トップページsengoku
1001コメント527KB

戦国ちょっといい話37

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0376人間七七四年2013/05/30(木) 23:37:41.43ID:h4aiswuR
これ葉隠全部書き写すまでやる気?
0377人間七七四年2013/05/31(金) 00:22:27.51ID:1yvEeHXV
高虎の兜

藤堂高虎の唐冠形兜は、左右に5尺の脇立物を持つ。
プロペラともウサミミともいう。


大坂夏の陣開戦前夜、高虎はこの唐冠形兜を
甥の藤堂玄蕃良重にかぶせて言った。
「わしはこの兜をつけて、度々の合戦にも一度も遅れをとらなかったものだ。
これを譲ることができる若者はそなたしかいない。」

玄蕃は身に余る名誉に打ち震えた。
何とか優れた高名を表し高虎の恩に報いたいと、胸のうちを伝えた。
「某は今年二十三歳、大兵にして剛強。
三幅の大幟を指物にしたいところですが、
これに耐える馬がないのが残念でございます。」


しかし、気鋭の若武者のはやる血気は、裏目に出た。
功を逃さんと、木村重成の右翼隊に猛進した玄蕃は、
瀕死の深手を負ってしまう。
陣地に戻った玄蕃は、家臣に抱きかかえられて馬から降り、
小屋に担ぎ入れられた。
すると玄蕃はどういうわけか、手を挙げ、苦しい声で、
「羽根が、羽根が」
と言う。
高虎から拝領した兜の脇立物を、狭い小屋内で傷付けるのではないかと
思いやってのことだった。
死に際しても、主君への恩を重んじる心遣いに人々は涙した。

玄蕃のもとに駆けつけた高虎も
もはや舌がこわばり言葉も通じず、ただ高虎の顔を眺めるばかりの玄蕃に、
「玄蕃か、玄蕃か、」
と言うのが精一杯、あとは言葉にならなかったという。

高虎は後にこれを「手柄の討死」と称え、おおいに嘆いたという。

                            「元和先鋒禄」
0378人間七七四年2013/05/31(金) 00:30:26.46ID:21x4znql
藤堂玄蕃というと、嶋左近の息子と一騎討して死んだ人を思い浮かべた
その息子の逸話か
03793762013/05/31(金) 00:35:01.12ID:8iB07g/Y
質問の意図がよくわからないけど、
別にそんな予定はないですよ
03803752013/05/31(金) 00:41:55.46ID:8iB07g/Y
おれが>>375で、>>376さんへのレスだね
わかりにくくてごめん
0381人間七七四年2013/05/31(金) 00:42:44.04ID:1yvEeHXV
>>378
そうです。
関ヶ原で討死した良政の息子が良重。
0382人間七七四年2013/05/31(金) 09:53:03.86ID:6m//xU86
まとめサイト見てここに来たけど
以前、高橋紹運の家臣の子孫で家伝を書き込んだ人
俺の高校時代の友人だと思う
紹運と道雪の話のやつ
俺は今、地元を離れているので長い間会ってないけど
お互い日本史好きもあって仲良かったので他人に話さないことも話してくれたし
家にも遊びに行った事があるし紹運の肖像画とかも見せてもらった
曲がった事や嘘が嫌いで確かに「サムライ」みたいな今時に少ない奴だったねw
実はスレの時代と違うけど彼のおじいさんの弟さんが太平洋戦争で亡くなってるんだけど
亡くなる1日前の日付で書かれた手紙の話も聞いたことがある
両親や兄妹への感謝の言葉と晴れやかな今の心境みたいなものが書かれてて
「国を守るために、皆様を守るため、祖霊のもとへと参ります。さようなら」だったかな
血は争えないなと感じ入って、よく内容を覚えてる
ちなみに神風特別攻撃隊だよ
0383人間七七四年2013/05/31(金) 11:32:56.14ID:8MdCU9V/
三斎「またキツネ憑きか」
0384人間七七四年2013/06/01(土) 14:11:23.70ID:99rel95H
小十郎「熱々の茶でござる」
0385人間七七四年2013/06/02(日) 11:36:42.89ID:b++FDpAO
高松の城という名城がある。
三方は深い沼が遠くまで広がり普段でも人馬が通ることが出来ない。
残る一方は水堀が幾重にも連なり深く水をたたえゆるやかに波うっている。
毛利家が数年にわたり精を尽くして拵えた要害である。

とりわけ城主は勇気智謀を兼備する清水長左衛門尉(宗治)という者だ。
輝元より加勢として弓鉄砲の頭難波伝兵衛尉、近松左衛門尉など二千
を超える軍勢が到着して籠城した。

秀吉卿はただ水攻めするより他に策は無いとお考えになられ、近辺の
在々を放火してから堤を築いて攻めようと、焼き払いに出向かれた。

四月十三日から城の周辺三里の間に堤を築き始めて、昼夜の別も無く
急いで二十五日には完成した。五月一日より大小の河川の水を引き入れ、
谷川にも水道を付けかけられた。

五月十日頃には大半が水に浸かって人が住める場所は無くなっていた。
堤の上には柵をめぐらせ、下には町屋造りに小屋を建て小路をこしらえ
夜番廻番が絶えることが無かった。

堤の近くには十町間隔で要害を拵えて軍兵を入れおき、終日油断なく
警戒をつづけていた。

五月十二日、毛利輝元の先勢五万騎を小早川隆景、吉川元春が大将と
して率い釈迦峰不動嵩に陣を敷いた。五月二十日には輝元が着陣して
高松城を救おうとするかに見えたが、両陣の間の十町ばかりが大河か
滝のようになって隔てていた為、勝敗を決し様がなく対陣がながなが
と続くと思われた。

秀吉卿はついに毛利と決戦する時が来たとお考えになり、五月十五日
に信長公へ飛脚を送られ「輝元が高松城を救う為に数万騎を率いて
出陣してきたので対陣しております。御合力をいただければ、その軍勢
をすぐさま追い崩して、今年中に西国はことごとく幕下に属されるのは
確実でしょう」と言上した。

信長公は、惟任日向守(明智光秀)、筒井順慶、長岡与一郎(細川忠興)、
池田紀伊守父子、中川瀬兵衛、高山右近など総計三万五千余騎を羽柴
筑前守に合力させるべく五月下旬に備中へ向けて出陣するように仰せ
だされた。

惟任日向守は家康公御上洛に馳走するよう仰せだされていたが、この
ように事が急だったので言うまでも無く従われた

五月二十五六日の頃より高松の町屋はことごとく水に沈んでしまった為、
清水宗治兄の月清入道、難波、近松も降を乞い、六月四日午刻に小舟一艘
が乗り出し、皆腹を切った。検使堀尾茂助は四人の首を添えて秀吉公の
お目に掛けた。彼らはいずれも仁義の死を遂げた者であった。

