近江国東浅井郡脇坂野の国人、脇坂安明の息子であった脇坂安治は、浅井長政、明智光秀と仕え、
永禄12年(1569)、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。この時脇坂安治、16歳であった。

翌元亀元年、秀吉は浅井の小谷城の押さえとして、横山の城に逗留していたが、摂津に一揆が勃発したとの
報告があり、近江から陸路、勢多を回り、京へと急行した。しかしこの時、児小姓や若者は長浜に
残し置くと秀吉は命じた。

17歳の安治も留守居とされたが、彼は秀吉に召し連れられないことを大変無念に思い、お供させて
頂けるよう訴え出ようと考えていた所、秀吉の御膳船を長浜から直に大津に回すと聞いて、密かに
その船に乗り込み、籠を担いでその中に隠れていると、船奉行たちは彼に気が付かず、船はその日のうちに
大津へと着いた。

安治は船から走り出て松本のあたりまで行くと、道の傍に伺候して、秀吉の馬が来るのを待った。

やがて来た秀吉は、馬上から脇坂安治に気がつくと大変に激怒した
「我が命に背いてこの様にここまで来たことは、以ての外の曲事である!」

平伏する安治に、
「…しかし、若輩でありながら志を持っていることに感じ入った。仕方がないので
今夜は側で召使うが、夜が明ければまた船で長浜に帰るのだ。」
そう命じた。

安治はこれに「畏まりました」と答えたが、その夜、大津を忍び出て京都に馳せ上り、
三条の橋の傍で夜を明かし、また道の傍に伺候して秀吉の御馬を待った。

ここまで来た秀吉は安治を見て
「我が命を重ねて聞かず、こんな所まで来るとは、重大なる曲事である!」と、やはり激怒したが、
「しかしそれほどまで、深き志を持っておるのだな」と感じ入り、それから乗り換え用の馬を
安治に貸し与え、お伴することを許したとのことである。
(脇坂家傳記)