戦国ちょっといい話37
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0031人間七七四年
2013/04/11(木) 04:09:43.58ID:xklBYn3s江戸時代の話になるけど、年貢とかに関してもかなり柔軟な制度を作ってた記憶
0033人間七七四年
2013/04/11(木) 14:33:47.48ID:Ms41/CEEと号泣してたら海外に移住しなくては
首都が陥落してしまうw
0034人間七七四年
2013/04/11(木) 14:48:49.48ID:oMB5PsNs菅谷官房長の御子息は戦死してしまうわけだが
0035人間七七四年
2013/04/11(木) 15:27:53.24ID:pn0sfKu+0036人間七七四年
2013/04/11(木) 15:45:09.90ID:kfOqjU8h0038人間七七四年
2013/04/11(木) 16:17:53.65ID:/N+KTY3m石高だけでみたら頭2つ抜けてる程度だが動員兵力数がずば抜けすぎてるからその辺が集まった程度では無理
0039人間七七四年
2013/04/11(木) 21:08:36.42ID:5hItfGM4天下を取れる人は大勢いても
敵と身内に対してタヌキ役になってくれる人がいないと中韓に乗っ取られるような社会になるんやで
運だとしても最終的に天下人が家康だった日本の運も強いな
0040人間七七四年
2013/04/11(木) 22:10:57.97ID:eEJD0fni政権安定のためには中央と各大名の力の差を決定的に大きくしないと不安定になる
0041人間七七四年
2013/04/11(木) 22:33:52.61ID:/N+KTY3m豊臣政権が安定するには1570年代に秀頼が産まれてないと無理なわけで機関的に別に時代を先取りどうこうの問題ではない
0042人間七七四年
2013/04/11(木) 22:58:21.30ID:kfOqjU8h全部自分の判断で家を切り盛りしたってのはなかなかいないわな〜
0043人間七七四年
2013/04/12(金) 09:07:25.80ID:MduJAiYx0044人間七七四年
2013/04/12(金) 11:00:44.30ID:TGx2uC6u0045人間七七四年
2013/04/12(金) 11:04:25.45ID:Csa6Z3XB0046人間七七四年
2013/04/13(土) 00:47:44.51ID:wcXnoL+X>この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
これってこの人?
(`●∀・)
0048人間七七四年
2013/04/13(土) 01:52:31.95ID:ahRJfDKC「どうだ利胤、政宗から杯を受けては?」って提案したら、利胤が
「無理です。それだけは上様からの命令でも絶対無理です」って言って場を中座したのに
秀忠からは何もお咎めがなかった(最初からそれが目的だった)って話があったよね
いい話とか悪い話に分類できない話だけどさ
0049人間七七四年
2013/04/13(土) 04:17:22.26ID:xQfOKq9z0051人間七七四年
2013/04/14(日) 13:26:10.54ID:lpkrl6Yz豊臣家は直轄領だけで220万石くらいで家康の直轄100万石の倍くらいだし
秀吉存命の頃は中国東部から近畿濃尾に大量に居た小大名群も直轄軍扱いだっただろうから
他の大名に比べ隔絶した動員力を持ってはいたんだよね
秀頼が直接指揮できる年齢になっていればこれが活きたんだろうけど・・・
0052人間七七四年
2013/04/14(日) 14:02:33.23ID:JcDrIcE2関ヶ原は徳川vs豊臣じゃないんで
それと大坂の陣を見る限り適齢でも前線に出てこない可能性のほうが高いと思う
0053人間七七四年
2013/04/14(日) 17:11:00.80ID:eoSiXQZV秀秋見倣えと言いたい
0054人間七七四年
2013/04/14(日) 20:28:00.32ID:IRgUakJp徳川方の平原宮内が密かに北条氏直に内通しているとの情報を
保坂金右門が漏れ聞き、これを言上したため両者が呼び出され糾明が行われた。
そこに元武田家臣の辻盛昌も立ち合っていたところ、
平原はその罪を逃れがたい状況となったため、
奥山新八郎の従者が主の刀を携えていたのを見てとるや、馳せ寄ってこれを奪い、斬り回った。
その場に丸腰でいた辻盛昌は、捕えようと素手で立ち向かったが面を斬られ血が目に入り
進みかねて退き、結局土屋権右衛門(重成)、永見新右衛門(勝定)が立ち向かい、
小幡又兵衛昌忠が平原を討ち取った。
この話を家康が聞き、平原を討ち取った小幡昌忠らを賞したが、
辻盛昌については、その心は剛であるが
打ち物もなしに白刃に立ち向かったため思わぬ手傷を蒙ったとして
深く賞することはなかった。
けれども、辻盛昌に対して絹衣に黄金を添えて与えたという。
これは、このような剛の者をみだりに褒め称えると、
手に武器もなしに白刃に立ち向かうことがよいことであることになり、
別の機会において或いは死んでしまうことがあるかもしれない
という家康の心配りであったという。
以上、武徳編年集成、武徳大成記、家忠日記追加、古人物語を出典とする干城録より。
ちなみに貞享書上には、辻盛昌が平原を組み伏せ討留めたと記録されているそうですが
なんにせよ家康公の細かな配慮がいい話ということで。
0055人間七七四年
2013/04/15(月) 00:17:48.87ID:rdQfifie逆を言えばそれだけ安心出来ない世の中だったわけでもあるが
0056人間七七四年
2013/04/15(月) 11:10:16.41ID:BXEeHnZ+橋守りを仰せつかったら家族との別れを済ませておきましょう
主をいくらこき下ろしても問題ありません(M兵衛を除く)
手柄なしの帰参は死を招きます
4番目は今でも通用する気もするか
0057人間七七四年
2013/04/15(月) 21:01:48.81ID:bCgwIX8Nそれから三河に行って松下嘉兵衛に道で出会った。
秀吉は長い楊枝をくわえており、嘉兵衛はそれを見て尋ねた
「その方は牢人であるか?」
「如何にもその通りである。」
「その方は、どうしてそんなに長い楊枝を使っているのだ?」
「牢人であるので何本も楊枝を才覚する金もなく、長く使えるようにこうしたのだ。」
「なるほど」
嘉兵衛は再び尋ねた
「その方は今までどこに居たのか?」
「川中島で、高坂弾正のところに。」
「なんと!弾正殿に直に仕えていたのか!?」
「弾正殿の家来である外記孫八郎の足軽をしておった、その後工藤源左衛門の所にも少々居た。」
嘉兵衛はこの者の話を聞いて、普通ならず利口な者であると思い、彼を召抱えた。
(紀伊國物語)
松下嘉兵衛の前に高坂弾正の元にあったという、珍しい秀吉に関しての逸話である。
0058人間七七四年
2013/04/15(月) 22:03:30.06ID:TZ4FxeXuそれにしても高坂→内藤ってすげぇ遍歴だな
0059人間七七四年
2013/04/16(火) 09:48:44.74ID:05wb1DFU0060人間七七四年
2013/04/17(水) 20:04:41.22ID:v1UbgcQW当然の事ながら信長にお目通りが叶うこともなく、織田家の人々に知られるべくもなかった。
そこで秀吉は、信長の小姓衆の小便所の下に隠れた。すると当然、上から用を足しにきた小姓の
小便がかかる。ここで秀吉が飛び出した
「わしに小便をかけるのは何者か!?」
小姓たちは大いに驚き、また秀吉の剣幕に押されて「どうか堪忍してほしい」と謝った。
ところが秀吉の方は「知らずにやったのなら仕方のない事です。気にしてません。」と、
あっさりと引き下がった。
が、この事で信長の小姓衆と顔見知りになり、彼らのもとに出入りするようになる。
そのうちに彼らから、彼らの食した蜜柑の皮を貰うようになった。
こういうことが何度か有ったあと、ある日突然、それまでみすぼらしい姿だった秀吉が、
立派な肩衣を着て現れたではないか。
秀吉は言う
「これは蜜柑の皮で仕立てた着物でござる。」
それは一体どういうことかと問われると
「私は頂いた蜜柑の皮を貯め置き、これを薬種屋へ売り、その代金を以って
この肩衣を拵えたのです。」
この事は大いに話題となり、賢きものであると秀吉のことを皆が知るようになり、
終に信長の耳にまで達した。
そして秀吉を呼び出し対面した信長は
「姿形に似合わぬ利口者である。猿の面に似て面白いやつだ。」と、
彼を猿と呼ばれたそうである。
(紀伊國物語)
0061人間七七四年
2013/04/17(水) 21:36:11.68ID:wj7LAbYf0062人間七七四年
2013/04/18(木) 00:38:09.49ID:dpjQ+NgC0063人間七七四年
2013/04/18(木) 01:03:28.76ID:uB2VTNvH0064人間七七四年
2013/04/18(木) 01:09:28.90ID:XzwdJv65しかし、みな草葺なので焼亡も多かった。慶長六年霜月二日の巳の刻、駿河町かうのじょう家より出火した。
この大焼亡に江戸町は一宇も残らなかった。