六月五日朝、堤を切って落とし水が流れ出す音は千雷のようであった。
そして高松城を請けとり、杉原七郎左衛門尉が入れ置かれた。

伊東民部大輔祐兵は冠城の御陣より高松御陣に六月まで供奉されていた。

(日向記)

日向記に記された高松城水攻めの記録である。

関連する本能寺の話が別項として立てられてるので、この部分だけを
見てると「えっ?」と言う印象を受けてしまう。
0386人間七七四年2013/06/02(日) 13:01:05.84ID:/nnh54fQ
>>276
義光の逸話は無理に鮭という文字を入れないほうが読み易いし親しめるな
この頃は親子仲良いのか
0387人間七七四年2013/06/02(日) 23:49:28.53ID:8NTJDnCZ
時に天正二年、加藤嘉明は十二歳であった。同三年五月、秀吉が播州三木城を攻める時に当たり、
大雨がしきりに降ったので秀吉の戦袍が濡れてしまった。

日暮に本営へと帰った秀吉が戦袍を脱ぐと、嘉明は火を焚いてこれを乾かした。
これについて秀吉が「小坊は何をしておる」と問うと、嘉明は「君公が明日出軍される時に
用を為せるようにしようと思いました」と答えた。

秀吉は賛美して「幼年にして既にこの注意とは、後日には名将となることであろう」と言った。

――『鹿深遺芳録』
0388人間七七四年2013/06/03(月) 10:29:28.61ID:PbcC++lL
ギギギ我が見せ場を取るとは…

かくて三成は嘉明に隔意を持つようになったのであった
0389人間七七四年2013/06/03(月) 11:18:08.29ID:qPcKQ5mh
>388、それじゃ悪い話じゃないかw
0390人間七七四年2013/06/03(月) 20:25:37.43ID:aNfUFRr4
数え十二ということは小学5年くらいかな
平和な時代の小姓なら幼くても務まるんだろうけど戦乱の頃だとたいへんだよなあ
0391人間七七四年2013/06/03(月) 20:49:03.24ID:8mohmn0C
戦国期の早熟っぷりは宣教師のお墨付きだからな
曰く「うちらで十歳って洟垂れ小僧だけど、こいつらの十歳は使者とか普通にこなせててすげぇな」
0392人間七七四年2013/06/03(月) 21:18:39.31ID:OGuKHfpT
微妙公(前田利常)が、御旗本衆に大阪の陣でのお話をなされた事があった、

「我々は当時、霧の深い朝で、なかなか大阪城すら見えない中を、周りを手さぐりするようにして進んだ。
そうしているうちに昼前には霧が晴れたのだが、そこで我々は、自分たちの旗と大阪方の旗が触れ合うほど、敵と間近な
場所に居ることに初めて気がついた。

敵は我々に気がつくと城から猛烈に撃ちかけてきて、我らは立ち上がることも出来ない有様であった。
そのうちにだんだんと負傷者や討ち死にするものが出来、このため私は、前線の者たちに早々に撤退しろと伝えるため
使番を出すことにした。

この時の使番は森権太夫と言う者であった。しかし前線は城からの射撃のため、鳥であっても駆け入ることは難しいと
思えるほどであったが、この権太夫は直ぐ様塀の上に土踏まずを踏み出すと、躊躇いなく前線に懸けて行き、
そこの人々に撤退することを伝え、本人はその殿を務めた。

やがて帰ってきた森権太夫の母衣には、銃弾の跡が47,8ほども付いていたが、冥加が良かったのだろう、
体には全く当たっていなかった。

私はこれまでに、あれほど振る舞いの見事な者を見たことがないよ。」

微妙公はこのお話を度々仰っていた。大阪の陣で働きの有っは人々はたくさん居たのに、他の人の話はせず、
この森権太夫殿の話を何度もなさっていたと、これは藤田内蔵充殿が言われたことである。

同じ話は森半左衛門殿にもお話になられたそうだし、かく言う私(著者)自身も承ったことが有る。
(微妙公夜話)

前田利常が、大阪の陣で最も印象に残ったと思われる、森権太夫という家臣についての話である。
0393人間七七四年2013/06/04(火) 08:38:17.49ID:3qsqpFso
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-312.html

森権太夫は銃弾飛び交う中で大胆にも尿を足した人と同一人物かな
0394人間七七四年2013/06/04(火) 09:20:17.69ID:6sJaGlq5
母衣って矢は防げそうだけど弾も防ぐのか?
0395人間七七四年2013/06/04(火) 10:36:58.54ID:MNFMGLF1
>>394
弾道によるんじゃね?
0396人間七七四年2013/06/04(火) 11:07:24.92ID:K+KH0Lsd
垂らした布は球形の弾丸相手なら一定の防弾効果があるらしい
0397人間七七四年2013/06/05(水) 06:04:18.24ID:CPdK6HUg
弘治元年(1555)、中国の毛利元就・隆元親子は大寧寺の変によって殺された大内義隆の遺言を哀れみ、
陶晴賢並びに大内義長を滅ぼし威を中国に振るわれ、将軍家もこれに感じ入り大内の跡を給わった。

一方、大友義鎮(宗麟)は、先に弟義長に大内を継がせ、その光によって近年威を振るい、
肥前肥後、筑前筑後の侍でこれに与する者も少なくなかった。

このような時に、龍造寺隆信公は世の有様をご覧になり、重臣たちを集めてこう仰った

「芸州の元就は現在、陶の一党を滅ぼし中国を合わせんとしているが、これは大内義隆の旧好を忘れず、
義の槍を突いているのである。

一方豊後の大友が隣国に手出ししているのは、全くもって私欲の義である。

私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

そうして毛利元就のもとに遣いを立て、元就と通じたのである。
人は道を守るべきなのである。
(肥陽軍記)

龍造寺隆信、毛利元就の義に感じ通ずる、というお話
0398人間七七四年2013/06/05(水) 06:43:12.39ID:Ege3BC29
童貞じゃないもん(^^)
ソープ嬢にちんちん大きいって褒められたし(*^_^*)
0399人間七七四年2013/06/05(水) 07:38:42.03ID:1sXLC15E
義はともかくとして、大寧寺の変の余波で城を追われて3年間の雌伏を余儀なくされたわけだし
その原因になった陶とそれに与した大友は認めるわけにはいかんよね
0400人間七七四年2013/06/05(水) 19:15:28.07ID:5eUFZbTX
ある説には(田中)吉政は浪人で美濃岐阜辺りを徘徊し、
やっとの事で木綿島の袴一具を買出し、これを着て信長の足軽に出て、

仕物、取籠者などの手柄を多く立てて、ついに士となり、
太閤に仕えてもなお戦功が多いので、ついには岡崎五万石の城主となったという。

私が考えるに、吉政は信長の時、足軽に出て武勇が多かったので宮部の与力に附けられ、
二百石を領せられたのであろう。

山内対馬守や堀尾帯刀などの類は皆信長より秀吉へ附けられた与力であったから、
吉政もこの類であろう。

――『筑後国史 筑後将士軍談』
0401人間七七四年2013/06/05(水) 21:37:04.23ID:R1fwL9pR
>>397
>私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

えっ。
0402人間七七四年2013/06/05(水) 22:26:54.06ID:CPdK6HUg
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は兵を発して朝鮮を征伐した。
このとき黒田長政もその軍勢の先手三大将の一員であり、長政の家臣である
菅正利(当時26歳・後に黒田二十四騎の一人)も長政に従って朝鮮へと赴いた。

これ以前に菅正利は知行200石を給わっており、足軽10人を預けられていたため、今度の軍行では先手を
勤めた。

この年の6月14日、黒田長政の軍勢が朝鮮人と、平安川において激戦となった。
菅正利も命を惜しまず真っ先に進んで励み、戦ったが、川岸の上で敵と暫く組み合い、ついに組み伏せ
止めを刺そうとしている所に、別の敵が駆け寄ってきて上の正利に飛びつき、引き退けようとした。

正利は下の敵を押さえながら上の敵と取組んだが、そのうちに3人とも川の中に落ちてしまった。

川に流されている中、正利は下の敵の上に乗り、もう一人の敵と組み合い戦い続ける。
そうしてどんどん川下へと流れていく中、味方の兵が正利の鳥の丸の指物を見つけ

「六ノ介(正利)かー!?」

と、川に向かって声をかけた。

やがて少し岸際に流れ寄った所を、正利の下人が川下から川に入り彼を引き上げたのだが、
敵と3人、組み合いながら陸へと上がってきた。まだやってたのだ。

敵の内一人は前に傷を負っており、水に入ってすっかり弱っていたのだが、
もう一人は大兵で大変力の強かったので、陸に上がって正利を組み伏せようとした。
しかし正利は咄嗟に脇差を抜いて敵の脇をしたたかに突き通した。
これで敵がようやくに弱った所を、正利は彼の首を取り、もう一人の弱った敵の首も取った。

この働きを黒田長政はよく見られており、後に褒美を与えられた。
(菅氏世譜)
0403人間七七四年2013/06/05(水) 23:00:49.70ID:zCmh6slc
二対一でも虎殺し相手には役不足だったか
0404人間七七四年2013/06/05(水) 23:10:27.14ID:MTdHQHeE
川の中で敵と格闘していて指物がどーのこーの
NGMSにも同じ話があったな、と思って調べたら菅さんの話自体既出だった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5572.html
ドキッ☆KURODAだらけの水泳大会(首ポロリもあるよ)!

しかし、NGMSの時は助けなかったのに、こっちは引っ張りあげたんだな
0405人間七七四年2013/06/05(水) 23:21:06.70ID:kVGk6KDr
川から引き上げても三人取っ組み合い状態って、どんな修羅場だ
0406人間七七四年2013/06/06(木) 08:19:29.29ID:F93NLtNY
最後には三人が渾然一体となった、妖気漂う濃厚なバターが
0407人間七七四年2013/06/06(木) 09:56:38.69ID:gUMHqu1a
如水さんが美味しいパンケーキを作ってくれるんですね
0408人間七七四年2013/06/06(木) 10:05:09.31ID:Dr27dp+R
天正十年六月三日子刻(0時)に京都から飛脚が到来。
「信長公・信忠卿が二条本能寺で昨日二日の朝、惟任が為に御切腹なさ
れました。急ぎ御上洛ありて日向守を討ち平らげるのが当然でしょう」
との旨を長谷川宗仁が密かに申し送ってきた。
秀吉は大いに驚かれたが何事も無かったかのようにふるまった。

四日朝、御馬印だけを持たせ陣を見回られた。いつもは百騎ばかりを
召しつれて見回られるが、京からの話を聞かれてからは、静かに堤を
巡回され、対する輝元の陣も堅固であるように見えた。

即座に毛利家臣安国寺を呼び寄せ「分国を保ちたいのであれば、降参
してもらいたい。そうであれば和睦は長久に続くでしょう」と告げた。

安国寺はこれを承り「もっともの事でもあり、輝元には少しも疎意に
存じられないだろう。御状の趣を申し聞かせましょう」と帰っていった。

輝元は「分国に相違が無いのであれば受諾しよう。起請文を取り交わし
人質を進じよう」と承った。

秀吉はこれであれこれは片付いたと考えられたが、明日五日の朝に返事を
するとして、その日は毛利からの使者を帰された、

五日の朝、小早川、吉川よりそれぞれ使者がきた。
ここに至って秀吉は亡君の事を隠し続けるのも限界であろうと考えられ
「このたび信長公は去る二日惟任日向守の逆心により御父子ともに京都で
弑された、このような状況でも最前に定めた和睦の条件に相違はないか」
と仰せられ「両使は輝元に報告して、その上で決めるがよかろう」と使者
を帰された。

両使は即座に立ち戻り小早川、吉川から輝元に信長公御父子の事を報告し
家老の面々を呼集して、どうするべきかを評議を行った。

若くて勇みがちな人々は、天の与えた幸いであるから和睦を破棄して帰陣
し、世の動きを見られれば良いのではないかと高言するものが多かった。

しかし小早川隆景がこれを諌めたので満座は沈黙し、輝元も尤もであると
考えられた。

輝元は前回送った使者に加えて信長公の御弔として福原越前守広俊を添えて
秀吉の陣に送った。

両使は蜂須賀彦右衛門尉に対して最前に約した和睦の条件で相違なしと、
輝元ならびに小早川、吉川の誓紙をもって申された。

秀吉は大いに悦び。「明日には出立するので、鉄砲五百艇、弓百張、旗
三十本を合力していただきたい。またこちらからも「今後も毛利を粗略には
しない」旨の誓紙を出そうと言われ、福原越前守と安国寺を呼び寄せて
血判に及び、口上を述べられた。

輝元も了承し、即座に人質として元就八男藤四郎(小早川秀包)に桂民部少輔
(広繁)を添えて進上され供奉した。

(日向記)

本能寺の変に伴う毛利家との和睦についての話
0409人間七七四年2013/06/06(木) 10:29:09.76ID:Dr27dp+R
六月六日未の刻に高松を引き払い、沼の城まで帰陣された。その折、
豪雨と疾風に見舞われたので七日はそのまま滞留して、八日に姫路に
至って御帰城なされた。

その日は諸卒を休息させる為に出陣を延期して、九日未明に姫路を
出発して急がれたので、十一日午の刻前に尼崎へ到着した。

秀吉はすぐに落髪し、三七殿(織田信孝)、丹羽五郎左衛門尉(長秀)、
池田紀伊守(恒興)と長子勝九郎(池田元助)等へ使者を送り「中国とは
和睦して今日ここまで参陣しました。軍評定をして明日には惟任を
討ち果たしましょう」と申し入れたので何れも尼崎に集まられ、評議
では一番高山右近、二番中川瀬兵衛尉、三番池田殿と定められた。

十二日には先鋒は山崎天神の馬場芥川の辺りに充満していたが、後陣
はいまだに西宮小清水の辺りを急いでいた。その夜は別々に宿陣して
十三日には山崎表へ一同が揃うようにとの御命令であった。

惟任方へも明日十三日に合戦の上で勝敗を決しようとの旨を言い送り
「望むところである」との返事であった。

伊東佑兵は備中御陣よりお供して姫路に一日逗留、九日には供奉して
御上洛になられた。

(日向記)

日向記による中国大返しの模様
0410人間七七四年2013/06/06(木) 10:33:54.70ID:M7gG74OV
一連の流れとはいえ別逸話扱いならツッコミのために少し間を空けた方がいいんじゃないかなぁと
0411人間七七四年2013/06/06(木) 22:32:35.01ID:Z7rXj5e/
桃川の中野神右衛門の家に佐賀から人が訪ねきたこと。
神右衛門が、
「佐賀に変わりはないか?江戸は無事か?」
と尋ねると、客は、
「江戸は穏やかです。佐賀も異変なしです」
と答えた。
客が帰ったあとに、神右衛門は子供を集め言った。
「今日は客人がわざわざ訪ねて来てくれたから、
馳走をしようと考えていたのだが、
挨拶の仕方が不愉快であったので、
最低限のもてなしをして帰すことにした。
だいたいこのような国境の地に来て、
その家の子供や家来の前で、あの挨拶はないだろう。
『佐賀に異変はないが、一寸先は何が起こるかわからないので、
侍どもが油断するということはありえません』
と挨拶をするべきであろう。」
と訓示したという。
これは父、山本神右衛門から聞いた話だ。
また、この山本神右衛門は、見廻りの人に、
「世の中、変わりはないか?」
と尋ね、
「無事です」
と答えが返ってくると、
「無事とはさても心配なことだ」
と言ったとのことである 【葉隠】
0412人間七七四年2013/06/07(金) 09:55:29.67ID:sVgKc4Yf
>>408
だいたい同じような内容が毛利側、羽柴側両方の史料にも見られるから
どうやらこれが史実みたいね。
0413人間七七四年2013/06/07(金) 09:57:33.23ID:7u8b/B3W
清水宗治「え?俺死ぬ必要あった?」
0414人間七七四年2013/06/07(金) 10:20:01.73ID:Xe9aBHnf
ここまで手の内を明かされて、よく毛利は秀吉を無事に返したよな。
0415人間七七四年2013/06/07(金) 11:15:50.44ID:vwIjszRc
秀吉一人屠るのは簡単だけど、その後の展開が見えなかったんだろ
0416人間七七四年2013/06/07(金) 14:51:28.19ID:EuDxLF/i
それは明智と組んで秀吉を倒し、
次は柴田と組んで明智を倒し、
最後は家康と組んで柴田を倒す・・・なんて巧く行く分けないよな。
0417人間七七四年2013/06/07(金) 15:12:59.77ID:9xWeM5LF
>>413
宗治が死んでなかったら和睦への道は遠のいたんじゃなかろうか
0418人間七七四年2013/06/07(金) 15:34:16.65ID:AyjBnaSK
ん?岡山の直家さんってまだ生きてたっけ?
0419人間七七四年2013/06/07(金) 16:42:19.02ID:9NOimaRp
直家さんは前年の暮れにもう

毛利方としても和睦ができるならそれに越したことはない状況だし、
もっけの幸いと受け入れたんだろうなあ
結局柴田あたりが攻めてきたら元も子もない
0420人間七七四年2013/06/07(金) 18:50:45.19ID:9xWeM5LF
秀吉公山崎合戦で佑兵へ槍をたまわる事

伊東佑兵は秀吉の麾下にあり、備中御陣よりこのかた片時も離れずに
随行していた。

惟任日向守が敗れた時、立派な鎧をまとった武者が一騎で落ちて行った。
秀吉公はこれをご覧になって「能き敵であるぞ、若き者ども討ち取って
高名せよ」と仰せられ「我こそが討ち取らん」と逞しきものが四、五騎
ほど出撃していった。

佑兵はこの中を駆け抜け「返せきたなし」と呼ばわったところ、敵も
もはや遁れ難しと思い引き返してきた所、これをすかさず組み伏せて
討ち取った。

秀吉公はこれを望見して「只今、庵に木瓜の旗をつけて敵を討ち取った
のは日向の伊東ではあるまいか」と仰せられていた所へ、佑兵がかの首
を持参し実検に備えた。

秀吉公の御感浅からず、南都金坊左衛門尉政則が打った三尺長身にくり
から龍を彫り熊の皮の投げ鞘をつけた御槍を手ずから賜り面目を施した。

その槍は今も相伝して家宝としている。

六月十三日、惟任はついに討たれたので秀吉公は凱旋され、信長公の
葬事を営み、大徳寺の塔頭として一宇を建立し総見院と号された。

それから秀吉公は尾州へ向かわれ、織田の幼主を安土城へお入れして、
十一月には江州長浜へ御出陣、濃州一国を平均に討ち靡けてから宝寺城
(山崎城または天王山城とも呼ばれる)に御帰城された。

(日向記)

日向記に記された山崎の戦いの様子なのだが戦の内容は全てスルー。
まあ佑兵は秀吉の馬廻でしかないから仕方ないんだけど…
0421人間七七四年2013/06/07(金) 18:58:12.56ID:Rg3gkucJ
加藤嘉明は永禄六年正月朔日、賀気村に生まれ、幼名を孫六と称す。
父教明の落魄して美濃にあるや、嘉明もまた従って美濃に来たり、好んで馬を養い、
すこぶる馬術に長じた。

ある日、嘉明が馬を引いて近江長浜に至り、城主加藤景泰に謁して馬を売ろうとした時、
城中に荒馬がいて将士にはこれをうまく操れる者がいなかった。

景泰が命じてこれに試乗させたところ嘉明はすぐに承知し、乗鞍一鞭馳騁思い通りに
ならない事はなかった。

景泰は大いに感歎し、翌日嘉明を引き連れて秀吉に謁見しこの事を語ると、
秀吉は珍しく思って命じて嘉明を景泰の子とし、姓を加藤、名を左馬之助嘉明と改めさせて
家臣に加えた。

――『鹿深遺芳録』

もともと岸氏を称していたのが、三河を逃れて仮に賀気氏を称し、
嘉明が養子になって加藤姓になったということらしい。
0422人間七七四年2013/06/07(金) 19:02:03.80ID:0j7xiByN
空気加藤「父上が余計なことをしなければわたしが地味加藤だったのに」
0423人間七七四年2013/06/07(金) 20:09:46.49ID:khp2Jdun
よく、ラスボスの中国方面軍だけで、毛利は平定出来るけど、自分の手柄を
信長に見てもらうため、わざわざ出陣を要請したみたいな話があるけど
毛利は総大将TERU&叔父さん2人のほぼ全軍といっていい軍勢だし
織田vs毛利の最終決戦を見込んでの出陣要請だよな。
つまり本能寺の変後にTERUが全力でラスボスを追撃すればラスボスは
滝川さん状態になって、播磨あたりまで毛利領って事もありえた。

ま、TERUにそんな決断は出来ないけど。。
0424人間七七四年2013/06/07(金) 20:44:01.57ID:9xWeM5LF
要所要所で大軍が応援に来るのが織田家のスタイルだしね
0425人間七七四年2013/06/07(金) 21:36:07.86ID:8/GFk+8F
>>423
ないない。宇喜多が壁になるんだから追撃するのは愚策極まりないよ。
単純に物事考えずぎ。
0426人間七七四年2013/06/07(金) 21:57:27.11ID:+GqKqFlj
福島正則は、水野次郎右衛門と申す者に、知行2300石を取らせ、この者に普請奉行を申し付けた。
この時水野次郎右衛門、畏れながらと申し上げた

「そのようにお申し付けになった上は、御普請をしっかり行わないものがあった場合は、
それが例え、小関石見、福島丹波、その他組頭などの重臣の方々であっても、そういった時は
必ず罰金などを厳しく取り立てます!」

この水野次郎右衛門の言葉を聞いて、側近の人々を始め家中の身に覚えがある者達、大いに驚き慌てたそうである。

ちなみにこの水野次郎右衛門は徳川家康公も御存知の者で、それは同国の三河の出身であるためであった。
それ故に、彼には度々上意もあったそうである。

(福島太夫殿御事)

こんな所にも居た、しかも例によって一筋縄でいかなそうな三河水野一族。というお話。
0427人間七七四年2013/06/09(日) 08:15:28.91ID:2jQXQQ2r
山田土佐入道(宗昌)の妻と娘は、日向没落の時に置き去りとなり
薩州の軍勢に捕えられ鹿児島に送られ義久に仕える事となった。

義久は名のある武士の妻子であるからと常に懇意にされていたが、
土佐入道が飫肥へ帰参したとの話を聞いて、妻子に衣類金銀を与えて
土佐入道の許へと送られた。情けある事でした。

(日向記)

島津義久が山田土佐入道の妻子を送り返す良い話

山田宗昌は天文年間から活躍していた伊東家の武将で、伊東義祐が
伊予へ移った時には豊後に残って、その後も佐伯惟定の元で島津と
激しく戦い、伊東祐兵が飫肥に復帰した時に帰参した人です。

敵の妻子にも情けをかける島津義久はよく出来た人ですね。
0428匿名大名2013/06/09(日) 11:19:44.47ID:7oA6JdOJ
妻子の見目がよければ多大な情けをかけるお!
0429人間七七四年2013/06/09(日) 11:52:32.88ID:evYMY+3l
ほんとに情けだけかや?
0430人間七七四年2013/06/09(日) 14:38:55.90ID:gVgNBzv/
おい。今生放送に宇野映ってたぞ!
0431人間七七四年2013/06/09(日) 14:39:26.47ID:gVgNBzv/
誤爆
0432人間七七四年2013/06/09(日) 14:40:22.45ID:7F14SXff
情けにはちゃんとそういう意味も
0433人間七七四年2013/06/09(日) 15:29:37.85ID:07+AIUNl
悪久だったら・・・
0434人間七七四年2013/06/10(月) 09:03:01.26ID:W6c3jPw9
佑兵、戦功により河内国半田村を知行する事

北越の柴田勝家を征伐された後、加州は前田利家、越前若狭は丹羽
長秀に与えられた。柳瀬七本槍の面々にもそれぞれ御加増があった。

その頃の佑兵はわずか三十人扶持の堪忍分であったが、たびたびの
軍労を思召して、河州丹南郡の内半田村五百石の知行を賜った。

秀吉公はかつて姫路から御帰陣の時、いかなるついでであったか
「伊東殿は幸先の能い人である。やがて本国へ復帰する事もできる
だろう」と仰せられたと伝えられる。誠に符合する御祝詞であった。

(日向記)
0435人間七七四年2013/06/10(月) 09:39:55.78ID:VILycKP0
梱包に使っていた古新聞の一面コラムが目に留まったので載せてみる。


「灘のけんか祭り」が今年も勇壮に営まれた。
姫路・松原八幡神社の氏子地区のうち、仕切り役の「年番」に当たった東山地区は、3基の神輿を激しくぶつける「神輿合わせ」を披露した。

そのとき歌われた「石搗(いしづき)祝い歌」にこんな一節がある。
「何じゃいの 瓢箪や サーエットエー」。
瓢箪とは信長の中国攻略を指揮し播磨に入った羽柴秀吉。「秀吉がどれほどのものか」。心意気を歌い継いできたという。

祭りは播磨国守護、赤松政則が社殿再建を祝って米を寄進し、喜んだ氏子らが米俵を担いでお旅山に駆け上がったのが起源と伝えられている。
だから秀吉に対置されるのは恐らく赤松氏だろう。

戦国時代には三木の別所長治が秀吉に抗戦。領民を救うため自害し今も敬愛される。
鎌倉〜南北朝にさかのぼれば、現在の上郡町を拠点に室町幕府に貢献した赤松円心の存在感が際立つ。

荘園制度に反発し、「悪党」と指弾された反骨精神。
後醍醐天皇に反旗を翻したものの劣勢になった足利尊氏に、九州への一時撤退を進言した知恵。
尊氏に加勢して、上郡に構えた白旗城に籠城し、敵の軍勢を50日間足止めした勇猛果敢。

播磨のアイデンティティーを語るときに欠かせない円心の坐像が、
12月2日まで姫路の県立歴史博物館で開催中の特別展「赤松円心・則祐(そくゆう)」で鑑賞できる。
不敵な面構えは見覚えがある。
そうだ。祭りで会った男衆の顔だ。

(神戸新聞 正平調 2012.10.29)
0436人間七七四年2013/06/10(月) 09:43:00.62ID:VILycKP0
蛇足ながら・・・

記事に出てくる赤松円心の坐像
http://kamigori.info/akamastu_enshin.html

その木像をヒントに描かれた、上郡町のマスコットキャラ
http://www.hyogo-tourism.jp/tabinet/yurukyara/profile/enshin.html

名物「円心モロどん」(なかなか旨かった。)
http://kamigori.info/enshin_morodon.html
0437人間七七四年2013/06/10(月) 12:23:49.99ID:W6c3jPw9
慶長二年十二月二十二日、佑兵は安哈良より豊前の黒田如水翁へと
宮川甚右衛門を使者として用事の旨を含めて遣わされた。

進物は如水翁へ鷹二羽、由地以益老へ鹿皮十枚である。
甚右衛門は豊前に到着し進物を差し出して用事の旨を申し上げた。

如水翁はこれに会い「よき時期に参られた。使者にだけ伝えたい事が
ある」と御前近くに呼び寄せられ「太閤様は殊の外に衰弱されている
その上天下には怪異が度々おこっており、もし乱世になったら佑兵は
小身であるから家を保つのも心許ない。一時も早く島津へ申し入れて
縁辺を組まれるか、または入魂の契約を結び神文を取り交わしておく
べきであろう。この事を早く朝鮮へ罷り戻って申し伝えよ」
と仰せられた。

甚右衛門は畏まって急ぎ船を出し、正月八日に安哈良に到着。
佑兵に御返答一通りを申し上げてから、隠密の御口上がございますと
言った。御前伺候の小姓どもまで引き下がらせてから、島津と入魂に
するべき趣の巨細を申し上げた。

その頃、島津はカトクへ在陣していたので佑兵は彼陣へ出向かれて、
島津に入魂にしたい旨を談ぜられ、互いに神文を取り交わし、以後は
入魂になられたとのことだ。

(日向記)

黒田如水、乱世を予見する
0438人間七七四年2013/06/10(月) 12:28:50.22ID:UnbnNjc+
如水って、関ヶ原の動乱に乗じて天下狙ってた、て言われるけど
本気で東軍として九州をまとめることで、天下安寧考えてた気もしないではない
0439人間七七四年2013/06/10(月) 12:29:37.05ID:vG5RRJYo
仇敵の島津と仲良くしろって...
0440人間七七四年2013/06/10(月) 19:07:32.54ID:/2Mvl9bz
それが戦国の世の習いだろ、相馬といっしょにするなよ
それに佑兵は国を追われてたことで秀吉の配下になれたし、天下取り事業に加われた
その過程で秀吉の懐刀である如水と昵懇になったので、如水を頼るのは自然な理
また領地を接する大大名の島津に潰されないように約定を交わすのも自然な理
0441人間七七四年2013/06/10(月) 20:06:22.24ID:SAp53zWJ
>>438
むしろ後者だろ
前者は厨二が思いつきそうなネタだ
0442人間七七四年2013/06/10(月) 20:11:44.40ID:GWHqvamu
しかし大河で後者やったら
「左手のエピ省きやがって、捏造するな!」
といちゃもんがくると予想
0443人間七七四年2013/06/10(月) 20:18:11.17ID:gOq1FwJe
なお明治になってできた逸話の模様
0444人間七七四年2013/06/10(月) 21:14:21.39ID:B+lr4YVI
少し前の西日本新聞夕刊に載っていた「地元に伝わる豊臣秀吉伝説」

日本三大松原のひとつに数えられる佐賀県唐津市の虹の松原に
地元の人たちの間で語り継がれてきた秀吉伝説がある

1.景観を楽しむ秀吉が頭が高いとにらみを利かせて以来高く伸びない「にらみ松」
  ひれ伏したようには伸びるが垂直には伸びない(実際は強い潮風が原因)
2.秀吉が騒々しい!と一喝して松原からセミの声が絶えた


話の起源はどちらも不明だという
いい話か悪い話か分からんが、昔から地元の人たちにも畏怖されてたんだなという話
0445人間七七四年2013/06/10(月) 22:01:44.69ID:vG5RRJYo
九州遠征じゃなくて
朝鮮征伐の時の話かね

これは有名だよね
http://www.crossroadfukuoka.jp/jp/event/?mode=detail&;id=4000000000103&isSpot=1
0446人間七七四年2013/06/11(火) 05:46:05.21ID:7kCSsO88
関ヶ原の決戦の前、黒田長政はつらつらと図りを巡らせ、筑前中納言小早川秀秋を味方とし、
東西両軍が乱戦の時に、敵の後ろである松尾山より兵を下ろし裏切りをさせれば、
即座に徳川家康の利運となると考えた。

秀秋の家老平岡石見は長政と内縁が有り、また平岡の家臣である井上越前は、長政の家老、
井上九郎右衛門の弟であったので、彼らを頼りに小早川方にこれを伝えよと、家臣である
大久保伊之助、神吉三八を派遣した所、小早川秀秋は「黒田殿の提案に同心する」との
返事をした。

大久保・神吉が帰ってこのことを伝えると、長政は大いに悦び、重ねて小早川の陣所に、
黒田方より人質として、吉田宮内、大久保伊之助を遣わした。
しかし、秀秋の同心が偽りであり、こちらからの人質たちを手籠めにすることも考えられると、
菅正利を指し添えて遣わした。

菅正利は小早川陣へ行き、そちらの諸将と軍の手立てについても談合し、互いの内通は相整い、
小早川方からの人質として平岡石見の弟を人質として連れ帰った。

この後、小早川秀秋の返り忠にて、終に徳川家康の勝利と成ったのである。
(菅氏世譜)

黒田家側の記録に有る、小早川秀秋寝返りについての逸話である
0447人間七七四年2013/06/11(火) 10:06:27.01ID:nIBCP0EI
>>438
天下を狙ってたと言うのは大げさだろうが、広家宛の書状とか見てると
天下安寧からはほど遠い気がする
0448人間七七四年2013/06/11(火) 12:59:47.06ID:oa9WKeCD
島津攻めの準備万端ですよ行っていいですか?
つって家康に止められたんだっけ
0449人間七七四年2013/06/11(火) 13:15:47.73ID:nIBCP0EI
>>448
一応、家康が薩摩出陣を延期するように要請した書状が届く前に
島津が謝罪してきてたので如水の主導で延期してる。

ちなみに清正は八代攻めを島津に邪魔されたので戦いたかったらしい。
0450人間七七四年2013/06/11(火) 17:43:19.96ID:26GGUzHn
島津攻めの先鋒を受けて開城した立花宗茂が、
島津宛てに徳川と和睦するように勧める書状を10月28日の日付で送ってるし、
これは、状況的に如水か清正の許可を得て送っただろうから、
全体的に積極的には島津を攻める気はなかったんじゃないかな。
0451人間七七四年2013/06/11(火) 20:25:35.22ID:7kCSsO88
備前瀧口城といえば、宇喜多直家が美少年の岡剛介を使い、乞食の老婆を母と偽るなどして
城主である松田氏家臣・サイ所元常を騙して暗殺し、城を奪い取った事で有名だが、この瀧口城は備中の
三村家親による備前侵攻の時に奪われた。

そこで永禄七年(1564)、直家は松田氏などと和解した上で同盟し、瀧口城を攻め、7月9日に、
ついに城の奪還に成功した。

さて、同月11日、宇喜多直家から瀧口城で三村方として戦った、備中幸山城主・石川源左衛門久式に
使いが送られた。

『今回は国人達が不意に合戦に及んでしまい、我々は呉越を隔てることになりましたが、
これは全く私の本意ではありません。

瀧口城の傍にある福輪寺から、討ち死にされた方の死骸を集め置きました。
雑兵の死骸は、福輪寺にて葬礼をいたします。』

直家はこのように申し寄越した。
石川久式はこれを聞いて、直家の懇情に感じ入り、返答を送った。

そして脇田村で討ち死にした石川方の将・小田小太郎の死骸は、彼の郎党である
名越修理と有岡右京が行って福輪寺の山の峰で葬礼をして墓所を築き、印塔を立てた。
また討ち死にした兵429人は、同所の峰に3つの塚を作りそこに取り納め、それは
福輪寺の首塚と呼ばれるようになった。

この後、備中と備前との交通が絶たれたため、備中の諸士でこの合戦で討ち死にした者の
子孫や親族は、2月、7月、8月の彼岸に、代理の僧を福輪寺に立てて墓所に火を灯し
墓に水をかけた。

宇喜多直家が毛利家に従い幕下に入ってからは、直家はこの地の郷民に申し付け、
墓所に石塔を建て、7月13・14日には脇田村、湯廻村、四之御神村の峰々に数万の火を燈し、
討ち死にの子孫、士農工商旧功の恩を思い出し、酒菓を供えて供養した。

宇喜多直家はこのように言った
「敵となり味方となるのも、前因後果の報いなのだ。仇であっても善の心で報いる事が、
義士道というものである。」

これを聞いた、ある古い武士は、こう感想を洩らした
「直家は計略の謀の手腕を持ち、毛利家の威を借りて、まさしく家を興す人物であろう。」

【中國兵亂記】

宇喜多直家の、備中の国人懐柔策の一端が見えるような逸話である。

表面的にはいい話なんだけど、そのとおり受け取っていいのかどうかちょっと迷うのは
直家の人徳なのだろうなw
0452人間七七四年2013/06/11(火) 22:02:19.19ID:NnZK3DSB
直家が生前に周囲から警戒されたのは本当に晩年になってからの小早川隆景と伊賀氏からくらいだからね。

一度浦上宗景に反旗を翻しても許されて味方増やしてるくらいだし。
真の謀略家とは人徳があって信頼される人物でないとなれないんだろう。
0453人間七七四年2013/06/11(火) 22:32:09.22ID:qgKBMWpr
忠家「…お、おう」
0454人間七七四年2013/06/11(火) 22:44:27.52ID:K+2XHs9B
逆にそこまで身内だと怖さがわかっていても、
もうちょい距離のある人には自分だけは大丈夫と思わせる何かがあるのかな
0455人間七七四年2013/06/12(水) 00:02:25.27ID:Vc+Sdv0A
戦で人がたくさん死ぬのが嫌っていういう健気な人だから
守ってあげたい感じになったのかも
0456人間七七四年2013/06/12(水) 00:03:16.33ID:OJeB81yf
>>455
直家のことだと理解するのに時間がかかった
0457人間七七四年2013/06/12(水) 00:06:00.19ID:/qj52nhH
時間がかかった、て
一分もレスまでに経ってないやん
0458人間七七四年2013/06/12(水) 08:40:35.68ID:eNWMgWw/
誠実な人物だと思わせていないと人を騙せないからな
0459人間七七四年2013/06/12(水) 10:07:39.79ID:+e/Yj0vr
あんなに敵対してた
島津と立花が関ヶ原では同じ西軍だったり
直家の逸話も素直に感心する俺みたいな奴は
暗殺されるのだろうな
0460人間七七四年2013/06/12(水) 10:56:00.79ID:dxfa4KPr
星野了哲は佐賀藩衆道の元祖である。
弟子も多く、それぞれその道の一つずつ伝承していた。
枝吉三郎左衛門はその中でも、理論を体得しておられた人だ。
あるとき三郎左衛門が了哲を訪ねると、
「衆道の心得を悟ったか?」
と問われた。
三郎左衛門はそれに、
「好きであるのに好かぬものです」
と答えた。
それを聞くと了哲は喜んで、
「その言葉を待っていたのだ。
それを言えるまで、長年かけて苦労したものだ」
と申されたとのことだ。

後年、三郎左衛門にその言葉の意味を問う者がいた。
そのとき三郎左衛門は、
「衆道の極意は命を捨てることです。
そうでなければただの恥となりましょう。
しかし衆道のために命を捨てるならば、
武士の道のため捨てる命がなくなります。
そこで私は、好きであるのに好かぬものと理解しました」
と答えた 【葉隠】
0461人間七七四年2013/06/12(水) 12:01:29.20ID:5k95V3pO
釜山浦城に御在番のとき、大将毛利壱岐守(勝信)と当家の間で喧嘩騒動
が起こり、毛利の者どもが大勢で当家船手の者を海へ追い込んだと注進
があった。

まず最初に落合九右衛門尉、宮田久左衛門尉、平賀喜左衛門尉とその他
足軽どもにて交戦し、その時三名が討死した。

さらに河崎大膳亮ら大勢で駆けつけて、敵多数を海へ追い込んだが、
当家の者も数十人が手負いとなった。

その時、落合九右衛門尉の嫡子小辨と言うものは年は十六歳で容顔美麗
であり佑兵様の小姓としてお傍に居たが喧嘩の注進を聞いて駆け向かい
一文字に切って掛かった。

毛利家の侍何某が弓を取って矢を放とうとしていたが、その幼年にして
勇猛な事を感心したのか、それとも美麗なるを惜しんだのか、その矢で
地面を射、小辨の姓名を尋ねこれを讃えて退いた。

喧嘩騒動は寺沢志摩守、島津又七郎、相良左兵衛の三大将が間に入って
和睦となった。

この小辨は元来勇士であり、ある時、佑兵様の目の前で敵を討ち取った。
比類なき働きでもあり、格別のご褒美を賜るであろうと誰もが思ったが
その沙汰は無かった。

この措置について佑兵様に尋ねたところ「褒美を遣わすべきなのは当然の
事である。しかし、かの者は若く余りある勇気を持っている。今褒美を
与えれば、今後も同じような行動に及び討死するのは必定だと思ったので
そうしないのだ。」と仰せられた。

小辨には後にその事とは別に御脇差が与えられた。元服してからは落合
浅之助と名乗り、日向宮崎合戦でも活躍した。

(日向記)

釜山の喧嘩騒動と褒美の与え方の話
0462人間七七四年2013/06/12(水) 16:14:48.87ID:SewYdqbu
してその毛利家の何某とはどなたなのですかな?
0463人間七七四年2013/06/12(水) 16:31:41.93ID:TyHfw7WZ
>>460
衆道の元祖ってなんや…
0464人間七七四年2013/06/12(水) 18:35:13.31ID:osN9UWAL
数字板の守?
0465人間七七四年2013/06/12(水) 21:50:27.31ID:IlT3t1fh
それより衆道の弟子ってなんや・・・
衆道の理論ってなんや・・・
0466人間七七四年2013/06/13(木) 00:09:53.00ID:fOs1Muei
召仕の男女にもし密会の不埒があれば、双方とも斬罪とするのが古今とも武家の重き定法である。
とはいえ、色情は富貴の名主も下賤の者も陰陽合躰の道、人たる者に変わりはない。

そのような事があれば主人は勘弁して双方を呼び出し、当座の戯れなのか夫婦の契約なのか聞き届けるべし。
死生ともに申し合わせた契りだというのならば宥免して罪の程を許し、所帯を持たせよ。

そうすれば男女とも心魂に徹してありがたく思い込み、事ある時には先途の用に立つこともあるだろう。

今川了俊の条目にも「恩の為に死ぬ者は少なく、情の為に死ぬ者は多し」と書かれている。

――『山本道鬼入道百目録聞書』
0467人間七七四年2013/06/13(木) 01:24:13.21ID:WRfY7l51
>>465
「道」がついてるから単純な肉体の男色行為ではないのかもな
死ぬまで秘める恋が最上と言うんだから
秘め通したなら肉体的行為はあるはずないし
0468人間七七四年2013/06/13(木) 05:23:48.10ID:A8WkT8qM
日本の武家社会の衆道の文化をキリシタンの宣教師たちはどう思ったろうな
0469人間七七四年2013/06/13(木) 08:27:00.05ID:zRxxuX0C
修道院でもあったでしょ
0470人間七七四年2013/06/13(木) 09:02:01.16ID:BH4MtpB5
>>468
宣教師の記録だと、「バビロンの風習」「悪魔の習俗」などと批判していて、主に仏教僧が衆道文化の中心だったから
「やっぱり仏教僧は悪魔の使いだ」みたいな記録をしていたな。
0471人間七七四年2013/06/13(木) 09:43:32.07ID:b+eaHdGV
最近まで少年への性的虐待をもみ消していたカトリックがよく言いますな
0472人間七七四年2013/06/13(木) 11:01:19.27ID:X2+vpcge
今日、陣儀(公卿が政策決定を行う会議)があり内府家康公が将軍ならびに
右大臣に補任された。
上卿(陣儀の最上位者)は広橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸左中弁光広
朝臣。参仕弁は坊城左中弁俊昌朝臣。淳和奨学別当、源氏長者、牛車兵仗
等も宣下される。

辰刻、山科内蔵頭(言緒)、冷泉中将為満朝臣が紗狩衣を着用して共に伏見
城内府亭へ向かった。(彼らの役割は家康の装束関係と思われる)

午未下刻、上卿他諸役衆が伏見に向かわれた。

内府は皆が佇立している間に御対面所へ御出でになり上段中央へ南向に
着座された。御装束は左折の折烏帽子、香(紅色の)直垂、露(直垂の袖口から
垂れている紐)は萌黄、前後の腰帯は白生絹。

土御門左馬助久脩が御身固(身体の堅固を祈る儀式)に参り、久脩が退いた後、
上卿・奉行職事・参仕弁等が前に進む。上卿が着座する前に勅使右大弁宰相
(勧修寺光豊)が前に進んだ。

続いて官務(壬生)右大史孝亮が将軍宣旨を葛蓋(文箱)に入れて持参。大沢侍従
(基宿)が受け取り、家康公の御前に置いて披覧。それから御座の脇に置かれた。

西の縁の方に砂金袋が置いてあり、永井右近(直勝)が砂金を葛蓋に入れて大沢
侍従に渡し、大沢侍従は葛蓋を壬生孝亮に返した。

次は(中原)大外記師生が右大臣宣旨を葛蓋に入れて持参。その様子は将軍宣旨
と同じであった。

次は壬生孝亮、氏長者宣持参
次は中原師生、源氏長者宣持参
次は壬生孝亮、淳和奨学両院別当の宣旨持参
次は中原師生、牛車宣持参
次は壬生孝亮、牛車宣持参
次は中原師生、兵仗宣旨持参
その都度、砂金をたまわる。

次は上卿に黄金十枚を台に乗せて給わり鞍置馬も給わる。次は勅使に黄金五枚
並びに鞍置馬を下され、次は奉行職事に黄金五枚を下され、次は参仕弁に、金
五枚枚を下された。各々は御礼を申しあげ、すこししてから座を立った。

上卿と勅使は太刀を折紙にて進上して御礼申された。次は奉行職事と参仕弁は
太刀で御礼申され。次は大外記、官務、少史安陪盛勝、小外記三善英芳、出納職、
清同、職忠、外記、使部重昌、官使部、告使はそれぞれ太刀にて御礼申され。
次に陣官人は太刀は進上せず、それぞれ御礼を申しあげた。

御礼の後は(饗応の為に)常の座敷に上卿以下が入られ平伏する間に、家康公が
お入りになられ予(舟橋秀賢)冷泉(為満)山科(言緒)等もお供して移った。

地下録物(葛蓋に入れられた金額)
将軍宣旨砂金二十両、右大臣宣旨金十両、氏長者宣録、外記、官務へ両宣旨
十両ずつ、牛車両宣旨十両ずつ、淳和奨学両院別当宣録、十両、兵仗宣録、十両
以上、金九枚

少史、小外記、出納、使部、告使、陣官人等へは銀子三枚ずつ下され、
各々に差はつけられ無かった。

(慶長日件録 慶長八年二月十二日条)

家康の将軍宣下の様子である
0473人間七七四年2013/06/13(木) 12:18:09.30ID:o5FqMAIw
太刀にて御礼申され

というと首をスポポポーンと言う想像が先に立つ・・・・憑かれてるだな、俺
0474人間七七四年2013/06/13(木) 16:40:53.30ID:WRfY7l51
衆道文化は公家にもあるぞ。
というか和歌も衆道も公家から武家が影響受けた
0475人間七七四年2013/06/13(木) 20:01:19.27ID:q16XBwe5
>>469
そういった堕落への反動として厳格な一派による内部改革が行われて、
当時わざわざ日本までやって来たのがその連中

極東の異教でもそうなのかよぉぉぉ!?と彼らが思ったかどうかは定かでは無い
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています