そう言って淡路守を叱責したが、淡路守重良も甚三郎の小舅であるので申し開きをすることも
憚られ、ただ頭を伏して当惑するのみであった。
その時、傍にあったのは徳川家康によって頼宣に付けられた安藤帯刀直次であったが、
彼は頼宣が淡路守を責めるのを聞くと、こう、声を上げた
「淡路守殿!甚三郎を呼び戻されよ!」
淡路守は御前であるのでとかくの返事も出来なかったが、帯刀は再三同じ言葉を繰り返したため、
頼宣も気に触り、彼の方を見て言った
「帯刀は何と心得てそのように言うのか!?組下に悪人があるのを知らず、それを咎めれば
主に暇をとって立ち退くような奴を、戻す道理などあるものか!」
帯刀、頼宣に向かって
「親の心も子は知らず、まして組子の心など、頭が知れるわけがありません!
これは無理なご批判でござる!」
しかし頼宣は納得しない
「帯刀は知らないのか!?権現様(家康)の時代、徒歩の者が奥女中に文を遣わすという
罪を犯した。そしてその罪で徒歩頭の松平若狭守は改易になったのだ。そのような先例もあるのだぞ!」
これに帯刀は立ち上がり、頼宣を睨みつけ、大声で怒鳴りつけた
「権現様も、凡夫ではありませんか!決して仏でも神でもない!
親のしたことであっても、阿呆なる事まで子は学ぶべきでしょうか!?」
(権現様も凡夫にて御座候ぞ、佛にても神にてもなし。
親のしたる事にても、あほうなる事は子はまなぶ物にて候歟)
そう言い放つと御前を退出した。
(徳川武士銘々伝)
安藤帯刀直次の、強烈な換言についての逸話である。
0675人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:x78r2ohj0676人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:o9g1z5M40678人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:SnZQXFKP0679人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:a0sRqpWE0680人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:Ws5UmFIv0681人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:jAEdRPYB0682人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:CojEoLp90683人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:5Gws/2E1主従相互の信頼感が無いと絶対にできない
その点この二人は、なんのかんのでちゃんと信頼しあってるよね
ちょっと強烈すぎるけど
0685人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:cHx6w69f榊原康政の組下として上州館林に在った。
ある時、久しぶりに江戸に出府し家康に謁見しようと登城したのであるが、江戸に来てみれば
昔とは何事も異なり、如何にも将軍職の居城に相応しい、広大なものとなっていた。
久三郎はあまりの広さに打ち驚き、玄関のあたりをただウロウロして、どうして良いのか解らぬ
有様であった。
ちょうどその時、昔の朋輩である旗本の某という者がそこを通りかかった。
久三郎が戸惑っているのを見つけ
「やあ、久三ではないか!一体いつ江戸に登られたのだ!?
いやはや、関ヶ原の御勝利の後は、御城も今見えるように、かように広大となったのだよ。
どこに行かれるのかな?私が案内いたそう。」
久三郎、ホッとして嬉しそうに
「これはこれは、某殿ではないか!一別以来だが、ご健勝だろうか!?
この久三郎も久しく大殿様(家康)にお目にかからず、御ゆかしく存じ上げ、
にわかに登城したのだよ。」
「そうであったか。御次の間はこちらである、私の跡をついて来られよ。」
そうして久三郎を案内し、小姓衆に頼んで、清水久三郎がご機嫌伺いに参ったことを伝えてもらうと、
家康も機嫌よく、「久三郎ならここへ呼び出せ」と言い、久三郎は家康のいる居間に通された。
家康はにこやかに
「久三郎、息災か?この頃は館林に居るようだが、田舎であれば色々と不自由もあるだろう?」
と懇ろに声をかけると、久三郎は
「いいえ、不自由なことは特にありません。ですが、濁り酒ばかりで、澄酒(清酒)の無いのには
閉口しております。」
家康笑って
「酒飲みが、田舎に住んで良い酒が飲めないのは一段不自由であるな。
好き酒を取らせよう。」
と、小姓を呼んで
「台所の役人にこう申せ、久三郎は酒好きゆえ、極上々の酒樽を遣わせ。」
やがて二人の小姓により酒樽が運ばれ、久三郎は三河以来の話をして、酒樽を賜いて席を退いた。
帰る時、家康は小姓二人に、玄関まで案内をして送らせた。
小姓二人が帰ってくると、家康は彼らに「何関わったことは在ったか?」と聞いた。
「別段、何も変わったことはありませんでした。ただ、御玄関まで見送った時に、私達両人に、
大儀なりと申され、銀銭2枚取り出し投げ呉れられましたが、いい気持ちはしませんでしたので
そのままに捨て置きました。」
と、少々憤って言う。家康はこれを聞くとまた笑い出し
「あの久三郎が銀銭などを持っているはずがないが…、ああ、思い出したよ。あれは姉川合戦の時のことだ。
久三郎が織田信長から武功の褒美として、銀銭を数多貰ったことが在った。
お前たちに投げた銀銭は、その時のものだろう。
久三郎はああいう武骨者だが、無双の勇士であるぞ。お前たちは彼の武勇にあやかるよう、
その銀銭を守袋に入れて、首に掛けよ。」