御奉行衆から「町中草葺だから火事が絶えない。ちょうどいいので、この機会にみな板葺にせよ」と御触れが
あったので、町はことごとく板葺に作るなか、瀧山弥次兵衛という者が人々よりも秀でた家を作ろうと思い、
海道表棟より半分を瓦葺に、後ろ半分を板葺にした。
人は皆取り沙汰して「本町二丁目の瀧山弥次兵衛は家を半分瓦で葺いている。さても珍しや奇特や」と褒美して、
半瓦弥次兵衛と異名するようになった。これが江戸瓦葺の始めである。
(中略。瓦の始まりは崑吾氏が土で作ったとか、王元之の黄州竹樓記によると竹瓦には徳興が多いなど)
されば愚老が大和国を順礼したところ、宮寺などに竹瓦が多く見受けられた。是又、黄州の竹樓を学んだのだろうか。
然れば、家康公の興ぜられた江城の殿守は五重鉛瓦にて葺かれている。富士山にならび雪の嶺にそびえ、
夏も雪かと見えて趣がある。
今は江戸町も栄えてみな瓦葺となっている。たくさん広大にあって美麗であることは前代未聞だ。
明暮すべての人が見ることだから記すには及ばない。
――『慶長見聞集』
0065人間七七四年
2013/04/18(木) 14:53:58.80ID:a7EdjZ9x松永「この平蜘蛛茶釜爆弾でも大丈夫だろうか?実験だ」
0066人間七七四年
2013/04/18(木) 17:28:04.82ID:MbAmDubD大石をもって道を開こう
0067人間七七四年
2013/04/18(木) 18:52:34.28ID:MED5YaXE>>54
この話に出てくる小幡昌忠の話(途中までは同じ話の詳しいバージョン)
天正壬午の乱において、元武田家臣で板垣衆覚えの者として名高かった平原宮内が
北条氏直に内通したとの疑いが発覚し、詮議が行われた。
罪を逃れ難くなった平原宮内が、その場で奥山新八郎の従者が刀を携えていたのを見て取り
馳せ寄ってこれを奪い取り斬り回ったため、手負い・死者が合計21人も出た。
辻盛昌(元武田家臣山県衆)はこれを素手で取り押さえようと立ち向かったが
面を斬られ目に血が入り進みがたく退いた。
土屋権右衛門重成は家康の御前の板戸を引き立てて御座に侵入させまいと支えた。
小幡昌忠は短刀を抜いて平原宮内に立ち向かい戦ったが、左手を負傷し少し間を取った。
その合間に永見新右衛門勝貞が鑓の石突で平原宮内を突き、平原が思わず倒れたところを
小幡昌忠が馳せよって平原を刺し殺した。
このときまだ20歳にもなっていなかったにも関わらず
剛の者に短刀で立ち向かい倒した小幡昌忠のこの働きを、家康は限りなく褒め称え、
医師2名を遣わして昌忠の左手の治療にあたらせ、
近臣の者に一日に2度も昌忠の傷の具合を問うほど気にかけたという。
しかし結局、このときの傷のため小幡昌忠の左手は不自由になってしまった。
0068人間七七四年
2013/04/18(木) 18:55:16.19ID:MED5YaXEけれども、小幡昌忠は元来剛気だったのでその後もなお片手で近接戦闘をし、
信濃前山で味方が崩れかかった際に高名し、更に味方が退却しようとした際に
馬を返して首を挙げた他、信濃国岩尾、長久手など各地の戦いで高名を挙げた。
家康も、他の者が取った首は、大久保治右衛門(忠佐)らに実検させていたものを
昌忠が取った首は自ら実検し、その働きぶりに感じ入るほどだった。
天正13年、徳川氏が信州上田の真田氏を攻めて敗れた際も、
小幡昌忠は兵士6人ほどと染屋村に踏みとどまり、
追撃してきた敵を防戦して支えたので、味方は無事に退くことができた。
徳川家康が小幡昌忠のこの働きを聞いて本多正信にこう命じた。
「昌忠は出陣するごとにいつも手痛く戦う。
片手でこのように危ない戦いをすれば、
討死してしまうのではないかといつも心が痛んでしまう。
これ以降は昌忠を本陣に留めおき、みだりに先手に進ませないようにせよ」
本多正信は承り、この旨は白須平次を通じて小幡昌忠に伝えられた。
こうして小幡昌忠は、(戦場で討死することなく)慶長4年に36歳で死んだ。
以上、干城録より抜粋訳。
小幡昌忠というのは小幡昌盛の長男で、甲陽軍鑑の編者小幡景憲の兄にあたる人です。
ちなみに下の逸話では、昌忠の左手は手首から先を斬り落とされたことになっています…
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6427.html
0069人間七七四年
2013/04/18(木) 23:21:04.68ID:vsTgSpYd>徳川家康が小幡昌忠のこの働きを聞いて本多正信にこう命じた。
>「昌忠は出陣するごとにいつも手痛く戦う。
>片手でこのように危ない戦いをすれば、
>討死してしまうのではないかといつも心が痛んでしまう。
