戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0470人間七七四年
2013/06/13(木) 09:02:01.16ID:BH4MtpB5宣教師の記録だと、「バビロンの風習」「悪魔の習俗」などと批判していて、主に仏教僧が衆道文化の中心だったから
「やっぱり仏教僧は悪魔の使いだ」みたいな記録をしていたな。
0471人間七七四年
2013/06/13(木) 09:43:32.07ID:b+eaHdGV0472人間七七四年
2013/06/13(木) 11:01:19.27ID:X2+vpcge右大臣に補任された。
上卿(陣儀の最上位者)は広橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸左中弁光広
朝臣。参仕弁は坊城左中弁俊昌朝臣。淳和奨学別当、源氏長者、牛車兵仗
等も宣下される。
辰刻、山科内蔵頭(言緒)、冷泉中将為満朝臣が紗狩衣を着用して共に伏見
城内府亭へ向かった。(彼らの役割は家康の装束関係と思われる)
午未下刻、上卿他諸役衆が伏見に向かわれた。
内府は皆が佇立している間に御対面所へ御出でになり上段中央へ南向に
着座された。御装束は左折の折烏帽子、香(紅色の)直垂、露(直垂の袖口から
垂れている紐)は萌黄、前後の腰帯は白生絹。
土御門左馬助久脩が御身固(身体の堅固を祈る儀式)に参り、久脩が退いた後、
上卿・奉行職事・参仕弁等が前に進む。上卿が着座する前に勅使右大弁宰相
(勧修寺光豊)が前に進んだ。
続いて官務(壬生)右大史孝亮が将軍宣旨を葛蓋(文箱)に入れて持参。大沢侍従
(基宿)が受け取り、家康公の御前に置いて披覧。それから御座の脇に置かれた。
西の縁の方に砂金袋が置いてあり、永井右近(直勝)が砂金を葛蓋に入れて大沢
侍従に渡し、大沢侍従は葛蓋を壬生孝亮に返した。
次は(中原)大外記師生が右大臣宣旨を葛蓋に入れて持参。その様子は将軍宣旨
と同じであった。
次は壬生孝亮、氏長者宣持参
次は中原師生、源氏長者宣持参
次は壬生孝亮、淳和奨学両院別当の宣旨持参
次は中原師生、牛車宣持参
次は壬生孝亮、牛車宣持参
次は中原師生、兵仗宣旨持参
その都度、砂金をたまわる。
次は上卿に黄金十枚を台に乗せて給わり鞍置馬も給わる。次は勅使に黄金五枚
並びに鞍置馬を下され、次は奉行職事に黄金五枚を下され、次は参仕弁に、金
五枚枚を下された。各々は御礼を申しあげ、すこししてから座を立った。
上卿と勅使は太刀を折紙にて進上して御礼申された。次は奉行職事と参仕弁は
太刀で御礼申され。次は大外記、官務、少史安陪盛勝、小外記三善英芳、出納職、
清同、職忠、外記、使部重昌、官使部、告使はそれぞれ太刀にて御礼申され。
次に陣官人は太刀は進上せず、それぞれ御礼を申しあげた。
御礼の後は(饗応の為に)常の座敷に上卿以下が入られ平伏する間に、家康公が
お入りになられ予(舟橋秀賢)冷泉(為満)山科(言緒)等もお供して移った。
地下録物(葛蓋に入れられた金額)
将軍宣旨砂金二十両、右大臣宣旨金十両、氏長者宣録、外記、官務へ両宣旨
十両ずつ、牛車両宣旨十両ずつ、淳和奨学両院別当宣録、十両、兵仗宣録、十両
以上、金九枚
少史、小外記、出納、使部、告使、陣官人等へは銀子三枚ずつ下され、
各々に差はつけられ無かった。
(慶長日件録 慶長八年二月十二日条)
家康の将軍宣下の様子である
0473人間七七四年
2013/06/13(木) 12:18:09.30ID:o5FqMAIwというと首をスポポポーンと言う想像が先に立つ・・・・憑かれてるだな、俺
0474人間七七四年
2013/06/13(木) 16:40:53.30ID:WRfY7l51というか和歌も衆道も公家から武家が影響受けた
0475人間七七四年
2013/06/13(木) 20:01:19.27ID:q16XBwe5そういった堕落への反動として厳格な一派による内部改革が行われて、
当時わざわざ日本までやって来たのがその連中
極東の異教でもそうなのかよぉぉぉ!?と彼らが思ったかどうかは定かでは無い
0476人間七七四年
2013/06/13(木) 20:20:36.43ID:BH4MtpB5関ヶ原宿に泊まるその日の道中、道端ではこべが見事に成っているのを見つけ、これを乗っていた馬に
挟み進んだ。
さて、関ヶ原宿に着くと、そこにはろくな食材がなかったため、長谷川は焼いた干鱈に先に摘み取った
はこべを加え入れて汁を作り利常に差し上げた所、これを大変気に入られ。度々お替りをして
召し上がった。
そして長谷川を御前に召し、
「殊の外よき汁であった。どうしてこのような料理を思いついたのか?」
と聞いた所、長谷川は
「私が先行して進んでいた所、道際に見事なはこべを見つけました。関ヶ原宿には多分良い食材は
無いだろうと思ったので、このはこべを取り乗り掛けの馬に付けて、こちらに到着した所、
案の定良い食材はありません。ですので先の御汁にしたのです。」
そう申し上げると、利常は感心し
「自分の役儀をよく心得ており、大変奇特である。」
と言って御箪笥の中から金子を、包のまま下された。
その包の中には金子が、一歩五十八切(一歩金は小判の4分の1)も入っていた。
後で長谷川徳左衛門は「御汁一つ料理してたいへんな金子を貰ったよ」と大いに自慢していたそうである。
(微妙公夜話)
0478人間七七四年
2013/06/13(木) 22:13:58.08ID:H5d6Iz5s氏長者宣は天皇からの源氏長者の認定で、
源氏長者宣は家康の前に源氏長者だった久我通堅からの、
源氏長者の地位を譲るというものでは?
0479人間七七四年
2013/06/13(木) 22:55:19.56ID:WVkdhc2h賢き所が勝手に源氏長者を変えたことになるから
余計な火種を産まない為のシステムなのかな?
0481あのさあ
2013/06/14(金) 00:00:37.39ID:GwXDBRrp0482人間七七四年
2013/06/14(金) 00:09:47.72ID:JmQvBJyQそうでなければ養子にする必要性が無いと思うのだが
0483人間七七四年
2013/06/14(金) 01:09:05.78ID:/LdnPYlZ子作りどころか縁故人事に政治闘争に露骨な金集めに、もうルネサンス期はなんでもありだったそうで
イエズス会ができたころはルター派や改革派教会の分離、ついでにイギリス国教会まで分派する事態
0484人間七七四年
2013/06/14(金) 01:23:17.02ID:Zt6v0d4rて調べたらインノケンティウス8世(1484-1492)、ユリウス2世(1503-1513)、クレメンス7世(1523-1534)、
パウルス3世(1534-1549)にまで子供がいるんだな
こりゃルター派が台頭したり反宗教改革でイエズス会が日本にまできたりするわけだ
0485人間七七四年
2013/06/14(金) 08:10:13.02ID:13GGnsHQ0486人間七七四年
2013/06/14(金) 08:17:43.14ID:JmQvBJyQ0487人間七七四年
2013/06/14(金) 09:01:05.75ID:uE3n0wC40488人間七七四年
2013/06/14(金) 09:04:24.37ID:uE3n0wC4語るに落ちて喪男だってバレバレじゃねーかよ俺、Orz
0489人間七七四年
2013/06/14(金) 09:08:29.76ID:gWY/UrM40490人間七七四年
2013/06/14(金) 12:04:33.29ID:QDY9rtk10491人間七七四年
2013/06/14(金) 18:41:52.96ID:u9TOWBaL0492人間七七四年
2013/06/14(金) 19:49:27.85ID:QDY9rtk1たしかにそういうことはあるかもしれないね
禅も無善無悪なとこあるし
0493人間七七四年
2013/06/15(土) 02:43:37.53ID:opU4Q7H/俗世にまみれた仏教に魅力を感じない
0494人間七七四年
2013/06/15(土) 06:04:49.15ID:Qs0DfyBLそもそも日本の仏教は
謎のマジカルブッダパワーで災害・疫病から国を守ろう
というのがコンセプトだからな
僧侶は呪術師系公務員という扱いで
悟りに到達するために戒律守るなんて誰も期待してなかった
0495人間七七四年
2013/06/15(土) 07:43:29.81ID:NnBQlPlZ0496人間七七四年
2013/06/15(土) 07:50:31.89ID:kXba0flvhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
続けるならこっちでお願いします
0498人間七七四年
2013/06/15(土) 13:45:24.80ID:geI8ZKOL嘉明が眠りに就いた後、侍臣は密かに出て行ってこれを見たので、
ただ一人の老人が次室に残るのみとなった。
そこにたまたま目覚めた嘉明が「侍臣らはいずこにおる」と問うたので、
老人は事実を答えた。
これを知ると嘉明は老人に「お前も見に行け」と言った。
――『加藤嘉明公(細野写本)』
0499人間七七四年
2013/06/15(土) 18:27:10.31ID:4n+cmVjc0500人間七七四年
2013/06/15(土) 19:13:56.55ID:7YNrIGDv0501人間七七四年
2013/06/15(土) 19:23:30.66ID:p1LPZbCT秀忠さんとかそれくらいしかねんぞ
0502人間七七四年
2013/06/15(土) 19:27:08.40ID:dvguJODFhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274087812/424
0503人間七七四年
2013/06/15(土) 19:48:52.94ID:qbbrMiMl勝手に退出した奴は斬首で、注意しなかった
老人は切腹あたりが妥当。
0504人間七七四年
2013/06/15(土) 20:02:48.19ID:qSiYlSlG0505人間七七四年
2013/06/15(土) 20:15:08.71ID:Biuot+vQ0506人間七七四年
2013/06/15(土) 20:27:04.76ID:VI93AqAZ加藤嘉明は戦場での猛将っぷりみせつけてるし天下人が移り変わる中で藩存続させた姿を
家臣は間近で見ているわけだからそんな心配は無いだろ
まあ息子はなにかと父と比べられて舐められやすくはなっただろうが
0507人間七七四年
2013/06/15(土) 20:30:02.80ID:GVF5T2t50508人間七七四年
2013/06/15(土) 21:16:55.04ID:v0gfl6Zx抑えつけると反発する人間もいるからなあ
正解はないでしょ
0509人間七七四年
2013/06/16(日) 11:08:40.41ID:UVJmsyTD0510人間七七四年
2013/06/16(日) 14:40:29.74ID:lspbdD/+0511人間七七四年
2013/06/16(日) 19:44:16.37ID:jbZl6Min攻城側の羽柴秀長はその人物と才覚を惜しみ、兄秀吉の直臣となるよう誘いを掛けたが、有信は「とんでもないこと」と言下に断った。
秀長はこの態度を却って気に入り「では他に望む物はないか」と重ねて持ち掛けた所、
「我ら一族郎党が主君義久の元へ戻ることを認めて頂ければ、他には何も望みませぬ」と願い出たのでこれを快諾した。
薩摩への帰国を許された有信とその部下達だったが、日向は数年前までは伊東家の領地。殆ど敵地も同然である。
帰国の途上で伊東の遺臣に付け狙われることもあり、山伏に身を窶して薩摩へ帰還したという。
義久は彼の帰還を大いに喜び、感状を与えたが、有信はそこに加増の旨を認めるとその部分だけを消して拝受し、
頑として加増を受けようとしなかった。
これを伝えきいた諸人は多いに感嘆し、その後の朝鮮の役や関ヶ原で功を上げた中馬大蔵に浜田永臨、
押川強兵衛、山田有栄、指宿清左衛門といった剛の者たちは有信の事例を引き合いに出し
「感状は主君のためならず」と加増を断り、みな清貧に甘んじたという
0512人間七七四年
2013/06/16(日) 22:30:10.57ID:7AcLyGz5誰も残業代を受け取れないブラック企業の話を思い出してしまった・・・
0513人間七七四年
2013/06/16(日) 22:55:26.73ID:evhdrLdX0514人間七七四年
2013/06/16(日) 23:04:59.12ID:E1i6Xco30515人間七七四年
2013/06/16(日) 23:40:46.20ID:BENzQbRB現代の新卒中途で縁もゆかりもない他人ばかりの企業に就職するのとは違うわな
ワタミの社長は論語の解説書みたいなの出してたなw
でも一代限りの上下間に中世ばりの忠義発揮する人間はなかなかいないだろ。
いたらある意味尊敬するけど。
現代でやれるなら逆にすごい忠義心だし仲間を信じる気持ちの強い人だよな
0516人間七七四年
2013/06/17(月) 02:06:22.54ID:IZie7/be労働者を不当に搾取して富を築く、時代遅れの卑怯者
0517人間七七四年
2013/06/17(月) 08:21:01.15ID:WlUSF5eTそれで従業員の心身を壊してるんだからどうかしてるだろ
本気で政治家になるつもりなんかね
冗談であってほしいわ
0519人間七七四年
2013/06/17(月) 13:54:27.32ID:YbkXtjY10520人間七七四年
2013/06/17(月) 14:40:19.48ID:fisDmLvD上から押さえつけたら退転するわ刃向けるわでもう大変だろう
0521人間七七四年
2013/06/17(月) 17:43:45.10ID:HYqiGM4t今はブラック社長ほど仁だの義だの言うからな
そのくせ自分の権利と人権だけは人一倍大切にしてるw
0522人間七七四年
2013/06/17(月) 17:43:56.70ID:vKATk0sd果てしなき大海原へとのりだした。
ところが風濤に逢って鬼海の島(鬼界島)に漂着し、その盛志を遂げずして
帰ることになった。
――『先哲像伝』
0523人間七七四年
2013/06/17(月) 17:48:44.05ID:TML1DMIc0524人間七七四年
2013/06/17(月) 17:51:47.01ID:LImlMQ8w0525人間七七四年
2013/06/17(月) 21:56:48.69ID:aINWrm7x惺窩は現実を見ずに済んで逆に良かった
おかげで一生夢見てられる
0526人間七七四年
2013/06/17(月) 22:24:10.32ID:HYqiGM4t0527人間七七四年
2013/06/18(火) 11:52:19.66ID:mY5ZAC7h0528人間七七四年
2013/06/18(火) 14:58:34.09ID:0XQHLgsE0529人間七七四年
2013/06/18(火) 16:32:13.75ID:2uJWdv6r0530人間七七四年
2013/06/18(火) 18:03:48.28ID:8H5gQgKK0531人間七七四年
2013/06/18(火) 21:53:52.50ID:GX+AQOoR「わが国では大軍が陣を敷いた跡を見れば糞が満ち満ちて足の踏み場もない。
しかし明軍の陣の跡では糞をした跡を見たことがない。
どういうわけかはわからぬが、法令が整っているからであろう。」
と感心していたという。
荻生徂徠『政談』
0532人間七七四年
2013/06/19(水) 00:32:55.16ID:oeL6e3Se屋久島の手前にある「薩摩硫黄島」かも。
(火山活動のため海が黄色に染まっているので黄海が島(鬼海が島)となったとか。
ちなみに、この島を含む巨大カルデラが「鬼界カルデラ」といい、
考古学でおなじみのアカホヤの産地だったりする。)
鬼海が島といえば、平家物語の「卒塔婆流し」「足摺」の舞台。
そして、平康頼の「薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風」(千載集)の歌。
冷泉為純の子である藤原惺窩は、この島で
「薩摩潟八重の潮風つげやらんあはれ憂き身は親だにもなし」と詠んでいる。
父も兄も別所長治に討たれてるもんなあ。
0533人間七七四年
2013/06/19(水) 00:35:14.19ID:oeL6e3Se○鬼界が島
0534人間七七四年
2013/06/19(水) 01:58:13.79ID:O4ZcSBEDアレはアレで大好きだ
0535人間七七四年
2013/06/19(水) 08:34:31.87ID:0euEaqLi0536人間七七四年
2013/06/19(水) 09:29:04.57ID:sN7H3ym7みんなその辺でしてるのかよ。汚ねえなあ。
明軍は近代の軍みたいに、トイレ用の穴掘っていっぱいになったら埋めるとかしてそう。
0537人間七七四年
2013/06/19(水) 09:37:50.46ID:tK1CznwFマジレスすると、戦国期の日本も糞便は放置すると疫病の元になると経験的に解っていたので、トイレ作って一ヶ所にまとめて
その後遠くに捨てさせるか百姓に飼料として買い取らせたりしてた。
まあ荻生徂徠はこの時代から100年以上たった徳川綱吉の時代の人だから、信頼出来る話とは思えないなw
0538人間七七四年
2013/06/19(水) 15:56:07.63ID:xl0DrRrK宇津左衛門五郎忠茂は愛犬の白犬を連れて狩りに出かけていた。
その山中で忠茂は突然邪気に当てられて眠気を催し、近くにあった大樹の陰で横になり眠りについた。
愛犬は忠茂の耳元でうるさく吠えたが、忠茂は眠りを邪魔された怒りから刀を抜いて愛犬の首を刎ねてしまった。
刎ねられた愛犬の首はそのまま宙に飛び、大樹の枝上に潜んでいた大蛇を噛み付き、大蛇が落ちてきたところを驚いた忠茂が退治した。
愛犬は主人を眠らせて食べようとした大蛇に気付き、主人を守ろうとしていたのである。
その事に気付いた忠茂は愛犬の忠義に感銘を受け、またその事に気づかず命を奪ってしまったことをひどく後悔した。
このため忠茂は愛犬の首を上和田村に、愛犬の尾を下和田村に葬り手厚く祀ったという事である。
0539人間七七四年
2013/06/19(水) 16:35:26.97ID:PlnqQS8h0540人間七七四年
2013/06/19(水) 16:37:58.08ID:xl0DrRrK0541人間七七四年
2013/06/19(水) 16:40:30.81ID:KNSLQXl70542人間七七四年
2013/06/19(水) 16:46:11.74ID:Cwqp1VvC0543人間七七四年
2013/06/19(水) 16:54:14.97ID:V61RexCj0544人間七七四年
2013/06/19(水) 20:09:14.50ID:QIISUzCw文部科学省は19日、歴史的に貴重な文書や絵画を対象としたユネスコの「世界記憶遺産」に、
いずれも国宝で、400年前に仙台藩主の伊達政宗がスペインなどに派遣した使節に関する「慶長遣欧使節関係資料」と、
平安時代の貴族・藤原道長の日記「御堂関白記」が登録されることになったと発表した。
国内からは、2011年の「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」に次ぐ登録となる。
政宗の、ちょっとうれしい(い)話♪
0545人間七七四年
2013/06/19(水) 23:52:42.26ID:kailfFLM秀秋の家臣・平岡石見へ使者を遣わしてきた事にある。
如水は「秀秋卿がこの度内府へ御味方すれば、御家の為にしかるべしと存じます。
また、恩賞の御望みがあるならば御取り持ちいたします」と伝えてきた。
早速、平岡は稲葉内匠、杉原紀伊守へ内談した。何れも如水の申される通りが
しかるべしという事なので秀秋へ達したところ、彼もまた同意した。
そこで「仰せ下された通り内府公の御味方へ参ります。軍功があれば宇喜多の領国を
御恩賞に預かりたく思います」と返答して、内意を申し遣わしたのだという。
しかし、秀秋は大坂に上り、表向きは西軍に加わって大津城をも攻め落とした。
ところが、大老・奉行・その他諸将が大坂に集った時、この度の戦いが利運になって
恩賞がなされるであろう時の国々の割付などがあったのだが、秀秋は自分の名が欠けて
無かった事に怒り、いよいよ関東方となることを心中に思い極めたという。
けれども、秀秋はなお家臣の諌めをも問うたところ、一様に「東軍の御味方しかるべし」
と申し上げた。その時、秀秋は返答に及ばず座を立って入ったので、その内心は
関東方であるということを一同は察したということである。
さて、秀秋は関ヶ原へ出陣し松尾山に陣を据えた。その時に関東方の色を立て、
大谷吉継の備へ鉄砲を撃ちかけて切り崩し、徳川家康の御陣へ参り謁見した。
それから近江佐和山城を乗っ取るなどの功により、かねてより所望の意向にまかせて
備前国が与えられるという噂がなされ、これを聞いた秀秋は「宇喜多領すべてをとこそ
思ったのに、備前だけではきっと名島領と同じ知行高であろう!」と憤った。
これを聞いた家康は「若き人にはそういう思い違いもあるものだろう。
それならば美作を添えて両国を参らすとしよう」と、備前・美作を秀秋に与えた。
――『備前軍記』
0546人間七七四年
2013/06/20(木) 01:01:47.62ID:Cy723GO0徂徠の叔母の嫁ぎ先というのが加藤家の家臣の堀江家で、その一族の堀江小右衛門という人がいるんだが
この人は1700年ころに亡くなった時80歳あまりで、加藤家の軍物語にも詳しかったと徂徠は記している。
『政談』 のこの話は「加藤家の故老が語った話」とされていて、おそらく徂徠はこの小右衛門からこの話を聞いたと思われる。
0547人間七七四年
2013/06/21(金) 17:46:09.97ID:6zvdUWEe磨き立てて夫人を移し参らせ、築山の御前と名付けて大切に扱った。
けれども姫君は都を恋しく思って事の折に触れては口に出すので、
義隆は、それならば当所に都を移そう、と一条より九条までの条里を割り、
四ヶ国の大身小身の屋形を甍を並べて造った。
京、堺、博多の商人は軒を争って建て続け、領国の諸侍は朝暮に出仕を遂げ、
囲繞渇仰は記すに遑なく、これに加えて諸門跡を始め公卿殿上人、
または五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌管弦の遊び、
またある時は詩連句の会を明け暮れの業とし、その他、京都、南都よりも
猿楽の名人を呼び下して能芸を尽くさせ、さては茶湯を興行し、和漢の珍器を集めて
弄んでいるうちに、国々より諸商人が山口へ到来して日毎に京町が立った。
そのため防州は時ならぬ春が来て花の都と唱えた。京都はむしろ廃れ果てて
及ぶはずもなかった。故に、山口一条の辻に何者かが、九重の天はここにありとして
「大内とは目出度名字今知れり裏の字略せし大内裏とは」と表現したほどであった。
――『室町殿物語』
夫人は持明院基規の姫君ということになってるが、たぶん万里小路秀房の間違い。
0548人間七七四年
2013/06/22(土) 10:23:44.97ID:RnYjbJRF0549人間七七四年
2013/06/22(土) 10:36:41.69ID:Lt0Z5tqH別にガチホモってわけじゃないんだぜ?
衆道は上流階級のたしなみです(キリッ
0551人間七七四年
2013/06/22(土) 15:18:50.34ID:/wrYC/HC島津を頼んだのだが、このことが徳川家康の上聞に達し、秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。
しかし島津はこれを承ると
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。このような事ですので、たとえご不審を
被ることになろうとも、その仰せを受けることはできません。」
と言上した。
ところが秀家はこれを知ると
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。
ここで島津家は又
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、八丈島に流された。
この時宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。
秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。
(戸川記)
0552人間七七四年
2013/06/22(土) 15:40:31.17ID:OJbOQ8FG0553人間七七四年
2013/06/22(土) 15:42:24.87ID:PeCNcZNv0554人間七七四年
2013/06/22(土) 17:12:59.21ID:5fqohn1H0555人間七七四年
2013/06/22(土) 22:46:24.28ID:3sHCymhu0556人間七七四年
2013/06/22(土) 22:53:08.22ID:UCq9J5lC井伊掃部頭が参り「物の具がよく御似合いです。天晴れ、よき御大将かな。
若君を御大将に私が御先手を仕って、一戦仕りたい」との挨拶をすると、
一座もめでたいと同音に申し上げた。
すると重良が進み出て「貴殿は公方様の御先手だ。この若君の先手は淡路守である。
いやしくも我等がおりますというのに、どうしてこの君の先手を他へ致させることだろう。
思いも寄らないことだ」と掃部頭を咎めたので、一座は重良に感じ入った。
これは板坂卜斎の咄である。
重良は新宮の城主であり、殊に大坂で功名があった。
――『責而者草(古実話)』
0557人間七七四年
2013/06/22(土) 22:54:18.22ID:/wrYC/HChttp://kindai.ndl.go.jp/
0558人間七七四年
2013/06/23(日) 13:41:08.34ID:vUlDoYAD天流の兵法を鍛錬し武士の道を嗜んだ剛の者であった。
朝鮮において他家と合同で虎狩りをしたとき、平右衛門尉は虎一頭を
鉄砲で仕留めた。
他家のものも同時に鉄砲を撃ったので、誰が仕留めたのか争論となり
諸士が集まって詮議に及ぶこととなった。
仕留めた証拠について問われた平右衛門尉は「私の撃った鉄砲の玉は
銀の玉です、もし肉の中に残っておれば疑いないでしょう」と述べた。
虎の傷口を調べてみたが幸い玉は残っており、取り出して磨いてみた
ところ銀玉に伊平の二字が彫り込まれており、これにより平右衛門尉
が仕留めた事と定まった。
諸家の侍が集まれば争論もあるだろうと、あらかじめ備えておいた
用意の良さを諸家の人々も感心したと言う
(日向記)
伊東平右衛門尉の準備のいい話
0559人間七七四年
2013/06/23(日) 14:37:30.84ID:KtueGrNH0560人間七七四年
2013/06/23(日) 15:14:13.29ID:yIWcRtRd0561人間七七四年
2013/06/23(日) 15:35:00.83ID:3ZhAMKml0562人間七七四年
2013/06/23(日) 17:52:38.06ID:rvCObUkJ0563人間七七四年
2013/06/23(日) 23:50:15.79ID:WiCgUgLU君(徳川家康)におかれても難なく浜松へ御帰城された。
(家康は)御途中より、成瀬吉右衛門正一をもって忠勝のもとへお言いつけになり、
「今日の働きは日頃の平八にあらず。まさしく八幡大菩薩の出現あって味方を加護して下さった」
と思し召すよし御感賞されたという。
甲州人が「からのかしらに本多平八」という狂句を書いて、見付の台へ立てたのも
この時の事である。(柏崎物語)
按ずるに伊賀路御危難の時にも、忠勝の事を「八幡菩薩が出現した」と賞された事があり、
さる武功の者ゆえ、たびたび同じ御賞詞をお与えになったのであろう。
――『徳川実紀』
0564人間七七四年
2013/06/24(月) 14:03:45.39ID:JaAm+k2p0565人間七七四年
2013/06/24(月) 15:26:28.37ID:H/FJh2D6とか騒がないだけ平八さんはおとなしいねえ
0566人間七七四年
2013/06/24(月) 17:06:52.13ID:v9MORdrm題名「サシャと芋」
http://blog-imgs-59.fc2.com/s/e/i/seiyuusokuhou/maru1371921996314.jpg
0567人間七七四年
2013/06/24(月) 17:07:29.38ID:v9MORdrm0568人間七七四年
2013/06/24(月) 17:36:29.51ID:416U9Ul50569人間七七四年
2013/06/24(月) 19:10:33.61ID:wga2Waet■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています