弘治元年(1555)、中国の毛利元就・隆元親子は大寧寺の変によって殺された大内義隆の遺言を哀れみ、
陶晴賢並びに大内義長を滅ぼし威を中国に振るわれ、将軍家もこれに感じ入り大内の跡を給わった。

一方、大友義鎮(宗麟)は、先に弟義長に大内を継がせ、その光によって近年威を振るい、
肥前肥後、筑前筑後の侍でこれに与する者も少なくなかった。

このような時に、龍造寺隆信公は世の有様をご覧になり、重臣たちを集めてこう仰った

「芸州の元就は現在、陶の一党を滅ぼし中国を合わせんとしているが、これは大内義隆の旧好を忘れず、
義の槍を突いているのである。

一方豊後の大友が隣国に手出ししているのは、全くもって私欲の義である。

私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

そうして毛利元就のもとに遣いを立て、元就と通じたのである。
人は道を守るべきなのである。
(肥陽軍記)

龍造寺隆信、毛利元就の義に感じ通ずる、というお話