戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0552人間七七四年
2013/06/22(土) 15:40:31.17ID:OJbOQ8FG0553人間七七四年
2013/06/22(土) 15:42:24.87ID:PeCNcZNv0554人間七七四年
2013/06/22(土) 17:12:59.21ID:5fqohn1H0555人間七七四年
2013/06/22(土) 22:46:24.28ID:3sHCymhu0556人間七七四年
2013/06/22(土) 22:53:08.22ID:UCq9J5lC井伊掃部頭が参り「物の具がよく御似合いです。天晴れ、よき御大将かな。
若君を御大将に私が御先手を仕って、一戦仕りたい」との挨拶をすると、
一座もめでたいと同音に申し上げた。
すると重良が進み出て「貴殿は公方様の御先手だ。この若君の先手は淡路守である。
いやしくも我等がおりますというのに、どうしてこの君の先手を他へ致させることだろう。
思いも寄らないことだ」と掃部頭を咎めたので、一座は重良に感じ入った。
これは板坂卜斎の咄である。
重良は新宮の城主であり、殊に大坂で功名があった。
――『責而者草(古実話)』
0557人間七七四年
2013/06/22(土) 22:54:18.22ID:/wrYC/HChttp://kindai.ndl.go.jp/
0558人間七七四年
2013/06/23(日) 13:41:08.34ID:vUlDoYAD天流の兵法を鍛錬し武士の道を嗜んだ剛の者であった。
朝鮮において他家と合同で虎狩りをしたとき、平右衛門尉は虎一頭を
鉄砲で仕留めた。
他家のものも同時に鉄砲を撃ったので、誰が仕留めたのか争論となり
諸士が集まって詮議に及ぶこととなった。
仕留めた証拠について問われた平右衛門尉は「私の撃った鉄砲の玉は
銀の玉です、もし肉の中に残っておれば疑いないでしょう」と述べた。
虎の傷口を調べてみたが幸い玉は残っており、取り出して磨いてみた
ところ銀玉に伊平の二字が彫り込まれており、これにより平右衛門尉
が仕留めた事と定まった。
諸家の侍が集まれば争論もあるだろうと、あらかじめ備えておいた
用意の良さを諸家の人々も感心したと言う
(日向記)
伊東平右衛門尉の準備のいい話
0559人間七七四年
2013/06/23(日) 14:37:30.84ID:KtueGrNH0560人間七七四年
2013/06/23(日) 15:14:13.29ID:yIWcRtRd0561人間七七四年
2013/06/23(日) 15:35:00.83ID:3ZhAMKml0562人間七七四年
2013/06/23(日) 17:52:38.06ID:rvCObUkJ0563人間七七四年
2013/06/23(日) 23:50:15.79ID:WiCgUgLU君(徳川家康)におかれても難なく浜松へ御帰城された。
(家康は)御途中より、成瀬吉右衛門正一をもって忠勝のもとへお言いつけになり、
「今日の働きは日頃の平八にあらず。まさしく八幡大菩薩の出現あって味方を加護して下さった」
と思し召すよし御感賞されたという。
甲州人が「からのかしらに本多平八」という狂句を書いて、見付の台へ立てたのも
この時の事である。(柏崎物語)
按ずるに伊賀路御危難の時にも、忠勝の事を「八幡菩薩が出現した」と賞された事があり、
さる武功の者ゆえ、たびたび同じ御賞詞をお与えになったのであろう。
――『徳川実紀』
0564人間七七四年
2013/06/24(月) 14:03:45.39ID:JaAm+k2p0565人間七七四年
2013/06/24(月) 15:26:28.37ID:H/FJh2D6とか騒がないだけ平八さんはおとなしいねえ
0566人間七七四年
2013/06/24(月) 17:06:52.13ID:v9MORdrm題名「サシャと芋」
http://blog-imgs-59.fc2.com/s/e/i/seiyuusokuhou/maru1371921996314.jpg
0567人間七七四年
2013/06/24(月) 17:07:29.38ID:v9MORdrm0568人間七七四年
2013/06/24(月) 17:36:29.51ID:416U9Ul50569人間七七四年
2013/06/24(月) 19:10:33.61ID:wga2Waet0570奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2013/06/24(月) 21:50:19.45ID:t/c98q+A0571人間七七四年
2013/06/27(木) 17:53:27.39ID:RYTYZfjh長政は後年、彼を家老に上らせようと思い、将軍家の御前にも家老並みに御目見を致されたのだが、
正利がかつて戦場で受けた頬の傷が次第に腐り、面相も酷く変わったため、そのことは止められた。
ではあったが、国元では家老並みに、国中家中の諸事を預かり、また長政より給わる書状にも
家老と同じく連署したという。
(菅氏世譜)
顔の傷のせいで、おそらく対外折衝をしなければならない家老には出来なかったのだろうが、
それでも実力に見合った仕事を任せ家老並みの待遇を与える、というお話。
0572人間七七四年
2013/06/27(木) 18:37:08.01ID:vAdoyJMQ傷を受けた経緯なんかはまとめにあるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3110.html
0573人間七七四年