>これ以降は昌忠を本陣に留めおき、みだりに先手に進ませないようにせよ」
>本多正信は承り、この旨は白須平次を通じて小幡昌忠に伝えられた。
某ルーデルさんみたいなパターンになるのかと思ったら、
案外あっさり言うこと聞いたんだなw
でも、36歳で死んでるってあんまり意味ない(ry
0071人間七七四年
2013/04/19(金) 12:57:30.94ID:6rZbRRr7これを生半可な覚悟で行うならかえって仇となることもある。
それについて武田信玄は、
「忠義は不満(を生み)、不満は謀反(を生み)、謀反は没落(を生む)」
と語っていた。
忠義を尽くすぞと骨折る苦労をしたけれど、
主君からはなんのお褒めもなく、
上下の意志疎通がバラバラとなれば、
やがては不満が限界に達し、
気持ちも荒んで、ついには謀反心が生じる。
逆に、もとから忠義という観念が頭にない者は、
あたりまえに謀反という観念も頭にないのだから、
生半可な忠義の心掛けは、無学なものよりかえって悪いということになる。
友達に親切にすることにもこれは当てはまる。
相手が自分の親切に対し感謝をしないと、
気を悪くし、感謝を知らない奴だと見限り仲違いし、
結果、親切にしないよりも悪いこととなる。
そういうこともあるから、武士は最初の覚悟こそが大切なのだ。
主君からお褒めにあずからずとも、
少しも怨まず、いよいよ忠義を尽くし、
友達に親切にし、かえって取り違えされ、
遺恨を抱かれても、いよいよ親切にする。
この覚悟を決めてこそ誠の武士であろう 【葉隠】
0072人間七七四年
2013/04/19(金) 18:28:38.03ID:xp2BZJGn六、七年以前、江戸へ来たり、志葉の町のはずれに小さき草の庵を結び月日を送っていた。
年を経てその身の上はよろしくなり、今は江戸も栄えた町になって家屋敷を求め、たくさんの什物を貯えて、
人との交わりも睦まじくなった。「普段の振る舞いが他の人よりも勝れている」と人々に誉められ、
目出度く栄えた。
「賤しき身とて思ひ捨めや」という前句に「立ちぞ寄る人を厭はぬ花の陰」と兼載は付けられたものだ。
この者は古郷にいたならば一期は貧しく、心愚かなまま果ててしまっただろうが、生まれた地を見捨て、
繁昌の江戸へ来たり、人の形儀作法を見習い、仁義の道を学んで今人と呼ばれたのも、よき住処にいるからだ。
0073人間七七四年
2013/04/19(金) 18:30:43.15ID:xp2BZJGnその上、心の愚かな人は学ばなければ道を知ることは難しい。先哲も一期の大事は住処と言っている。
まさに人間は、一期を楽しむべき住処が肝要なのだと求めることをせず、生まれた地を慕い、旧縁に繋がれて
いたずらに一生涯を送り暮らすのが常の習いだ。孟母とは孟子の母であるが〜
(中略。孟母三遷の教えを例にあげる。教育には環境が大切であるという教え)
さてまた、頭虱といって虱は住処によって色々である。首に住むものは黒く、身に住むものは白い。
麝香はかやを食して香ばしい。このように人も住処によって悪人とも智者ともなる。
花山院の御製に「木の本を栖とすれば自ら、花見る人と成りぬべきかな」と詠じておられる。
また昌叱の「詫びて住とも都なりけり」という前句に紹巴は「遠近の花の梢をみぎりにて」と付けた。
こんな目出度き江戸の花の都を余所に見て、片田舎に住んで果てるのは愚かな心ではないだろうか。
――『慶長見聞集』
0074人間七七四年
2013/04/19(金) 20:06:40.20ID:pa3XMz0zこの時、内匠豊後がお供をした。内匠豊後は高知お取り立ての者であり、常にお側に有った。
その上、高知の三男である修理太夫高三とも大変懇意な者であった。
高知の病状が甚だしくなると、内匠豊後は仮に御書を作った。その内容は。
京極領12万3千石のうち、嫡男である采女正高広に7万8千石、三男の修理太夫高三に
3万5千石、甥で婿養子の、主膳正高通に1万石あまりを継がせる、というものであった。
これを作り置き、高知が終に前後不覚の状況となると、内匠豊後は高知の手を添えて
その御書に御判物を書かせたという
高知が死ぬと、内匠豊後はその御書を高知の遺書だと言い、それは江戸の将軍にまで達し、
幕府からその内容通りにするよう仰せ付けられた。
後に、この事は全て内匠豊後のはかりごとであったことが顕れたが、京極家中の者達は皆、
内匠豊後の手柄であると言っていたそうである。
(宮津日記)
0075人間七七四年
2013/04/20(土) 00:27:34.29ID:bFgtfghp「はかりごと」とはいえ、特に問題視はされなかったんですよね
結果論かもしれんが、京極家も無事に明治まで生き延びられたからいい話 ということですよね?
