戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0494人間七七四年
2013/06/15(土) 06:04:49.15ID:Qs0DfyBLそもそも日本の仏教は
謎のマジカルブッダパワーで災害・疫病から国を守ろう
というのがコンセプトだからな
僧侶は呪術師系公務員という扱いで
悟りに到達するために戒律守るなんて誰も期待してなかった
0495人間七七四年
2013/06/15(土) 07:43:29.81ID:NnBQlPlZ0496人間七七四年
2013/06/15(土) 07:50:31.89ID:kXba0flvhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
続けるならこっちでお願いします
0498人間七七四年
2013/06/15(土) 13:45:24.80ID:geI8ZKOL嘉明が眠りに就いた後、侍臣は密かに出て行ってこれを見たので、
ただ一人の老人が次室に残るのみとなった。
そこにたまたま目覚めた嘉明が「侍臣らはいずこにおる」と問うたので、
老人は事実を答えた。
これを知ると嘉明は老人に「お前も見に行け」と言った。
――『加藤嘉明公(細野写本)』
0499人間七七四年
2013/06/15(土) 18:27:10.31ID:4n+cmVjc0500人間七七四年
2013/06/15(土) 19:13:56.55ID:7YNrIGDv0501人間七七四年
2013/06/15(土) 19:23:30.66ID:p1LPZbCT秀忠さんとかそれくらいしかねんぞ
0502人間七七四年
2013/06/15(土) 19:27:08.40ID:dvguJODFhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274087812/424
0503人間七七四年
2013/06/15(土) 19:48:52.94ID:qbbrMiMl勝手に退出した奴は斬首で、注意しなかった
老人は切腹あたりが妥当。
0504人間七七四年
2013/06/15(土) 20:02:48.19ID:qSiYlSlG0505人間七七四年
2013/06/15(土) 20:15:08.71ID:Biuot+vQ0506人間七七四年
2013/06/15(土) 20:27:04.76ID:VI93AqAZ加藤嘉明は戦場での猛将っぷりみせつけてるし天下人が移り変わる中で藩存続させた姿を
家臣は間近で見ているわけだからそんな心配は無いだろ
まあ息子はなにかと父と比べられて舐められやすくはなっただろうが
0507人間七七四年
2013/06/15(土) 20:30:02.80ID:GVF5T2t50508人間七七四年
2013/06/15(土) 21:16:55.04ID:v0gfl6Zx抑えつけると反発する人間もいるからなあ
正解はないでしょ
0509人間七七四年
2013/06/16(日) 11:08:40.41ID:UVJmsyTD0510人間七七四年
2013/06/16(日) 14:40:29.74ID:lspbdD/+0511人間七七四年
2013/06/16(日) 19:44:16.37ID:jbZl6Min攻城側の羽柴秀長はその人物と才覚を惜しみ、兄秀吉の直臣となるよう誘いを掛けたが、有信は「とんでもないこと」と言下に断った。
秀長はこの態度を却って気に入り「では他に望む物はないか」と重ねて持ち掛けた所、
「我ら一族郎党が主君義久の元へ戻ることを認めて頂ければ、他には何も望みませぬ」と願い出たのでこれを快諾した。
薩摩への帰国を許された有信とその部下達だったが、日向は数年前までは伊東家の領地。殆ど敵地も同然である。
帰国の途上で伊東の遺臣に付け狙われることもあり、山伏に身を窶して薩摩へ帰還したという。