2013/06/27(木) 19:08:56.49ID:TnTv/Zf90574人間七七四年
2013/06/27(木) 22:36:22.51ID:+cLt+UhQついでに、>>572に書かれている通り、傷だらけの顔のおかげで子供が泣き止んだことから
中国ページでは「日本の張遼」と呼ばれていた
0575人間七七四年
2013/06/27(木) 23:57:14.04ID:v/iNQOjd愚かな子を他人に披露するのは親子の情にあらず。
自分の分身の子なのだから、何度も教訓すべし。
再三教導しても聞き入れない放埒無頼の者ならば見切って勘当すべし。
――『山本道鬼入道百目録聞書』
0576人間七七四年
2013/06/29(土) 05:39:34.12ID:wf7fLGbS天正17年6月、摺上原の戦いが起こる。
両軍が激突して死屍累々の中、伊達家臣のある勇士が言った。
「あらららら、だーめだこら。こんで敵も味方もわがんねな。」
戦の趨勢はもはや決しつつあったが、逃げる敗残兵と追い剥ぎを企む兵と死体と血泥とで戦場がごった返し、敵味方入り乱れる地獄絵図となっていたのである。
「おら襲われだら面頬斬って落どすがんな。いちいち問答しでらんねーべし。悪く思うなよは。」
この言葉を聞いて回りの者たちは小馬鹿にして笑った。
「まだの、おだって。いっそ見栄ばり張ってんもんな。」
戦が終わったのち、人々の顔をよく見ると、頬に傷を負った者が散見された。
前の大言の主、中村八右衛門の仕業である。
(仙台志料)
0577人間七七四年
2013/06/29(土) 14:13:43.66ID:wXEh7esj有馬晴信も兵を出してこれを迎撃したが、龍造寺勢に破られた。
隆信は余勢を駆って千々石氏を攻めたが、これに有馬の援軍も加わり先手はおろか旗本まで崩されることとなった。
これはその時の話である。
隆信の陣には空圓という僧が陣中を見舞っていた。
この空圓は近年肥前に寄って与賀の蜜蔵寺に宿を取っていた際に、村中城へ招かれて法談をしたところ、
隆信夫妻が深く帰依して、蜜蔵寺を修造して光照寺と改め、住職に置かれたものであった。
さて、空圓は、龍造寺の軍が崩壊する様を目撃すると、長袖を結んで肩にかけ長刀を取ると、
「我は龍造寺興賀・光照寺が寺僧・空圓。実は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ!」と叫んで敵に斬りかかり、
四方八方へと敵を討ち払い、奮戦して遂には果てた。
この空圓は、これまで生国も俗姓も話すことはなかったが、ここに至って初めて名乗りを上げたのであった。
0578人間七七四年
2013/06/29(土) 14:56:08.81ID:MqAbeISa0579人間七七四年
2013/06/29(土) 18:31:29.62ID:QxqiNmx1縄も張られていなかった。
勝重はこれを見て、その場所の町役人と材木を置いた屋主をともに厳しく咎めた。
勝重は「暗夜にはどんな怪我人があるかもわからない。盲人が通らないとも限らないのだ。
僅かな事が、どれだけの人の難儀の基になることだろう。
都の地は特に国々の寄り合いなのだから、総じてこのような筋目を正して町役を勤めるように」
と言ったということである。
――『責而者草』
0581人間七七四年
2013/06/29(土) 20:26:36.96ID:fW3y00Y7徳川幕府は何故か障害者、特に視覚障害者に対して非常に篤く保護していた(盲目の人間から借りた金を返さなかった場合は重罪になったり)
秀忠の実母が駿府で盲目の女性を保護したりしてたから、そう言う影響があるのかも
「ごぜんのう」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4398.html
0582人間七七四年
2013/06/29(土) 20:47:26.30ID:CdywC1KT0584人間七七四年
2013/06/29(土) 23:50:07.28ID:a/5/lKhC歳上を先輩と呼ぶならその通りだけど
0585人間七七四年
2013/06/30(日) 09:12:55.75ID:svqe9QSc0587人間七七四年
2013/06/30(日) 21:05:50.15ID:HPu0gylf信長の場合は、たまたま目にした障害者を個人的に哀れんだだけで、仕組みや制度のある恒久的な施策として
行ったわけではないから、それを慈悲と呼ぶのは正直抵抗がある。
0590人間七七四年
2013/07/01(月) NY:AN:NY.ANID:8f1b5CkQ現代でもそうじゃん
0591人間七七四年
2013/07/01(月) NY:AN:NY.ANID:4xg1CQW2大阪冬の陣にも出陣した。
「講和が成立したため、私は大阪城内に参り、古主である長宗我部盛親公に御目見得いたしました。
盛親公は私への御意に
「この度其の方はどこの攻め口に居たのか?」
とお尋ねに成りました。私が「井伊掃部頭(直孝)の手に居りました」と申し上げると、
「去る4日の朝、土居を攻め立てた人数の中に居たのか?」
とお聞きになられたので、「御意の通りです。4日の朝の掃部頭備のうち、
討ち死にした者の死骸を、ただ今回収しているところです。」とお答えすると
「掃部頭の手勢のうち、あの朝どれほど討ち死にしたのか?」
「17人、討ち死にいたしました。」
「そこは、私の持ち口であった。私への報告も、其方の申す通りである。」
そうして御側衆に仰せ付けになられ、討ち死にした17人の旗指物をお取り寄せに成り、
私に見せて頂きました。井伊家の同僚として近しい者達の指物であったので、それを見ると