と語ったそうである。
ちなみに久三郎、玄関より酒樽を持って帰ろうと思ったが、重かったので、
スルスルと股ぐらから下帯を引き解き、それで樽をくくり肩に引き掛けて帰っていったという。
(徳川武士銘々伝)
0686人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:eMFvHqETどのくらいの家臣の顔覚えてるんだか
しかし最後下帯ってw
0687人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:a0sRqpWE0688人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b5vxQ4Qx思いをしたが、そんな中でも長坂釣閑・跡部勝資の両名は積極的に支持してくれたので、
勝頼は この二人を側近として重用した。
長篠合戦から七年後、織田・徳川の連合軍が武田領への侵攻を開始した。部下の寝返りや
領内の城が次々と陥落したなど良くない知らせばかり飛び込んできたため、戦況の不利を
認めざるをえない勝頼は守りの薄い本拠地の新府城を離れ、家臣の小山田信茂の居城である
岩殿城へ移って立てこもることにしたが、前途に不安を感じた将兵たちは移動途中で
次々と脱走していった。 (続く)
0689人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b5vxQ4Qx手勢の数を大幅に減らしながらようやく笹子峠に辿り着くと迎えに来ていた小山田信茂
の兵は心を変じて勝頼の軍勢に 鉄砲を撃ちかけてきた。このせいで勝頼の兵はさらに逃げ、
わずか43人に減ってしまった。 この時、逃げた者の中に勝頼が重用していた長坂釣閑・
跡部勝資も含まれていた。
「雑人どもが逃げ散るのは仕方ないが、長坂と跡部だけは許せぬ。追いかけて討ち取れ」
と勝頼は土屋惣蔵と安西平左衛門に命じ、2人は弓に矢をつがえて追いかけた。もう日が
暮れかかっていたが跡部は提灯を馬の鞍の前輪に結び付けていたのでよくわかった。
土屋惣蔵の放った矢が跡部勝資の背中に命中し、射落とすことが出来たが、長坂の方は
暗闇にまぎれて逃げてしまった。土屋たち2人は跡部の首を持ち帰って勝頼に報告した。
この報告は織田・徳川連合軍の侵攻以来、良くない知らせばかり耳にしていた勝頼に
とって唯一のちょっといい知らせであった。
0691人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:OpO7ySR5長坂は勝頼と天目山で最後まで奮戦したはずだし、跡部も逃亡してないようなのに
二人まとめて逃亡したことになってる
0692人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:FMG1rW/R0693人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b1n0iIqo最近丸島先生に、信頼性が比較的高いと評価されてた甲乱記では、最後まで付いてきてたし…、
と思って調べたらわかった。この話、多分武田三代軍記だね
最後の二行が手元にある武田三代軍記とちょっとニュアンスが違う気もするけど、解釈の違いかな
0695人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbjこちらに出で来る廣田図書とたぶん同一人物
水野勝成の家臣に広田儀太夫という者がいた。
小身で右筆をしていたが、道明寺の戦いで敵の勇士と戦い首を獲って勝成に見せた。
勝成が歓喜しているところに、儀太夫は何を思ったのか
「失礼だと思うのですが申し上げます。明日の戦いでは側近くに置いていただけないでしょうか」
と願い出た。勝成は儀太夫の心中を察して側近くに置いた。
さて、また当日に戦いがあり敵の隊の一つが水野軍の旗本に突撃してきた。
儀太夫は一番に敵と槍を合わせて討死した。
勝成自身が槍を振るうほどの状況になったが、やがて水野軍に加勢が来たため敵は退いていった。
勝成は儀太夫が勇ましく討死したのを不憫に思い死体を確認すると多数の槍傷で体中が真っ赤に染まっていた。
あまりに不憫に思った勝成が、笄(こうがい、刀の鞘に挿しておく、金属性のへらのようなもの)で儀太夫の口を開けて薬を飲ませると息を吹き返したため急いで医者を呼んで治療させた。
治療の甲斐あって儀太夫は助かり、有馬温泉での湯治で完治した後に大加増され家老となり広幡図書と名を改めたという。『勇士物語』
ちなみに水野家を代表する家老に広田図書という人物がいる。
若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
(戦国武将データファイル99より)
さらに余談として勝成は、家臣が病気になると、自ら薬を届けた逸話があるが
勝成は当時、平戸に来る中国人との貿易を行っている(小場家文書)ので漢方薬が入手できたと思われる
と『福山開祖・水野勝成』に書かれている
0697人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:8ibW5COi引用に関してのルールってのは結構複雑だけど、少なくともこういう引用は許諾もいらない
0698人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbj著作権などという難しいことはなにも考えずに書きこんだ
反省している
0701人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbj引用云々がそんなに面倒臭いとは思わなかったな
ちなみにあたなが心配している現代の雑誌から引用したのは、この一文だけ
若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
0702人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:lK0ElBHH> 引用は権利者に無断で行われるもので、法(日本では著作権法第32条)で認められた合法な行為であり、
> 権利者は引用を拒否することはできない[3]。権利者が拒否できるのは、著作権法の引用の要件を満たさない違法な無断転載等に限られる。
> 要件
> 文化庁によれば、適切な「引用」と認められるためには、以下の要件が必要とされる。
> 最高裁判所昭和55年3月28日判決[4]によれば、適切な引用とは「紹介、参照、論評その他の目的で著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録すること」とされる。
> ア 既に公表されている著作物であること
> イ 「公正な慣行」に合致すること
> ウ 報道,批評,研究などの引用の目的上「正当な範囲内」であること
> エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること
> オ カギ括弧などにより「引用部分」が明確になっていること
> カ 引用を行う「必然性」があること
> キ 「出所の明示」が必要(コピー以外はその慣行があるとき)
>
> ? 文化庁 (2010, §8. 著作物等の「例外的な無断利用」ができる場合 G ア、「引用」(第32条第1項))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E7%94%A8
引用は「正当な権利」であり、この場合「要件」にも合致しており、何ら問題はない。
引用の範囲を狭く取ろうとする考えのほうが学術的にも記念だよ
0704人間七七四年
2013/07/15(月) NY:AN:NY.ANID:wcFOw4zh秀吉は嘉明を養子の秀勝に近侍させた。時に十三歳。
天正四年、秀吉が播磨を征伐するや、嘉明は主の秀勝に暇を告げずに
おもむいて軍に従った。夫人(政所)は怒って秀吉に、
「孫六は無頼な者です。早くお帰しになってください」と書を送ったが、
秀吉はその盛んで勇ましい志に感心して嘉明を軍中に留めた。
――『加藤嘉明公(家譜)』
0705人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:PbZX7DTZ人が長く楽しませぬものと思われる。我が主君の御側に仕え、朝夕見奉って感じたことだ」
と言った。
また「今とても富める者がいたとして、他人に『十年のうちに家を潰し、朝夕の生業も
ままならなくなるだろう』と言い聞かされて怒らない者がいるはずはない。
しかし、贅沢を教えて淫酒を勧め、家を亡ぼさせて困窮に及ばせても人は怒らない。
これは愚かな例えではあるが、深く覚悟すべき事だ」と言った。
――『責而者草(太平将士美談)』
0706人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:w1rOqJDb高力与左衛門清長について、これは三河一向一揆の時のことである。
高力の家の領地、高力郷は、一向一揆の本拠地といっていい土呂郷の隣であり、
一揆の脅威の正面に在り、領内の騒擾甚だしく、家康からは濫妨の禁止を命ぜられたものの、
一揆方よりの狼藉を止めることは難しかった。
そこで高力は思案し、高力郷中の仏像経巻を全て一ヶ所に集め、安全な場所に保管した。
一向一揆が静まると、高力はそれらの仏像経巻を取り出して元の寺々に返した。
これに寺僧はもちろん、郷民たちも大いに喜んだ。
これより後、人々は高力清長の事を「仏高力」と呼ぶようになったという。
(徳川武士銘々伝)
「仏高力」の名の由来について、こういう話もあったんですね、という逸話。
0708人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:TtpWh5Rh移封される前に秀吉が直政を召して言った。
「汝が10万石(実際は12万石)の封を得たのは、
我が汝の多大な戦功や働きに感じ入り、徳川殿に勧めたからである。
我の厚意を知ったからには必ずその事を忘れぬように」
直政は拝謝して答えた。
「殿下の御厚意はこの身が終わるまで忘れません」
続いてまた秀吉が言った。
「ならばもし、豊臣と徳川の両家が信を失い、東西兵を構えることになったら、汝は誰の為に忠謀をなすのか?」
直政はこれに答えた。
「私の身命を賭して、死を以てして必ずや両家の御和睦を成してみせます」
秀吉は甚だ感賞して言った。
「汝は将才のみにあらず、治国の事にも長じておるな」
──直政は天下に両兵部と言われる一人である。
小早川隆景は賞して言った。
「直政は小身なれども、天下の政道相成るべき器量あり」と。
(名将言行録)
0709人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:4csEEpJg0710人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Zt8IRpVx0712人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:aMEsZfWB0713人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:U0thrqxv氏政たち兄弟の為に結構動き回っていたね
氏規の自害を身を呈して止めたりとか