義久は彼の帰還を大いに喜び、感状を与えたが、有信はそこに加増の旨を認めるとその部分だけを消して拝受し、
頑として加増を受けようとしなかった。
これを伝えきいた諸人は多いに感嘆し、その後の朝鮮の役や関ヶ原で功を上げた中馬大蔵に浜田永臨、
押川強兵衛、山田有栄、指宿清左衛門といった剛の者たちは有信の事例を引き合いに出し
「感状は主君のためならず」と加増を断り、みな清貧に甘んじたという
0512人間七七四年
2013/06/16(日) 22:30:10.57ID:7AcLyGz5誰も残業代を受け取れないブラック企業の話を思い出してしまった・・・
0513人間七七四年
2013/06/16(日) 22:55:26.73ID:evhdrLdX0514人間七七四年
2013/06/16(日) 23:04:59.12ID:E1i6Xco30515人間七七四年
2013/06/16(日) 23:40:46.20ID:BENzQbRB現代の新卒中途で縁もゆかりもない他人ばかりの企業に就職するのとは違うわな
ワタミの社長は論語の解説書みたいなの出してたなw
でも一代限りの上下間に中世ばりの忠義発揮する人間はなかなかいないだろ。
いたらある意味尊敬するけど。
現代でやれるなら逆にすごい忠義心だし仲間を信じる気持ちの強い人だよな
0516人間七七四年
2013/06/17(月) 02:06:22.54ID:IZie7/be労働者を不当に搾取して富を築く、時代遅れの卑怯者
0517人間七七四年
2013/06/17(月) 08:21:01.15ID:WlUSF5eTそれで従業員の心身を壊してるんだからどうかしてるだろ
本気で政治家になるつもりなんかね
冗談であってほしいわ
0519人間七七四年
2013/06/17(月) 13:54:27.32ID:YbkXtjY10520人間七七四年
2013/06/17(月) 14:40:19.48ID:fisDmLvD上から押さえつけたら退転するわ刃向けるわでもう大変だろう
0521人間七七四年
2013/06/17(月) 17:43:45.10ID:HYqiGM4t今はブラック社長ほど仁だの義だの言うからな
そのくせ自分の権利と人権だけは人一倍大切にしてるw
0522人間七七四年
2013/06/17(月) 17:43:56.70ID:vKATk0sd果てしなき大海原へとのりだした。
ところが風濤に逢って鬼海の島(鬼界島)に漂着し、その盛志を遂げずして
帰ることになった。
――『先哲像伝』
0523人間七七四年
2013/06/17(月) 17:48:44.05ID:TML1DMIc0524人間七七四年
2013/06/17(月) 17:51:47.01ID:LImlMQ8w0525人間七七四年
2013/06/17(月) 21:56:48.69ID:aINWrm7x惺窩は現実を見ずに済んで逆に良かった
おかげで一生夢見てられる
0526人間七七四年
2013/06/17(月) 22:24:10.32ID:HYqiGM4t0527人間七七四年
2013/06/18(火) 11:52:19.66ID:mY5ZAC7h0528人間七七四年
2013/06/18(火) 14:58:34.09ID:0XQHLgsE0529人間七七四年
2013/06/18(火) 16:32:13.75ID:2uJWdv6r0530人間七七四年
2013/06/18(火) 18:03:48.28ID:8H5gQgKK0531人間七七四年
2013/06/18(火) 21:53:52.50ID:GX+AQOoR「わが国では大軍が陣を敷いた跡を見れば糞が満ち満ちて足の踏み場もない。
しかし明軍の陣の跡では糞をした跡を見たことがない。
どういうわけかはわからぬが、法令が整っているからであろう。」
と感心していたという。
荻生徂徠『政談』
0532人間七七四年
2013/06/19(水) 00:32:55.16ID:oeL6e3Se屋久島の手前にある「薩摩硫黄島」かも。