涙を流してしまいました。
この時、盛親公は
「この平右衛門の祖父である飛騨と、父の隼人は、その時代非常に活躍し、討ち死にをした
者たちだ。」
と、その傍にいた中内惣右衛門と言う御仁にお話されました。誠に、忝い次第でありました。
それから盃を頂戴つかまつりました。その座には、近藤喜左衛門、川村半助、十池新右衛門
という方々が居ました。
このうち十池新右衛門は、この後紀州大納言様御家に仕えたと聞き及んでおります。」
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)
大阪冬の陣の和議の後の、長宗我部盛親と旧家臣との会合の模様である。
0592人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:TC+OmiSz百二十歳を超えていて昔のことも知っているので、多くの人々が昔話や長寿の術を学んでいた。
義光も興味をもって招き、乱世の興亡についてでも聞いてみようとした。
そうして数時間も話してみたが、どうにも無駄なことしか覚えていない。
そして長寿のこつといえば、暑さ寒さや湿気を避けて、ただ一人超然としてストレスをためず、嫌だと思うことはしないということだとか。
義光はこれを聞いて、
「あなたはそれでよかろうが、我々のような(領民をおさめる)立場では役に立たないことですな。
家臣もあなたの長寿の術を学んだらば、仕事をやめて私にまじめに仕えなくなるでしょう」
と述べ、居士を送り返した。
義光曰く「人の知恵は金銀のようなもの、はかりしれない財産をたくわえるようなものだ。
そうはいっても、仕事をしたり俗世の銭勘定も必要だ。このことを考えねばならない」とのこと。
(『太平将士美談』)
0593人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JMUgaiQq前に出た逸話で似たようなのあったな
ある武士が天下取りまでの策略考えたけど、
天下人の気苦労考えたら嫌になって、
出家して悟りひらくのを選んだ話
今回の最上さんとは逆方向に行ってるが
0594人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:s8KgypPU0595人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:LWjMtGce天海「ガタッ」
真田信之「くっ・・・!私もストレスさえなければ!」
0596人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:SG0HMbHj考えたら信之と重家って母方の従兄弟だった。二人とも短命なわけだ
0597人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:rTXVgEIo私(水野勝成)は船場の道から城に乗り込もうと考え、その道筋を進んだ所、
船場方面から明石掃部の軍勢が押し上がってきた。そこは去年の大阪冬の陣で、
東堂和泉守(高虎)が仕寄せした場所であった。
敵はその道を押し上げ、鉄砲を一度に撃ち放つとそのまま騎馬の者達が突進した。
この攻撃に味方は追い立てられ崩れ、我々の手前まで逃げて逃げ駆けて来る。
私はその時馬から降りて立ち、
「卑怯者共!一体どこへ逃げる気か!?お前たちの顔は皆見知っているぞ!返せ!!」
と怒鳴ったが、聞くこともなく皆崩れ懸った。
この時私の家来である廣田図書、尾関左次右衛門と申す者達が鑓を手に敵へ向かっていった。
特に廣田図書は私のいた所から14,5町(およそ1.5〜6キロメートル)先まで進み、敵と
鑓を合わせてこれを突き倒し、首を獲ったのを目撃した。
それから私も急ぎ進んで、廣田図書の首を取ろうとした者を突き倒し、図書を討たせる事を
阻止した。そして突き倒した者の首を
「これこそ鑓下の首(相手を倒し喉に垂直に鑓を突き立てたもの)である。この首をとれ!」
と言って、岸文左衛門と言う者に首を取らせた。
そして他のもの2名が私に向かってきたが、私は彼らを突きまくった。
するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を
突いてきた。私はその場でこの敵を突き倒し、傍に居た成瀬久太夫と言う者が走り出て
「この首を私が討ちます!」
と申したので、その首は久太夫に取らせた。
その後、敵は引いていったので、桜門に私の幟を一本、一番に立てた。
この時、幟奉行の神谷久右衛門と言う者を召し連れて出陣していたのだ。
二番に越前の一伯様(松平忠直)の幟が一本立った。
この二本より他に、桜門に立った幟はなかった。
(水野日向守覺書)
大阪夏の陣で、大阪城に乗り込む時の模様である。
0598人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:aeQlAzKj0599人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:wnAbh2d7するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を突いてきた。
派手な格好した奴が出てきたなぁ
金色の梨子打烏帽子型の兜に鳥尾の引廻し…
そりゃ格好まで強烈に印象に残るわな
実際、こうして勝成が思い出して語ってるわけだし
やられた奴も本望かと