0714人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Er1CMP1q備中国吉備津大明神に願をかけ、三七日(21日)参籠が満るその夜、夢のなかに
『東国に行き給え、御剣を遣わすであろう。』
と顕れたため有難く思い、東国に向かうとその途中、華表の傍にて旅人に行き会った。
彼が申すには
「私は路銀が無くなってしまい、大変難儀しています。この刀を差し上げますので、
代金を頂けないでしょうか?」
新九郎は『夢に出た御剣とはこの事である。』と悟り、刀を買い取り三度押し頂いた。
それから武者修行を思い立ち、近郷にて名家の子息、内藤、笠原、二階堂、大道寺、
松田、井上、平井といった勇士30人が新九郎に同道して、諸国に武者修行に出た。
そして数度の戦功があった後、駿河太守の妻は新九郎の叔母であったため、駿河に下り
扶持を請け、新九郎は大気者であるとの評価を得て、興国寺城番大将となった。
延徳年中に堀越城主足利茶々丸を攻め取り城主となる。
その後相模国小田原城を乗っ取り、姓名を改め北条早雲瑞公となり、関八州の太守と成られた。
(中國兵亂記)
伊勢新九郎盛時の故郷である備中のあたりに伝わったと思われる、北条早雲についての伝承である。
0715人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:InJKhd0c【水野勝成の逸話まとめ】
●16歳のとき、高天神城攻めで15の首級をあげ、主君だった信長から戦巧者として永楽銭の旗印をもらう。
●19歳のとき、甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。
●21歳のとき、父親の家来を殺してしまい、勘当される。
●その後、「奉公構」(他家仕官禁止→再就職できない)を言い渡されたので、偽名を使って、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正など、
名だたる武将のもとへ仕官。どこでも大活躍するが、次第に戦い自体に虚しさを感じて失踪する。
※この時代の逸話も多く、虚無僧になったり、姫谷焼の器職人になったりしたほか、大坂で泥棒をやっていたという説まである。
●36歳で父親が味方に暗殺され、16年ぶりに実家に帰って家督を継ぐ。
●関ヶ原の戦いで徳川家康に呼ばれて参戦。敵将の福原長堯から名刀「名物日向正宗」(現在の国宝)を奪い取るなど、数多くの武功をあげる。
●関ヶ原の戦いの活躍が評価され、大坂の陣では軍監(軍の最高責任者)に任命される。
●宮本武蔵と親交があり、息子・勝俊のボディーガードをさせる。
●大坂夏の陣では、軍の責任者なのに自ら先陣に立って戦い、大坂城に一番乗りを果たす。ちなみに、勝成はこのとき51歳だった。
>●19歳のとき、甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。
って、黒駒合戦はともかくそんな逸話あったっけ
0716人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Zt8IRpVx0717人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Zt8IRpVx0718人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:7us94E0hこれだけは無いと断言できる
0719人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:yUwHaGZZ0720人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:p1hg5PWF上記リンクの逸話に登場する相浦源左衛門のお話
あるとき、源左衛門に仕える者が家老衆に呼び出された。
その者が家老衆のもとへ行くと、源左衛門への手紙を渡された。
その者が手紙を届けると源左衛門はその場で一読し、
「家老衆がおまえに不届きな行いがあるから、
わたしに討ち果たすようにと言ってきた。
おまえも侍であるから剣術を常日頃心掛けていただろう。
これまで限りの命、東の土手でわたし相手に思う存分働くがよい」
と、その男に言った。男も、
「わかりました」
とだけ、答えた。
そうして源左衛門はその男を引き連れ堀端沿いに歩いていくと、
「源左衛門殿っ!!」
と、堀の向こう側にいた源左衛門の知り合いが叫んだ。
その声に反応して源左衛門が振り返ると、
引き連れた男が刀を抜き後ろから斬りかかろうとしていた。
気づいた源左衛門は後ろに飛ぶと同時の抜き討ちに男を斬り殺した。
源左衛門はこのとき着ていた着物を封印し、一生人に見せなかった。
死後、取り出してみると襟が切り裂かれていたという【葉隠】
0721人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:p1hg5PWF葉隠には斬り合いの様子にもう一説あるとあり、
その一説では、
源左衛門の家の門のを出る前にその男が後ろから斬りかかり、
気配を察知した源左衛門が振り返るも足を滑らす。
しかし仰向けに倒れながらも刀を抜いて、
そのまま寝た状態で横に刀で払って、
その男の両手を斬り落として、
立ち上がりしとめたとも言われている
とのことです
0723人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:soQ/799xこの源左衛門は討ち果たされるようなことを無意識にたくさんやってそうw
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