(火山活動のため海が黄色に染まっているので黄海が島(鬼海が島)となったとか。
ちなみに、この島を含む巨大カルデラが「鬼界カルデラ」といい、
考古学でおなじみのアカホヤの産地だったりする。)
鬼海が島といえば、平家物語の「卒塔婆流し」「足摺」の舞台。
そして、平康頼の「薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風」(千載集)の歌。
冷泉為純の子である藤原惺窩は、この島で
「薩摩潟八重の潮風つげやらんあはれ憂き身は親だにもなし」と詠んでいる。
父も兄も別所長治に討たれてるもんなあ。
0533人間七七四年
2013/06/19(水) 00:35:14.19ID:oeL6e3Se○鬼界が島
0534人間七七四年
2013/06/19(水) 01:58:13.79ID:O4ZcSBEDアレはアレで大好きだ
0535人間七七四年
2013/06/19(水) 08:34:31.87ID:0euEaqLi0536人間七七四年
2013/06/19(水) 09:29:04.57ID:sN7H3ym7みんなその辺でしてるのかよ。汚ねえなあ。
明軍は近代の軍みたいに、トイレ用の穴掘っていっぱいになったら埋めるとかしてそう。
0537人間七七四年
2013/06/19(水) 09:37:50.46ID:tK1CznwFマジレスすると、戦国期の日本も糞便は放置すると疫病の元になると経験的に解っていたので、トイレ作って一ヶ所にまとめて
その後遠くに捨てさせるか百姓に飼料として買い取らせたりしてた。
まあ荻生徂徠はこの時代から100年以上たった徳川綱吉の時代の人だから、信頼出来る話とは思えないなw
0538人間七七四年
2013/06/19(水) 15:56:07.63ID:xl0DrRrK宇津左衛門五郎忠茂は愛犬の白犬を連れて狩りに出かけていた。
その山中で忠茂は突然邪気に当てられて眠気を催し、近くにあった大樹の陰で横になり眠りについた。
愛犬は忠茂の耳元でうるさく吠えたが、忠茂は眠りを邪魔された怒りから刀を抜いて愛犬の首を刎ねてしまった。
刎ねられた愛犬の首はそのまま宙に飛び、大樹の枝上に潜んでいた大蛇を噛み付き、大蛇が落ちてきたところを驚いた忠茂が退治した。
愛犬は主人を眠らせて食べようとした大蛇に気付き、主人を守ろうとしていたのである。
その事に気付いた忠茂は愛犬の忠義に感銘を受け、またその事に気づかず命を奪ってしまったことをひどく後悔した。
このため忠茂は愛犬の首を上和田村に、愛犬の尾を下和田村に葬り手厚く祀ったという事である。
0539人間七七四年
2013/06/19(水) 16:35:26.97ID:PlnqQS8h0540人間七七四年
2013/06/19(水) 16:37:58.08ID:xl0DrRrK0541人間七七四年
2013/06/19(水) 16:40:30.81ID:KNSLQXl70542人間七七四年
2013/06/19(水) 16:46:11.74ID:Cwqp1VvC0543人間七七四年
2013/06/19(水) 16:54:14.97ID:V61RexCj0544人間七七四年
2013/06/19(水) 20:09:14.50ID:QIISUzCw文部科学省は19日、歴史的に貴重な文書や絵画を対象としたユネスコの「世界記憶遺産」に、
いずれも国宝で、400年前に仙台藩主の伊達政宗がスペインなどに派遣した使節に関する「慶長遣欧使節関係資料」と、
平安時代の貴族・藤原道長の日記「御堂関白記」が登録されることになったと発表した。
国内からは、2011年の「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」に次ぐ登録となる。
政宗の、ちょっとうれしい(い)話♪
0545人間七七四年
2013/06/19(水) 23:52:42.26ID:kailfFLM秀秋の家臣・平岡石見へ使者を遣わしてきた事にある。
如水は「秀秋卿がこの度内府へ御味方すれば、御家の為にしかるべしと存じます。
また、恩賞の御望みがあるならば御取り持ちいたします」と伝えてきた。
早速、平岡は稲葉内匠、杉原紀伊守へ内談した。何れも如水の申される通りが
しかるべしという事なので秀秋へ達したところ、彼もまた同意した。
そこで「仰せ下された通り内府公の御味方へ参ります。軍功があれば宇喜多の領国を
御恩賞に預かりたく思います」と返答して、内意を申し遣わしたのだという。
しかし、秀秋は大坂に上り、表向きは西軍に加わって大津城をも攻め落とした。
ところが、大老・奉行・その他諸将が大坂に集った時、この度の戦いが利運になって
恩賞がなされるであろう時の国々の割付などがあったのだが、秀秋は自分の名が欠けて
無かった事に怒り、いよいよ関東方となることを心中に思い極めたという。
けれども、秀秋はなお家臣の諌めをも問うたところ、一様に「東軍の御味方しかるべし」
と申し上げた。その時、秀秋は返答に及ばず座を立って入ったので、その内心は
関東方であるということを一同は察したということである。
さて、秀秋は関ヶ原へ出陣し松尾山に陣を据えた。その時に関東方の色を立て、
大谷吉継の備へ鉄砲を撃ちかけて切り崩し、徳川家康の御陣へ参り謁見した。
それから近江佐和山城を乗っ取るなどの功により、かねてより所望の意向にまかせて
備前国が与えられるという噂がなされ、これを聞いた秀秋は「宇喜多領すべてをとこそ
思ったのに、備前だけではきっと名島領と同じ知行高であろう!」と憤った。
これを聞いた家康は「若き人にはそういう思い違いもあるものだろう。
それならば美作を添えて両国を参らすとしよう」と、備前・美作を秀秋に与えた。
――『備前軍記』
0546人間七七四年
2013/06/20(木) 01:01:47.62ID:Cy723GO0徂徠の叔母の嫁ぎ先というのが加藤家の家臣の堀江家で、その一族の堀江小右衛門という人がいるんだが
この人は1700年ころに亡くなった時80歳あまりで、加藤家の軍物語にも詳しかったと徂徠は記している。
『政談』 のこの話は「加藤家の故老が語った話」とされていて、おそらく徂徠はこの小右衛門からこの話を聞いたと思われる。
0547人間七七四年
2013/06/21(金) 17:46:09.97ID:6zvdUWEe磨き立てて夫人を移し参らせ、築山の御前と名付けて大切に扱った。
けれども姫君は都を恋しく思って事の折に触れては口に出すので、
義隆は、それならば当所に都を移そう、と一条より九条までの条里を割り、
四ヶ国の大身小身の屋形を甍を並べて造った。
京、堺、博多の商人は軒を争って建て続け、領国の諸侍は朝暮に出仕を遂げ、
囲繞渇仰は記すに遑なく、これに加えて諸門跡を始め公卿殿上人、
または五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌管弦の遊び、
またある時は詩連句の会を明け暮れの業とし、その他、京都、南都よりも
猿楽の名人を呼び下して能芸を尽くさせ、さては茶湯を興行し、和漢の珍器を集めて
弄んでいるうちに、国々より諸商人が山口へ到来して日毎に京町が立った。
そのため防州は時ならぬ春が来て花の都と唱えた。京都はむしろ廃れ果てて
及ぶはずもなかった。故に、山口一条の辻に何者かが、九重の天はここにありとして
「大内とは目出度名字今知れり裏の字略せし大内裏とは」と表現したほどであった。
――『室町殿物語』
夫人は持明院基規の姫君ということになってるが、たぶん万里小路秀房の間違い。
0548人間七七四年
2013/06/22(土) 10:23:44.97ID:RnYjbJRF0549人間七七四年
2013/06/22(土) 10:36:41.69ID:Lt0Z5tqH別にガチホモってわけじゃないんだぜ?
衆道は上流階級のたしなみです(キリッ
0551人間七七四年
2013/06/22(土) 15:18:50.34ID:/wrYC/HC島津を頼んだのだが、このことが徳川家康の上聞に達し、秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。
しかし島津はこれを承ると
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。このような事ですので、たとえご不審を
被ることになろうとも、その仰せを受けることはできません。」
と言上した。
ところが秀家はこれを知ると
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。
ここで島津家は又
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、八丈島に流された。
この時宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。
秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。
(戸川記)
0552人間七七四年
2013/06/22(土) 15:40:31.17ID:OJbOQ8FG0553人間七七四年
2013/06/22(土) 15:42:24.87ID:PeCNcZNv0554人間七七四年
2013/06/22(土) 17:12:59.21ID:5fqohn1H0555人間七七四年
2013/06/22(土) 22:46:24.28ID:3sHCymhu0556人間七七四年
2013/06/22(土) 22:53:08.22ID:UCq9J5lC井伊掃部頭が参り「物の具がよく御似合いです。天晴れ、よき御大将かな。
若君を御大将に私が御先手を仕って、一戦仕りたい」との挨拶をすると、
一座もめでたいと同音に申し上げた。
すると重良が進み出て「貴殿は公方様の御先手だ。この若君の先手は淡路守である。
いやしくも我等がおりますというのに、どうしてこの君の先手を他へ致させることだろう。
思いも寄らないことだ」と掃部頭を咎めたので、一座は重良に感じ入った。
これは板坂卜斎の咄である。
重良は新宮の城主であり、殊に大坂で功名があった。
――『責而者草(古実話)』
0557人間七七四年
2013/06/22(土) 22:54:18.22ID:/wrYC/HChttp://kindai.ndl.go.jp/
0558人間七七四年
2013/06/23(日) 13:41:08.34ID:vUlDoYAD天流の兵法を鍛錬し武士の道を嗜んだ剛の者であった。
朝鮮において他家と合同で虎狩りをしたとき、平右衛門尉は虎一頭を
鉄砲で仕留めた。
他家のものも同時に鉄砲を撃ったので、誰が仕留めたのか争論となり
諸士が集まって詮議に及ぶこととなった。
仕留めた証拠について問われた平右衛門尉は「私の撃った鉄砲の玉は
銀の玉です、もし肉の中に残っておれば疑いないでしょう」と述べた。
虎の傷口を調べてみたが幸い玉は残っており、取り出して磨いてみた
ところ銀玉に伊平の二字が彫り込まれており、これにより平右衛門尉
が仕留めた事と定まった。
諸家の侍が集まれば争論もあるだろうと、あらかじめ備えておいた
用意の良さを諸家の人々も感心したと言う
(日向記)
伊東平右衛門尉の準備のいい話
0559人間七七四年
2013/06/23(日) 14:37:30.84ID:KtueGrNH0560人間七七四年
2013/06/23(日) 15:14:13.29ID:yIWcRtRd0561人間七七四年
2013/06/23(日) 15:35:00.83ID:3ZhAMKml0562人間七七四年
2013/06/23(日) 17:52:38.06ID:rvCObUkJ0563人間七七四年
2013/06/23(日) 23:50:15.79ID:WiCgUgLU君(徳川家康)におかれても難なく浜松へ御帰城された。
(家康は)御途中より、成瀬吉右衛門正一をもって忠勝のもとへお言いつけになり、
「今日の働きは日頃の平八にあらず。まさしく八幡大菩薩の出現あって味方を加護して下さった」
と思し召すよし御感賞されたという。
甲州人が「からのかしらに本多平八」という狂句を書いて、見付の台へ立てたのも
この時の事である。(柏崎物語)
按ずるに伊賀路御危難の時にも、忠勝の事を「八幡菩薩が出現した」と賞された事があり、
さる武功の者ゆえ、たびたび同じ御賞詞をお与えになったのであろう。
――『徳川実紀』
0564人間七七四年
2013/06/24(月) 14:03:45.39ID:JaAm+k2p0565人間七七四年
2013/06/24(月) 15:26:28.37ID:H/FJh2D6とか騒がないだけ平八さんはおとなしいねえ
0566人間七七四年
2013/06/24(月) 17:06:52.13ID:v9MORdrm題名「サシャと芋」
http://blog-imgs-59.fc2.com/s/e/i/seiyuusokuhou/maru1371921996314.jpg
0567人間七七四年
2013/06/24(月) 17:07:29.38ID:v9MORdrm0568人間七七四年
2013/06/24(月) 17:36:29.51ID:416U9Ul50569人間七七四年
2013/06/24(月) 19:10:33.61ID:wga2Waet0570奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2013/06/24(月) 21:50:19.45ID:t/c98q+A0571人間七七四年
2013/06/27(木) 17:53:27.39ID:RYTYZfjh長政は後年、彼を家老に上らせようと思い、将軍家の御前にも家老並みに御目見を致されたのだが、
正利がかつて戦場で受けた頬の傷が次第に腐り、面相も酷く変わったため、そのことは止められた。
ではあったが、国元では家老並みに、国中家中の諸事を預かり、また長政より給わる書状にも
家老と同じく連署したという。
(菅氏世譜)
顔の傷のせいで、おそらく対外折衝をしなければならない家老には出来なかったのだろうが、
それでも実力に見合った仕事を任せ家老並みの待遇を与える、というお話。
0572人間七七四年
2013/06/27(木) 18:37:08.01ID:vAdoyJMQ傷を受けた経緯なんかはまとめにあるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3110.html
0573人間七七四年
2013/06/27(木) 19:08:56.49ID:TnTv/Zf90574人間七七四年
2013/06/27(木) 22:36:22.51ID:+cLt+UhQついでに、>>572に書かれている通り、傷だらけの顔のおかげで子供が泣き止んだことから
中国ページでは「日本の張遼」と呼ばれていた
0575人間七七四年
2013/06/27(木) 23:57:14.04ID:v/iNQOjd愚かな子を他人に披露するのは親子の情にあらず。
自分の分身の子なのだから、何度も教訓すべし。
再三教導しても聞き入れない放埒無頼の者ならば見切って勘当すべし。
――『山本道鬼入道百目録聞書』
0576人間七七四年
2013/06/29(土) 05:39:34.12ID:wf7fLGbS天正17年6月、摺上原の戦いが起こる。
両軍が激突して死屍累々の中、伊達家臣のある勇士が言った。
「あらららら、だーめだこら。こんで敵も味方もわがんねな。」
戦の趨勢はもはや決しつつあったが、逃げる敗残兵と追い剥ぎを企む兵と死体と血泥とで戦場がごった返し、敵味方入り乱れる地獄絵図となっていたのである。
「おら襲われだら面頬斬って落どすがんな。いちいち問答しでらんねーべし。悪く思うなよは。」
この言葉を聞いて回りの者たちは小馬鹿にして笑った。
「まだの、おだって。いっそ見栄ばり張ってんもんな。」
戦が終わったのち、人々の顔をよく見ると、頬に傷を負った者が散見された。
前の大言の主、中村八右衛門の仕業である。
(仙台志料)
0577人間七七四年
2013/06/29(土) 14:13:43.66ID:wXEh7esj有馬晴信も兵を出してこれを迎撃したが、龍造寺勢に破られた。
隆信は余勢を駆って千々石氏を攻めたが、これに有馬の援軍も加わり先手はおろか旗本まで崩されることとなった。
これはその時の話である。
隆信の陣には空圓という僧が陣中を見舞っていた。
この空圓は近年肥前に寄って与賀の蜜蔵寺に宿を取っていた際に、村中城へ招かれて法談をしたところ、
隆信夫妻が深く帰依して、蜜蔵寺を修造して光照寺と改め、住職に置かれたものであった。
さて、空圓は、龍造寺の軍が崩壊する様を目撃すると、長袖を結んで肩にかけ長刀を取ると、
「我は龍造寺興賀・光照寺が寺僧・空圓。実は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ!」と叫んで敵に斬りかかり、
四方八方へと敵を討ち払い、奮戦して遂には果てた。
この空圓は、これまで生国も俗姓も話すことはなかったが、ここに至って初めて名乗りを上げたのであった。
0578人間七七四年
2013/06/29(土) 14:56:08.81ID:MqAbeISa0579人間七七四年
2013/06/29(土) 18:31:29.62ID:QxqiNmx1縄も張られていなかった。
勝重はこれを見て、その場所の町役人と材木を置いた屋主をともに厳しく咎めた。
勝重は「暗夜にはどんな怪我人があるかもわからない。盲人が通らないとも限らないのだ。
僅かな事が、どれだけの人の難儀の基になることだろう。
都の地は特に国々の寄り合いなのだから、総じてこのような筋目を正して町役を勤めるように」
と言ったということである。
――『責而者草』
0581人間七七四年
2013/06/29(土) 20:26:36.96ID:fW3y00Y7徳川幕府は何故か障害者、特に視覚障害者に対して非常に篤く保護していた(盲目の人間から借りた金を返さなかった場合は重罪になったり)
秀忠の実母が駿府で盲目の女性を保護したりしてたから、そう言う影響があるのかも
「ごぜんのう」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4398.html
0582人間七七四年
2013/06/29(土) 20:47:26.30ID:CdywC1KT0584人間七七四年
2013/06/29(土) 23:50:07.28ID:a/5/lKhC歳上を先輩と呼ぶならその通りだけど
0585人間七七四年
2013/06/30(日) 09:12:55.75ID:svqe9QSc0587人間七七四年
2013/06/30(日) 21:05:50.15ID:HPu0gylf信長の場合は、たまたま目にした障害者を個人的に哀れんだだけで、仕組みや制度のある恒久的な施策として
行ったわけではないから、それを慈悲と呼ぶのは正直抵抗がある。
0590人間七七四年
2013/07/01(月) NY:AN:NY.ANID:8f1b5CkQ現代でもそうじゃん
0591人間七七四年
2013/07/01(月) NY:AN:NY.ANID:4xg1CQW2大阪冬の陣にも出陣した。
「講和が成立したため、私は大阪城内に参り、古主である長宗我部盛親公に御目見得いたしました。
盛親公は私への御意に
「この度其の方はどこの攻め口に居たのか?」
とお尋ねに成りました。私が「井伊掃部頭(直孝)の手に居りました」と申し上げると、
「去る4日の朝、土居を攻め立てた人数の中に居たのか?」
とお聞きになられたので、「御意の通りです。4日の朝の掃部頭備のうち、
討ち死にした者の死骸を、ただ今回収しているところです。」とお答えすると
「掃部頭の手勢のうち、あの朝どれほど討ち死にしたのか?」
「17人、討ち死にいたしました。」
「そこは、私の持ち口であった。私への報告も、其方の申す通りである。」
そうして御側衆に仰せ付けになられ、討ち死にした17人の旗指物をお取り寄せに成り、
私に見せて頂きました。井伊家の同僚として近しい者達の指物であったので、それを見ると
涙を流してしまいました。
この時、盛親公は
「この平右衛門の祖父である飛騨と、父の隼人は、その時代非常に活躍し、討ち死にをした
者たちだ。」
と、その傍にいた中内惣右衛門と言う御仁にお話されました。誠に、忝い次第でありました。
それから盃を頂戴つかまつりました。その座には、近藤喜左衛門、川村半助、十池新右衛門
という方々が居ました。
このうち十池新右衛門は、この後紀州大納言様御家に仕えたと聞き及んでおります。」
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)
大阪冬の陣の和議の後の、長宗我部盛親と旧家臣との会合の模様である。
0592人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:TC+OmiSz百二十歳を超えていて昔のことも知っているので、多くの人々が昔話や長寿の術を学んでいた。
義光も興味をもって招き、乱世の興亡についてでも聞いてみようとした。
そうして数時間も話してみたが、どうにも無駄なことしか覚えていない。
そして長寿のこつといえば、暑さ寒さや湿気を避けて、ただ一人超然としてストレスをためず、嫌だと思うことはしないということだとか。
義光はこれを聞いて、
「あなたはそれでよかろうが、我々のような(領民をおさめる)立場では役に立たないことですな。
家臣もあなたの長寿の術を学んだらば、仕事をやめて私にまじめに仕えなくなるでしょう」
と述べ、居士を送り返した。
義光曰く「人の知恵は金銀のようなもの、はかりしれない財産をたくわえるようなものだ。
そうはいっても、仕事をしたり俗世の銭勘定も必要だ。このことを考えねばならない」とのこと。
(『太平将士美談』)
0593人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JMUgaiQq前に出た逸話で似たようなのあったな
ある武士が天下取りまでの策略考えたけど、
天下人の気苦労考えたら嫌になって、
出家して悟りひらくのを選んだ話
今回の最上さんとは逆方向に行ってるが
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