高知が南北朝バサラの子孫という事しか知らないニワカの独り言でした、スマソ
0077人間七七四年
2013/04/20(土) 09:33:26.80ID:a32B7T140078人間七七四年
2013/04/20(土) 15:39:13.04ID:/bj2iR3L誰に判じさせたらよいかと彼是案じ悩んでいたが、きっと思い付いて、翌日に乗慶僧都を招いた。
「ちと御房に判断してもらいたいことがあって、お招きしたのだ」
「承ってみましょう。どのような御事ですかな」
「実は今宵なんとも理解できない夢を見たのだ。御房の了見を聞かせてほしい」
「広々とした山野をただ一人辿り出て、東より西へ行こうと思ったが、道の中程と思わしき所に、
向こうへ半段ばかりと見渡せる大河があった。岸を打つ波は荒く、水面もすさまじく尋常ではない。
これを渡りたいと立ち休んでいたところ、この河の水がにわかに紅血に変じてとても生臭い。
そのような所に、三十ばかりに見える剣が一振り流れていた。夢心にこれを取ろうと思うも、
容易くは取れず、どうしたらよいかと色々と案じておると、そのまま汗をかいて夢は覚めた」
「これは誠にめでたき御夢です。近いうちに河内国は御手に入ることでしょう。
その剣はすなわち敵の魂です。その精魂が抜け出て、水に流れて消えるという御告げですぞ」
僧都がそのように判じると信長は大いに感じ入って手を丁と打ち、
「さてもさても、めでたい判断をしてくださったな。年来の本意を達せられるならば喜悦の眉だ」
と喜び、「それぞれ」と言って当座の引出物として料足五貫文、白布二反を与えると、
律師は「有り難し」と拝領して御前を立った。
――『室町殿物語』
0079人間七七四年
2013/04/20(土) 15:47:27.79ID:ehV0KQud0080人間七七四年
2013/04/20(土) 16:01:24.43ID:9QzqIF4t0081人間七七四年
2013/04/20(土) 16:30:48.56ID:BGIjtejT0082人間七七四年
2013/04/20(土) 17:44:59.62ID:E/gEUAWCそこで機転をきかせて吉夢ということに切り替えさせたこの坊さんがうまい
0085人間七七四年
2013/04/21(日) 09:54:55.01ID:0BxUDqg8正月元日の未明、挑戦に在陣していた毛利宰相秀元の本陣に、太鼓や鐘をかき鳴らして何者かが近づいてきたのが聞こえてきた。
その日は元旦であったので、秀元の本陣では、上下とも静まり返って朝拝の儀式を執り行っていた。
そんな時にこのような事があり、敵が攻め寄せてきたのではと申す者も有り、秀元は物見の者に、急ぎ見てくるよう命じた。
物見は馬を飛ばしそれに近づいて見ると、獅子頭、赤頭など、いろいろな面をかぶり、異形なる衣類の美麗な出で立ちをして、
旗印、笠鉾などを指した2,3千の人々が、太鼓や鐘、笙や篳篥(ひちりき)などの楽器をかき鳴らし進んでいた。
物見が、これは一体何者なのかと聞くと、通訳は
「あれは年頭の御礼に、大将軍(秀元)に踊りの興行をかけ奉る者達です。」
と言う。
急ぎ帰ってこのことを報告すると、秀元は
「日本では盂蘭盆に踊りがあるが、正月元旦に踊るとは、風俗も違っているのだな。」
と仰り、それから支度のため待たせ、大手の門を開いて彼らを尽く入れて踊らせた。
この踊りの者達は、様々な曲を仕り楽を奏し、四ツ時分(午後10時頃)まで踊った。
秀元はこれに褒美として、鳥目五十貫を取らせた。
その後彼らは加藤主計(清正)殿の所に向かい、その他諸侯を3ヶ日の間、次々と踊りまわったという。
(義殘後覺)
0087人間七七四年
2013/04/21(日) 11:26:52.99ID:hH6Pfpc70088人間七七四年
2013/04/21(日) 17:05:43.99ID:0fEREdcl腰抜け武士はそれだけで逃げ出す。
そんな武田家全盛の時代のこと。
武田信繁は重臣にこの思いを書き残した。
「たとえ自分の立場が時勢に適応して、
地位、力のある者が親類、周囲にあったとしても、
そのことに安心して、軟弱な趣味を持ったり、
あるいはことさら派手な振舞いなどと、
そういったことをしてはいけない。
なぜなら、それは武士として大切な勇を失いがちになるからだ。
三略にも上の者に勇がなければ、
役人、武士もこれを軽く見るとある通りだ」
《信玄家法》
0090人間七七四年
2013/04/21(日) 19:03:19.48ID:KSMvLDiY0091人間七七四年
2013/04/21(日) 19:51:59.51ID:MOMKxQKX謀略に長けた兄を持ってしまうと
0092人間七七四年
2013/04/21(日) 20:54:40.71ID:d651/HJ00093人間七七四年
2013/04/22(月) 09:40:43.28ID:fiL1TWLm0094人間七七四年
2013/04/22(月) 23:54:29.03ID:q6xkh75J当時、五岳第一の学者であった。
宣はかつて「舜首座(惺窩)に逢っては物が言えぬ」と言った。
そのまま、やりこめられてしまうからである。