0600人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:xFdArd2N0601人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:tR9aGuPfその社には既に一人の尼が参籠をしていたので、清久は尼に素性を尋ねたところ、
「一生行脚をしている者で、生まれた土地も父母も存じません」という返事であった。
清久は尼の身を哀れんで屋敷に連れ帰り、元日の祝膳を出してやり、五日間屋敷に置いておいたところ、
よく気が付いてこまめに立ち働くので、約束して夫婦になった。
この妻が産んだ子が、直茂の父である鍋島清房だということである、妻の名は松月妙栄(妙英とも)と言った。
清房が三歳になると、妙英は清久に暇乞いをし屋敷を出ていった。
清久は止めようと後を追ったがどうしても追いつけず、ついには筑後川を越え高良山の方へ向かい、やがて行方が分からなくなったという事である。
葉隠から、ちょっと不思議な話。
おとぎ話みたいだな。
0602人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:dTwRYJ140603人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:fycOV6BR0604人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:TmhV5QdQ左慈を追いかけた許褚思い出したw
0605人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:iNC3M3XN行脚の尼ということにしたのかなと思った
0606人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:HEsRDELb「三国志」「後漢書」「捜神記」「神仙伝」といった書物には左慈と許チョの話はでてこないはず
「神仙伝」には孫策が馬で左慈を追うが、どうしても追いつけなかった、て話があるから
そちらのほうが例としては適当かと
0608人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:q3xkEGJ6城主の大宮大之丞に左の股を射られながらも追手の門を打ち破って攻め入りなさった。
そのため信長公はとても感心なさって「昔の朝比奈義秀にも劣らない」と
のたまったので藤吉郎はたいへん喜び、『義秀』を顛倒して『秀吉』と改められた。
ただし『義』の字は公方の諱を憚って『吉』の字に変えなさったと云々。
(江源武鑑に、佐々木義秀の諱を授かり、秀吉と名乗り給ふとあり、
かの書は、偽作なれば採るに足らず)
――『新東鑑』
0609人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:XtivCs9Vしかし親父の諱は考慮しなかった、てことか
0610人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:9G8lPEZd0612人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:pyXRG0Tz「瑞龍公世家」や「加賀藩史料」などによると加賀の太守・前田利長は、
弟の利常に跡を譲ってから自身は越中の開発をめざした。
関野と呼ばれた沼地を高山右近に拓かせ、詩経から引用して高岡と命名。
「前田家長久のために、何とかして財政の基盤となるものを…」
この頃病魔に侵されて臥せりがちだった利長は死を意識しつつ、高岡の整備を進める。
そして領内の優秀な鋳物師たちを集め、五千坪近い土地と諸役免除といった特権を与えて優遇した。
それは高岡を工業都市として発展させようとする利長の決意の表れでもあった。
利長の死後、一時高岡は衰退したものの利常たちの庇護で盛り返し、金物加工をメインに越中経済の中心になった。
そして今でも富山県は銅工業やアルミ加工などにおいて日本一のシェアを誇る工業県の地位を守り続けている。
0613人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:STkZBiM/0614人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:2oT87jeU0616人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:6IvEpCWo成人して丹下と称す。
父重次が訳あって上総国小原の荘に籠居した時、成重も出仕を止められた。
関ヶ原御陣の時には御後に陣を構え、慶長18年に越前国の丸岡の城を賜って
忠直朝臣に属せられる。
5月7日に、一番に合戦を始め、真田の陣を打ち破り、自ら敵2騎を切って落とし、
大勢の敵を追い崩し、首273を討ち取り、大手の城門を破って左の脇より
城に乗り込み、あちこちに火をかけて首28を切った。
手勢の者たちは討たれた者5人、傷を被る者7人であった。
元和9年、忠直朝臣が配流の後に再び将軍家に召され、慶安4卯年12月に卒す。
時に62歳なりと云々。
――『新東鑑』
実際の没年は正保4年で76歳。
0617人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:UoH+26jL0618人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ITK1TnaRむしろ、譜代の重臣の没年も知らなかった新東鑑作者の悪い話?
