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戦国ちょっといい話37

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0001人間七七四年2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0342人間七七四年2013/05/24(金) 11:21:34.86ID:+qovmhjL
>>341
それは冷遇しても言い出す可能性あるから名門の扱いは難しい。
そういう戦略や秩序維持の目的だけではなく、
名門への遠慮や敬意って部分もあるとは思うけど
0343人間七七四年2013/05/24(金) 13:34:50.65ID:azAGZ2bs
蹴鞠の人はもはやそういうことはないけどこう頻繁に遊びに来られると別の意味でうっとうしい
0344人間七七四年2013/05/24(金) 13:45:50.32ID:Ju0ZH8Vp
うっとうしがられるほど遊びに行ってないと危険視されるかもと思って…たわけないか
0345人間七七四年2013/05/25(土) 08:10:35.46ID:++3Iv3+U
伊東祐兵逝去と祐慶家督の事

豊後守祐兵の病はついに治らず、慶長五年十月十一日に
御年四十二歳にして大坂で逝去された。

しかし嫡男祐慶は未だ幼年であり日向に下って合戦を
仕掛けている最中でもあり祐兵逝去が露見すれば、
その威が軽くなり功も成り難いと考え、落合九右衛門、
山縣太郎右衛門、看病の者には山田紀伊介入道玄清など
わずか数名で秘密にし病中の真似をして、日向宮崎の
様子を聞き届けていた。

翌年春の終わり頃にご逝去の旨を披露して御葬礼を営んだ。
法名は報恩寺殿心関宗安大禅定門と申し、当家中興の明君
なれば、上下万民が嘆き悲しむこと事限りなかった。

高橋越中守は殉死しようと思い定めていたが、祐慶が幼年で
あるため、しばらく守り立て七回忌の際に殉死を遂げた。

嫡男左京亮祐慶は十三歳で家督を相続して、慶長六年四月八日
に上洛して家康公に謁見し、翌年四月十日に従五位下修理大夫
に任ぜられた。

(日向記)

激動の時期に若年の当主への相続を成し遂げた伊東家のお話
0346人間七七四年2013/05/25(土) 20:25:30.11ID:WefcJGVz
慶長5年9月14日、関ヶ原前夜の事である。

その未明に、細川忠興の軍勢は、陣屋の外から東軍の諸隊が陣替えを行なっている様子が見え、
これを忠興に報告した所、「どういう事かよく解らない」と述べた所、隼人左馬充殿が御前に上がり
「諸隊は色めき立っております」と報告した。

この時福島正則より、『急ぎこちらにお出で下さい』との遣いが到着し、忠興はそのまま出て行った。
残った家臣たちはこの事を玄蕃殿(忠興弟・細川興元)にも知らせ、そうして何れも陣屋の
小屋の前に出て忠興が帰るのを待った。

すると北の方より、馬に乗り「玄蕃!玄蕃!」と声高に呼びながら、忠興が帰ってきた。
そして小屋前まで乗り付けると、小屋前に居た人々はそのまま立っていた。
ここで忠興は玄蕃に、正則の陣でのことを語った

「太夫殿(正則)の陣所に乗り付けと、太夫殿は手で私を招いた。そこで『こんな時に騒いでは、
下々の気が違う物ですぞ!』と大声で言ったのだが、太夫殿が言われたのは

『吉川(広家)の所から黒田(長政)の所に申越した所によると、昨日は毛利は、東軍の
お味方をすると言ったのであるが、今夜になって治部少輔(三成)が大垣から関ヶ原へと廻り、
色々と仕掛けたため、昨日の状態ならお味方できたのだが、今の状況では、敵対はしないまでも、
御見方も出来ない、』

と言うことであった。」

そして忠興は

「話はこれで済んだ。仕掛けてきた合戦は、ただ受け取るのみである!
急ぎ小屋の前に軍勢を集結させよ!」

そう玄蕃に命じ、また先手の軍勢も、あらかじめ垂井の宿の方に進出させていたため、
忠興はそこから戻らせ、軍勢を伊吹山に続く山際まで移動させ、また黒田長政の備に乗り付けられ、
合戦が始まるまでは、左馬殿(加藤嘉明)、出雲殿(金森可重)、黒田殿(長政)、そして
細川忠興が一所にて、敵味方の状況を観察したとの事である。
(細川忠興軍功記)
0347人間七七四年2013/05/26(日) 19:39:22.77ID:5Oi8POlq
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2048.html
検索したらすでにあったが俺が知ってる話ではちょっと細部が違っていてこんな感じだった

蒲生氏郷の家臣に西村という者がいた
この西村は戦の時に勇敢でいつも一番槍をつけるので人が褒め称えると
「俺を褒めるな。氏郷さまのように俺を理解してくれる人がいるから俺が安心して働けるんだ」
と言って逆に氏郷をもちあげていた

ある合戦の時に秀吉が「これからは一番槍を禁じる。みなで連携して戦をするように」
と命じていたが西村はそれを無視して一本槍をつけると秀吉が怒って氏郷に処分をさせるように命じた
氏郷は自分の為に勇敢に戦ってくれている西村を処分するのに忍びなかったが西村を解雇処分にした
西村は恨み事ひとつも言わずに黙って立ち去った

年日がすぎて西村を呼び戻し、氏郷が一緒に相撲を取ろうと誘うと再三、西村は氏郷を投げ倒した
近くの人が「再就職したいならわざと負けろ」と忠告したが構わず放り投げる
氏郷は「年月が経っているのにさすがに未だに体の衰えがないな」と言うと
西村は「私はつねに殿のことを考え、いつでもお役に立てるように用意しておりました」と言った

氏郷は西村が浪人生活の間に気力が衰えて媚を売るようなことがあれば再び自分の元には置かなかっただろう

こんな感じ
0348人間七七四年2013/05/26(日) 20:50:30.38ID:lFG5zsHQ
>>347
空気読めない悪い話にもなりかねないけど、
空気読む人間は所属する家の衰退も、
敏感に察知できるってことだから、
西村さんの一途タイプは戦乱期に頼もしいだろうな
0349人間七七四年2013/05/27(月) 01:08:55.28ID:taYDyabt
つい最近会津若松に行ってきたので貼っておく
若松は生まれ故郷にちなんだ名前なんだよね

http://uproda.2ch-library.com/667833ZgV/lib667833.jpg
http://uproda.2ch-library.com/667836Bxy/lib667836.jpg

ちなみに、同寺には紀子様の先祖の会津藩士の墓もある
0350人間七七四年2013/05/27(月) 01:21:37.78ID:SSlHN4FS
蒲生氏郷の家臣に蒲生という者がいた。
この蒲生は戦の時に勇敢で功を挙げ、蒲生の姓と郷の字を賜った。
0351人間七七四年2013/05/27(月) 02:06:26.13ID:lLItYNuO
どの量産型蒲生だよ
0352人間七七四年2013/05/27(月) 09:21:18.23ID:q4RGpC9u
河崎駿河守は祐兵の外祖父にあたり、彼の肝煎により日向流浪以来
天正九年までの四年間、大峰修行の護摩を焼いていた。

その時の山伏は三峰と言う人で、生国は越前だったが心ならずも日向に
下国し数年の間、入道殿(義祐)の扶持を受けて在国していた。
三峰は流浪にも同行し、彼は山伏としての働きで歳月を送っていた。

天正九年、三峰は上洛した際に播州姫路はさる天正五年に信長公より
羽柴筑前守秀吉が拝領し、五年にも及ぶ普請でとても賑わっていると
伝え聞き、これを見物しようと立ち寄った。

そこで偶然出会った人物に「御僧は何処の人ですか」と尋ねれたので
「九州日向の者です」と答えた所、「それならば仔細を尋ねたい事が
あるので、こちらにおいでください」と言われた。

三峰はいったいなんだろうと思ったが辞退する訳にもいかず伺候した。
彼は「日向の伊東殿は浪人されたと聞きました。また伊東の東は藤
と言う字でしょうか?」と問われたので、三峰は「伊東の東は字は
ひがしと言う字でございます。島津に国を奪われ四国河野殿の領内で
蟄居しております」申し上げた。

掃部助は「それならば私と祖を同じくする一家です、羽柴殿にお仕え
したいのであれば、若くあられるようだし随分と取成し致しましょう。
私は伊東掃部助と言うものです」と仰せられた。

三峰は「ありがたい話です。急ぎ下国して、この旨を申し上げ早速上洛
するようにして頂きます。その際にはお取り成しの程を頼み入ります」
と申し上げ、急いで伊予に下国した。

この旨をありのままに言上したが、伊予道後は人の心根も良い国で
あれば名残惜しく、大内殿の情も振り捨てがたいとぐずぐずしている間
に月日が経って行った。

三峰は歯噛みしてぜひとも播州へ急がれるべきですとしきりに言上した
ので翌天正十年正月になってようやく、全員が小舟に乗って伊予道後を
後にして播州へと渡海した。

掃部助は即座に秀吉公に祐兵を推挙したが、当時は蔵米が不足しており
新たに浪人を召し抱えるのは難しいとの御意であった。

掃部助は祐兵は器量の優れた若武者であるから、秀吉公にお目に掛かり
さえすれば召し抱えられるはずだと考え、御通路に祐兵を置かれた。

案の定秀吉公がご覧になられ、何者かと尋ねられたので「日向の伊東で
ございます」と言上したところ「器量たくましき勇士である、扶持を
与えよう」と仰せられ、30人扶持を下された。

祐兵はその時までは六郎五郎と称していたが、掃部助が「それは
よろしくないでしょう民部大輔と名乗られては如何」と勧めたので以後は
民部大輔と名乗ることにした。

(日向記)

祐兵、秀吉公に仕える
0353人間七七四年2013/05/27(月) 09:38:31.50ID:q4RGpC9u
>>352 の続きの話

伊東掃部助は入道殿(伊東義祐)も秀吉公にお目見えされるのが宜しいで
しょうと申された。

しかし入道殿は「元は日向の太守にして代々藤家の名家である。その上
すでに三品に叙し、歳も七旬を越えようとしている。たとえ流浪の身で
あると言えどもなんの面目があって羽柴藤吉ごときに追従できるだろうか。
但し子孫再興の為なので祐兵は別だ」と申され、遂に謁見されなかった。

(日向記)

三位入道、面目の為に秀吉との謁見を断る
0354人間七七四年2013/05/27(月) 12:50:56.35ID:F/21qvt6
まあ、自分はプライドを取って、息子には実を取らせるってことで両面通した話だな>義祐さん
まあその後野垂れ死にに近い状態になったから体調が悪い状態で会うわけにもいかなかった、って部分もあるんかねえ
0355人間七七四年2013/05/27(月) 13:52:37.96ID:RvMipcHU
これは日向伊東氏の良い話っていうより伊東長実の良い話だと思うんだけど、
話の流れには諸説あるよね
三峯側が長実を頼っていったとか
0356人間七七四年2013/05/27(月) 14:43:19.82ID:q4RGpC9u
>>355
たしかに伊東掃部助の良い話って感じですね。
ただ掃部助が長実かどうかは官途からして微妙な気がします。
0357人間七七四年2013/05/27(月) 16:37:58.12ID:XFfsTUPl
去年の年末頃に蒲生家臣だった先祖の話を書きこんだ者です。
あの後いろいろ調べてみました。

実は松坂に遠い親戚と言うか昔から付き合いのある家があり、苗字も同じなので少々話を聞かせてもらってきました。
その家も元は氏郷公に仕えていてうちの親戚だそうですが会津移封以前に商人に転向したそうです。
江戸時代に交流はあまりなかったそうですが戊辰戦争終結直後、その松坂の親戚がこちらを心配して連絡を取ったことから交流が復活、太平洋戦争時には逆に松坂の親戚を疎開させたそうです。
これといった特別な話はありませんがせっかくなので少し。

蒲生家に仕える前の話ですが、所謂地侍であったそうです。
いつも特定の家に仕えている訳ではなくそのときによってころころ勢力を変えていたとか。
時にはあえて親兄弟が別れるというプチ真田家のようなこともしていたようです。
規模は全く違いますが割とよくある手段だったのかもしれません。

それからあまり戦国関係ありませんが曾祖父の訛りがやや変わっていました。
私の実家近辺は大河ドラマの会津弁をやや乱暴にした訛りなのですが、なんというか西の方のイントネーション寄りだったように思います。
偶然当時のビデオが残っていたので聞いてみたのですが、今聞いてみても会津弁とはどことなく違っているようです。
私自身、喋っているのは標準語寄りの会津弁のつもりなのですが地元の友達からはちょっと違うように聞こえるとのこと。

そういや工場長のお墓に毎年お参りに行ってたなーとか今考えると色々あったりします。
何か分かったらまた来るかもしれませんのでその時はよろしくお願いします。
0358人間七七四年2013/05/28(火) 12:09:24.64ID:NL44dUxg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原に敗れた石田治部少輔(三成)は伊吹山に退き隠れていた所を、
田中越前守(吉政)の家臣に捕らえられた。
小西摂津守(行長)、安国寺恵瓊も方々にて捕らえられ、3人共に洛中を引き回すということになった。

この時太夫殿(福島正則)はこの3人に小袖を2つ贈った。
正則の厚志に、中でも石田三成は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、着衣を着替え
正則の贈った小袖を着て洛中を引き回され、三条河原にて斬首された、とのことである。
(福島太夫殿御事)
0359人間七七四年2013/05/28(火) 17:52:34.35ID:TlJeSdSw
侍だな
0360人間七七四年2013/05/28(火) 17:55:19.11ID:NL44dUxg
>>358
あ、少し書き間違えましたすいません。4行目

×この3人に小袖を2つ贈った
○この3人に小袖を2つづつ贈った
0361人間七七四年2013/05/29(水) 10:05:45.23ID:17RD7LED
この話既出じゃね?
0362人間七七四年2013/05/29(水) 10:15:02.35ID:1Cbsdpkf
三成「家康、田中吉政、黒田長政、福島正則、みんなが服くれるの、でもこんなにたくさん着れないの」
0363人間七七四年2013/05/29(水) 10:19:31.52ID:+uk4+4+v
お色直しタイムが必要だな
0364人間七七四年2013/05/29(水) 11:12:31.22ID:GL+Xoqqs
引き回し中にお色直しとな
0365人間七七四年2013/05/29(水) 11:15:17.25ID:gcBK2x6w
三成それ白無垢やない白装束や
0366人間七七四年2013/05/29(水) 12:34:35.54ID:sFq67Zj3
続きまして、頸部入刀です
0367人間七七四年2013/05/29(水) 12:42:38.81ID:OiSrvu48
三歳さまが手本を見せるようです
0368人間七七四年2013/05/29(水) 13:43:27.56ID:GL+Xoqqs
三歳様は福知山城へおいでですので、他の方におまかせするしか
0369人間七七四年2013/05/29(水) 14:44:43.17ID:GL+Xoqqs
義益様が御早世されて以来、永禄十二年より天正五年までの前後九年間。
慶龍丸(伊東義賢)御若年ゆえ祖父三位入道殿(伊東義祐)が後見していた。

天正五年八月、六郎義賢が十一歳の時に公方義昭公へ御太刀を進上。
これにより御書を頂戴し家督の祝儀として左京亮に任じられた。

九月十六日、八幡御神事の時には前代よりの吉例に任せて騎馬にて御社参。
御陣代は祖父入道が勤められた。

九月二十八日の夜より怪星が西南の方角に現れ、十一月に入るまで止まず。
その光は闇の夜も月夜の如く照らし四十日間も続いた。

(日向記)

日向記では「義賢様家督の事」と言うタイトルなのだが、注目すべきは
どちらかと言うと怪星の方なのだ。

この怪星はむろん死兆星…ではなくて、絶対等級?1.8等と言われる大彗星。
甫庵信長記の松永弾正謀反のところでも触れられている。

西洋ではティコ・ブラーエがこの大彗星の観測結果から、現象が月よりも
遠方で起きていることを証明し旧来の天動説を覆す重要な証拠となった。
0370人間七七四年2013/05/29(水) 15:13:26.75ID:GL+Xoqqs
>>369
文字化けすまぬ。絶対等級-1.8等でした。
0371人間七七四年2013/05/29(水) 21:07:45.85ID:+2HHqZSd
40日間ってすげーな。
0372人間七七四年2013/05/30(木) 01:09:56.82ID:f0yYgYYI
>>358>>360
太夫殿ではなく越中守殿であれば初めの書き方で間違いないはずだ
「三将二桃」の故事があるからな
0373人間七七四年2013/05/30(木) 06:18:53.27ID:NLkeaN4h
米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

先年、米良美濃守(矩重)は当家の恩を忘れ、領する所の三ツ山、
須木の地を島津兵庫頭(義弘)に捧げて背いた。

これが伊東家没落の始まりとなり、ことに天正五年に島津義久が
日向へ出陣した時には先鋒を命じられ、一番に乗り入れた事で本領
を安堵され義久の幕下となっていた。

しかし美濃守は一時の恨みで数代の主君を裏切った事が心の重荷と
なり日夜苦しみつづけていたが、天正十五年の九州征伐後に祐兵が
飫肥の領主として復帰する事を知った。

美濃守は生きて日々を不快に過ごすよりも、帰参して先非を懺悔
してから殺された方が良いと考え、密かに薩摩を立ち退き祐兵の
前でその旨を述べた。

敵ともなり味方ともなるのは勇士の習いでもあるが、かの美濃守の
反逆は随一のもので、特に島津の先鋒となり国を乱したものである
から死罪にするのが当然であろうと誰もが考えていた。

しかし祐兵は先非を悔い死をもって詫びようと言うのは奇特である
として御感浅からず、その罪を許してすぐさま知行を与えた。

米良美濃守は、祐兵逝去の後も修理大夫祐慶に仕えて清武の地の
地頭に任じられたが程なく病を得て亡くなった。

末期の際に嫡子勘之助に「私が先非を悔い当家へ戻った時、その罪
を許しあまつさえ深く情けをかけていただいたので面目を保つこと
が出来た。祐兵様が逝去なされた時には報恩の為に殉死しようと
思っていたが、世は静かならずして祐慶様も幼年であられたので、
死をもって忠功を果たす機会も別にあるだろうと止めていたところ、
更に当地の地頭まで任され、その厚恩ははなはだしい。汝は祐慶様
に忠節を遂げ殉死の約束をして欲しい」と言い残した。

これにより祐慶逝去の際に勘之助は殉死を遂げた。

(日向記)

一度は謀反までした米良美濃守が前非を悔いて忠節を尽くす話

米良美濃守が伊東家に背いた話しは下記を参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7574.html
0374人間七七四年2013/05/30(木) 18:34:39.07ID:REgp+8SU
当州の野民村翁の伝話によると(田中)吉政は筑後入国の時、自ら扇を開き、
「一石取った兵部が一国取った。見さいな」と言って舞ったのだという。

よって、元足軽であることは明らかである。

――『筑後国史 筑後将士軍談』
0375人間七七四年2013/05/30(木) 20:35:43.78ID:CulmnOIK
私(山本常朝)が若いころ、
沢辺平左衛門の介錯をしたときの話だ。
中野数馬が私の介錯を褒める手紙を送ってきた。
それは、
「山本殿こそが中野一門の誉れである」
などと言う大げさな書面のものだった。
敵首ならまだしも、介錯くらいのことで、
ここまで褒めるとは、老人とは大げさなものだ。
と、その時は思っていたのだが、
しかし、その後、いろいろ経験して、
深くみるようになると、
それが、いかにも老練な人の行いだとわかるようになった。
若い者に対しては、ほんの少しでも武士らしい行いがあれば、
褒めて喜ばせ、勇往邁進するようしてやるためなのである。
中野将監からも、そのときすぐに褒める手紙が届いた。
二通の手紙は今でも保管してある。
山本五郎左衛門からは鞍と鐙が贈られてきた 【葉隠】
0376人間七七四年2013/05/30(木) 23:37:41.43ID:h4aiswuR
これ葉隠全部書き写すまでやる気?
0377人間七七四年2013/05/31(金) 00:22:27.51ID:1yvEeHXV
高虎の兜

藤堂高虎の唐冠形兜は、左右に5尺の脇立物を持つ。
プロペラともウサミミともいう。


大坂夏の陣開戦前夜、高虎はこの唐冠形兜を
甥の藤堂玄蕃良重にかぶせて言った。
「わしはこの兜をつけて、度々の合戦にも一度も遅れをとらなかったものだ。
これを譲ることができる若者はそなたしかいない。」

玄蕃は身に余る名誉に打ち震えた。
何とか優れた高名を表し高虎の恩に報いたいと、胸のうちを伝えた。
「某は今年二十三歳、大兵にして剛強。
三幅の大幟を指物にしたいところですが、
これに耐える馬がないのが残念でございます。」