当時の人に宣は勝れた人として知られていた。そんな人がこのように言ったから、
惺窩が傑出した人ということが初めて知られたのである。
――『老人雑話』
0096人間七七四年
2013/04/23(火) 01:47:02.03ID:1wp3YhB6それが政治において実現されるのかは別だがw
0097人間七七四年
2013/04/23(火) 01:54:36.50ID:hcxVDQ0g0098人間七七四年
2013/04/23(火) 13:39:00.96ID:VpP9+GPoちゃんと(?)龍造寺四天王が5人いて、人数がおおいい話。
・・・スレ違いでゴメン。
0099人間七七四年
2013/04/23(火) 15:50:02.41ID:5QSpVB8x龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話でも簡単にまとめるか
成松信勝
龍造寺四天王の筆頭
今山夜襲の折には敵大将の首を取る大功を立てており、その槍は今も現存している
沖田畷の戦いでは隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる
百武賢兼
もとは戸田と名乗っていたが、その武勇を隆信から讃えられ「百人にも勝る武」という意味で百武という姓を与えられた
志摩守を名乗っており龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる、奥さんが剛腕で大薙刀を振るっていたことでも有名
沖田畷の戦いでは主君隆信を守り勇戦し果てた
江里口信常
元は直茂が千葉家から鍋島の家に戻る際につけられた12名の家臣の一人で、後に隆信に直参となった
沖田畷で隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久のふとももに刀傷をくわえるも、あえなく討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称されて、一族の者がいれば召し抱えたいと言わしめた
円城寺信胤
名門千葉氏の一族である、この円城寺と下記の木下は史料によってどちらかが四天王に加わる
沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦した
木下昌直
京の出身であるが、龍造寺隆信の武名を聞きはるばる仕えに来たと言われている
隆信の戦死を知った昌直は、山の手を攻めていた政家、直茂の軍の殿を務めた
その際に命を落としたとも言われるし、ともに逃げ延びたとも言われ、生死が定かではない
0100人間七七四年
2013/04/23(火) 18:08:31.89ID:2UmPyGJY0101人間七七四年
2013/04/23(火) 19:49:32.10ID:Zc0/cTF90102人間七七四年
2013/04/23(火) 20:12:48.37ID:sewJ/kWG漢南大将(李如松)は本唐・新羅の軍勢を合わせ20万騎を率いて、小西行長の要害を百重にも取り巻き
即座に攻め落とすと、その余勢を駆って小早川隆景の要害に攻め寄せた。
いわゆる文禄2年1月26日(1593年2月27日)の、碧蹄館の戦いである。
この大軍に、城に近づけては敗れると判断し、小早川隆景は2万5千、立花宗茂は5千、
宇喜多秀家1万の軍勢で討って出た。
この時、御検使である石田三成、増田長盛、大谷吉継は都合8千の軍勢を率いており、小早川隆景の
指揮下で先陣をした。立花宗茂はその下の備を担当し、この陣形で合戦は始まる。
異国の軍兵は弓鉄砲を隙間もなく撃ってきて入り乱れ、”ちぎり”という物を1万も2万も撃って回った。
これに当たったものは、たやすく起き上がることが出来なかった。
双方、太鼓や鐘を打ち鳴らし、鬨の声をつくりかけながら攻め合い、小早川の軍勢も立花の軍兵も、
息を限りに戦ったが、敵は大軍であり、新手を次々と入れ替えつつ戦うため、小早川・立花の軍勢は、
もはや人馬ともに疲れはてたように見えた、その時である
備前宰相(宇喜多秀家)の1万余騎が、一塊になってどうと突き懸る。
これに漢南勢は押し破られ、終に敗軍した。
この時討ち取られたもの3万あまり、ちぎり、刀槍を始めとして、鉄砲や石火矢までも捨てて
逃げ帰った。
異国の具足というものは、黒鉄を平たく伸ばし、金属の鎖で繋ぎ合わせたものを、ただ地の着物に
貼り付けただけのものであった。雑兵にいたっては黒鉄の平板を繋ぎ合わせたものを、そのまま着ていた。
大将や騎馬武者のものは、五色の漆で見事に塗り分けられていた。
兜も、ただ黒鉄を伸ばして、鍋の縁を反らせたような形にして、これをかぶっていた。
馬乗りは、獣の皮を股引のように拵えて、これを鞍にしっかりと括りつけ、乗る時はそれに、
太ももまで入れ込んでいた。
この中には、馬に乗らないときには兵糧も入れられ、
また草臥れて馬の上で寝る時、あるいは一斉に駈け出して山坂を自在に昇り降りをするときも、
馬から落ちるような危ないことは些かもなく、実に便利で利点の多いものであった。
これによって彼らは、馬上で弓鉄砲も自在に撃ちはなした。
(義殘後覺)
0103人間七七四年
2013/04/23(火) 20:13:20.07ID:g26aoxZVみんな相応の武士だったんだな
0105人間七七四年
2013/04/23(火) 22:18:35.15ID:3mSfHB9G良い家臣が揃っていたんだろうけど宇喜田騒動後の関が原でもきっちり戦っていたし
0106人間七七四年
2013/04/23(火) 22:25:14.98ID:7RO21V+k0107人間七七四年
2013/04/23(火) 22:30:59.89ID:sewJ/kWG調べてみたけどよく解らなかったです。すいません。
>>106
宇喜多騒動で家中がボロボロに成って、関ヶ原の時は慌てて雇った浪人衆が中心で、
組織としてかなり弱体化していたのは確かみたいね
0109人間七七四年
2013/04/23(火) 23:58:27.68ID:+v3PqY6p異国の鎧は興味深いものだったんだろうか
0110人間七七四年
2013/04/24(水) 00:16:10.19ID:UVm6ppJ6小笠原氏の兵に安積覚兵衛という者がいた。
関が原の戦いにて敵の首級を五つまでも斬り取り帰ろうとしたとき、
道で敵兵が弾丸に当り痛み苦しんでいる所を見た。
覚兵衛は大いに哀れみの心を起こし、懐中より用意の薬を取り出してこの敵に与えた。
敵兵は涙を垂れて深くその徳を深く感謝したという。(武人百話)
0111人間七七四年
2013/04/24(水) 00:18:33.88ID:WUOOn8ck0112人間七七四年
2013/04/24(水) 00:53:11.32ID:UVm6ppJ6まとめのときは後半の深くを消して下さい。申し訳ないです。
0114人間七七四年
2013/04/24(水) 10:14:30.56ID:jpOzawHf0115人間七七四年
2013/04/24(水) 14:40:59.52ID:aP/+VbRj/ `ヽ、
ー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::',
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
'、 `'ー‐''" / lzュ、__
---‐ヽ -' / 〃ィ ヾ'‐,--
/ | |iゝr;ァ--‐''" 〃/./ l |
./ | | ',ヾ゙ / / / / l
0117人間七七四年
2013/04/24(水) 20:04:32.46ID:HIWjC6t10118人間七七四年
2013/04/24(水) 20:05:47.99ID:l8zmPzHF0119人間七七四年
2013/04/25(木) 01:02:54.87ID:2K+/FzGxモデルのほうは江戸中期の人らしいし
祖父か曾祖父あたり?
0120人間七七四年
2013/04/25(木) 01:09:51.62ID:sGsayooU0121人間七七四年
2013/04/25(木) 09:48:52.95ID:cv448O930122人間七七四年
2013/04/26(金) 02:32:17.22ID:tctn1ZL0鮭様の息子のうちなんだかんだで長生きできたのは山野辺義忠だけで、
水戸黄門の設定に一番近いっぽい水戸藩家老山野辺家の当主がその息子の義堅
それでも計算は合わないんだけど、その次の代だともっと計算が合わない
0123人間七七四年
2013/04/26(金) 08:38:38.83ID:tevBDvFtそのなかで、山野辺さまは当主になる前の黄門さまに、自身の体験を引き合いにして歴史を綴るものの心得を喚起しながらも藩の金を無駄にするんじゃねえと釘をさしてたなあ
0124人間七七四年
2013/04/26(金) 16:21:44.73ID:6ELO8pjd大昔から弓術をもって名を顕す者は多いといえども、その強弱、審固、持満は詳らかではない。
しかし、正次は一人その微妙を得ている。古今に傑出しているというべきだ。
正次は諸国に遊び、後に紀州高野山に赴き、剃髪して瑠璃光坊威徳と号した。五十九歳で没す。
(武家小伝)
内野合戦の時、日置の矢先にとどまる物はなかった。矢種が尽きてしまうと日置は土居陰に隠れた。
そこを敵が襲ってきたので、日置はふと出でて弦打ちして「えい」と言った。
すると、敵はその声を聞いて逃げ散ってしまった。
(関六蔵伝書)
――『日本史伝文選』
0125人間七七四年
2013/04/26(金) 16:46:37.63ID:lk5iIdeN01261/2
2013/04/26(金) 20:05:43.28ID:8ddZDRGHこれに高野山八谷は会合して詮議をした。何故なら秀吉の主君(信長)は高野山の大敵であったので、
今になって騙し寄せて、流刑や死罪を科すのではないかと強い疑いが有ったためである。
高野山ではそこかしこで集まっては、毎日この件を論じたが、自分が行く、という僧は一人も
いなかった。しかしこのまま遅参をしては、直以って不審を被る事になる。どうすべきかと
悩んでいた所に、とある僧がここんな事を言い出した
「私が思うに、近頃高野に上がってきた木食(木食応其)という者がいるが、これを頼んではどうだろう?
彼はよろずの事に学才があり、考え深い者なので、公儀に送っても間違いはしないでしょう。」
これを聞き、僧たちは皆、それが最も良いと考え早速木食を召し寄せた。
ところでこの木食は、近江北部の武士であったが、戦乱により一所懸命の地を離れることになって
世を恨み、それならば高野山に上り木食(木の実や草だけを食べて修行すること)を成して、
往生の素懐を解くべきと思い定め、峠の川で御山の方を伏し拝み
『我、故郷を去って大師を頼み、高野山に上る以上、今後再びこの川を渡らぬ!』
と大願を立てて高野に上ったのである。
かくして柴の庵を結び、木の実を食して経を読み念仏し、また徒然には歌を読み、趣味に
連歌などして光陰を送るほどに、高野の各寺院の僧たちも彼を寺に呼んで、茶を轢かせたり
掃除をさせるなどさて、ここそこで「木食、木食」と召し使っていた。
さて、衆徒会合の桟敷に罷り出て、沓脱ぎのあたりに畏まった木食は「何の御用でしょうか?」と
申し上げると、高野山の長吏が代表して
「ただいま汝を呼び出したのは他でもない、御辺も聞き及んでいるだろうが、殿下様(秀吉)より
高野の老僧に急ぎ御礼に参るようにとの御諚使を下された。ではあるが我らは山僧なので
公儀の儀礼作法など知らない。
一方汝は年頃も丁度良く、また才覚のある人物なので、高野山の代僧となって殿下のもとに
行って頂きたいのだ。これをやり遂げればその後、その方の望みは何であっても叶えて取らすぞ?」
木食承って「皆様がこのようにお頼みになっている以上、拒みがたい事ではありますが、私は
この山に登ろうと決心した時、峠の川において大師に、この度この川を、今生渡るまじきと申し
誓いを立てたのです。ですので当山を降りる事は出来ません。」
僧たちはこれを聞いて「その義は安心してほしい。高野の一山が大師にお詫び申し上げる。
よって罪は些かも御辺に科されることはない。」
これに木食も「そこまで言われては、この上は仕方有りません。」と了承し。大阪へと
参ることと決まる。諸僧は大いに喜んだ。
01272/2
2013/04/26(金) 20:06:18.05ID:8ddZDRGH「お主は高野山の長吏であるか?」
「左様でございます。木食上人とは愚僧のことでございます。」
木食の事を聞いた秀吉は、彼が木食の修行をしている事を大変殊勝に思い、たいへん機嫌も良く、
そのまま逗留させ高野山の様子を丹念にお尋ねになった。木食は元より文才深厚の人物なので、
秀吉はすっかり彼に魅了され、ついには
「今後は木食上人に高野山の支配を任せ置く!もし異議に及ぶ僧などがあった場合は、
上人の心次第にいかようにも計らいをなされて、無事に治めてほしい。
弘法大師の仕置のごとく、仏法勤行を昔に返し、経学を業とすべし!
甲冑や武具など出家の身に必要ない。早急に点検して没収すべきである!」
この命を受けて木食は大阪を離れることとなった。その際様々な禄を給わったという。
かくして木食上人は大阪より輿に乗り、秀吉より付けられた50人の足軽に守られ高野の麓の
木ノ芽峠まで来るとここで一宿して高野山へと使者を立てた。
『一山、老僧を始めとして一人残らず出迎えに来るように。』
これを見た高野の僧たちは大いに驚き、
「これは一体何事か!?かかる慮外千万の使いを木食はどうして寄越したのだ!?」
と憤慨し評議したが、一方で
「いやいやそのように考えてはならない。殿下様からいかなる事を仰せ付けられたのか測り難いではないか。
まずは言われた通りに行って見るべきであろう。」
この意見に皆もそう思い、老若の僧たち揃って木ノ芽峠に集まった。
そこで木食は座上に座り、彼らに申し渡す
「いかに高野の法師たちよ!今後一山をこの木食が仕置いたす事となった!
仔細は後で山で聴かせるであろう。
僧侶たちよ!この木食の乗っている輿を担いで、私を山に上げよ!」
木食の前後には6,70人の侍があり、僧たちが反抗的な態度をとるのを厳しく制したため、
僧たちは異議に及ばず、各々輿を担いで山へと上ったそうである。
木食はこうして一山の長吏となり、新たに制法を定めた。これにより山も治まり、
つつがなく目出度いことである。
(義殘後覺)
木食上人が高野山の長吏となった経緯である。
0128人間七七四年
2013/04/26(金) 21:36:07.25ID:EC1KSH/hでもこの人が居なかったら高野山の復興は相当遅れただろうしなあ
0129人間七七四年
2013/04/26(金) 21:44:12.69ID:EHn1Pe3t源義家成分(要素?)もけっこうな濃度で入ってる気がする
もっとも、日置さんが退治したやつはモノノケじゃなくて生身の人間なんですねい
0130人間七七四年
2013/04/27(土) 01:33:03.76ID:E5ujqAhY■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています