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戦国ちょっといい話37

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0001人間七七四年2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0305人間七七四年2013/05/17(金) 13:54:00.33ID:kROGa/BJ
柳生流と言えば無刀取り。
近頃は町人たちもその様に言う。
しかし無刀と言っても必ずしも、
相手の刀を素手にて奪う技ということではない。
こちらが刀を使えない時にでも、
他人に斬られないということこそが本意である。
相手は刀を持ち、こちらは素手だから、
相手の刀を奪ってやろうとするということではない。
相手が、素手の者に刀を奪われないぞとするところを、
そのままにし、刀をあえて奪わないのも無刀の技である。
刀をけして奪われはしないぞ!と意識する者は、
刀を奪われないことに意識が集中するゆえに、
人を斬ることに意識がいかなくなる、そういうものである。
柳生流は斬られないことをこそ勝ちと定義する。
素手で刀を取るなどは芸人の道理だ。
無刀取りとは、ただ自分が刀を使えないときに、
他人に斬られないようにする工夫のことである

【兵法家伝書】
0306人間七七四年2013/05/17(金) 14:54:10.96ID:MD13DrHo
「あら?そうなの?じゃあちょっとあーた本物の無刀取り見せてくださる?」
0307人間七七四年2013/05/17(金) 16:10:10.97ID:+AJA/1tj
>>304
パクリが多いので先人に仮託した教訓話を作ってみた、でなんかおかしいところあるか?
0308人間七七四年2013/05/17(金) 18:20:42.76ID:rAUJwgWy
堀直寄殿は人を遣う事が巧みで、人を取り立て慈しむことは世に超えていた。
このために好士が多く、この人に奉公した侍は諸大名が好んだので、大半は立身した。

ある老人が昔直寄に奉公していたので、さる者がその仕方を質問した。老人によれば、

「特別に人の遣い方が変わっていた覚えはない。ただし、直寄は万事につけて従者に
言い勝つことをよしとせず、下の言うことを立てる事をもっぱら好まれていた。
これが世上の人と違うところでありましょうか」とのことであった。

そのような心得なので、従う者も智を増して励んだというのは、もっともである。
主人が強いて位を増し恐れさせる時に、下々がどうして奉公を励むことだろうか。

――『責而者草』
0309人間七七四年2013/05/17(金) 20:57:21.33ID:Dj61ghSa
なんだか面倒くさい家臣を量産しそうでもあるが、そうはならなかったところが天下の名家老たる所以か
0310人間七七四年2013/05/17(金) 20:59:28.32ID:Dj61ghSa
いかん直寄は名家老の直政の息子の方か・・・
0311人間七七四年2013/05/18(土) 02:27:27.59ID:cLZecNzm
無刀とは、よく間積もりを心得るためのものなり。
敵と我が身との間がどれ程あれば、敵の太刀が当たらぬか、を知ることなり。
当たらぬ間積もりをよく知れば、敵の打つ太刀は畏れるものではない。
我が身に当たる時は当たる分別の働きがあるものなり。

無刀とは、敵の太刀が我が身に当たらぬ距離では取る事が叶わぬものなり。
敵の太刀が我が身に当たる所において取るべきものなり。
斬られて取るべし。

無刀とは、当流における専一の秘事とすることなり。
身構え、太刀構え、場の位、遠近、動き、働き、つけ、かけ、表裏(かけひき)
これ等はことごとく無刀の間積もりからでるものなり。
ゆえにこれ、簡要の眼なり。

柳生宗矩【兵法家伝書】
0312人間七七四年2013/05/18(土) 10:49:13.42ID:5SL6Wh/g
>>305は無刀之巻の前半部分の意訳で、
>>311は無刀之巻の後半部分の読み下しだな
0313人間七七四年2013/05/20(月) 13:23:17.00ID:fs0Twc3e
光茂さまが十四歳でお作りになられた歌がこれだ

さむき夜に 裸になりて 寝たならば
明くる朝は 凍え死ぬべし
(冷える夜に、裸で寝たなら、
次の日の朝には、凍え死んでいるだろう)

これが始めて作られた歌だと言い伝えられている。
一説では、多久美作守から、
「唐の山辺も紅葉しにけり」
という歌をお聞きになられてから、
和歌に熱心になられたとも伝わる 【葉隠】
0314人間七七四年2013/05/20(月) 13:34:15.53ID:fs0Twc3e
鍋島光茂は父の勝茂や家老からも、
和歌に没頭する癖を注意され続けたが、
努力を続け、後には細川幽斎に次ぐ、
日本史上、武家としては二人目の古今伝授者となった。
古今伝授の際に三条西家との交渉役となったのが、
誰あろう、山本常朝その人である
0315人間七七四年2013/05/20(月) 14:07:39.49ID:FBpMFycF
東常縁「えっ」
0316人間七七四年2013/05/20(月) 19:24:31.27ID:dnMQ90as
>さむき夜に 裸になりて 寝たならば 明くる朝は 凍え死ぬべし

才能無さ過ぎるだろ(´・ω・`)
0317人間七七四年2013/05/20(月) 20:05:56.66ID:Mg0CMXgc
藤堂高虎が羽柴秀長の家臣と成って間もなくの頃
丹波の国人達が所々で一揆を起こし、立て籠もるという事があった。

この時、「大屋」という地点は一揆勢が出撃する際の通過地点に当たる、重要な地域であったため、
秀長は藤堂高虎に鉄砲の者を付けて、ここを防衛させた。

こう言った状況で、宇塚尾白という場所に一揆勢が押し出してきた。
高虎はわずかの手勢で終日これと戦い、数ヶ所にわたって負傷したが、それでも終に打ち破り、
特に一揆の大将の一人である、富安という者を討ち取った。

その後、一揆勢は横伊喜という場所に山籠りし、要害を構え小屋掛けをした。

藤堂高虎は深夜、これに密かに忍び込んだ。
所がこの気配に内から気付かれ、敵兵に板の垣越しに鑓で突かれてしまった!

しかし高虎、冷静に、自分に突き刺さった鑓を羽織で拭った。
アクション時代劇などで天井に忍んで鑓で突かれた忍者がたまにやるアレである。

敵兵は鑓に血が付いてないのを見て、さては先ほどの気配は人ではなかったのかと油断し、
兵を呼び出すことをしなかった。

こうして危機一髪のところを助かった高虎であったが、敵から傷を被ったまま戻るのも
非常に残念多いことだと考えた。そして「火が出た!火事であるぞ、出会え出会え!」と叫ぶ。
このため端々から驚いた敵兵がゾロゾロ出てきた。結局自分で呼び出すのかよ。

そこを襲いかかり自身で一人討ち取り、またこの時共をしていた居相孫作も一人討ち取り、
そうして自陣へと帰った。

それまで高虎の知行は三百石であったが、この但馬の一揆が平定された後、一挙に
三千石が加増され、合計三千三百石と成ったのである。
(藤堂家覺書)

それにしても高虎さん、敵の基地に忍び込んで鑓で突かれる負傷をしながらこの大暴れ。
素でアクション映画の主人公みたいな人である。
0318人間七七四年2013/05/20(月) 20:15:55.29ID:V6ns/YWh
一気に三千石加増ってすごいもんだな
0319人間七七四年2013/05/20(月) 20:27:15.63ID:kaCLPvV8
人並み外れた巨体でよく忍び込めるよなあ
0320人間七七四年2013/05/20(月) 20:34:18.06ID:HGFZ4pVY
いや、気付かれてるじゃんw
0321人間七七四年2013/05/20(月) 21:37:43.93ID:FBpMFycF
一揆勢はランボーに襲われたようなもんだな
0322人間七七四年2013/05/20(月) 23:24:02.73ID:vQNRgNm7
当時の平均身長と高虎の体格で考えると、「そんなでかいババァ、じゃなくて間者がいるか」って状態だろうな。
いきなり目の前にラオウがたってる状態。
0323人間七七四年2013/05/21(火) 09:24:45.58ID:G3YpY67V
こいつ絶対ニンジャだろ・・・
0324人間七七四年2013/05/21(火) 10:18:21.69ID:6Wm7rRKu
>結局自分で呼び出すのかよ

「敵だ!」と叫ばれて武器持って出て来られるのと
「火事だ!」と叫んで裸同然で出て来られるのでは
とんでもなく違いますがな。
0325人間七七四年2013/05/21(火) 18:29:41.87ID:i86wmNCt
史実版「げぇ━っ、関羽!!!」だと聞いて
0326人間七七四年2013/05/22(水) 05:05:25.83ID:YXi0xOw8
近江国東浅井郡脇坂野の国人、脇坂安明の息子であった脇坂安治は、浅井長政、明智光秀と仕え、
永禄12年(1569)、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。この時脇坂安治、16歳であった。

翌元亀元年、秀吉は浅井の小谷城の押さえとして、横山の城に逗留していたが、摂津に一揆が勃発したとの
報告があり、近江から陸路、勢多を回り、京へと急行した。しかしこの時、児小姓や若者は長浜に
残し置くと秀吉は命じた。

17歳の安治も留守居とされたが、彼は秀吉に召し連れられないことを大変無念に思い、お供させて
頂けるよう訴え出ようと考えていた所、秀吉の御膳船を長浜から直に大津に回すと聞いて、密かに
その船に乗り込み、籠を担いでその中に隠れていると、船奉行たちは彼に気が付かず、船はその日のうちに
大津へと着いた。

安治は船から走り出て松本のあたりまで行くと、道の傍に伺候して、秀吉の馬が来るのを待った。

やがて来た秀吉は、馬上から脇坂安治に気がつくと大変に激怒した
「我が命に背いてこの様にここまで来たことは、以ての外の曲事である!」

平伏する安治に、
「…しかし、若輩でありながら志を持っていることに感じ入った。仕方がないので
今夜は側で召使うが、夜が明ければまた船で長浜に帰るのだ。」
そう命じた。

安治はこれに「畏まりました」と答えたが、その夜、大津を忍び出て京都に馳せ上り、
三条の橋の傍で夜を明かし、また道の傍に伺候して秀吉の御馬を待った。

ここまで来た秀吉は安治を見て
「我が命を重ねて聞かず、こんな所まで来るとは、重大なる曲事である!」と、やはり激怒したが、
「しかしそれほどまで、深き志を持っておるのだな」と感じ入り、それから乗り換え用の馬を
安治に貸し与え、お伴することを許したとのことである。
(脇坂家傳記)
0327人間七七四年2013/05/22(水) 07:26:48.64ID:ZYdRhicC
ストーカーやん
0328人間七七四年2013/05/22(水) 10:12:45.59ID:4jeW38s4
>319、出羽のシスコンさんが興味を持ちそうだなw
0329人間七七四年2013/05/22(水) 21:15:13.11ID:xP92OfjL
「あたし、やすはる。いま船の中にいるの…」

「あたし、やすはる。いま松本にいるの…」

「あたし、やすはる。いま京都にいるの…」

「あたし、やすはる。いま三条の橋の傍にいるの…」

「あたし、やすはる。いまあなたの後ろににいるの…」
0330人間七七四年2013/05/22(水) 22:32:42.03ID:cmYmasHT
また出たと、秀吉びっくり、貂の皮
0331人間七七四年2013/05/22(水) 23:59:56.49ID:SZccgyFS
そうか。マイ先祖はストーカーキャラだったのかorz
0332人間七七四年2013/05/23(木) 00:08:11.44ID:WeR9a0K7
脇坂家はすぐに堀田に変わったのでは
0333人間七七四年2013/05/23(木) 13:25:12.28ID:iR7EMgCU
>>326
ここにでる長浜って横山城近くにあったのかな?
まさか今のじゃないよね?
0334人間七七四年2013/05/23(木) 20:50:01.23ID:Mnno51pM
慶長五年六月、家康公が関東へ出陣したのち輝元並びに奉行衆が
逆心の沙汰に及んだ。
その頃、黒田如水は家康公の無二の味方であり豊前中津に在城し
九州の事をとりしきっていた。

祐兵は西軍に取り込まれていたが東軍に属していた証を残して
おきたかったので、如水の指図を得て届を出しておこうと考え
如水に使札を出した。

如水の返答は「祐兵が味方したいと考えても小身であり上方に
居ては思ったように働けないだろう。急ぎ帰国して敵に向かって
攻めかけてはどうか」と申しこされた。

しかし祐兵は病にかかっており、病状は日を追って悪化し風毒腫
となり病臥していた。(仮病ではなく同年10月11日に病死)

祐兵の帰国は困難であったから、留守居の家老へ申し遣わして
敵に攻めかけるようにしようと考え、検使を一人受け入れたい
との旨を稲津又次郎に申し含めて如水への使者に立てた。

如水翁は「検使を遣わすのは容易いことだが、父子ともに大坂に
いたままでは家康公のお味方と言っても、今後疑義を受けることも
あるだろう。父子三人は帰国しなさいとの旨を、急ぎ大坂に戻って
祐兵へ申し入れなさい」と仰せられた。

又次郎は「もっともなお話ですが、私は国許に戻り軍を調えて
御味方である事を表明しなさいと堅く祐兵から申しつけられて
おりますので、ただちに国許へ罷り戻りたいのです」と申し上げた。

如水は「伊東の家が続くように謀ることこそが大切だ。私の考えに
従って大坂へ帰りなさい」と強く仰せになった、

又次郎は「それならば検使を一人たまわり、それがしの手の者を
添えて日向へ下して関東お味方の由を知らせたい」と申し入れたので
如水は宮川伴左衛門尉と言う侍を検使に出された。

又次郎は喜んで手の者一人を差し添えて日向へと遣わし、自身は
大坂へ立ち戻り如水翁の仰せられた旨を祐兵に報告した。

そして嫡男である左京亮(伊東祐慶)が十二歳になられていたが、
これを日向へ下す事に決めた。

このとき落合九右衛門尉が「祐兵の病は日々悪化しているが、もし
御存命のうちに、この事が漏れれば奉行方より討手を向けられるだろう。
その時は御自害をお勧めし、私は老人なので死出三途のお供こそ相応しい。
あなたは若いので左京亮殿にお供してなにがなんでも日向へ降り、
本懐を遂げられよ」と又次郎に言った。

左京亮を又次郎の小姓であるかのように装わせ、輝元の船手衆が固めていた
番所も軍勢を呼びに国許へ帰るのですと披露して遁れ日向に戻った。

(日向記)

如水さんが伊東祐兵に適切なアドバイスを送る話。
0335人間七七四年2013/05/23(木) 21:49:20.21ID:Mnno51pM
当主祐兵の大病により、再三にわたる奉行方からの出陣催促を免れて
きた伊東家であったが、京極高次が大津城に立て籠もったことで再び
危機を迎えた。

毛利輝元、増田長盛らは大坂にあって相談し大津城を攻める事にした。
在大坂の大名小名は残らずに出陣させることになったが、軍勢は少なく
立花宗茂、毛利元康に大坂七組の衆を加えて大津城に差し向けた。

この為、祐兵が病気であるなら家来を差し出すよう催促頻りであったので
祐兵は伊東与兵衛、平賀喜左衛門を呼び

「私は関東の味方をするが敵中にいる状態で拒めば逆心なりと討ち果た
されるのは必定だろう。一段の害を遁れる為にそなたらに弓鉄砲を添えて
大津へ遣わすが、まったく奉行の味方ではないので心せよ」
と言われた。

両人は畏まって御前を退出したが、伊東与兵衛が平賀に向かって「功を
立てるべき戦ではなく、敵に寝返りを悟られれば主君の大事ともなる。
我らは討死してみせるより他はない」と言い、平賀も「そうですな」と答えた。

伊東与兵衛は秘蔵していた刀に小袖を添えて寺門に至り後生を菩薩に頼んで
大津へと赴いた。

伊東勢は立花宗茂の手に属し仕寄をつけた。もとより討死と思い定めた
者どもであったから、立花家のものよりも前に出て進んだので、宗茂も
心のうちを知ることも無く「伊東殿はよき侍をもっておられる」と言い、
たびたび褒美があった。

九月十一日の城攻めで伊東与兵衛は前後を顧みずに、真っ先に進んで
乗り入れようとしたところを城兵の槍七八本を突きたてられ、平賀も
続いて討死したので祐兵は急難を遁れた。

そして濃州関ヶ原において九月十五日に家康公は勝利を得られ
祐兵に別心なき事を聞き届けられた。

(日向記)

伊東祐兵、二士を捨て害を免れる事と題された話
0336人間七七四年2013/05/24(金) 00:12:19.07ID:Ggzcewb1
慶長二十年閏六月、喜連川頼氏は上京して徳川家康に拝謁した。

頼氏が退出しようとする時、家康は御座から立ち上がり、頼氏は御送礼を受けた。
これは頼氏が室町将軍家の支族で鎌倉幕府の末裔なので、その筋目を重んじての事だった。

徳川秀忠の時代より後は御送礼の儀は停められたという。

――『徳川実紀(駿府政事録)』
0337人間七七四年2013/05/24(金) 00:14:23.48ID:BhoaUw4r
>>336
鎌倉府じゃないかな
0338人間七七四年2013/05/24(金) 00:28:13.66ID:OzcH20ZZ
男系では小弓御所の末裔だし価値なし
0339人間七七四年2013/05/24(金) 00:34:14.85ID:Bw6khoQu
一万石に満たないのに大名扱いだから
江戸時代通して価値あると見られてたんでは
0340人間七七四年2013/05/24(金) 01:00:28.64ID:N9Zz2Cb5
足利将軍家最近親たる平島公方家の冷遇されっぷりを見ると
反徳川勢力の旗印として担ぐには不足だが利用価値はある血筋の微妙さが喜連川厚遇の理由かと
0341人間七七四年2013/05/24(金) 10:33:59.95ID:9VBw2bEs
確かに平島家なんか厚遇したら「わしが征夷大将軍だ!」なんて
うっとうしい事を言い出しそうだな。
0342人間七七四年2013/05/24(金) 11:21:34.86ID:+qovmhjL
>>341
それは冷遇しても言い出す可能性あるから名門の扱いは難しい。
そういう戦略や秩序維持の目的だけではなく、
名門への遠慮や敬意って部分もあるとは思うけど
0343人間七七四年2013/05/24(金) 13:34:50.65ID:azAGZ2bs
蹴鞠の人はもはやそういうことはないけどこう頻繁に遊びに来られると別の意味でうっとうしい
0344人間七七四年2013/05/24(金) 13:45:50.32ID:Ju0ZH8Vp
うっとうしがられるほど遊びに行ってないと危険視されるかもと思って…たわけないか
0345人間七七四年2013/05/25(土) 08:10:35.46ID:++3Iv3+U
伊東祐兵逝去と祐慶家督の事

豊後守祐兵の病はついに治らず、慶長五年十月十一日に
御年四十二歳にして大坂で逝去された。

しかし嫡男祐慶は未だ幼年であり日向に下って合戦を
仕掛けている最中でもあり祐兵逝去が露見すれば、
その威が軽くなり功も成り難いと考え、落合九右衛門、
山縣太郎右衛門、看病の者には山田紀伊介入道玄清など
わずか数名で秘密にし病中の真似をして、日向宮崎の
様子を聞き届けていた。

翌年春の終わり頃にご逝去の旨を披露して御葬礼を営んだ。
法名は報恩寺殿心関宗安大禅定門と申し、当家中興の明君
なれば、上下万民が嘆き悲しむこと事限りなかった。

高橋越中守は殉死しようと思い定めていたが、祐慶が幼年で
あるため、しばらく守り立て七回忌の際に殉死を遂げた。

嫡男左京亮祐慶は十三歳で家督を相続して、慶長六年四月八日
に上洛して家康公に謁見し、翌年四月十日に従五位下修理大夫
に任ぜられた。

(日向記)

激動の時期に若年の当主への相続を成し遂げた伊東家のお話
0346人間七七四年2013/05/25(土) 20:25:30.11ID:WefcJGVz
慶長5年9月14日、関ヶ原前夜の事である。

その未明に、細川忠興の軍勢は、陣屋の外から東軍の諸隊が陣替えを行なっている様子が見え、
これを忠興に報告した所、「どういう事かよく解らない」と述べた所、隼人左馬充殿が御前に上がり
「諸隊は色めき立っております」と報告した。

この時福島正則より、『急ぎこちらにお出で下さい』との遣いが到着し、忠興はそのまま出て行った。
残った家臣たちはこの事を玄蕃殿(忠興弟・細川興元)にも知らせ、そうして何れも陣屋の
小屋の前に出て忠興が帰るのを待った。

すると北の方より、馬に乗り「玄蕃!玄蕃!」と声高に呼びながら、忠興が帰ってきた。
そして小屋前まで乗り付けると、小屋前に居た人々はそのまま立っていた。
ここで忠興は玄蕃に、正則の陣でのことを語った

「太夫殿(正則)の陣所に乗り付けと、太夫殿は手で私を招いた。そこで『こんな時に騒いでは、
下々の気が違う物ですぞ!』と大声で言ったのだが、太夫殿が言われたのは

『吉川(広家)の所から黒田(長政)の所に申越した所によると、昨日は毛利は、東軍の
お味方をすると言ったのであるが、今夜になって治部少輔(三成)が大垣から関ヶ原へと廻り、
色々と仕掛けたため、昨日の状態ならお味方できたのだが、今の状況では、敵対はしないまでも、
御見方も出来ない、』

と言うことであった。」

そして忠興は

「話はこれで済んだ。仕掛けてきた合戦は、ただ受け取るのみである!
急ぎ小屋の前に軍勢を集結させよ!」

そう玄蕃に命じ、また先手の軍勢も、あらかじめ垂井の宿の方に進出させていたため、
忠興はそこから戻らせ、軍勢を伊吹山に続く山際まで移動させ、また黒田長政の備に乗り付けられ、
合戦が始まるまでは、左馬殿(加藤嘉明)、出雲殿(金森可重)、黒田殿(長政)、そして
細川忠興が一所にて、敵味方の状況を観察したとの事である。
(細川忠興軍功記)
0347人間七七四年2013/05/26(日) 19:39:22.77ID:5Oi8POlq
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2048.html
検索したらすでにあったが俺が知ってる話ではちょっと細部が違っていてこんな感じだった

蒲生氏郷の家臣に西村という者がいた
この西村は戦の時に勇敢でいつも一番槍をつけるので人が褒め称えると
「俺を褒めるな。氏郷さまのように俺を理解してくれる人がいるから俺が安心して働けるんだ」
と言って逆に氏郷をもちあげていた

ある合戦の時に秀吉が「これからは一番槍を禁じる。みなで連携して戦をするように」
と命じていたが西村はそれを無視して一本槍をつけると秀吉が怒って氏郷に処分をさせるように命じた
氏郷は自分の為に勇敢に戦ってくれている西村を処分するのに忍びなかったが西村を解雇処分にした
西村は恨み事ひとつも言わずに黙って立ち去った

年日がすぎて西村を呼び戻し、氏郷が一緒に相撲を取ろうと誘うと再三、西村は氏郷を投げ倒した
近くの人が「再就職したいならわざと負けろ」と忠告したが構わず放り投げる
氏郷は「年月が経っているのにさすがに未だに体の衰えがないな」と言うと
西村は「私はつねに殿のことを考え、いつでもお役に立てるように用意しておりました」と言った

氏郷は西村が浪人生活の間に気力が衰えて媚を売るようなことがあれば再び自分の元には置かなかっただろう

こんな感じ
0348人間七七四年2013/05/26(日) 20:50:30.38ID:lFG5zsHQ
>>347
空気読めない悪い話にもなりかねないけど、
空気読む人間は所属する家の衰退も、
敏感に察知できるってことだから、
西村さんの一途タイプは戦乱期に頼もしいだろうな
0349人間七七四年2013/05/27(月) 01:08:55.28ID:taYDyabt
つい最近会津若松に行ってきたので貼っておく
若松は生まれ故郷にちなんだ名前なんだよね

http://uproda.2ch-library.com/667833ZgV/lib667833.jpg
http://uproda.2ch-library.com/667836Bxy/lib667836.jpg

ちなみに、同寺には紀子様の先祖の会津藩士の墓もある
0350人間七七四年2013/05/27(月) 01:21:37.78ID:SSlHN4FS
蒲生氏郷の家臣に蒲生という者がいた。
この蒲生は戦の時に勇敢で功を挙げ、蒲生の姓と郷の字を賜った。
0351人間七七四年2013/05/27(月) 02:06:26.13ID:lLItYNuO
どの量産型蒲生だよ
0352人間七七四年2013/05/27(月) 09:21:18.23ID:q4RGpC9u
河崎駿河守は祐兵の外祖父にあたり、彼の肝煎により日向流浪以来
天正九年までの四年間、大峰修行の護摩を焼いていた。

その時の山伏は三峰と言う人で、生国は越前だったが心ならずも日向に
下国し数年の間、入道殿(義祐)の扶持を受けて在国していた。
三峰は流浪にも同行し、彼は山伏としての働きで歳月を送っていた。

天正九年、三峰は上洛した際に播州姫路はさる天正五年に信長公より
羽柴筑前守秀吉が拝領し、五年にも及ぶ普請でとても賑わっていると
伝え聞き、これを見物しようと立ち寄った。

そこで偶然出会った人物に「御僧は何処の人ですか」と尋ねれたので
「九州日向の者です」と答えた所、「それならば仔細を尋ねたい事が
あるので、こちらにおいでください」と言われた。

三峰はいったいなんだろうと思ったが辞退する訳にもいかず伺候した。
彼は「日向の伊東殿は浪人されたと聞きました。また伊東の東は藤
と言う字でしょうか?」と問われたので、三峰は「伊東の東は字は
ひがしと言う字でございます。島津に国を奪われ四国河野殿の領内で
蟄居しております」申し上げた。

掃部助は「それならば私と祖を同じくする一家です、羽柴殿にお仕え
したいのであれば、若くあられるようだし随分と取成し致しましょう。
私は伊東掃部助と言うものです」と仰せられた。

三峰は「ありがたい話です。急ぎ下国して、この旨を申し上げ早速上洛
するようにして頂きます。その際にはお取り成しの程を頼み入ります」
と申し上げ、急いで伊予に下国した。

この旨をありのままに言上したが、伊予道後は人の心根も良い国で
あれば名残惜しく、大内殿の情も振り捨てがたいとぐずぐずしている間
に月日が経って行った。

三峰は歯噛みしてぜひとも播州へ急がれるべきですとしきりに言上した
ので翌天正十年正月になってようやく、全員が小舟に乗って伊予道後を
後にして播州へと渡海した。

掃部助は即座に秀吉公に祐兵を推挙したが、当時は蔵米が不足しており
新たに浪人を召し抱えるのは難しいとの御意であった。

掃部助は祐兵は器量の優れた若武者であるから、秀吉公にお目に掛かり
さえすれば召し抱えられるはずだと考え、御通路に祐兵を置かれた。

案の定秀吉公がご覧になられ、何者かと尋ねられたので「日向の伊東で
ございます」と言上したところ「器量たくましき勇士である、扶持を
与えよう」と仰せられ、30人扶持を下された。

祐兵はその時までは六郎五郎と称していたが、掃部助が「それは
よろしくないでしょう民部大輔と名乗られては如何」と勧めたので以後は
民部大輔と名乗ることにした。

(日向記)

祐兵、秀吉公に仕える
0353人間七七四年2013/05/27(月) 09:38:31.50ID:q4RGpC9u
>>352 の続きの話

伊東掃部助は入道殿(伊東義祐)も秀吉公にお目見えされるのが宜しいで
しょうと申された。

しかし入道殿は「元は日向の太守にして代々藤家の名家である。その上
すでに三品に叙し、歳も七旬を越えようとしている。たとえ流浪の身で
あると言えどもなんの面目があって羽柴藤吉ごときに追従できるだろうか。
但し子孫再興の為なので祐兵は別だ」と申され、遂に謁見されなかった。

(日向記)

三位入道、面目の為に秀吉との謁見を断る
0354人間七七四年2013/05/27(月) 12:50:56.35ID:F/21qvt6
まあ、自分はプライドを取って、息子には実を取らせるってことで両面通した話だな>義祐さん
まあその後野垂れ死にに近い状態になったから体調が悪い状態で会うわけにもいかなかった、って部分もあるんかねえ
0355人間七七四年2013/05/27(月) 13:52:37.96ID:RvMipcHU
これは日向伊東氏の良い話っていうより伊東長実の良い話だと思うんだけど、
話の流れには諸説あるよね
三峯側が長実を頼っていったとか
0356人間七七四年2013/05/27(月) 14:43:19.82ID:q4RGpC9u
>>355
たしかに伊東掃部助の良い話って感じですね。
ただ掃部助が長実かどうかは官途からして微妙な気がします。
0357人間七七四年2013/05/27(月) 16:37:58.12ID:XFfsTUPl
去年の年末頃に蒲生家臣だった先祖の話を書きこんだ者です。
あの後いろいろ調べてみました。

実は松坂に遠い親戚と言うか昔から付き合いのある家があり、苗字も同じなので少々話を聞かせてもらってきました。
その家も元は氏郷公に仕えていてうちの親戚だそうですが会津移封以前に商人に転向したそうです。
江戸時代に交流はあまりなかったそうですが戊辰戦争終結直後、その松坂の親戚がこちらを心配して連絡を取ったことから交流が復活、太平洋戦争時には逆に松坂の親戚を疎開させたそうです。
これといった特別な話はありませんがせっかくなので少し。

蒲生家に仕える前の話ですが、所謂地侍であったそうです。
いつも特定の家に仕えている訳ではなくそのときによってころころ勢力を変えていたとか。
時にはあえて親兄弟が別れるというプチ真田家のようなこともしていたようです。
規模は全く違いますが割とよくある手段だったのかもしれません。

それからあまり戦国関係ありませんが曾祖父の訛りがやや変わっていました。
私の実家近辺は大河ドラマの会津弁をやや乱暴にした訛りなのですが、なんというか西の方のイントネーション寄りだったように思います。
偶然当時のビデオが残っていたので聞いてみたのですが、今聞いてみても会津弁とはどことなく違っているようです。
私自身、喋っているのは標準語寄りの会津弁のつもりなのですが地元の友達からはちょっと違うように聞こえるとのこと。

そういや工場長のお墓に毎年お参りに行ってたなーとか今考えると色々あったりします。
何か分かったらまた来るかもしれませんのでその時はよろしくお願いします。
0358人間七七四年2013/05/28(火) 12:09:24.64ID:NL44dUxg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原に敗れた石田治部少輔(三成)は伊吹山に退き隠れていた所を、
田中越前守(吉政)の家臣に捕らえられた。
小西摂津守(行長)、安国寺恵瓊も方々にて捕らえられ、3人共に洛中を引き回すということになった。

この時太夫殿(福島正則)はこの3人に小袖を2つ贈った。
正則の厚志に、中でも石田三成は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、着衣を着替え
正則の贈った小袖を着て洛中を引き回され、三条河原にて斬首された、とのことである。
(福島太夫殿御事)
0359人間七七四年2013/05/28(火) 17:52:34.35ID:TlJeSdSw
侍だな
0360人間七七四年2013/05/28(火) 17:55:19.11ID:NL44dUxg
>>358
あ、少し書き間違えましたすいません。4行目

×この3人に小袖を2つ贈った
○この3人に小袖を2つづつ贈った
0361人間七七四年2013/05/29(水) 10:05:45.23ID:17RD7LED
この話既出じゃね?
0362人間七七四年2013/05/29(水) 10:15:02.35ID:1Cbsdpkf
三成「家康、田中吉政、黒田長政、福島正則、みんなが服くれるの、でもこんなにたくさん着れないの」
0363人間七七四年2013/05/29(水) 10:19:31.52ID:+uk4+4+v
お色直しタイムが必要だな
0364人間七七四年2013/05/29(水) 11:12:31.22ID:GL+Xoqqs
引き回し中にお色直しとな
0365人間七七四年2013/05/29(水) 11:15:17.25ID:gcBK2x6w
三成それ白無垢やない白装束や
0366人間七七四年2013/05/29(水) 12:34:35.54ID:sFq67Zj3
続きまして、頸部入刀です
0367人間七七四年2013/05/29(水) 12:42:38.81ID:OiSrvu48
三歳さまが手本を見せるようです
0368人間七七四年2013/05/29(水) 13:43:27.56ID:GL+Xoqqs
三歳様は福知山城へおいでですので、他の方におまかせするしか
0369人間七七四年2013/05/29(水) 14:44:43.17ID:GL+Xoqqs
義益様が御早世されて以来、永禄十二年より天正五年までの前後九年間。
慶龍丸(伊東義賢)御若年ゆえ祖父三位入道殿(伊東義祐)が後見していた。

天正五年八月、六郎義賢が十一歳の時に公方義昭公へ御太刀を進上。
これにより御書を頂戴し家督の祝儀として左京亮に任じられた。

九月十六日、八幡御神事の時には前代よりの吉例に任せて騎馬にて御社参。
御陣代は祖父入道が勤められた。

九月二十八日の夜より怪星が西南の方角に現れ、十一月に入るまで止まず。
その光は闇の夜も月夜の如く照らし四十日間も続いた。

(日向記)

日向記では「義賢様家督の事」と言うタイトルなのだが、注目すべきは
どちらかと言うと怪星の方なのだ。

この怪星はむろん死兆星…ではなくて、絶対等級?1.8等と言われる大彗星。
甫庵信長記の松永弾正謀反のところでも触れられている。

西洋ではティコ・ブラーエがこの大彗星の観測結果から、現象が月よりも
遠方で起きていることを証明し旧来の天動説を覆す重要な証拠となった。
0370人間七七四年2013/05/29(水) 15:13:26.75ID:GL+Xoqqs
>>369
文字化けすまぬ。絶対等級-1.8等でした。
0371人間七七四年2013/05/29(水) 21:07:45.85ID:+2HHqZSd
40日間ってすげーな。
0372人間七七四年2013/05/30(木) 01:09:56.82ID:f0yYgYYI
>>358>>360
太夫殿ではなく越中守殿であれば初めの書き方で間違いないはずだ
「三将二桃」の故事があるからな
0373人間七七四年2013/05/30(木) 06:18:53.27ID:NLkeaN4h
米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

先年、米良美濃守(矩重)は当家の恩を忘れ、領する所の三ツ山、
須木の地を島津兵庫頭(義弘)に捧げて背いた。

これが伊東家没落の始まりとなり、ことに天正五年に島津義久が
日向へ出陣した時には先鋒を命じられ、一番に乗り入れた事で本領
を安堵され義久の幕下となっていた。

しかし美濃守は一時の恨みで数代の主君を裏切った事が心の重荷と
なり日夜苦しみつづけていたが、天正十五年の九州征伐後に祐兵が
飫肥の領主として復帰する事を知った。

美濃守は生きて日々を不快に過ごすよりも、帰参して先非を懺悔
してから殺された方が良いと考え、密かに薩摩を立ち退き祐兵の
前でその旨を述べた。

敵ともなり味方ともなるのは勇士の習いでもあるが、かの美濃守の
反逆は随一のもので、特に島津の先鋒となり国を乱したものである
から死罪にするのが当然であろうと誰もが考えていた。

しかし祐兵は先非を悔い死をもって詫びようと言うのは奇特である
として御感浅からず、その罪を許してすぐさま知行を与えた。

米良美濃守は、祐兵逝去の後も修理大夫祐慶に仕えて清武の地の
地頭に任じられたが程なく病を得て亡くなった。

末期の際に嫡子勘之助に「私が先非を悔い当家へ戻った時、その罪
を許しあまつさえ深く情けをかけていただいたので面目を保つこと
が出来た。祐兵様が逝去なされた時には報恩の為に殉死しようと
思っていたが、世は静かならずして祐慶様も幼年であられたので、
死をもって忠功を果たす機会も別にあるだろうと止めていたところ、
更に当地の地頭まで任され、その厚恩ははなはだしい。汝は祐慶様
に忠節を遂げ殉死の約束をして欲しい」と言い残した。

これにより祐慶逝去の際に勘之助は殉死を遂げた。

(日向記)

一度は謀反までした米良美濃守が前非を悔いて忠節を尽くす話

米良美濃守が伊東家に背いた話しは下記を参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7574.html
0374人間七七四年2013/05/30(木) 18:34:39.07ID:REgp+8SU
当州の野民村翁の伝話によると(田中)吉政は筑後入国の時、自ら扇を開き、
「一石取った兵部が一国取った。見さいな」と言って舞ったのだという。

よって、元足軽であることは明らかである。

――『筑後国史 筑後将士軍談』
0375人間七七四年2013/05/30(木) 20:35:43.78ID:CulmnOIK
私(山本常朝)が若いころ、
沢辺平左衛門の介錯をしたときの話だ。
中野数馬が私の介錯を褒める手紙を送ってきた。
それは、
「山本殿こそが中野一門の誉れである」
などと言う大げさな書面のものだった。
敵首ならまだしも、介錯くらいのことで、
ここまで褒めるとは、老人とは大げさなものだ。
と、その時は思っていたのだが、
しかし、その後、いろいろ経験して、
深くみるようになると、
それが、いかにも老練な人の行いだとわかるようになった。
若い者に対しては、ほんの少しでも武士らしい行いがあれば、
褒めて喜ばせ、勇往邁進するようしてやるためなのである。
中野将監からも、そのときすぐに褒める手紙が届いた。
二通の手紙は今でも保管してある。
山本五郎左衛門からは鞍と鐙が贈られてきた 【葉隠】
0376人間七七四年2013/05/30(木) 23:37:41.43ID:h4aiswuR
これ葉隠全部書き写すまでやる気?
0377人間七七四年2013/05/31(金) 00:22:27.51ID:1yvEeHXV
高虎の兜

藤堂高虎の唐冠形兜は、左右に5尺の脇立物を持つ。
プロペラともウサミミともいう。


大坂夏の陣開戦前夜、高虎はこの唐冠形兜を
甥の藤堂玄蕃良重にかぶせて言った。
「わしはこの兜をつけて、度々の合戦にも一度も遅れをとらなかったものだ。
これを譲ることができる若者はそなたしかいない。」

玄蕃は身に余る名誉に打ち震えた。
何とか優れた高名を表し高虎の恩に報いたいと、胸のうちを伝えた。
「某は今年二十三歳、大兵にして剛強。
三幅の大幟を指物にしたいところですが、
これに耐える馬がないのが残念でございます。」


しかし、気鋭の若武者のはやる血気は、裏目に出た。
功を逃さんと、木村重成の右翼隊に猛進した玄蕃は、
瀕死の深手を負ってしまう。
陣地に戻った玄蕃は、家臣に抱きかかえられて馬から降り、
小屋に担ぎ入れられた。
すると玄蕃はどういうわけか、手を挙げ、苦しい声で、
「羽根が、羽根が」
と言う。
高虎から拝領した兜の脇立物を、狭い小屋内で傷付けるのではないかと
思いやってのことだった。
死に際しても、主君への恩を重んじる心遣いに人々は涙した。

玄蕃のもとに駆けつけた高虎も
もはや舌がこわばり言葉も通じず、ただ高虎の顔を眺めるばかりの玄蕃に、
「玄蕃か、玄蕃か、」
と言うのが精一杯、あとは言葉にならなかったという。

高虎は後にこれを「手柄の討死」と称え、おおいに嘆いたという。

                            「元和先鋒禄」
0378人間七七四年2013/05/31(金) 00:30:26.46ID:21x4znql
藤堂玄蕃というと、嶋左近の息子と一騎討して死んだ人を思い浮かべた
その息子の逸話か
03793762013/05/31(金) 00:35:01.12ID:8iB07g/Y
質問の意図がよくわからないけど、
別にそんな予定はないですよ
03803752013/05/31(金) 00:41:55.46ID:8iB07g/Y
おれが>>375で、>>376さんへのレスだね
わかりにくくてごめん
0381人間七七四年2013/05/31(金) 00:42:44.04ID:1yvEeHXV
>>378
そうです。
関ヶ原で討死した良政の息子が良重。
0382人間七七四年2013/05/31(金) 09:53:03.86ID:6m//xU86
まとめサイト見てここに来たけど
以前、高橋紹運の家臣の子孫で家伝を書き込んだ人
俺の高校時代の友人だと思う
紹運と道雪の話のやつ
俺は今、地元を離れているので長い間会ってないけど
お互い日本史好きもあって仲良かったので他人に話さないことも話してくれたし
家にも遊びに行った事があるし紹運の肖像画とかも見せてもらった
曲がった事や嘘が嫌いで確かに「サムライ」みたいな今時に少ない奴だったねw
実はスレの時代と違うけど彼のおじいさんの弟さんが太平洋戦争で亡くなってるんだけど
亡くなる1日前の日付で書かれた手紙の話も聞いたことがある
両親や兄妹への感謝の言葉と晴れやかな今の心境みたいなものが書かれてて
「国を守るために、皆様を守るため、祖霊のもとへと参ります。さようなら」だったかな
血は争えないなと感じ入って、よく内容を覚えてる
ちなみに神風特別攻撃隊だよ
0383人間七七四年2013/05/31(金) 11:32:56.14ID:8MdCU9V/
三斎「またキツネ憑きか」
0384人間七七四年2013/06/01(土) 14:11:23.70ID:99rel95H
小十郎「熱々の茶でござる」
0385人間七七四年2013/06/02(日) 11:36:42.89ID:b++FDpAO
高松の城という名城がある。
三方は深い沼が遠くまで広がり普段でも人馬が通ることが出来ない。
残る一方は水堀が幾重にも連なり深く水をたたえゆるやかに波うっている。
毛利家が数年にわたり精を尽くして拵えた要害である。

とりわけ城主は勇気智謀を兼備する清水長左衛門尉(宗治)という者だ。
輝元より加勢として弓鉄砲の頭難波伝兵衛尉、近松左衛門尉など二千
を超える軍勢が到着して籠城した。

秀吉卿はただ水攻めするより他に策は無いとお考えになられ、近辺の
在々を放火してから堤を築いて攻めようと、焼き払いに出向かれた。

四月十三日から城の周辺三里の間に堤を築き始めて、昼夜の別も無く
急いで二十五日には完成した。五月一日より大小の河川の水を引き入れ、
谷川にも水道を付けかけられた。

五月十日頃には大半が水に浸かって人が住める場所は無くなっていた。
堤の上には柵をめぐらせ、下には町屋造りに小屋を建て小路をこしらえ
夜番廻番が絶えることが無かった。

堤の近くには十町間隔で要害を拵えて軍兵を入れおき、終日油断なく
警戒をつづけていた。

五月十二日、毛利輝元の先勢五万騎を小早川隆景、吉川元春が大将と
して率い釈迦峰不動嵩に陣を敷いた。五月二十日には輝元が着陣して
高松城を救おうとするかに見えたが、両陣の間の十町ばかりが大河か
滝のようになって隔てていた為、勝敗を決し様がなく対陣がながなが
と続くと思われた。

秀吉卿はついに毛利と決戦する時が来たとお考えになり、五月十五日
に信長公へ飛脚を送られ「輝元が高松城を救う為に数万騎を率いて
出陣してきたので対陣しております。御合力をいただければ、その軍勢
をすぐさま追い崩して、今年中に西国はことごとく幕下に属されるのは
確実でしょう」と言上した。

信長公は、惟任日向守(明智光秀)、筒井順慶、長岡与一郎(細川忠興)、
池田紀伊守父子、中川瀬兵衛、高山右近など総計三万五千余騎を羽柴
筑前守に合力させるべく五月下旬に備中へ向けて出陣するように仰せ
だされた。

惟任日向守は家康公御上洛に馳走するよう仰せだされていたが、この
ように事が急だったので言うまでも無く従われた

五月二十五六日の頃より高松の町屋はことごとく水に沈んでしまった為、
清水宗治兄の月清入道、難波、近松も降を乞い、六月四日午刻に小舟一艘
が乗り出し、皆腹を切った。検使堀尾茂助は四人の首を添えて秀吉公の
お目に掛けた。彼らはいずれも仁義の死を遂げた者であった。

六月五日朝、堤を切って落とし水が流れ出す音は千雷のようであった。
そして高松城を請けとり、杉原七郎左衛門尉が入れ置かれた。

伊東民部大輔祐兵は冠城の御陣より高松御陣に六月まで供奉されていた。

(日向記)

日向記に記された高松城水攻めの記録である。

関連する本能寺の話が別項として立てられてるので、この部分だけを
見てると「えっ?」と言う印象を受けてしまう。
0386人間七七四年2013/06/02(日) 13:01:05.84ID:/nnh54fQ
>>276
義光の逸話は無理に鮭という文字を入れないほうが読み易いし親しめるな
この頃は親子仲良いのか
0387人間七七四年2013/06/02(日) 23:49:28.53ID:8NTJDnCZ
時に天正二年、加藤嘉明は十二歳であった。同三年五月、秀吉が播州三木城を攻める時に当たり、
大雨がしきりに降ったので秀吉の戦袍が濡れてしまった。

日暮に本営へと帰った秀吉が戦袍を脱ぐと、嘉明は火を焚いてこれを乾かした。
これについて秀吉が「小坊は何をしておる」と問うと、嘉明は「君公が明日出軍される時に
用を為せるようにしようと思いました」と答えた。

秀吉は賛美して「幼年にして既にこの注意とは、後日には名将となることであろう」と言った。

――『鹿深遺芳録』
0388人間七七四年2013/06/03(月) 10:29:28.61ID:PbcC++lL
ギギギ我が見せ場を取るとは…

かくて三成は嘉明に隔意を持つようになったのであった
0389人間七七四年2013/06/03(月) 11:18:08.29ID:qPcKQ5mh
>388、それじゃ悪い話じゃないかw
0390人間七七四年2013/06/03(月) 20:25:37.43ID:aNfUFRr4
数え十二ということは小学5年くらいかな
平和な時代の小姓なら幼くても務まるんだろうけど戦乱の頃だとたいへんだよなあ
0391人間七七四年2013/06/03(月) 20:49:03.24ID:8mohmn0C
戦国期の早熟っぷりは宣教師のお墨付きだからな
曰く「うちらで十歳って洟垂れ小僧だけど、こいつらの十歳は使者とか普通にこなせててすげぇな」
0392人間七七四年2013/06/03(月) 21:18:39.31ID:OGuKHfpT
微妙公(前田利常)が、御旗本衆に大阪の陣でのお話をなされた事があった、

「我々は当時、霧の深い朝で、なかなか大阪城すら見えない中を、周りを手さぐりするようにして進んだ。
そうしているうちに昼前には霧が晴れたのだが、そこで我々は、自分たちの旗と大阪方の旗が触れ合うほど、敵と間近な
場所に居ることに初めて気がついた。

敵は我々に気がつくと城から猛烈に撃ちかけてきて、我らは立ち上がることも出来ない有様であった。
そのうちにだんだんと負傷者や討ち死にするものが出来、このため私は、前線の者たちに早々に撤退しろと伝えるため
使番を出すことにした。

この時の使番は森権太夫と言う者であった。しかし前線は城からの射撃のため、鳥であっても駆け入ることは難しいと
思えるほどであったが、この権太夫は直ぐ様塀の上に土踏まずを踏み出すと、躊躇いなく前線に懸けて行き、
そこの人々に撤退することを伝え、本人はその殿を務めた。

やがて帰ってきた森権太夫の母衣には、銃弾の跡が47,8ほども付いていたが、冥加が良かったのだろう、
体には全く当たっていなかった。

私はこれまでに、あれほど振る舞いの見事な者を見たことがないよ。」

微妙公はこのお話を度々仰っていた。大阪の陣で働きの有っは人々はたくさん居たのに、他の人の話はせず、
この森権太夫殿の話を何度もなさっていたと、これは藤田内蔵充殿が言われたことである。

同じ話は森半左衛門殿にもお話になられたそうだし、かく言う私(著者)自身も承ったことが有る。
(微妙公夜話)

前田利常が、大阪の陣で最も印象に残ったと思われる、森権太夫という家臣についての話である。
0393人間七七四年2013/06/04(火) 08:38:17.49ID:3qsqpFso
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-312.html

森権太夫は銃弾飛び交う中で大胆にも尿を足した人と同一人物かな
0394人間七七四年2013/06/04(火) 09:20:17.69ID:6sJaGlq5
母衣って矢は防げそうだけど弾も防ぐのか?
0395人間七七四年2013/06/04(火) 10:36:58.54ID:MNFMGLF1
>>394
弾道によるんじゃね?
0396人間七七四年2013/06/04(火) 11:07:24.92ID:K+KH0Lsd
垂らした布は球形の弾丸相手なら一定の防弾効果があるらしい
0397人間七七四年2013/06/05(水) 06:04:18.24ID:CPdK6HUg
弘治元年(1555)、中国の毛利元就・隆元親子は大寧寺の変によって殺された大内義隆の遺言を哀れみ、
陶晴賢並びに大内義長を滅ぼし威を中国に振るわれ、将軍家もこれに感じ入り大内の跡を給わった。

一方、大友義鎮(宗麟)は、先に弟義長に大内を継がせ、その光によって近年威を振るい、
肥前肥後、筑前筑後の侍でこれに与する者も少なくなかった。

このような時に、龍造寺隆信公は世の有様をご覧になり、重臣たちを集めてこう仰った

「芸州の元就は現在、陶の一党を滅ぼし中国を合わせんとしているが、これは大内義隆の旧好を忘れず、
義の槍を突いているのである。

一方豊後の大友が隣国に手出ししているのは、全くもって私欲の義である。

私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

そうして毛利元就のもとに遣いを立て、元就と通じたのである。
人は道を守るべきなのである。
(肥陽軍記)

龍造寺隆信、毛利元就の義に感じ通ずる、というお話
0398人間七七四年2013/06/05(水) 06:43:12.39ID:Ege3BC29
童貞じゃないもん(^^)
ソープ嬢にちんちん大きいって褒められたし(*^_^*)
0399人間七七四年2013/06/05(水) 07:38:42.03ID:1sXLC15E
義はともかくとして、大寧寺の変の余波で城を追われて3年間の雌伏を余儀なくされたわけだし
その原因になった陶とそれに与した大友は認めるわけにはいかんよね
0400人間七七四年2013/06/05(水) 19:15:28.07ID:5eUFZbTX
ある説には(田中)吉政は浪人で美濃岐阜辺りを徘徊し、
やっとの事で木綿島の袴一具を買出し、これを着て信長の足軽に出て、

仕物、取籠者などの手柄を多く立てて、ついに士となり、
太閤に仕えてもなお戦功が多いので、ついには岡崎五万石の城主となったという。

私が考えるに、吉政は信長の時、足軽に出て武勇が多かったので宮部の与力に附けられ、
二百石を領せられたのであろう。

山内対馬守や堀尾帯刀などの類は皆信長より秀吉へ附けられた与力であったから、
吉政もこの類であろう。

――『筑後国史 筑後将士軍談』
0401人間七七四年2013/06/05(水) 21:37:04.23ID:R1fwL9pR
>>397
>私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

えっ。
0402人間七七四年2013/06/05(水) 22:26:54.06ID:CPdK6HUg
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は兵を発して朝鮮を征伐した。
このとき黒田長政もその軍勢の先手三大将の一員であり、長政の家臣である
菅正利(当時26歳・後に黒田二十四騎の一人)も長政に従って朝鮮へと赴いた。

これ以前に菅正利は知行200石を給わっており、足軽10人を預けられていたため、今度の軍行では先手を
勤めた。

この年の6月14日、黒田長政の軍勢が朝鮮人と、平安川において激戦となった。
菅正利も命を惜しまず真っ先に進んで励み、戦ったが、川岸の上で敵と暫く組み合い、ついに組み伏せ
止めを刺そうとしている所に、別の敵が駆け寄ってきて上の正利に飛びつき、引き退けようとした。

正利は下の敵を押さえながら上の敵と取組んだが、そのうちに3人とも川の中に落ちてしまった。

川に流されている中、正利は下の敵の上に乗り、もう一人の敵と組み合い戦い続ける。
そうしてどんどん川下へと流れていく中、味方の兵が正利の鳥の丸の指物を見つけ

「六ノ介(正利)かー!?」

と、川に向かって声をかけた。

やがて少し岸際に流れ寄った所を、正利の下人が川下から川に入り彼を引き上げたのだが、
敵と3人、組み合いながら陸へと上がってきた。まだやってたのだ。

敵の内一人は前に傷を負っており、水に入ってすっかり弱っていたのだが、
もう一人は大兵で大変力の強かったので、陸に上がって正利を組み伏せようとした。
しかし正利は咄嗟に脇差を抜いて敵の脇をしたたかに突き通した。
これで敵がようやくに弱った所を、正利は彼の首を取り、もう一人の弱った敵の首も取った。

この働きを黒田長政はよく見られており、後に褒美を与えられた。
(菅氏世譜)
0403人間七七四年2013/06/05(水) 23:00:49.70ID:zCmh6slc
二対一でも虎殺し相手には役不足だったか
0404人間七七四年2013/06/05(水) 23:10:27.14ID:MTdHQHeE
川の中で敵と格闘していて指物がどーのこーの
NGMSにも同じ話があったな、と思って調べたら菅さんの話自体既出だった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5572.html
ドキッ☆KURODAだらけの水泳大会(首ポロリもあるよ)!

しかし、NGMSの時は助けなかったのに、こっちは引っ張りあげたんだな
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