しかし、気鋭の若武者のはやる血気は、裏目に出た。
功を逃さんと、木村重成の右翼隊に猛進した玄蕃は、
瀕死の深手を負ってしまう。
陣地に戻った玄蕃は、家臣に抱きかかえられて馬から降り、
小屋に担ぎ入れられた。
すると玄蕃はどういうわけか、手を挙げ、苦しい声で、
「羽根が、羽根が」
と言う。
高虎から拝領した兜の脇立物を、狭い小屋内で傷付けるのではないかと
思いやってのことだった。
死に際しても、主君への恩を重んじる心遣いに人々は涙した。

玄蕃のもとに駆けつけた高虎も
もはや舌がこわばり言葉も通じず、ただ高虎の顔を眺めるばかりの玄蕃に、
「玄蕃か、玄蕃か、」
と言うのが精一杯、あとは言葉にならなかったという。

高虎は後にこれを「手柄の討死」と称え、おおいに嘆いたという。

                            「元和先鋒禄」
0378人間七七四年2013/05/31(金) 00:30:26.46ID:21x4znql
藤堂玄蕃というと、嶋左近の息子と一騎討して死んだ人を思い浮かべた
その息子の逸話か
03793762013/05/31(金) 00:35:01.12ID:8iB07g/Y
質問の意図がよくわからないけど、
別にそんな予定はないですよ
03803752013/05/31(金) 00:41:55.46ID:8iB07g/Y
おれが>>375で、>>376さんへのレスだね
わかりにくくてごめん
0381人間七七四年2013/05/31(金) 00:42:44.04ID:1yvEeHXV
>>378
そうです。
関ヶ原で討死した良政の息子が良重。
0382人間七七四年2013/05/31(金) 09:53:03.86ID:6m//xU86
まとめサイト見てここに来たけど
以前、高橋紹運の家臣の子孫で家伝を書き込んだ人
俺の高校時代の友人だと思う
紹運と道雪の話のやつ
俺は今、地元を離れているので長い間会ってないけど
お互い日本史好きもあって仲良かったので他人に話さないことも話してくれたし
家にも遊びに行った事があるし紹運の肖像画とかも見せてもらった
曲がった事や嘘が嫌いで確かに「サムライ」みたいな今時に少ない奴だったねw
実はスレの時代と違うけど彼のおじいさんの弟さんが太平洋戦争で亡くなってるんだけど
亡くなる1日前の日付で書かれた手紙の話も聞いたことがある
両親や兄妹への感謝の言葉と晴れやかな今の心境みたいなものが書かれてて
「国を守るために、皆様を守るため、祖霊のもとへと参ります。さようなら」だったかな
血は争えないなと感じ入って、よく内容を覚えてる
ちなみに神風特別攻撃隊だよ
0383人間七七四年2013/05/31(金) 11:32:56.14ID:8MdCU9V/
三斎「またキツネ憑きか」
0384人間七七四年2013/06/01(土) 14:11:23.70ID:99rel95H
小十郎「熱々の茶でござる」
0385人間七七四年2013/06/02(日) 11:36:42.89ID:b++FDpAO
高松の城という名城がある。
三方は深い沼が遠くまで広がり普段でも人馬が通ることが出来ない。
残る一方は水堀が幾重にも連なり深く水をたたえゆるやかに波うっている。
毛利家が数年にわたり精を尽くして拵えた要害である。

とりわけ城主は勇気智謀を兼備する清水長左衛門尉(宗治)という者だ。
輝元より加勢として弓鉄砲の頭難波伝兵衛尉、近松左衛門尉など二千
を超える軍勢が到着して籠城した。

秀吉卿はただ水攻めするより他に策は無いとお考えになられ、近辺の
在々を放火してから堤を築いて攻めようと、焼き払いに出向かれた。

四月十三日から城の周辺三里の間に堤を築き始めて、昼夜の別も無く
急いで二十五日には完成した。五月一日より大小の河川の水を引き入れ、
谷川にも水道を付けかけられた。

五月十日頃には大半が水に浸かって人が住める場所は無くなっていた。
堤の上には柵をめぐらせ、下には町屋造りに小屋を建て小路をこしらえ
夜番廻番が絶えることが無かった。

堤の近くには十町間隔で要害を拵えて軍兵を入れおき、終日油断なく
警戒をつづけていた。

五月十二日、毛利輝元の先勢五万騎を小早川隆景、吉川元春が大将と
して率い釈迦峰不動嵩に陣を敷いた。五月二十日には輝元が着陣して
高松城を救おうとするかに見えたが、両陣の間の十町ばかりが大河か
滝のようになって隔てていた為、勝敗を決し様がなく対陣がながなが
と続くと思われた。

秀吉卿はついに毛利と決戦する時が来たとお考えになり、五月十五日
に信長公へ飛脚を送られ「輝元が高松城を救う為に数万騎を率いて
出陣してきたので対陣しております。御合力をいただければ、その軍勢
をすぐさま追い崩して、今年中に西国はことごとく幕下に属されるのは
確実でしょう」と言上した。

信長公は、惟任日向守(明智光秀)、筒井順慶、長岡与一郎(細川忠興)、
池田紀伊守父子、中川瀬兵衛、高山右近など総計三万五千余騎を羽柴
筑前守に合力させるべく五月下旬に備中へ向けて出陣するように仰せ
だされた。

惟任日向守は家康公御上洛に馳走するよう仰せだされていたが、この
ように事が急だったので言うまでも無く従われた

五月二十五六日の頃より高松の町屋はことごとく水に沈んでしまった為、
清水宗治兄の月清入道、難波、近松も降を乞い、六月四日午刻に小舟一艘
が乗り出し、皆腹を切った。検使堀尾茂助は四人の首を添えて秀吉公の
お目に掛けた。彼らはいずれも仁義の死を遂げた者であった。

六月五日朝、堤を切って落とし水が流れ出す音は千雷のようであった。
そして高松城を請けとり、杉原七郎左衛門尉が入れ置かれた。

伊東民部大輔祐兵は冠城の御陣より高松御陣に六月まで供奉されていた。

(日向記)

日向記に記された高松城水攻めの記録である。

関連する本能寺の話が別項として立てられてるので、この部分だけを
見てると「えっ?」と言う印象を受けてしまう。
0386人間七七四年2013/06/02(日) 13:01:05.84ID:/nnh54fQ
>>276
義光の逸話は無理に鮭という文字を入れないほうが読み易いし親しめるな
この頃は親子仲良いのか
0387人間七七四年2013/06/02(日) 23:49:28.53ID:8NTJDnCZ
時に天正二年、加藤嘉明は十二歳であった。同三年五月、秀吉が播州三木城を攻める時に当たり、
大雨がしきりに降ったので秀吉の戦袍が濡れてしまった。

日暮に本営へと帰った秀吉が戦袍を脱ぐと、嘉明は火を焚いてこれを乾かした。
これについて秀吉が「小坊は何をしておる」と問うと、嘉明は「君公が明日出軍される時に
用を為せるようにしようと思いました」と答えた。

秀吉は賛美して「幼年にして既にこの注意とは、後日には名将となることであろう」と言った。

――『鹿深遺芳録』
0388人間七七四年2013/06/03(月) 10:29:28.61ID:PbcC++lL
ギギギ我が見せ場を取るとは…

かくて三成は嘉明に隔意を持つようになったのであった
0389人間七七四年2013/06/03(月) 11:18:08.29ID:qPcKQ5mh
>388、それじゃ悪い話じゃないかw
0390人間七七四年2013/06/03(月) 20:25:37.43ID:aNfUFRr4
数え十二ということは小学5年くらいかな
平和な時代の小姓なら幼くても務まるんだろうけど戦乱の頃だとたいへんだよなあ
0391人間七七四年2013/06/03(月) 20:49:03.24ID:8mohmn0C
戦国期の早熟っぷりは宣教師のお墨付きだからな
曰く「うちらで十歳って洟垂れ小僧だけど、こいつらの十歳は使者とか普通にこなせててすげぇな」
0392人間七七四年2013/06/03(月) 21:18:39.31ID:OGuKHfpT
微妙公(前田利常)が、御旗本衆に大阪の陣でのお話をなされた事があった、

「我々は当時、霧の深い朝で、なかなか大阪城すら見えない中を、周りを手さぐりするようにして進んだ。
そうしているうちに昼前には霧が晴れたのだが、そこで我々は、自分たちの旗と大阪方の旗が触れ合うほど、敵と間近な
場所に居ることに初めて気がついた。

敵は我々に気がつくと城から猛烈に撃ちかけてきて、我らは立ち上がることも出来ない有様であった。
そのうちにだんだんと負傷者や討ち死にするものが出来、このため私は、前線の者たちに早々に撤退しろと伝えるため
使番を出すことにした。

この時の使番は森権太夫と言う者であった。しかし前線は城からの射撃のため、鳥であっても駆け入ることは難しいと
思えるほどであったが、この権太夫は直ぐ様塀の上に土踏まずを踏み出すと、躊躇いなく前線に懸けて行き、
そこの人々に撤退することを伝え、本人はその殿を務めた。

やがて帰ってきた森権太夫の母衣には、銃弾の跡が47,8ほども付いていたが、冥加が良かったのだろう、
体には全く当たっていなかった。

私はこれまでに、あれほど振る舞いの見事な者を見たことがないよ。」

微妙公はこのお話を度々仰っていた。大阪の陣で働きの有っは人々はたくさん居たのに、他の人の話はせず、
この森権太夫殿の話を何度もなさっていたと、これは藤田内蔵充殿が言われたことである。

同じ話は森半左衛門殿にもお話になられたそうだし、かく言う私(著者)自身も承ったことが有る。
(微妙公夜話)

前田利常が、大阪の陣で最も印象に残ったと思われる、森権太夫という家臣についての話である。
0393人間七七四年2013/06/04(火) 08:38:17.49ID:3qsqpFso
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-312.html

森権太夫は銃弾飛び交う中で大胆にも尿を足した人と同一人物かな
0394人間七七四年2013/06/04(火) 09:20:17.69ID:6sJaGlq5
母衣って矢は防げそうだけど弾も防ぐのか?
0395人間七七四年2013/06/04(火) 10:36:58.54ID:MNFMGLF1
>>394
弾道によるんじゃね?
0396人間七七四年2013/06/04(火) 11:07:24.92ID:K+KH0Lsd
垂らした布は球形の弾丸相手なら一定の防弾効果があるらしい
0397人間七七四年2013/06/05(水) 06:04:18.24ID:CPdK6HUg
弘治元年(1555)、中国の毛利元就・隆元親子は大寧寺の変によって殺された大内義隆の遺言を哀れみ、
陶晴賢並びに大内義長を滅ぼし威を中国に振るわれ、将軍家もこれに感じ入り大内の跡を給わった。

一方、大友義鎮(宗麟)は、先に弟義長に大内を継がせ、その光によって近年威を振るい、
肥前肥後、筑前筑後の侍でこれに与する者も少なくなかった。

このような時に、龍造寺隆信公は世の有様をご覧になり、重臣たちを集めてこう仰った

「芸州の元就は現在、陶の一党を滅ぼし中国を合わせんとしているが、これは大内義隆の旧好を忘れず、
義の槍を突いているのである。

一方豊後の大友が隣国に手出ししているのは、全くもって私欲の義である。

私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

そうして毛利元就のもとに遣いを立て、元就と通じたのである。
人は道を守るべきなのである。
(肥陽軍記)

龍造寺隆信、毛利元就の義に感じ通ずる、というお話
0398人間七七四年2013/06/05(水) 06:43:12.39ID:Ege3BC29
童貞じゃないもん(^^)
ソープ嬢にちんちん大きいって褒められたし(*^_^*)
0399人間七七四年2013/06/05(水) 07:38:42.03ID:1sXLC15E
義はともかくとして、大寧寺の変の余波で城を追われて3年間の雌伏を余儀なくされたわけだし
その原因になった陶とそれに与した大友は認めるわけにはいかんよね
0400人間七七四年2013/06/05(水) 19:15:28.07ID:5eUFZbTX
ある説には(田中)吉政は浪人で美濃岐阜辺りを徘徊し、
やっとの事で木綿島の袴一具を買出し、これを着て信長の足軽に出て、

仕物、取籠者などの手柄を多く立てて、ついに士となり、
太閤に仕えてもなお戦功が多いので、ついには岡崎五万石の城主となったという。

私が考えるに、吉政は信長の時、足軽に出て武勇が多かったので宮部の与力に附けられ、
二百石を領せられたのであろう。

山内対馬守や堀尾帯刀などの類は皆信長より秀吉へ附けられた与力であったから、
吉政もこの類であろう。

――『筑後国史 筑後将士軍談』
0401人間七七四年2013/06/05(水) 21:37:04.23ID:R1fwL9pR
>>397
>私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

えっ。
0402人間七七四年2013/06/05(水) 22:26:54.06ID:CPdK6HUg
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は兵を発して朝鮮を征伐した。
このとき黒田長政もその軍勢の先手三大将の一員であり、長政の家臣である
菅正利(当時26歳・後に黒田二十四騎の一人)も長政に従って朝鮮へと赴いた。

これ以前に菅正利は知行200石を給わっており、足軽10人を預けられていたため、今度の軍行では先手を
勤めた。

この年の6月14日、黒田長政の軍勢が朝鮮人と、平安川において激戦となった。
菅正利も命を惜しまず真っ先に進んで励み、戦ったが、川岸の上で敵と暫く組み合い、ついに組み伏せ
止めを刺そうとしている所に、別の敵が駆け寄ってきて上の正利に飛びつき、引き退けようとした。

正利は下の敵を押さえながら上の敵と取組んだが、そのうちに3人とも川の中に落ちてしまった。

川に流されている中、正利は下の敵の上に乗り、もう一人の敵と組み合い戦い続ける。
そうしてどんどん川下へと流れていく中、味方の兵が正利の鳥の丸の指物を見つけ

「六ノ介(正利)かー!?」

と、川に向かって声をかけた。

やがて少し岸際に流れ寄った所を、正利の下人が川下から川に入り彼を引き上げたのだが、
敵と3人、組み合いながら陸へと上がってきた。まだやってたのだ。

敵の内一人は前に傷を負っており、水に入ってすっかり弱っていたのだが、
もう一人は大兵で大変力の強かったので、陸に上がって正利を組み伏せようとした。
しかし正利は咄嗟に脇差を抜いて敵の脇をしたたかに突き通した。
これで敵がようやくに弱った所を、正利は彼の首を取り、もう一人の弱った敵の首も取った。

この働きを黒田長政はよく見られており、後に褒美を与えられた。
(菅氏世譜)
0403人間七七四年2013/06/05(水) 23:00:49.70ID:zCmh6slc
二対一でも虎殺し相手には役不足だったか
0404人間七七四年2013/06/05(水) 23:10:27.14ID:MTdHQHeE
川の中で敵と格闘していて指物がどーのこーの
NGMSにも同じ話があったな、と思って調べたら菅さんの話自体既出だった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5572.html
ドキッ☆KURODAだらけの水泳大会(首ポロリもあるよ)!

しかし、NGMSの時は助けなかったのに、こっちは引っ張りあげたんだな
0405人間七七四年2013/06/05(水) 23:21:06.70ID:kVGk6KDr
川から引き上げても三人取っ組み合い状態って、どんな修羅場だ
0406人間七七四年2013/06/06(木) 08:19:29.29ID:F93NLtNY
最後には三人が渾然一体となった、妖気漂う濃厚なバターが
0407人間七七四年2013/06/06(木) 09:56:38.69ID:gUMHqu1a
如水さんが美味しいパンケーキを作ってくれるんですね
0408人間七七四年2013/06/06(木) 10:05:09.31ID:Dr27dp+R
天正十年六月三日子刻(0時)に京都から飛脚が到来。
「信長公・信忠卿が二条本能寺で昨日二日の朝、惟任が為に御切腹なさ
れました。急ぎ御上洛ありて日向守を討ち平らげるのが当然でしょう」
との旨を長谷川宗仁が密かに申し送ってきた。
秀吉は大いに驚かれたが何事も無かったかのようにふるまった。

四日朝、御馬印だけを持たせ陣を見回られた。いつもは百騎ばかりを
召しつれて見回られるが、京からの話を聞かれてからは、静かに堤を
巡回され、対する輝元の陣も堅固であるように見えた。

即座に毛利家臣安国寺を呼び寄せ「分国を保ちたいのであれば、降参
してもらいたい。そうであれば和睦は長久に続くでしょう」と告げた。

安国寺はこれを承り「もっともの事でもあり、輝元には少しも疎意に
存じられないだろう。御状の趣を申し聞かせましょう」と帰っていった。

輝元は「分国に相違が無いのであれば受諾しよう。起請文を取り交わし
人質を進じよう」と承った。

秀吉はこれであれこれは片付いたと考えられたが、明日五日の朝に返事を
するとして、その日は毛利からの使者を帰された、

五日の朝、小早川、吉川よりそれぞれ使者がきた。
ここに至って秀吉は亡君の事を隠し続けるのも限界であろうと考えられ
「このたび信長公は去る二日惟任日向守の逆心により御父子ともに京都で
弑された、このような状況でも最前に定めた和睦の条件に相違はないか」
と仰せられ「両使は輝元に報告して、その上で決めるがよかろう」と使者
を帰された。

両使は即座に立ち戻り小早川、吉川から輝元に信長公御父子の事を報告し
家老の面々を呼集して、どうするべきかを評議を行った。

若くて勇みがちな人々は、天の与えた幸いであるから和睦を破棄して帰陣
し、世の動きを見られれば良いのではないかと高言するものが多かった。

しかし小早川隆景がこれを諌めたので満座は沈黙し、輝元も尤もであると
考えられた。

輝元は前回送った使者に加えて信長公の御弔として福原越前守広俊を添えて
秀吉の陣に送った。

両使は蜂須賀彦右衛門尉に対して最前に約した和睦の条件で相違なしと、
輝元ならびに小早川、吉川の誓紙をもって申された。

秀吉は大いに悦び。「明日には出立するので、鉄砲五百艇、弓百張、旗
三十本を合力していただきたい。またこちらからも「今後も毛利を粗略には
しない」旨の誓紙を出そうと言われ、福原越前守と安国寺を呼び寄せて
血判に及び、口上を述べられた。

輝元も了承し、即座に人質として元就八男藤四郎(小早川秀包)に桂民部少輔
(広繁)を添えて進上され供奉した。

(日向記)

本能寺の変に伴う毛利家との和睦についての話
0409人間七七四年2013/06/06(木) 10:29:09.76ID:Dr27dp+R
六月六日未の刻に高松を引き払い、沼の城まで帰陣された。その折、
豪雨と疾風に見舞われたので七日はそのまま滞留して、八日に姫路に
至って御帰城なされた。

その日は諸卒を休息させる為に出陣を延期して、九日未明に姫路を
出発して急がれたので、十一日午の刻前に尼崎へ到着した。

秀吉はすぐに落髪し、三七殿(織田信孝)、丹羽五郎左衛門尉(長秀)、
池田紀伊守(恒興)と長子勝九郎(池田元助)等へ使者を送り「中国とは
和睦して今日ここまで参陣しました。軍評定をして明日には惟任を
討ち果たしましょう」と申し入れたので何れも尼崎に集まられ、評議
では一番高山右近、二番中川瀬兵衛尉、三番池田殿と定められた。

十二日には先鋒は山崎天神の馬場芥川の辺りに充満していたが、後陣
はいまだに西宮小清水の辺りを急いでいた。その夜は別々に宿陣して
十三日には山崎表へ一同が揃うようにとの御命令であった。

惟任方へも明日十三日に合戦の上で勝敗を決しようとの旨を言い送り
「望むところである」との返事であった。

伊東佑兵は備中御陣よりお供して姫路に一日逗留、九日には供奉して
御上洛になられた。

(日向記)

日向記による中国大返しの模様
0410人間七七四年2013/06/06(木) 10:33:54.70ID:M7gG74OV
一連の流れとはいえ別逸話扱いならツッコミのために少し間を空けた方がいいんじゃないかなぁと
0411人間七七四年2013/06/06(木) 22:32:35.01ID:Z7rXj5e/
桃川の中野神右衛門の家に佐賀から人が訪ねきたこと。
神右衛門が、
「佐賀に変わりはないか?江戸は無事か?」
と尋ねると、客は、
「江戸は穏やかです。佐賀も異変なしです」
と答えた。
客が帰ったあとに、神右衛門は子供を集め言った。
「今日は客人がわざわざ訪ねて来てくれたから、
馳走をしようと考えていたのだが、
挨拶の仕方が不愉快であったので、
最低限のもてなしをして帰すことにした。
だいたいこのような国境の地に来て、
その家の子供や家来の前で、あの挨拶はないだろう。
『佐賀に異変はないが、一寸先は何が起こるかわからないので、
侍どもが油断するということはありえません』
と挨拶をするべきであろう。」
と訓示したという。
これは父、山本神右衛門から聞いた話だ。
また、この山本神右衛門は、見廻りの人に、
「世の中、変わりはないか?」
と尋ね、
「無事です」
と答えが返ってくると、
「無事とはさても心配なことだ」
と言ったとのことである 【葉隠】
0412人間七七四年2013/06/07(金) 09:55:29.67ID:sVgKc4Yf
>>408
だいたい同じような内容が毛利側、羽柴側両方の史料にも見られるから
どうやらこれが史実みたいね。
0413人間七七四年2013/06/07(金) 09:57:33.23ID:7u8b/B3W
清水宗治「え?俺死ぬ必要あった?」
0414人間七七四年2013/06/07(金) 10:20:01.73ID:Xe9aBHnf
ここまで手の内を明かされて、よく毛利は秀吉を無事に返したよな。
0415人間七七四年2013/06/07(金) 11:15:50.44ID:vwIjszRc
秀吉一人屠るのは簡単だけど、その後の展開が見えなかったんだろ
0416人間七七四年2013/06/07(金) 14:51:28.19ID:EuDxLF/i
それは明智と組んで秀吉を倒し、
次は柴田と組んで明智を倒し、
最後は家康と組んで柴田を倒す・・・なんて巧く行く分けないよな。
0417人間七七四年2013/06/07(金) 15:12:59.77ID:9xWeM5LF
>>413
宗治が死んでなかったら和睦への道は遠のいたんじゃなかろうか
0418人間七七四年2013/06/07(金) 15:34:16.65ID:AyjBnaSK
ん?岡山の直家さんってまだ生きてたっけ?
0419人間七七四年2013/06/07(金) 16:42:19.02ID:9NOimaRp
直家さんは前年の暮れにもう

毛利方としても和睦ができるならそれに越したことはない状況だし、
もっけの幸いと受け入れたんだろうなあ
結局柴田あたりが攻めてきたら元も子もない
0420人間七七四年2013/06/07(金) 18:50:45.19ID:9xWeM5LF
秀吉公山崎合戦で佑兵へ槍をたまわる事

伊東佑兵は秀吉の麾下にあり、備中御陣よりこのかた片時も離れずに
随行していた。

惟任日向守が敗れた時、立派な鎧をまとった武者が一騎で落ちて行った。
秀吉公はこれをご覧になって「能き敵であるぞ、若き者ども討ち取って
高名せよ」と仰せられ「我こそが討ち取らん」と逞しきものが四、五騎
ほど出撃していった。

佑兵はこの中を駆け抜け「返せきたなし」と呼ばわったところ、敵も
もはや遁れ難しと思い引き返してきた所、これをすかさず組み伏せて
討ち取った。

秀吉公はこれを望見して「只今、庵に木瓜の旗をつけて敵を討ち取った
のは日向の伊東ではあるまいか」と仰せられていた所へ、佑兵がかの首
を持参し実検に備えた。

秀吉公の御感浅からず、南都金坊左衛門尉政則が打った三尺長身にくり
から龍を彫り熊の皮の投げ鞘をつけた御槍を手ずから賜り面目を施した。

その槍は今も相伝して家宝としている。

六月十三日、惟任はついに討たれたので秀吉公は凱旋され、信長公の
葬事を営み、大徳寺の塔頭として一宇を建立し総見院と号された。

それから秀吉公は尾州へ向かわれ、織田の幼主を安土城へお入れして、
十一月には江州長浜へ御出陣、濃州一国を平均に討ち靡けてから宝寺城
(山崎城または天王山城とも呼ばれる)に御帰城された。

(日向記)

日向記に記された山崎の戦いの様子なのだが戦の内容は全てスルー。
まあ佑兵は秀吉の馬廻でしかないから仕方ないんだけど…
0421人間七七四年2013/06/07(金) 18:58:12.56ID:Rg3gkucJ
加藤嘉明は永禄六年正月朔日、賀気村に生まれ、幼名を孫六と称す。
父教明の落魄して美濃にあるや、嘉明もまた従って美濃に来たり、好んで馬を養い、
すこぶる馬術に長じた。

ある日、嘉明が馬を引いて近江長浜に至り、城主加藤景泰に謁して馬を売ろうとした時、
城中に荒馬がいて将士にはこれをうまく操れる者がいなかった。

景泰が命じてこれに試乗させたところ嘉明はすぐに承知し、乗鞍一鞭馳騁思い通りに
ならない事はなかった。

景泰は大いに感歎し、翌日嘉明を引き連れて秀吉に謁見しこの事を語ると、
秀吉は珍しく思って命じて嘉明を景泰の子とし、姓を加藤、名を左馬之助嘉明と改めさせて
家臣に加えた。

――『鹿深遺芳録』

もともと岸氏を称していたのが、三河を逃れて仮に賀気氏を称し、
嘉明が養子になって加藤姓になったということらしい。
0422人間七七四年2013/06/07(金) 19:02:03.80ID:0j7xiByN
空気加藤「父上が余計なことをしなければわたしが地味加藤だったのに」
0423人間七七四年2013/06/07(金) 20:09:46.49ID:khp2Jdun
よく、ラスボスの中国方面軍だけで、毛利は平定出来るけど、自分の手柄を
信長に見てもらうため、わざわざ出陣を要請したみたいな話があるけど
毛利は総大将TERU&叔父さん2人のほぼ全軍といっていい軍勢だし
織田vs毛利の最終決戦を見込んでの出陣要請だよな。
つまり本能寺の変後にTERUが全力でラスボスを追撃すればラスボスは
滝川さん状態になって、播磨あたりまで毛利領って事もありえた。

ま、TERUにそんな決断は出来ないけど。。
0424人間七七四年2013/06/07(金) 20:44:01.57ID:9xWeM5LF
要所要所で大軍が応援に来るのが織田家のスタイルだしね
0425人間七七四年2013/06/07(金) 21:36:07.86ID:8/GFk+8F
>>423
ないない。宇喜多が壁になるんだから追撃するのは愚策極まりないよ。
単純に物事考えずぎ。
0426人間七七四年2013/06/07(金) 21:57:27.11ID:+GqKqFlj
福島正則は、水野次郎右衛門と申す者に、知行2300石を取らせ、この者に普請奉行を申し付けた。
この時水野次郎右衛門、畏れながらと申し上げた

「そのようにお申し付けになった上は、御普請をしっかり行わないものがあった場合は、
それが例え、小関石見、福島丹波、その他組頭などの重臣の方々であっても、そういった時は
必ず罰金などを厳しく取り立てます!」

この水野次郎右衛門の言葉を聞いて、側近の人々を始め家中の身に覚えがある者達、大いに驚き慌てたそうである。

ちなみにこの水野次郎右衛門は徳川家康公も御存知の者で、それは同国の三河の出身であるためであった。
それ故に、彼には度々上意もあったそうである。

(福島太夫殿御事)

こんな所にも居た、しかも例によって一筋縄でいかなそうな三河水野一族。というお話。
0427人間七七四年2013/06/09(日) 08:15:28.91ID:2jQXQQ2r
山田土佐入道(宗昌)の妻と娘は、日向没落の時に置き去りとなり
薩州の軍勢に捕えられ鹿児島に送られ義久に仕える事となった。

義久は名のある武士の妻子であるからと常に懇意にされていたが、
土佐入道が飫肥へ帰参したとの話を聞いて、妻子に衣類金銀を与えて
土佐入道の許へと送られた。情けある事でした。

(日向記)

島津義久が山田土佐入道の妻子を送り返す良い話

山田宗昌は天文年間から活躍していた伊東家の武将で、伊東義祐が
伊予へ移った時には豊後に残って、その後も佐伯惟定の元で島津と
激しく戦い、伊東祐兵が飫肥に復帰した時に帰参した人です。

敵の妻子にも情けをかける島津義久はよく出来た人ですね。
0428匿名大名2013/06/09(日) 11:19:44.47ID:7oA6JdOJ
妻子の見目がよければ多大な情けをかけるお!
0429人間七七四年2013/06/09(日) 11:52:32.88ID:evYMY+3l
ほんとに情けだけかや?
0430人間七七四年2013/06/09(日) 14:38:55.90ID:gVgNBzv/
おい。今生放送に宇野映ってたぞ!
0431人間七七四年2013/06/09(日) 14:39:26.47ID:gVgNBzv/
誤爆
0432人間七七四年2013/06/09(日) 14:40:22.45ID:7F14SXff
情けにはちゃんとそういう意味も
0433人間七七四年2013/06/09(日) 15:29:37.85ID:07+AIUNl
悪久だったら・・・
0434人間七七四年2013/06/10(月) 09:03:01.26ID:W6c3jPw9
佑兵、戦功により河内国半田村を知行する事

北越の柴田勝家を征伐された後、加州は前田利家、越前若狭は丹羽
長秀に与えられた。柳瀬七本槍の面々にもそれぞれ御加増があった。

その頃の佑兵はわずか三十人扶持の堪忍分であったが、たびたびの
軍労を思召して、河州丹南郡の内半田村五百石の知行を賜った。

秀吉公はかつて姫路から御帰陣の時、いかなるついでであったか
「伊東殿は幸先の能い人である。やがて本国へ復帰する事もできる
だろう」と仰せられたと伝えられる。誠に符合する御祝詞であった。

(日向記)
0435人間七七四年2013/06/10(月) 09:39:55.78ID:VILycKP0
梱包に使っていた古新聞の一面コラムが目に留まったので載せてみる。


「灘のけんか祭り」が今年も勇壮に営まれた。
姫路・松原八幡神社の氏子地区のうち、仕切り役の「年番」に当たった東山地区は、3基の神輿を激しくぶつける「神輿合わせ」を披露した。

そのとき歌われた「石搗(いしづき)祝い歌」にこんな一節がある。
「何じゃいの 瓢箪や サーエットエー」。
瓢箪とは信長の中国攻略を指揮し播磨に入った羽柴秀吉。「秀吉がどれほどのものか」。心意気を歌い継いできたという。

祭りは播磨国守護、赤松政則が社殿再建を祝って米を寄進し、喜んだ氏子らが米俵を担いでお旅山に駆け上がったのが起源と伝えられている。
だから秀吉に対置されるのは恐らく赤松氏だろう。

戦国時代には三木の別所長治が秀吉に抗戦。領民を救うため自害し今も敬愛される。
鎌倉〜南北朝にさかのぼれば、現在の上郡町を拠点に室町幕府に貢献した赤松円心の存在感が際立つ。

荘園制度に反発し、「悪党」と指弾された反骨精神。
後醍醐天皇に反旗を翻したものの劣勢になった足利尊氏に、九州への一時撤退を進言した知恵。
尊氏に加勢して、上郡に構えた白旗城に籠城し、敵の軍勢を50日間足止めした勇猛果敢。

播磨のアイデンティティーを語るときに欠かせない円心の坐像が、
12月2日まで姫路の県立歴史博物館で開催中の特別展「赤松円心・則祐(そくゆう)」で鑑賞できる。
不敵な面構えは見覚えがある。
そうだ。祭りで会った男衆の顔だ。

(神戸新聞 正平調 2012.10.29)
0436人間七七四年2013/06/10(月) 09:43:00.62ID:VILycKP0
蛇足ながら・・・

記事に出てくる赤松円心の坐像
http://kamigori.info/akamastu_enshin.html

その木像をヒントに描かれた、上郡町のマスコットキャラ
http://www.hyogo-tourism.jp/tabinet/yurukyara/profile/enshin.html

名物「円心モロどん」(なかなか旨かった。)
http://kamigori.info/enshin_morodon.html
0437人間七七四年2013/06/10(月) 12:23:49.99ID:W6c3jPw9
慶長二年十二月二十二日、佑兵は安哈良より豊前の黒田如水翁へと
宮川甚右衛門を使者として用事の旨を含めて遣わされた。

進物は如水翁へ鷹二羽、由地以益老へ鹿皮十枚である。
甚右衛門は豊前に到着し進物を差し出して用事の旨を申し上げた。

如水翁はこれに会い「よき時期に参られた。使者にだけ伝えたい事が
ある」と御前近くに呼び寄せられ「太閤様は殊の外に衰弱されている
その上天下には怪異が度々おこっており、もし乱世になったら佑兵は
小身であるから家を保つのも心許ない。一時も早く島津へ申し入れて
縁辺を組まれるか、または入魂の契約を結び神文を取り交わしておく
べきであろう。この事を早く朝鮮へ罷り戻って申し伝えよ」
と仰せられた。

甚右衛門は畏まって急ぎ船を出し、正月八日に安哈良に到着。
佑兵に御返答一通りを申し上げてから、隠密の御口上がございますと
言った。御前伺候の小姓どもまで引き下がらせてから、島津と入魂に
するべき趣の巨細を申し上げた。

その頃、島津はカトクへ在陣していたので佑兵は彼陣へ出向かれて、
島津に入魂にしたい旨を談ぜられ、互いに神文を取り交わし、以後は
入魂になられたとのことだ。

(日向記)

黒田如水、乱世を予見する
0438人間七七四年2013/06/10(月) 12:28:50.22ID:UnbnNjc+
如水って、関ヶ原の動乱に乗じて天下狙ってた、て言われるけど
本気で東軍として九州をまとめることで、天下安寧考えてた気もしないではない
0439人間七七四年2013/06/10(月) 12:29:37.05ID:vG5RRJYo
仇敵の島津と仲良くしろって...
0440人間七七四年2013/06/10(月) 19:07:32.54ID:/2Mvl9bz
それが戦国の世の習いだろ、相馬といっしょにするなよ
それに佑兵は国を追われてたことで秀吉の配下になれたし、天下取り事業に加われた
その過程で秀吉の懐刀である如水と昵懇になったので、如水を頼るのは自然な理
また領地を接する大大名の島津に潰されないように約定を交わすのも自然な理
0441人間七七四年2013/06/10(月) 20:06:22.24ID:SAp53zWJ
>>438
むしろ後者だろ
前者は厨二が思いつきそうなネタだ
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