朝鮮役において、加藤清正は朝鮮の国境を越え兀良哈(オランカイ)に侵入。
そこで攻め懸かって来た兀良哈人の大軍を何とか退けると、朝鮮側の”鬼ぜく”という地域まで
後退した。

清正の軍はこの”鬼ぜく”に五日間逗留して人馬の足を休めていたが、
ここより五日の行程ほど離れた、”東せいしう浦”という所に、”せるとうす”という北国の武者大将が
居るということを清正が聞き、これを捕えるために東へと進軍した。

”せるとうす”は歳の程54,5。身長6尺5寸(約2メートル)ばかりの大男で、
彼は日本人の軍勢が接近していると聞き、要害に大勢の軍兵を集め引きこもっていた。

しかし清正家臣の鵤(いかるが)平治という者が大将となり、能き人数2千に鉄砲百挺を添えて
遣わし、要害の後ろの山より攻め懸けて、難なくこの”せるとうす”の身柄を捕縛した。

この時、ここで後藤という通詞を一人生け捕った。
この後藤という人物は日本の松前(北海道松前町)より漁船で出港した所、風に流され、
”せいしう浦”に流れ着き、それから20年ばかりここに居住しているのだという。

彼は兀良哈語も、朝鮮語も、勿論日本語も自由に使う能き通詞であったため、加藤清正も大変重宝し、
彼に直々に、二郎と名を付け、後藤二郎と名乗らせた。

この”せいしう浦”から、天気の良い日は、富士山が殊の外近々と見ることが出来た。
ここから富士山は、未申の方角(南西)に見ることが出来た。
松前は富士山の真北に当たるそうである。

そして”せいしう浦”は昆布が大変多く、家の屋根すら昆布で葺いていた。
清正の軍は、最初は昆布だとは考えもしなかったが、後に昆布だと知り、そこで日本人は
家々の上葺を取って汁にして食べていたそうである。
(清正高麗陣覚書)

浦というからは、今のウラジオストクあたりだろうか?流石にそこから富士山は見えないだろうと思うが、
ともかく清正の異国における記録である。昆布の屋根…。