天正壬午の乱において、徳川家康が甲斐新府で北条氏直と対陣していたころ、
徳川方の平原宮内が密かに北条氏直に内通しているとの情報を
保坂金右門が漏れ聞き、これを言上したため両者が呼び出され糾明が行われた。

そこに元武田家臣の辻盛昌も立ち合っていたところ、
平原はその罪を逃れがたい状況となったため、
奥山新八郎の従者が主の刀を携えていたのを見てとるや、馳せ寄ってこれを奪い、斬り回った。
その場に丸腰でいた辻盛昌は、捕えようと素手で立ち向かったが面を斬られ血が目に入り
進みかねて退き、結局土屋権右衛門(重成)、永見新右衛門(勝定)が立ち向かい、
小幡又兵衛昌忠が平原を討ち取った。

この話を家康が聞き、平原を討ち取った小幡昌忠らを賞したが、
辻盛昌については、その心は剛であるが
打ち物もなしに白刃に立ち向かったため思わぬ手傷を蒙ったとして
深く賞することはなかった。
けれども、辻盛昌に対して絹衣に黄金を添えて与えたという。

これは、このような剛の者をみだりに褒め称えると、
手に武器もなしに白刃に立ち向かうことがよいことであることになり、
別の機会において或いは死んでしまうことがあるかもしれない
という家康の心配りであったという。

以上、武徳編年集成、武徳大成記、家忠日記追加、古人物語を出典とする干城録より。
ちなみに貞享書上には、辻盛昌が平原を組み伏せ討留めたと記録されているそうですが
なんにせよ家康公の細かな配慮がいい話ということで。