0619人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:O3JwR3TQ0620人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:VdEudswC祐兵様は都から一里ほどの松山(セウセン)と言う城に文禄二年二月より
在陣していたが、このとき馬の飼料が尽きて難儀に及んだ。
これにより祐兵様は假屋原甚右衛門尉満次を呼んで「昨日、島津又次郎
家中の者が大豆を求めに出たが、唐人多人数が現れて半弓で射たて、是
を追ってきたので、手負い数人を出してむなしく陣屋へと戻ったと聞く。
汝は才覚をもって筏を組みモクソ川を渡って大豆を求めてくるように。
警護の為に鉄砲足軽十五人を差し添えよう」と仰せられた。
假屋原は難儀な事だとは思ったが断わりようもなく、陣屋を出てモクソ
川を渡って大豆二十五石を得て、その上テルマカクセイの郷民等十八人
を捕えて戻ってきた。
(日向記)
朝鮮陣のところでやたらと假屋原甚右衛門の記事があったので、三部作
として書き込みます。
ところで島津又次郎って誰なんでしょう。
0621人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:VdEudswC祐兵様が朝鮮国楚天(泗川)に在陣していたとき、兵糧が既に尽きよう
としていた。そこで假屋原甚右衛門を呼んで汝が才覚するようにと
仰せられた。
甚右衛門は警護の足軽十人を召し連れ田里へ出て人跡山林を見回って
みたころ、洞穴を隠したような怪しい所があるのを見つけて掘りかえ
してみたところ、穴蔵が三つ見つかった。
甚右衛門は大いに喜んで、大小豆大小麦を掘り出して馬を探しだし百駄
をつけて帰ってきたと言う。
(日向記)
「前回と同じパターンかよっ」と言いたくなる出だしですが、それだけ
朝鮮陣では兵糧馬糧の手配に困ってたんでしょうね。
隠し倉庫を見つけられた住人にとってはとんだ災難でしょうか。
0622人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:VdEudswC祐兵様が清館に在陣していたとき、士卒を船に乗せ蔚山へと鴨狩に
遣わされたが、この時、伊東平右衛門と家僕一人、曽我弥三郎が同道
して三人で奥深く遊猟していた。
假屋原甚右衛門はこの三人と途中で行き会い、甚右衛門は平右衛門に
対して「少人数で奥深く入られると伏兵にあって難儀するでしょう。
早く引き返して下さい」と申しあげた。
平右衛門は血気盛んな若武者であったから「何ほどの事があろうか、
其の方も来られよ」とさらに奥へと向かった。
甚右衛門はこれを見捨てがたくともに遊猟していたところ、案の如く
韓人三十人余りが現れ半弓をもって射たててきた。
多人数に対抗するすべもなく引き上げようとしたが、弥三郎は皆とは
離れていたので早々に討たれてしまった。
平右衛門と家僕、假屋原の三人は離れずに引き退いたが、厳しく追い
迫ってきたので、道の端にあった少し切り立った場所を後ろ盾として
襲い来る韓人を切り払う事、三・四度に及んだ。
これで討ち取り難いと思ったのか怯む色が見えた所で、三人一緒に
切って出て追い払った。
この時、平右衛門は二ヶ所、家僕は三ヶ所、假屋原は六ヶ所を負傷
した。平右衛門主従は深手であり歩行も叶い難く見えたので、韓人が
うち捨てた半弓を手輿としてこれに乗せ、舟へと戻って帰陣した。
祐兵様はこれを聞き「假屋原の働きにより平右衛門の命が助かった」
と肥田木伝右衛門を使者として備前祐定の御刀を褒美に与えられた。
(日向記)
ようやく兵糧探し以外の話です。大名でも中川秀政が狩猟中に討たれ
たりしてるから、敵中の狩猟は危険だったのでしょうね。
なお伊東平右衛門は以前の逸話にも登場した虎ハンターです。
0623人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:WbhhgLau0624人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:VdEudswCそうなんですよ。他は幕末の人だったりしますしね。
次郎以外の又○郎だとすれば多数の候補が出てくるし
次郎が正しいとすれば藤次郎あたりもありそうですし・・・
0625人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ARBe2bS+山本瀬兵衛は御用によって、小松から金沢に召されたのだが、いつもどんな用であっても、
召された時には軽いものを利常公に献上していたのに、この時はうっかり忘れて来てしまい、
台所奉行の佐藤久右衛門の所に行き
「何でもいいので、手頃なものが有れば貸して頂けないだろうか?後で同じ物をそろえて返すので。」
と聞くと、「今朝方どこかからサザエが一折来ていたが」とのことなので、それを借りた。
ところが、その時期はちょうど夏であったため、サザエのうち1つか2つ、臭うものが有り、
「主に腐ったものを贈るなどあるものか!」
と、受け取った利常な以ての外に機嫌が悪くなり、そのため右筆の中村久越殿が山本の所に
やって来て、彼を散々に叱りつけ、この事を聞かせると、山本はしかし
「これは近頃迷惑なことです。私は急に召し出されたため、献上品を忘れてきてしまい、
台所に行って佐藤久右衛門殿に『何かあったら貸してほしい。後で揃えてお返しする。』と言って、
サザエを借りたのですが、その時私は焦っていて、それをろくに確認しませんでした。
そのため、少し悪いものがあったのでしょう。」
と言い、この事が中村久越から申し上げられると利常は
「それが申し訳になるものか!それは田舎たわけの披露というものだ!
佐藤久右衛門は田舎ぶりの抜けない人間で、それ故に信頼していたのに、久右衛門は
親や子供には知らないが、人に物の用に立つものを貸さないような者であったのか!
そのような人物を重宝して台所奉行に置いていればそれは、前田家全体が田舎一門と
見られてしまう。それはたわけの至極である!早々に調査をせよ!」
との御意であったので、次の日山本瀬兵衛が、再びサザエを佐藤久右衛門から取り寄せさせた所、
今度は初めのものより大きく新鮮で、見事なものをくれ、しかも目録に印まで押して遣わされた。
これを見た前田利常は
「久右衛門は山本瀬兵衛の事をちゃんと心に懸けておるわ」
とお笑いに成り、中村久越は山本に「昨日はお叱りになったのに、今日のサザエは見事だと、
お褒めになっていたよ」と伝えて笑われた。
この事は私(著者)の亡父である、山本瀬兵衛が話したことである。
(微妙公夜話)
0627人間七七四年
2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:5K76/cB6昭和時代の盆暮れの挨拶よりも面倒くせえよよよよよ
0628人間七七四年
2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:5PR2IANoあれも加賀藩だったけど
0629人間七七四年
2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:ZcdGcfU1義直に対しても忠勤を尽くして仕えた。
正成が日頃望んでいたのは「恐れ多いことだが、死後には尊神(家康)の
御かたわらに侍りたいと思う」ということだった。
程なく正成が身罷ると、義直はその志を思って遺言に違えず亡骸を日光山に送った。
その死の三日前の事。天海は「今朝神祠に参ったところ、正成がここに来て
神君の御前に侍っているのを見た。正成は近いうちにきっと身罷ると思う。
まもなくやって来ることだろう。本当に哀れなことだ」と言って涙を落とした。
――『東叡山開山慈眼大師縁起』
0630人間七七四年
2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:4dLEp5fA映画ては演出かもしれないけど
膨大な借金か抱えて家財道具売り払っても残り十年返済で事を納めたんだよな
0631人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:GuwzKjERあれこれ考えましたが、色々お望みされても、樂茶碗を皆様には準備できません。
私の手元の「大黒(おおぐろ)」は紹安(利休実子の道安)へ譲りたいと思っています。
「早舟」は松賀嶋殿(蒲生氏郷)にお届けしたく思います。
茶碗を早く欲しがっている越中様(細川三斎)もその事はご了解頂けないと困ります。
「大黒」を道安に、「早舟」を松賀嶋殿に与えるという事を古織様(古田織部)とご相談頂き、今日中に済ませてください。
明日には松殿(氏郷)は伊勢松ヶ嶋に戻られます。
「早舟」については仕方ありませんし、お届けする事は難しいです。
越中様もご理解くださいまして、
右の通りに「早舟」は氏郷殿に、「大黒」は紹安に与える事に致します。
申し訳ないですが、そのように致します。
天正十五年頃、利休が作らせた黒茶碗という名物に
利休の弟子の三人(三斎、織部、他一名不明)が強く魅入られ
唐物とは別の新しい茶の湯の形が出来上がっていく当時の事情が伺える書状である
0632人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:dyP9ywVX茶の湯批判した武士の言葉も残ってるがなんかわかるな
いらぬ争いや、いらぬ浪費になる部分が茶の湯にはあるかもね
0633人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:ArubJxJS御油断なく、御心を使っておられた。
しかし、それでもその統治には非常にご苦労が多く、下々までも疲弊し根気を尽くしてしまい、もし合戦があれば、
軍は弱体化し敗北に及ぶであろうと、過半の人々が思っていた。
しかしそう言う時に元春公は、帰路の道における橋などを外され、わざと帯紐を解かせ背中炙り(背中に日を当てること。つまり上半身裸)
の姿となって、川を渡るようなことが度々有った。
(老翁物語)
意図が解るような解らないようなお話ですが、たしかになんだか凄そうです。
0634人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:IOjK+Hvw実戦期である戦国時代の甲冑がそのままの状態で残ることは極めて希で、
身分の低い雑兵のものに至っては単なる消耗品なのでまず現存しないという。
実戦期の軍装の詳細についてはよくわかっていない点が多い。
その点、当時の日本を訪れた宣教師や、文禄・慶長の役で実際に日本の鎧武者を目撃した明・朝鮮人の証言は
誇張や卑下表現が含まれているとしても、参考になると思う。
何故なら日本人にとっては当たり前でいちいち記録に残さないような事柄でも、異国人である彼らには
驚きの目で捉えられることが少なくないからだ。
というわけで、以下にまとめてみた↓
「我々の武装具は極めて重い。日本の物はとても軽い」
「我々の甲冑は、すべて鋼鉄で出来ている。彼ら(日本人)のは角または革の薄片を、縒り糸で縫い合わせたものである」
「我々の兜は瞼甲(ヴィゼイラ)を着ける。日本人は顔に悪魔の半分の仮面を着ける」
・・・ポルトガル、ルイス・フロイス「日欧文化比較」
「倭国軍は鬼や獅子の面を被っていたので、人馬が驚いて退き、ぬかるみにはまって動けなかった」
・・・明国、宋応昌「両朝平攘録」
「奇怪な身なりをして敵を驚かせ、牛頭に鬼面をした者もある」
・・・明国、李睟光「芝峰類説」
「おおむね倭人たちは紅黒の鉄の甲冑を着て色とりどりの鉄兜を被り、口角には髭を縦横に生やし
鉄広大(鉄の衣を着た道化方)のような姿をしており、金冠の黄金色の羽根・金挿・羽衣・羽箒・螺角などことごとく奇怪な形相である。
奢侈であり、鬼神のようでもあり、獣のようにも見えたので、これを見る者、驚かざるをえなかった」
・・・李氏朝鮮、李舜臣「忠武公全書」
「華麗多く虎皮及び鶏尾をもって戦服を作り、金銀をもって仮面を拵え、馬面及び人面を表す、それは偽り驚かすこと甚だしく、
人の眼に眩いばかりに光り輝いた。壬辰年に敗退した軍の者たちは皆、虎・豹・水石の怪物が一時に出現したようで、不覚にも気を失い、
魂を奪われたと言っている」
・・・李氏朝鮮、姜侃「倭情録」
0635人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:BwAmEKdz獣の皮を軍服につけるようなコケオドシに驚いて逃げてどうする、と
朝鮮軍を批判している箇所があったような
ついでに、日本ではしょうもない茶碗に何両も出して馬鹿じゃないのか、と書かれた箇所も
0636人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:L5vtjPnZもうちょっと体裁整えてほしい気がするなあ
0637人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:pEeQQoRE0638人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:L5GXRMT6やっぱり面頬あってこその具足だと思うぜ
0639人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:dyP9ywVXマレー系やポリネシア系も獣装ったりするでしょ
0640人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:gVAVZrexおおむねって言ってるから多分雑兵含んでるんじゃないか?
意外に着飾ってたんだな
雑兵は鎧もつけないってのは嘘か
0641人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:x5lDZsPG人数とか装備とか揃えて出してるだろうし
戦国中期ぐらいまでの地侍が集めてきたようなほんとの雑兵(?)はバラバラだと思う
0642人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:OOoYPZdE0643人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:KgHgRreq大名直属の兵でさえ装備が揃ってるのは珍しいよ。
しかも豊臣政権は軍役が過重だったから、どこも人数を揃揃えるのに苦労して
地侍層も動員されてる。
0644人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:662ovtGo天正12(1584)年に島原有馬の陣で隆信が戦死したとき、牟田家の紀伊守家式もともに戦死したが、
その次男である信式は、天正4(1576)年のころ讒言により武雄に逃れ後藤家信の家臣となって外助を称し、犬走に五十国の領地を得て、
以降幕末明治に至るまで後藤家に忠勤をはげんだという。
慶長5(1600)年、鍋島家は関ヶ原で西軍に加担したが、家康より許しを得柳川立花家を攻めた。
後藤家信の子茂綱も2500の兵を率いて参陣し、信式の息子である二代目外助もまた弟助九郎とともにその戦列に加わった。
この戦いでは立花方もよく守り戦ったので、鍋島方はどうしてもこれを破ることができなかった。
そこで外助は単身で敵陣に切り込み、軍扇を以て見方を誘導し、ついに立花方を崩すことに成功した。
しかし外助は敵兵のために斬り死に、弟の助九郎もともに戦死した。
兄外助21歳、弟の助九郎は19歳であった。
茂綱はこの兄弟の死を深く憐れみ、その墓を武雄円満寺に建て、厚く弔った。
山内町史(現武雄市)より、武雄牟田家の逸話でした。
ちなみに外助の遺児六兵衛はこの時1歳で、後に茂綱に従って島原の陣に出陣して功を上げ、
茂綱の死去した際には、生前の寵恩に報いる為に殉死したと書いてあります。
子孫は幕末武雄の近代化軍隊の装備充実に貢献し、戊辰戦争でも大砲隊の隊長として活躍したということです。
0645人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:KgHgRreq治右衛門・長束与十郎らに形見を与え、白装束で切腹の座についた。
池田(備中守長吉)・亀井(武蔵守茲矩)に向かい「ここまで御出でいた
だきご苦労な事です。それでは今生の暇をたまわりましょう」と告げ、
切腹しようとしたところで、長束は再び両人に向かって「それがしの
家来奥村左馬は身近くで召し使ってきたものであるので冥途の供をする
覚悟と見えます。しかし無益の事でありますから殉死を留めて頂きたい」
と懇ろに言い残して切腹した。
奥村左馬は介錯したその刀を腹に突きたてようとしたが、(池田)備中守
家人武蔵掃部・瀧川織部らが間髪入れずに飛びついて刀を奪い、色々と
教訓したので奥村も力なく承引した。後に寺沢志摩守が召し出して領地
千石を与えられたと言う。
(關原軍記大成)
長束正家の最後の模様である
0646人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:jxIXN26k六行目 誤:道安 正:紹安
0647人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:Sks87be+いにしえより細川家を見ていけば、足利義詮公が早世され、跡継ぎの義満公が
幼く征夷大将軍に任じられたこの時に、細川武蔵守頼之朝臣が後見をし奉り、
それより細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが、天文11年(1542)の春、
三好筑前守長慶が細川家に変わって天下の権を執り、細川晴元を捕えて芥川に押込めてより、
細川家は衰微して、永禄・元亀の頃には、細川兵部太輔藤孝は、微々たるありさまで、
山城国長岡に居住していた。
藤孝はこの頃、京都七人衆(稲屋妻豊後守、下津権内、岩成主税介、荻田亀之助、
細川兵部太輔藤孝、小泉某、鴨目某)と呼ばれた者達の一人であった。
嫡子の與一郎忠興は、明智日向守(光秀)の聟となり、明智の贔屓によって段々に立身し、
天正9年(1581)には丹後へ来たりて、翌年中に丹後一州、ことごとく手に入れ、
20余年の間、丹後の国主をされた、
慶長5年(1600)関ヶ原の一乱に莫大な軍功があったため、国替えを仰せ付けられ、
豊前、並びに豊後の杵築を与えられ、その年の冬、細川忠興は豊前の小倉に入部するため、
宮津の城を御出になった。
家の再興はこの宮津より起こり、また馴れ久しい国でも有ったため、忠興も
思い残すこと多く感じられたのであろう。犬の堂を過ぎると、天の橋立を
歌に詠まれた
立ちわかれ 松になごりはおしけれど おもひきれとの天のはし立
(丹州三家物語)
細川忠興が、国替えのため丹後を出立するときの模様である。
0648人間七七四年
2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:d5OfSJvu日本語でお願いします
0649人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:p4PW85Qgなんでも「○○の模様である」って言えば逸話になるってもんじゃないぞ
>>644なんかは単身で敵中に飛び込んで〜ってあたりでオリジナリティがあるからいいけど
0651人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:wcR6MlGy織田信雄の遺作
大阪城を退去した織田信雄とその郎党を、家康・秀忠は厚遇した。
上州甘楽などに5万石を与えるだけでなく、国主格まで与えたのだ。
「そういえば…北畠氏館にも見事な庭園があったな」
60近くなっていた信雄は、かつて自分が継いでいた名族の館にあった細川高国作の庭園を思い出していた。
そして実質的な藩運営は息子の信良に任せながら自身は陣屋内の作庭に没頭した。
「論語によれば智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむという。なら私は山を楽しもう」
とこの庭園を楽山園と名づけた。
その名の通り近隣の山々を借景とし、庭園内部にも山を思わせる立体的な空間を作ったその造りは見事で、
織田家が領地替えになった後も代々受け継がれ、初期大名庭園の傑作として群馬県での国指定名勝第一号となっている。
昨年発掘調査と復元工事も終わって一般公開されているので、一度是非。
城下の雰囲気もかなり残っていて、結構楽しめる場所ですよ。
0652人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:yUQUoM1X■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています